ルカシェンコ評伝

 

ベラルーシといえば、何と言っても、「欧州最後の独裁者」の異名をとるルカシェンコ大統領のことが思い出されます。しかしながら、ルカシェンコ氏が必ずしもエリート街道を歩んできたわけではないだけに、その人物像は謎に包まれています。

ロシア『セヴォードニャ』紙の1998年7月27日号に、「アレクサンドル・ルカシェンコ:行間から読むその経歴」と題する同氏に関する評伝が掲載されました(S.アニシコ記者署名)。ここでは、この記事を抄訳してご紹介します。 なお、写真等は記事とは無関係です。

 

早くも切手になってしまったルカシェンコ大統領

 

 

S.アニシコ「アレクサンドル・ルカシェンコ:行間から読むその経歴」

(『セヴォードニャ』紙、1998年7月27日号)

 

文明社会では、国家指導者の私生活に関する情報がマスコミにしばしば登場するのが、当たり前のようになっている。指導者の私生活が骨抜きの形で紹介されたり、美化されたり、あるいはこのテーマがタブーとされるのは、権威主義国家においてだけである。

この点において、ベラルーシの1,000万国民は、明らかに恵まれていなかった。ルカシェンコ大統領の私生活は、ある種「空白地点」となってきたからである。最近刊行され、件のスイスにおける経済フォーラムでプレゼンテーションが行われるはずだった大統領の著書『ベラルーシの明日』も、この点に関し十分な説明を与えていない。同著では、ショーロホフ賞受賞者であるルカシェンコの大統領選出に至る足跡について、「生まれ、学び、働いた」といった、きわめて簡略な調子でしか語られていない。

 

動物と植物に囲まれて

 

ルカシェンコ自身認めているように、彼の生い立ちは恵まれたものではなかった。モギリョフ州にある、現在はすっかり荒廃した農村に1954年に生まれ、すぐにヴィテプスク州オルシャ地区に母とともに移り住んだ。この地で母は、亜麻加工工場の職に就き、わずかな現物支給しか得られなかったコルホーズ時代とは異なり、なんとかやりくりすることができるようになった。最近ルカシェンコは、「今日の主人公 −ネクタイなしで―」(訳注:ロシアNTVのインタビュー番組)で、「私は動物と植物に囲まれて育った」と語っている。ルカシェンコの父親については、ジプシー系であるとの噂がたびたび蒸し返される以外は、何も知られていない。

それでも母親は、ルカシェンコが教育を受けられるよう、最善を尽くした。中等教育を終えたルカシェンコは、モギリョフ教育大学・歴史学部に入学した。ルカシェンコのことを憶えている教師たちは、ルカシェンコは勉強がうまくいかなかったため、彼特有のがむしゃらさをみせたと証言している。とはいえ、当時からルカシェンコは、立身出世は学校の成績だけで決まるわけではないことを理解していたようだ。その証拠に、コムソモール(共産主義青年同盟)のリーダーを務め、当時の若者に蔓延していた「否定的現象」と断固として戦い、また学生新聞を編集するなど、学園の社会活動に熱心に参加した。アマチュア演奏会があれば、ルカシェンコは必ずバヤン(訳注:ロシアの大型手風琴)で独奏を披露した。今日ルカシェンコは、自由時間の大半をスポーツに費やしているが、彼がスポーツに熱中するようになったのも、まさに母校のキャンパスにおいてであった。

奇妙なことに、モギリョフ教育大を卒業してから軍隊に徴兵されるまでの期間が、ルカシェンコのバイオグラフィーからはぽっかりと抜け落ちている。ルカシェンコは、ブレストの国境警備隊駐屯地の模擬部隊(訳注:実戦には携わらないデモンストレーション用の部隊)における兵役を、忠実に果たし終えた。この時代の国境警備兵としてのルカシェンコのことを憶えている者が一人もいないにもかかわらず、現在の国境警備隊司令部は、ブレストの駐屯地にルカシェンコの名前を冠することを提案した。もっとも、これにはルカシェンコの側から強いクレームがついた。

軍服を脱いだルカシェンコは、モギリョフ州シクロフ地区に転じ、そこで「知識普及協会」(訳注:冷戦期に公式イデオロギーを庶民に叩き込むためにつくられた組織)の講師の職に就いた。まさにこの時期、搾乳婦や農機工を前に演説し、国内の食料不足は他ならぬ帝国主義者がもたらしたものであると詭弁をふるうことにより、ルカシェンコは弁舌家としての実地訓練を積んだのであろう。「シクヴァルカがあれば酒はつきもの」、「私はベラルーシを文明社会には導かない」、「夏は肉をあまり食べないようにしよう」といったルカシェンコの有名な決まり文句も、この時身につけた可能性が高い。

しばらく後にルカシェンコは再徴集され、シャバでの生活は短いものに終わった。今度は実戦部隊の仕事で、ミンスクに分宿する第120近衛自動車化狙撃師団の政治部長代理がその職務だった。もっとも、一説によれば、知識普及協会の講師を辞めてから政治部長代理になるまでの間に、ルカシェンコはモギリョフ州の矯正労働施設のひとつで、物資供給係として働いていたとも言われている。別の説によれば、ルカシェンコが矯正労働施設にいたのは、政治部長代理を務めた後のことであるという。しかしながら、当然のことではあるが、ルカシェンコの経歴におけるこの1ページは、闇に葬られている。

ソ連共産党に所属していたこと、軍での考課表が良かったこと、知識普及協会の職員として地区党委員会の書記の目に常にとまっていたこと、講師の仕事では裕福になれそうもないと本人が悟ったことにより、その後のルカシェンコの歩みが決定付けられた。ルカシェンコは ゴリキ農業アカデミーの通信科で勉強し、それを修了すると、モギリョフ州シクロフ地区のソフホーズ(訳注:ソ連式の大型国営農場)「ゴロデツ」の支配人に就任したのである。

 

 

 

 ソフホーズ「ゴロデツ」(服部撮影)

 

正義のために闘う闘士

 

この農場は、ソ連時代においてさえも先進的なものとは言い難かったが、同地区のランキングにおいては「しっかりとした中農」に数えられていた。支配人ルカシェンコは、訪れる客人に対してはもてなし上手として知られる一方、農民に対しては「頑固オヤジ」として振る舞った。まさにこの時ルカシェンコは、地方レベルで、腐敗との闘争を開始したのである。こそ泥を働いたり、飲みすぎたり、その他の悪さをした農民たちは、容赦なく処罰された。若き支配人自らが鉄拳制裁を加えることもあった。この点は、後の大統領選挙の際に敵陣営が突こうとしたが、うまくいかなかった。

ルカシェンコは、1989年の共和国最高会議選挙(訳注:ソ連史上初めて の実質的な自由選挙)の時にはすでに、共産党が破綻すること、このままでは自分が出世できる見込みがないことを悟っていたに違いない。その証拠に、ルカシェンコは議員への転身を決め、選挙戦では共産党候補に汚名を着せて激しい攻撃を加えた。共産党候補の側も、ソフホーズ支配人を中傷するためにあらゆる手段を使ったが、例によって不器用なやり方だったため、地区有権者の目には、かえってルカシェンコが正義のための闘士であり、人民に成り代わる受難者であるように映った。結局、ルカシェンコはやすやすと勝利を収め、ソフホーズの支配人室から居心地の良い議員宿舎へと移った。

議員時代のルカシェンコの活躍は、ベラルーシ社会に広く知られている。ルカシェンコは何よりも、私腹を肥やした政権関係者に対する追及で名をあげた。それゆえにルカシェンコは、ベラルーシ初の大統領選挙(1994年)の直前に、議会に設けられた汚職追放特別委員会の議長の座に収まったのである。ルカシェンコの汚職追及は大抵の場合、どうでもいいような事実に対してであったり、具体的な証拠のない嫌疑についてであったりしたのだが、当時そのようなことを深く考える者はほとんどいなかった。

 

大統領の仲間たち

 

しかし、「正義のために闘う闘士」というルカシェンコのイメージは、もはやシクロフ地区だけのものではなく全国に広がり、そのことが大統領選において大きな役割を果たした。しかもルカシェンコは、「止まっている工場を半年で動かしてみせる」(実際、「動かした」)、「1年で汚職を成敗する」、「全国民にちゃんとした生活を保証する」(現在ベラルーシにおける平均月給は20ドル)と、公約を乱発した。ルカシェンコ自身は、自分が大統領選で勝てたのは「教師たちと、医者たちと、軍人たち」のおかげだとうそぶいていたが、実際には同氏の勝利にはKGBが少なからぬ貢献をしたと噂されている。KGBの組織内で、ケーズ将軍を指導者とするルカシェンコ支援グループが結成されたと言われている。武器輸出関連のスキャンダルをはじめ、ライバル候補の否定的な過去に関する資料や、彼らが次に何をするという情報をルカシェンコに提供したのは、まさに彼らだったということである。ちなみに、その後ケーズ氏は安全保障会議国家副書記のポストを与えられたが、すぐに首を切られた。

かつてルカシェンコ大統領の忠実な側近だった者のうち何人かは、ゴンチャル副首相やフェドゥータ社会・政治情報局長のように、自らの意思でルカシェンコと袂を分かった。それよりもっと多いのは、かつての側近がルカシェンコの政策路線の無謀さを悟り、ルカシェンコに公に異議を唱えて遠ざけられるというパターンである。チギリ元首相は、最高会議の解体に反対した結果、経済破綻の責任をとらされる形で解任された。ザハレンコ元内相は勇敢にも、大統領の政敵に対する汚い弾圧のやり方に反対したため、更迭された。カピタン検事総長、チヒニャ憲法裁長官といった人たちも、同様の末路を辿った。冒険主義的な財政・金融政策に反対して解任されたヴィンニコワ元中央銀行総裁は、1年半にもわたって 訴追を受けている。

 

盛り上がりきらない反ルカシェンコ運動(服部撮影)

 

家族の肖像

 

ルカシェンコの個人生活は、社会から厳重に隠されている。ルカシェンコ自身も、外国のマスコミにこのことを聞かれると、黙って何も答えないか、「政治と家族は別だ」と答えることにしている。

分かっているのは、ルカシェンコの妻ガリーナ・ロジオノヴナ・ルカシェンコは、夫が大統領の座にあった過去4年間、「ド ロズドィ」の大統領公邸に定住するに至っていないという点である。ガリーナは随分長い間、シクロフ地区のルィシコヴィチ村に住み続け、幼稚園の園長として働くかたわら、豚1匹、鶏少々、雌牛1頭(名前は「ミルカ」)のいる自家農園を営んでいた。最初のうちこそ彼女は、自分のところに押しかけるマスコミの質問に答えていたが、ある時「夫はひとところに2年以上とどまったことはありません」と口をすべらせてしまってから、マスコミがベラルーシのファーストレディーに接触するのは不可能になった。

1997年にガリーナはシクロフ地区執行委員会に移り、そこで保養施設における療養のための優待券を配分する仕事をしている。ミンスクには時々、子供に会いにくるだけである。ガリーナは、チギリ元首相の妻を除いて、政権高官の妻たちとは一切交際していなかったが、チギリ氏がモスクワに飛ばされてからは、その唯一の交際も途絶えた。注目すべきことに、ガリーナは夫の外遊に一切同行しないだけでなく、外国の元首が妻を伴ってベラルーシに到着する際にも、一度も出迎えに加わったことがない。

ルカシェンコの家族の肖像には、2人の息子、長男ヴィクトルと次男ドミトリーが加わる。ルカシェンコは、2人の息子を厳しく育ててきた。学業に励ませ、経験豊かな家庭教師をあてがい、海外の経験も積ませた。長男ヴィクトルは今年ベラルーシ国立大学の国際関係学部を卒業し、外交官としてのキャリアを開始することになっている(訳注:ヴィクトルについては、近々在スイス・ベラルーシ大使館に配属されるのではという観測があったが、8月7日にルカシェンコは、息子を特別扱いするようなことはせず、2年間の兵役に就かせる旨発言している)。もっともヴィクトルは最近、その無鉄砲な素行により、ミンスクの上流社会において注目される存在となった。というのも、先日ミンスクのナイトクラブ「マックス・ショー」において発砲事件があり、ベラルーシのホッケー・チームのコーチであるザハロフ氏と警備係1名が負傷したが、撃ったのはヴィクトルその人であるとささやかれているのである。一方、次男のドミトリーもやはりベラルーシ国立大・国際関係学部の2年生に上がったところだが、次男坊については取り立てて目立ったところはない。唯一話題になったのは、ベラルーシ国立大の入学試験で誰もその姿を見かけなかったという点と、進級試験の際にベラルーシ語のテストでかなり苦労をしたという話ぐらいである。もっとも、最後の点は驚くには値しない。なぜなら、父親のルカシェンコ自身、いわゆる「トラシャンカ」、すなわちベラルーシ語、ロシア語、ウクライナ語、ポーランド語がチャンポンになった言葉を話しているからである。

 

 

 

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