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臨時コーナー
「2010年ウクライナ大統領選特報」
の開設
1月17日にウクライナで大統領選挙の投票が行われます(決選投票は2月7日)。そこで、「2010年ウクライナ大統領選特報」と題する臨時コーナーを開設することにしました。これから、選挙の結果が出て新体制が発足するまで、なるべく高い頻度で、最新情報の紹介や、私なりの分析を披露してみたいと思います。どうぞよろしく。
(2010年1月15日) |
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1月15日から、2ヵ月半にわたってお届けしてきた「2010年ウクライナ大統領選特報」ですが、今回をもって最終回となりました
。101本目という中途半端な回数で終わることになりますが、「101匹わんちゃん」とか「101回目のプロポーズ」などもありますので、101という数字も案外ハッピーなものなのかもしれません。最終回の今回は、本連載を終えるにあたっての所感や今後の抱負などについて述べてみたいと思います。
まず、このほど、今回の選挙と、その結果成立した新政権に関し、私なりに総括したレポートを発表しました。「2010年ウクライナ大統領選と新政権」というレポートです。こちらからダウンロードしてください。せっかく2ヵ月半も情報の収集・分析・発信を続けてきたので、それらを集大成した良いレポートを書こうと意気込んでいたのですが、肝心の原稿を執筆する日に体調を崩してしまいまして、既存の記事をコピー&ペーストしただけという感じの内容になっています。情報源も結局ウニアン通信ばかりとなり、何だか「ウニアン・ダイジェスト」みたいなレポートになっちゃいました。
本コーナーにおける情報発信は、私自身にとっての、実験的な意味合いをもっていました。普通、作品の作り手というものは、最終的な完成形を世に問おうとするもので、そこに至る過程はあまり人に見せたがりません。とくに学者・研究者というのは、無誤謬的な強迫観念が強いから、完成形に至る前の生データやノート、試行錯誤的な部分はあまり公開したがらないものです。それに対し、今回私は、収拾した情報・データやその時々に考えていたことを、ほぼリアルタイムで随時発信し、最後にそれらを取りまとめる形で最終的なレポートを作成したわけです。
むろん、こういう方式では、途中で誤った分析や予測を示してしまうことがあり、恥をかくことになります。本コーナーで言えば、決選投票の投票率は下がるかもしれないという予測などは、見事に外れました。それでも、こういうコーナーを設けて日々ページを更新し続けたからこそ、張り合いをもってウクライナ情報の収集・分析を続けてこられたということは言えると思います。そして、その蓄積があったがゆえに、最後に体調を崩しながら、短時間で最終レポートをまとめ上げることが一応できたのでしょう。普段は、ぎりぎりになって情報をかき集め、結局その情報量に押し潰されてロクに消化もできず、内容が破綻したり締め切りを守れなかったりということになりがちなので、それに比べればよほど建設的なアプローチだったと思います。
マンスリーエッセイのコーナーで、ショートスタイルの情報発信に疑問を呈すようなことを書きました。しかし、本コーナーをやってみて痛感したのは、たとえ細切れの形であっても、こういうリアルタイムに近い情報発信の場を設けることは、当該テーマについて常に問題意識を持ち続け、「現役」でいるうえで、非常に有効な手立てであるということです。数は少ないだろうがページを見てくれている人がいるはずだから、基本的に1日1本は記事をアップしようと考え、それを励みに努力を続けてきました。ちょうど、今年に入ってから朝型の生活スタイルに転換したので、朝起きたらまずウクライナの記事を書くというのが日課になり、その意味でも好影響をもたらしてくれたと思います。
そんなわけで、本コーナーは終了しますが、せっかく習慣化したウクライナ情勢をフォローする体制を崩してしまうのは惜しいような気がしてきました。さすがに、ピーク時のように1日1本というわけにはいかないと思いますが、今後は1週間に1度くらいの頻度で、ウクライナの最新情勢についてお伝えするコーナーを当ウェブサイトに新設しようかと思っています。題して「今週のウクライナ問題」といったところかな。
それから、本コーナーをやっていて、もう一つ思ったことがあります。それは、自分が選挙を中心とした政治の分析がやはり好きであり、自分で言うのも何ですが、結構良い線を行っているのではないかということです。現在でこそ、仕事の中心は経済の調査・研究ですが、元々のアイデンティティは政治学者で、1990年代はロシア政治の研究をかなり熱心にやっていましたからね。ウクライナ政治については、それほど研究歴が長いわけではないものの、昔とった杵柄で、そこそこやれたのではないかと、そんな風に思っているわけです。
そこで、またつまらないことを思い付きました。ルカシェンコ・ベラルーシ大統領が2006年3月に選出されてから、もうすぐ5年の任期が過ぎようとしており、2011年2月頃に大統領選が実施される見通しです。だいぶベラルーシ研究のブランクが開いてしまったこの私ですが、来たる大統領選挙はネジを巻き直す良い機会かもしれません。だったら、今のうちから、本ホームページ上で、大統領選に向けた動きを中心にベラルーシ情勢を定期的に報告する場を設けて、情報発信を試みてみようか、と。その方が、絶対に自分にとっても励みになるから。題して、「2011年ベラルーシ大統領選挙への道」(笑)。何だか、ワンパターンで芸のないやつと思われそうですが。これについても、当面は週1くらいの更新頻度をめざして、がんばってみたいと思います。
問題は……ロシアだな。ブログにも書いたことがあるけど、自分としては、ロシア7、ウクライナ2、ベラルーシ1くらいの仕事の比率にするというのが理想。いや、ロシア6、ウクライナ2.5、ベラルーシ1.5くらいかな。いずれにしても、国の規模に比例した配分ということ。でも、現状ではロシア4、ウクライナ6、ベラルーシ0くらいになっちゃてるような。このところ、ウクライナが面白すぎて、それにのめりこんじゃっていたから。でも、肝心なロシアを、どうにかしないとな。これについても、本ホームページをテコに、日常的な情報収集・発信の体制を、早急に整えたいと思います。
こういう次第ですので、ロシア・ウクライナ・ベラルーシの最新情報を定期的に発信するコーナーの新設を軸に、本ホームページのリニューアルに近々踏み切りたいと思っております。
以上、これにて千秋楽。
(2010年3月28日)
このコーナーを立ち上げてから、区切りの100本目の記事となりました。その記念というわけでもないのですが、ちょっと毛色の違う記事を書いてみたいと思います。ウクライナ語を日本語で表記する場合の原則についてです。
前にも述べたとおり、ウクライナの独自性や国民理念を尊重するという立場から、本年から私はウクライナの地名や人名などの固有名詞を日本語にする際に、(ロシア語ではなく)ウクライナ語風に表記するという方針に切り替え、本コーナーでもそれを実践していました。しかし、まだ慣れないし、そもそもウクライナ語のきちんとした知識がないので、迷うところも色々とあるわけです。そこで先日、おそらくウクライナ語の実践的な使い手としては日本で一番優れているであろう知人に、疑問に思っている点につきいくつか教えていただきました。
まず、私がよく分からなかったのは、語末の「В」の扱い方。「В」というのは、「ヴェー」であり、ローマ字でいえば「V」に相当する文字ですね。その「В」は、ウクライナ語では語末および子音の前では[W]として読まれるという法則があります。したがって、「Львів」が「リヴィウ」という具合に、日本語にする場合には語尾を「ウ」と書き表すのが通例なわけですね。ただ、私が分からなかったのは、だったら人名などもそうすべきなのだろうか、ロシア人によくある「何とかオフ」とか「何とかエフ」という姓などについても、「何とかオウ」「何とかエウ」と表記するのが正しいのかという点。首相のアザロフは、「アザロウ」にした方がいいのでしょうか?
ちなみに、「アザロフ」をベラルーシ語風に言えば、「アザラウ」となって、完全に語尾は「ウ」しかありえず、これは明快です。何しろ、ベラルーシ語では文字まで変わって、「В」が「Ў」(「ウ・クラートカエ」、短い「ウ」)に化けますからね。「Азараў」となります。
さて、ウクライナ語の本件問題につき、知人からは次のような示唆をいただきました。
語尾のvを「フ」とするか「ウ」とするかですが、弱母音化はどちらかといえば西ウクライナの特徴で、「リヴィウ」となっているのはそのためと考えられます。これがある程度定着してしまったため、「リヴィウ」については「ウ」を採用していますが、他については今のところ原則として「フ」を使っています。
なるほど、私などは「チェルニヒウ」とか「ハルキウ」とか、ドニエプル左岸の地名についても語尾を「ウ」とすることこそ正調ウクライナ語なのかと思ってそうしてきたけど、実際には必ずしもそういうわけじゃないのか。増してや、ロシア人風の苗字である「オフ」とか「エフ」を「オウ」とか「エウ」で読むのは、かなり不自然なのかもしれないな。
次に、「И」の問題。ロシア語を勉強された方ならご存知のとおり、ロシア語には(ウクライナ語やベラルーシ語にも)固い母音と軟らかい母音があります。ロシア語だと、硬い「イ」が「Ы」、軟らかい「イ」が「И」です。ところが、ウクライナ語では硬い「イ」が「И」、軟らかい「イ」が「І」であり、「И」の文字に関しねじれが生じているわけですね。そのこと自体が厄介ですが、さらに問題なのはウクライナ語の「И」をカナでどう表記するか。硬い「イ」でありロシア語の「Ы」に対応しているとしたら「ウィ」または「ウイ」とするべきでしょう。「Ы」はローマナイズすると「Y」であり、よく知られているところでは、「グロムイコ(Gromyko)」とか「ストルイピン(Stolypin)」といったパターンです。ところが、知人によると、ウクライナ語の「И」はちょっとニュアンスが違うとのことです。
硬母音の「y」(ウクライナ語表記で「И」)については、例えば、あまり硬音に拘らず、「ミコライフ」など「МИ」でも硬音風の「ムィ」とはせず、原則として、軟音風の「ミ」と表記しています。ウクライナ語の「МИ」は、ロシア語の「МЫ」と必ずしも音として一致しているわけではなく、「ムィ」と書くほど明確にそう聞こえる訳ではありません。特に、「КИ」を「クィ」と書いたり、「СИ」を「スィ」と書くと、かなり面倒です。ただし、「ТИ」については、例外なく「ティ」を使い、「チ」としていません。(「チモシェンコ」としている新聞もありますが。)
なるほど。ウクライナ語では「И」を「ウィ」とするのが正式なのかと思い、これまでは個人的にもなるべくそうしてきた。名前の「ムィコラ」とか、地名の「ジトームィル」とか。でも、それって、別にウクライナ語の実際の発音に近いわけじゃないのか……。
知人も指摘しているとおり、例の女傑政治家を「チモシェンコ」とするのは、無理解から来る明らかな誤りでしょう。ウクライナ語読みを尊重するのであれば、硬い音だから、「ティモシェンコ」でなければならない。ただ、難しいのは、ロシア語でもウクライナ語でも、綴りは「Тимошенко」で同じこと。ロシア語なら軟母音だから「チモシェンコ」、ウクライナ語なら硬母音だから「ティモシェンコ」というのが正解で、当然ロシア国籍でТимошенко
さんという人もいるわけだから(ルーツはウクライナだろうが)、そういう人については「チモシェンコ」と読むべきであろう。ロシア人によくいるチトフさんとかチーホノフさんが、ウクライナ国籍だったら、ティトフさんとかティーホノフさんにしなければいけないという……。現に、今回のアザロフ内閣にも、ティーホノフ副首相というのがいますね。この人、民族的にはロシア人ですから、民族性を尊重してチーホノフさんでもいいような気もしますが。ソ連時代にチーホノフという有名な首相がいたから、こういう日本語読みが定着したものについては、ティーホノフだと余計不自然に感じられるなあ。うーん、とにかく、割り切れないものなのですよ、こういう問題は。
「И」にどのようなカナをふるのかに関して言えば、中井和夫先生の『ウクライナ語入門』では「イ」に、中澤英彦先生の『ニューエクスプレス
ウクライナ語』では「ウィ」と、専門家の間でも対応が分かれているようですね。私自身は、知人のアドバイスで楽になったので、基本「イ」にしようかと思います。正直、音声的なことはよく分かりませんが、その方が楽だし分かりやすいから。これまで「フメリヌィツィクィー州」にしていましたが、「フメリニツィキー州」に改めることにします。
わたくし、日頃から感じているのですが、外国の固有名詞を日本語に置き換える際に、「原音に忠実」というのは、あくまでも一つの判断材料にすぎないと思うのですよ。外国事情の専門家というのは、とかく「こう読むのが正解なのじゃ」とばかりに、複雑なカナをあてたりしますが。でも、そういうのって、絶対に日本人の間で定着しないと思うのです。結局、日本語的に表記や発音がしにくければ、どんなに原音に忠実であろうと、淘汰されてしまうものだと思うのです。専門家が日本語的に不自然な読み方を無理やり定着させようとしたら、かえってその国とか地名が我々日本人にとって覚えにくく、縁遠いものになってしまうと思われてなりません。「イギリス」とか「ドイツ」とか、日本人が一番身近に感じている外国の地名っていうのは、結局日本人が表記・発音しやすいように歪曲したものであり、それでいいと思うのです。明らかな無理解から来る誤りとか、先方にとって侮辱的なものだったりしたら改めるべきでしょうけど、そうでない限り、大らかであっていいのではないでしょうか。日本人がロスアンゼルスのことを「ロス」と呼んだり、サンクトペテルブルグのことを「サンクト」と呼んだりすることについて、鬼の首をとったように誤りだと指摘する人がいますけど、私はもうちょっと鷹揚に構えていいと思っています。
ウクライナについても、重要なのは日本の多くの皆さんがウクライナという国を知り、親しみをもてるようにすることこそが肝心なはず。その点、「フメリヌィツィクィー州」などという非日本語的な複雑な表記を押し通そうとすることは、日本人の皆さんに、「ウクライナって、何だか取っ付きにくい国」という印象を与えてしまうだけかもしれません。
最後に、「Г」の扱いについて。「Г」はローマ字でいうと「G」に対応するのですが、ウクライナ語やベラルーシ語では日本語のハ行とガ行の間くらいの発音になり、表記上はハ行で表すのが一般的です。英語でも「H」にするのが普通でしょう。私も、基本的にはウクライナ語の「Г」はハ行で表記していましたが、ただチギプコだけはなんとなくガ行にしてしまっていました。これについて知人いわく、
「Г」の扱いですが、これは基本的にハ行で表記しています。但し、人によっては、自分の姓名中に使われる
「Г」について、英語でのスペルを明示的に「H」ではなく「G」を指定してくる人がいるので、この場合はガ行の表記としています。数は少ないですが、もちろん先端が上を向いた
「Г」の表記であれば、いずれにせよ、ガ行です。
とのことです。いずれにしても、チギプコだけガ行にする理由は、どう考えてもなさそうです。
印象的だったのは、その知人が、「ウクライナ語の読み方、仮名表記は永遠の課題。先達たちが結論を出そうと試みては挫折してきたと」とおっしゃっていたこと。つまり、こうすれば必ずうまく行くという絶対的な正解はないわけですね。こういう問題については、とかく自分の基準を絶対視したり、杓子定規にその基準に当てはめたりしてしまいがちですが、他人の流儀も尊重したり、臨機応変に対応したりすることも必要なのではないかと、改めて感じました。
ともあれ、私なりに、とりあえずの指針を決めておく必要はあるように思います。自分としては、差し当たり、以下のような方針で臨みたいと考えています。
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繰り返しになるが、ウクライナの地名、人名を日本語で表記する際に、ウクライナ語式にする。ただし、日本人にもある程度定着したものは、その慣例を優先する。具体的には、キエフ、オデッサ、ドニエプル川(国際河川だし)、クリミアなどがこれに該当する。「ドネツク」というのもある程度日本人に知られた地名かもしれないが、これはぎりぎり、ウクライナ語風の「ドネツィク」にする。 |
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「Г」はハ行で統一する。例外的に「チギプコ」としていたものも、今後は「チヒプコ」にする。 |
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ウクライナ語の「И」を、無理に「ウィ」にすることはせず、基本的に「イ」とする。名前については、「ムィコラ」はやめて「ミコラ」、「ヴォロディームィル」はやめて「ヴォロディーミル」にする。「リトヴィン」は私は最初から「リトヴィン」にしていたが、もちろん今後も「ルィトヴィン」にはしない。地名でも、「ジトームィル」はやめて「ジトーミル」、「フメリヌィツィクィー」はやめて「フメリニツィキー」にする。ただし、「スムィ」、「ヴォルィニ」は「ウィ」とする。これらはロシア語でも「Ы」なので、「ウィ」とした方が個人的にしっくり来るから。このように、臨機応変にやる。 |
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Тимошенко、Титов、Тихонов
などは、ウクライナ語なら硬音、ロシア語なら軟音という厄介な事例である。当該人物の国籍に応じて「ティ」か「チ」で表記し分けるしかない。 |
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語尾の「В」については、知人の示唆は貴重であるものの、ネットなどで検索してみると「ハルキフ」よりも「ハルキウ」の方が若干優勢のようであり、かなり定着している「リヴィウ」などとの一貫性を重視し、「ウ」で統一することとしたい。 |
とりあえずこんなところです。それで、本コーナーの記事は、原則として過去に遡って修正することはしていませんが(改竄するみたいで嫌なので)、地名・人名についてはこの原則に沿って修正・統一することにしたので、ご承知置きください(画像になっている図表を除く)。
それから、2月26日の記事で紹介した大統領府長官の名前の読み方が、微妙に間違っておりました。「レヴォチキン」としておりましたが、ウクライナ語読みで正しくは「リオーヴォチキン」でした(ロシア語だと「リョーヴォチキン」)。これも併せて修正させていただきます。
(2010年3月27日)
何だか取り上げる順番がバラバラで申し訳ありませんが、3月11日の記事で述べたとおり、アザロフ内閣を発足させるに当たって、まず最高会議で新たな多数派連立の形成という手続きが行われました。これについて、正確なところを整理しておきます。出所はこちら。
新たな多数派連立は、地域党の全議員(172)、共産党の全議員(27)、リトヴィン・ブロックの全議員(20)、無所属議員が全員(4)、ティモシェンコ・ブロック155人のうち6人、「我らがウクライナ・国民自衛」派72人のうち6人がこれに加わり、計235名で成立しました。これを図で表すと円グラフのようになり、青いところが与党(235)、白いところが野党(215)ということになります。
ティモシェンコ・ブロックや「我らがウクライナ・国民自衛」の議員で、造反して連立与党に加わった議員たちは、会派の籍を残しています。したがって、ティモシェンコ・ブロックの総議席数は155、「我らがウクライナ・国民自衛」のそれは72で、現在のところ以前と変わっていません。円グラフに示した白い部分の議席数は、あくまでも連立の枠外にとどまっている議員たちの人数ですので、ご注意ください。
図を見ると、まさに与野党伯仲で、ヤヌコーヴィチ=アザロフ政権の議会運営は楽ではなさそうだという風に思ってしまいます。しかし、現地の論調を見ると、必ずしもそういう雰囲気ではありません。ティモシェンコ・ブロックや「我らがウクライナ・国民自衛」の造反組は、次の選挙では党の名簿に載せてもらえそうもなく、1日でも長く議員の座に留まるためには、地域党政権を支えて解散を回避するしかないということが、しばしば指摘されています。
会派全体で連立に加わったところは明快だからいいとして、ティモシェンコ・ブロックおよび「我らがウクライナ・国民自衛」の造反組、そして無所属議員の顔ぶれを整理しておくと、下表のとおりです。
野党系会派および無所属で連立に加わっている議員
ティモシェンコ・ブロック |
V.バルヴィネンコ(БАРВІНЕНКО,
Віталій)
H.ザディルコ(ЗАДИРКО,
Геннадій)
V.カプリエンコ(КАПЛІЄНКО,
Володимир)
Yu.ポルネエフ(ПОЛУНЄЄВ,
Юрій)
I.サウチェンコ(САВЧЕНКО,
Ігор)
O.チェルピツィキー(ЧЕРПІЦЬКИЙ,
Олег) |
我らがウクライナ・国民自衛 |
O.オメリチェンコ(ОМЕЛЬЧЕНКО,
Олександр)
Yu.ブート(БУТ,
Юрій)
S.ドウヒー(ДОВГИЙ,
Станіслав)
I.パリツャ(ПАЛИЦЯ,
Ігор)
I.プリュシチ(ПЛЮЩ,
Іван)
V.ポリャチェンコ(ПОЛЯЧЕНКО,
Володимир) |
無所属 |
V.キセリオーフ(КИСЕЛЬОВ,
Василь)
I.リバコフ(РИБАКОВ,
Ігор)
I.ボホスロウシカ(БОГОСЛОВСЬКА,
Інна)
T.チョルノヴィル(ЧОРНОВІЛ,
Тарас) |
なお、最高会議のウェブサイトを見ると、3月22日現在、地域党の議席数は172ではなく150となっています。これは、地域党の議員たちが閣僚や知事に大量に転身したので、現時点で欠員が生じているということかと思われます。ウクライナの議会選挙は比例代表制ですので、近く地域党が議員を補充することになるはずです。
それから、3月14日の記事で、「最高会議で『競争力と改革のために』と称する新たな会派(議員グループ?)が結成された模様」と書きましたが、その後本件については続報がなく、どうなっているのかよく分かりません。
(2010年3月23日)
ちょっと古い情報になってしまいましたが、アザロフ首相と地域党関係者たちが、新内閣の優先課題について語った記事がありますので、それをチェックしておきたいと思います。
これによればアザロフは、現実的な予算と、税負担の軽減を通じた企業活動の活発化を、新内閣の2つの優先的経済課題と述べました。アザロフいわく、「現実的な、バランスのとれた予算を編成する必要がある。社会的弱者にかかわるものを除いて、歳出を削減しなければならない。我々は、税金を低減し、技術革新と経済活動を奨励することが、歳入の増大につながると考える。増税政策、とくに物品税率の引き上げは、危機の局面においては破滅的だ。」
地域党所属の最高会議の経済関連委員会の幹部たちも、アザロフの立場を支持。予算委員会のA.ペクルシェンコ副委員長は、新内閣は、前内閣の活動の会計検査を実施したのちに、市民の購買力向上と生産の奨励に集中すべきだと指摘。ペクルシェンコいわく、「何よりもまず、消費者が物事を楽観できる条件をつくる必要がある。生産の実際の成長だけが、経済を好転させられる。タバコ・酒類の物品税を引き上げて歳入の穴埋めをするのには反対だ。危機の条件下では、物価の引き上げがすべて、有権者の生活に響くから。物価の上昇が経済成長を刺激付けたことは、一度もない。購買力の強化に向けた、まったく異なる方策が必要である。」
最高会議経済政策委員会の国際経済政策小委員会のA.プロトニコフ委員長も、「新政府の経済的優先政策は、ヤヌコーヴィチ大統領のマニフェストに示されている。われわれは税負担を軽減し、経済活動を活発化させることを主張する。ティモシェンコ内閣と異なり、我々は物品税を上げない。なるべく早く新しい予算を採択する必要がある」と発言。
最高会議の税制・関税政策委員会のV.クルフロフ副委員長は、「我々は課税ベースの拡大を求めるが、税負担の引き上げには反対。2009年には、まさに増税により、生産が縮小した。とくに、タバコへの課税を引き上げた結果、ロシアやモルドバからのタバコの密輸の増大につながった」と発言。
(2010年3月22日)
お待たせしました! (て、誰も待ってないか)。今般、アザロフ内閣の閣僚名簿を作成しましたので、ここに掲載します。サムネイルをクリックしてください。
ここ2〜3日、このコーナーの更新がやや停滞していたのは、この表をつくっていたからなんですねえ。こんな小さな表でも、作るとなると、結構大変なのです。
下の知事の一覧は、ウクライナ語のままで綴りが表記してありますが、閣僚名簿は、ウクライナ語をローマナイズしたものになっております。諸般の事情によるもので、方針が一貫しておらず、すいません。
閣僚の順番は、安全保障・政治系→経済系→産業系→社会系という感じの並びにしてあります。
「ワンポイント」というのは、各種の資料を参照して私が独自にまとめたものです。
再三述べているように、アザロフ内閣は29人の大所帯です。気になるのは、どう考えても、機能的に重複する閣僚が見られること。農業政策相とは別に、農業担当の副首相がいる。地域発展・建設相とは別に、地域政策担当の副首相がいるという具合です。論功行賞で、閣僚の数が膨らんでしまったのでしょうが、政策決定・執行への悪影響が懸念されます。
閣僚の出身地を地域別に見ると、ドネツィク州:8、キエフ市・州:5、ドニプロペトロウシク州:3、リヴィウ州:2、ジトーミル州:2人といったところ。南部出身者が少なく、オデッサ州の1人だけ。実はロシア生まれが3人おり、リヴィウ州出身者よりも多いというのが面白い。
(2010年3月21日)
ウクライナは27の地域(主に州)から成る国です。州知事は、住民による公選ではなく、大統領による任命制です。したがって、政権が代われば、知事もすげ替えられるというのが、自然な流れです。実際、
ヤヌコーヴィチ大統領はすでにかなりの旧知事を解任しており、3月18日には14人という大量の新知事を任命しました。その動きを、表に整理しました。自分の頭を整理するためのノートみたいなものなので、他の方には分かりにくいかもしれませんが、ご参考までにここに掲載します。サムネイルをクリックしてください。
表における地域の掲載順は、私がウクライナ政治の分析用に開発した順番で、西→中央→南→東という流れになっています。左の列がユーシチェンコ大統領時代の知事、右の列が
ヤヌコーヴィチ大統領によって任命された新知事です。なお、キエフ市、クリミア自治共和国には州知事はおらす、その首長は大統領任命ではありませんが、参考までにそれも表に加えておきます。キエフの市長は公選です。クリミア自治共和国では、私は議会の議長が首長だと理解していたのですが、もしかしたら首相が首長なのかもしれず、憲法をざっと眺めてもよく分からなかったので、本件についてはちょっと保留ということにさせてください。
現在のところ、すべての州で知事が入れ替わっているわけではありません。傾向としては、地域党の強い東部・南部で、知事の入れ替えが先行している感があります。おそらく、旧知事がまだ残っている地域についても、これから入れ替えがあるのではないでしょうか。東部・南部では、地域党の人材が豊富なので、後釜を見付けやすかったのだと思います。また、経済・産業的に重要なエリアでもあるので、
ヤヌコーヴィチ政権がそこでの権力固めを急いだという側面もあったかもしれません。それに対し、西部や中部は地域党にとってデリケートなエリアで、遅かれ早かれ自派の知事を据える意向だけれど、適任者を慎重に人選しているということではないかと思います。
新しい知事の顔ぶれを見ると、当然のことながら地域党の議員や支部長などが目立ち、やはりヤヌコーヴィチ政権が自派の人間で地方行政をがっちりと掌握しようとしていることが見て取れます。ただ、ウニアンの報道では、新しい知事たちを比較的好意的に評価する専門家もいるようです。ホルシェニン記念マネジメント問題研究所のK.ボンダレンコ所長などは、新しい知事たちは経済的合理性を重んじて選ばれた、
ヤヌコーヴィチは政治的忠誠心よりも手腕を重視して人選したと指摘しています。
(2010年3月21日)
先日の記事でも述べたように、このほど成立したアザロフ内閣は、稀に見る大所帯の割には、女性閣僚が1人もいません。うーん、個人的にも、嫌ですねえ、中高年男性で埋め尽くされた閣議に出るのは(笑)。
ウニアンによれば、これについてアザロフ首相本人が3月19日に、次のように発言したそうです。
我々の内閣は大きすぎると言う人もいるし、女性がいないから閣議の時に眺める相手がいないと言う人もいる。私は女性には大いに敬意を払っているが、改革を実施することは女性の仕事ではない。新内閣には、1日16時間、休日もとらずに働ける人間、上層部にも「ノー」と言えるような人間を揃えた。
先進国、とくにアメリカや北欧あたりでこんな発言をしたら、その時点で政治生命は終わりでしょうね。日本なんかでは、男性政治家は本音ではアザロフと同じようなことを考えていると思いますが、たださすがに、「そういう発言をしたらマズい」ということは分かっているので、こんな大それたことを言う人はいないわけで。
それでちょっと思ったのですが、地域党の幹部連中には、ティモシェンコ首相時代に、「女風情が、生意気な!」という鬱屈した感情が募っていたのかもしれませんね。その反動で、「男組」たるアザロフ内閣が出来上がったと考えるのは、うがちすぎでしょうか。
(2010年3月21日)
新政権の布陣も決まり、地域党としては祝賀ムードでしょうけれど。いやいや、喜んでばかりはいらせませんよ。むしろ、大変な時期に、政権をとってしまったものです。難問が山積しているなかで、とくに世界経済危機を背景とした財政難が、新政権に重くのしかかることになるでしょう。
インタファクスによれば、ヤヌコーヴィチ大統領は3月17日、シモネンコ会計検査院長と会談。シモネンコ院長は、2009年予算は前内閣によって一指標たりとも達成されておらず、ある種の指標に至っては改竄されていたと指摘。とくに、対外借り入れ、賃金支払い、年金基金の活動に改竄があったとのこと。誰が改竄したのかとの記者団の問いには、「2008〜2009年に国を治めていた前内閣だ」と返答した。また、国家入札の際に、政府決定ではなくティモシェンコ首相やトゥルチノフ第一副首相の裁量による決定が下され、本年(2010年?)だけで国に200億グリブナの損害が生じた。これは完全な犯罪であり、まずこれを罰することから始めなければならない。院長はまた、2010年予算を早急に承認し、税法典案の起草を急ぐことが重要と指摘。さらに、国家プログラムの数を最適化し、2008年末に設置されながら内閣の「ポケットマネー」と化していた安定化基金を廃止して財政の歳入基盤を拡大する必要性を指摘した。
このように、シモネンコ会計検査院長はヤヌコーヴィチ新大統領との面談において、ティモシェンコ前内閣の悪性の数々を指摘し批判しているわけです。ちなみにシモネンコ院長は地域党系の人物というわけではないようで、1996年の末から現職にある古株です。だったら、もっと早くティモシェンコ内閣の問題を告発しろよ、それが会計検査院の仕事だろ、と言いたくもなりますが…。(私が知らないだけで、してたのかな?)
他方、やはりインタファクスによれば、アキモワ大統領府第一副長官は3月17日の記者会見で、2009年のウクライナの財政赤字がGDPの12%に上ったのに対し、2010年には6〜7%のレベルにまで引き下げることができるだろう、ただIMFが勧告している4%というのは昨年の実績から考えても達成不能である旨述べています。
というわけで、2010年予算の編成が、当面の最重要課題となっているわけです。
(2010年3月19日)
本コーナーではこれまで、ジェンダーという分析視点を充分に打ち出すことができませんでした。決して無関心であったわけではないのですが、それを語るのに充分な題材を持ち合わせていなかったということです。
それで、今般、ウクライナで発行されている英字新聞『キエフ・ポスト』のサイトに、ジェンダーの観点から見たティモシェンコの敗北という興味深い記事を見付けましたので、それを要約して紹介してみたいと思います。執筆しているのは、米国リード大学社会学部准教授のAlexandra
Hrycakさんという人です。この方自身も女性で、ウクライナのフェミニズム研究をライフワークとされているようですが、民族的に何系なのかは不明。
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ティモシェンコが大統領選で敗れた敗因が色々と語られるなかで、ジェンダーという要因が完全に無視されている。ウクライナでは「政治には女性の居場所がない」ということがよく言われるし、さらには「女性がいるべき場所は台所だ」と言い放つ向きもある(
ヤヌコーヴィチも選挙戦でそう公言していた)。実は、そういう伝統主義的な価値観は、国の西部や、中央ウクライナ農村部を地盤とする「オレンジ有権者」の間でこそ支配的なのだ。
ティモシェンコはその政治キャリアを通じて、ジェンダー的な立ち位置に苦心してきた。政治的な調査によれば、今日のウクライナで求められている女性像は、「ベレヒーニャ」(東スラヴの伝説的な女神)、つまり家族思いの献身的な母であり妻である。もう一つの女性像が、セックスシンボルまたは「バービー人形」としての女性。いずれのモデルにしても、ウクライナ人は女性が政治リーダーとして表に出ることを好まない。
ティモシェンコは自分がこうしたジェンダー像に合致し、凌駕しうるということを証明しなければならなかった。「ガスの女王」「スカートをはいたオリガルヒ」といった汚名を払拭するため、彼女はウクライナ語を覚え、伝統派のユーシチェンコと連合を組み、自分のサインを農民風の三つ編みで囲み、「革命の女神」となった。今回の大統領選キャンペーンでは、刺繍入りの民族衣装をまとい、「国民の母」として登場した。演説では、自分が子育てや祈りを大事にする伝統的な女性であり、権力が欲しいからではなく「家族」たるウクライナ国民を気遣うがゆえに大統領になりたいのだということを再三強調した。
その努力で、得票率を第1回投票の25%から決選の45%へと拡大したけれど、勝つことはできなかった。それはなぜか。
出口調査は、「オレンジ有権者」のなかでジェンダーギャップが確かに存在したことを示している。出口調査に応じた男性のうち48.8%が
ヤヌコーヴィチに、44.6%がティモシェンコに入れたと答えた。それに対し、女性は48.5%が
ヤヌコーヴィチに、46.4%がティモシェンコに入れたと答えた。このように、ヤヌコーヴィチは男女の支持率がほぼ同じであるのに対し、ティモシェンコは女性の支持の方がやや大きいことが見て取れる。オレンジ有権者の女性は、その男性よりもティモシェンコをより強く支持した。
ただし、この分析だけでは片手落ちである。なぜなら、2010年大統領選挙は2004年のそれから投票率が低下したからである。2004年にはユーシチェンコが1,500万票をとったのに対し、2010年にはティモシェンコが900万票しかとれず、かくしてティモシェンコは600万票ものオレンジ票を失ったことになる。それは、2004年に街を埋め尽くした草の根の活動家たちを、今回は動員できなかったことによる。
2004年のオレンジ革命当時、なぜティモシェンコがオレンジ派の大きな支持を集めたのたかを知る必要がある。私の聞き取りや調査によれば、それは第1に、オレンジ革命後、人々はティモシェンコをユーシチェンコ以上に評価し、ティモシェンコがウクライナの利益のために戦うと信じたからこそ彼女についていった。第2に、多くの人々は、2度も投獄された
ヤヌコーヴィチがウクライナの厳守になることを受け入れられなかった。第3に、多くの人々はオレンジ革命への参加を、ユーシチェンコやティモシェンコの個人的資質ゆえではなく、ウクライナをヨーロッパの国民国家に転換する社会契約とみなした。
というわけで、オレンジ有権者には伝統的なジェンダーバイアスが確かにあったが、そのことによりティモシェンコの大統領選における敗北が説明できるわけではない。ベレヒーニャ神話が女性を家庭に縛り付けておこうとするので、ティモシェンコはそのせいで負けたと論じる論者がいるが、私の研究によれば、ベレヒーニャ・イメージは多くの女性に政治参加を促す力があり、これが2004年に多くの人々によるティモシェンコ支持につながり、彼女は国民的革命家になれたのだ。
したがって、ティモシェンコの敗因を分析するためには、ジェンダー問題に加えて、オレンジ指導部が全般的に戦術を誤ったということを合わせて考える必要がある。ウクライナの民主革命は、家父長的な政治マシンを打破することができなかったのだ。
ティモシェンコの今後の方向性を考えるに、オレンジ革命後に地方政治システムの枠外に置かれている草の根のアクター、とくに女性団体などを動員するということが挙げられる。女性の活動家たちはオレンジ革命後、もっと政治参加したかったのだが、ウクライナ選挙の「家事」、つまり選挙区委員会で働くような下積みの役回りを引き続き演じることを余儀なくされた。現在ウクライナでは選挙区レベルの仕事はほぼ全面的に女性によって担われている。これは、様々な研究によってたびたび論じられている現象である。選挙システムの底辺に女性が集中していることは、女性活動家の機動性が阻害されていることとあわせて、ソビエト時代およびクチマ時代からの政治的伝統である。だからこそ、オレンジ陣営が政治に本物の革命をもたらせなかったことが、2010年のティモシェンコの敗北につながったと考えられるのだ。
皮肉にも、ティモシェンコ自身、女性リーダーたちの支持を動員しようとしなかった。おそらく、フェミニストの烙印を押されるのを避けようとしたのだろう。もし女性を動員できたら、2010年大統領選の結果はかなり違ったはずだ。2004年にユーシチェンコに入れながら、今回棄権または「両者に反対」と投票した者が、ティモシェンコに投票したかもしれない。最終結果が僅差であったことを考えれば、これが結果を左右しえた。
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以上です。ちょっと分かりにくいところもありましたが、だいたい言わんとするところは理解できたかなと思います。
(2010年3月18日)
ヤヌコーヴィチ大統領は、就任後すぐの2月26日の大統領令で、「経済改革委員会」という諮問機関を設置しました。そして、3月17日には同委員会の規約と顔ぶれを定めた大統領令が追加で出されましたが、
ヤヌコーヴィチ大統領自身が同委員会の委員長を務めるとされています。経済改革委員会が、重要な政策決定の場となる可能性をうかがわせる動きです。
経済改革委員会には、大統領以下、総勢25名もが名を連ねています。大統領府長官および副長官に加え、アザロフ首相、クリュエフ第一副首相、ほぼすべての副首相(安全保障担当のシフコヴィチ副首相を除く)が参加。フリシチェンコ外相、ラヴリノヴィチ法相、トルストウホフ官房長官もメンバー。ステリマフ中銀総裁も。さらに、民間の学識経験者が数名参加することになっています。経済改革委員会の事務局長は、アキモワ大統領府第一副長官が務めます。
外相や法相までもが加わっていることから、同委員会は狭義の経済問題だけでなく、より幅広い分野を網羅した政策決定の場になる可能性もあるかもしれません。ただ、人数が25名と多いので、意思決定の効率性という観点からは問題もありそうです。
(2010年3月18日)
アザロフ内閣の分析を徐々に進めていくつもりですが、とりあえず第一副首相に就任したクリュエフ氏のバイオを整理しておきたいと思います。出所は基本的に、この「キーマンの肖像」シリーズで一貫して使っている「リーガ・ファイル」というサイトです。 http://file.liga.net/person/50.html
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アンドリー・クリュエフ Andriy Petrovych Klyuev
出自 1964年8月12日、ドネツィク市生まれ。1986年、ドネツィク工科大学鉱山学部を卒業、専攻は鉱山技師で、専門は地下資源鉱区探査の自動化と総合的機械化。1989年に技術博士候補。石炭分野に関する著作多数。
キャリア 1983年、ドネツィクのザシャトコ炭鉱で炭坑夫として職歴をスタートさせる。1986〜1991年にドネツィク工科大の大学院生、研究員。1991年から1994年にかけては民間企業で働き、「シェリフ」社の技術部長、「プロムコムセルヴィス」社の社長、「ウクルポドシプニク」社の社長を歴任。1994年から2002年は地方行政で働き、ドネツィク州副知事、ドネツィク市第一副市長、
ヤヌコーヴィチ知事の下でドネツィク州副知事(担当は地域発展、対外経済関係、消費財生産)。1996年〜2002年、ドネツィク市議会議員。
2002年4月から2006年5月まで、ウクライナ最高会議の議員(地域党所属)。第4回最高会議において、燃料・エネルギー・核政策・核安全委員会委員長を務める。この間、2003年から2004年までは、議員と副首相を兼務。同時に、政府の産業政策・燃料エネルギー・環境・非常事態委員会の委員長も務めていた。
2006年4月、地域党の名簿で最高会議の再選を果たす。地域党、社会党、共産党による連立ができると、同年8月には再び副首相に就任し燃料・エネルギーを担当。
2007年の前倒し議会選挙でも地域党から出馬し、3度目の当選。
2010年3月、アザロフ内閣の第一副首相に就任。
地域党の最高実力者の一人であり、副党首および議会会派副会長、地域党の政治評議会の委員を務める。ヤヌコーヴィチに近い。
2004年大統領選時には、ヤヌコーヴィチの選挙キャンペーンの責任者の一人だった。オレンジ革命の際には政敵により、クリュエフが国家レベルの投票結果の改竄を組織したと非難されたが、にもかかわらず彼は地域党の有力者であり続けた。
2000年3月にドネツィク州ボクシング連盟の会長に就任している。
プライベートとビジネス 妻は1964年生まれのジャンナで、彼女は産業・金融コーポレーション「ウクルポドシプニク」の副社長を務めている。2人の間には3人の息子がいる(それぞれ、1985年、1995年、2003年生まれ)。
クリュエフの弟のセルヒー・クリュエフ(1969年生まれ)もまた地域党の有名な金持ちの一人で、最高会議議員。兄アンドリーとともに「ウクルポドシプニク」社を立ち上げ、2006年選挙の際に同社の会長に就任している。2006年時点のドラゴン・キャピタル社の推計によれば、クリュエフ兄弟の共同資産は1.44億ドルに上るという。2008年にはフォークス誌が兄弟の資産を6.35億ドルとした。コレスポンデント誌によれば、両者はほぼ均等に資産を分け合っているという。ウクルポドシプニクには、非鉄金属、燃料・エネルギー企業、金融機関などを傘下に収めている。
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リーガ・ファイルのサイトからの情報は以上です。要するに、石炭の専門家から成り上がって、ウクライナを代表する大金持ちの一人になったということですね。それにしても、ウクライナはビジネスマンというか大富豪が議員になっている例が非常に多い。ロシアよりも多いように思います。
そういえば、以前クリュエフ兄弟の財閥ウクルポドシプニクの企業グループ図を作成したことがありました。ご興味があったら、上のサムネイルをクリックしてみてください。
(2010年3月18日)
ポーランドに「東方研究センター」というシンクタンクがあるそうで、そこがウクライナの新政権について示した分析がウニアンに出ているので、その分析を整理してみたいと思います。
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ウクライナの新政府は、より親ロシア的な政策を推進する可能性があるが、ロシアにとって枢要な争点で新政権が大幅な譲歩をするようなことはまずないだろう。 |
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新政府には、アザロフ首相をはじめ、伝統的に親ロシア派と考えられていた政治家が多く入っている。燃料・エネルギー相にはボイコが返り咲き、教育相にはロシアべったりで知られるタバチニク氏が就任した。 |
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新政府も、大統領も、ウクライナのロシア語系住民の利益を満たすことに注力することになり、それはクレムリンによっても好意的に評価される。ウクライナ側の歴史観・国民意識が、モスクワの期待するような方向に近付くことになろう。 |
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しかしながら、フリシチェンコを外相に起用したことは、「バランスのとれた」外交政策を推進しようという意欲と受け取れる。 |
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また、大富豪アフメトフ氏に近いコレスニコフ氏らが入閣しており、彼らがロシアよりも西側世界との関係発展を望んでいることも、親ロシア路線を抑制する要因となる。ウクライナの(政府というよりは大統領の)対ロシア政策はほぼ確実に、小幅な譲歩の政策となろう。1995年から2005年にかけて大統領の座にあったクチマも、最初の7年間はそうした。より大幅な譲歩を迫られるとしたら、それはウクライナの金融・財政状況がより一層悪化した場合だけである。 |
(以上 http://www.unian.net/rus/print/367207)
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地域党以外の議員たちが連立に加わったのは、前倒し議会選挙が行われたら自分たちが当選できないということを恐れているからで、このことは地域党の安定した政権運営を約束する。したがって、アザロフ新内閣は、次回最高会議選挙が行われる2012年秋まで、持ちこたえることができる可能性が高い。内閣は完全に地域党がコントロールすることになる。 |
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アザロフ氏自身は自立的な政治家ではなく、立場が弱いため、内閣の実際の政策はヤヌコーヴィチ大統領が策定することになる。 |
(以上 http://www.unian.net/rus/print/367230)
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アザロフ内閣の成立は、過去数ヵ月でウクライナから届いた最大の朗報。なぜなら、新内閣は大統領と密接に協力し合うはずで、これは国にとって必要な改革のチャンスを高めるから。新たな多数派と政府の形成は、長年にわたり続き経済危機を悪化させてきた大統領と首相の破局的な対立に終止符が打たれたことを意味する。 |
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新政府は、財政赤字を減らすために国民から不人気な措置の実施、最重要な債権者であるIMFとの協力再開を迫られよう。その後に続く議会選挙実施の見通しは、この文脈から有益である(注:言わんとすることがよく分からないが、選挙がしばらく先なので現在は不人気な政策を実施しやすいという意味か?)。 |
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ただし、アザロフ内閣が「革命的な改革」に乗り出すことはないだろう。その政策は大企業(オリガルヒ)や官僚の全般的な利益に沿ったものとなり、オリガルヒ・官僚体制は維持されることになる。政策は、経済政策も含め、
ヤヌコーヴィチ大統領と地域党幹部の側近が策定することになる。 |
(以上 http://www.unian.net/rus/print/367252)
(2010年3月17日)
ヤヌコーヴィチ新政権およびアザロフ内閣の成立に伴い、外務大臣も交代することになりました。前任者のペトロ・ポロシェンコ氏に代わって、コスチャンティン・フリシチェンコ新外相が就任しました。本件に関し、各識者のコメントを集めた記事がウニアンに出ていますので、以下のとおり抄訳のうえご紹介いたします。
A.ハラニ(政治分析スクール所長):ポロシェンコ前外相には、ダイナミズムをもたらそうと試み、外務省の活動を一般向けにPRしようとする姿勢も顕著だった。全体的にアプローチのバランスがとれていた。
ヤヌコーヴィチ大統領としても、ポロシェンコ外相を留任させ外交政策の継続性を誇示するという方法もあった。結局フリシチェンコが外相に任命されたのは、
ヤヌコーヴィチと地域党の長年のパートナーだから。地域党の影の内閣でも長らく名前が載っていた。彼はウクライナにとっての最も苦しい時期、すなわちクチマ政権の晩年に外相だった経験があり、その際には諸外国がウクライナに見切りをつけないよう、努力を傾けた。外相就任前は、米ワシントンで働き、米国のウクライナへの関心をつなぎとめるよう尽力し、欧州・大西洋統合路線を推進しており、これはプラスである。ただ、その後フリシチェンコはボイコ氏の共和党の党員となり、つまりロスウクルエネルゴ社と正式なつながりがあったわけで、だからこそ地域党の影の内閣でも名前が挙がっていたのだろう。その後、駐ロシア大使に起用され、モスクワでは何度か国家主義的な発言をし、ロシアの対ウクライナ政策を批判した。したがって、外相に起用されたフリシチェンコは、経験ある実利主義者として、彼はウクライナの全般的な対外路線を保持しようと努力するだろう。しかし、ロスウクルエネルゴとのコネクションというリスクがある。したがって、そのコネクションがどれだけ残っており、それがどの程度彼の政策に影響するかが焦点となろう。
V.ホルバチ(政治評論家):ポロシェンコはウクライナ史上最も有能かつプラグマチックで、かつ成功した外相だった。ポロシェンコは、大統領とも、首相とも、野党とも仲違いせず、自分に外相として与えられた時間を生かしきった。政治状況が変わって、彼が内閣を去ることになったのは残念。後任のフリシチェンコは職業外交官で、政治家ではない。したがって、他人の意思を執行することになるが、それがウクライナ大統領の意思ならまだ良い方で、ロシア大統領・首相のそれでないことを祈るばかり。
I.ジダノフ(分析センター「公開政治」所長):ポロシェンコの外相時代、外務省はプラグマチックな省庁となり、その活動は他国との経済関係やウクライナ国民の国外における権利の保護に向けられた。後任のフリシチェンコは職業外交官である。外務省は正常に活動し、外交政策に大きな変化はないだろう。しかし、一定の状況下では、親ロシアの方向に大きく舵が切られることがありうる。
V.フェセンコ(政治研究センター「ペンタ」所長):ポロシェンコは外相在任中、奮闘した。大統領と首相が対立している状況下で、彼はいずれの側にも与せず、国家の利益のために外務省の活動を方向付けた。様々な領域で政策を前進させ、たとえばEUとの連合協定や自由貿易協定を進展させたし、ロシア外務省との関係でも対立を取り除いて正常な関係を築くことにある程度成功した。また、ソマリアの海賊やコンゴの監獄に囚われているウクライナ人の解放にも努力した。フリシチェンコの任命に関して言えば、職業的な原則が機能した形。彼は有名で経験豊富な外交官。今後の展望に関して言えば、外交政策は大統領が決める。ただ、
ヤヌコーヴィチは外交に関しては見習い中なので、様々な側近が外交に介入してくる危険がある。その意味で、職業外交官であり、ウクライナの国益や外交慣行を理解している人物が外相に就くのは、結構なこと。
V.ネボジェンコ(社会調査機関「ウクライナ・バロメーター」所長):ポロシェンコはあと数年、外相として活躍できたはず。彼は、前内閣ともうまくやれたし、
ヤヌコーヴィチが大統領に当選して最初にブリュッセルとモスクワを訪問した時も、そつなく随行をこなした。これらをうまくやってのけるのは、簡単なことではない。外相を留任させれば、有益だったのだが。新任のフリシチェンコは、ポロシェンコの例にならうだろう。前任者よりも華々しい立ち居振る舞いになるかもしれないが、実際には
ヤヌコーヴィチ大統領の最初の政策に対する寛容をロシアとEUから取り付けることを当面迫られるだろう。
(2010年3月17日)
ウニアン通信の識者コメント集シリーズです。今回は、アザロフ新内閣をどのように評価するか、どのような人事が意外だったかを、最高会議議員および専門家諸氏に訊いていますので、それを要約してみます。所属議員が偏っていますが、まあそういう趣旨の記事なのでしょう。出所はこちら。
K.リャピナ(「我らがウクライナ・国民自衛」派所属最高会議議員):期待はしていなかったが、まさかタバチニクのようは名うての反ウクライナ主義者が教育相に任命されるとまでは思っていなかった。これは
ヤヌコーヴィチの本性を示すシグナルである。試験の独立性(注:何のこと?)、言語問題等、多くの問題が深刻な事態となろう。歴史評価、歴史教科書については、いわずもがなである。似非科学による教科書の書き換えの新たな波が来るだろう。今後ウクライナの子供たちは歴史を知ることができなくなる。新しいエリート学者たちに叡智はなく、彼らは皆ソビエト出身者で、政治の産物。その他の閣僚人事についていえば、いかにもアザロフの内閣といったところで、効率や成果はまったく期待できない。
S.ソボレフ(ティモシェンコ・ブロック所属最高会議議員):これはユーシチェンコとヤヌコーヴィチの連立内閣で、両者の思惑どおりだ。ウクライナの大手金融・産業の領袖たちが分割し合った政府であり、閣僚のうち誰がフィルタシまたはアフメトフの代理なのか、誰がクリュエフ・クループおよびその他の大金持ちを代表しているのかが一目瞭然。大資本(
ヤヌコーヴィチは選挙の際にその支援を仰いだ)と共産党が共存しているとう奇妙な内閣である。
A.パルビー(「我らがウクライナ・国民自衛」派所属最高会議議員):議会で反憲法クーデターが起きたという印象。連立の形成原則自体が違憲で不法だから。したがってそれにより形成された政府も違憲で不法である。閣僚人事に関して言えば、何と言っても、タバチニクの教育相起用はウクライナのすべての政治勢力にとっての侮辱である。これは、過去数年ウクライナの教育界で行われ、汚職の低下にもつながった改革を、停止することを意味する。我々の政治勢力は、政府が違法な存在であり、これらおぞましい人物たちが行政府の要職に就いてしまうことのないよう、あらゆる方策を講じていく。自分としては現議会の解散に全力を尽くす。今日の事態により、第6回最高会議は完全に権威を失い、憲法・法律に則って活動することが不可能になった。
B.タラシューク(「我らがウクライナ・国民自衛」派所属最高会議議員、元外相):
新しい連立と、それにもとづいた政府は、憲法に違反しており、ゆえに合法的でない。フリシチェンコ新外相に関して言えば、彼はプロであるという点では私と同じだが、イデオロギー観が異なる。現に、2006年にフリシチェンコはNATO加盟に反対するブロック「Ne
tak!」から出馬している。もっとも、外相時代に彼はNATOおよびEU加盟政策を支持していたし、国家安全保障・国防会議第一副書記と駐ロシア大使を兼任していた時にもユーシチェンコ大統領のNATO加盟路線に反対はしなかったが。
V.フェセンコ(政治評論家):
第1に、これはヤヌコーヴィチの内閣であり、ヤヌコーヴィチに成り代わりアザロフが内閣を指揮するのであって、アザロフの内閣ではない。一連の人事からもそのことがうかがえる。第2に、これはある種の「副首相内閣」である。副首相7人という数は記録的で、副首相1人に対して一般閣僚3人という比率となっている。副首相だけの会議を開いて、そののちに内閣全体の閣議を開くということが可能でははいか。第3に、これは確かに「連立内閣」だが、会派間の連立というよりは、地域党内部および周辺の様々な派閥の連立内閣と言った方がいい。タバチニクの教育相起用に関しては、彼はかつての
ヤヌコーヴィチ内閣で副首相だったのだから、個人的に驚きはない。ヤヌコーヴィチは、ユーシチェンコと違って、部下を大事にする。現在、セミノジェンコが復活している。ある種のキャスリングが生じている。あるいはそれは、タバチニクの周囲で一定の対立があるのかもしれないが、それでも
ヤヌコーヴィチはタバチニクに閣僚ポストを与えた。私が注目したのは、何人かまったく無名の閣僚がいること。運輸相のエフィメンコなどは誰も知らない人物で、ウクルトランスガスの幹部だったということなら、リトヴィンに近いようにも思えるが、昨年までキエフ州議会でティモシェンコ・ブロックに属していたらしい。これは、主要政治勢力間に大きな距離がないことの証左である。文化相なども、まったく知られていない人物。タバチニク教育相、ツシコ経済相は、論功行賞だろう。地域党は、専門家集団の内閣を標榜しており、確かに一部はそうだが、ツシコ経済相、エフィメンコ運輸・通信相などの起用はそれに疑問を抱かせる。
L.クラフチューク(初代大統領):
周知のとおり、タバチニクはウクライナの歴史を冒瀆する人物であり、自らの歴史観を隠そうとしない。彼が教育相に起用されたということは、現政権がそのような歴史観の持ち主だということ。新内閣に、確かにプロはいる。国防相がそうだし、スラウタ副首相は農業を知っており、法律・国防問題を担当するシフコヴィチ副首相も政策通。
以上です。バリバリの野党の人が多かったので、かなり手厳しいのはやむをえないでしょう。それにしても、タバチニク教育相の評判が散々ですね。もともとプロの歴史家なんですが、その言動で何度が物議を醸したことがあるみたいです。というわけで、今日はタバチニク氏の顔を載せておきます。
(2010年3月17日)
このコーナーではロシア系証券会社ルネサンス・キャピタルのレポートを何度か紹介してきましたが、おそらく今回がそのシリーズの最後になるでしょう。アザロフ内閣の発足を受け、3月12日に同社から「Ukraine:
Political stability gets a fighting chance」というレポートが出ていますので、その骨子をまとめてみたいと思います。
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議会の多数派連立は、235名の議員から成る。政党間の内部対立が目立った前回の連立よりも、より安定して見える。 |
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アザロフ内閣の副首相および大臣の大多数は、地域党の所属で、長年一緒に働いてきた人たちなので、過去数年の内閣よりもチームワークが良いと期待できる。 |
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アザロフの国税庁長官在任中、ウクライナの徴税政策は非常に厳格で、闇経済は大幅に縮小した。アザロフはクチマ元大統領にきわめて近かった人物。ヤヌコーヴィチ首相の下で2002〜2004年と2006〜2007年に第一副首相・蔵相を務め、財政、税制、年金、規制などにわたる経済改革を実施した。アザロフはウクライナで最も経験豊かな財政管理者の一人で、現在ウクライナが置かれている経済状況を考えれば、このことは大変重要。アザロフは地域党の幹部の一人ではあるが、産業ロビイストとはある程度距離を置いていると見られる。彼は有能な危機管理者になると期待していい。彼の意思決定は明確で落ち着いている。 |
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首相就任後最初の発言でアザロフは、ウクライナがIMFに対する約束をすべて守ると述べた。これには現実的な2010年予算を編成することも含まれ、予算は1ヵ月以内に採択される見通し。アザロフは、国庫は空っぽであり、それゆえにIMFとの協力再開は非常に重要と述べた。彼はまた、IMFがウクライナへの融資を再開し、今の現実を反映してスタンドバイ・プログラムを拡大・修正してくれるだろうという期待を表明した。その後アザロフは、財政赤字に対処するためまずやるべきことは歳出の修正・最適化であると述べている。この姿勢は、IMFからも評価されることとなろう。内閣が最初に下した決定は、閣僚の給料を下げることだった。 |
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主要閣僚についてのワンポイント。クリュエフ第一副首相は、1994〜2002年にドネツィク州議会で要職を歴任し、2002年に最高会議議員に当選。
ヤヌコーヴィチの2度の内閣で副首相を務め、また議会の燃料・エネルギー・核政策委員会の委員を務めてきた人物。スラウタ副首相は、2003年にはヤヌコーヴィチ内閣の農相としてパン危機に対処し、2007年には副首相として穀物危機に対処した実績をもつ。ヤロシェンコ蔵相はアザロフの側近で、アザロフが国税庁長官だった時に第一副長官、アザロフが蔵相だった時にはその次官だった。その後、国税庁長官、副長官を務めた。同氏の蔵相起用は、アザロフの財務省掌握に役立ち、財務省と国税庁の協力関係が強まると期待できる。ツシコ経済相は、2005〜2006年にオデッサ州知事、2006年には内相、最近は議会で銀行・財政委員会の委員だった人物で、その経済相起用は違和感をもって受け止められるかもしれない。ボイコ・エネルギー相は、2002〜2005年にナフトハス社長で、
ヤヌコーヴィチ内閣で2006年にもエネルギー相を務めたことがあり、ロスウクルエネルゴのフィルタシ氏に近いと言われている。フリシチェンコ外相は有名な職業外交官で、
ヤヌコーヴィチ内閣で2003〜2005年にも外相だった。最近は駐ロシア大使を務めていた。 |
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リトヴィンは最高会議議長のポストを保持すると見られる。新しい内閣は、野党側の一部議員からも、ビジネス寄りの議員を中心に、支持を受けた。したがって、新内閣は、予算をはじめとする重要法案を、迅速に通すことが可能であると考えられる。 |
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ヤヌコーヴィチは中銀総裁については立場を明らかにしていない。人材不足により、ステリマフ現総裁が留任する可能性が高まっているように思われる。しかもアザロフは、現在優先されるべきは、新しい総裁を選ぶよりも、的確な通貨政策を実施することであると発言した。他方、国税庁の長官もまだ指名されていないが、これについてはアザロフに近い人物が据えられるだろう。 |
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総じて言えば、現在はすべての国家機関が単一の政治勢力によってコントロールされており、これはウクライナにより大きな政治的安定をもたらすと考えられる。 |
といったところです。アザロフの手腕や、安定の見通しについて、結構好意的に評価している印象ですね。というわけで、ルネサンスさん、お世話になりました。
(2010年3月16日)
私自身はアザロフ内閣をまだ充分に分析できていませんが、ウニアンに面白い記事がでていました。原出所はニメツカヤ・ヴァルナ(「ドイツの波」、ラジオか何か?)とのこと。アザロフ内閣は、2つの点でヨーロッパで特異な内閣だというのです。第1に29名もの閣僚から成る大所帯である点、第2に女性閣僚が1人もいない点。
ヨーロッパの民主主義国家では、首相や副首相を含めても16〜18名くらいが標準的な閣僚の人数。EUで一番多いのはイタリアのベルルスコーニ内閣の24人だが、うち10人は特定の任務のために働く特命相。
ウクライナに匹敵するのがベラルーシであり、ベラルーシでは閣僚が30名に上る。ただ、ベラルーシでは閣議決定は通常、10名だけが参加する閣僚会議幹部会で採択さる。
また、欧州では通常、副首相の数は2〜3人で、しかも経済官庁や財政官庁を配下に置いている場合が多い。それに対しウクライナのアザロフ内閣では、副首相が7名に及びながら、その1人として配下の省庁をもたないというのも特徴的。ただ、副首相の数だけから言えば、ロシアのプーチン内閣の9名に軍配があがる。
以上です。閣僚のデータ等は記事のままで、当方は確認しておりませんので悪しからず。
(2010年3月15日)
私の持論によれば、今回のウクライナ大統領選挙で最も重要な要因だったのが、国民の既成政治家に対する「飽き」でした。それを裏付ける世論調査結果を見付けましたので、取り上げてみたいと思います。社会工学センター「ソツィオポリス」という調査機関が2010年3月1〜5日にウクライナ全土の中小規模の都市(人口5万人以上)で成人1,600人を対象に行った電話アンケートの結果です。代わり映えしませんが、ウニアン通信が伝えています。
これによれば、回答者の59.7%は、新しい政治家の登場が切実に必要とされていると答えています。18.5%は、新しい政治家の登場は重要だが、今後のウクライナの発展にとって決定的ではないという回答。8.1%は、その必要性はとくにないという立場でした。残り13.7%は無回答。
具体的に、次世代の政治家のうち誰を支持するかを尋ねたところ、チヒプコ:24.7%、ヤツェニューク:14.2%、フリツェンコ:8.5%、コロレウシカ:6.3%、チャフニボク:4.0%、シュフリチ:2.2%、キリレンコ:1.7%、カテリンチューク:1.1%、パバト:0.9%といった名前が挙がった。他の名前を挙げた回答者が3.6%、「1人もいない」と答えた者が40.3%、回答困難が8.7%だった(注:合計すると100%を上回るので、複数回答が可能だったのではないかと推察される)。
以上です。蛇足ながら、1人だけ女子がいたので、気になってチェックしてみました。4番目のコロレウシカさんですね。1975年生まれで、ティモシェンコ・ブロック所属。ティモシェンコと2人で写っている2ショット写真が多く、ひょっとしたら側近なのかもしれません。ティモシェンコ2世みたいな感じで、今後出てくる人かもしれないので、写真載せておきます(でも、やっぱティモの方が…)。
(2010年3月15日)
このところ色々あって、ウクライナ政局のウォッチをしばらくサボっていたわけですが、久しぶりにウニアン通信のサイトを念入りに見たら、やばい、面白そうな記事が多すぎる。とりあえず一通り印刷したら、山のようになってしまいました。とても消化できない。
とりあえず、簡単なやつから、紹介してみたいと思います。やはりユーシチェンコ前大統領の権威は決定的に失墜していたということを裏付ける世論調査結果です。ラズムコフ・センターが2010年2月26日から3月2日にかけてウクライナ全国の成人2,010人を対象に実施した世論調査の結果を、ウニアン通信が伝えているものです。
これによれば、ユーシチェンコの大統領在任中の活動を1(最低)から5(最高)の5段階で評価してもらったところ、回答者の平均値は2.17でした。
ユーシチェンコ大統領の活動を完全に支持するという回答者(つまり上記の5点ということだと思いますが)は、2005年2月の48.3%から、2010年2月には2.8%に低下。逆に、支持しない回答者(たぶん1と2ということじゃないかと思いますが)は、23.3%から73.6%に増加。
過去3代の大統領のうち、最良の政治家だったのは誰かを問うたところ、クチマ:32.6%、クラフチューク:12.6%、ユーシチェンコ:10.6%という結果でした(誰も挙げなかった回答者が44.1%)。
ユーシチェンコの今後の身の振り方について回答者に尋ねたところ、政治活動からも社会活動からも身を引くべきだ:43.2%、社会活動に従事すべきだ:20.5%、法廷で裁かれるべきだ:12.0%、今後も政治活動を続けるべきだ:11.3%という結果。ただ、2005年2月にクチマについて同じ質問を回答者に問うたところ、35.3%が法廷で裁くべきと回答しており、この点に限っては、ユーシチェンコへの風当たりはそれほど厳しくないと言えなくもない…。
要するにユーシチェンコは、クチマのような犯罪的な存在でこそなかったけれど、無為無策や指導力のなさで国民の期待を完全に裏切った大統領という評価でしょうか。
(2010年3月15日)
インタファクスによれば、最高会議で「競争力と改革のために」と称する新たな会派(議員グループ?)が結成された模様。無所属、ティモシェンコ・ブロックおよび我らがウクライナに所属していた議員のうち、新たな多数派連立に加わった14名が加入するとのことですが、まだその具体的な顔ぶれは明らかになっていないとのことです。
まあ、先日述べたように、地域党が一本釣りで数合わせをやって新たな連立内閣をつくったわけですが、釣られた側もバラバラなままではみっともないし存在感も発揮できないので、新たに枠組みをつくることになたのではないでしょうか。
ただ、日本でも以前問題になったように、党名簿の比例代表で選ばれた議員が、勝手に所属を変えていいのだろうかという疑問は残りますが。
(2010年3月14日)
記事がだいぶ増えたので、目次を作成しました。数えたら、もう82本目の記事になるんですねえ。一文の得にもならないのに、書きも書いたりという感じです。終焉ムードが漂う本コーナーですが、せっかくだから100本めざしてがんばるか!
さて、首相に就任したアザロフ氏、本コーナーでは事前にプロフィールを掲載するなどその人物像の紹介に努めてきましたが、今後のウクライナの経済的舵取りが同氏の双肩にかかってくるだけに、もっと詳しくその人となりを知りたいところです。ウニアン通信に、これまでアザロフ氏が税制の分野で残してきた足跡についての論評記事が出ていましたので、今回はそれを抄訳して紹介したいと思います。
* * * * *
アザロフがドネツィクの党・経済活動家という枠を越え、有名人になったのは、最高会議予算委員会の委員長に就任した1994年のことである。ただ、当時は予算委員会は現在ほど重要ではなく、その委員長になることは駆け出しの議員だったアザロフにも可能だったのだ。当時は、アザロフの執務室に全員が集まって委員会を開催できたほどである。1990年代末にティモシェンコが同委員長に就任して大車輪の活躍を見せてようやく、同委員長は花形ポストになり、党の領袖の推薦なしには就任できなくなったのだった。現在は、30名の委員全員を収容するのには、大会議室が必要である。
当時はまだ、アザロフが炭坑測量専門家であり、ロシア・トゥーラの炭鉱で職歴を始めたということを気にする者は誰もいなかったので、アザロフは国の財政政策を掌握することができたのである。当時すでに、アザロフはクチマ大統領と親しくなり、次第に税制そのものよりも、その行政管理に没頭するようになる。
1996年8月22日、クチマ大統領は「ウクライナの国家税金行政と地方国家税金行政について」と題する大統領令に署名する。これには、若く野心的な最高会議税制・関税政策委員会メンバーのテレヒンが尽力したと言われている。ところが、大統領令には、リベラル派のテレヒンにとっては受け入れがたい
一節が盛り込まれていた。「ウクライナ国税庁は、執行権力の中央機関である」というもので、それを入れさせたのは誰あろうアザロフだったといわれている。目的は、自らがその長官に就任することであり、1996年10月1日にそれが現実となった。
それまでは、「ウクライナ国税総局」という地味な組織が、徴税を担っていた。総局は財務省の下部組織であり、局長のイリインは財務次官を兼務していた。
アザロフは、国税庁幹部が働くための小粋な庁舎をリヴィウ広場に建設させた。地味なビルで、対外経済関係省(当時)の連中と一緒に仕事をしたくなかったからである。その国税庁関係者の間で伝説として語られているのは、アザロフは国税庁を、ウズベキスタンのそれをモデルとして創設したという話である。何でも、クチマ大統領とともにウズベクに出張したアザロフは、彼の国の歳入省が首都中心部の瀟洒な庁舎に入居し、「武力省庁」のステータスをもち、職員は制服を着用し、大臣がカリモフ大統領の直轄であるのを見て、感銘を受けたというのだ。
真偽のほどはさておき、
アザロフによって創設された国税庁は実際に完全な武力省庁となり、同大統領令により内務省から人材の一部を引き抜くこととなった。ウクライナ国税庁は無制限の権限をもつ組織として、ウズベク型かどうかは別としても、少なくとも欧米のどの国の徴税機関とも趣の異なる存在となった。欧米では、徴税機関は財務省の黒子に徹し、そのトップのステータスも決して高くはないのだが。
アザロフは国税庁長官時代、冷淡でおぞましい行政官として、自らの悪名を高めた。具体的には、@政敵を容赦なく攻撃する古典的な抑圧組織を形成した。A納税者からの罰金を30%天引きし、それを国税庁の活動に流用、リヴィウ広場の庁舎もそのカネで建てた。B国税庁職員の制服の導入に、異常なまでにこだわった。
アザロフは2度にわたる入閣時に、厳格で容赦ないリーダーという世評を受け、「評価の分かれる」決定を無数に下している。今でもその重荷が重くのしかかっているのは、2004年9月に、鉄鋼大手クリヴォイロシスターリが最初に民営化されてピンチューク氏がそれを落札した際に、その売却収入を年金の大幅引き上げに使ってしまったことである。ザイチューク年金基金総裁と一緒にジトー
ミル州に選挙運動に出かけ、その帰り道にこの重大な決定を下してしまったといわれている。工場を売却したいわばあぶく銭で年金を最低生計費水準まで引き上げたわけだが、そのせいで現在に至るまで年金基金は収支を回復できておらず、国家財政からの多額の移転によって穴埋めされている。
その一方、アザロフは、税金逃れの温床となっている「ドネツィク経済特区」の廃止には、一切動こうとしなかった。同特区は、数千トンという食肉を無税で輸入して、それを横流しして利ざやを稼いでいる。
もう一つ、アザロフの所業として悪名が高いのが、付加価値税の還付の未処理である。もっとも、もともとの問題を引き起こしたのはテレヒンが起草した2000年の法律であった。同法により税金の恩赦が導入され、納税者の付加価値税未払いが帳消しか繰り延べされたのに対し、付加価値税の還付の帳消し・繰り延べを「忘れてしまった」ので、付加価値税の不足が生じ、ウクライナ流の還付の不履行という事態となったわけだ。ただし、この問題を、その後の恣意的な行政的・財政的えこひいきで悪化させてしまったのは、アザロフだ。
アザロフは簡易課税制度に秩序を導入しようとし、それが多分に「アザロフ主義」という言葉を生んだのだが、この問題も個々に説明する必要がある。簡易課税制度は、1998年に合法化されて以来、ウクライナにおいては独自の対極に、巨額の所得を課税逃れするためのブラックホールと化した。たとえば、路線タクシーのオーナーは夜に売上げを運転手からキログラム(?)で徴収し、月に一回200グリブナの統一税を払う。スーパーマーケットチェーンも、統一税で営業し、従業員は雇われ個人事業主として登録されている。こんな制度を存続させる意味があるだろうか? 実際に市場でパンを売っているような個人事業主にだけ適用すべきではないか。
* * * * *
以上です。正直言って、最後の方は話がよく分からず、適当にはしょって訳しました。まあ、要するに、税金の専門家としてはいただけず、むしろ強権的な手法や身びいきで税制を取り仕切ってきたと批判しているわけです。
(2010年3月13日)
大方の予想どおり、地域党のアザロフ氏が首相に決まりました。本日(3月11日)現地時間正午頃、最高会議で承認されたものです。出席議員343名のうち、242名が賛成票を投じました。写真は、アザロフ氏が首相就任を
ヤヌコーヴィチ大統領から祝福されているところです。
ちょっと話を戻しますと、まず3月9日に、最高会議規約法の修正というのをやりました。従来は、議会の多数派は会派の連立によってのみ形成され、各会派が連立に参加するかどうかは会派内の多数決によって決められていました。それが、今回の修正により、議員が個別に連立に参加することが可能となったわけです。この最高会議規約法の修正法案に、235名の議員が賛成し、可決と相成りました。地域党、共産党、リトヴィン・ブロックのほか、ティモシェンコ・ブロックから7名、「我らがウクライナ・国民自衛」派からも6名が賛成に回ったとのことです。
この最高会議規約法の修正が意味するところは、要するに、地域党が、「我らがウクライナ・国民自衛」派の過半数の協力を取り付けられず、同派を会派全体として多数派連立に引っ張り込むことに失敗したということですよね。そこで、法律を変えて、一本釣りに作戦を切り替えたということでしょう。
アザロフ内閣の閣僚の顔ぶれもすでに決まったようですが、注目されるのは、副首相の数の多さ。アンドレイ・クリュエフ第一副首相に加え、ボリス・コレスニコフ、ヴォロディーミル・セミノジェンコ、ヴォロディーミル・シフコヴィチ、ヴィクトル・スラウ
タ、セルヒー・チヒプコ、ヴィクトル・チーホノフが副首相に就任しました。第一も入れると、副首相は7名にも上るわけで。まあ、チヒプコを入れたのは、政権基盤を拡大するという意欲の現われとも受け取れますが。他の人士については、論功行賞という色合いが濃そうで、あまり良い傾向とは思えません。
「我らがウクライナ・国民自衛」派との連立が不首尾に終わった結果、地域党の単独政権という色彩が強まったのかなという印象です。形の上では連立内閣でも、地域党以外は数合わせのためにザコを寄せ集めただけという。まあ、これはあくまでも第一印象なので、もうちょっと情報を収集して分析を深めていきたいと思います。
というわけで、本コーナー、まだまだ終われません。ていうか、ウクライナの政局の混迷なんて、独立以来ずっと続いてきたわけだし、これからも多分ずっと続くということを考えると、常設コーナーに格上げか?
(2010年3月11日)
韓国出張からは無事に帰還しましたが、ソウルで張り切りすぎて、だいぶお疲れちゃんです。このコーナーも、「毎日更新するのだ」と気持ちが張り詰めていた時は苦にならなかったのですが、いったん途切れてしまうと、気持ちを入れ直すのがなかなか難しくて。
で、言うまでもなく、この間の重要な出来事と言えば、ティモシェンコ内閣の不信任案が可決されたことですよね。3月3日の最高会議の本会議で、286名の出席議員のうち、243名が賛成して可決されました。243の賛成議員の内訳は、地域党:172、共産党:27、リトヴィン・ブロック:19、我らがウクライナ・国民自衛:15、ティモシェンコ・ブロック:7、無所属:3だったとのことです。
地域党と共産党は全員が賛成。リトヴィン・ブロックもほぼ全員(20名中19名)が賛成。ティモシェンコ・ブロックは、確か所属議員が156名でしたから、造反が7名というのは、今のところ、そこそこ結束を保っていると言えるかもしれません。問題の我らがウクライナ・国民自衛は、所属議員が72名で、うち15名が賛成というのは、決して多いとは言えません。同派が地域党に簡単になびいてくるような観測がありましたが、今のところどうもそうはなっていないようです。ティモシェンコ内閣の不信任に関しても簡単には支持が取り付けられないのですから、増してや地域党中心の新内閣をつくるとなると、難航するのも当然です。とりあえず、今週が山場という話もあるので、事態の推移を見守りたいと思います。
それで、私は、明日はまた自分の編集している雑誌の締め切り日で、地獄を見ることになりそうです。一両日くらい、また本コーナーも開店休業します。考えてみれば、前回の締め切りが決選投票と重なっていたのですから、あれからもう1ヵ月も経ったということで、2月は短いとはいえ、早いものです。
(2010年3月8日)
3月1日にウクライナ最高会議の国会対策委員長会議みたいのが開かれまして、ティモシェンコ内閣の不信任案を3月3日に採決するということが決まったようです。というわけで、倒閣および新たな連立・組閣に向けた動きが山場を迎えつつあるわけですが、すいません、本日は記事を更新しているヒマがまったくありません。前にも書いたとおり、明日からは韓国出張で、6日まで更新できません。
なんか、決選投票の時もそうだったのですが、このコーナーを立ち上げて以来、肝心な時に限って記事を更新できていないような気がします。決選投票の日には、このコーナー開設以来最高の、1日100近いアクセスをいただいたのに。ちぐはぐだ。
よかったら、代わりにこれでも読んどいてください。
(2010年3月2日)
考えてみたら、大統領が代わったのだから、大統領のホームページもチェックしてみるべきでしたが、
ヤヌコーヴィチ大統領就任以来、一度も見ていませんでした。そうしたなか、ウニアン通信に、大統領ホームページに関する面白い話が出ていたので、それを紹介します。
ユーシチェンコ大統領の時代には、大統領HPのトップページに、ホロドモール(1930年代の大飢饉)のバナーがありました。それが、ヤヌコーヴィチ大統領に代わって、削除されたというのです。これにつきヘルマン大統領府副長官は、「我々はホロドモールの仕事をしているのではなく、今日国民を食べさせるために仕事をしている。これが大統領の優先的なテーマになるのであって、我々はまさにそれについて語りたい。飢餓については我が国は散々語り尽くした」とコメントしたそうです。これについて、「我らがウクライナ・国民自衛」会派のA.パルビー議員は、新大統領がウクライナをロシアの半植民地に変えることを許してはならず、本件をその警鐘と受け止めなければならないと発言しています。
なお、大統領ホームページのもう一つの変化として、ファーストレディー(大統領夫人)のページがなくなったそうです。
ヘルマン副長官によれば、現在のところ大統領ホームページはユーシチェンコ時代と同じスタッフが引き続き管理しているけれど、現在新しいホームページのコンセプトやそれを担う新しい人材を探っているところ、とのことです。
(2010年3月1日)
最新の情報によると、地域党による議会の新たな多数派形成に向けた交渉が、やや難航している模様です。
地域党のV.ルキヤノフ議員によれば、ティモシェンコ内閣の不信任案可決は、すでに「我らがウクライナ・国民自衛」派の45名の支持を取り付けていて、やろうと思えば明日にでもできるが、新しい首相の承認に必要な支持が得られるか微妙な情勢ということらしいです。地域党のアザロフ氏を首相候補とする場合だと、現時点で、過半数に3〜4票足りないということです。
地域党側としては、「我らがウクライナ・国民自衛」派の「ウクライナのために!」派閥との連携を最有望視しているものの、同派閥の側は、連立協定案の中味に難色を示しているとのことです。具体的には、@ロシア語に国家言語のステータスを与える、Aウクライナの非同盟の地位を固定化する(つまりNATOに加盟しないということ)、B議員が個別に連立に加わることを可能にする、という3点がネックとなっているようです。
選挙の勢いのままに、地域党を中心とした議会多数派がわりと簡単に成立するような雰囲気もありましたが、基本政策の段階で、早くも障害に直面しているということのようですね。考えてみれば、当たり前ではありますが。
(2010年2月28日)
もうとっくに選挙は終わって、就任式も済んだのに、このコーナーいつまでやってんだ?と言われそうですが。まだまだやりますよ。少なくとも、新しい内閣が成立するまでは、続けます。
しかし、1月15日に本コーナーを立ち上げて以来、少なくとも1日に1本は記事をアップしておりましたが、今後は多少ペースが落ちることになりそうです。本日も、重要な締め切りがあって(というよりも何日も過ぎている締め切りがあって)、大した記事は作成できません。また、3月3日から6日まで韓国出張でして、その間は更新ができなくなります。まあ、どうでもいいようなことですが、A型なので、こういうことを一応ちゃんとアナウンスしておかないと気が済まないという。
というわけで、ごく簡単な記事です。『ジェーラ』紙のサイトを見ていたら、「
ヤヌコーヴィチの就任式、3人に2人がテレビで観た、70%以上が観た」というような見出しが目に留まりました。すげえじゃん、紅白とかスーパーボールより上じゃんと一瞬思ってしまったのですが、よく読んだらこれは視聴率ではなく、いわゆる「占拠率」の数字のようです。つまり、その時点でテレビを観ている人のうち、何パーセントがその番組を観ているかという数字なわけですね。今回の大統領就任式は、平日の午前中に行われたので、当然テレビを観ている人自体が少ないわけですね。これを視聴率に直すと、14.7%だったということのようです。まあ、それでも、結構高いように思いますが。
参考までに、オバマ米大統領の就任式のテレビ視聴率は、29.2%だったそうです。
今回のウクライナ大統領就任式は、複数のテレビ局で放映されたようです。『ジェーラ』紙のサイトによれば、テレビ局別の視聴率と占拠率は、下表のとおりだったとのことです(合計は私が算出したものです)。ただし、主要ネット局がこぞって就任式を放送するなかで、残りの3割程度の視聴者は、一体何を観ていたのかというのは謎ですが(ローカル局とかケーブル放送の類?)。
記事には、2月の平日には平均で11.5%の国民がテレビを観ているけれど、大統領就任式の放送時にはそれよりも4.1ポイント高い19.6%の国民がテレビを観ていた、と書いてあります。でも、それだと計算が合わないから、2月平日の平均は15.5%なんじゃないですかね?
大統領就任式テレビ放送の各局視聴率と占拠率
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Интер
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9:30
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10:53
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11.5%
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58.6%
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ТРК Украина
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10:00
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10:53
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1.1%
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5.3%
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5 канал
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9:58
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10:53
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1.0%
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4.9%
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Первый национальный
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9:57
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10:54
|
0.9%
|
4.3%
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ТВі
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9:58
|
10:54
|
0.1%
|
0.4%
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Канал 24
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9:57
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10:54
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0.1%
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0.3%
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合 計 |
― |
― |
14.7% |
73.8 |
* GFK Ukraine 社のデータによる。
(2010年2月27日)
ユーシチェンコ前大統領の時代には、大統領の事務方はSekretariatと呼ばれていました。「書記局」といった感じです。私などは、面倒なので、ロシア等と同じように「大統領府」としてしまったりしていました。
ところが、ヤヌコーヴィチ新大統領は就任直後に大統領令を出し、Sekretariatを廃止するとともに、Administratsiya Prezidenta、つまり大統領府を創設することを決定しました。これで訳語に苦労しなくて済む。そしてその長官に、S.リオーヴォチキン氏を任命しました。さらに、I..アキモワを大統領府第一副長官に、A.ヘルマンを同副長官に任命。
ちなみにリオーヴォチキンが起用されたことに関して、地域党関係者の間では、「党の団結につながらない」とか、「リオーヴォチキンがヤヌコーヴィチに接近しているのは、何か弱みを握っているのではないか」とか、疑いの声も出ているようです。ともあれ、同氏のプロフィールは、以下のとおり。
セルヒー・リオーヴォチキン(すいません、ウクライナ語で何と発音するのか、いまいちよくわかりません。L'OVOCHKIN, Serhiy Volodymyrovychなのですが。リオヴォチキン?) 1972年ドネツィク生まれ(キエフ生まれとの情報も)。キエフ国民経済大学卒。しばらく研究を続けたあと、1996年から1999年までビジネスに従事。1998年に最高会議選挙に出馬するも落選。1999年に大統領府に職を得て、2000年春からは大統領付属外国投資問題評議会の書記局長を務める。2002年6月から2005年1月までクチマ大統領の第一補佐官。大統領の信頼が厚かったが、ユーシチェンコ等野党との関係も悪くなかった。2005年1月、リトヴィン最高会議議長の顧問に。2006年の最高会議選挙でリトヴィン・ブロックの比例名簿で出馬するも落選。2006年9月から
ヤヌコーヴィチ首相の書記局長。2007年2月に地域党に入党し幹部に。2007年の最高会議選挙では地域党の名簿で当選。2007年12月、地域党の影の政府で中央銀行総裁に。出所はここでした。
こうやってみると、表舞台では選挙で落選したりうまく行かないものの、水面下で有力者に取り入って出世するのがうまい人なのかなという印象です。
(2010年2月26日)
昨日のヤヌコーヴィチ新大統領の就任式、出席した人、しなかった人を整理しておきます。
まず、歴代の大統領では、クチマ第2代大統領だけが出席し、クラフチューク初代大統領、ユーシチェンコ第3代大統領(前大統領)は欠席。クラフチュークは「出るのは義務ではない」と弁明。ユーシチェンコは「就任式が終わったあとに会って引継ぎをやればいい」と述べたそうです。ちなみに、ユーシチェンコ前大統領の2005年の就任式には、クラフチュークおよびクチマが両方出席しました。
V.マソル、V.フォキン、Ye.マルチュークといった元首相たちは姿を見せました。
ティモシェンコ首相と、その側近のトゥルチノフ第一副首相は、もちろん欠席。ただし、ティモシェンコ・ブロック以外の政党に所属する閣僚は、出席していた模様。
首相候補の1人として名前の挙がっているチヒプコは、「招待を受けなかったから出席しないが、もし招待されたら行っていただろう。選挙が終わったら、すみやかにその結果を認めるべきだ」と発言したそうです。
大統領選挙で敗退した主要候補のなかでは、リトヴィン最高会議議長が出席。当たり前か、進行役だから(笑)。
外国の元首では、確認されている限り、ベラルーシ、アルメニア、ラトビア、ポーランド、ハンガリー、モンテネグロの大統領が出席。モルドバは大統領代行。ロシアからはグルィズロフ下院議長が出席。米国はジョーンズ安全保障問題大統領顧問。EUからは外務・安全保障政策上級代表のアシュトン女史。また、ブゼク欧州議会議長、チャヴショグルPASE議長が出席。アゼルバイジャン、カザフスタン、タジキスタン等は首相を派遣。
ヤヌコーヴィチの家族では、妻が、孫を連れて出席。ファーストレディーの姿は、下の写真でご確認ください。
(2010年2月26日)
就任式は無事挙行され、ヤヌコーヴィチは晴れて、ウクライナの第4代大統領となったようです。本当だったら、もっと真面目にレポートすべきことがたくさんあるのですが、私のツボにはまるネタを見付けてしまいました。2月18日の記事で、
ヤヌコーヴィチの父方の祖先がベラルーシ人であるというネタをやりましたが、正確な情報を突き止めました。というか、わりとよく知られた話なのかもしれませんが、遅ればせながら私は初めて知りました。
ヤヌコーヴィチの祖先は、ベラルーシ北東部の出身です。具体的には、ヴィテプスク州ドクシツィ地区の、
その名もヤヌキ村
というところです。そうか、そうだったのか、ヤヌキ村の一族だから、ヤヌコーヴィチという姓なのか。これは、思っていた以上に、ベラルーシ度が高いぞ。
ウィキペディアでは、ロシア語版や通常ベラルーシ語版ではヤヌキ村の記事がありませんでしたが、タラシケヴィツァのベラルーシ語版とポーランド語版では記事がありましたので、だいたいのところは分かりました。地図は、タラシケヴィツァのページに出ていたもので、赤い丸がヤヌキ村の位置です。まあねえ、なんと言ってもただの村ですから、特記すべきことは何もないのですが。驚いたことに、2010年現在の人口は、わずか4人だそうです。人口4人の村でも、ウィキペディアにかろうじて記事があるのは、やはり
ヤヌコーヴィチの故地だからでしょう。
この村で生を受けたウラジーミル・ヤヌコーヴィチ(大統領の祖父)が、第一次世界大戦の頃に、職を求めてドンバスに移住。大統領の父は、ドネツィク州で生まれ、家庭を設けて、そこでヴィクトル・
ヤヌコーヴィチ現大統領が生まれたということのようです。
なお、ヤヌコーヴィチはこれまで2度にわたって(2003年と2006年)、ベラルーシのヤヌキ村を訪れているそうです。とくに2006年の訪問は、ちょっとした物議を醸しました。当時首相だった
ヤヌコーヴィチは、CIS諸国首相会議に出席するためにベラルーシのミンスクを訪れていたのですが、その翌日にウクライナでホロドモール(1930年代の大飢饉)の追悼式典が行われるにもかかわらず、「明日はヤヌキ村で先祖の墓参りをしたい」とか言って、本国の式典に駆けつけなかったのです。日本で言えば、原爆の日や終戦記念日の式典への参加を断ってしまうようなものです。
その際にヤヌコーヴィチはホロドモールのことを、「ウクライナの国民だけでなく、ロシア、ベラルーシ、中央アジア、一部の南コーカサス諸国の国民にとっても、歴史の暗部だ」と述べています。政治がかった式典よりも先祖の墓参りを選ぶということであれば、それなりの見識と思えなくもないのですが……。ただ、実はヤヌキ村から程近いところに、ブラスラフ諸湖というベラルーシのハンティングのメッカがありまして。どうやら、そこで狩りをするのが、
ヤヌコーヴィチの真の目的だったようなのです。現に、ヤヌコーヴィチはベラルーシへの出張にハンティング用具一式を持っていったそうで、ベラルーシのシドルスキー首相と2人でヘリに乗って現地に飛び、「貸し切り」で狩りをしたみたいです。なんともやは。情報源はここと、ここ。
忙しくて、こんなこと書いてる場合じゃないのに、モロに自分好みのネタだったので、ついやってしまいました。
(2010年2月25日)
本日2月25日は、いよいよウクライナの首都キエフの最高会議で、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ新大統領の就任式が開かれる日ですね。現在時刻は日本時間の午前7時ですから、まさにウクライナでも日付が変わる頃です。就任式は現地時間10:00だそうですから、日本時間では17:00です。
注目は、まず国内の政治家でボイコットしたりする向きがどれくらいいるか。クラフチューク初代大統領は出席しないなどと伝えられていますが、ティモシェンコ首相と閣僚、ティモシェンコ・ブロックの議員たちはどうするのか。
次に、外国の首脳はどのくらい訪れるのか。24日現在、11の国の元首、4つの国際機関のトップ、15ヵ国の外相、4ヵ国の国会議長が参加を決めているとのことです。メドヴェージェフ・ロシア大統領は未定ということでした。ルカシェンコ・ベラルーシ大統領の出席は確定しています。
最後に、ヤヌコーヴィチが、宣誓や、就任演説を、苦手なウクライナ語で噛まずにやれるかということでしょうか(笑)。
今日は忙しいので、これくらいで。
(2010年2月25日)
K.ボンダレンコという専門家(ホルシェニン記念マネジメント問題研究所所長)が、ヤヌコーヴィチ政権の誕生につきコメントした記事が出ていますので、その内容を紹介します。
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新大統領の下でウクライナ・ロシア関係は、実利的な原則で展開する。ヤヌコーヴィチをクレムリンの操り人形のように見ることは正しくない。ヤヌコーヴィチはおそらく多元外交の推進者となり、現時点ではそれがウクライナにとって唯一の可能性のある路線である。ヨーロッパかロシアの一方の側に少しでもバランスを崩すと、国内の収拾がつかなくなり、
ヤヌコーヴィチはそれを理解している。 |
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おそらく、ロシアへの例外的な譲歩となりそうなのが、ガス輸送コンソーシアムの創設と(ただし、それはロシアの要求しているような方式にはならない)、仲介業者「ロスウクルエネロゴ」の復活。 |
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ロシア語を国家言語に加えるかという問題は、向こう20〜30年論争が続くと予想され、ヤヌコーヴィチが解決することはできない。 |
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ロシア黒海艦隊がセヴァストポリに駐留しているのをどうするかというのは、駐留期限が切れる2017年の問題である。ヤヌコーヴィチの任期は2015年までであり、本件を解決するのは後任の大統領であろう。もっとも、2017年後もロシア軍がクリミアに駐留することを支持するウクライナ国民は、17%と圧倒的少数派だが。 |
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人文系の政策において、ヤヌコーヴィチは、ウクライナとロシアを離れさせてしまうような歴史・文化の問題に、あまり重点を置かなくなるのではないか。ただし、ウクライナの経済的優先事項やウクライナ資本の利益を守るという点においては、新大統領はかなりタフになるだろう。ユーシチェンコのエスニック的なナショナリズムに代わって、
ヤヌコーヴィチの経済的ナショナリズムが到来する。 |
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ヤヌコーヴィチがティモシェンコに勝利したことは、メドヴェージェフ・ロシア大統領がプーチン・ロシア首相に勝利したことも意味する。一つには、プーチンがあからさまにティモシェンコを支援していたからである。もう一つは、ロシア側で天然ガスが再び首相ではなく大統領一派の専権事項および主要ビジネスになるからだ。 |
という感じです。ボンダレンコ氏が「ヤヌコーヴィチの経済的ナショナリズム」と述べたものを、見出しては語呂良く「エコノナショナリズム」にしてみました。ナイスでしょ。
(2010年2月24日)
大統領選挙の結果も確定し、連立・組閣に焦点が移っています。一見、「大団円」を迎えつつあるかのように見えますが、本当に大変なのはこれからで、様々な政策で難題・難問が山積しています。
最重要な争点の一つが、ロシアとの関係再構築であることは間違いありません。そうしたなか、ロシア・ベラルーシ・カザフスタンで形成する関税同盟に、あるいはウクライナが参加するのでは?という問題が、注目を浴びています。2月17日付のロシア『コメルサント』紙に、その問題を扱った記事が出ていますので、要約して紹介します。
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本紙が得た情報では、ヤヌコーヴィチのチームは、関税同盟への加盟交渉を始める準備をしている。ウクライナが加盟を表明するようなことがあれば、同盟内部のエネルギー問題の交渉でロシアの立場が複雑なものになろう。ベラルーシは、関税同盟の春の交渉では、ロシアの輸出関税の問題が最優先議題だとしている。ベラルーシ外務省は、石油および石油製品を、単一関税空間の例外扱いすべきでないと主張している。 |
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ウクライナ政府でヤヌコーヴィチに近い経済省高官が本紙に語ったところによると、ヤヌコーヴィチ・チームはすでに関税同盟加盟の準備をしている。同高官によると、ウクライナはすでにWTO加盟国であるが、外国の大企業はウクライナを独自の市場と見ず、ロシア・ベラルーシ・カザフと一体の貿易・投資対象と捉えており、そこで
ヤヌコーヴィチらは関税同盟加盟の準備を進めているとのことである。別の政府筋も、この情報を認めた。 |
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ウクライナが関税同盟に加入する可能性は、ティモシェンコ現首相も指摘している。ティモシェンコは「我らがウクライナ・国民自衛」派との会議の席で、それを指摘した。「我らがウクライナ・国民自衛」派のフリツェンコによれば、ティモシェンコは反響を狙ってそう発言したのではないか、ティモシェンコはロシアと合意するのであればロシア側がガスを20〜30%値下げするなど歩み寄る必要があると説明した、とのこと。 |
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地域党の関係者は、関税同盟参加の情報につき、より慎重に認めている。彼らによれば、ウクライナは関税同盟の完全な加盟国にはならず、経済統合を進めることが課題だという。地域党のキナフ元首相は、関税同盟は重要な統合プロジェクトで、我々はいずれかの段階で国益にもとづきそれに参加するが、我々はWTO加盟国であるだけに、完全な加盟ということにはならない、と語る。 |
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最高会議の国際経済政策小委員会のポロトニコフ委員長(地域党)も、そうした情報は知らない、そうした情報には冷静に接するべきだ、ウクライナはWTO加盟国としてそうした関税同盟にはWTOの原則に反さない範囲内で参加が可能だろう、と指摘。ちなみに、関税同盟の諸規則は形式的にはWTOの原則に直接反する規定を含んではいないが、3国はすでに関税同盟としてWTOに加盟すると表明しており、それが実現することが関税同盟がWTOに合致しているという公式的な認定と見なされることになろう。ちなみに、ロシア・ウクライナ間の自由貿易条約は実質的に死に体だが、それを復活させることは、事実上、ウクライナが関税同盟に部分的に参加することと同義である。ロシアがウクライナに与えた譲許が、7月1日から必然的に関税同盟の他の国にも適用されざるをえないからである。 |
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ウクライナ現政府も、関税同盟への加盟には懐疑的である。ある政府委員会の関係者は、親ロシア的と見られたクチマでさえ、関税同盟には加盟しなかった、それは関税同盟がロシアの経済的拡張につながることを知っていたからだ、政治家だけでなく実業界からも反対されるので
ヤヌコーヴィチも加盟しないだろう、と指摘。関税同盟事務局も、キエフからは何の反応もないとしている。 |
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関税同盟参加問題が、ウクライナ・EU・ロシアによるガスパイプラインコンソーシアム構想とどのくら関連しているのかは不明。ただ、関税同盟から何らかの貿易体制上の譲歩を引き出すことが、そうしたコンソーシアムに同意する見返りとなりうることは確か。2003年、
ヤヌコーヴィチが首相だった際には、コンソーシアムとCIS共通経済空間が、直接的にリンクされた。ただし、ウクライナと関税同盟の接近というシナリオが実現するのは、今後の内閣が
ヤヌコーヴィチ大統領の影響下に置かれた場合だけであろう。 |
以上です。個人的に、CISの自由貿易協定だの関税同盟といったテーマは、何年か前にはちゃんとやっていたのですが、最近はご無沙汰していて疎くなっているので、部分的によく分からないまままとめました。
率直に私見を言えば、3国関税同盟にウクライナも加わって4国になるということが、実現するとはまず考えられません。ウクライナにとって、ロシア等との自由貿易にはメリットがありますが、対外的な関税率まで共通化する関税同盟となると、利益よりもオブリゲーションの方が大きくなってしまいます。それでロシアのガスを安く売ってもらえるなら話は別ですけど、ベラルーシも文句を言っているように、ロシアは肝心なエネルギーは例外扱いしようとしているわけですから。もし仮に、ウクライナが関税同盟に加盟したら、その場合は関税同盟が機能不全になるでしょう。ロシア・ベラルーシですら何年もかかってようやく関税率を統一しつつあるのに、ウクライナというそこそこ経済規模が大きく、自己主張も強い国までもが加わったら、統一的な意思決定は不可能です。枠組みを無理やり4ヵ国に広げると(キルギス等が加わりたいという話もあります)、統合の「純度」や「完成度」を犠牲にすることになるでしょう。
(2010年2月23日)
以前、ウクライナ政界の注目人物として、4人の政治家のプロフィールを紹介し、「キーマンの肖像」シリーズとしてお届けしました。4人で完結したつもりでしたが、下の記事で見たように、地域党のアザロフ氏が首相に起用される可能性が出てきました。同氏が首相に正式に決まった時に、このコーナーに詳しい記事がないのは名折れですので、ここでプロフィールを整理しておきます。
出所は基本的に、http://file.liga.net/person/6.html です。
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ミコラ・アザロフ Mykola
Yanovych Azarov
バックグラウンド 1947年12月17日、ロシア共和国のカルーガ市生まれ。1971年モスクワ国立大卒、専門は地質学・地球物理学。
キャリア モスクワ国立大学卒業後、1971年から1976年にかけてトゥーラウーゴリ」コンビナートで働く(ロシア共和国トゥーラの石炭企業)。1976年〜1984年、モスクワ郊外石炭研究設計所で研究職。1984年から1995年にかけて、ウクライナ石炭省鉱山地質・地質機械・鉱坑測量研究所の副所長、所長を務める。1994〜1998年、ウクライナ最高会議議員、予算委員会委員長。1996年から2002年にかけて、国税庁長官を務め、その関連の各種の役職もこなした。2002年11月から2005年の2月まで、アザロフは第一次
ヤヌコーヴィチ内閣で、第一副首相・蔵相を務める。政府の多くの委員会、調整会議の議長役も務めた。2006年春に議会選挙で当選すると、予算委員会の委員長に就任。2006年8月4日、第二次
ヤヌコーヴィチ内閣で再び入閣し、第一副首相・蔵相となった。2007年11月からは、地域党所属の議員であり、地域党の影の内閣の蔵相。
政見 2005〜2006年のティモシェンコおよびエハヌロフのオレンジ内閣を、体系性がなく無能だとして厳しく批判、第二次
ヤヌコーヴィチ内閣はその誤りを正さなければならないから大変な仕事になると発言していた。ただし、自らが内閣に復帰してからは、政敵や多くの評論家から激しい批判を浴びることになる。
地域党での地歩 アザロフは、いわゆる「古参ドネツィク派」に属する。2003年4月から、地域党の政治評議会の議長を務めている。最近まで、地域党で最も影響力のある人物と考えられていた。2006年夏の連立交渉や、2007年の政治危機収拾の際に、アザロフが地域党を代表して交渉に当たった一人であったことも偶然ではない。2008年春の地域党の大会で、多くの若手に副党首のポストが与えられたのに対し、アザロフには与えられなかった。アザロフは政治評議会幹部会、中央統制委員会委員長のポストを得たものの、最近では地域党での影響力が低下しているとの指摘もある。
学者として 地質・鉱物学博士(1986年)、教授(1991年)、ウクライナ共和国科学アカデミー準会員(1997年)。著作は112以上に上り、『ウクライナ楯状地およびドンバスの金鉱床の地質モデル』『税金のすべて』などの共著がある。
プライベート 妻と、息子1人。趣味は絵画、読書。
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以上です。ご覧のように、ロシア生まれであり、ちょっと確認できなかったのですが、民族的にもロシア人ではないかと思われます。地質学を専攻し、石炭の仕事をするようになって、石炭産地であるウクライナに赴任したところでソ連が崩壊、その結果としてウクライナ国民になったということでしょう。ただ、その後、政治家に転身してからは財政や税務分野での仕事がメインになっており、石炭と税金という、かなり色合いの違う2つの専門分野をもっているということになります。
(2010年2月22日)
現地ウニアン通信によれば、
ヤヌコーヴィチ次期大統領は2月21日、テレビでのインタビューで、首相候補として3人を検討しているとして、その具体的名前を挙げました。
セルヒー・チヒプコ、アルセニー・ヤツェニューク、ミコラ・アザロフの3名です。最終的な選択は後日、最高会議での連立形成の過程で行うと述べたそうです。
この3人は、本コーナーでたびたび触れてきたので、ここではその人となりについて詳しくは語りません。
アザロフは、地域党の経済政策通として、首相候補という呼び声の高かった人物ですので、地域党中心の政権の首相としてはきわめて妥当な人物です。それに対し、
チヒプコ、ヤツェニュークを選択した場合は、改革派や西ウクライナにも気配りし、より広範な政権基盤を築こうという意欲の表れと受け取れます。ただ、その反面、
チヒプコやヤツェニュークが首相では、大統領と首相の対立というウクライナ政治のお決まりの構図が再燃するリスクも大きいでしょう。
興味深いのは、この段階で、あえて首相候補を名指ししたということです。チヒプコやヤツェニュークの名前を出し(逆に言えばコレスニコフのような地域党強硬派の名前を出さないことで)、「我らがウクライナ・国民自衛」派に安心感を与え、連立工作をスムーズに進めるといった思惑があるのかもしれません。
(2010年2月21日)
最高行政裁判所での審理が始まってから2日目の2月20日、ティモシェンコは法廷に姿を現しましたが、裁判所に対して自らの提訴を取り下げる旨を表明しました。自らの提出した証拠の一部を裁判所が採用しないなど、真摯な審理が行われるとは期待できない状況で、このまま法廷闘争を続けても意味がないことから、提訴を取り下げるという説明でした。その後の記者とのやりとりでティモシェンコは、本件を審議できるのは最高行政裁判所だけなので、最高裁に持ち込むこともしないと発言しました。
同日、ヤヌコーヴィチが法律的にも大統領と確定したとこを受け、ユーシチェンコ大統領はヤヌコーヴィチに電話を入れ、祝意を伝えました。また、2月25日に新大統領の就任式を挙行する大統領令にも署名。
ティモシェンコが提訴取り下げを表明しても、最高行政裁判所の審理は続けられるとの見方もあったものの、20日夕方になって同裁判所はティモシェンコの取り下げを認め、本件提訴は審理されないまま停止されたという扱いになりました。これを受け、中央選挙管理委員会が、
ヤヌコーヴィチを当選者と認めた最終結果の効力を復活させました(ティモシェンコの提訴を受け一時的に効力が停止されていた)。
かくして、ヤヌコーヴィチの当選は、完全に確定しました。2月25日に、第4代ウクライナ大統領が誕生することになります。
私はウクライナの特定の党派や政治家に与するものではありませんが、ティモシェンコの法廷闘争が短期間で終わり、混乱が長期化しなかったことは、良かったと思います。ティモシェンコは、1日でも長く首相の座に留まって影響力を保持するために裁判所に訴えたという見方がもっぱらでしたが、わずか2日で提訴を取り下げたところを見ると、むしろ自らの負けを認めないという姿勢を示しておくことに主眼があったのではないかと思われます。つまり、今後も、2010年の選挙結果は改竄だった、本当に勝ったのは
ヤヌコーヴィチではなく自分だった、現に司法にも訴えたのだが、我が国裁判所は腐敗しているのでそこでも公正な判断は得られなかったと、そう言い続けるための既成事実づくりが目的ではなかったかと思われるわけです。
大統領選挙のたびに、負けた側がゴネて、その結果が裁判で争われるという、悪い先例にならなければいいのですが……。ティモシェンコに比べると、ユーシチェンコの引き際は爽やかでした(得票率5%じゃ潔く去るしかないか)。
(2010年2月21日)
ティモシェンコが大統領選挙決選投票の結果が不正であったと訴えた裁判の審理が、2月19日、最高行政裁判所でいよいよ始まりました。
正直、こういうことをあまり細かくフォローする気にはなれないので、ウニアン通信のサイトから拝借した写真を載せるだけにとどめます。
君には笑顔の方が似合うよと言いたいですが。
(2010年2月20日)
昨日の続きです。最初のポペスクって、明らかにルーマニア系の苗字ですね。ウクライナは苗字のタイプのバリエーションが豊富で楽しい。
出所→http://www.unian.net/rus/print/363446
I.ポペスク(
地域党所属の最高会議議員):ヤヌコーヴィチの対外政策は実利的なものとなる。経済要因が重きをなすだろう。すべての面においてそれを推進していくが、その際に特別に敵を作ったりすることは避ける。我々に敵はおらず、あるのはただ、戦略的パートナーたちである。隣国はすべて戦略的パートナーだ。これにより、東でも、西でも協力関係を築くことが可能になる。ロシアとも(ロシアは我が国製品にとっての良い市場)、EUとも米国とも良好な関係を築く。中国、インドといった、我が国製品の販売市場となりうる他の国にも目を向ける。
A.スシコ(欧州大西洋協力研究所、研究部長):ヤヌコーヴィチが行政府に対しどれだけのコントロールを利かせられるかが鍵となる。地域党単独の内閣となるのか、「我らがウクライナ・国民自衛」会派と妥協的な連立内閣をつくるのかで、対外政策もかなり変わってくる。
ヤヌコーヴィチは、自分の足場が弱い地域で、てこ入れを図るだろう。したがって、最初の外遊が、ヨーロッパになる可能性もある。ロシアとの関係に関しては、ロシア側が問題視している点について、譲歩する可能性があるが、それは主として文化・歴史面での政策だろう。
ヤヌコーヴィチはユーシチェンコなどと違ってウクライナの国家理念的なことには無頓着なので、そうした政策での対ロシア譲歩はありうる。NATO問題での
ヤヌコーヴィチの立場は、ロシアにとって悪くないものになりそう。ウクライナは近いうちにNATOには加盟しないというものだが、それはヤヌコーヴィチの政策というよりは、現実を言い表したものにすぎない。大西洋統合の支持者は、せめて
ヤヌコーヴィチが既存の枠組みだけでも維持するように願っており、彼らにとってもヤヌコーヴィチのこのスタンスは最悪なものではない。ガスパイプラインを管理するコンソーシアムの問題が再燃しているが、コンソーシアムという言葉自体に内容はなく、いかようにでもできる。幹線パイプラインを他国に譲渡できない法律があり、
ヤヌコーヴィチはよもや、国の戦略資産を外国に明け渡した人物として歴史に残りたくはないだろう。ヤヌコーヴィチが既存のガス協定を見直すと言っているのも、内容は不明。不透明な仲介業者が復活したりするのか。すべては、どのような政府ができるか、誰がガスビジネスを仕切るのかにかかっている。ロシア・EUを巻き込んだ3者間のガスコンソーシアムは、ロシアにもEUにもメリットはなく、非現実的。EUそのものではなく、ガスプロムの息のかかった個別企業ということであれば、ロシアは乗り気だろうが。6年前の合意が再び持ち出されたが、すでに時代は変わってしまったという印象。ポロシェンコ現外相がそのポストに留まることは難しそう。
ヤヌコーヴィチには、外相に据えたい自派の人材がいるから。ポロシェンコが、議会の連立形成に貢献できれば話は別だが、彼には議会への影響力は大してない。可能性が高いのは、クチマ政権末期の外相で、現ロシア大使のK.フリシチェンコや、地域党の影の内閣で外相だったL.コジャラ。これも、内閣がどういうものになるかということ次第。我らがウクライナ・国民自衛派との連立になれば、妥協的な人物を選ばざるをえない。自分としては、党派色の濃い酷い人物にはおそらくならないと思う。
H.ウドヴェンコ(1994〜1998年に外相):ヤヌコーヴィチは当選発表後の発言で、CISとの接触を強化し、そこでの活動を活発化すると発言したが、CISって何だ? ウクライナ最高会議はCIS加盟協定を批准しておらず、単にその活動に参加しているだけ。
ヤヌコーヴィチはロシアとの関係を進化させると発言しており、結構なことだが、それは同国との「友好・協力・パートナーシップ条約」にもとづくべきで、自分としては「パートナーシップ」に力点を置きたい。ロシアに追従する必要はない。ウクライナのEU加盟については、おおよそのコンセンサスが形成されている。ちなみに
ヤヌコーヴィチ自身、首相時代に、それを活発に推進した。ただ、本件に関しては、ヤヌコーヴィチ云々の問題ではなく、ウクライナは将来的にEUに加盟できるよう、EUに対する義務を粛々と実行するだけである。
ヤヌコーヴィチの発言から判断すると、ウクライナはEU加盟の路線から逸れてしまいそうであり、増してやNATO加盟についてはさらにそうである。NATO問題につき
ヤヌコーヴィチは、決めるのは国民だと明言している。むろん、現時点は、国民投票などは時期尚早であり、まず我々が何を望むのか、NATOがどんな支援をできるのかを、検討すべき局面である。当然のことながら、
ヤヌコーヴィチは、自らの対外政策を支持する自派の人間で組閣をしようとするだろう。
以上です。客観的な分析を披露してくれたのはスシコ氏だけで、あとの人たちはどちらかというと党派的な発言で、あまり面白くありませんでした。
(2010年2月20日)
ウニアン通信お得意の識者コメント集のシリーズで、ヤヌコーヴィチ新大統領の下でウクライナの対外政策がどうなるかというやつが出ていましたので、要旨を整理して紹介したいと思います。
出所→http://www.unian.net/rus/print/363446
B.タラシューク(1998〜2000年と2005〜2006年に外相、「我らがウクライナ・国民自衛」派議員):ヤヌコーヴィチの従来の発言からすると楽観は禁物。対外政策はクレムリン寄りになり、クチマパート2のようになる可能性がある。長年のNATOとの協力を台無しにするような政策がとられ、すでに法制化されている加盟方針は反故にされるだろう。
ヤヌコーヴィチはガスコンソーシアムに参加し、ロシアが我が国の基幹ガスパイプラインにアクセスすることに賛成の構えだが、これも法律違反である。さらに、
ヤヌコーヴィチは決選投票直前、ロシアがウクライナ迂回パイプライン「ノースストリーム」を建設することを支持する旨発言しているが、これはガストランジット国としての我が国の存立を脅かすもので、不適切と言う他ない。EUは今後も東方パートナーシップに活発に参加するようウクライナに提案し続けるだろうし、EUのなかのウクライナ・シンパは、連合協定交渉が本年完了することもあり、EUがウクライナに歩み寄るべきだと主張してくれるだろう。ウクライナのEU加盟に懐疑的なドイツ、フランスなどは、(
ヤヌコーヴィチの当選で)ウクライナの加盟問題という難題から解放されて、大喜びだろう。EUへのビザなし渡航に向けた交渉も、ご破算になる恐れがある。新政権の下で、ウクライナの国益よりも、クレムリンの意向に沿った対外政策が打ち出される懸念が非常に強い。
H.ペレペリツァ(キエフ国民大学教授):ヤヌコーヴィチの発言から判断すると、ウクライナ独立以来とられてきた対外政策路線を変更しようとするだろう。親欧州から、親ロシアへの転換だ。ロシア中心の共通経済空間のような死滅して久しいプロジェクトへの復帰が言われているのが、その証拠である。ロシア黒海艦隊駐留の延長、NATO加盟の中止といったこともある。地域党は、EUとの関係を発展させるなどと発言しているが、それは近隣諸国政策の範囲内だ。ちなみに、ウクライナの加盟推進は、EU自体がすでに取り下げてしまっている。EUが昨年、ウクライナに東方パートナーシップを提案した際には、近隣諸国政策の枠内ではあったが、ウクライナを欧州に統合させるより広範なツールとなるものだった。しかし、ウクライナ中央選管が
ヤヌコーヴィチの当選を発表すると、西側の政治家はこぞって祝辞を送っており、メドヴェージェフ・ロシア大統領もこれに続いた。ウクライナがロシアの影響下に戻ることを、西側が何とも思っていない証拠だ。西側は変わってしまい、ヨーロッパが2つに分裂することを受け入れている。EUおよびNATO拡大の課題は中期的に棚上げとなり、西側は東欧の現状維持を受け入れている。ましてやロシアにとっては好都合。西側は、選挙自体が民主的に行われればそれで満足で、選挙で選ばれた指導者が国をどこに導くのかには無頓着だ。というわけで、展望は暗いわけだが、これはウクライナとロシアの変化の結果というだけでなく、ヨーロッパ自体の変化がもたらしたものでもある。ヨーロッパは拡大に疲れ、自らの価値ではなく、自らの利益に従って行動するようになった。オレンジ革命の際、ウクライナ国民はヨーロッパの価値を掲げて立ち上がったわけで、現状は我々にとって嘆かわしい。ヨーロッパが旧ソ連および中東欧に普及させてきたのは、まさにこの価値なのだが。ロシアが逆コースを歩むなかで、ウクライナは民主化のテストに合格したにもかかわらず、ヨーロッパにとってはロシアのガスで暖房を炊くことの方が、ウクライナの民主主義よりも重要だということが明らかになった。実に腹立たしいことである。ロシアに接近することは、ウクライナの主権・国家性にとって脅威となる。
ひぇ〜、全部で5人の識者のコメントが出ているのに、2人までしかまとめられなかった。もう出社の時間だ。というわけで、この続きは、また次回。今回の2人は、完全に親欧米の立場なので、悲観論や欧米への恨み節が丸出しとなっております。言いたいことは分からないではありませんが、冷徹な分析というよりは、かなり党派的な立場であると理解した方がいいでしょう。
(2010年2月19日)
やはりベラパン通信の記事ですが、今度はウクライナ側の識者の本件に関するコメントです。ただし、2月6日の記事なので、決選投票の結果が出ていない段階での分析ということになります。
M.ポフレビンスキー(キエフ政治研究・紛争センター所長):新大統領の選出で、ウクライナ・ベラルーシ関係は活発化することはありうる。その際に、両国関係の性格は、
ヤヌコーヴィチ・ティモシェンコのいずれが勝つかには、それほど大きく左右されない。大づかみに言うと、ウクライナ新大統領が取り組むべき枠組みに、ベラルーシの存在はない。ベラルーシの対EU問題、対ロシア問題は残り、ベラルーシ・ウクライナ・ヨーロッパ・ロシアという多角形の関係が改善されるうえで、ウクライナは調停者というよりも、パートナーの役回りとなるだろう。この点では、ヨーロッパにとって、
ヤヌコーヴィチよりもティモシェンコの方が、ベラルーシ・テーマを交渉しやすい相手である。トランジットをはじめとするウクライナとベラルーシの共同プロジェクトは、たとえそれがロシアの気に触ろうとも、生き続ける。
ヤヌコーヴィチの民族的なルーツがベラルーシ人であることは、ベラルーシとの関係構築にとって大きな役割は果たさない。彼は民族的な問題には関心がないからである。いずれにしても、ウクライナ・ベラルーシ関係の活性化は、ウクライナ・欧州関係、ウクライナ・ロシア関係の文脈から生じることになろう。
ということですが……。ヤヌコーヴィチが民族的にベラルーシ系などという話は、個人的に初めて聞きました。そこで、ちょっとネットで調べたところ、それらしい情報が、一応ありました。これによると、
ヤヌコーヴィチが、(ウクライナ民族主義の強い)リヴィウの記者から、「貴方にはウクライナのルーツがあるのか?」と尋ねられたところ、ヤヌコーヴィチは次のように答えたそうです。「ウクライナのルーツ、それは私だ。ただ、私の父はウクライナで生まれたが、母はご存知のとおりロシア生まれで、祖父たちや曾祖父たちはベラルーシやロシアの出自である。」
要するに、生粋のウクライナ人ではなく、確かにベラルーシのルーツも混じっているということですね。典型的な「ソビエト人」というやつでしょう。もちろん、ほとんど意味のない議論であり、生粋のウクライナ人だったら偉いなどというのはナンセンスです。
(2010年2月18日)
これは前からやりたかった企画ですが、今回は、ウクライナ大統領選挙の結果が、ベラルーシにどのような影響を及ぼすかということを考えてみたいと思います。ベラルーシのベラパン通信のサイトに、本件に関するベラルーシ識者のコメントが出ていましたので、まずはそれを紹介してみたいと思います。
A.フョードロフ(国際政治学者):ベラルーシの現政権にとって、ヤヌコーヴィチの当選は最良のシナリオではない。ヤヌコーヴィチには親ロシアというイメージがあり、ロシアにとってはベラルーシよりもウクライナの方が大事なので、ルカシェンコは自分が埋没することを恐れていると思う。ただし、しばらく時間が
経てば、ヤヌコーヴィチは親ロシアではなく親ウクライナの政治家ということが明確になるだろう。しかも、彼は自らの友人たちのビジネス上の利益を、ロシア資本の拡張から何としても守りたいはずである。いずれにせよ、ベラルーシが、1990年代から懸案となっているウクライナとの国境条約の締結を迫られることは、不可避だろう。この懸案が、経済協力を入り口のところで不可能にしているので。ウクライナ・ベラルーシ関係はより実利的になるだろう。ユーシチェンコと違って、
ヤヌコーヴィチは、ベラルーシとEUの関係を取り持ってくれたりはしないはず。ロシアとのエネルギー紛争などは沈静化していくだろう。ただし、ロシアのエネルギーに代わるものを探すことはベラルーシにも、ウクライナにも必要で、それには両国同士が組んだり、さらにEUと連携することが結局必要となる。現在ベラルーシはEUと独力で話をしており、EU側がいかに融通が利かなくても、このカードはモスクワと渡り合ううえでの切り札として必要だから、手放すことはあるまい。今回のウクライナ大統領選で民主主義が負けたなどというのは、表面的。逆説的にも、ウクライナでは民主主義のチェック&バランスが機能していることが証明された。政治的競争が定着し、言論の自由も大きい。ウクライナでは権力が、どんな人物が指導者でも、ベラルーシよりもはるかに、世論を気にせざるをえない。選挙で浮き彫りとなったように、国が二分されていることでもあるし。
もう一人、V.カルバレヴィチという政治評論家のコメントも出ていますが、そちらはやや趣旨から外れるので、割愛します。
(2010年2月18日)
現在、ウクライナ政局の焦点となっているものの一つに、統一地方選挙の延期という問題があります。もともと今年の5月30日に予定されていた選挙を、特例措置で延期するという案が浮上しているわけですね。この背景につき、社会調査センター「ソフィア」のA.エルマラエフ社長が解説している記事がありますので、その要旨を紹介します。
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大統領選挙が長期にわたり、選挙費用を負担している主要投資家の財務状況が苦しいことを考えれば、大統領選挙と地方選挙の間隔が短いことは、主要政治家の選挙運動の失敗をもたらしかねない。そこで、「傷を塞ぐ」、体勢を立て直すという、すぐれて実利的な考慮が働いているわけだ。 |
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もう一つ、地方選挙延期の重要な動機は、来たる地方選挙によって、中央の主要政治家が地方をコントロールできなくなってしまうという深刻なリスクである。最近、地方のエリートたちの間で自己主張が強まっていて、財政政策や、自分たちの権限に不満を抱いている。こうしたことから、中央のエリートたちは、地方選挙の前に、地方での足場を固め直したいと思っている。 |
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他方、最高会議の選挙を前倒しで実施し、地方選挙と同日に行うというシナリオは、依然として現実味がある。第1に技術的に容易であり、第2に費用が少なくて済み、第3に主要政党にとっての累積効果が大きい。その際に、選挙法が修正される可能性はあり、地方選挙が秋に延期されれば可能性がさらに高まるが、政党による独占を崩しかねない比例代表制を放棄するようなまねはしないだろう。 |
以上です。なお、チヒプコは、地方選挙の延期に反対する発言をしています。自分が勢いがあるうちに早く次の選挙をやりたいのか、それとも大統領選で大キャンペーンをやってもまだカネが余っているのか……。
(2010年2月17日)
15日にプーチン・ロシア首相とナザルバエフ・カザフスタン大統領が会談し、そのなかでウクライナの大統領選に言及される場面がありました。
プーチン 「中央選管からヤヌコーヴィチさんが勝ったと正式に発表があった。もう彼にお祝いをしてもいいだろう。あとで電話をして、お祝いをしよう。」
ナザルバエフ 「確かに、もう、心置きなく、彼を祝福し、これから頻繁に会えることが嬉しいと告げられる。」
プーチン 「我々の兄弟国であるウクライナ国民にとって、試練の時は過ぎ去ったと信じたい。今後は正常な国家間関係を築き、経済で協力計画を立て、社会分野での協力を強化することができるだろう。ウクライナが一応は参加している統合路線での共同作業を、ウクライナのパートナーに提案することができる。」
さらにプーチン 「2005年の出来事は、似非革命だった(正確には2004年のオレンジ革命のこと)。当時は、色つき革命の指導者が、国民の不安や変化への期待に付け込んだのだが、期待は実現せず、裏切られた。憲法にも法律にも規定のない第3回投票が実施されたのだが、法律を尊重しないようなやり方は民主主義を強化できず、何の成果ももたらさないことが明らかになった。」
ナザルバエフ 「最初に『共通経済圏』(注:旧ソ連の主要国による経済統合の試み)の構想が検討されたのは2004年で、今回の会談と同じここノヴォオガリョヴォにおいてであったが、その時はロシア、カザフスタン、ベラルーシ、そしてウクライナの大統領が出席していた。その時に、メモランダムまで調印されているのである。あなた(
ヤヌコーヴィチ)は、このイニシアティブを支持する側にいたのだ。」
と、こんな掛け合いがあったとのことです。忘れないように出所を書いておくと、
http://www.unian.net/rus/news/news-362914.html
http://www.unian.net/rus/news/news-362939.html
ロシア・ベラルーシ・カザフスタンによる関税同盟の結成というのが話題となっている昨今なだけに、この面でのヤヌコーヴィチ新政権の舵取りも注目したいと思います。
ちなみに、ロシア・ベラルーシ・カザフスタンに、もし仮にウクライナまで加わったら、旧ソ連のGNPの94%くらいになって(世銀発表による2007年の数値、バルト3国は除く)、ある意味でソ連がほぼ復活したようなものですけどね。
(2010年2月16日)
ティモシェンコは相変わらず負けを認めていませんが、事態は着々と、ヤヌコーヴィチ政権の成立に向けて動き出しているようです。ここ一両日の動きを、時系列的にまとめてみます。
14日夕方、ウクライナ中央選挙管理委員会は、ヤヌコーヴィチの当選を正式に発表しました。最終的な得票は、ヤヌコーヴィチ:12,481,266(48.95%)、ティモシェンコ:
11,593,357(45.47%)、 両候補に反対:1,113,051(4.36%)、無効票:305,837(1.19%)でした。
15日、ヤヌコーヴィチはBBCのインタビューで、チヒプコを首相に起用する可能性も排除しない旨発言。他方で、「ロシア24」局のインタビューでは、最高会議が自分の政策を中心に団結できないなら(つまり地域党を中心とした議会多数派が形成されないなら)、最高会議を解散する意向を表明。
リトヴィン最高会議議長は、議会の会派代表会合で、ヤヌコーヴィチ新大統領の就任式を2月25日に実施することを提案。「我らがウクライナ・国民自衛」会派も異存なし。
そうしたなか、ティモシェンコ陣営は13日に表明したとおり、大統領選挙結果に異議を唱える訴えを、15日か16日中に最高行政裁判所に起こす構えと伝えられます。
写真は、ウクライナのどこかのニュースサイトで見て、面白いと思ってダウンロードしストックしてあったものですが、すいません、どこだったか忘れました(笑)。ご覧のように、地域党支持者が勝利に沸くの図で、右のおじさんが何とも良い表情をしていらっしゃいます。ただ、確かそのサイトには、第1回投票の後の様子とか書いてあったような気がしたけど。第1回投票で首位に立っただけで、こんなに喜ぶか?
(2010年2月15日)
経済問題などに詳しい(らしい)ボルィス・キシニルークという評論家が、ウニアン通信のサイトで、今回の大統領選挙に関する評価を述べているので、それを紹介します。
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退任するユーシチェンコ大統領については、2004年の期待が大きかったので、それに関する失望が大きく、現時点では冷静な評価が下せない。彼がウクライナ国家の形成になした多くのことを、われわれはまだしかるべく評価する用意ができていないのだろう。 |
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今後の展望についても、語るのはまだ時期尚早だが、2010年大統領選につきとりあえずの結論を述べることはできる。第1に、肝心なのは、選挙が成立し、民主的に行われ、違反も少なかったことである。両陣営とも確かに行政的資源を用いたが、選挙が行われるたび、我々は欧州のスタンダードに近付いている。
ヤヌコーヴィチが勝ったことで、クレムリン寄りの選挙専門家が喜んでいるようだが、彼らは、ウクライナがますますロシアと反対の方向に向かっていっているということを理解していない。 |
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第2に、選挙が平穏に行われたのは、多分に、先週の最高会議における大統領選挙法の修正の賜物である。選挙結果を無効にしかねないメカニズムを除去できたわけで、この修正が改ざんを助長するとの言説は、まったくの誤りであることが明らかになった。かといって、法案に署名をしたとしてユーシチェンコ大統領を非難していた連中は、大統領に謝罪はしないだろうが……。 |
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第3に、地域党は、2004年のようなあからさまな不正選挙から、民主主義の通常の方法による勝利へとシフトした。候補者は明らかに弱かったが、ロシアではなくアメリカのコンサルタントを利用して、的確な宣伝を行った。また、ウクライナだけでなく西側の専門家も起用して、4つの出口調査が行われたことも、勝利に役立った。出口調査の模様をテレビが撮影するという決定は、明らかに地域党が主導したものである。それにより、出口調査が、選挙結果にクレームをつけるのに利用されることを阻止した。地域党の首脳およびそのスポンサーたちに、欧州のように組閣に臨み、野党との関係を文明的に築く能力があるかというのは、近く明らかになる。少なくとも、国民は地域党の手法への不信感をそう簡単には失わないだろう。まさにこの点での地域党の出方が、同党が本物の欧州流の古典的民主政党になれるかどうかの試金石だ。 |
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第4に、ウクライナ国民は、意識はしていないかもしれないが、ウクライナが権威主義、言論統制に陥るのを阻止した。テレビでは低俗なものも含め様々な発言・情報が飛び交っているが、この多様性が言論の自由を可能にしている。
ヤヌコーヴィチや地域党幹部の多数は、民主主義や言論の自由の熱心な支持者ではないだろう。しかし、テレビ局を様々なオーナーが保有しており、それらオーナーたちが権力が1人の人間に集中するのを望んでいないことが、カオス的かもしれないが、それでもウクライナの民主的発展の前提条件となっている。 |
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第5に、かつてアメリカのリンカーン大統領が「短期間であれば、多くの人を騙せる。長期間でも、誰かは騙せる。だが、すべての人をずっと騙し続けることは不可能だ」と言ったことがある。過去5年、国民は毎日のように、ティモシェンコの嘘を目撃してきた。それに慣れすぎて、もはや誰も相手にしなくなったほどである。ティモシェンコの敗北は、
ヤヌコーヴィチを支持しない人の多くが、ティモシェンコに大反対であったことの結果である。 |
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第6に、今日の政治情勢を規定している要因は、ヤヌコーヴィチもティモシェンコも社会の本物の支持は得ていないということである。投票は多分に、「この人物だけは絶対に大統領になってほしくない」という候補のライバルに入れるという形で決まった。早くも第1回投票の段階から、かなりの有権者がそのような動機で投票した。
ヤヌコーヴィチの本当の支持率は全有権者の23%、ティモシェンコは17%だ。こうした次第なので、当選したヤヌコーヴィチには、今後難しい課題が立ちはだかる。自分を支持したというよりも、反ティモシェンコで自分に入れた有権者を、今後どう扱うのかという問題。 |
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地域党がロシア語を国家言語にするといった政策で東部・南部の住民の歓心を買おうとするのは、一時の政権浮揚効果しかなく、得策でない。有権者にとって、言語問題はそれほど身近でなく、より重要なのは就業、賃金、社会保障、環境、犯罪対策、汚職、アルコール中毒、麻薬といった問題。 |
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今後、ロシアが政策を押し付けてくるであろうが、地域党が本物のウクライナの政治エリートになるためには、東部・南部有権者の利害・関心を、純粋にウクライナの問題に向けさせる必要がある。言語問題然り、歴史認識の問題然りだ。「ロシア・ウクライナ共通の歴史」のようなものを編纂しようとすると、ウクライナ国家・民族形成の妨げとなる。それにより、東・南の政治エリートが常にロシアの影響下に置かれ、ロシアはそれを通じてウクライナの有権者に影響力を行使しようとするだろう。これは、言語・歴史問題だけでなく、東ウクライナの経済的利害に関連した問題も然りである。東ウクライナのエリート自身、モスクワの聞き分けの良い子分になることや、ロシアのような国家体制になることは望んでいないはずだ。 |
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むろん、地域党の関係者はしばらくの間、有頂天だろう。しかも、シュフリチやコレスニコフのようなおぞましい人物が主導権を握ろうとしており、彼らの過激な発言により東と西の相互理解が不可能になってしまう恐れがある。 |
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地域党の幹部たちが、独立国家ウクライナの形成という本物の利益を見据えられるかどうかは、まだ分からない。一つ明らかなのは、ウクライナは新たな時代に突入し、すでに未成年ではなくなったということ。その将来がどうなるかは、今日の勝者に、多くがかかっている。 |
出所→http://www.unian.net/rus/print/361790
以上です。隣国との共通の歴史認識の形成を拒むあたりは、日本の知識人などにとっては物議を醸しそうな発言ですし、民主主義=欧州という図式が強すぎるようにも思えますが、全体的にまあまあ良識的な評論だと思います。
(2010年2月14日)
真面目な情報ばかりでは面白くないので、ちょっと冗談っぽい話題も取り上げておきます。
日本では、ネットなどでざっと見てみた限り、刑務所で服役している人の選挙権は停止されるようですね。しかし、諸外国では受刑者でも選挙に参加できるというケースが少なくないらしく、ウクライナでもそれが可能です。
現地の報道によれば、今回の大統領選挙の決選投票で、刑務所・拘置所における投票結果は、ティモシェンコ:83,735票(57.19%)、
ヤヌコーヴィチ:48,711票(33,27%)、両候補に反対:10,447票(7.13%)だったそうです。
受刑者であれば、前科者のヤヌコーヴィチに親近感を抱きそうなものですが(笑)。ただ、やはり男の方が多いはずなので、檻の中で禁欲的な生活を強いられている分、美人候補に支持が集まったということでしょうか。
(2010年2月14日)
ティモシェンコは、決選投票の大勢が判明したあと、公の場にはほとんど姿を現さなかったようです。しかし、2月13日、長い沈黙を破り、国民向けの声明を発表しました。このなかで、今回の選挙結果は
ヤヌコーヴィチ陣営の不正によってもららされたものであり、自分はそれを承認せず、裁判所に提訴するということを言っています。発言の主旨は以下のとおりです。
私を支持してくれた皆様に感謝する。我々が勝利したことに疑いはない。我々の敵は、2004年と同様、誠実な選挙で選出される気構えはなかった。合法的な方法では多数派の市民の共感を得られないということを、彼らは承知していた。我々はこの間ずっと、法律的作業に没頭してきた。証拠を集め、書類を作成し、法律家と協議してきた。そして本日、皆様に確固として申し上げるが、選挙は捏造されたものだった。これはすでに単なる政治的宣言ではなく、法律家による明確な法的評価である。一例を挙げると、クリミア自治共和国の裁判所の決定により、投票所の票を再集計したところ、驚いたことに、すべての投票所で、
ヤヌコーヴィチの票が3%から8%かさ上げされている事実が明らかになった。ウクライナ全体では、各種の方法による不正が、100万票以上に上る可能性があり、我が方が勝つに充分な数字である。OSCEの一部の監視員による報告も、我々は戦わなければならないということを裏付けている。監視員たちは、裁判でビデオ、評価などを示し我々の側について証言したいと言っている。私は、皆さんが政争に疲れ果てており、安定や平穏を欲しているということを理解している。だが、もし今日、民主主義、誠実な選挙を守らなければ、明日のウクライナは独裁と無法が支配する違う国になってしまう。我が国の未来のために、私を理解し支持してくれることを、お願いしたい。これは私の個人的問題ではなく、すべての誠実な人々が我々の自由を守るという問題だ。私は、可能性のある唯一の方法、選挙結果を裁判所に提訴するということを決めた。法的根拠にもとづいて、我々の国家、我々の選択を防衛する。裁判所の質には、多くを期待できないが、正義を回復するため、戦わざるをえない。この時点で裁判に訴えないことは、戦わずしてウクライナを犯罪者集団に明け渡すことを意味する。ただし、私は人々を街頭に動員することはせず、市街戦は起こさない。ウクライナはかつてなく安定と平穏を必要としているのだ。それゆえに、もっぱら法廷で、戦う。明言しておきたいのは、
ヤヌコーヴィチは我々の大統領ではないということだ。今後どんなことがあろうと、合法的に選出された大統領にはならない。私が提訴に踏み切ったもう一つの理由は、
ヤヌコーヴィチが公式結果が発表される前から、一連の反ウクライナ的発言を繰り返しており、これがウクライナの国益にあからさまに反しているからである。これはほんの手始めにすぎない。
ヤヌコーヴィチは、社会保障を引き上げると公約していたわけだが、最近地域党は自らの法案に反対票を投じており、これも彼らが誠実でない証である。だからこそ私には戦う用意と力がある。皆さんと、その子供、祖国を守るため、あらゆることをする。だから、私のこの困難な闘いを理解し、支持してほしい。私は常に皆さんとともにある。
というのが、ティモシェンコ声明の主旨です。まあ、あまり説得力は、ないですわな。
ちなみに、提訴する先は、「最高行政裁判所」というところのようです。ティモシェンコ・ブロック所属のA.ポルトフという最高会議議員が裁判でティモシェンコの代理人を務めるそうです。
声明のロシア語テキスト→http://www.unian.net/rus/print/362693
(2010年2月14日)
ちょっとワンパターンですが、ウニアン通信に、一連の専門家がティモシェンコの敗因について語った記事が出ていますので、それを要約して紹介します。
D.ボフシ(政治コンサルタント):選挙キャンペーンの質という観点から見れば、ティモシェンコがトップだった。それなしでは、第1回投票では20%、決選投票では35%しかとれなかっただろう。また、
ヤヌコーヴィチがライバルになったため、多くの有権者がティモシェンコに賛成というよりは、ヤヌコーヴィチに反対という投票を行った。ティモシェンコのキャンペーンは、すべての段階で有権者の注目を集めた。カネをかけすぎという声もあるが、大統領選挙の時には人々はそんなにそれを気にしないものである。彼らは、誰が強いか、誰が賢いか、誰が機敏か、誰の見栄えが良いかという品定めを
しているのだ。ティモシェンコの失敗に関して言えば、第1回投票と決選投票の間の期間に、有権者の動員方法があまり練られていなかった。ヤヌコーヴィチはそれを考え抜き、有権者を投票所に動員したり、在宅で投票させたり、買収・奨励などあらゆることを、微に入り細をうがってやりきった。ティモシェンコは、それを
ヤヌコーヴィチ陣営のようには体系的・活発にやらなかった。3%強という僅差においては、これは決定的である。
S.パンチェンコ(社会工学センター「ソツィオポリス」所長):全体としてティモシェンコの選挙運動は優れていたが、中部および西部で不充分であった。2004年と2010年の西部の投票率を比べると、平均で10ポイントほど
下がっている。彼女の支援者が西ウクライナを充分動員できていたら、0.5%か1%の上積みがあっただろう。ティモシェンコの東部におけるキャンペーンは成功したが、ソ連時代からのステレオタイプやムードが強く、ルハンシク、ドネツィク、クリミアではそもそも望みがないので、今回の得票が精一杯である。中部のキャンペーンは失敗
だ。キロヴォフラード、ポルタヴァ、ジトーミル、スムィといった州で、ヤヌコーヴィチが2004年、2006年、2007年よりも大きく得票を伸ばしており、ティモシェンコ陣営は選挙戦を反省してみる必要があるだろう。
A.エルマラエフ(社会・政治研究センター「ソフィア」所長):ティモシェンコのキャンペーンは最もクリエーティブで、最も高くつき、それでいて有権者には最も効果がなかった。第1回投票と決選の間の時期に戦略を変更したのも不可解で逆効果。決選の得票率が第1回から約20ポイント増えたのは、ティモシェンコ支持というよりも、反
ヤヌコーヴィチ。ティモシェンコも「ヤヌコーヴィチは敵だ」と唱えた。だが、有権者の全体的なムードは争い事は避けたいというものなので、そうしたアプローチでは成功は限られる。投票の1週間前になって、ティモシェンコ支持者の多くは、こうしたやり方では、またこうも頻繁に選挙戦略を変えていては、勝利はおぼつかないということを悟った。そうしたやり方では、肝心な政権への信頼の回復、政権の野党に対する勝利は、解決できないからだ。
V.クリク(市民社会問題研究センター所長):ティモシェンコのキャンペーンはダイナミックで、主要メッセージは有権者に届いたが、票の上積み、支持層の拡大に必要な動員力という部分が弱かった。ルハンシクやドネツィクといった東部では、地域党王国であることを考えれば、ティモシェンコは可能な限りの票を獲得した。これは、「ドンバス」本部の主導による社会イニシアティブ・ネットワークの賜物である。だが、中部や大都市では、そのような動員はなかった。両候補に激しく反対している有権者の心を、ティモシェンコは掴むことができなかった。これは、理系、文系、芸術系の知識人であり、活発な中産階級である。ティモシェンコが勝利に足りなかったのは、「両候補に反対」と投票した4%の有権者だった。しかも、ティモシェンコが中部で展開した選挙運動は、投票率の向上に寄与しなかった。ウクライナの国民理念が強調されたが、中部では人々は自分の身近な問題への具体的な回答を欲しているのである。2007年にティモシェンコは契約制の軍隊を公約し、中部で大勝利を収めたのだが、今回はそれをしなかった。投票率を引き上げるすべが見付からず、逆に支持が下がってしまった。もっとも、私としてはティモシェンコがルハンシクやドネツィクに今回足場を築いたということに注目しており、今後東部で影響力を拡大できる展望がある。一方、西部では、投票率を低めるテクニックが用いられたこと(?)と、ヤツェニューク、ユーシチェンコが決選でどちらの候補も支持しないと発言したことにより、ティモシェンコは民族・民主主義票を動員することができず、これも選挙結果に響いた。また、ティモシェンコのキャンペーン方針がブレたことも、マイナスだった。最初は活発に活動し、
ヤヌコーヴィチを非難、自らの成果を喧伝したかと思えば、次にはイメージを変え、和解と祈り・寛容を打ち出したりした。有権者はこうした豹変振りに戸惑い、本物の彼女はどれなのか、見失ってしまった。決定的には、投票直前のテレビ出演で、具体的な経済問題に回答できず、これにより態度を決めかねていた有権者が離れてしまった。これらが積み重なり、敗戦と相成った。
A.ホロブツキー(政治コンサルタント):決選で多くの票を上積みしたことを考えれば、キャンペーンは成功だったが、失敗もあった。西部と中部の投票率を高めるために働きかけるべきだった。そもそも、東ウクライナの有権者への働きかけは、どんなに頑張っても限界があるので、ムダであった。ティモシェンコの地盤が中部・西部であることを考えれば、決選ではそれらの地域の投票率を高めるべく、それらの地域の事務所をテコ入れすべきだった。
V.フェセンコ(政治研究センター「ペンタ」所長):ティモシェンコの得票は、専門家や政敵が予想していたよりも高かった。したがって、5点採点法で言えば、4+だ。ティモシェンコは、戦略的に大きな間違いは犯しておらず、自分ができる最大限の成果を達成した。結果を変えうるとすれば、
ヤヌコーヴィチとその陣営が失敗を犯した場合だけだが、それが起こらなかったので、彼女の側が状況を変えることはできなかった。これは彼女として最大限の成果であり、尊重に値する。むろん、多くの人々が、ティモシェンコは第1回投票後に広告イメージを変えるべきではなかったとか、ロシア語に切り替えるべきだったとか言っていることも、承知している。しかし、
チヒプコの票が向かう先から考えて、ティモシェンコの票はマックスだったと思う。失った票は、最後に生じた。投票当日に、選挙の運命は決した。ティモシェンコの地方事務所は、投票所での大掛かりな不正を発見することができなかったのである。ティモシェンコにはアウェー地域での行政力がないので、選挙管理委員会の構成員につき対等の原則を失い、大掛かりな不正を文書で記録できなくなったことが、敗戦につながった。最後の数日の結果から見て、ティモシェンコは選挙違反に関する情報を持ち合わせていないとみられる。(注:最後のところ、何のことを言っているのか、やや不明)
出所→http://www.unian.net/rus/print/362290
(2010年2月13日)
このページのタイトル(画面の上部に表示されているものではなく、タイトルバーに表示されるもの)が、誤って「ウクライナ大統領連」になっていたということに、今初めて気付き、慌てて直しました。まあ、フレーム分割型の画面構成なので、普通に閲覧した場合は、実際には表示されないのですが。それでも、ネットで検索すると、結果がそのタイトルで表示されてしまうので、相当間抜けです。肝心なところで詰めが甘い奴め!
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さてさて、決選投票の結果は、ヤヌコーヴィチ:48.95%、ティモシェンコ:45.47%というものでした。当国の場合には「両候補」に反対という選択肢もあるので、勝った方が必ずしも過半数というわけではないわけですね。実際にも
ヤヌコーヴィチは50%に届かなかったわけで、これは大統領としての権威や正統性という観点から、微妙な数字と言えそうです。しかも、勝った地域の数では、ティモシェンコ:17、
ヤヌコーヴィチ:10で、ティモシェンコの方が上でした。
現地ウニアン通信が、そのあたりのニュアンスについて各専門家に意見を訊いていますので、それを要約して紹介したいと思います。
Ya.フリツァク(歴史家):ヤヌコーヴィチは、自分にとって異質な国だけでなく、異質な首都も引き受けることになった。過去5年、キエフでは反
ヤヌコーヴィチのムードが強まった。ヤヌコーヴィチがどのように振舞うのか、お手並み拝見だ。ヤヌコーヴィチとその取り巻きに多少知恵があるのなら、実利的な妥協・コンセンサスに歩み寄るだろう。少数派の政権が国を治めるためには、合意を達成するしかないからである。その際に鍵となるのは、その合意がどのような性格のものかということ。不安定な野合なのか、それともオープンで原則的なものなのか。だが、
ヤヌコーヴィチの取り巻き連中からすると、前者になると思わざるをえない。ヤヌコーヴィチが過去の経験から何も学んでいないとすると、クチマ政権の晩年のようになり、大衆的な抗議のなかで、権力が麻痺する。その結果を予測することは不可能だ。だが、キエフは
ヤヌコーヴィチよりも、どんな政治家よりも強く、誰も単独でウクライナを統治することはできない。西ウクライナはヤヌコーヴィチが嫌いだが、彼がそれなりに良識的に振舞えば、甘受することはできる。
ヤヌコーヴィチが、というかその取り巻きの良識が試される。
M.ポフレビンスキー(政治評論家):ユーシチェンコも最初は国の半分に相手にされなかった。何ヵ月か経ち、東部・中部・南部の市民が、ユーシチェンコにも知恵があるはずだと期待するようになり、ユーシチェンコも彼らに歩み寄ったため、彼の支持率は上昇して60%を超えた。しかし、その後、東部・南部の一部の歩み寄りにもかかわらずユーシチェンコがそれに応じなかったため、それ以降支持率が下落した。問題は、大統領がどのような路線をとるか、国の片方がもう片方に対して生活・思考様式を押し付けるようなことがないかという点だ。私は、
ヤヌコーヴィチはそういう押し付けをしないと思う。一つには、彼のIQはユーシチェンコよりましである(口下手ではあるが)。だがそれだけでなく、彼には、国の一部がバンデラ(伝説的なウクライナ・ナショナリスト)を英雄視していることを、受け入れる用意がある。単に、その歴史観を東部や南部に押し付けてもらっては困るというだけのことだ。
T.チョルノヴィル(無所属議員):「ヤヌコーヴィチはどのように働くか?」というご質問だが、ヤヌコーヴィチが働くつもりなどと、誰が言ったのだ?
ヤヌコーヴィチは、2003〜2004年に首相だった時には、確かに働いていた。様々なイベントに顔を出し、予算も扱った。しかし、2006〜2007年の首相就任時には閣議にすら常に出るとは限らず、アザロフ等に任せていた。彼は働くつもりはなく、すべてどうでもいいのだ。彼に必要なのは、連立が形成され、政府ができることだけで、彼らに責任を押し付ける。
V.フェセンコ(政治研究センター「ペンタ」所長):ヤヌコーヴィチは、かつてクチマがそうしたように、西ウクライナに対してウクライナの国民理念を尊重している、自分は全ウクライナの大統領になりたいのだというポーズを示そうとするだろう。そのために、彼には「我らがウクライナ・国民自衛」派との連立が必要である。これは議会で多数派を形成し自派の首相を据えるだけでなく、イデオロギー的・政争的観点からも必要である。西ウクライナが彼を支持しなかったにもかかわらず、
ヤヌコーヴィチがそれを尊重しているということを示すために。東ウクライナが送り出した大統領派、その後、西ウクライナで受けようと、全力を尽くすものであり、
ヤヌコーヴィチもそうするだろう。しかし、ヤヌコーヴィチという人物の個性ゆえに、状況はクチマとまったく同じにはならない。ただ、地域党副党首のハンナ・ヘルマンの存在があり、リヴィウ州出身の彼女は、
ヤヌコーヴィチが西ウクライナで受け入れられるよう、全力を尽くすであろう。ヤヌコーヴィチ自身と地域党の親ロシア派は、常にロシアに配慮した姿勢をとり、そのことは西ウクライナで、さらにはウクライナ全体で、応分の反応を招くであろうが。
Ye.ホロヴァハ(ウクライナ科学アカデミー社会学研究所副所長):問題は、ウクライナが世界金融・経済危機で最も打撃を受けた国の一つということ。国民の多くに自己防衛本能が働き、ウクライナが難局から抜け出してほしいという思いで、
ヤヌコーヴィチに投票した。こうした状況でなければ、ヤヌコーヴィチは大統領にはなっていなかっただろう。ヤヌコーヴィチの課題は、国を経済的難局から脱却させ、彼を支持した有権者の期待に応えることである。それが達成されなければ、有権者は彼から離れる。またぞろ、スケーブゴート探しが始まるが、ウクライナでは権力は属人的なものなので、責任を負うのは常に、ヒエラルキーの頂点にいる人間である。西ウクライナが
ヤヌコーヴィチを好きになることはありえず、中部も彼を疑いの目で見ているが、人々の生活が改善すれば、ヤヌコーヴィチは使命を果たしたことになる。
出所→http://www.unian.net/rus/print/362533
(2010年2月13日)
下の「次期首相は誰か」という記事のなかで、地域党から首相を出す場合の候補として、ミコラ・アザロフ、ボリス・コレスニコフ、ユーリー・ボイコといった人物が取り沙汰されていると述べましたが、参考にした主な記事は『ジェーラ』紙のもので、これです。
http://delo.ua/vlast/vybory/komanda-novogo-prezidenta-137119/
それで、この記事に、地域党の主な幹部の顔ぶれが出ていますので、ロシア語のままですが、紹介します。名付けて、チーム・ヤヌコーヴィチ。これまで野党だった時代の
ヤヌコーヴィチの「影の内閣」の顔ぶれというのが出ていて、閣僚のメンバーは基本的に大きく変わらないのではないかとされています。
というか、リンク先を書いたので、それを辿って原典を見てもらえばいいわけで、わざわざ拝借してここに載せなくてもいいわけですが。
(2010年2月12日)
2月4日に、『FOKUS』という雑誌に掲載された「最も影響力のあるウクライナ人200人ランキング」というのを紹介しました(上位25人まで)。ただ、言うまでもなく、あれはティモシェンコが首相として実権を握っている時点でのランキングです。大統領選で
ヤヌコーヴィチが勝ったわけですし、これからティモシェンコが首相の座を追われれば、ランキングの全体像も当然大きく変わってくるでしょう。
とくに、焦点となるのは、誰が次期首相になるかという点です。現在、地域党を中心とした議会の多数派工作が山場を迎えているわけですが、ここ2〜3日の雲行きからすると、地域党が首相を出すという方向が強まりつつあるようです。さて、具体的に、地域党の誰に、大役が任されるのでしょうか。次の大統領への最短距離とも言えるポジションなだけに、気になるところです。
これに関し、現地の報道によれば、地域党ではミコラ・アザロフ、ボリス・コレスニコフ、ユーリー・ボイコといった人物が首相候補として取り沙汰されているようです。また、「我らがウクライナ・国民自衛」会派と連立を組むにあたって、妥協的な人事として、同派のユーリー・エハヌロフ氏(元首相、現在は大統領府第一副長官)を首相に迎えるという説も流れています。
これら4人のうち、前回のランキングで25位以内に入って私が紹介できたのは、13位のコレスニコフだけでした。そこで、ここでは、『FOKUS』誌の影響力ランキングから、4人の部分を抜き出して改めて紹介してみます。
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ランキング第13位
ボリス・コレスニコフ
47歳
最高会議における地域党会派の副会長。
ウクライナで最大の財力を誇るリナト・アフメトフ氏の側近の1人。ヤヌコーヴィチがドネツィク州の選挙キャンペーンを任せたのがこの男。会派の副会長にもかかわらず、最高会議には滅多に登院しないが、自らが副社長を務めるサッカー・クラブ「シャフタール・ドネツィク」の試合をアフメトフと一緒に観戦している様子は、よく目撃される。 |
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ランキング第36位
ユーリー・ボイコ
51歳
最高会議議員(地域党)。
キエフ州で地域党の選対本部長を務めている。それを任されたのも、ボイコのロビイストとしての能力が買われたからである。たとえば、「内閣が石油トレーダーの利益に奉仕している」とボイコが批判したところ、それを受け燃料価格の管理権を移管するよう、燃料・エネルギー省が経済省に依頼をするということがあった。また、ボイコの尽力により、国営化学工場「ユージヌィ」におけるニトロベンゾールの生産が開始され、同社はこの分野の独占生産者となった。 |
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ランキング第47位
ミコラ・アザロフ
62歳
最高会議議員(地域党)
ティモシェンコ首相とその内閣の経済政策を手厳しく批判してきた。党内では、ヤヌコーヴィチ党首に次いで人望が厚い。地域党の政治評議会は、早くも6月の時点で、アザロフを
ヤヌコーヴィチの選対本部長に任命した。ただし、彼は選挙戦の経験が乏しいことから、彼の実際の役割は外向けのものであり、選挙の実務は経験豊かな専門家が担っていると思われる。 |
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ランキング110位
ユーリー・エハヌロフ
61歳
大統領府第一副長官
エハヌロフは、軍における資金横領スキャンダルに関連して、国防相から退任した。しかし、ユーシチェンコ大統領は信頼できる同志を必要としており、ウリヤンチェンコ女史が大統領府長官に就任したことからも、エハヌロフの大統領府入りは必然だった。かくして、2009年夏、ユーシチェンコはエハヌロフを大統領府第一副長官に任命した。しかし、本人は国防相への復帰に意欲を失っていないため、大統領は11月に再びエハヌロフを国防相候補に指名した。 |
さあ、誰になるのでしょうか。
(2010年2月11日)
決選投票の結果を地域別に見てみると、改めてウクライナは難しい国だということを痛感します。
ウクライナ語のままで恐縮ですが、決選投票の地域別結果は、図のようになっています。サムネイルをクリックすると、PDFが表示されます。
ウクライナは地域差が甚だしい国だというのは周知の事実で、今回の選挙も国の東部・南部ではヤヌコーヴィチが圧勝、中部・西部ではティモシェンコが圧勝という予想どおりの結果となりました。
そのこと自体はまったく順当なのですが、驚くのは、「拮抗した地域が1つもない」という事実です。すべての地域で、いずれかの候補が明確な勝利を収めています。最も得票率の差が小さいのはザカルパッチャ州ですが、ここですらティモシェンコ:51.66%、
ヤヌコーヴィチ:41.55%で、約10ポイントの差がついているわけですからね。10ポイントの差は、「僅差」とは言えないでしょう。以前の記事で、最も全国平均に近い州はどこかなんて話をしましたが、本当にないんですよ、そういう地域が。
ヤヌコーヴィチ:48.95%、ティモシェンコ:45.47%というのは、あくまでも、このようにバラバラな諸地域の投票結果を、数学的に平均したらこうなりましたという数字なわけですね。
そこで私は考えたのです。たとえば、アメリカの制度で、ウクライナ大統領選を戦ってみたらどうなるか。ご存知のとおり、アメリカの大統領選挙では、ある州で勝利を収めた側が、その地域の選挙人を総取りします。カリフォルニア州でオバマが勝てば、その差が1ポイントであろうと30ポイントであろうと、同州の選挙人はオバマがすべて獲得するわけです。ちなみに、選挙人の数は、その州が連邦議会に出している議員の数に等しく、カリフォルニアの場合は上院2人(これはどの州も同じ)、下院53人(これは人口比例)で、計55人と全米最大です。もちろん、州によっては常に民主党または共和党が優勢なところもありますが、どちらに転ぶか分からない州も多く、大統領候補はそうした勝負どころの州で、とくに大票田で重点的に運動を展開するわけです。
ひるがえって、ウクライナ。ウクライナでは、ヤヌコーヴィチとティモシェンコの戦いであれば、大多数の地域で、勝者は最初から決まっています。何しろ、支持率が拮抗している地域が、一つもないわけですから。上述のように、決選投票の結果を見ても、最も差が小さいのが、ザカルパッチャ州の約10ポイントです。10ポイントの差というのは、どんなに集中豪雨的に選挙キャンペーンを打っても、そう簡単にはひっくり返らないでしょう。しかも、ザカルパッチャ州は全国の有権者の2.61%を占めるにすぎず、そういう小さな票田がどちらに転ぼうと、選挙の大勢には基本的にあまり影響がありません。つまり、地域的な色分けがあまりにもはっきりしているウクライナでアメリカ式の大統領選挙をやったら、主要候補の顔ぶれが固まった段階で、ほぼ結果が決まったようなものであり、選挙キャンペーンなどあまり意味をなさないという、恐ろしいことになってしまうわけですね。
そうは言いながら、今回の決選投票も結局は3.48ポイント差で決まっているわけで、そう考えればザカルパッチャ州の2.61%というのも、ばかにならないのかもしれません。何だ、そんなに重要な州だったのか、ザカルパッチャって(笑)。今度、行ってみようかな。
(2010年2月11日)
このコーナーで何度か紹介したロシア系証券会社ルネサンス・キャピタルが、選挙結果を受けた論評を出しましたので、その要旨を紹介します。
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すでに大勢は決した。2月17日に最終結果が正式に発表される予定だが、現在出ている数字が大きく変わることはあるまい。 |
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ウクライナ中央選挙管理委員会も、国内および国際選挙監視団も、大きな選挙違反の事例は報告していない。OSCEなどは、「民主的選挙のお手本」と評しており、政権の平和的な移譲を政治リーダーたちに呼びかけている。ロシアのメドヴェージェフ大統領はすでに
ヤヌコーヴィチに祝意を送っている。米国からの発言はまだないが、欧州やCISの監視員が選挙を賞賛していることから、米国もポジティブな反応を示すと予想される。本件をめぐって国際外交的な物議が醸されることは、考えられない。 |
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選挙結果が僅差だったことから、我々も予測していたとおり、ティモシェンコは選挙結果を法的に争う構えである。ティモシェンコは2月8日の自らの党の集会で、選挙結果を拒否し、
ヤヌコーヴィチ勝利の正統性を絶対に承認しないと述べた。ティモシェンコが、オレンジ革命の時のように、支持者を街頭に繰り出させる可能性は、否定できない。ただし、我々の見るところ、彼女は本格的に事を構えるのには資源が不足している。両陣営の散発的な示威行為は起きるかもしれない。 |
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ティモシェンコが負けた場合に法廷で結果を争うというのは、広く予想されていたことである。ヤヌコーヴィチが勝った場合、ティモシェンコの優先事項は、首相の地位を保持することにあると考えられる。そのため、彼女はできるだけ時間を稼ぎ、
ヤヌコーヴィチに対する自らの交渉力を高めようとするだろう。我々の見るところ、決選投票の結果が覆された2004年の再現はありそうもない。選挙過程が多くの国内・国内監視団から承認されているだけでなく、賞賛すらされているからである。
ヤヌコーヴィチはすでに、最高会議で新たな多数派を形成し、ティモシェンコ首相を解任する意向を示している。さらに言えば、ヤヌコーヴィチは前回負けている教訓から、決選投票のやり直しには絶対に応じないだろう。 |
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我々は以前のレポートで、ティモシェンコが僅差で負けた場合には選挙後にマーケットが若干不安定化すると予想していたが、実際にそれが始まったようだ。ウクライナのCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)のスプレッドは17ppts開き、9日午前には988bptsとなった。ティモシェンコが選挙結果を覆せるとは思えないが、
ヤヌコーヴィチの就任を遅らすことならできるかもしれない(どのくらい長くになるかは不明)。他方、我々は、ヤヌコーヴィチは(前倒し議会選挙をやる、やらないにかかわらず)議会で新たな多数派を形成でき、ティモシェンコを解任することが可能になると考える。そのうえ、我々の見るところ、投資家のムードを決める最も重要な争点は、IMFとの交渉再開であり、それは
ヤヌコーヴィチがどれだけ権力を固められるかということには、それほど大きく左右されない。いずれにしても重要な経済的決定は議会で可決され、選挙後の不透明が払拭されたあとすぐに、ウクライナは何らかの形でIMFからの支援を受けることになると予想される。 |
以上、全体像がバランスよくまとめられているので、またまた他力本願しちゃいました。
余談ですが、このルネサンス・キャピタルの様々なレポートって、タダで送られてくるんですよね。証券会社だから、投資家に投資をしてもらうのが仕事であり、情報・分析の提供はそのための付随サービスということで、レポートの購読にお金をとったりはしないようです。証券会社には、よくあるパターンかと思います。今回のウクライナ大統領選結果に関する論評などは1ページだけですけど、100ページを超えるような立派なレポートが送られてくることもあります。EIUあたりから買ったら、何百ドルもするようなレポートが、タダで送られてきて、しかもPDFをメールで送る形だから、限りなくリアルタイムの分析に近いという……。
まあ、ルネサンス・キャピタルは極端な例ですが。いずれにしても、「情報」というものの価格が低下し、ほとんどタダになってしまうのが、IT社会というものの恐ろしいところですね。私なども、情報を売って禄を食む人間の端くれとして、危機感を覚えずにはいられません。
(2010年2月10日)
個人的なことですが、やはり昨日(8日)は雑誌の編集作業で手一杯で、終電近くまでかかって仕事を終え、どうにか無事に帰還しました。というわけで、肝心の選挙結果が出る日に、リアルタイムで情勢をフォローできないということになってしまいました。しかも、スーパーボールの結果が目に入ったら嫌だから(後で観る楽しみがなくなるので)、なるべくネットにも接続しないようにしていたので、完全に情報遮断状態でした。
今日はお休みをとって自宅で過ごしており、スーパーボールも観終わって
(^―^)、ようやく改めてウクライナの選挙結果を確認しているところです。しかしながら、今日は完全にオフと決めているので、現地の詳しい報道や解説などを細かくチェックする気になれません。というわけで、ここでは今回の大統領選挙について、私なりに、現時点でのごく簡単な総括を述べてみたいと思います。
開票作業は順調に進んでいるようで、現地時間9日午前中の時点で、ヤヌコーヴィチ:48.9%、ティモシェンコ:45.5%、両候補に反対:4.4%となっているようです。ティモシェンコ陣営は、一部の投票所で不正があったとして法廷で争うというようなことを(案の定)言っているようですが、差が1〜2%だったらそのような挑戦が意味をもちうるものの、さすがにこの程度はっきりした差がつくと、負け犬の遠吠えと受け取られるのが関の山ではないでしょうか。というわけで、
ヤヌコーヴィチが勝ったという前提で、話をさせていただきます。
私が考えるに、今回の大統領選挙の結果が意味するのは、結局のところ、2004年のオレンジ革命によって成立した体制というか政権が否定されたということだと思います。大きな期待を背負って成立したユーシチェンコ大統領とティモシェンコ首相による政権だったわけですが、新たに政権に就いた政治家もクチマ前政権に劣らず腐敗し堕落した人々だった。この間、ウクライナではかなりの経済成長が続いてきたわけですが、国民というのは大抵、暮らしが良くなると、その新しい水準に慣れ当然と思うものであり、そのことで政治に感謝するということはあまりありません。しかも、2008年以降の経済危機により、ウクライナは世界的に見ても大きな打撃を受け、好景気の果実も失われました。そうしたなかで、政権幹部は、有効な危機対策を打てないまま、政争に明け暮れている。これにより、ユーシチェンコ大統領の支持率が地に堕ちただけでなく、大統領と決別したティモシェンコ首相も、国民の目からはやはり「同じ穴のムジナ」と受け取られた。国民は、こうした状況に「ノー」を、ウクライナ語でいうと「ニー」を突き付けたわけです。
オレンジ体制が否定されたとして、問題は新しい政権の受け皿。ティモシェンコは、ユーシチェンコ大統領と決別していたとはいえ、やはり色褪せたオレンジ革命と分かちがたく結び付いている。現職の首相でもあるし、同女史に反感を抱く国民も多いので、国民が変化を求めているなかで、新しい大統領の候補としてはどうしても弱いところがある。
一方、ヤヌコーヴィチも新味はまったくないものの、ドネツィク州を中心とする東・南ウクライナに強固な地盤があり、かなり分厚い固定的な支持層を有している。したがって、オレンジ革命以降の一時代に幕を引く役目の担い手として、最短距離にいるのは、やはり
ヤヌコーヴィチだ。このような論理で、2004年に否定されたはずの人物が、2010年に返り咲いたということではないかと思われます。
本来であれば、チヒプコやヤツェニュークといった次世代の政治家が政権をとればスッキリするのですが、彼らは議会にその踏み台となるべき勢力をもっていないし、「大統領候補」として国民に充分に浸透するには至らなかった。結局、皮肉にも、ユーシチェンコよりも年長で、今年還暦を迎える
ヤヌコーヴィチが、選択肢として残ったということです。新たな変革の担い手というよりは、とりあえずリセットする役目といったところでしょうか。
ヤヌコーヴィチは、年齢からしても、キャラクターからしても、おそらく強固な政権を長期間築くという感じにはならないでしょう。ドンバスの代表としてばかり振舞っていては政権がもたないので、案外キエフや西ウクライナで受けの良い人材を登用するなどして、バランスをとるかもしれません。政策的にも、親ロシアとか言われていますけど、そんなに極端には走らないでしょう。そもそも、クチマだって、最初はロシア語の国家言語化とか、ロシアとの経済統合とか言っていたのに、大統領になったらトーンダウンしたわけですから。ウクライナの政治というのは、誰が大統領になっても、中庸にシフトせざるをえない構造なのだと、私は考えています。
ティモシェンコは、選挙結果についてひとしきりゴネたあと、どうするんですかね。ヤヌコーヴィチ大統領の下のティモシェンコ首相というようなシナリオが語られていたこともありましたが、このところの動きを見ると、ちょっと現実的でないように思えます。1960年生まれで、政治家としてはまだまだこれからという年齢ではありますが、仮にこれから首相ポストを奪われたり、次の議会選挙でも自派が退潮したりすると、急激に存在感を失う可能性もあるかもしれません。
オフ日なので、雑感の殴り書きで、すいません。明日以降、もっと真面目にやります。
(2010年2月9日)
前回2004年の大統領選の時の投票率は、第1回投票:74.92%、決選投票:80.85%、やり直し決選投票:77.32%、と推移しました。
今回は、第1回投票が66.76%で、決選投票は、現時点の発表では、69.16%となっています。前回の決選投票よりはだいぶ低いが、1月17日の第1回投票よりは若干上がったというところです。
決選投票になると、第1回よりも投票率が数ポイント上がるというのは、過去にも見られたことで、不思議ではありません。ただ、個人的に、今回の決選投票は第1回投票並みか、あるいは下がるのではと予想していたので、思いのほか高かったなというのが率直な感想です。
とりあえず、投票率のデータだけ、下表のとおり、地域別に整理してみました。まだ埋まっていない地域もありますが。
そんなわけで、ヤヌコーヴィチ当確といった雰囲気なわけですが…。先日も申し上げたように、本日はわたくし、自分の編集している雑誌の締切日で、その仕事に集中せざるをえないので、今日のところはこのコーナーの記事はこれ以上アップできないと思います。何とか、本日中に雑誌の原稿を入稿して帰宅するのが目標です。スーパーボール観戦も、録画で、そのあと
(´_`。)。というわけで、しばらく間が空きますが、当選者が決まったとしても、大変なのはまだこれからですので、引き続きお付き合いください。
(2010年2月8日)
現地時間7日20:00に投票が締め切られ、開票が始まるとともに、出口調査の結果が一斉に発表されました。いずれも、ヤヌコーヴィチの優勢を伝えています。中央選管発表の途中経過では、開票率18%の段階で、
ヤヌコーヴィチ:52.0%、ティモシェンコ42.7%、両候補に反対:4.3%となっています。
各出口調査の結果は、以下のとおりです。(2月11日、図を差し替えました)
出口調査は、平均すると、4ポイント差でヤヌコーヴィチ優勢といったところでしょうかね。中央選管の数字は、第1回投票の時は、開票が進むほど出口調査の結果に近付いていったので、今回もそうした経過を辿るのではないかと思われます。
(2010年2月8日)
「マイダン」というのは、ウクライナ語で広場のことを意味します。時事的な用語としては、キエフ中央広場のことを指しており、かつての「クチマなきウクライナ」運動の際にテント村ができたり、2004年のオレンジ革命の際にも抗議運動の舞台になったりしたところです。写真は、ちょっと遠景ですが、その界隈を写したものです。
それで、ティモシェンコは2月5日に、もしも選挙でヤヌコーヴィチが勝ったら、人々をマイダンに集結させるということを発言したようです。また、大衆を巻き込んで一暴れしようというわけですね。それに関する識者のコメントが、ウニアン通信に出ているので、抜粋して紹介してみたいと思います。
O.ドヌィ(「我らがウクライナ・国民自衛」会派の最高会議議員):両候補とも勇気を出して、相手が勝ってもそれを認めるということを宣言すべきだ。現政権側が、野党に回ったとしても、巻き返せばいいだけ。選挙結果を認めないために、集会やデモに打って出るようなことは、許してはならない。そもそも不正はないのだから、国民が不正に抗議して街頭に繰り出すかと言えば疑問。ティモシェンコはパニックに陥っている。一連の州で選挙を不成立にさせようとしていたが、最高会議が選挙法を修正して、それができなくなったので。
M.トメンコ(最高会議副議長):マイダンは起こりうる。だだしそれは、ティモシェンコまたはヤヌコーヴィチの負けた側が、選挙は不正だったと称して支持者を動員する政党・政治主導のものである。2004年の時は、政党集会ではなく、国民主導の抗議運動で、確かに政治家もいたが、政治家は便乗しただけだった。そのような国民主導のマイダンは、国民が政治全体に失望しているので、もう起こりえない。明白な選挙の不正や法律違反が明らかになった場合は国民が街頭に繰り出すかもしれないが、それ以外では国民主導のマイダンは想像できない。問題はユーシチェンコ大統領の出方だが、彼は最近
ヤヌコーヴィチの代理人のごとく行動していて、今回の選挙法修正にも結局署名したので、中立的な番人の役割は期待できない。
R.ベススメルヌィ(「我らがウクライナ」執行委員会議長):2004年の再現は不可能。当時は不正が明白で、人々が街頭運動で状況を変えるしかなかった。2004年の時のような高揚は、一生に一度の出来事であり、2010年にも、向こう10年にも、起きえない。街に出ようとしている人々もいないわけではないが、政治家は彼らを恐れている。キエフに集結したとして、何をするのか?
D.コルチンスキー(評論家):2010年版のマイダンは、技術的には起こりうる。仕事にあぶれた国民が多いので。結局のところ、ウクライナでは、20%の国民は、機会さえあれば、常に反旗を翻し、暴れる用意がある。ただし、ティモシェンコがそれに踏み切るかと言えば、難しい。2004年の時はソフトなマイダンでよかったが、今回は本当に大衆を動員して、大統領府、中央選管、検察を占拠しなければならないという本物の戦争になるから、おそらくそこまでの気構えはないだろう。
V.フィレンコ(オレンジ革命の「野戦司令官」):我々が理解するような意味でのマイダンは、おそらく不可能だろう。だが、選挙をめぐる最新の情勢、たとえば選挙法の強行的な修正や、知事の解任をはじめとする情勢を不安定化させる大統領の振る舞いを見ると……。市民の行動は先が読めず、どんな反応を示すかわからない。もしかしたら、歴史的記憶がよみがえり、誰がこの国の主人なのかを思い出すかもしれない。したがって、現時点の情勢からすれば、マイダンの可能性も排除できない。ユーシチェンコの行動は、いかなる論理にも沿っていないので、予測できない。
出所→http://www.unian.net/rus/print/361157
こんな感じです。この論調を見るに、当面の焦点は、負けた側(おそらくティモシェンコ)が選挙結果を潔く認めるか、あるいはゴネるのかという点に絞られてきた感があります。
(2010年2月7日)
5日金曜日24時をもって、今回のウクライナ大統領選挙の選挙運動期間が終了しました。選挙法では、金曜日24時を過ぎると一切の選挙運動ができなくなり、街頭ポスター・看板をすべて撤去しなければならず、テレビやラジオでの宣伝も禁止されます。日本では、選挙の当日でも、ポスターは貼ってありますよね。ウクライナは撤去しなければならないそうで、考えただけで大変そうです。
最終日である5日の夜、ティモシェンコはキエフのソフィア広場で教会の礼拝に出席し、選挙運動を締めくくりました。礼拝には約2,000人が集結。トレードマークとも言える白の民族衣装風のコスチュームで現れたティモシェンコは、神よ、私を、ウクライナの権力が行ってきたすべての過ちを許したまえ、というようなことを言ったそうです。
一方のヤヌコーヴィチは、やはりキエフのミハイロフ広場で集会を開き、その後コンサートが開催されたそうです。わりと近いですけどね、ソフィア広場からも。
ヤヌコーヴィチは、オレンジ政権、ティモシェンコに罰が下される日が来た、ティモシェンコにはレッドカードで引退送りだ、2月7日は我々の勝利の日だ、神のご加護あれ、などと発言したそうです。
というわけで、最後は2人とも神頼みだったというオチでしょうか(笑)。お後がよろしいようで。
(2010年2月6日)
サッカーの試合で、前半が終了した時点で、一方のチームが「ルールを変えよう」と言い出して、相手チームの反対にもかかわらず審判団がそれを認めてしまったら、大問題になると思いますが。それと同じようなことが、ウクライナ大統領選挙で実際に起こりました。決選投票を目前に控えた2月4日、大統領選挙法が修正されました。
ヤヌコーヴィチの地域党の主導で、2月3日に最高会議が大統領選挙法の修正を可決し、4日ユーシチェンコ大統領がこれに署名して成立したものです。しかし、ライバルのティモシェンコ首相は修正に反対しており、ユーシチェンコ大統領に拒否権を行使するよう呼びかける声明を出し、政府のホームページにも掲載していました。
修正の骨子は、各レベルの選挙管理委員会が決定を下す際に、委員の3分の2以上が出席していなければ有効でないという規定を、削除することにあります。ティモシェンコ陣営は、この修正が
ヤヌコーヴィチ陣営による選挙結果の改ざんにつながる恐れがあるとして、反対していました。
正直、技術的な細々した話であり、どうしてこれが改ざんの温床になるのか、個人的にあまり調べてみる気にはなりません。いずれにしても、あらゆるものが政争の具となるウクライナらしく、やはり選挙のルール自体もそうなったかというのが、偽らざる印象です。地域党が選挙法修正を強行したことで、仮に
ヤヌコーヴィチが勝った場合でも、「選挙は不正だった」と騒ぎ立てる材料をティモシェンコ側に与えてしまったのではないかという気がします。
(2010年2月5日)
決選投票の投票日が、あさって(7日、日曜日)に迫ってきました。土曜・日曜は選挙運動は禁止ですので、泣いても笑っても本日が2010年ウクライナ大統領選の最終キャンペーン日ということになりますね。
本来であれば、私ももっと現地報道にかじりついて、克明にフォローしたいのですが……。実は自分のやっている雑誌の締切日が8日(月)でして、それに集中せざるをえないので、しばらくはウクライナ大統領選のフォローにあまり精力を避けそうもありません。しかも、7日といえば、スーパーボールの日じゃん(日本時間8日午前)。私にとっては、盆と正月とクリスマスが一緒に来るような騒ぎで。
というわけで、向こう3〜4日は大した記事も書けない思いますが、一山超えたら、またウクライナ大統領選の情報収集と分析に精を出したいと思います。
(2010年2月5日)
個人的に、過去3年、12月にウクライナに出張するというのが続きました。そのせいで、私の手元には、ウクライナの色んな雑誌の各年12月の号ばかりがあります。そんなに偏ってどうするんだよという気もしますが、12月にはだいたい年末特大号、本年を回顧する、来年大予想みたいな記事が出るので、それなりに重宝はしています。
昨年末も、キエフで目に留まった雑誌は片っ端から買ってきました。ここでは、そのなかから、『FOKUS』という雑誌の2009年12月18日号に出ていた「最も影響力のあるウクライナ人200人ランキング」というのを抜粋して紹介したいと思います。政治家だけでなく、財界人や文化人なども含まれます。200人全員紹介というのは難しいですが、時間の許す限り。データはすべて雑誌発行時のものです。「出身地域」というは服部が加えました。
順位 |
名 前 |
年齢 |
出身地域 |
肩 書 き |
1 |
Yu.ティモシェンコ
Yulia
Volodymyrivna Tymoshenko |
49 |
ドニプロペトロウシク州 |
首相 |
2 |
V.ヤヌコーヴィチ
Viktor
Fedorovych Yanukovych |
59 |
ドネツィク州 |
最高会議の地域党会派長 |
3 |
V.ユーシチェンコ
Viktor
Andriyovych Yushchenko |
55 |
スムィ州 |
大統領 |
4 |
R.アフメトフ
Rinat
Leonidovych Akhmetov |
43 |
ドネツィク州 |
最高会議議員(地域党)
システム・キャピタル・マネジメント財閥総帥 |
5 |
V.ピンチューク
Viktor
Mykhaylovych Pinchuk |
49 |
キエフ市 |
East
One社創業者(インテルパイプ社オーナー) |
6 |
I.コロモイスキー
Ihor
Valeriyovych Kolomoycky |
46 |
ドニプロペトロウシク州 |
プリヴァト財閥総帥 |
7 |
V.ウリヤンチェンコ
Vira Ivanivna
Ul'yanchenko |
51 |
チェルニヒウ州 |
大統領書記局長官 |
8 |
V.リトヴィン
Volodymyr Mykhailovych Lytvyn |
53 |
ジトーミル州 |
最高会議議長 |
9 |
L.チェルノヴェツキー
Leonid
Mykhaylovych Chernovetskyi |
58 |
ハルキウ州 |
キエフ市長 |
10 |
S.チヒプコ
Serhiy
Leonidovych Tihipko |
49 |
モルドバ |
TAS企業グループ |
11 |
V.メドヴェチューク
Viktor
Volodymyrovych Medvedchuk |
55 |
ロシア・
クラスノヤルスク地方 |
国際弁護士事務所BIM社長 |
12 |
P.ポロシェンコ
Petro
Oleksiyovych Poroshenko |
44 |
オデッサ州 |
外相 |
13 |
B.コレスニコフ
Boris
Viktorovych Kolesnikov |
47 |
ドネツィク州 |
最高会議の地域党会派副会長 |
14 |
O.トゥルチノフ
Oleksandr
Valentynovych Turchynov |
45 |
ドニプロペトロウシク州 |
第一副首相 |
15 |
A.ヤツェニューク
Arseniy Petrovych Yatsenyuk |
35 |
チェルノウツィ州 |
「変革戦線」党党首 |
16 |
L.クチマ
Leonid
Danylovych Kuchma |
71 |
チェルニヒウ州 |
前大統領 |
17 |
H.ボホリュボフ
Hennadiy
Borysovych Boholyubov |
47 |
… |
プリヴァト財閥共同オーナー |
18 |
S.リオーヴォチキン
L'ovochkin
Serhiy Volodymyrovych |
37 |
キエフ市 |
最高会議の地域党会派副会長 |
19 |
V.ハイドゥク
Vitaliy
Anatoliyovych Hayduk |
52 |
ドネツィク州 |
「ドンバス工業連合」財閥総帥
首相の顧問会議会長 |
20 |
K.ジェヴァゴ
Kostyantin
Valentynovych Zhevago |
35 |
ロシア・
マガダン州 |
「フィナンスィ・イ・クレジット」財閥総帥
最高会議議員(ティモシェンコ・ブロック) |
21 |
A.クリュエフ
Andriy Petrovych
Klyuev |
45 |
ドネツィク州 |
最高会議議員(地域党) |
22 |
V.ホロシコフシキー
Valeriy
Ivanovych Khoroshkovs'ky |
40 |
キエフ市 |
ウクライナ保安局第一副議長 |
23 |
S.タルタ
Sergiy
Oleksiyovych Taruta |
54 |
ドネツィク州 |
「ドンバス工業連合」財閥共同オーナー |
24 |
H.スルキス
Hryhoriy
Mykhaylovych Surkis |
60 |
オデッサ州 |
ウクライナ・サッカー協会会長
「ディナモ・キエフ」オーナー |
25 |
S.ブリャク
Serhiy
Vasyl'ovych Buryak |
43 |
ドネツィク州 |
国税庁長官 |
思ったよりも時間がかかるので、とりあえず25位までということで。機会があれば、そのうち続きを。
それにしても楽だわ、フロントページの作表。爪のアカを煎じて腐れDreamWeaverに飲ませたい。
(2010年2月4日)
第4弾は、現最高会議議長で、1月17日の大統領選第1回投票では2.35%を得票して7位だったリトヴィンを取り上げます。
出所は基本的に、http://file.liga.net/person/56.html で、部分的にロシア語版ウィキペディアからも情報を補足します。
* * * * *
あまり派手さはありませんが…
今回の大統領選の宣伝看板です
(2009年12月服部撮影) |
ヴォロディーミル・リトヴィン Volodymyr Mykhailovych Lytvyn
生い立ち 1956年4月28日、ジトーミル州のノヴォフラドヴォルィンシキー地区スロボダロマニウシカ村で、農民の家庭に生まれる。1978年、シェフチェンコ記念キエフ大学歴史学部卒。
卒業後も、1986年まで同大学の教員として働く。1986〜1989年は、ウクライナ共和国高等・中等教育省の課長として働いた。1989〜1991年は、ウクライナ共和国共産党のスタッフだった。ソ連崩壊の年である1991年から1994年までは、再びキエフ大学に戻り教員を務めた。
政界へ 1994年、ウクライナ独立後初の大統領選挙でレオニード・クチマ氏が当選したことを受け、リトヴィンは大統領補佐官に起用される。1年後には、大統領府副長官に昇格した。1996年9月には、大統領の筆頭補佐官、かつ補佐官・秘書グループ長となった。そして、1999年11月には、大統領府長官に上り詰める。このポストで、リトヴィンは「クチマの灰色の枢機卿」という異名をとるようになる。
2002年の議会選挙で、リトヴィンは、親クチマ政権の選挙ブロック「統一ウクライナのために」の選挙運動を指揮するという役目を任された。強力な資金力や行政資源にもかかわらず、同ブロックは比例区で3位に終わり、最大ライバルの「我らがウクライナ」に2倍の差をつけられた。ただ、小選挙区での獲得議席により、多数派は形成でき、召集された議会でリトヴィンは最高会議議長に選出された。2004年にリトヴィンには「ウクライナの英雄」の称号が冠せられた。
しかし、2006年にリトヴィンの政治家人生はピンチを迎える。彼の「国民党」のメンバーから主として構成されている選挙ブロック「リトヴィン国民ブロック“我ら”」が、議会選挙の比例区で2.44%しか得票できず、議席獲得に必要な3%を下回ってしまったのである。敗北後リトヴィンは、自分は必ずカムバックする、2009年大統領選に出馬する、それに備え自らの国民党の体制強化に努めると述べた。その甲斐あってか、2007年に実施された前倒し議会選挙では、リトヴィン・ブロックは3.96%を得票し、20議席を獲得する。当初は、「我らがウクライナ」および「ティモシェンコ・ブロック」とは組まないと発言していたが、2008年12月にはその連立に踏み切り、リトヴィンは再び最高会議議長に選出された。
暗部も リトヴィンは、かつてクチマ大統領の忠実な部下であっただけに、同政権の暗部にもかかわっていた疑いがもたれている。とりわけ、ゴンガーゼ記者殺害事件への関与が以前から指摘されており、2009年12月にも国家保安局の元大将が、殺害を指示したのはリトヴィンであったと発言する一幕があった。
学者としてのリトヴィン リトヴィンは、数百点に上る学術的な著作を著している。とりわけ、独立ウクライナのコンセプトを先駆的に示した著作により、1995年に博士号を与えられた。3巻本の『ウクライナ史』もある。ただし、リトヴィンの著作に関し、一部からは盗作であるとの批判も寄せられている。
キエフ大学といえば、ウクライナのなかでも最高峰の大学だが、ユーシチェンコ大統領は2008年4月、同学のヴィクトル・スコペンコ学長を解任し(政治的動機と言われる)、リトヴィンを学長代行に任命した。リトヴィンは、政治家としての活動に加え、2006年の議会選挙敗北後、同学の現代史講座長を現在まで務めているのである。ただ、政治活動が多忙であるとして、近く民主的な学長選挙を実施したいと述べ、自らはそれには出馬しない考えを示している。
リトヴィンは、1997年にウクライナ科学アカデミー準会員に、のちに正会員となり、現在はアカデミーの副総裁となっている。
プライベート 妻タチヤナは経済専門家。娘と息子がいる。
リトヴィンの弟のミコラ・リトヴィンは、ウクライナ国境警備局の長官である。もう一人の弟ピョートルは、軍人である。
リトヴィンの趣味はサッカー、釣り、乗馬、歴史書や著名人の回顧録を読むことである。
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こんな感じでした。朝から記事が1本できると、気持ちが良いですね。
「キーマンの肖像」シリーズは、以上で終わりにしようかと思います。ティモシェンコやユーシチェンコは、日本語で得られる情報がいくらでもあるし、シモネンコやモロズといった左派政党の指導者は落ち目なので、だいたいこのくらいを押さえておけば、現在のウクライナ政界の主な登場人物の人となりは把握できたのではないかと。
チヒプコ、ヤツェニューク、リトヴィンは、現在のところ日本語版のウィキペディアにも記事がないようなので、簡単にでもパーソナリティを紹介しておいたことは、それなりに意味があったと思います。だったらウィキペディアに投稿しろよと言われそうですが、すいません、ボランティア精神がないもんで(笑)。
(2010年2月3日)
第3弾は、若手ながら今回の大統領選でも存在感を発揮しているヤツェニュークを取り上げます。
出所は、http://file.liga.net/person/7.html と、ロシア語版のウィキペディアが半々くらいです。
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アルセニー・ヤツェニューク Arseniy Petrovych Yatsenyuk
生い立ち 1974年5月22日、チェルノウツィ州チェルノウツィ市生まれ。両親は、ロシア・ドイツ・ラテンアメリカ史の教師の父と、フランス語教師の母。1991年、特別英語学校を次席で卒業。同年にチェルノウツィ国民大学法学部入学(同学の歴史学部で父が教鞭を執り学部副部長を務めていた)。
1992年12月、18歳だったヤツェニュークは、大学に籍を置きつつ、法律会社「YurEk」を立ち上げ、民営化問題のサービスを提供した。この時の共同創業者がアンドリー・イヴァンチュクで、後に彼は、2007年12月にヤツェニュークが最高会議議長に選出された直後に、国営企業「ウクルインテルエネルホ」の社長に就任している。社長業は、1997年9月まで続けた。1998年1月から2001年8月までは、アヴァリ銀行の本社で、融資部門のコンサルタント、社長顧問として働き、最終的には副社長になった。
政界でのキャリア 2001年9月にクリミア自治共和国の経済相代行に任命され、政界に転身する。同年11月にクリミア自治共和国経済相に正式に就任、2003年1月まで務める。
2003年1月、当時ウクライナ中央銀行総裁だったセルヒー・チヒプコにより、ヤツェニュークは中銀第一副総裁に起用される。2004年7月にチヒプコが
ヤヌコーヴィチの選対本部長に就任した関係で、ヤツェニュークは大統領選挙が終わるまで中銀総裁代行を務めることになった。12月16日に最高会議が
チヒプコの退任を可決し、ヴォロディーミル・ステリマフ新総裁を任命するまで、ヤツェニュークは代行を務めた。この間、ヤツェニューク代行は、11月30日に、政治危機が金融セクターに波及しないよう、銀行預金の期限前引き出しを一時的に禁止する中銀決定を出している。2005年2月にヤツェニュークは中銀第一副総裁の職を解かれた。
2005年3月、オデッサ州行政府のヴァシリ・ツシコ議長(知事)がヤツェニュークを第一副議長に起用、同年9月までこのポストにあった。
2005年9月、ヤツェニュークはユーリー・エハヌロフ氏の新内閣で経済相に起用される。
当時、ヤツェニュークはオレンジ革命派の連立ができた場合の潜在的な首相候補と見なされていた。2006年5月に新たに選出された最高会議が内閣を退陣に追い込み、ヤツェニュークはしばらく経済相代行を務めたものの、最終的に8月にその職を失った。その間、ヤツェニュークはウクライナのWTO加盟交渉のリーダー役を果たし、「ウクライナ・EU委員会」の議長を務め、また当時から現在に至るまでウクライナ外国投資問題諮問会議の委員となっている。
2006年9月、ユーシチェンコ大統領がヤツェニュークを大統領官房第一副長官に起用し、内閣における大統領の全権代表となる。当時は、最高会議が親ユーシチェンコ派の閣僚を次々と解任していた時期で、これは非常に困難な仕事であった。同時に、2006年9月からヤツェニュークは中央銀行理事も務めた。
当時、ユーシチェンコ大統領がヤツェニュークを非常に頼りにしていたということが分かる。
2007年3月21日、ユーシチェンコが外相候補として提案したヤツェニュークを、最高会議が圧倒的多数で承認した(450議席中426の賛成)。これは、ヴォロディー
ミル・オフルィスコ氏の外相就任を議会が2度にわたり否決したあとの出来事である。採決に先立つ演説でヤツェニュークは、対外政策において経済を優先し、ウクライナの対外政策は現実的・実利的・明快であるべきで、欧州統合・欧州市場を機軸とすると述べた。ロシアに関しては、「きわめて重要なパートナー」であるとした。外相就任に伴い、ヤツェニュークは国家安全保障・国防評議会のメンバーともなった。
ヤツェニュークの外相在任期間は、2007年4月2日の議会解散に始まる政治危機と、ほぼ重なる。7月に親ユーシチェンコ大統領派の「我らがウクライナ」はヤツェニュークを比例名簿3位で議員候補に擁立
した。11月の選挙で議員に当選、これを受け12月18日に最高会議はヤツェニュークを外相から解任した。
2007年11月に最高会議議員に当選したヤツェニュークは、同年12月4日に議会の投票により議長に選出された(第8代ウクライナ最高会議議長)。「我らがウクライナ」「ティモシェンコ・ブロック」所属の227人が賛成票を投じた。
2008年9月17日、ヤツェニュークは与党連立の崩壊ゆえに議会議長を辞任した。11月11日に辞任受入を問う投票が議会で行われたが、109人の議員しか参加せず、226の定足数に足りなかったので無効となった。最初に賛成票を投じたのは、他ならぬヤツェニューク本人であった。11月12日、最高会議はヤツェニュークを2日間だけ本会議における議長の座から遠ざけ、議長辞任承認手続きに変更を加えた。秘密投票を、公開投票に変更したのである。最高会議は早速この新方式を適用し、ヤツェニュークの辞任を賛成233で可決した。11月21日にユーシチェンコ大統領を国家安全保障・国防評議会のメンバーから外した。
議会の議長から退いた後、ヤツェニュークは自らの政治団体「変革戦線」の組織作りを進めた。経済危機、政治的無秩序、既存の政治家たちへの市民の倦怠感という状況下で、早くも2009年2月には来たる大統領選における候補者としてヤツェニュークの支持率が高まった。ユーリー・ルツェンコ内相や一連のマスコミの支援もあり、ヤツェニュークがソ連時代のアニメ作品のキャラクターに似ていることもキャンペーンに役立った。2009年5月22日、35歳の誕生日に、大統領選への出馬の意向を表明する。『セボードニャ』紙は、ヴィクトル・ピンチューク、ヴィタリー・ハイドゥク、ド
ミトロ・フィルタシといった有力実業家がそのスポンサーになると報じた(ただし、本人は実業化とのつながりを一貫して否定している)。その選挙キャンペーンは、クリコフ、セルゲイツェフ、ヴァリトフといったロシアの政治コンサルタントが担当している。ただし、2009年夏のキャンペーンは不成功だったと、専門家が評している。
政策観 経済相時代には、「ガス戦争」「肉・乳製品戦争」と、2度にわたりロシアと対立した。また、WTO加盟交渉の責任者として、議員たちにグローバリゼーションを説き、必要な法律を可決させた。
ユーシチェンコ大統領の代理として内閣において地域党と渡り合いながら、政敵から憎まれることはなく、その後外相就任の際には支持も受けた。外相の座にあっても、ロシアと西側の間でうまくバランスをとった。妥協ができ、それでいてプロフェッショナルな人物とされている。
プライベート 父のピョートルはチェルノウツィ国民大学歴史学部で副学部長として働いており、母のマリヤはチェルノウツィのリセの一つでフランス語を教えていると言われている。姉は米サンタバーバラ在住。妻のテレザは1970年生まれで、彼女は両親とも哲学者という家庭に育った。ヤツェニュークと妻には、2人の娘がいる。一家は2003年からキエフ郊外で暮らしているが、お隣は
ヤヌコーヴィチの別荘である。
なお、ヤツェニュークについては、2009年にマスコミ等でユダヤ系であるとの噂が流れ、ウシホロド市長のラトゥシニャクやモロズ社会党党首がそのような発言をした。9月にはある学者が編纂した『ウクライナの有名ユダヤ人50人』にヤツェニュークが掲載された。ただし、ヤツェニューク本人は、両親ともにウクライナ人であり、自分は宗教的にはギリシャ・カトリック(ユニエイト)であると発言している。
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こんな感じです。ちょっと雑でしたが、時間がないのでご勘弁ください。
(2010年2月2日)
引き続き、ヤヌコーヴィチのプロフィールです。基本的に、 http://file.liga.net/person/2.html にもとづくが、ところどころウィキペディアからも情報を補足。
なお、ヤヌコーヴィチと伸ばす表記の方が主流になりつつあるような気もしますが、私は基本的に、むやみに伸ばさないというのを原則としております。また、「v」を「ヴ」とするかどうか、「ヴィッチ」「ビッチ」という具合にはねるかどうかも判断の分かれるところで、これらを組み合わせると8通りものバリエーションができてしまいます。まあ、大統領にでもなれば、日本のマスコミなどでの表記も、ある程度統一的なものに落ち着くかもしれないので、しばらく様子を見ることとして、とりあえず
ヤヌコーヴィチのままで。
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ヴィクトル・
ヤヌコーヴィチ
(ヤヌコーヴィチ、ヤヌコビッチ、ヤヌコービッチ等々のバリエーション) Viktor Fedorovych Yanukovych
生い立ち 1950年7月9日、ドネツィク州エナキエヴォ市の鉄道労働者の家庭に生まれた。2歳のときに母親を喪う。高校卒業後の1969年に働き始める。
ドネツィク工科大学(機械技師専攻)卒業、ウクライナ外国貿易アカデミー修了、国際法学修士。
若き日の過ち 1967年には強盗、1970年には傷害と、若い頃、2度収監されたことがある。前科はだいぶ前に抹消されているというのが公式的な情報だが、
ヤヌコーヴィチ自身は初めて首相に就任する前に書いた自伝のなかで、前科についてあえて触れている。
経歴 1969年にエナキエヴォ冶金工場のガス技術者。その後、自動車製造工、自動車会社機械工としても働く。20年にわたり様々な企業の幹部を務め、生産合同「ドンバストランスレモント」、「ウクルウグレプロムトランス」、「ドネツィク州地域自動車輸送合同」の総裁を務めた。
1996年8月、ヤヌコーヴィチはドネツィク州行政府副議長(副知事に相当)に任命され、1ヵ月後には第一副議長に昇格する。1997年5月から2002年11月まで、ドネツィク州知事を務めた。ドネツィク州議会議員でもあり、1999年5月から2001年5月までは州議会議長も兼任した。
2002年11月21日、クチマ大統領がヤヌコーヴィチを首相に指名。2003年4月、ヤヌコーヴィチは地域党の党首となった。2004年7月、地域党により、大統領候補に推挙される。スポンサーの潤沢な資金、行政資源の投入、国の南・東部における人気にもかかわらず、2004年の大統領選挙では野党候補のユーシチェンコに屈した。
大統領選挙での敗北後、ヤヌコーヴィチは半年以上、公の場から姿を消した。一部の評論家は、地域党の党首を辞するとか、政治生命はもう終わりだと指摘した。それでも、地域党の幹部は、
ヤヌコーヴィチを担ぎ続けた。2006年春の最高会議(議会)選挙では、ヤヌコーヴィチ率いる地域党が最大得票を収め、社会党および共産党と組んで議会で多数派(「危機対策
連立」)を形成した。この議会多数派とユーシチェンコ大統領の交渉の結果、2006年8月4日にヤヌコーヴィチは首相に返り咲いた。
首相就任および組閣後、専門家によって様々な展望が語られ、ヤヌコーヴィチは今日の政治経済情勢のなかでは最適な人物でバランス政治の象徴だと語る向きもあれば、
ヤヌコーヴィチは一部のビッグビジネスおよび財閥の利益を優先するだろうという見方もあった。一方、対外関係においてヤヌコーヴィチは、クチマ前大統領の「多極路線」を踏襲して、欧州的・民主的価値観を標榜しつつ、常にクレムリンに気を使った。
大統領との対立 ヤヌコーヴィチが首相に返り咲いた直後から、「危機対策連立」はユーシチェンコ大統領を攻撃し、大統領からなるべく多くの権限を政府および議会側に奪い取ろうとした。この攻撃があまりに威力を発揮したため、最終的に大統領は、民主主義の危機を国民に表明し、第5回最高会議の期限前解散と前倒し議会選挙の実施に関する一連の大統領令を出すことを余儀なくされた。危機対策連立の側はこれに猛反発し、すぐにキエフに多数の支持者を集結させた。
激しい対立と、複雑な交渉を重ねたのち、両者は議会選挙を2007年9月30日に実施することで合意した。選挙の結果、地域党は175の議席を獲得、第1党とはなったが、連合工作で過半数に届かず、野党に回ることとなった。
ヤヌコーヴィチは地域党会派の会長を務めるとともに、影の内閣の首相となり、次なる戦いに備えることとなった。
プライベート 妻リュドミーラは専業主婦。息子が2人。長男のアレクサンドルは医者、次男のヴィクトルは地域党選出の議員となっている。
趣味はスポーツ(テニス)、猟、鳩飼育。
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以上です。すいません、とくに新味はなく、全然面白くなかったですね。唯一面白いのは最後の鳩飼育くらいでしょうか(笑)。ヤヌコーヴィチなら、もっと探せば、危なくてきわどい評伝がいくらでも出てくると思うのですが、すぐに見付けられません。とりあえず、1日1本の記事はアップするというノルマだけはこなしたというところでしょうか。
(2010年2月1日)
ちょっと趣向を変えまして、現在のウクライナ政界の主な登場人物のプロフィールを順次紹介してみたいと思います。最初は、1月17日の大統領選挙第1回投票で3位につけ、キャスティングボートを握る人物として一躍脚光を浴びているS.チヒプコを取り上げます。
ところで、今年から私は、ウクライナの固有名詞をウクライナ語風の読み方で日本語に訳すことにしたので、チヒプコも「チヒプコ」に変えなければならないのかなと、悩んでいます。でも、さすがにちょっと違和感があるし、日本語で「チヒプコ」と検索しても2件くらいしかヒットしないので…。それで、在ウクライナ日本大使館はどう訳しているかと思ってホームページを見たら、何と同ホームページの情報はロシア語読みで統一してありました(・o・)。何だか、二階に上って、はしごを外された心境ですが(笑)。これでいいんですか、M野さん
!?
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以下、基本的に http://file.liga.net/person/224.html にもとづく。
セルヒー・
チヒプコ(チギプコ) Serhiy
Leonidovych Tihipko
生い立ち 1960年2月13日、モルダビア・ソビエト社会主義共和国ラゾフスク地区のドラゴネシティ村(ウクライナ人が居住していた村)生まれ。両親は養蜂場で働いていた。1982年、ドニプロペトロウシク冶金大学卒業(専門は冶金技師)。1996年に「ウクライナの商業銀行システムの形成と国家管理」というテーマで、経済学博士候補。
キャリア 受けた教育は冶金だったが、彼が頭角を現したのはその分野ではない。軍役の直後、1984年にコムソモール活動に派遣された(注:コムソモールというのは共産主義青年同盟のことで、ソ連共産党の青年部のようなものであり、これの幹部になることは当時の出世コース)。ウクライナ・コムソモール委員会書記、ドニプロペトロウシク機械冶金技術学校教化活動の主任および副部長、コムソモール・ドニプロペトロウシク州委員会宣伝・扇動主任として働く。1989〜1991年にはコムソモール・ドニプロペトロウシク州委員会第一書記だった。
1991年にドニプロ銀行の副社長に転身。1992年3月には、ドニプロペトロウシクに設立された新たな銀行「プリヴァトバンク」の社長に。一説によれば、I.コロモイスキーやG.ボホリュボウといったプリヴァト・グループの創業者たちに自前の銀行を設立することを提案したのは、他ならぬ
チヒプコだったという。ボホリュボウがあるインタビューで語ったところによると、チヒプコは最初は雇われ経営者だったが、次第に重要なパートナーかつ株主となったという。のちに、その持ち分はプリヴァトの創業者たちが買い上げた。
1994〜1997年、チヒプコはクチマ大統領の通貨問題担当特別コンサルタントを務める。
その後、1997年4月から7月にかけて、ラザレンコ内閣で経済改革担当副首相。1997年から1999年にかけて、プストヴォイテンコ内閣で経済担当副首相。ユーシチェンコ内閣では、経済相。
2000年の最高会議(議会)選挙において、パウロフラード市の選挙区で当選し、議員となる。2002年には、親クチマ大統領ブロック「統一ウクライナのために」の比例名簿で再選。2002年12月から2年間、ウクライナ中央銀行総裁を務める。
2000年から2005年まで、労働ウクライナ党の党首。
この間、ウクライナ国家安全保障・国防会議のメンバー、政府の各種委員会・審議会等の委員を歴任。CISの各政府間組織においてウクライナを代表した。
2004年11月にいったん政界から身を引き、自らのビジネスであるTAS金融グループの経営に専念。同グループは、TASインベストバンク、TASコマーシャルバンク、TASビジネスバンク、TAS保険会社、家庭医療クリニックなど様々な企業を傘下に収めていた。
2007年、TASインベストバンク、TASコマーシャルバンクをスウェーデンのSwedbankに売却。マスコミ報道によれば、両銀行の自己資本が1.6億ドルであったところ、売却額は7.4億ドルに上った。
2008年3月18日、ティモシェンコ首相がチヒプコを自らの顧問に任命。同時に、内閣付属の投資家評議会が再度創設され、ティモシェンコとチヒプコがその共同議長に就任した。2009年7月8日、本人の申し出により、
チヒプコは首相顧問の職を解かれる。
2009年6月、TAS金融グループの社長、スウェドバンクの社長のポストを離れ、政治活動に専念する。
大振りな看板が目立つチヒプコのキャンペーン
(2009年12月服部撮影) |
人物像 1997年に、V.ピンゼニクに代わりチヒプコが経済担当副首相に就任した際、当時のA.ラズムコウ大統領第一補佐官は、「市場理論家に代わって市場実務家が登場した」とコメントした。
2004年大統領選の際、チヒプコは唐突にヤヌコーヴィチ候補の代理人となり、その選対本部長に就任した。第1回投票の1週間後、オレンジ革命の開始を受けて、
ヤヌコーヴィチ陣営を離脱し、ウクライナ中銀総裁からも辞任した。その後、長らくマスコミから姿を消していた。それに先立ち
チヒプコは第5チャンネルの放送で、「ヤヌコーヴィチと別れるわけではない。ユーシチェンコが大統領になったら、彼に対する反対派になる」と発言していた。
ちなみに、今日でも多くの識者が指摘するのは、もしも2004年にクチマ大統領がヤヌコーヴィチ首相ではなくチヒプコを後継候補に据えていたら、選挙結果はまったく違うものになっていたはずだという点だ。2004年大統領戦後、
チヒプコはもっぱらビジネスに専念し、労働ウクライナ党の党首でありながら、2006年および2007年の議会選挙もやり過ごしてきた。ただし、早くも2007年8月には『プロフィール』誌のインタビューに対し、今はビジネスに集中しているので、いつかは明言できないが、いずれ政界に復帰することも否定しない旨述べている。
チヒプコは、ウクライナ富豪ランキングの常連である。2008年2月には、『フォークス』誌のランキングで、資産9億ドル、第28位と評価された。
プライベート 最初の結婚で、アンナという娘が生まれ、彼女はもう成人している。TAS金融グループというのは、実はこの娘の名からつけられた名前である(Tigipko
Anna Sergeyevnaの頭文字をとった)。2度目の結婚では、3人の子供を設けた。
趣味はスポーツ(ランニング、サッカー、テニス、スキー、水泳)、読書。
* * * * *
以上です。こうやって改めてみると、ソ連時代にコムソモールの出世コース、その後ビジネス界に華麗なる転身、さらには閣僚および中銀総裁と申し分のない経歴であり、今回の大統領選挙には満を持しての出馬と言えそうです。
(2010年1月31日)
体調はほとんど回復しました。症状は明らかにインフルエンザだったのに、1日ほど安静にしていたら簡単に回復してしまって、いったい何だったんでしょうという感じです。
さて、現地ウニアン通信に、B.クシニルク(ウクライナ国民党のエコノミスト)、R.ソロモニューク(ドイツ・シラー大学所属)という2人の専門家による今後のシナリオが出ているので、その要旨を紹介します。かなり具体的で、緻密な予想となっています。以下で、3つシナリオが検討されていますが、可能性の高い順番に挙げられているとのことです。
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第1シナリオ。ヤヌコーヴィチが一定の差をつけて勝つ。その場合、地域党はティモシェンコ首相を退陣させようとするが、その方法には、@合法的なもの、A非合法のもの、B代替方式、の3つがある。 |
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@の合法的なティモシェンコ解任。議会で新たな多数派を形成し、ティモシェンコ内閣を不信任、新たな首相を承認し組閣。より詳しく見ていくと、地域党は潜在的には不信任を表明できるが、新たな多数派の形成には力が足りない。というのも、多数派形成のためには、地域党、リトヴィン・ブロック、共産党の他に、我らがウクライナの票も必要。だが、我らがウクライナの票を引っ張り込むのには、いくつかの難点がある。@我らがウクライナの71議員のうち現時点で36名はティモシェンコ・ブロック寄りで、彼らはティモシェンコと組まない限り次回議会選での当選はないが、候補者リストに入る保証はないので、解散を望まない。A我らがウクライナの議員のうちユーシチェンコ寄りの者たちはやはり、次回議会選で当選する保証がないことから、地域党の影響力を限定し現議会を延命させたいと考える。B我らがウクライナのうちバローハ寄りの5〜8人は、やはり次回選挙で3%を超えるような党の上位名簿に入れてもらえる見込みが乏しいことから、前倒し議会選につながるティモシェンコ解任は望まない。C我らがウクライナの議員のうち、特定のリーダーに依拠していない者たちも、やはり早期議会選は望まない。かくして、我らがウクライナ内部で、内閣の交代を巡って、熾烈な争いとなる。ただし、不信任が可決されても、ティモシェンコは首相代行には留まることになり、これはティモシェンコ・ブロック、リトヴィン・ブロック、一部の我らのウクライナにとっては好都合で、逆に地域党や、ユーシチェンコ・
チヒプコ・ヤツェニュークの支持派で次回選挙で名簿上位に載せてもらえる議員たちにとっては不都合。我らがウクライナの議員たちにとってティモシェンコ解任が望ましいのは、地域党と多数派を形成できる場合だけだが、それも地域党関係者が首相にならないことが望ましい。ユーシチェンコは適任だが、地域党側にとっては、ティモシェンコを引きずり下ろすためだけにユーシチェンコと組んだということで、イメージが悪くなる。理論的には
ヤヌコーヴィチおよび地域党は首相職をヤツェニュークまたはエハヌロフに提案しうるけれど、それは両者が自立的にまたはユーシチェンコ・
チヒプコの助けを得て我らがウクライナの議員多数派を動員した場合だが、これも問題が多い。地域党ではチヒプコがティモシェンコ・ブロックと提携しかねないということを疑っているので(ティモシェンコ・ブロックでは逆を疑っているが)、
チヒプコを首相候補にすることはできない。他方、仮にこうしたシナリオでティモシェンコ首相を解任したとすると、別の脅威が発生し、そのことは地域党や他の勢力も認識している。それは、内閣が宙に浮くことで、それでなくとも厳しい経済状況がさらに悪化すること。また、地域党にとっては、ティモシェンコ・ブロックが強力な野党になるのは悪夢。地域党が多数派および内閣を形成できたとしても、不安定なものとなり、結局議会選挙に打って出るしかなくなる恐れも。それは、次回選挙での議席確保に自信のもてないリトヴィンにとっても不都合。というわけで、新たな連立は、少なくとも我らがウクライナの一部、リトヴィン・ブロック、共産党、ティモシェンコ・ブロックにとっては不都合なので、この方法でのティモシェンコ首相解任は考えにくい。 |
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Aの非合法のティモシェンコ解任。これもきわめて考えにくい。まず、武力衝突に発展する危険があり、警察、検察、その他の武力機関のうちティモシェンコ・ブロックの息のかかった部分が参戦することが考えられる。ティモシェンコ・ブロックが司法に影響力をもっていることを考えれば、地域党は敗れる可能性がある。また、来たる議会選に向け、有権者の目にティモシェンコの株が上がってしまうことになりかねない。 |
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Bの代替案。すべての政治勢力にとって悪くない妥協的な人物を首相に選ぶ。ティモシェンコ・ブロックにも地域党にも中立的な人物。その場合、首相はリトヴィン・ブロックや共産党が難色を示す前倒し議会選は望まないはずである。内閣は、地域党の支配下には置かれない。ただし、その場合も、2007年のように、なし崩し的に議会選挙に突入する可能性は否定できない。その可能性は、財政が悪化していることに伴い、増大する。もうひとつの可能性は、憲法裁判所が、内閣は226名以上の議員によって常時支持されていなければならないという新たな判決を出すことで、そうなれば新大統領にも議会を解散する大義名分ができる。ただ、その場合でも議会選前に地域党がティモシェンコ首相の解任に乗り出す可能性は否定できない。首相が選挙で発揮できる行政的手段をティモシェンコから奪い、自らそれを行使するとともに、政府が隠している財政悪化などの情報を得てそれをティモシェンコを非難するのに利用できるから。 |
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というわけで、地域党にとって客観的に受け入れやすいのは、第1に方法はともかくティモシェンコを権力から遠ざけること、第2に前倒し議会選挙を実施すること、第3に新たな議会において新たな勢力を招き入れて新たな内閣を組閣すること。新たな議会において、首相ポストも含め、潜在的な同盟相手と交渉することが必要となろう。地域党に改革はできないが、次の議会選挙に向けて有権者の支持を強化したい
チヒプコやヤツェニュークの勢力にはそれができる。したがって、この現時点で最も可能性が高いシナリオによれば、かなり安定した議会と、地域党に完全にはコントロールされない政府ができる。ティモシェンコ・ブロック以外のすべての主要勢力を満足させる。 |
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次に第2のシナリオ。可能性は低いが、ティモシェンコが勝つというもの。その場合、ティモシェンコは当然、最大のライバル地域党と、それに近い財閥の影響力を削ごうとするだろう。そうすると考えられるのは、地域党が分裂を始め、
ヤヌコーヴィチが党首の座を追われ、地域党系の財閥の一部がティモシェンコにすり寄ること。ティモシェンコはこのプロセスを加速するため、司法、行政、税制などあらゆる手段で地域党系の財閥を締め上げ、地域党の財政基盤を崩そうとするだろう。ティモシェンコは、議会多数派の同意を必要とする首相候補を指名せず、自分の子飼(トゥルチノフ)を首相代行にとどめ、行政府のすべての人事や資金・資産を自らの管理下に引き続き置こうとする。事態は宙ぶらりんとなるが、ティモシェンコはその責任は無能な議会にあると主張し、有権者の受けをねらう。ティモシェンコはさらに、武力機関の支持を背景に、マスコミの支配をねらい、半年あまりの間に主要テレビ局を支配下に入れるだろう。とくに、インテルは武力制圧され、1+1やアフメトフ系の「ウクライナ」は、ティモシェンコへの忠誠を余儀なくされるか、資産没収の脅威に直面するかも。その後ティモシェンコは大統領権限強化に関する国民投票に訴え、有権者の意識の低さを考えると、国家権力が一人の人間の手に集中してしまう結果になる恐れがある。その間、経済状況は悪化の一途を辿る。しかし、たとえテレビ局を支配したとしても、こうした体制は長続きせず、2〜3年のうちに社会的緊張が極限に達し、予測のつかない事態となる。 |
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最後に、第3のシナリオ。決選投票が微妙な結果となり、結果確定に長期間を要したり、結果が無効と見なされたりする。決選投票の差が2〜3%だったり、「両候補に反対」という投票が30%を超えるような多数に上ったりしたケース。敗者側の提訴で結果確定が数ヵ月もずれ込んだりすると、その間に国家財政が完全に破綻する。また、負けることを悟った候補者が、選挙の実施自体を妨害するという可能性も排除できない。 |
2人の分析は、こんなような具合です。長いし、ややこしかった。
ティモシェンコが勝つ可能性は低く、同氏が大統領になったらとんでもないことになると強調しているのが特徴的なので、ヤヌコーヴィチ陣営寄りの論客なのかなと思いましたが。実は記事の最後の部分では、ティモシェンコも
ヤヌコーヴィチも権力とカネの亡者で、ロクなものではない、「両候補に反対という意思表示をしよう」と結んでいます。散々細かいシミュレーションを示しておいて、結論がそれかよという気もしますが。
出所→http://www.unian.net/rus/print/359438
(2010年1月30日)
昨年の末、ウクライナでも新型インフルエンザが流行して、大規模な政治集会が自粛されたりと、意外と今回の選挙戦にも影響を及ぼしています。一時は、それが原因で投票が延期されるのではないかといったこともささやかれていましたが、第1回投票はとりあえず予定どおり行われました。
しかし、私、どうもインフルエンザにかかってしまったような感じです。昨日から調子が悪く、喉の痛み、発熱、頭痛などがあります。個人的に、熱が出るなんてことは10年に一度くらいしかなく、昨日は初めて体温計を買って計ったりしました(36.9℃しかありませんでしたが、笑)。というわけで、ちょっとぐったりしているので、このコーナーの更新も多少滞るかもしれません。悪しからず。
(2010年1月29日)
毎度お馴染み、ロシア系証券会社のルネサンス・キャピタルが、1月27日、‘Ukraine's presidential election ―Between
the rounds: A reality check’と題するレポートを発表しました。今回はごく短いレポートです。
思うに、証券会社のレポートというのは、お金儲けのための情報源なので、ある意味で学者やマスコミの評論よりも信憑性が高いと言えるかもしれません。間違ったら投資家に「カネ返せ」と言われますので(笑)。もちろん、サブプライム問題で見られたように、集団幻想を煽ってしまうこともあるのでしょうが……。
ともあれ、今回の小レポートの要旨は、以下のとおりです。非常にオーソドックスな分析だと思います。
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決選投票では、ティモシェンコが巻き返し、僅差で決着が付くと予想される。どちらが勝つとしても、僅差ゆえに、敗者側が選挙結果にクレームをつけて法的手段に訴えることが考えられ、選挙後の政治的不安定が生じる恐れがある。 |
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第1回投票終了後、ティモシェンコとヤヌコーヴィチは一定の得票を得た他候補との交渉に入った。キーマンとなっているのが3位のチヒプコであり、ティモシェンコは彼に支持と引き換えの首相就任を打診、
ヤヌコーヴィチも首相起用を明言こそしていないもののやはり
チヒプコに協力を呼びかけた。しかし本人は特定の候補を支持しないと明言しており、我々も彼は中立を貫くと予想する。なお、チヒプコの場合はたまたま名前が表に出たが、両陣営は他の敗退した候補者とも水面下で交渉していると見られる。 |
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われわれは以前のレポートで前倒しの議会(最高会議)選挙は考えにくいと述べたが、若干状況が変わった。第1回投票でチヒプコとヤツェニュークが非常に多くの支持を集めたので、現在両氏は議会に勢力を有していないものの、3ヵ月以内に議会選挙をやれば躍進できる。したがって、両氏は、前倒し議会選挙を実施することと引き換えに、新大統領を支える連立に加わることが考えられる。
ヤヌコーヴィチの地域党が議席を増やすことは期待しにくいが、ヤヌコーヴィチが大統領の場合、新たな連立によって、現在よりも議会に強固な基盤を築けることになる。一方のティモシェンコ側は、前倒し議会選挙によって暫定的な内閣を延命でき、それによって新議会で勢力を拡大するチャンスが生じるので、必ずしも前倒し議会選に反対しないであろう。 |
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第1回投票の結果は大方の予想どおりだったので、それによって投資家の心理が影響を受けることはない。決選投票まで、大きな動きはないであろう。ただし、両候補の差はわずかであり、前倒し議会選挙の可能性も高まっていることから、選挙後の政治的不安定が、我々が以前想定していたよりも長期化する可能性がある。ゆえに、我々は投資家に対し、ウクライナユーロ債の利益を決選投票前に確定しておくことを、引き続き推奨する。とはいえ、ウクライナ政治のバランス変化は、長期的にはガバナンスを強化し、安定をもたらす。選挙後の不安定期は、ウクライナの債権を安値で買うチャンスでもある。 |
(2010年1月28日)
1月25日にウクライナ中央選挙管理委員会が、1月17日の第1回投票の最終的な確定結果を正式に発表しました。こちらです。国内だけでなく、在外投票の分もくっつけて掲載します。これで、有権者の正確な数なども明らかになったので、先日私が作成した表を再検証したり修正したりしたいところですが……。うむ、数字だらけだし、細かすぎて、とても見る気がしない。州ごとじゃなくて、225の地区ごとになっているし。エクセルじゃないから、集計もできないし。とりあえず、データの再検証作業は他日を期したいと思います。
(2010年1月28日)
昨年の暮れに目にしたニュースで気になっていたものを、メモ代わりにここで紹介します。
ザカルパッチャ州の州都がウシホロド市というところなのですが、そこの市長をやっているラトゥシニャクという政治家がいます(写真)。実は今回のウクライナ大統領選にも出馬していて、1月17日の第1回投票で第16位(得票率0.12%)という成績でした。それでも、地元のザカルパッチャ州では2.61%を得票し7位だったようです。
そのラトゥシニャク氏が、昨年暮れに、ウクライナを連邦制国家に改革すべきだということを言っていて、ちょっと発言が分かりにくい部分もありますが、興味深いので記事の大意を紹介する次第です。本コーナーでは1月24日に「改めて第1回投票結果を地域別に整理・分析
」という記事を載せましたが、その時に触れたザカルパッチャ州およびチェルニウツィ州の不思議な投票パターンを解く鍵にもなるかもしれません。
ラトゥシニャク市長いわく。もしもウクライナが連邦国家にならなかったら、6つの国に分裂してしまう。ウクライナの実質的にすべての州は、個々の下位文化だ。ザカルパッチャ、チェルニウツィ、クリミアの他にも、さらに10以上の下位文化がある。流血を避けるために最善のシナリオは、ユーゴスラビア・シナリオだ(服部注:このあたり、言わんとしていることがよく分からない。ユーゴこそ流血になったのでは?)。我々のザカルパッチャ州では、分離主義が非常に強い。それは何も、オーストリア・ハンガリーの一部になりたいとか、ルーマニアまたはポーランドの一部になりたいというのではない。問題は、当地にとって魅力的な国家、発展のための良好な条件がつくられていないということだ。だからこそザカルパッチャ住民の90%以上が分離を望んでいる。これは大問題であり、考慮しなければならない。ユーシチェンコ大統領とバローハ(元ザカルパッチャ州知事にして前大統領官房長、ルシン人運動の支持者)は、自らの責任や犯罪から逃れるために、この状況に付け込んで王国を築こうとしている。これらのことすべてを指揮しカネを出しているのがバローハとその兄弟たちであり、またウシホロド市を除いて、その配下にある行政府、州・地区議会である。
とまあ、こんなことを言っています。正直、断片的な発言引用で、真意がよく分からない部分もありますが…。それでも、ザカルパッチャ州の複雑なエスニック事情、入り組んだ政治力学をうかがい知ることはできるでしょう。西ウクライナと一口で言っても、実際にはかなり多様で錯綜した地域であるということだけは言えそうです。
出所→http://www.regnum.ru/news/1232754.html
(2010年1月27日)
現地の経済週刊誌『エクスペルト・ウクライナ』の1月25日号に、有益な資料が出ていたので、紹介します。
まず、2009年12月の世論調査で、有権者が大統領選挙の第1回投票においてどのような評価基準を重視するかを答えているものの結果です。最大3つまでの複数回答。結果は、下のグラフのようになりました。具体的なパーセンテージは明記されておりませんが、上から、@候補者の理念が自分に近い、A危機克服の具体的な方法を知っている、B人物として魅力的、C国家発展のための最良の戦略を持っている、D最高のプロのチームを持っている、E国民のことを思いやっている、Fより小さな悪である、G対外政策観が自分に近い、H政界に新風を吹き込んでいる、Iウクライナを団結させられる、J汚職の度合いが低い、K国家の独立・安全保障を確保できる、となっています(一番最後は「回答困難」)。
次に、第1回投票における主要候補の地域別の得票率をマップ化したものです。上から、ヤヌコーヴィチ、ティモシェンコ、チヒプコ、ヤツェニューク、ユーシチェンコで、色が濃いほど得票率が高かったことになります。
最後に、第1回投票で各候補を支持した有権者の票が、決選ではどこに流れるかを予測した表が出ているので、それを紹介します。マスコミではそういう情報が散々流れていて、私も紹介に努めていますが、断片的なものが多く、このエクスペルトの資料のように一覧表にしてくれるとありがたいですね。なお、票が決選でどこに流れるかというのは、事前の世論調査と第1回投票当日の出口調査から弾き出したとのことです。
このシミュレーションによれば、決選投票ではヤヌコーヴィチ50.2%、ティモシェンコ42.3%になると試算されています。
出所→http://www.expert.ua/articles/7/0/7427/
(2010年1月26日)
ウクライナでは、1994年、1999年、2004年と、過去3回の大統領選挙がいずれも決選投票となりました。そして今回も決選にもつれ込み、しかも大接戦となっています。考えてみれば、決選投票で大統領が決まるなどというドラマチックなイベントは、ロシア・NIS圏では稀有なことです。色々と問題を抱えたウクライナではありますが、民主化の面では確かに進んでいるということは言えそうです。
他の国のことを、おさらいしてみましょう。
ロシアでは、1996年大統領選の決選投票が最後。現職エリツィンが体制の資源を総動員して野党共産党のジュガノフに何とか勝利。それ以降は、体制派候補が第1回投票であっさりと当選を決めている。
ベラルーシでは、1994年大統領選の決選投票が最後。そのただ一度の決選投票が、ずいぶん重大な結果をもたらした。それ以降は、ルカシェンコが欧米から批判を受けながらも第1回投票で圧勝している。
モルドバは、そもそも国民の直接投票でなく、議会で大統領を選出する方式に変わってしまった。
中央アジアやコーカサス諸国は専門外なのでよく知りませんが、イスラム系の国々では常に現職が圧勝し、決選投票なんてまずなかったと思います。アルメニアやグルジアではどうだったかな?(ちゃんと調べる時間がない)。
ウクライナも、2004年にそういう国になりかけたのですが、それを阻んだというだけでも、オレンジ革命の意義は大きかったと言えるかもしれません。
(2010年1月26日)
ウクライナの社会調査機関「SOTSIS」が、ウクライナのすべての州都(キエフとシンフェロポリを含む)の住民を対象に、第1回投票直後の1月18〜20日に実施した世論調査の結果が発表されました。その概要は以下のとおりです。
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回答者のうち、棄権すると答えたのが12.5%、両候補に反対と投票すると答えたのが4.0%、誰に入れるかを言いたくないという回答者が6.5%だった。 |
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支持する候補名を挙げた回答者の答えを集計したところ、ヤヌコーヴィチ:58.9%、ティモシェンコ:41.1%で前者が優勢だった。 |
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調査結果から見て、決選投票の投票率は、第1回投票よりも数ポイント上がり、71〜72%に達する可能性がある。 |
出所→http://www.interfax.com.ua/rus/press-conference/30277/
(2010年1月25日)
同じくヤリョメンコ記念ウクライナ社会学研究所の世論調査(前出のものと同じ調査)にもとづき、同研究所の幹部が語ったところによると、
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決選投票では、第1回投票よりも、両者の差がかなり縮まり、50:50のような状況も考えられる。第1回投票で敗退した候補の支持者の多くの部分が、ティモシェンコ支持に回る。今日の時点で決選があれば、
ヤヌコーヴィチは50〜51%、ティモシェンコは45〜46%となる。 |
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第1回投票で他の候補を支持した有権者の行動原則は、より小さな悪を選択、誰それに賛成というよりも誰それに反対というものになろう。 |
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我々の調査によれば、チヒプコの支持者は決選では37%がヤヌコーヴィチ支持、29%がティモシェンコ支持。ヤツェニューク支持者では、45%がティモシェンコ支持、18%が
ヤヌコーヴィチ支持。ユーシチェンコ支持者では、52%がティモシェンコ支持、8%がヤヌコーヴィチ支持。 |
出所→http://www.interfax.com.ua/rus/press-conference/30214/
(2010年1月25日)
インタファクス通信の記事に、1月17日の投票日当日にヤリョメンコ記念ウクライナ社会学研究所がウクライナ全土で実施した世論調査結果がさわりだけでているので、それを紹介します。各候補者の支持層に、どんな社会的特徴があるのかが示されています。地域的な特徴の話は新味がないので、それ以外の部分を取り上げます。
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ヤヌコーヴィチは、州都以外の都市(つまり中小都市)での優位が大きい。支持層の22%は民族的なロシア人。有権者平均と比べて、ヤヌコーヴィチ支持者は高等教育修了者の比率が6%ポイント低い。 |
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ティモシェンコの支持者は、農村人口の比率が25%と高く、民族的なウクライナ人の比率も93%と高い。 |
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チヒプコ支持者の54%は州都の居住者で、高等教育修了者が43%に上る。ほぼ半分が39歳以下。 |
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ヤツェニュークの支持層は、教育水準や年齢層で、チヒプコのそれとほぼ重なる。他方、民族構成ではウクライナ人の比率が91%に上り、この点ではティモシェンコと重なる。 |
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ユーシチェンコ支持者に至っては、その97%が民族的なウクライナ人。 |
出所→http://www.interfax.com.ua/rus/press-conference/30230/
(2010年1月25日)
ヒマがなくてなかなかできませんでしたが、1月17日に実施された第1回投票の投票結果を、ウクライナ中央選挙管理委員会のサイトに掲載された公式データをもとに、
地域別に表に整理してみました。
表はこちらのPDFをご覧ください。 (エクスプローラーで閲覧できない場合は、PCに保存してご覧ください。)
データにつき、いくつか注釈を。まず、一番左の列の「有権者数」というのは、事前に示されていた大まかな数です。実際には、投票直前に亡くなる人などが出てくるはずですので、この数字が最終的な有権者数ではありません(地域の数字はだいぶアバウトになっていますし)。ただ、中央選管のサイトを見る限り、この数字しか見当たらないので、やむをえずこれを使います。また、そのせいかどうかよく分かりませんが、この有権者数と投票数から投票率を出すと67.22%になり、中央選管が発表している投票率66.76%と微妙に合いません(無効票などの扱いが関係している可能性あり)。表に掲載した投票率は、あくまでも中央選管が発表したものですので、ご注意を。それから、西部・中部・南部・東部の地域区分は、現地シンクタンク「ラズムコフ・センターが利用している区分に倣いました。ただ、地域(州)の並べ方は、服部独自のものです。基本的に西から東へという流れで、なおかつメゾエリア的な並びを加味して配置してあります。アルファベット順などよりも、この方が分析に適しているという判断です。西部・中部・南部・東部の合計数値は、服部が(というかエクセルが)算出しました。ただし、西部・中部・南部・東部の投票率は左列の有権者数と投票数から便宜的に算出したものですので、上述の理由で全国や地域(州)の投票率とは若干整合しません。候補者は、第7位のリトヴィンまでを載せました。
以下は、数字をざっと眺めたうえでの、服部のコメントです。
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投票率は、西部で高く、中部と東部は普通で、南部で低いという構図。これは、1999年や2004年の大統領選挙の時にも見られたパターンで、完全に定着した観がある。 |
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地域別の投票パターンは、事前の予測どおりとなった。西部と中部ではほぼすべての地域でティモシェンコが、逆に南部と東部ではすべての地域でヤヌコーヴィチが1位となった(例外は
ヤヌコーヴィチが勝った西部のザカルパッチャ州)。他の候補は、誰一人、地域別の1位を獲得できなかった(最もそれに近付いたのはイヴァノフランキウシク州におけるユーシチェンコ)。 |
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今回の投票パターンを見ても、ウクライナ西部を、@ハルィチナ(リヴィウ州、イヴァノフランキウシク州、テルノピリ州)、Aポレシエ(ヴォルィニ州、リヴネ州)、B南西部(ザカルパッチャ州、チェルニウツィ州)という3つのグループ分けることができそう。@では、ティモシェンコがトップではあるが、それに加えユーシチェンコが25%を上回る大きな得票を収めているのが特徴で、ウクライナ民族主義の要因がきわめて大きいエリアだと考えられる。Bでは、西部なのに
ヤヌコーヴィチがかなりの得票を収め
ており、また投票率が異常に低い点も注目される。複雑なエスニック事情、山岳地の特殊事情、農村人口の比率が高いことなどが原因か? |
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ウクライナにおいて中部は、独自の利害を表出するというよりも、西と東による草刈り場となる傾向がある。今回、中部のすべての地域でティモシェンコが
ヤヌコーヴィチに勝利を収めた。ただ、当然地域による状況の違いはあり、ヴィンニツャ州、
フメリニツィキー州などはほとんど西部と言っていい投票パターンだが、ドニエプル左岸の重工業州であるポルタヴァ州あたりだと東部の色合いが混じってくる。 |
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東部ではどの州でもヤヌコーヴィチが首位だが、圧倒的に強いと言えるのは地元のドネツィク州と、同じくドンバス工業地帯に属すルハンシク州だけ。ドニプロペトロウシク州、ハルキウ州、ザポリージャ州といった他の重工業州では、独自の利害・派閥や
ドネツィク州への対抗意識もあると見られ、ヤヌコーヴィチへの支持は絶対的ではない。とくに、ドニプロペトロウシク州はティモシェンコ、チヒプコの地元でもあることから(
チヒプコが最高得票率を挙げたのがこの州)、票は割れている。 |
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それにしても350万票というドネツィク州の票田はでかい。ウクライナ全体の1割に近く、首都キエフ市とキエフ州の合計に匹敵する。子分格のルハンシク州も合わせれば、もっと重みがある。ここで4分の3近い得票率を誇る
ヤヌコーヴィチが優位に立つのも、うなずける。 |
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ヤヌコーヴィチと異なり、ティモシェンコには絶対的に強い地域というものがない。50%を超えたのは、ヴォルィニ州だけ。お膝元であるはずのドニプロペトロウシク州でも、
チヒプコに食われてか、低調な得票率にとどまった。 |
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チヒプコがすべての地域で善戦しているのは、特筆に価する。27地域のうち、実に21地域で、10%以上得票している。一番悪い数字でも、イヴァノフランキウシク州の4.36%であり、これはティモシェンコの一番悪い数字(ドネツィク州における4.32%)よりも上である。つまり、
チヒプコの場合、今のところ、どうしようもなく嫌われている地域がなく、これからバランスを逸しなければ、全国的に支持される政治家になれる素地を秘めていると考えられる(
ヤヌコーヴィチやティモシェンコにはそれはもう無理)。 |
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それに比べると、同じ次世代のリーダー候補でも、ヤツェニュークはやはり西部の政治家という色彩が濃い。なお、最も得票率が高かったチェルニウツィ州は、同氏の出身地。 |
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現職のユーシチェンコは、ハルィチナ以外では10%に届かず、南部や東部では1%を割り込んだ地域すらある。現職が地域によっては1%も獲得できないというのは、やはり異常事態と言わざるをえない。出身地のスムィ州でも6位に沈んだ。 |
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共産党のシモネンコは、ロシア語地域でのみ、一定の存在感を維持。最も得票率が高かったセヴァストポリ市は、民族構成でロシア人が71.6%という土地柄(セヴァストポリでは前回よりも得票率が高まったほど)。2強の対決に注目が行きがちだけど、考えてみれば、2004年に3位だった社会党モロズ氏の影響力喪失といい、シモネンコ氏の得票率縮小といい、左派の退潮という現象はもっと注目されてしかるべきかも。 |
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リトヴィンが3%を超えるようなある程度の得票を収めているのは、基本的にドニエプル川右岸だけで、左岸では振るわない。ただ、これは地域差というよりも、(リトヴィンが強いと言われる)農村人口の比率に関係しているのかもしれない。5%を超えた地域のうち、ジトー
ミル州は出身地だから理解できるが、リヴネ州はなぜだろうか? |
以上のような次第です。
ところで、私は「何をとっても平均値」という静岡県の出身なので、今回の第1回投票で最も全国平均に近かった地域はどこかというのが気になりました。題して、「ウクライナの静岡を探せ!」 そうした観点から、改めて表を眺めてみたのですが……。ありませんね、そんな地域(笑)。どこも、てんでバラバラで。強いて言えば、ポルタヴァ州、ジトー
ミル州、キロヴォフラード州、ヘルソン州あたりかな???
(2009年1月24日)
現地のウニアン通信に出た、専門家・有識者による決選投票に関する展望・分析の続きです。
Ye.ホロヴァハ(ウクライナ科学アカデミー社会学研究所副所長):ICTVの出口調査によれば、第1回投票でユーシチェンコに入れた有権者の83%が決選ではティモシェンコ支持、
チヒプコに入れた有権者では56%がヤヌコーヴィチ支持、ヤツェニュークに入れた有権者では80%がティモシェンコ支持、シモネンコに入れた有権者では90%が
ヤヌコーヴィチ支持という数字が出ている。合計で、44%がヤヌコーヴィチ支持、37%がティモシェンコ支持ということになる。ティモシェンコは、一連の出口調査は正しくなく、正しいのは(
ヤヌコーヴィチとの差が4%ポイントだけだった)「ナショナル(全国)出口調査」だけだと騒ぎ立てている。しかし、それを騒いでいるのはティモシェンコとトゥルチノフだけで、他は皆平静を保っており、このことは2004年の時と違って、ティモシェンコ陣営以外は出口調査を政治的な武器として使っていないということを意味している。ただ、現在の情勢は44対37で、7ポイントの差は大きいが、ティモシェンコにもまだチャンスはある。候補者自身、その積極姿勢、具体的な政策に、多くがかかっている。
O.ポカリチュク(政治心理学者):チヒプコの票は、誰のところにも行かないだろう。支持者の彼に対する信頼はかなり高く、とても自覚的な人々であり、棄権するだろう。
チヒプコ票(13.06%を得票)の「流出」は、1〜2%にとどまるだろう。ヤツェニューク支持者の票は、一部ティモシェンコに、一部は棄権となろう。リトヴィン支持者も、
チヒプコおよびヤツェニューク支持者と同様で棄権する可能性が高く、違いは農村票が多いということだけ。今回の選挙戦では、有権者はかなり固定的な層に分かれており、決選で投票する有権者は確固とした支持相手がいる場合だけだ。第1回投票でも、政策に対してではなく、自分が好むリーダーに票を入れた。したがって、選挙結果を変えうるのは、投票率だけ。(注:1.19服部分析に近い)
D.ボフシ(政治工学者):チヒプコの支持者がどう出るかは予測しやすい。彼はクチマ時代から頭角を現しており、2004年の大統領選挙でも出馬すれば勝てたが、その時は
ヤヌコーヴィチと取引をして取りやめた(ヤヌコーヴィチの選対本部長を務め、決選投票後に辞任)。現在彼は、その時の可能性を実際に活用しているわけだ。また、彼は
ヤヌコーヴィチの若手版と位置付けられている(ヤヌコーヴィチは1950年生まれ、
チヒプコは1960年生まれ)。経済専門家で、実直で、力強く、女性受けし、東部ではヤヌコーヴィチに取って代わる人物となっている。というわけで、チヒプコの票は大部分
ヤヌコーヴィチに行くだろう。ヤツェニュークの票は、西部が中心で、ティモシェンコに行く。ユーシチェンコ支持者の票もティモシェンコだろう。シモネンコ票は大部分が
ヤヌコーヴィチ。リトヴィン支持者は、ティモシェンコが優勢な農村に多いので、ティモシェンコに近いが、そもそも数が多くない。現在、両陣営は、第1回投票の結果を地域別に分析しているところであろう。「ホーム地域」での課題は、有権者を動員すること。「アウェー地域」での課題は、選挙を台無しにすることであり、そのためにありとあらゆる策略が用意されていることであろう。今回の選挙の特異な点は、ティモシェンコも
ヤヌコーヴィチも、自分が勝つかどうか分からないこと。優位に立っているのは当然ヤヌコーヴィチだが、100%勝つかどうかは誰にも分からない。
以上、少々手間取りましたが、ウニアン通信記事の紹介でした。
出所→http://www.unian.net/rus/news/news-358007.html
(2010年1月23日)
現地のウニアン通信に出た、専門家・有識者による決選投票に関する展望・分析の続きです。
ところで、ウニアン通信のサイトは、ほぼすべてのニュースがロシア語とウクライナ語のバイリンガルで出ていて、感心します。しかし、ここで引用している分析記事は、ざっと見た限り、ロシア語でしか出ていないようです。今年から私は、ウクライナの固有名詞をウクライナ語風の読み方で日本語に訳すことにしたので(^-^;
、各専門家の名前をウクライナ語でどう綴っているのか確認したいのですが、それができません。
M.ポフレビンスキー(政治評論家):決選投票の結果は、チヒプコ、ヤツェニュークといった政治家の支持者が誰に入れるかということだけでなく、投票率がどうなるか、それが東・南・西・中央ごとにどうなるかということにもかかっている。ハルィチナでの選挙の熱気は以前はすごかったが、今回はそうでもない。したがって当地でのティモシェンコの課題は、有権者を動員することである。
しかしその際にティモシェンコにはジレンマが発生する。西部での投票率を引き上げてその票を獲得するためには、西部住民に対し、「投票に来なければドネツィク派が政権に就いて破滅だ!」と訴える必要がある。しかし、そうしたアプローチだと、
チヒプコやヤツェニュークといった穏健派候補の支持票を失う恐れがある。彼らは「破滅」といった話は信じない人々なので、ティモシェンコには懸念を抱き、
ヤヌコーヴィチに投票する可能性が高い。ティモシェンコ陣営はデリケートなキャンペーンを求められる。
チヒプコに入れた人々は、ヤヌコーヴィチには入れていないのだから、潜在ティにはティモシェンコの支持層なのだ。ただ、ドニプロペトロウシク、
ドネツィク、ハルキウに住んでいるというだけのことだ。ティモシェンコは、ほら、私は見かけほど酷い政治家じゃないのよということを、示してみせなければならない。
先日、我々が実施した世論調査で、自分の支持する候補が第1回投票で敗退した場合、決選ではどうするかということを問うたところ、ユーシチェンコ支持者では、ティモシェンコを支持し、しかもほぼすべてが投票に行くという結果が出た。チャフヌィボク、コステンコの支持者でも同様だった。自覚的な人々というのは、他人が説得する必要はないものだ。ヤツェニューク支持者の場合は、30%が棄権し、20%が
ヤヌコーヴィチに入れ、50%がティモシェンコを支持する。
チヒプコ支持者の場合は、20%が棄権、30%がティモシェンコ支持、50%がヤヌコーヴィチ支持。リトヴィン支持者では、ヤヌコーヴィチに入れるという人が、ティモシェンコに入れるという人よりもやや多い。すべてを合計すると、
ヤヌコーヴィチが勝つという試算になる。
しかし、これは2週間前の数字であり、有権者が現在どう考えているかは定かでない。人々は、とくにこういうデリケートな問題については、意見を変えるものだ。彼らはテレビを観ているし、隣人や友人が誰に入れるかということにも影響を受ける。決選で誰に入れるかは、これから3週間で起きる出来事にかなり左右される。候補者にとって肝心なのは、自らの支持層を動員し、そうでない有権者に怖がられないことだ。
他の識者の分析は、追って掲載します。
出所→http://www.unian.net/rus/news/news-358007.html
(2010年1月22日)
現地のウニアン通信に、専門家・有識者による決選投票に関する展望・分析がまた出ていましたので、要約して紹介します。ちょっと長いので、小分けにして載せます。
T.チョルノヴィル(地域党会派から除名された最高会議議員):ヤツェニューク支持者の価値観は、ティモシェンコのそれとより多く重なり合っている。したがって、ヤツェニューク支持者のうち、彼に対する中傷に嫌気が差している人々は棄権し、その他の人々はティモシェンコに入れることが考えられる。問題はティモシェンコがこれらの有権者の票をどれだけ取り込めるか。
チヒプコの支持者は、特殊なカテゴリー。2004年には主としてヤヌコーヴィチに投票し、以前はその地域党を支持していたが、その後党内部で生じた状況悪化を嫌って、それと決別した人々。非常に理知的な人々で、現時点で誰かを崇拝するつもりはない。ウクライナ南部とドニプロペトロウシク州の
チヒプコ支持者は、特有の役割を果たすことになる。
これらは、概して、技術専門家、ビジネスマンであり、以前のアザロフ首相代行のやり方にも、現在の重税にも不満をもっている。大衆迎合主義を嫌い、「今日にも生活が良くなる」といった
ヤヌコーヴィチの発言にも、ティモシェンコのそれにも影響されない。ヤヌコーヴィチ・ティモシェンコ両候補の支持者とは違って、自らが支持する政治家を偶像ではなくパートナーとして見る。もしもティモシェンコが彼らのパートナーの役割を演じ、彼らの立場を取り入れるなら、ティモシェンコは
チヒプコの票を、ウクライナ中部・西部だけでなく、東部においても決定的な形で獲得できるだろう。その場合、選挙の命運は中部ではなく、南部で決する。
選挙キャンペーンのアプローチを変える必要がある。第1回投票では、自分は良いから、敵は悪いから、自分に入れろと訴えればよかった。しかし、それで取り付けられるのは、固定票だけ。浮動票は、そのような形では獲得できない。ティモシェンコがよく練られたキャンペーンを実施すれば、勝つチャンスがある。なぜなら、彼ら(
チヒプコ支持者)は、元々ヤヌコーヴィチ支持で、そこから離れた人々なのだから。
リトヴィンは自らの支持基盤を完全に壊してしまった。現在リトヴィンに入れている人たちは、彼の元々の支持層ではない。「(ロシアとの)共通経済空間」「祖国や土地を売り渡さない」といったスローガンが、リトヴィンを農村から離れさせ、彼は農村票を実質的に失ってしまった。
他の識者の分析は、追って掲載します。
出所→http://www.unian.net/rus/news/news-358007.html
(2010年1月21日)
とかなんとか言っていたら、現地時間19日夜、ようやく開票作業が完了したようです。主要候補の得票率は、
@ヤヌコーヴィチ:35.32%
Aティモシェンコ:25.05%
Bチヒプコ:13.06%
Cヤツェニューク:6.96%
Dユーシチェンコ:5.45%
Eシモネンコ:3.55%
Fリトヴィン:2.35%
などでした。より詳しくは追って報告します。
(2010年1月20日)
なかなか最終確定値が発表されず小出しにされる開票速報とか、現地専門家の変わりばえのしない分析とか、ちょっと飽きてきた。目先を変えて、最新の経済統計なんか紹介してみます。
2009年のウクライナの商品小売販売高は、前年比16.6%減(以下、すべて実質)。外食産業の売上げは15.6%減。
2009年のウクライナの鉱工業生産は、前年比21.9%減。落ち込みが激しいのは、機械:45.1%減、建材:38.4%減など。中間的なのは、冶金:26.6%減、軽工業:25.9%減、化学:23.2%減など。落ち込みが軽微なのは、コークス・石油精製:3.4%減、エネルギー資源採掘:5.7%減、食品:6.1%減など。
穀物生産国として注目度の高まるウクライナだが、2009年の穀物収穫量は4,600万tにとどまり、記録的豊作を記録した前年から13.7%減となった。
というわけで、すべてが縮小した、2009年のウクライナでした。
(2010年1月19日)
現地のウニアン通信に、一連の専門家が決選投票に向けた展望を語っている記事が出ていますので、要約して紹介します。第1回投票ではヤヌコーヴィチがティモシェンコに10ポイント程度の差をつけたわけですが、決選ではティモシェンコの方が上積みの余地が大きいと考える専門家が多いようです。
V.バラ(政治評論家):焦点となるのは、有権者の「こいつだけは勝たせたくない」という思いを利用できるかどうか。つまり、たとえばティモシェンコであれば、反
ヤヌコーヴィチ票をどれだけ獲得できるかが鍵となる。その観点からすると、ティモシェンコのチャンスの方が大きい。ただ最終的な成否は、ティモシェンコとそのチームの働き次第。ヤツェニューク、
チヒプコ、ユーシチェンコらに、支持者に対して自分への支持を訴えてくれと依頼することは得策でなく、ティモシェンコが自ら直接有権者に訴えるべき。
T.ベレゾヴェツ(政治評論家):ヤヌコーヴィチは自らの潜在的支持層をすべて使い果たした。決選投票では、シモネンコ、リトヴィン、チヒプコらの票の一部を期待できるだけだろう。最大の鍵を握るのは
チヒプコの票だが、彼は自らの党を立ち上げようとしているので、決選ではどちらにも与しないと見られ、しかもチヒプコ票は大都市に多く、そうした有権者は自分の考えで投票する。
I.ジダーノフ(政治評論家):ティモシェンコは決選投票で、態度を決めかねていた有権者の票を期待できる。ティモシェンコが勝った15地域では、前回に比べて投票率が10%ほど下がっており、これはティモシェンコにとって潜在的な支持票。
ヤヌコーヴィチにはそうしたリザーブはない。世論調査を見ると、ヤヌコーヴィチがリードしているかのようだが、15%の有権者が決めかねており、それを獲得した候補が優位に立つ。
M.ポグレビンスキー(政治評論家):両者とも、チヒプコ、ヤツェニュークの支持者を味方に付ける必要がある。決選では、「より悪い悪はどちらか」という論理が働く。その論理は、通常、地域的な性格を帯びる。これをほぐすのには、特別な方法が必要。両陣営とも戦闘モードだが、そうした姿勢では他の候補の支持層を獲得することは困難。
V.ツィブリコ(政治評論家):両候補とも、チヒプコ、ヤツェニューク、フルィツェンコの支持者を、自らを中心として団結させるべき。ただ、ウクライナの選挙では、勝者が勝つというよりは、敗者が負けるという形で勝敗が決まる。ティモシェンコの仕事は、反
ヤヌコーヴィチ連合を形成すること。
チヒプコ、ヤツェニューク、フルィツェンコは、決選投票で特定候補への支持を支持者に訴えると言っているが、多くは期待できない。彼らの票は、私物ではないのだから。
出所→http://www.unian.net/rus/news/news-357793.html
(2010年1月19日)
ロシアの『ヴラースチ』という政治週刊誌が、1月17日のウクライナ大統領選を前に、ロシアの有識者や有名人たちに対して、「貴方はヤヌコーヴィチとティモシェンコのどちらがいいか」ということを尋ね、その結果が同誌2010年1月18日号(No.2)に掲載されているので、抜粋して以下のとおり紹介します。
I.ユルゲス(ロシア産業・企業家同盟副会長):性別的に言ってティモシェンコが好きだが、政治的には
ヤヌコーヴィチ。
B.ネムツォフ(ロシアの改革派政治家だが2005〜2006年にユーシチェンコ大統領顧問):両方とも良くない。ティモシェンコは快活だが大衆迎合的すぎ、
ヤヌコーヴィチは政治家として弱すぎる。
P.ボロジン(ロシア・ベラルーシ連合国家書記局長):常に
ヤヌコーヴィチ支持。
A.レベジェフ(ナショナルリザーブコーポレーション社の共同オーナー):どちらかと言えばティ…(と言いかけて止める)。
V.ジリノフスキー(ロシア自由民主党):どちらも気に食わんが、我々が影響力を行使しやすい相手はティモシェンコ。
V.グストフ(ロシア上院CIS問題委員会委員長):ロシアにとってより好ましいのは
ヤヌコーヴィチ、政治家としては凡庸だが。
G.シマリ(ロシア石油ガス産業同盟会長):ロシアの石油ガスセクターにとってより好ましいのはティモシェンコ、話のできる相手だ。
V.コロチチ(作家):両方とも駄目であり、自分は
チヒプコを推す。
M.ネナシェフ(全ロシア海軍支援運動議長):NATOに加入するとのくだりを除いて、
ヤヌコーヴィチの政策を支持する。
Z.バルダノワ(ミス・ロシア組織委員会副委員長):女性としてティモシェンコを支持する。
V.オペクノフ(「原子力建設同盟」社):両方とも何をしでかすか分からない点では同じだが、個人的には原子力の問題でも話ができそうな
ヤヌコーヴィチを推す。
G.グトコフ(ロシア下院安全保障委員会副委員長):人間として信用できる
ヤヌコーヴィチを支持する。
Yu.エリセエフ(ロシア「サリュート」社総裁):我が社はウクライナ企業と航空分野で協力しているが、それをサポートしてくれそうな
ヤヌコーヴィチを支持。
V.カシン(ロシア共産党):ウクライナ共産党のシモネンコを支持するが、その2人のなかから選ぶとすれば
ヤヌコーヴィチ。
D.グルツカヤ(ロシア人芸術家):賢明で新味のある
チヒプコとヤツェニュークを支持。
D.アヤツコフ(ロシア大統領府長官顧問、元サラトフ州知事):優柔不断なところが気に入らないが、
ヤヌコーヴィチ。
K.ザトゥリン(ロシア下院CIS問題第一副委員長):
ヤヌコーヴィチの方がロシアにとってより都合が良い。ただ、両国関係の今後は難しいままであろう。
V.マソリン(ロシア海軍大将、元海軍総司令官):どちらかと言えばヤヌコーヴィチ。個人的にも知っているが、理性的な人物。もっとも、誰が勝っても、今の大統領よりはまし。
A.マモントフ(モスクワ国際為替協会会長):個人的には、チヒプコがいい。彼は大物で、新世代に属す。
Ya.ルトコフスカヤ(プロデューサー):ティモシェンコ。政治経験が豊富で、正しい統治を知っている。世界には女性大統領が少ないし、プーチンとも話ができる。
M.メリニク(ベッタ・グループ社長):どちらも支持はしかねるが、より小さい悪はヤヌコーヴィチだろう。ヤヌコーヴィチは月に一度立場を変えるのに対し、ティモシェンコは2週間に一度立場を変えるから。
I.ブハロフ(ロシア・レストランホテル協会会長):ヤヌコーヴィチを支持する。知り合いがドネツィクに住んでいるが、住宅のことをヤヌコーヴィチに陳情したらすぐに解決してくれたそうだ。常にロシア寄りの東ウクライナ出身だし。
V.ヴァシャノフ(CIS経済問題研究センター所長):ヤヌコーヴィチがベター。ティモシェンコはロシア軍は2017年以降ウクライナに駐留できないとしているが、
ヤヌコーヴィチは聞き分けがある。ティモシェンコは腹黒い女。
A.ボリソフ(モスクワ国際ビジネス協会会長):ティモシェンコではない。そもそも、誰が勝とうと、推進するのはウクライナの利益であり、ロシアのそれではない。
出所→http://www.kommersant.ru/doc.aspx?DocsID=1305440
(2010年1月19日)
第1回投票の大勢が判明したことで、今後の焦点は、上位2候補による多数派工作に移ることになります。両候補とも、第1回投票で敗退したチヒプコ、ヤツェニューク、ユーシチェンコ、リトヴィンといった政治家との提携を模索し(さすがにティモシェンコとユーシチェンコの復縁はなさそうですが)、その支持票を確保しようとするでしょう。あるいは、投票以前から水面下で交渉が進んでいたのかもしれません。当然、閣僚ポストや中銀総裁の椅子といったものが取引材料になります。
ただ、合従連衡は、そんなに簡単には進まないと思います。アメリカ大統領選のように、予備選の段階ではオバマとヒラリーが激しく戦っていても、いったんオバマに決まればすべて水に流して民主党として一致団結するとか、そうスムーズには行かないはずです。
思うに、チヒプコやヤツェニュークやリトヴィンが国民から一定の支持を受けているのは、「ユーシチェンコでもヤヌコーヴィチでもティモシェンコでもない、清新な政治家に出てきてほしい」という国民の願いからでしょう。国民が彼ら新顔の政策路線をじっくりと吟味して、そのうえで票を投じているとは思えません。したがって、たとえば
チヒプコがヤヌコーヴィチの秋波を受け止め、自らの支持者に対し「決選ではヤヌコーヴィチに入れよう!」と訴えたところで、支持者がそれに付いて来る保証はありません。新参者たちが
ヤヌコーヴィチやティモシェンコとの提携に応じることは、支持者に「裏切り行為」と受け取られかねず、今後の政治生命にとって大きなリスクとなります。むしろ、ここは毅然とした態度を貫き、来たる議会選挙に賭けようという判断に傾いたとしても不思議ではありません。
ということで、もし仮に決選投票に向けて合従連衡があまり進まないと、ヤヌコーヴィチ、ティモシェンコとも第1回投票からあまり票を上積みできず、他候補の支持者が棄権して第1回投票からさらに投票率が下がることで、相対的に両者の得票率が上がるだけとなり、非常に求心力の低い形で勝者が決まる可能性があるのではないかと、個人的には予想しています。
(2010年1月19日)
その後、開票は順調に進んでおり、現地時間18日15:35のインタファクス報道によると全プロトコールの95.2%が開票され、ヤヌコーヴィチ:35.4%、ティモシェンコ25.0%、
チヒプコ:13.0%、ヤツェニューク:7.0%、ユーシチェンコ:5.5%などとなっているようです。
開票が進めば進むほど、下で見た出口調査の結果に近付いている印象であり、それだけ中央選管が発表している投票結果が有権者の意思を反映した妥当なものであることを裏付けています。確かに、一部で多少の不正が報告されてはいますが、これではティモシェンコあたりが投票・開票に不正があったと騒ぎ立てても、誰も相手にしないと思われます。
(2010年1月19日)
まだ途中経過ですが、今回の大統領選の投票率が前回から大きく低下したしたことは間違いないようです。
全国225の選挙管区のうち、206管区の投票結果を集計したところ、投票率は66.72%だった由。おそらく、もう大きな変動はないでしょう。
前回大統領選の第1回投票(2004年10月30日)のそれは74.92%でしたから、だいぶ投票率が落ちたことになります。
(2010年1月18日)
各社会調査機関は、1月17日に投票所で出口調査を実施していますが、それらの結果はおしなべて決選投票におけるヤヌコーヴィチ候補の優位を示しています。
リサーチ&ブランディンググループ(R&B)の出口調査では、決選投票でヤヌコーヴィチに投票するという有権者が44.4%、ティモシェンコが34.7%でした。
ヤリョメンコ記念ウクライナ社会研究所の出口調査では、それぞれ44.1%、38.5%。
これは出口調査ではありませんが、キエフ国際社会学研究所が1月4〜13日に行った世論調査では、それぞれ41.4%と30.1%でした。
出所→http://www.interfax.com.ua/rus/pr2010/287396191
(2010年1月18日)
ウクライナ中央選挙管理委員会のサイトに、開票速報が出ています。まだ77万票くらいしか開いていない時点の途中経過です。
候補者 |
グラフ |
得票率、% |
得票数 |
V.ヤヌコーヴィチ |
|
40.74 |
311 796 |
Yu.ティモシェンコ |
|
23.99 |
183 572 |
S.チヒプコ |
|
10.84 |
82 970 |
A.ヤツェニューク |
|
6.04 |
46 273 |
V.ユーシチェンコ |
|
4.25 |
32 597 |
P.シモネンコ |
|
3.98 |
30 455 |
V.リトヴィン |
|
2.67 |
20 450 |
O.チャグニボク |
|
1.08 |
8 298 |
A.フルィツェンコ |
|
0.94 |
7 237 |
O.モロズ |
|
0.51 |
3 914 |
I.ボホスロフシカ |
|
0.42 |
3 226 |
Yu.コステンコ |
|
0.27 |
2 090 |
L.スプルン |
|
0.22 |
1 731 |
V.プロトィフシフ |
|
0.19 |
1 466 |
O.パバト |
|
0.13 |
1 023 |
S.ラトゥシニャク |
|
0.12 |
989 |
M.ブロツィキー |
|
0.08 |
632 |
O.リャボコニ |
|
0.03 |
289 |
(2010年1月18日)
主な出口調査の結果が出ました。以下のとおりです(単位:%)。出所は『ジェーラ』誌のサイト。
|
Национальный
экзит-пол |
Экзит-пол
"Интера"
|
Экзит-пол
"Шустера"
|
Экзит-пол
ICTV
|
V.ヤヌコーヴィチ |
31.5 |
36.6 |
34.7 |
35.06 |
Yu.ティモシェンコ |
27.2 |
25.8 |
25.0 |
25.72 |
S.チヒプコ |
13.5 |
13.5 |
13.2 |
13.41 |
A.ヤツェニューク |
7.8 |
6.6 |
7.1 |
6.87 |
V.ユーシチェンコ |
6.0 |
5.2 |
5.8 |
5.61 |
P.シモネンコ |
2.8 |
3.2 |
3.0 |
3.17 |
V.リトヴィン |
2.4 |
2.0 |
2.5 |
2.32 |
O.チャグニボク |
2.1 |
1.6 |
2.0 |
1.98 |
A.フルィツェンコ |
1.7 |
1.3 |
1.1 |
1.3 |
すべての候補に反対 |
2.7 |
0.0 |
2.9 |
0.0 |
ご覧のとおり、ヤヌコーヴィチ35%前後、ティモシェンコ25%強といったところであり、大方の予想どおり、この両名が決選投票に進むことが確実になりました。
(2010年1月18日)
ただいま日本時間18日午前1時くらい。まだ投票は続いておりますが、ウクライナ中央選管の発表によると、15:00現在の投票率は45.4%となっております。前回2004年10月31日の第1回投票の際には、15:00時点の投票率は54.2%でしたから、途中経過ながら投票率は10ポイント近く下がっているようです。
投票が締め切られないと、出口調査結果など目ぼしい情報も出ないので、今日はもう寝ます。
(2010年1月18日)
一方のヤヌコーヴィチは、キエフ市内の投票所に1人で現れ、投票を済ませたようです。家族はバラバラに投票するそうで、「家族円満」というパフォーマンスをしないところも、この人らしい感じがしますが。
投票後、記者団の問いかけに応じたヤヌコーヴィチは、グルジアからの選挙監視員に不快感を示し、外国がウクライナの内政に干渉することは許さないと述べ、サアカシヴィリ・グルジア大統領に自国の監視員を引き揚げるよう要求したそうです。
(2010年1月17日)
現地時間17日8:00(日本時間15:00)、いよいよ投票が始まりました。中央選管によれば、有権者総数は暫定的に36,576,763人。投票は20:00締め切り。全国225の地域選挙管理委員会が選挙の過程を管理します。外国や国際機関から派遣された公式的な選挙監視員が3,149人正式に登録されています。ちなみに、国外29の投票所で在外投票も可能であり、東京でも投票ができるとのことです。
ティモシェンコは9:00頃に故郷ドニプロペトロウシクの投票所に夫とともに現れ、投票を済ませました。投票用紙におけるティモシェンコの掲載順は13番目で不吉な数字ながら、「ウクライナが幸福になることを阻めるものは何もない」として、その点については気にしていないと記者団に語ったそうです。
(2010年1月17日)
現地の『トィジェニ』という雑誌(weekの意味)の2009年12月18-24日号に、「ティモシェンコをめぐる惑星たち」という記事が出ていたので、紹介します。下図のとおりです。クリックすると拡大されます。ちょっとデカいので左右2つに分かれています。ウクライナ語ですいません。
まあ、政治家の同志がいるのは当たり前なので、その点に関してはとくに面白みはありませんが、財界の人脈が注目されるところです。黄色い部分が、それに当たります。
具体的には、ジェヴァゴ(「フィナンスィ・イ・クレジット」財閥総帥)、ヴァサゼ(ウクライナ最大の自動車メーカー・ディーラー「ウクルアフト」オーナー)、フプシキー(アグリビジネスなどを手がける)、オレクサンドルおよびセルヒーのブリャク兄弟(ブロクビジネス銀行)、フェリドマン(不動産ディベロッパー)の名が挙げられています。
(2010年1月17日)
ウクライナが経済危機でデフォルト(対外債務の不履行)を起こすのではないかという説は、1年くらい前からずっと言われていたことです。大統領選挙で政治情勢が不安定化・流動化する可能性があることから、その問題が改めて注目されるところです。この問題に関し、証券会社のルネサンス・キャピタルが最近出したレポートがありますので(Ukraine:
Default-defiance, Ukrainian Style)、その要旨を整理します。証券会社のレポートなので、ウクライナの証券に投資しても大丈夫かという観点からの分析です。
|
大統領選挙の結果により、政治情勢がさらに悪くなり、証券価格に下げ圧力がかかることは考えられない。むしろ、政治の安定化の可能性があり、これは投資にとってプラス。 |
|
注目すべきは、ウクライナの2010年の対外債務元利返済負担が軽いこと。多少額が多いのは、12月の6億ドルだけ。政府も、擬似国家発行体であるナフトハスおよびウクライナ輸銀も、充分に支払いができる。キエフ市も。 |
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マネーサプライはずっと安定しており、ドル・グリブナレートへの圧力は限定的で、ウクライナ中央銀行はその気になれば為替を完全にコントロールできる。 |
|
ウクライナの国際収支は、2008年に128億ドルという記録的な経常収支赤字を記録したあと、2009年に入って改善し、(ガス輸入の値上げはあるものの)輸出の増加を背景に9月、10月には黒字すら示した。2010年の経常収支は、20億ドル程度の黒字になる可能性も。 |
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2009年にウクライナの最大の貸し手となったのがIMFだった。5月に28億ドル、7月に34億ドルと2つのトランシュを供与。結果、現スタンドバイクレジット・プログラムでの枠内で受けた融資は105億ドルに達した。2009年を通じてIMFはウクライナに対して柔軟に対応し、各レビューごとに条件が見直された。当初IMFは、2009年の財政赤字をゼロにし、そのためにウクライナの各機関が行動を調整することを要求した。2009年の初めにこれらの要求は満たされず、第2トランシュ実施は2月から5月にずれ込んだ。IMFは、予想を上回る経済下落を考慮し、2009年の財政赤字をGDPの4%とすることに同意、6月の次のレビューではそれを6%にするとともに、ナフトハスの赤字を政府のそれに含める(合計赤字はGDPの8%とする)ことを承認、同時にナフトハスの財務を改善することを求めた。政府は家計および公営事業向けの料金を引き上げることを約束したが、後日取り消した。(ナフトハスを含め)政府の財政赤字補填能力を支援するため、2009年にIMFは第2トランシュtの一部(15億ドル)と第3トランシュのすべて(34億ドル)を中央銀行ではなく政府に直接供与した。 |
|
第4トランシュは11月半ばの予定だったが、大統領選までに供与されないことは確実になった。今回問題となったのは、政府が現実的な2010年予算案を議会に提出しなかったこと。政府は過度に楽観的な経済見通しを使用しており、これだと歳入欠陥が生じて赤字が拡大する2009年の事態が繰り返される恐れがある。IMFは、最低賃金の引き上げ、ガス値上げ中止を問題視。大統領選が決選にもつれ込むことが確実なので、IMFとの協力再開は早くて2010年4〜5月頃か、遅ければ6〜7月にずれ込むことになろう。 |
|
大統領選をめぐる政治的シナリオ。ヤヌコーヴィチが勝った場合。ヤヌコーヴィチは過去数年、ティモシェンコとの協力を模索してきたが、長続きする協力はついぞ成立しなかった。今次大統領選で両者が激しくぶつかり合っていることを考えれば、
ヤヌコーヴィチがティモシェンコを首相に起用するとは考えにくい。ヤヌコーヴィチは第1回投票で敗退した候補の1人を首相に起用する方針を示しており、したがって決選投票での支持の見返りにユーシチェンコを首相に据えることが考えられる。議会での新たな多数派形成には1ヵ月ほどを要し、したがって選挙後の不安定には4月頃に終止符が打たれる。 |
|
ヤヌコーヴィチが勝った場合、ティモシェンコの戦略は、議会の多数派を守り抜き、ヤヌコーヴィチに自分を首相として続投させることになる。このシナリオでは、すべての政治勢力を巻き込んだ複雑な交渉が必要となり、ティモシェンコは大統領権力を制限する憲法修正を断念せざるをえなくなる。このシナリオの場合は、混乱が2010年の上半期一杯まで続くことになりそう。 |
|
ティモシェンコが勝った場合。彼女は議会の多数派を強化し(地域党からも議員を引き抜く)、自派の誰か(トゥルチノフ現第一副首相あたり)を首相に据えるだろう。ただ、政治的に中立な人物(
ヤヌコーヴィチやユーシチェンコではない)を首相に起用し、内閣を支配下に置こうとするかもしれない。自分が現在首相なので、首相解任の政治工作をする必要がなく、手続き的には、2週間から1ヵ月くらいで済ますことができる。 |
|
ティモシェンコもヤヌコーヴィチも、経済政策的には大差ない。ただ、投資家のムードにとっては、権力の構築や安定の達成をもたらしてくれそうな分、ティモシェンコの方がポジティブ。ティモシェンコが勝ったら、ウクライナのユーロ債の発行や株式市場にとって、弾みとなるかもしれない。
ヤヌコーヴィチが勝ったら、選挙後の不安定がより長く続く可能性があり、市場では売りが出るかもしれない。ヤヌコーヴィチ大統領・ティモシェンコ首相という組み合わせは、短期的には安定をもたらしマーケットにプラスになるものの、潜在的には情勢流動化と市場不透明化の危険をはらんでいる。 |
(2010年1月17日)
という主旨のことを、ヤツェニューク氏は言っております。最後の方は、本気かどうか知りませんが、読んでいて頭がクラクラしてきました。ヤツェニューク氏の発言なんてチェックしたことがなかったので、へぇこんなことを言うんだと思った次第です。
確かに、ウクライナはロシア主導の統合は面白くないと思っているものの、キエフルーシの方式でウクライナ自身が中心となり、旧ソ連諸国なり東スラヴ3国なりを束ねるということなら案外やる気があるのでは……ということは、私は以前から密かに思っておりましたが。それを、若手政治家が真面目に唱えるというのは、意外でした。現実味は別として、興味深く感じました。
日本であれば、投票日前日の夜まで、候補者の選挙カーが、無内容な連呼をヒステリックに叫び続けるところですが。ウクライナでは、本日ばかりは、束の間の平穏に包まれているはずです。というのも、ウクライナでは(ロシアでも確かそうでしたが)、投票日前日の選挙運動は禁止されているからです。つまり、候補者による有権者への訴えは、金曜日にすでに終了しているわけです。
土曜日、そして投票当日の日曜日と、選挙関連の報道やPRがテレビから消えるので(日本と同じように、投票率などの情報は随時流されるはずですが)、それに辟易していた人たちは、安堵していることでしょう。
主要候補は、金曜の夜まで精力的にテレビ出演をこなし、国民に支持を訴えたようです。そうしたなか、ティモシェンコは、テレビ討論に応じなかったとして、ライバルの
ヤヌコーヴィチを激しく非難しています。ティモシェンコいわく、「ヤヌコーヴィチは公開討論を恐れている。それは、国民に対して誠実でないか、何か隠し事があるか、あるいはどのように未来を築くべきかを知らず、討論する知性がないかだ。彼は男なのに、軍役に就いたことがなく、それは徴兵年齢の時にムショ暮らしをしていたからだ。」
このように、相変わらずティモシェンコ節を炸裂させているものの、最近になってティモシェンコは都市部での支持をチヒプコに奪われつつあり、ひょっとしたらチヒプコが台風の目に?といった観測も出ているとか、いないとか。
「第三セクターセンター」という機関が12月にウクライナ全土で行った世論調査の結果が発表されました。このなかで面白いのは、「自分の支持する候補者の勝利を守り抜く決意」について回答者に問うた部分です。つまり、2004年の時のように、政局の緊迫が極まった際に、直接行動に訴える覚悟はあるのかを問うているわけですね。
98.9%の回答者は、「武力衝突になった場合に、自分の支持する候補者の勝利を守り抜く覚悟はまったくない」と答えています。また、91.5%は、「国家機関庁舎の
封鎖に参加するつもりはまったくない」と答えています。一方、より平和的な、集会やデモについて聞いたところ、13%の回答者は参加する用意がある、5.9%の回答者はカネをもらえるのなら参加する用意があると答えました。
「国家機関庁舎の封鎖に参加する用意がある」と答えた回答者の比率が多かったのは、ユーシチェンコ支持者:16.3%、ティモシェンコ支持者:15.4%で、
ヤヌコーヴィチ支持者ではその比率は3.8%にすぎません。ただ、より過激な「権力の実力による奪取」「他の候補者との武力衝突」といった選択肢に訴える気構えでは、
ヤヌコーヴィチ支持者:2.2%、ティモシェンコ支持者:1.3%と逆転しました。
いずれにしても、直接行動に訴える用意のある国民はごく少数派であり、よほど酷い選挙不正が発覚でもしない限り、2004年のオレンジ革命のような大衆を巻き込んだドラマチックな政治劇は考えにくい状況のようです。
有権者に、「ウクライナはどのような国際組織との協力関係を優先的に発展させるべきか?」と問うたところ、@(ロシアを中心とする)共通経済空間との協力、ロシアとの自由貿易圏の創設:33.9%、Aユーラシア経済共同体の枠内でのCISとの協力:21.6%、BEUとの協力:22.8%、という結果が出ました。
大統領選で投票する予定の候補者別に、@と答えた回答者の比率が大きかった候補を見ると、リトヴィン(最高会議議長):60.0%、シモネンコ(共産党):54.8%、
ヤヌコーヴィチ(地域党):46.6%、
チヒプコ(強力なウクライナ):38.5%、となっており、つまりはこれらの候補の有権者の間では親ロシア的ムードが強いということになります(だからといって、政治家がそのように振舞うかは別ですが)。
逆に、BEUとの協力を好む有権者の比率が多い候補は、ユーシチェンコ(現大統領):65.0%、ティモシェンコ(首相):55.8%、ヤツェニューク(変革戦線):40.6%、となっています。
これらの数字から、ニューイメージマーケティンググループでは、この争点に限って言えば、ティモシェンコが決選投票に進んだ場合、期待できるのはユーシチェンコとヤツェニュークの票だけで、それはあまり大きな上積みにならないと指摘しています。
レポートのなかで私は、「次世代のリーダー候補と目されるヤツェニューク氏の広告は、私は一切見る機会がなかった」と書いております。しかし、これは間違いであったことに気付きました。実際には、同氏の広告は、頻繁に目撃しておりました。右の写真のとおりです。
ただ、姓の「ヤツェニューク」ではなく、ファーストネームの「アルセニー」と書かれていたのと、劇画調のデザインだったことで、これがヤツェニューク氏の広告だとは気付かなかったのですね。お恥ずかしい限りです。
広告のキャッチコピーは、「汚職に宣戦布告」であり、背景は迷彩模様になっていて、「軍人候補かな?」などと思ってしまいました。キナ臭い感じが若手改革派というイメージにそぐわなかったことも、ピンと来なかった一因です。以上、言い訳でした。
私は、雑誌などに発表した調査レポートの類は、発行後1年経ったらこのホームページに掲載するというのを原則としています。一応、紙媒体の利益も守る必要がありますので。ただ、この「大統領選前夜のキエフを訪問して」の場合は、今しか価値がないと思うので、書いた直後ですが特別に無料公開しちゃいます(もったいぶるほどの内容じゃないという説も)。