2006年ベラルーシ大統領選特報
マカルキン氏は別意見 お別れをしたはずでしたが、オマケでもう一ネタ。 私が参加しているノーザンディメンション研究プロジェクトの枠内で、ロシアのシンクタンク「政治工学センター」のA.マカルキン副所長に、今回のベラルーシ大統領選およびウクライナ大統領選と、ロシアの対応に関し寄稿をお願いしました。寄せられたレポートを、私が翻訳して、『ロシア東欧貿易調査月報』の2006年6月号に掲載しました。NDのウェブサイトで閲覧可能です。 マカルキン氏は、私とかなり評価が違うようなので、公平を期すために、ここで紹介すべきと考えた次第です。まず、マカルキン氏は、カズーリン氏流の大衆迎合主義は期待薄であり、国民は二番煎じのルカシェンコなど求めていないと主張しています。逆に、インテリっぽく振舞ったミリンケヴィチ氏に軍配が上がった、と。この点は、ミリンケヴィチ氏よりカズーリン氏の存在の方が面白いのではないかと論じていた私と、分析を異にします。 また、マカルキン氏は、どちらかと言うと、今次大統領選におけるミリンケヴィチ陣営の善戦を評価する立場のようで、民主野党陣営の今後についても案外楽観的な見方を示しています。 (2006年5月31日)
20%のかさ上げをどう読むか 私の著作や本ホームページにもたびたび登場するベラルーシの民間シンクタンク「社会・経済・政治独立研究所(IISEPS)」が4月20日、最新の世論調査結果に関するプレスリリースを発表し、これにより先の大統領選におけるルカシェンコの得票率が、実に20%程度もかさ上げされていたであろうことが明らかになりました。 なお、今日のベラルーシでは、お上に世論調査実施機関の認定を受けないと、法人は世論調査を行ってはいけないことになっています。ベラルーシで非合法化され、現在リトアニアに登記しているIISEPSは、当然その認定を受けていません。したがって、一連の世論調査は、オレグ・マナエフ所長のグループの協力のもと、個人の社会学者たちが実施したという建前になっています。 ともあれ、今回の世論調査は、3月末から4月初頭にかけて、ベラルーシ全国の成人1,496人を対象に実施されました。そのなかで、3月19日の大統領選において、どのような投票行動をとったかを問うています。その結果、IISEPSでは、先の大統領選における実際の投票率は約90%であり、各候補の得票は下表のとおりであったという結論を導き出しています。
2006.3.19ベラルーシ大統領選挙 公式発表と世論調査結果の乖離
ご覧のとおり、ルカシェンコの得票率が実に20%もかさ上げされ、野党統一候補のミリンケヴィチ氏の得票は実際の3分の1以下に圧縮されて発表されていたということのようです。 このように、とんでもない改竄が行われているということが、改めて裏付けられた形です。 ただですねえ。常日頃、言っていることの繰り返しになりますが。あの手この手の不正、動員に訴えた結果とはいえ、現実に過半数の投票者がルカシェンコに票を投じていることは、紛れもない事実なんですよね。 しかも、2001年の大統領選と比べても、ルカシェンコの実際の得票率は落ちていません。逆に上がっています。参考までに、2001年の時のデータは、下表のとおりです。出典は私の論文「ベラルーシ・ロシア関係の政治力学 ―2001年ベラルーシ大統領選の事例研究」『ロシア研究』(第34号、2002年4月)です。この時はゴンチャリク氏が野党統一候補でした。かさ上げ幅は、前回が20%弱、今回がちょうど20%くらいで、ほぼ前回並みということになりますでしょうか。
2001.9.9ベラルーシ大統領選挙 公式発表と世論調査結果の乖離
というわけで、もちろん不正な選挙はけしからんけれど、それ以前に国民の意識の低さが、大きな問題なわけですね。 数回にわたってお届けしてきた「2006年ベラルーシ大統領選特報」ですが、今回をもちまして最終回とさせていただきます。今後も、別の形で、ベラルーシ政治について随時ご報告してまいります。ごきげんよう。 (2006年5月2日)
暗い目をしてすねていた 昨日の話の続きです。 ルカシェンコ大統領はこれまでに何冊かの本を出していますが、そのなかに『Belarus Tomorrow』という英語の本があります。ここには、ルカシェンコの学生〜青年期の珍しい写真が掲載されています。ルカシェンコは自分の生い立ちやプライバシーをほとんど公表していないので、非常に貴重な写真ではないかと思われます。私も、ほかではこのような写真を見た記憶がありません。 以下のようなものです。クリックすると拡大されます。
どうでしょうか。学生の頃から、すでに現在の面影がありますよね。特徴的なのは、どこか世を恨んだような目。人を見かけで判断してはいけないのは言うまでもありませんが、政治家の人格形成という観点からすると、これらの写真に見る若き日のルカシェンコの表情には興味をそそられます。 私などは、つい、内藤やす子の「弟よ」という歌の歌詞を思い出してしまいますけどね。「暗い 暗い目をして すねていた」というやつです。不幸な幼年期に歪んだ人格が形成され、そうした人物が独裁者に成長していくというのは、歴史上繰り返されてきたことです。 (2006年3月31日)
悩める独裁者? 3月19日の大統領選挙のあと、ルカシェンコ大統領はほとんど公の場に姿を現しませんでした。3月25日に、首都ミンスクでデモ隊と警官隊が衝突した時も、不気味な沈黙を守っていたし。それが、ようやく3月28日に政府幹部会合の場に現れ、テレビの画面を通じ国民に健在振りをアピールしました。この間、ミンスクでの混乱に加え、当初3月31日に行われるとされていた大統領就任式が延期されるという異変もありましたからね。ルカシェンコが統治能力を失っているのではないかという憶測(願望?)も出ていたわけですが、ひとまずはそれを打ち消した形です。ルカシェンコは会合の席で、ミンスクでの事件に触れ、「治安維持部隊はよくやった」と述べました。 3月28日の政府幹部会合では、面白い一幕がありました。ルカシェンコが、「自分は独裁者などではない」と述べたうえで、独裁なんてことを批難されたくないから、役人のすべての執務室から私の肖像写真を撤去するように、と命じたのです。 確かに、これまでベラルーシの公的機関の部屋には必ず、ルカシェンコの写真が掲げられていました。具体的に調べたことはありませんが、法的に義務付けられているというような話を聞いたことがあります。ただ、大統領の写真を飾っているのはロシアなどでも同じですから(とくにプーチン時代になってからは)、私などは、そのこと自体はそれほど異様という感じはしておりませんでした。以前も書いたように、もともとルカシェンコは個人崇拝色の希薄な独裁者ですからね。それが、自分の肖像写真を撤去するようわざわざ要求しているわけですから、彼は彼なりに、指導者としてのスタンスの取り方に腐心しているところがあると思われるのです。ルカシェンコは、「庶民の代表である自分が、悪しき官僚どもをどやしつけて、国民のために働かせる」という構図に訴えることで庶民の歓心を買ってきたわけで、豪華な宮殿を建てたり、あるいは自分を過度に神格化したりすると、そういう神話が崩れてしまうのですね。だからこそ、個人崇拝的なことについては、禁欲せざるをえないのでないかというのが、私の理解です。 それはともかく、こういう重要な局面に、何日も公の場に姿を現さなかったというのは、本人がかなりナーバスになっている証拠でしょうね。はたから見ていると、現政権と野党の力関係は、ソフトバンクと楽天くらいの差があると思うのですが、大統領本人は紛れもなく恐怖を感じているのでしょう。独裁者の末期症状が始まったということでしょうか。
(2006年3月30日)
Street Fighting Man 更新頻度で、ブログの女王こと眞鍋かをりを抜いたのではないかと思われる今日この頃。 そんなことはどうでもいいのですが、3月25日の「自由の日」が、首都ミンスクで野党と警官隊によるかなり激しい衝突に発展してしまったようですね。私は、家ではネットに接続していないので、気にはなっていたのだけれど、詳しい海外ニュースは入手できず(どういう国際問題専門家だよ)、今日会社に出社して初めて事件のことを知りました。 今回は、ちょっと芸がありませんが、3月26日配信のベラパン通信の記事を抄訳してお届けします。日本語では、詳しい情報がほとんど得られないはずですので、お役に立てば幸いです。
3月25日のミンスクでの事件に対して刑事訴追がなされる 2006年3月26日 パヴェル・キリロフ 3月25日、ミンスクのヤンカ・クパーラ公園からオクレスチン通りの留置場に向かおうとしていたデモ隊が手荒く弾圧されたが、これはおそらく選挙後の事件としては最も注目を集めたものであろう。事件現場(ジェルジンスキー大通りの、国立音楽ホールとモスクワ地区執行委員会庁舎の間)からの映像は、外国の主要テレビ局のトップニュースとなった。 野党は、政権側のやり方が不適切であったとして、これを批難している。外国、とくにEUと米国も同様である。これに対し、ベラルーシ警察幹部は、対応は適切であったと主張している。他方、この事件のあと、大統領候補であった野党リーダー2人、ミリンケヴィチとカズーリンの対立が深刻化した。 経緯を振り返ると、3月25日、野党は「自由の日」を祝うためにミンスク中心部の10月広場に集まろうとした。だが、警官隊は広場に入ることを許さず、それは広場で清掃が行われているからであるとした。デモ隊はヤンカ・クパーラ公園に移動し、そこには8,000人が集まった。集会でミリンケヴィチは、「国民解放運動」の立ち上げを宣言した。彼はまた、野党は次の街頭活動を、チェルノブイリ原発事故20周年の4月26日に実施すると発表した。 ミリンケヴィチが閉会を宣言したあとになって、カズーリンが参加者たちに対し、オクレスチンの留置場に向かい、政治犯たちを釈放させようではないかと呼びかけた。その道中で、デモ隊をOMONとスペツナズが待ち受けていた。激しい衝突が発生する。参加者によれば、彼らに対し特殊物質が使用されたという。衝突のあと、重傷者だけでなく、死者も出たという情報が流れた。しかし、この情報には根拠がなかった。警官の殴打により気を失った参加者が、死亡したかのように伝えられただけであった。 3月25日夜にナウモフ内相が緊急記者会見を開き、衝突の全責任は野党側、とりわけカズーリン氏にあると発言した。ナウモフは、治安部隊の行動は適切であり、法秩序維持に向けられたものであったと述べた。ナウモフはさらに、デモのなかでカズーリンが「国家元首に肉体的な制裁を加えるとともに権力を奪取することを呼びかけた」と述べた。 ちなみに、集会でカズーリンは、ルカシェンコはベラルーシ人民の最大の敵であり、また武力で人民を屈服させようとしている軍人たちは犯罪者である、「武器を自分たち自身に向けろ、最後の弾丸はルカシェンコのために残しておけ」と述べたのであった。 「治安維持部隊は、事態がよからぬ方向に向かわぬよう最大限の努力をし、そばにいた一般市民を保護したのだ。ミンスクでの野党・警官隊の衝突の過程で、市民1人、警官8人が怪我をした」というのが、ナウモフ内相の説明。 ベラルーシテレビは25日夜、病院のベッドで治療を受けている警官の姿を写した。しかしながら、デモ隊で怪我をした市民は1人などではなく、はるかに多かった。ロシアのテレビ局のレポートを観ただけでも、そのことが分かる。担架で運ばれて現場を後にしたデモ参加者もいたほどである。 ベラルーシテレビはまた、ヤンカ・クパーラ公園の野党集会の際に、同局の取材班が手ひどく殴られたと伝えた。1人は脳震盪で入院したとされている。ベラルーシテレビ取材班が公園から逃げる様子がテレビで写された。殴打の音と、雪が飛び散る様子が伝えられた。目撃者は、雪を投げただけだとしているが。 ナウモフ内相は、警官は最も活発だったでも参加者を逮捕したが、それは警官隊が市の状況が尋常ならざるものであると判断したあとのことであったと述べた。 3月25日に、何人が逮捕されたかは明らかでない。50人から100人程度だという情報がある。逮捕者は、ジョジノの留置場に拘留されているが、それにはカズーリン氏も含まれる。何人かは、内務省によって刑事訴追されることになる(公序良俗を乱す集団行動の組織、それへの参加のかどで)。ということは、カズーリン氏は最近で3回目の刑事訴追である。 これに対し、カズーリンの妻は、検事総長と内務大臣への書簡において、ミンスクで狼藉を働き、また大統領候補であったカズーリン氏に暴力を振るったかどで、特務機関職員らを刑事訴追することを要求した。 ミリンケヴィチ氏は、オクレスチンに行こうというカズーリン氏の呼びかけは、政権側にとって有利になる扇動だったと指摘した。事実、この行為は、野党が悪いものであるかのように描く口実をさらにひとつ、国営マスコミに与える形となった。そもそもが、情報戦争において、野党側は政権側よりも大分不利であるのに。 それでも、「憲章97」へのインタビューでミリンケヴィチは、「平和的なデモ参加者への暴力的な取締りの全責任は、ベラルーシ政権当局にある。平和的なデモ参加者にかくも残忍な暴力を振るう道理は、まったくない。大統領候補のカズーリン氏を逮捕し、かくも酷く痛めつける道理もだ」と述べている。 カズーリン氏の広報部は、野党統一リーダーであるミリンケヴィチ氏のこの発言に、かなり厳しく反応している。「民主派と称するミリンケヴィチと、その手下たちのやり方は、汚い。ミリンケヴィチは、3月19日以降の平和的抗議行動の間中ずっと、自分がナンバーワンになる器がないものだから、カズーリンをねたんでいた。資金にも、PRにも、全欧州と米国の支援にもかかわらずだ。そのことが分かっていたので、彼はライバル・カズーリンの足を引っ張った。カズーリンは報復せず、国民の団結のため、勝利のため、支持者のためにひたすら我慢した。だが、どうやら本日ミリンケヴィチは怖気づいたようだ。ミリンケヴィチは、ヤンカ・クパーラ像近くの集会でカズーリンがマイクを握って国民に何をなすべきかを説明するのを阻み、オクレスチンで拘留されている兄弟姉妹のところに行きたいという人々の願いを無視したのであって、これは自由への裏切りだ。現在、ミリンケヴィチはまさに自由の身だが、カズーリンは殴打され、どこにいるかも分からない。カズーリンの身柄はパヴリュチェンコが直々に預かっている。現在ミリンケヴィチはインタビューに応じ、彼がカズーリンの「扇動」と呼ぶところのものと距離を置き、自らを正当化しようとしている。ミリンケヴィチは政権側で動いており、自らの意に沿わない人々を批難している。良心にもとづいて行動しているのではなく、困難な状況に置かれた同僚に対し根拠のない恥ずべき批難を浴びせている。」 カズーリン氏陣営のプレスリリースでは、「あるいは、ミリンケヴィチは、政権の操り人形なのか?」という疑問も呈されている。 ただし、カズーリン氏が党首を務めるベラルーシ社会民主党では、これは政治家個人の広報部の声明であり、党としてのそれではないことを強調している。
以上がベラパンの記事です。 政権側がデモを取り締まるのは、どの国でもやっているので、価値判断は別として、それ自体は当たり前のことですよね。フランスとかの方が、もっと酷いような気もするし。ましてや、個人的にいやな予感はしていたのですが、デモ隊が留置場に向かったとなると、なおさらです。 国際的には、「ルカシェンコ独裁政権VS民主野党」という構図がクローズアップされているものと思いますが、上に見るとおり、実際にはミリンケヴィチとカズーリンの対立も相当深刻なものです。以前のレポートでも触れたように、個人的にはカズーリン氏に魅力を感じていたのですが、もとより両雄のことをそれほど詳しく調べたわけでもないですし、どう評価したらいいものやら、はっきり言ってよく分かりません。 ただ、もしこれが革命であるのなら、そこには日常の規範は当てはめられません。ある程度、無茶をやらないと、歴史は動かないと思うのです。ただ、機が熟していないのに無茶をやると、単なるドンキホーテで終わってしまうので、そのあたりの見極めや思い切りが難しいところです。 またそのうち報告します。 (2006年3月27日)
3月25日って何の日だ? 3月19日の選挙以降、柄にもなく頻繁に更新し、ほぼブログと化している本コーナーですが。 さて、ベラルーシ中央選管が3月23日、最終的な集計結果を発表し、ルカシェンコの当選を正式に発表しました。 余談ですが、ベラルーシ中央選管の正式名称は、「ベラルーシ共和国中央選挙・国民投票実施委員会」といいます。国民投票というものを、政治の手段として最初から織り込んでいることを、象徴するような名称ですね。実際、ルカシェンコ政権は、1995年、1996年、2004年と、節目節目で国民投票を実施してきており、そのたびにルカシェンコの強権体制が強まっていきました。 それはともかく、3月19日の大統領選挙結果です。各候補の得票状況は、下表のとおり発表されました。
2006年3月19日投票のベラルーシ大統領選挙結果 (公式発表)
*有権者総数は7,133,978人なので、投票率は92.9%。
かくして、公式発表によれば、ルカシェンコが投票参加者の83.0%、有権者の77.1%に支持され、難なく再選を決めたということになっています。野党統一候補のミリンケヴィチ氏の得票率は1割に届かず、個人的に一押しのカズーリン氏はビリという……。 この公式発表が改竄されたものであることは間違いありませんが、実際にどの程度数字が歪められているかは、残念ながら分かりません。2004年の国民投票の時に出口調査をやったバルティック・サーベイズ/ギャラップという調査機関も、今回は「実施不可能」として、さじを投げてしまいました。事後に実施されるであろう世論調査の数字と照らし合わせてみるほかはありません。 さて、前回「マイノリティ・リポート」でお伝えしたように、不正選挙・開票を不服とする野党支持者が、その後もミンスクの10月広場で抗議行動を続けているのですが、肝心の野党リーダーの間に方針の食い違いが生じているようです。ミリンケヴィチ氏が、広場での抗議行動をずっと続けるべきだとの立場をとっているのに対し、カズーリン氏はいったん今回の集会は解散し、そのうえで3月25日の「自由の日」に改めて抗議行動に打って出るべきだと主張しています。 この3月25日ですが、ロシア語・ベラルーシ語でDen' Voli と言いまして、Volya が意志、意欲、要求、自由といった意味ですので、ここでは仮に「自由の日」と訳しておきます。これは、1918年3月25日に「ベラルーシ人民共和国」が独立を宣言した日で、結局この独立の試みは失敗に終わったものの、当国の民族派にとってはベラルーシの国家性を象徴する重要な日なわけですね。それゆえに、今日でも、1年のうち最も大規模な民主化デモが行われるのが、3月25日なのです。そして、今回は、大統領選挙から数日後という非常に微妙なタイミングで、この記念日がやって来るという次第です。 まあ、野党の2大指導者が、座り込みを続けるか否かといったレベルの話で、反目している有様ですからね。野党陣営に一体性とか戦略はないわけですが。そんななかで迎える3月25日、一体どうなることやら。
PS とか何とか言っていたら、24日早朝、10月広場の集会参加者たちは当局に連行されてしまったようです。いかんせん、非合法の集会でしたからねえ。カズーリン氏は、このような事態を恐れ、いったん解散して3月25日に再度結集することを主張していたのだと思うのですが。
(2006年3月24日)
マイノリティ・リポート from Minsk 3月19日投票の大統領選挙が不正なものであったとして、当日夜、ミンスク中心部の「10月広場」に約3万人の野党支持者が繰り出して集会を開いたと伝えられています。 その後も、3月22日現在、同じ10月広場で、野党側は無許可の集会というか、座り込みを続けているようですね。独立系のベラパン通信がその模様を伝えています。数百人レベルであり、あまりにも小勢なので、影響力を持ちうるとは思えませんが……。それでも、一応、ベラパン通信のサイトから勝手に写真を拝借し、ここにご紹介しちゃいます。ベラパンもきっと許してくれるでしょう。 (2006年3月22日)
Go! Go! カズーリン! 3月19日に、ベラルーシ大統領選の投票が実施されました。さすがに、ここ一両日は、私のホームページに1日当たり150件ほどのアクセスをいただいております。せっかくアクセスしていただいて、新しいコンテンツがまったくないのは申し訳ないので、ちょっと番外編の文章を追加します。 前回お伝えしたように、2月25日から3月1日にかけて、ベラルーシで現地調査をしてきたのですが、実はその結果私が期待するようになったのは、野党統一候補のミリンケヴィチ氏よりは、むしろ「第三の男」たるカズーリン(コズーリン)氏でした。カズーリン氏は、ベラルーシ国立大の前学長です。最初は、野党陣営の足並みを乱す男という感じがしたし、一部ではルカシェンコ陣営の別働隊とか、裏でロシアが糸を引いているとか、色んな見方があったらしいのですが。ところが、私が2月の末にミンスクに赴いたところ、2月22日にカズーリン氏がベラルーシ国営テレビで行った政見放送が、識者の間で語り草になっていました。そのテレビ演説は、ルカシェンコ現大統領を厳しく批判するもので、当国では過去数年このようなことは絶えてなかったとのこと。実際、日本に戻ってからインターネットでその政見放送のテキストを読み、また映像や音声を視聴してみたところ、確かに画期的な内容でした。 何よりも、私が注目したのは、有権者向けのパフォーマンス能力です。これまでの野党の政治家は、ミリンケヴィチもそうですが、どちらかというと、正論を淡々と述べるようなタイプが多く、いささか迫力に欠けていたきらいがあります。それに対しカズーリン氏の政見放送は、基本的には原稿を読み上げているのですが、間の取り方とか、ため息のつき方とか、そういうのもちゃんと計算してやっています。演説の最後の場面では、大統領府機関誌の『ソヴィエツカヤ・ベラルシア』紙を引きちぎるというようなパフォーマンスも見せています。 私は前々から、ルカシェンコに取って代わる野党政治家が出てくるとしたら、それは理知的な人物というよりは、ルカシェンコ的なポピュリズムの要素をある程度備えている人物、いわば「民主的デマゴーグ」のような人物ではないかと考えていました。そして、カズーリン氏は、その類型に見事に合致するのです。たとえば、政見放送のなかでカズーリン氏は、現下ベラルーシにおける出生率の低下問題に触れ、「私は第1子に対して1,500ドルを、第2子に対して2,000ドルを、第3子に対して3,000ドルを支払うことを約束する。私はすべての若い家庭に公共住宅の提供を保証する。肝心なのは、私がそのやり方を知っていることだ!」と豪語する一方、その具体的方策についてはまったく触れていません(笑)。こうした、ルカシェンコに通じるようなポピュリズムこそ、政権交代のためには必要なのではないかと。 政見放送のなかでカズーリン氏は、ルカシェンコ政権による武器密輸疑惑に迫っています。「ベラルーシは小国で、平和的な国なのに、武器輸出において米、英、仏、露といった大国と対等に渡り合っている。しかし、過去数年、国庫には一銭足りとも入っていない。これは、数十億のカネであり、しかもベラルーシ・ルーブルではなく、本物の米ドルなのだ。コルブト蔵相が議会で、そのカネがどこにあるのか知らないと認めているほどである。カネはどこだ、ルカシェンコ? そのカネを国民に返せ!」 まったく、根拠があるんだか、ないんだか、よく分かりませんが(笑)、ともかく公共の電波でこのように厳しくルカシェンコを糾弾しているわけです。 そして、このテレビ演説で白眉だったのは、ルカシェンコの私生活を暴いてしまったことです。「私は今日、我が愛する妻と一緒にここに来た。潜在的な支持者である皆様に、ご紹介したいと思って。どんなに素晴らしい妻がいるかを、お見せしたくて。私たちは28年間、幸せに暮らしてきて、これからも神がお許しになるだけ、一緒に暮らしていく。しかし、彼女をここで紹介することは、許可されなかった。私たちがどんなに幸福な家庭であるかを、皆様にお分かりいただきたかったのだけれど。一部の人とは違って……。過去12年間ずっと、我々はテレビや、祝日や、公式レセプションで、ファーストレディーを見ることができなかった。さらに言えば、多くの人にとっては、現国家元首が妻とは別の女性と暮らしており、彼女との間に息子がいることは周知の事実だ。自分の50歳祝いの記念に授かった息子だ。」 あらら、言っちゃったよ、って感じでしょうか。 普通に考えれば、これは公共電波の政見放送なのだから、ライバル候補のプライバシーを攻撃するのはどうかということになるわけですが。こういう激しい攻撃を、学者であるはずの(日本で言えば東大の学長に相当する)カズーリン氏が繰り出したというのが、面白いところですね。ちなみに、2月22日の国営テレビにおける政見放送は、前日に録画されたものがノーカットで放映されたのですが(ただし放送されたのは夕方の非常に視聴率の低い時間帯)、さすがにその後のテレビ・ラジオでの政見放送には検閲が入り、一部が削除されたとのことです。また、政権当局によるカズーリン陣営への圧迫が強まったようでした。 いずれにしても、カズーリン氏の政見放送は、外国人の私がテキストを読んでも、感じ入ってしまうくらいですから。ベラルーシの野党の政治家に、こんなに大きな期待を抱いたのは、久し振りというか、初めてかもしれません。ベラルーシ国内でも、有識者の間では、カズーリン支持派が結構いたような印象があります。しかし、いかんせん、一般大衆に浸透するのには、あまりにも時間が短すぎたようで。結局、反ルカシェンコ派の一般有権者は、野党統一候補であるミリンケヴィチ支持でほぼ固まっていたようですね。 まあ、この国の中央選管の発表する数字なんて、一つの目安でしかありませんけれど、暫定的な開票結果によれば、ルカシェンコが82.6%、ミリンケヴィチが6%、カズーリンが2.3%を得票したとされています。「爆弾演説」で、カズーリンがミリンケヴィチ以上に大きな存在感を発揮することになるのかと思いきや、そうでもなかったみたいですね。 しかし、今後、反ルカシェンコ運動の核になりうるとしたら、ミリンケヴィチ氏よりもむしろカズーリン氏の方が有望ではないかという私の意見は、変わっていません。もっとも、2001年の大統領選で野党統一候補だったゴンチャリク氏が、その後完全に政界から消えてしまったのと同じように、ミリンケヴィチ氏もカズーリン氏も、消えてしまうかもしれませんが。 参考までに、 ミリンケヴィチ氏ウェブサイト カズーリン氏ウェブサイト 書き殴りで恐縮ですが、今日のところはこれくらいで。 (2006年3月20日)
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