マンスリーエッセイ(2010年)

 
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2010年12月:S7(シベリア航空)事件簿

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2010年11月:チェス兄弟を育んだベラルーシのモトリ ―もう一つのキャデラック・レコード物語(中)

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2010年10月:チェス兄弟を育んだベラルーシのモトリ ―もう一つのキャデラック・レコード物語(上)

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2010年9月:私の奥の細道

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2010年8月:煮えたぎるニジニタギル(もちろん駄洒落に決まってます)

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2010年7月:石油都市チュメニの意外な魅力

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2010年6月:珍客来たる ―ロシア・ベラルーシ連合国家ボロジン国家書記の来訪

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2010年5月:初めてのソウル訪問

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2010年4月:ホームページのリニューアルと今後の抱負

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2010年3月:こっそりブログ開設

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2010年2月:酒とタバコとロシア人

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2010年1月:ショートな時代に

 


S7(シベリア航空)事件簿

 私は、ロシアという国のことを日本の皆様に紹介し、日ロ間の経済関係を促進することを生業としています。したがって、ロシアについて、いたずらにネガティブな話を語るようなことは、なるべく自重するようにしています。しかし、ロシアに改善すべき点があれば、率直に指摘することも必要でしょう。しかも、ロシアは2018年のFIFAワールドカップの開催国に決まりました。今回のエッセイで私が論じたいのは、ロシアのサービス業の質が低すぎるという問題なのですが、もしもロシアが自国のサービス産業につき何の改善も図らないままW杯本番を迎えたら、ロシアは世界に大恥を晒すことになるでしょう。今のうちに苦言を呈しておくことが、むしろ必要ではないかと思うわけです。(とか何とか言いつつ、本当は単なる怨み節エッセイだったりして。)

 私の持論ですが、サービス業に従事しているロシア人には、2つのタイプがいます。まず、9割くらいは、まったくやる気のない人間。自分に割り当てられた最低限の作業を機械的にこなすだけ。客を客とも思わない。雇われ従業員は、ほぼ間違いなく、このタイプでしょう。もう一つは、押売り型。タクシーの運転手とか、電気街のデジタル小物売りといった、自営業者がこれ。どんなに相手が嫌がろうと、しつこくまとわりつき、押売りしようとする。

 いずれにしても、ロシアのサービス産業の従事者には、顧客を第一に考え、その要望に柔軟に対応をしようとする向きが、ほぼ皆無なわけです。よほど、大企業や大手チェーンなどで、きちんとした研修プログラムを受けたような人ならば、別ですが。あと、ごく稀に、突然変異的に、人柄が良く、仕事をてきぱきとこなすような人も、例外的にいますけどね。でも、ロシアで働き者に生まれると、悲劇です。他の人間が働かないので、お客はすべてその人に殺到することになるので。

 で、11月にロシア出張に出かけた際に、ロシアのサービス業の低劣さを痛感する出来事がありました。個人的に稀有な体験でしたし、2018W杯に向けたロシアの課題を浮き彫りにするような事件だったので、語っておかなければならないと思います。

 11月のロシア出張では、モスクワに加え、タタルスタン共和国カザン市、サマラ州サマラ市という、ヴォルガ地域の2つの地方都市を訪問する必要がありました。位置関係は、地図をご参照ください。その旅程を練っていた際に、最もネックだったのは、カザンからサマラに移動するダイレクトな交通手段が存在しないということでした。タタルスタン共和国とサマラ州は、隣り合った2つの地域です。しかもカザン市とサマラ市は、ロシアを代表する大都市でもあります。にもかかわらず、両者を結ぶ交通路線がない…。まあ、近すぎるので航空便がないのはしょうがないとして、鉄道で行こうとすると遠回りになって、1日かかってしまう。車を借りて移動しようかなとも考えたけど(所要時間は5時間くらいらしい)、11月なので雪が降ったりするとトラブルに巻き込まれる恐れがある。これがプライベートな旅行だったら、ヴォルガ川の船下りとかしてみたいけど、さすがに公的な出張ではそうも行かない。私は結局、カザン→モスクワ、モスクワ→サマラと、飛行機を乗り継いでサマラ入りすることにしました。日本に例えるなら、京都から神戸に行くのに、わざわざいったん東京に戻るような感じでしょうか。

 で、11月15日、移動の当日。カザンでの仕事を無事終えた私は、だいぶ時間的余裕をもって同市の空港に到着。16:25発のS7-66に搭乗しようとしました。S7というのは、かつて「シベリア航空」という名称だったロシアの航空会社であり、最近ロシアの国内路線を充実させて急成長しているエアラインです。ところが、空港内のアナウンスに、愕然。何と、私の乗るはずだったS7-66が欠航となり、21:55発のS7-64に統合されるというのです。私は、S7-66でモスクワのドモジェドヴォ空港に飛び、1時間ちょっとくらいの乗り換え時間で、サマラ行きのS7に乗り継ぐ予定でした。それが、深夜の便に統合されるということは、当然この日のうちにサマラに入ることが、不可能になります。まいったなあ。翌16日の午前には、サマラ州行政府でのアポが入っているのに。どうしよう? 掲示板を見ると、16:00発のモスクワ・ヴヌコヴォ空港行きの便というのがあるなあ。急遽その切符を買って、とりあえずモスクワに飛び、ヴヌコヴォ空港→ドモジェドヴォ空港と車を飛ばして、サマラ便に飛び乗ろうか。でも、そんな無理をしても、サマラ便に間に合わない危険性が高そうだなあ。どうしよう? どうしよう? 海外出張の猛者みたいな人なら、別にこのくらいのことで動じたりしないのかもしれないけど、個人的にこういうトラブルは初めてなので、結構テンパってしまいました。

 それで、よくアナウンスを聞くと、S7-66の搭乗予定者は、S7の事務所に来るようにと言っていました。そこで、荷物を引きずりながら、S7の事務所を探したところ、3階の奥の方にありました。そこの職員に申し出たところ、先方は一応当方の状況を把握しており、次のように私に告げました。本日夕方の便は欠航で、21:55発のS7-64に統合される。本日はモスクワに泊まっていただき、我が社がモスクワでの無料のホテルを提供する。そのうえで、16日朝の便で、サマラに飛んでいただく。すでに7:50発のS7-33の席を確保してある。以上が、S7側の説明でした。

 実は、私はその時点で、日本から持っていったdocomoの携帯電話がロシアでずっと圏外になるというトラブルにも見舞われていました。そこでS7の事務所の電話を使わせてもらい、私の勤務先のモスクワ事務所、サマラのホテルおよび運転手に連絡をとり、サマラ入りが遅れる旨を報告しました。そこで、一つのミラクルが。サマラ州行政府での面談が、当初予定されていた16日の午前から、夕方に変更になったことが判明したのです。これにより、サマラでの調査は半日ほど短くなってしまうものの、最も重要なアポをキャンセルせずに済むわけです。S7側から代替の旅程を示され、被害を最小限に抑えられる見通しも立ったので、私はとりあえず安堵し、空港の待合室で夜のS7便を待つことにしました。

 しかし、そこから先も、苦難の連続でした。まず、21:55発のはずだったS7-64が、さらに2時間ほど遅延。モスクワに着いた時には、もう0時を回っていました。しかも、S7側が「ホテルをご提供する」と太鼓判を押していたので、私としては、ドモジェドヴォ空港に着いたら、S7職員が「HATTORI様、ホテルへご案内」というプラカードでも持って待っているかのような感覚でいたのですが、いざドモジェドヴォに着いてみると、そんな気配は皆無。とりあえず、空港隣接ホテルの窓口があったので、そこに申し出ればいいのかなと思い、行列に並んでみました。しかし、自分の順番が来て、「S7が無料のホテルを提供すると言っているのだが、この窓口でいいのか?」と尋ねたところ、窓口のオバサンに、「無料で利用できるのは、航空会社がホテルを注文してきた場合だけ。航空会社のカウンターに行きなさい!」と怒鳴られてしまいました。そこで、S7の窓口を探し、2〜3の場所をたらい回しされた挙句、ようやくしかるべき担当窓口にたどり着きました。

 しかし、客にこれだけ迷惑をかけているにもかかわらず、S7窓口職員の態度は、まるで客をモノ扱い。「飛行機、飛びませんけど、それが何か?」「飛行機が飛ばないのは整備士のせい。私も、こんな対応に追われて、迷惑してるんですけど。」「そもそも、中国人のくせに(多分そう思っているはず)、威張るんじゃないわよ。」 もちろん、口にこそ出さないものの、明らかにそういう表情をしています。日本人の感覚からすると、S7の不手際で客に迷惑をかけているわけだから、いやしくもその職員である以上、客へのお詫びの姿勢を示してしかるべきだと思うんですけど、まるっきり上から客を見下ろしています。

 カザンの空港でS7から「無料のホテルを提供する」と言われた時には、空港に隣接した居心地の良いホテルを想像しましたが、実際には全然違いました。この夜、モスクワからバシコルトスタン共和国ウファ市に飛ぶS7便も欠航になったそうで、私はそのウファ便の乗客十数人と一緒にマイクロバスに乗せられ、空港から車で30分ほど離れた「ドモジェドヴォ・ホテル」というところに連れて行かれました。驚いたことに、このホテルは2人相部屋で、私も見ず知らずのロシア人と一緒の部屋に押し込められることになりました。私は極度の人見知りで、増してや初対面のロシア人と相部屋などありえない話であり、フロントに、「カネなら出すから、1人部屋にしてほしい」と頼みました。しかし、ホテル側は、「航空会社から割り当てられているのは2人相部屋であり、それ以外は駄目」という、にべもない返答。結局、命じられるがままに、初対面のロシア人男性と相部屋と相成ったわけです。まあ、この時点でもう午前2時くらいで、あとは寝るだけだったので、それほどの気まずさはありませんでしたけど。しかし、ベッドとシャワーしかない部屋で、ホテルというよりは仮眠所といった方がいいような場所でした。

 とにかく、マイクロバスの運転手も、ホテルのフロントも、つっけんどんな態度で。まあ、確かに、この人たちはS7とは無関係で、気の毒にも深夜労働を強いられているわけだから、別に我々に対して低姿勢を示す義務はないわけだけれど。でも、当方は疲れているし、被害者意識を抱いているわけですよ。運転手やフロントが、「大変でしたね。お疲れ様です」という態度を示してくれれば、ある程度救われるのに、「運んでやる。泊めてやる。だから言うこと聞け」という態度なものだから、余計にこちらのイライラが募るわけです。

 でも、困ったことに、私以外のロシア人乗客は、飛行機が欠航になって変な宿に放り込まれるという状況に、それほど怒りを抱いていない様子です。従順に、状況を受け入れているという感じで。私が思うに、ロシアのサービス業の劣悪さというのは、ロシア人の従順さと、裏表の関係にあるのでしょうね。何しろロシア人は社会主義時代に、人生の大半を無為に行列に並ぶことに費やしてきたような国民なので。理不尽なこと、耐え忍ぶことに、慣れてしまっている気がします。

 翌朝は、7:50発のサマラ便なので(ウファ便も同じくらいの時間だった)、5:20に起床し、6:00にマイクロバスでホテルを出発しました。しかし、ドモジェドヴォでS7-33に普通に乗り込んだものの、またもトラブル発生! 出発前の機材の整備を随分長くやっているなと思っていたところ、「整備不良につき、機材を変更しますので、飛行機から降りて、登場口で待機してください」とのアナウンス。個人的に、乗り込んだ飛行機が飛べないから機材変更なんて体験、初めてですね(まあ、見切り発車されるよりはいいけど…)。これで、さらに1時間半くらい、ロスするはめになりました。

 しかし、S7ていう航空会社、大丈夫なんですかね? 当初私が乗るはずだった15日のサマラ→モスクワ便は欠航、夜の便も2時間遅れ、同じ日のモスクワ→ウファ便も欠航、翌朝のモスクワ→サマラ便は機材変更、なんて。私が想像するに、この会社、急激に路線の拡大をしすぎて、機材のやりくりが、逼迫してるんじゃないでしょうかね。それで思い出した。しばらく前に、NHKでやってた土曜ドラマ「チェイス 国税査察官」のなかで、主人公の奥さんが航空事故で亡くなってしまい、その飛行機がリース物件(したがって整備状態も悪かった?)というくだりがありました。ドラマのなかでその飛行機は、気持ちの悪い黄緑色の機体でした。S7と同じ色だ。

 個人的なことですが、2010年1月からブログを初めて、一応生真面目な性格なもので、それ以来一日も欠かすことなく更新を続けていました。しかし、このカザン→サマラの移動のゴタゴタで、11月16日分のブログの更新にも障害が発生。海外では携帯電話からブログを更新することが多いのですが、この時はすでに申し上げたとおりdocomo機が圏外になるトラブルの最中。ならばパソコンでの更新ということになりますが、この日に限ってはサマラのホテルにチェックインできるのが何時になるかも分からない(日本時間で17日になってしまう恐れが強い)。ドモジェドヴォ空港で、WiFiがつながるところを探したけれど、どうしても見付からない。別に、私がブログを更新しなくても世界が終わるわけじゃないけど、せっかく続けてきたものが、S7ごときのせいで途絶えてしまうのは、悔しいじゃないですか。

 そこで私は、ドモジェドヴォのS7ビジネスラウンジに駆け込み、「私はエコノミークラスだけど、お宅の便の欠航と遅延のせいで、どうしても緊急の連絡をする必要がある。だから、ビジネスラウンジのパソコンを、ちょっとだけ使わせてもらえないだろうか」と、受付嬢にお願いをしました。受付嬢はさんざん渋った挙句、「本当にちょっとだけだったら、使わせてやるわ」と、またしても超上から目線で、ようやく許してくれました。というわけで、当方は何とかブログの命脈を保ったわけですが、しかしそれにしても、自分の会社の飛行機が飛ばないことで乗客に多大な迷惑をかけていることを、この受付嬢は何と心得ているのでしょうかね。つまり、この受付嬢は、もっぱら「ビジネスクラスのチケットを提示した乗客をラウンジに通す(提示しない者を遮断する)」ことを、自分の仕事だと思っているわけですね。S7という会社のトータルとしての顧客満足が究極的な目的のはずで、ビジネスラウンジはそのためのツールの一環にすぎず、顧客対応には柔軟性があってしかるべきなのに、そんな意識のかけらもないという。

 まあ、「郷に入りては郷に従え」という言葉もありますし、私の場合はロシアを研究することが仕事なので、トラブルも勉強のうちと割り切らなければいけないでしょう。それに、ある文筆家が「どんな不愉快な目に遭っても、エッセイのネタにできると思えば、我慢できる」と言っていましたが、私も今回のS7事件では途中から「この話ネタにしてやる」と気持ちを切り換えたら、多少気が紛れました。でも、2018W杯では、世界から何十万という人々が期待に胸を膨らませてロシアにやって来るのです。世界のサッカーファンを暖かくおもてなしすることは、開催国たるロシアの責務であるはず。今のままでは、2018年にロシアの空港で、ホテルで、怒声が飛び交うことは目に見えています。

 こちらの記事によると、日本の温泉旅館のおもてなしのノウハウを海外に輸出するという動きがあり、ロシアの観光業界の一部もそれに関心を示しているそうです。まあ、日本の老舗旅館のレベルを期待するのは非現実的としても、ロシアは2018W杯に向けてサービス業を質的に向上させるための国家プロジェクトでも立ち上げ、国民的な啓蒙運動を展開するくらいの必要があるのではないでしょうか。

 

ショック!

16:25発だったS7-66が欠航。

 

カザン空港の奥にひっそりと佇む

S7の事務所。

 

ドモジェドヴォ空港のS7カウンター。

なぜ客を睨む?

 

Welcome to the Hotel Domodedovo

Such a lovely place...

 

気色の悪い黄緑色の機体で溢れる

ドモジェドヴォ空港。

 

*            *            *            *            *

 以上で2010年のマンスリーエッセイはおしまい。本ホームページをチェックしてくださっている皆様、今年もご愛顧いただき、ありがとうございました。

 新年になりましたら、また本ホームページの若干のリニューアルをしてみたいと思っています。とくに、ロシアをウォッチしていくうえで、サッカーの重要性が本当に高まってきました。これまでも、サッカーの話題に断片的に触れることはありましたけど、今後はきちんと自分の守備範囲の 一環に位置付けて、2018W杯関連の話題を中心に、ロシアのサッカーにまつわるあれこれを紹介していくようなコーナーを新設したいと思っています。同時に、ウクライナ・ポーランドでのユーロもあと1年半ほどに迫ってきたので、それもあわせて視野に入れて、「2012ウクライナ/2018ロシア」みたいなコーナーを設けてみようかなと思っているところです。

 というわけで、皆様、良いお年をお迎えください。

(2010年12月30日)


チェス兄弟を育んだベラルーシのモトリ ―もう一つのキャデラック・レコード物語(中)

 先月の話の続き。では、チェス兄弟を生み出したベラルーシのモトリというのは、どんなところなのでしょうか?

 モトリは現ベラルーシのブレスト州イヴァノヴォ地区にある集落で(地図の赤い地点)、今日の人口は4,260人。プリピャチ川の支流のヤセリダ川に面しており、地理的・文化的には西ポレシエ地方に属す。現在のモトリの場所にはもともとプロホフという村があったが、モンゴル・タタール軍によって攻め滅ぼされ、その後にモトリという集落が築かれた(1422年に初めて史料に登場)。16世紀初頭まではピンスク公国の領地であったが、ピンスク公フョードル・ヤロスラヴィチが死去すると、ポーランド国王ジグムント1世の所領となり、王はこの地をイタリアから嫁いできた王妃ボナ・スフォルツァに与えた。王妃は何度かモトリを訪れ、彼女の命によりヤセリダ川のほとりに宮殿が建てられた(その痕跡すら残っていないが…)。1555年にモトリはマグデブルグ法を授かる。集落にユダヤ人が住み始めたのも、この頃からだった模様。その後、モトリを含む西ベラルーシは1795年の第3次ポーランド分割の結果、帝政ロシア領となった。

 それで、モトリがユダヤ人史のうえで重要なのは、1948年に初代大統領に就任した「イスラエル建国の父」ことハイム・ワイズマン(1874〜1952年)が、モトリ出身だからですね。これについては、拙著『歴史の狭間のベラルーシ』の47〜48頁で論じたので、そちらをご覧ください。ちなみに、こちらの記事によると、ハイム・ワイズマンの父親は、材木輸送の仕事に携わっていたとのことです。木材を川に浮かべて、それをヤセリダ川〜オギンスキー運河〜シチャラ川〜ニョーマン川というルートでケーニヒスブルク(現カリーニングラード)まで運んでいたのだとか。チェス一家は赤貧に喘いでいたものの、ワイズマン家は暮らしはそれほど悪くなかったようです。

 ところで、私は『歴史の狭間のベラルーシ』に、次のようなことを書いています。

 このように、せっかく「イスラエル建国の父」を生み出していながら、ベラルーシ国民がワイズマンのことにほとんど関心を示さないのは残念な限りだ。実はモトリ村にはワイズマンの生家が残っているのだが、記念館がつくられるでもなく、何の関係もない普通の一家が暮らしている。

 それで、今回関連情報を収集していて、一番面白かったのが、これの後日談。何と、くだんのワイズマンの生家に暮らしている人が、家を売りに出している(!)というのです。こちらのサイトによれば、家主の年金生活者エレーナ・プタシツさんが1万5,000ドルで売りに出しているが、行政も、ユダヤ人団体も、イスラエル大使館も、資金不足で買う余裕がないのだとか……。2年ほど前の情報ですが、それからどうなったんでしょうかね?

 物好きとしか言いようがありませんが、私はこのモトリという集落に行ったことがあります。ピンスクという街に現地調査に出向いた際に、アレクセイ・ドゥブロフスキーさんという郷土史家が連れていってくれました。それは2000年12月24日、ミレニアム最後のクリスマスイブのことでした。その時に撮ったモトリの写真を、せっかくだから以下に掲載しますね(プリント写真をスキャンしたものですので、見栄えはイマイチですが)。ワイズマンの生家云々という豆知識もドゥブロフスキーさんに教えてもらったのですが、その時は時間がなくて実際にその生家を見ることはありませんでした。で、上掲のウェブサイトに生家の写真が載っていて、私自身今回初めて、それがどんなものなのかを確認できたというわけです。まあ、かなり改装されていて、あんまり原形はとどめてないみたいですけどね。

上記サイトに掲載されている

ワイズマンの生家の写真。

1.5万ドルくらい、誰か出せよ!

 

以下は服部撮影の写真。

モトリの中心部の風景。

 

正教会の「スパソ・プレオブラジェンスキー教会堂」。1888年建立。

 

モトリ民芸品博物館。

 

どうです、モトリに関する本をもっている日本人は、私だけでしょう(笑)。ベラルーシ語で「ヤセリダ川ほとりの村」という題名。上の写真に載っているオバチャンの若い頃の民族衣装姿も収めている。

 

 というわけで、個人的にモトリは訪れたこともあっただけに、チェス兄弟が同集落の出身ということを最近になって知って、余計にびっくり仰天したわけです。

 残念ながら、現代のモトリに、ユダヤ人コミュニティの類があるわけではありません。それは、第二次世界大戦時に、ナチス・ドイツが当地のユダヤ人を根絶やしにしてしまったからに他なりません。この記事によると、それは1941年8月3日のことであったといいます。モトリを占領したドイツ軍は、ユダヤ人住民全員を中央広場に追い立てました。男はそこから隊列をつくって街の外れまで歩かされ、そこで銃殺。女子供は一夜明けてから別の場所に連れて行かれ、そこで銃殺されました。1日で、1,400人が殺されました。西ベラルーシ全体では、50万人前後に上るユダヤ人が虐殺されたとのことです。

 チェス兄弟は、アメリカに渡ることによって成功と富を手にし、20世紀の大衆音楽史にその名を刻みました。しかし、もしもモトリに留まっていたら、そのチャンスが失われたどころの話ではなく、ナチスの銃弾に撃ち抜かれ、ヤセリダ川の露と消えていたでしょう。

(2010年11月23日)


チェス兄弟を育んだベラルーシのモトリ ―もう一つのキャデラック・レコード物語(上)

 以前ブログに書いたことの繰り返しになりますが。NHK-BSで「ソウル・ディープ」という全6回シリーズのドキュメンタリー番組が放映され、その第3回目が、私の趣味の本筋である「モータウンサウンド」がテーマでした。モータウンそのものの話には特に新味はなかったものの、デトロイトのソウルであるモータウンとシカゴの名門R&Bレーベルの「チェス」とのライバル関係という着眼点が打ち出されており、それなりに興味深く観ました。

 それで、チェス・レコードを興したチェス兄弟が、ポーランドからアメリカに渡ったユダヤ系の移民であるということは、私も漠然と知っていました。この番組でも、それに言及されていて、ああ確かそうだったなと再認識した次第です。ただ、ちょっと気になりました。私の場合、「ポーランド出身」とかいう話を聞くと、「ポーランドと言いつつ、実は現在のベラルーシ領だったりするのではないか?」ということを、一応疑ってみることにしています。そこで、チェス兄弟について調べてみたら、驚愕。何と、彼らは、ベラルーシ西部のモトリという集落の出身だったのです。

 う〜む。R&Bのファンで、なおかつベラルーシの研究家という人間なんて、世界に私1人くらいだと思うから、この驚きをどれだけの人が共有してくれるか分からないけれど。とにかくびっくりで、完全に盲点でした。昨年の本エッセイで、モギリョフ生まれの大作曲家アーヴィング・バーリンについて書き、そのなかで「ベラルーシ東部出身のユダヤ人は一体どれだけ20世紀の人類の文化史に貢献してんだ!」と述べましたが、いやいやベラルーシ西部出身のユダヤ人も負けてはいません。ロックンロールの歴史つくっちゃったわけですからね。バーリンだったら「映画やミュージカルは専門外なので」と言い訳もできるけど、チェスとなると、どストライクだもんなあ。

 事実関係を整理しておきましょう。そもそもチェス一家が暮らしていたのが、帝政ロシア西部のグロドノ県コブリン郡モトリという集落のユダヤ人街。兄のレナード・チェスは1917年3月12日生まれ、Lejzor Czyz(レイゾル・チジ)というのが元々の名前。弟のフィリップは1921年生まれで、Fiszel Czyz(フィゼル・チジ)というのが元々の名前。ちょうどこの時期は、第一次世界大戦からロシア革命に至る動乱期で、モトリも1915年9月にドイツ軍が占領、1919年2月に今度はポーランド軍が占領、かと思ったら1920年7月には赤軍が占領してソビエト権力を樹立と、目まぐるしく覇権が移り変わりました。しかし、1921年7月のリガ条約により、モトリを含む西ベラルーシはポーランド領となり、両大戦間期を通じてポーランドの支配下に置かれました。第二次大戦が始まり、ソ連がポーランドから西ベラルーシを奪還、モトリも1939年9月にソ連邦ベラルーシ共和国に復したわけです。チェス兄弟というと「ポーランド出身のユダヤ人」と言われることが多いのですが、「この頃、一時的にポーランド領となっていたベラルーシ西部の出身」という風に理解したいところです。

 当然のことながら、上述のような動乱ゆえに、モトリでの暮らしはきわめて苦しいものだったと想像されます。こちらのサイトによれば、チェス兄弟の父ヨシフは故郷では靴職人だったが、5人家族は1間の土間敷きの部屋に暮らし、そこには電気も水道も暖房もなく、冬になると飼っていた牛を部屋に入れて暖をとった、ということです。赤貧の生活に耐えかねた父ヨシフは1920年代に、アメリカのシカゴに渡ります。シカゴで数年間単身で苦労した末、ある程度生活が落ち着いたことを受け、ヨシフは兄弟を含む家族全員をシカゴに呼び寄せました。それが1928年ですから、兄レナード11歳、弟フィリップが7歳頃のことでした。バーリンは5歳でアメリカに渡ったのでベラルーシでの幼少期の記憶はほとんどなかったわけですが、チェス兄弟は11歳と7歳頃までモトリで暮らしたわけですから、生まれ故郷のことはよく憶えていたでしょう。

 ロシアの音楽専門誌に掲載されたこちらの記事によれば(記事が良く出来すぎているので、何らかの英語文献を勝手にロシア語訳したものではないかと思われますが)、レナードは幼少期にポリオを患った結果、くるぶしが変形する障害を負っており、それが見付かればアメリカに入国できない恐れもあったものの、何とか入国管理官に見付かることなく、新大陸の土を踏むことができた。また、「チズ」というユダヤ人の姓では入国管理官に理解してもらえないので、(多くのユダヤ移民がそうするように)姓を「チェス」に変え、名前もレナードやフィリップにした。後に、チェス・レコードが創設された際に、チェスの駒がロゴに用いられたが、もともとは一家の姓はボードゲームとは何の関係もなかったわけである。しかし、チェス兄弟がシカゴに移り住んだ1年後には、世界恐慌がアメリカ経済を襲うわけで、一家も当然苦労をした。レナードは、新聞売り、靴屋、牛乳売りと職を転々としたあと、父親がやっていた廃品回収業を手伝うことになった。1944年、26歳の時にレナードはようやくゴミ稼業から抜け出し、州の委員会から酒類取扱のライセンスを取得して、シカゴ市内に酒場を開業。一家は黒人居住地区であるサウスサイドに程近いユダヤ人街に住んでいたので、店もサウスサイドに出した。1946年になると弟フィリップが徴兵から戻り(兄レナードは障害のために兵役を免除されていた)、兄弟2人でサウスサイドの歓楽街にあったMacombaというナイトクラブを買収して経営に乗り出す。店は売春婦やヤクの売人が出入りする危険な場所として知られる一方、ルイ・アームストロング、ライオネル・ハンプトン、ビリー・エクスタインといった大物の黒人アーティストが出演する店でもあった。兄弟は店での客の反応を観察し、大衆がブルースを求めていることを発見、その経験を生かして1947年に地元の独立レコードレーベル「アリストクラット」に経営参加、ミュージシャンをスカウトして同レーベルで録音をさせるようになった。その後、経営の主導権を握り、1950年にはレーベル名も「チェス」に変更。以上が、記事が描くチェス兄弟の立身出世の道です。

アメリカに渡る直前、1926年の写真。

成功後のチェス兄弟の姿。

左からレナード、その息子で後継者となるマーシャル、そしてフィル。

 ところで、かつてのアメリカには黒人音楽の専門レーベルが無数にあったわけですが、よく言われるように、その大多数は白人が経営していました。しかし、詳しく見ていくと、白人と言ってもエスタブリッシュメントに該当するWASPではなく、ユダヤ人や東欧系の移民などが多かったようです。ネルソン・ジョージ著・林田ひめじ訳の『リズム&ブルースの死』(早川書房)には、「ほとんどのインディーズは白人、とくにユダヤ人によって設立された。人種差別によりアメリカのビジネス界の主流から締め出されたのは黒人だけではなかった。ウォール街で歓迎されないユダヤ人ビジネスマンの多くが、事業を始めるにあたってより障壁の少ない分野へと流れた。彼らはしばしば、身近に接していた黒人に目を向け、黒人と同様に、芸能の世界ならチャンスがあるということを発見したのだった」と記されています(73-76頁)。また、前掲のロシア誌(のパクリ記事?)においても、黒人専門レーベルが白人のなかでもマイノリティーのエスニック・グループによって担われていたことが論じられています。いわく、メジャーレーベルのなかでも黒人音楽を担当するのは純白の白人ではなく、たとえばコロムビアのジャズ担当はロシアから移住してきたアルメニア系のジョージ・アヴァキャンだった。インディーズでは、レーベル「モダン」はハンガリーからのユダヤ系移民ビハリ兄弟、「アトランティック」はトルコ人のアーティガン兄弟、そして「チェス」はポーランドからのユダヤ系移民チェス兄弟といった具合だった。アメリカ文化史の観点から見れば、白人と黒人という相容れない2つの人種間を仲立ちし、黒人マイノリティーの文化を多数派の白人に紹介する役割を果たしたのが、まさに彼らだった。これが、前掲ロシア誌の指摘です。

 ちなみに、こちらのサイトに、アメリカで1940年代以降設立された主なインディペンデント・レーベルの一覧が出ています。チェス兄弟の他にも、ベラルーシ出身者がいたらまずいと思って(^o^;)、一通り調べてみましたが、さすがに該当者は見付かりませんでした。でも、ネットで検索してもまったく情報が出てこない人も結構いるので、絶対いないとは言い切れませんけどね。「アメリカ生まれ」とされていても、二世なのかもしれないし。

 さて、昨今、チェス・レーベルにまつわる最大の話題と言えば、映画「キャデラック・レコード ―音楽でアメリカを変えた人々の物語」ですよね。2008年公開のアメリカ映画で、歌姫ビヨンセの出演でも話題となりました。チェス・レコードの栄枯盛衰を、ほぼ実話に沿って描いた作品とされています。なお、「キャデラック・レコード」というタイトルですが、当時の黒人ミュージシャンにとっては自分が売れて格好良い車=キャデラックを乗り回すのが一番の夢であり、レナード・チェスがそれをエサにミュージシャンたちを飼い慣らしたことからつけられたものです。ただ、前掲『リズム&ブルースの死』によれば、キャデラックで黒人芸人を手なずけるやり方は、チェスだけでなく、他のレーベルにも見られたようです(82-83頁)。

 総じて映画「キャデラック・レコード」の世間一般の評判は上々のようですが、正直に言えば、私はあまり良く出来ているとは思いませんでした。こんな風に思うのは私だけかと思ったら、稲葉光俊さんという評論家が、私が感じたのとまったく同じことを雑誌に書かれていたので、以下引用します。

 「そもそもチェス・レコードは、レナードとフィルのチェス兄弟が経営するレコード会社なのだが、この映画にはフィルが全く出てこない。しかもメインのアーティストがマディの他はリトル・ウォルター、ハウリン・ウルフ、チャックベリー、エタ・ジェイムス、そして語り部を演じるウィリー・ディクスンだけ。エディ・ボイドやジョン・ブリムといったマイナーなアーティストならまだしも、ボ・ディドリー、ムーングロウズ、サニー・ボーイ、そしてココ・テイラーやバディ・ガイなどまだ元気に活躍している人たちのシーンも全く無し。その他にもなんかヘンなのだ。(中略)エタ(ビヨンセ)とレナードの安物の昼ドラみたいな禁じられた恋など、実際に存在していた人々に失礼ではないかとすら思える架空のエピソードがあまりにも多く、歴史考証や事実確認を行わなかったのだろうかという疑問を抱かざるを得なかったのが正直な感想。」(『ブルース&ソウル・レコーズ』、2009, No.86, p.9)。

 そうなんですよね。レナードとフィルの兄弟は、会社経営にほぼ同等の役割を果たしていたみたいなのに、後者はまるで存在しなかったかのような扱い。それに、この映画だけ観たら、チェスにはアーティストが4〜5組しかいなかったのかと思っちゃう。これは、モータウンをベースにした映画「ドリームガールズ」を観た時にも感じたことだけど。モータウンにしても、チェスにしても、多数のアーティストやら裏方やらが入り乱れ、そういう雑多な人間たちが織り成す様々な人間模様こそが混沌としたパワーを生むわけでして、そのことを描かなかったらまったく本質を捉えていないドラマになってしまうわけですよ。しかも、以前どこかで読んだ覚えがあるんだけど、チェスの場合、他のミュージシャンがレコーディングしている時にムーングローズがコーラスで参加したり、マディ(チャック?)がギター弾いたりだとか、結構そういうジャンルの垣根を越えたクロスオーバーもあったみたいなんですよね。映画的に分かりやすい物語に仕立て上げるために主要登場人物を絞るというのも分からないじゃないけど、たとえばチェスだったら眼鏡かけて変なギター抱えた男をちょっと登場させれば、「そうそう、ボ・ディドリーもチェスだったんだよね」っていうことになるのに、「キャデラック・レコード」ではそういう工夫がまったく感じられない。

 というわけでこの映画、冒頭で「実話にもとづいている」とうたっていながら、このように怪しい部分が多すぎるのですね。『レコード・コレクターズ』誌2007年10月号のチェス特集に書いてある小史とも、結構違うし。私としては、ポーランド/ベラルーシ出身のユダヤ人が、アメリカで黒人レーベルを興し、それがR&B/ロックンロールの歴史をつくっていくという、それは一体何だったのかということを考えるヒントをこの映画に求めたいという思いもあったのですが。残念ながら、そういう期待に応えてくれるような内容ではありませんでした。映画でレナード・チェスという人物は、音楽そのものにはとくに興味はなく、金儲けの手段と割り切っている、しかし売れそうなものを感じ取る嗅覚はそこそこ鋭かった、人種的偏見は持っておらず、とくに会社の功労者であるマディ・ウォーターズとは強い絆で結ばれていた、それなりに夜遊びもした(エタ・ジェイムスに手を出した?!)といった調子で描かれています。実際は、どうだったんでしょうか。

 ただ、映画の冒頭で、こんな場面があります。シカゴの掃き溜めのような場所での、若き日のレナード・チェスと、同郷の娘とのラブシーン。レナードは娘に結婚を迫られるのですが、「今はカネがないから…」と乗り気ではありません。「親父は貧乏暮らしで荒れた。君には不自由をさせたくない」とレナード。そこに、娘の父親が突然登場。慌てたレナードはとっさに、「結婚しようと思ってるんです。…もっとも、稼げるようになったら、ということなんですが。廃品回収の仕事はやめてバーを開くことにしました。ちゃんと将来のことを考えてるんです」などと弁明。そして、次のようなやりとりが(日本語訳は市販ソフトの字幕を私がアレンジ)。

 娘の父親 Your father and I, we come from the same shithole in Poland. I didn't travel all this way to have my daughter marry some schmuck from the same village. (ポーランドじゃ、私も、君の父さんも、惨めな生活だった。私は何も、 同郷の馬鹿息子に娘をやるために、はるばるアメリカに渡ったのではない。)

 レナード Don't worry where I'm from. My wife's gonna drive a Cadillac. (出身なんかどこでもいいじゃないか。僕の妻になったら、キャデラックに乗せてみせる!)

 映画のなかでは、このあたりが唯一、ポーランド/ベラルーシ出身のユダヤ人としての出自を想起させるくだりでした。彼らは故郷でもシカゴでもとても貧しかったこと、そして新大陸の大都会シカゴに渡ってもユダヤ人の共同体という非常に狭い世界に生きていたであろうことを、想像させます。そして、そこから這い上がろうとするチェス兄弟の情熱がエネルギーとなり、ブルース/R&B/ロックンロールの興隆をビジネスの面から支えたであろう、という。

 色々と言いたいことが多すぎて、何だかとりとめのないエッセイになってしまいました。本当はこのあと、「それではベラルーシのモトリってどんなところ?」という話をするつもりだったのですが、長くなってきたので、今月はこれくらいにします。続きは次回。

(2010年10月11日)


私の奥の細道

 あらかじめお断りしますが、今回はごく私的な内容であり、他人が読んでもまったく面白くないと思います。本ホームページの主題であるロシア地域とも無関係です。

 ブログの方で散々触れておりますが、8月の末から9月の初旬にかけて、山形県を旅行してきました。8月29日に山下達郎のコンサートが山形県県民会館でありまして、それを観に行くついでに、夏休みを利用して山形県の観光を楽しんでこようと、まあそういう算段でした。

 それで、山形の観光ガイドを読んでいたら、たとえば「山寺(正式名は立石寺)」というところで、松尾芭蕉が有名な「閑さや岩にしみ入蝉の声」の句を詠んだということが書かれていて、なるほどそうなのかという程度のことは、旅行前に予備知識として入っていました。それで、実際に8月30日にその立石寺を訪れて、その日の夕方に山形市内の書店で何とはなしに新書のコーナーを眺めていたところ、長谷川櫂著『「奥の細道」をよむ』という本が目に留まったので、それを買ってホテルで読み始めました。すると、今回私が計画した山形県内の旅行ルートが、芭蕉が奥の細道で辿った旅程の一部と、けっこう重なり合うということに気付いたのです。というわけで、長谷川氏の本がかなり面白かったこともあり、後付けながら、奥の細道のプチ追体験というのを今回の山形旅行のコンセプトにしようと、そんな風に思い立ったわけです。だからと言って、特別何をするわけでもありませんが(笑)、自分自身の気持ちの持ちようですね。

 これは以前も書いたことですが。私の勤務先は隅田川沿いで、芭蕉庵があった深川界隈に近いのですね。そのうえ、現在私の住んでいるのが千住というところでして、自宅は旧日光街道沿いであり、まさにここを出発点に芭蕉は奥の細道へと旅立っていったのです。こうした身近さから、日本の歴史や文化に不案内なこの私ですが、松尾芭蕉と奥の細道には、一応関心を抱いているのです。ですので、山形旅行に突入した後になって、「なるほどこれは奥の細道巡礼の旅だったのか」ということを悟り、急にそのモードに入ったと、こういう次第です。

 今回の私の旅行ルートは、下図のとおりです。まず、山形新幹線で山形市に入り、そこを拠点に山形市内、山寺(立石寺)、蔵王を観光。次に、奥羽本線で新庄まで北上し、新庄の街をちょっとブラブラしたあと、陸羽西線というやつに乗って日本海沿岸の港町・酒田へ。酒田市内の観光を楽しむとともに、日帰りで鶴岡に出かけて、出羽三山の羽黒山に参拝。さらに、羽越本線であつみ温泉に出向き、温泉旅館に一泊。翌日、再び羽越本線に乗り、ちょっと山形県からはみ出して、新潟県の坂町というところに。そこから米坂線という超ローカル線に乗り換えて、再び山形県に入り、米沢着。米沢観光を簡単に済ませて、山形新幹線で帰京したと、そんな旅程でした。

 で、芭蕉が奥の細道で訪れたのが、上図のとおり。まあ、ルートは多少違うけど、旅人が訪れる場所は、昔も今もそんなに変わらないのでしょうか。とにかく、今回の旅行では、行く先々、至るところで、芭蕉の句碑だの像だのがありました。それらを逐一写真に収めてきましたので、主なものを以下で紹介します。

 私、NHKでやってる「街道てくてく旅」みたいの、けっこう好きなんですよ。実際にそれらの番組を観てるわけじゃないけど、自分がそういう「てくてく歩き」をやってみたいという願望は強くて。それで、今回の山形旅行ですっかり触発されて、「芭蕉翁が奥の細道に旅立った年齢に、私がなったら、その時に私も、改めてフルコースの奥の細道の旅に出てみようか」なんて、一瞬そんな妄想を抱いたのですね。

 ところが、長谷川櫂氏の前掲書を読破してみたら、愕然。芭蕉が奥の細道に旅立ったのは、数えで46歳の時だったというのです。ということは、満で言えばたぶん45歳だったということであり、つまりは、まさに今の自分と同じ年齢! 「芭蕉翁」というくらいだから、かなり高齢のようなイメージがあったのに(ちなみに、芭蕉は奥の細道の旅から帰ってきて、5年後に亡くなる)。まあ、江戸時代の45歳と、現代の45歳では、大違いとはいえ…。それにしても、45歳は、江戸時代ならもう「翁」と呼ばれる年齢なのか。我ながら、いいかげん、しっかりしなきゃなあ。この期に及んで「自分」探してる場合じゃないぞ(笑)。

(2010年9月18日)

山寺(立石寺)にある「閑さや岩にしみ入蝉の声」の句碑。

 

「五月雨」の季節ではないけれど。陸羽西線の車窓から見えた最上川。

 

羽黒山の山中、「涼しさやほの三か月の羽黒山」の句碑。

 

酒田で詠んだものの、『奥の細道』には入れなかった「めづらしや山をいで羽の初茄子」の句碑。酒田市内の神社にて。

 

で、その神社の横で開いていた野菜の露天で、庄内名産の小茄子を売っていたので、パチリ。

 

酒田では、「暑き日を海にいれたり最上川」の句を詠んだ。それを記念した銅像。酒田市内の港を見下ろす日和山公園にて。

 

同じく日和山公園にある「あつみ山や吹浦かけて夕すずみ」の句碑。

 

酒田の玉志近江屋三郎兵衛という人物の邸宅で開かれた句会で、「初真桑四つにや断たん輪に切らん」という句を詠んだ由だが、『奥の細道』には未収録。

 

芭蕉はあつみ温泉に宿泊したようだが、句を残したかどうかは未確認。これはあつみ温泉街の神社にある供養碑。

 

JRあつみ温泉駅近くにある、日本海に面した「芭蕉公園」。藤沢周平先生絶賛!

 

 

おまけ

 奥の細道というのは完全に後付けでしたが、JRの鈍行に乗って山形県をぐるりと一周するというのは、元々の旅行コンセプトにありました。山形鉄道の旅、面白かったですね。私は静岡市出身なのですが、静岡市のJR在来線は東海道線ただ1本しかなく、輸送量や列車本数はやたら多いものの、単純で面白みがないわけですね。それに比べると、山形県は聞いたこともないようなローカル線が色々とあり、またそれが1日に数本しか運行していなかったりするものですから、ちょっとチャレンジ精神がかき立てられ、「それらを乗り継いで、山形一周ぐるり旅を完成させたい!」と思ったわけです。

 実際、上の地図で見たように、ちょっと新潟県にはみ出しちゃったし、羽越本線〜米坂線の乗り継ぎがかなり大変だったけど、当初の目論見を達成することができました。それにしても、1時間に1本あるかないかという列車を乗り継いでの旅行は、スリル満点でした。

 というわけで、以下では、山形県鉄道の旅の記録をまとめておきます。

 

これはちょっと珍しい電車では。山形から左沢(あてらざわ)というところに向かう左沢線の列車。私は利用しなかったけど。

 

仙台と山形を結ぶ仙山線。山寺に行くのに利用。ベガルタVSモンテディオ戦がある時には満員になるのか?

 

新庄行きの奥羽本線。

 

奥羽本線は単線なんですね。ところどころで対抗列車の通過待ち。

 

奥羽本線の車窓から。田んぼと果樹園と山地の風景が続く。

 

これはレア! 新庄を出て、最上川に沿って西に進み、酒田に至る陸羽西線。1時間に1本くらいしかない。

 

羽越本線の各駅列車。酒田駅にて。

 

これも羽越本線の各駅だけど、デザインが違いますね。区間によって違ったりするのかな? 

 

酒田からあつみ温泉に至る途中の車窓から見た日本海の絶景。

 

羽越本線の特急いなほ。本当は全部各駅で通したかったけど、羽越本線も本数が少ないから、やむなくあつみ温泉〜坂町は特急を利用。

 

坂町の駅に入ってきた電車だけど、これは何線になるのだろう? よく分からなかった。

 

これが新潟県の坂町から山形県の米沢に至る米坂線。1日に数本しかなく、私が乗ったのは1両編成だった。

 

米沢の夕焼け。これにて山形旅行は大団円。

 

 


煮えたぎるニジニタギル(もちろん駄洒落に決まってます)

 先日のウラル出張の土産話の、続編です。スヴェルドロフスク州の州都であるエカテリンブルグから日帰りで、ニジニタギル市を訪問・視察してきましたので、同市について語ってみたいと思います。

 ニジニタギル市は、エカテリンブルグから北に150kmほどのところに位置する街。人口37万人を擁し、エカテリンブルグに次ぐ州第2の都市であり、工業出荷額ではエカテをも凌ぐ由。大手鉄鋼グループ「エヴラズ」の傘下にあるニジニタギル冶金コンビナートを中核とした、鉄鋼業の企業城下町です。タギル川の下流にあるから「ニジニタギル」という名前なわけですね。ただ、地元の人たちは単に「タギル」と呼ぶことが多いようです。

 今回、エカテからタギルまでの所要時間は、車で2時間弱でした。延々と続く一本道を行くわけですが、ウラル山脈というだけあって道にかなりの起伏があり、道路脇で岩がむき出しになっているような場所もあって、こうした風景はロシアにあっては大変希少です。夏にドライブするには、快適でしょう。ただ、運転手によると、冬場に雪が降ったりすると、車が立ち往生したり、大渋滞が発生したりすることがあるとか。スヴェルドロフスク州行政府は現在、ニジニタギルを経済特区として開発しようとしており、例によって「欧州とアジアの中間に位置する抜群の地理的位置」といった利点を挙げていますが、私が実際に訪問してみた印象では、かなり奥地であり利便性は悪いなというのが偽らざるところです。
ロシアでは珍しい、うねった道 ニジニタギル市の中心部

 さて、歴史を振り返ると、ニジニタギルは帝政ロシアのピョートル大帝治世下のウラル開発に伴って誕生した街です。この地のヴィソコゴルスコエという産地で鉄鉱石が発見されたのが1696年で、1721年に同鉱山が操業開始。それを加工するための製鉄所が1722年に産声を上げ、これがニジニタギル誕生の年とされています。ウラル地方に多く見られる、典型的な「工場=集落」というパターンですね。1725年にはコークスを用いた高炉が稼動、これは世界で2番目の早さでした。ニジニタギルの基礎を築いたのは、トゥーラの産業家ニキータ・デミドフと、その子息アキンフィー・デミドフの親子であり、デミドフ家はこれを足掛かりにロシアを代表する名家へと成長していきます。その尽力により、早くも1730年代にロシアは鉄の生産で英国を追い抜き、18世紀を通じて世界一の座を保持したとのことです。
ヴィソコゴルスコエ鉄鉱石採掘所 ニキータ(左)、アキンフィー(右)のデミドフ親子

 ちなみに、ニジニタギルで高炉が稼動した1725年と言えば、日本はまだ将軍吉宗の時代です。日本最古の一貫製鉄所である八幡製鉄所で高炉が稼動したのは、ずっと時代が下って1901年のことですから、いかに製鉄においてはロシアが先んじていたかが分かります(この話は完全に受け売り。詳しくは『ロシアNIS経済速報』2010年8月5日号をご覧ください)。

 その後もニジニタギルの鉄鋼業はロシア〜ソ連の国力を支え続けました。しかし、スターリン時代の1930年、ニジニタギルに近代的な技術を導入した新たな製鉄所を建設することが決定されます。設計・建設作業は難航したようですが、どうにか完成に漕ぎ着け、1940年6月25日に最初の銑鉄が生産されました。新ニジニタギル冶金工場の誕生であり、これが後のニジニタギル冶金コンビナートになるわけです。

 今日のニジニタギルは、冶金コンビナートおよびその関連企業の他にも、鉄道貨車メーカーの「ウラルヴァゴンザヴォード」、化学工業の「ウラルヒムプラスト」などを擁する重化学工業都市となっています。ウラルヴァゴンザヴォードは1936年に稼動しましたが、第二次大戦中にはヨーロッパ・ロシアから戦火を逃れて11もの企業がこの工場に疎開してきました。大戦でソ連主力の中戦車となるT-34の多くは、同工場で生産されたと言います。新ニジニタギル冶金工場といい、ウラルヴァゴンザヴォードといい、大戦前夜にこれらが建設されていなかったら、独ソ戦の帰趨も違ったものになったのではないか……と、そんなことすら想像してしまいます。

 ちなみに、ウラルヴァゴンザヴォードは現在でも戦車を生産しており、もしかしたら鉄道貨車よりもそちらの方がメインなのかもしれません。今回、ニジニタギルの街を車で走っていたところ、舗装されていないデコボコの道があり、運転手が「軍用道路だから…」などとつぶやいていて、その時は意味が分からなかったのですが。そのあと、工場の敷地から、急に装甲車のようなものが飛び出してきて、ビックリしました。要するに、出荷用の戦車や装甲車が走る道だから、舗装されていないということのようです。実は、ニジニタギルでは隔年で大規模な国際兵器見本市が開催されており、「兵器の街」というのがニジニタギルのもうひとつの顔ということになります。
1930年代の新ニジニタギル冶金工場建設の様子 ウラルヴァゴンザヴォードの貨車展示場

 それにしても、ニジニタギルは空気が悪かったですね。環境対策の遅れた製鉄所に、コークス化学工場、化学品工場と、汚染源が揃っていますので。とくに、コークス化学工場の周辺が、酷い臭気でした。私がロシア・NIS諸国で体験した範囲内では、最も環境が悪そうでした。

 ニジニタギルの街そのものは、まあ何の変哲もないロシアの地方都市です。ただ、ものすごく立派な劇場があり、このあたりはさすがロシアの劇場文化かなという気がしました。博物館は、立派そうな地誌博物館があったのですが、あいにく私が訪問した月曜日が休館日であり、残念でした。ただ、ニジニタギル冶金コンビナート付属の博物館というものがあり、そちらの方はじっくりと見学してきました。
大気汚染が激しいコークス化学工場周辺 やたらと立派な演劇劇場

 右下の写真は、私が撮ったものではなく、現地で購入した資料に掲載されていた冶金コンビナートの写真ですが。どうです、煮えたぎっているでしょう(笑)。
ニジニタギル冶金コンビナートの外観 ニエタギル…

(2010年8月14日)


石油都市チュメニの意外な魅力

 5月の末から6月の初頭にかけて、ロシア・ウラル連邦管区のチュメニ、エカテリンブルグ、チェリャビンスクに出かけて現地調査を実施してきました。このうち、エカテリンブルグは以前も訪問したことがあり、本コーナーで訪問記を書いたこともありましたけど、チュメニ、チェリャビンスクは個人的に初めての訪問です。とくに、チュメニでは意外な発見も多く、この街の思わぬ魅力に触れることができましたので、今月のエッセイではチュメニについて語ってみたいと思います。

 さて、チュメニと聞けば、誰もが石油や天然ガスを思い浮かべることと思います。実際、2009年の時点でチュメニ州はロシアの石油生産の63%、天然ガス生産の88%を占めています。しかし、チュメニ州には2つの民族自治単位、すなわちハンティ・マンシ自治管区とヤマロ・ネネツ自治管区が設けられており、石油生産は前者に、天然ガス生産は後者に集中しているのですね。そして、2つの自治管区は、名目上はチュメニ州に属しているものの、実質的には自立した地域となっています。2つの自治管区を除いた狭義のチュメニ州では石油・ガスはほとんど採れず、増してや州都チュメニ市に油田の類があるわけではありません。それでも、チュメニが西シベリアの石油・ガス開発と軌を一にして発展してきた街であることに変わりはなく、今日でも石油・ガス関連産業のクラスターを形成しており、しばしば「ロシアの石油の首都」とも称されます。このあたりのことについては、チュメニ州の経済構造と発展戦略というレポートを書きましたので、詳しくはそちらをご参照ください。以下では、現地で撮った写真を紹介しつつ、レポートでは触れられなかったチュメニの歴史や街の見所について述べることにします。

 さて、この地には太古の昔、フィン・ウゴル系のハンティ人およびマンシ人の祖先たちが住んでいました。のちにチュルク系民族が進出し、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)を形成。15世紀にジョチ・ウルスが分裂して、トゥラ川河口のチムギ(チンギ)を中心とするシビル・ハン国が成立。16世紀後半、クチュム・ハンに率いられたシビル・ハン国と、ロシア皇帝の支援を受けたイェルマークのコサック軍が衝突。イェルマーク自身は1585年に戦死するものの、ロシア皇帝の命により、1586年にチムギから程近い場所に城塞が築かれました。ロシアでは、この1586年がチュメニ誕生の年とされています。トゥラ川岸のその地には、写真に見るような記念碑が据えられています。チュメニはロシア人が初めてシベリアに築いた街であり、ロシアはここを足掛かりに資源豊かな東方へと進出していったわけです。
1586年にこの地からチュメニが始まったとする記念碑 「チュメニは地球上で最高の街」とうたっている

 ただ、その後の帝政ロシアの時代には、チュメニよりも、もう一つの古都であるトボリスクの方が格上である状態が長く続きました。チュメニは、人口は多かったものの、行政的にはトボリスク県のなかの一都市にすぎませんでした。ロシア革命後、1918年4月に、ボリシェヴィキは県の首都をトボリスクからチュメニに移します。それは、ボリシェヴィキの権力が確立されたのが、トボリスクよりチュメニの方が早かったからだったそうです(もう一つ、チュメニには鉄道が通っていたという要因もあった)。その後、多少の曲折はあったものの、1944年にチュメニ州が設置されたことで、チュメニ市の州都としての地位が最終的に確定しました。今日では、チュメニ市の人口が57.0万、トボリスク市のそれが9.9万ですから、前者の優位はもはや動きません。

 ところで、チュメニは最初から「ロシアの石油の首都」だったわけではありません。帝政ロシア〜ソ連では、最初はバクー(アゼルバイジャン)が主力の石油産地であり、1930年代からそれが「第二バクー」と呼ばれたヴォルガ・ウラル地域にシフトしていきました。そして、チュメニを中心とする西シベリアは、ヴォルガ・ウラルに続く「第三バクー」という位置付けになるわけです。西シベリアに石油・ガス資源が埋蔵されていることは、偉大な地質学者イヴァン・グプキンによって1930年代から唱えられていたものの、当初ソ連当局は真剣に取り合おうとしなかったようです。ようやく、第二次大戦後にソ連地質省は西シベリアでの石油探査を組織、その第一歩として1948年にチュメニ市内に最初の拠点油井が掘削されました(その記念碑というのがチュメニ市内にあり、今回私も行ってみたのですが、写真に見るように、団地の中庭のようなところに小振りな模型が設置されているだけであり、とてもここが西シベリア石油・ガス大開発の出発点になったとは信じられないくらいです)。その後、チュメニ州で最初の石油の商業生産が実現したのが1960年。この頃になるとヴォルガ・ウラル産地の枯渇が進み、ソ連当局も新たなフロンティアである西シベリアの開発を重視するようになりました。1965年には、サモトロール巨大油田を発見。チュメニ州を中心とする西シベリアの石油生産は1974年に、天然ガスは1977年に、それぞれソ連で首位になりました。かくして、農業や木材加工業などを生業とする地味な地方都市であったチュメニが、一躍ソ連〜ロシアの石油・ガス開発を支える拠点都市となったわけです。以上、G.コレワ著『西シベリアの石油・ガスコンプレクス:形成の歴史(第1巻)』からの要約でした。

この地から始まった西シベリア油田開発

この試掘井は3,000メートル掘られたという

G.コレワの著書

 今日のチュメニの街並みは、まあ月並みなロシア地方都市のそれですが。ただ、帝政時代に建てられた木造の建物もあれば、オイルマネーで建てられたと思しきモダンなオフィスビルがそれと隣り合わせであったりして、そのあたりが特徴でしょうか。街を歩いていて、インパクトがあったのが、中央広場に立つレーニン像であり、何と、銅像としてはロシア最大のレーニン像なのだそうです(石像ではもっと大きなものもある由)。街の名物になっているのが、トゥラ川にかかる「恋人たちの橋」というやつで、愛する2人が永久の愛を閉じ込めるという意味なのか、欄干には無数の錠前がかけられています。まあ、そんなに観光資源があるような街ではないものの、この橋から眺めるトゥラ川の風景なんかは、のんびりしていて、なかなか良いものです。
ロシア最大ということは世界最大? 恋人たちの橋からトゥラ川を臨む

 ちょっとがっかりしたのが、あまり良い博物館がないという点。一応、チュメニ州立地誌博物館というものがあって、いくつかの館に分かれているのですが、メインとなる「市議会博物館」というところでは化石とか動植物関係の展示しかなく(それはそれで面白いのですが)、チュメニの歴史に関する展示などが一切ないのです。あと、チュメニ州立地誌博物館の分館として「地質・石油・ガス博物館」というものがあると書いてあったので、その住所に行ってみたら、「西シベリア石油・ガスイノベーションセンター」という施設に変わっていて、それも拍子抜けでした。

市議会博物館の名物、マンモスの骨格

チュメニにある外国の総領事館はウクライナだけ

20世紀初頭にコンスタンチン・チャキンという建築家が建てた家

 教会は、街の外れにあるのでやや不便であるものの、なかなか味わいのあるやつがありました。まず代表的なのが、これもトゥラ川のほとりにある聖三位一体男子修道院というところで、ピョートル大帝がシベリア府主教に任命したフィロフェイ・レシチンスキーが1708年に開いた修道院です。もう一つ、大変趣があったのが全聖人聖堂というところで、とてもユニークな形状をした建物であり、シベリアでこうした円形の形をした聖堂はこれだけだそうです。1833年建立で、1929年以降のソ連時代にはここがチュメニで唯一稼動していた教会だったとのことです。

聖三位一体男子修道院

えもいわれぬ気品がある

実に愛らしい全聖人聖堂

 個人的に、最もツボだったスポットはというと。実は、当地でシベリア鉄道が開通するのに先立って、エカテリンブルグ〜チュメニ間の鉄道というのが1885年に開通していたのですね。もちろん今では廃線ですが、線路と、終着駅のトゥラ駅は、昔のまま残っているのです。訪れる人もなく、荒れ果てるに任されているわけですが。いやあ、好きだなあ、こういうの。誰も見向きもしない、打ち捨てられた歴史遺産。駅舎を見ると、「ロシアの化学者メンデレーエフが1899年にここに立ち寄った」と書かれたプレートが掲げられいます。メンデレーエフはトボリスク生まれで、この時すでに元素周期律表を発表し名声をほしいままにしていたわけですが、おそらく故郷に戻る際にエカテリンブルグからここまで鉄道で来て、トゥラ川の汽船に乗り換えてトボリスクに向かったのでしょう。

 そして、このトゥラ駅に関連して、もう一つ秘められた歴史スポットが。イリイン女子修道院の敷地内の、トゥラ川に面した場所に、十字架が立てられています。1917年の2月革命を受け、皇帝ニコライ2世は退位を迫られました。同年8月、ケレンスキー臨時政府より、皇帝一家はトボリスク行きを命じられます。8月4日、鉄道でトゥラ駅に到着したニコライ2世とその一行は、そのまま歩いて船着場に移動し、そこで汽船に乗り込んで、トボリスクに向かったのです。1918年5月、ロマノフ一家はトボリスクから再びこの船着場に着き、列車に乗ってエカテリンブルグに戻っていきました。そこで一家に何が起きたかは、以前のエッセイで書いたとおりです。イリイン女子修道院の敷地内にある十字架は、かつての船着場の場所に、鎮魂のために据えられたものです。

なぜかこういう廃墟じみたものが好きでして…

旧トゥラ駅舎

船着場跡の十字架

(2010年7月24日)


珍客来たる ―ロシア・ベラルーシ連合国家ボロジン国家書記の来訪

 ブログの方でもちらっと書きましたけど、先日、私の勤務する団体に珍しい人物が来訪することになり、私が相手をしました。その名はパヴェル・ボロジン。ロシア・ベラルーシ連合国家の国家書記、つまり事務局長を務めている人物です。というよりも、エリツィン元大統領の時代に大統領総務局長として政権の金庫番を務め、汚職疑惑で国際的なスキャンダルを巻き起こした人物と言った方が分かりやすいかもしれません。

 改めてボロジン氏(写真の左側の人物)の経歴を簡単に整理してみると、1946年ニジェゴロド州生まれ。ウリヤノフスク農業大学を卒業し、同学で教鞭を執る。しかし、極東ヤクート共和国に移り住み、建設合同「ヤクートゲオロギヤ」幹部などを経て、最終的にはヤクーツク市の市長を務めた(1993年まで)。同時に1990年にはロシア共和国人民代議員にも選出されており、そこでエリツィンと知り合ったのではないかと思われる。1993年春にエリツィン大統領の直々の誘いで大統領府幹部に就任し、同年11月には新設の大統領総務局のトップの座に就いた。ボロジンは老朽化していたクレムリンの再建・修復工事に手腕を振るったが、1999年、それを請け負ったスイスのゼネコン「マベテックス」社がボロジンに3,000万ドルに上る賄賂を支払ったという疑惑が表面化、スクラトフ検事総長がこれを追及した。ただ、確たる証拠は得られず、ほどなくしてロシア国内の捜査は打ち切られることになる。1999年大晦日にエリツィン大統領が辞任したことを受け、大統領代行に就任したプーチンは、2000年1月10日にボロジンを大統領総務局長の職から解くとともに、ベラルーシ側の同意を得たうえで、同26日にボロジンをロシア・ベラルーシ連合国家の国家書記に起用した。その後、何度か再任され、現在に至る。その間、2001年に、ブッシュ大統領の就任式出席のためにアメリカを訪れたボロジンが、ニューヨークのケネディ国際空港で身柄を拘束されるという事件が起きた。ロシア国内では捜査が打ち切られていたものの、スイス検察庁はボロジンとマベテックス社にかかわる資金洗浄疑惑を引き続き捜査しており、ボロジンを国際手配していたのだ。ボロジンは4月に保釈金300万ドルを支払って保釈され、のちにスイス検察による捜査も打ち切られた。

 とまあ、こんな具合に、何とも破天荒なキャリアを歩んできた人物なわけですが、真面目に言うと、エリツィン政権からプーチン政権への転換、そこにおけるベラルーシという要因などを考えるに、とても象徴的な人物ということが言えると思います。実は、1996年8月から1997年3月まで、プーチンがボロジン総務局長の下で副局長として働いたことがあり、プーチンをサンクトペテルブルグから中央に引っ張ってきたのはボロジンとも言えるわけですね。そのプーチンが大統領代行に就任した直後に、ボロジンを総務局長から外し、ロシア・ベラルーシ連合国家の国家書記に据えたのは非常に興味深い動きです。管見によれば、当時開明的な路線を打ち出そうとしていたプーチンにとって、脛に傷のあるボロジンは邪魔な存在だった。しかし、プーチンにとっては、自分を出世させてくれた元上司という恩義もある。そこで、「連合国家」の国家書記という、名前だけは豪華そうで、実は中味のない閑職に、ボロジンを据えたのでしょう。これは、なかなか絶妙な人事であったと思います。

 そんでもって、5月24日当会にやってきたボロジン国家書記。到着すると、挨拶もそこそこに、当方にクレムリンの写真集を差し出し、自慢話を始めました。「これ、クレムリンの改修前。それでこれが改修後。全部オレがやった。この写真もそう。これが改修前。これが改修後。全部オレがやった。」

 一事が万事、この調子でした。問題は、ボロジン国家書記の一行が日本に何をしに来たかですが、結論から言えば、たぶんヒマだから来たのでしょう。でも一応、ロシア・ベラルーシの共同プロジェクトに日本が技術を提供して協力してほしいといった呼びかけはしていました。ただ、そのレベルが、「ロシアとベラルーシで世界最高水準のスーパーコンピュータを開発している。これに日本が協力してほしい。それから、シベリア鉄道〜ベラルーシ〜ヨーロッパの大輸送回廊を構築しようとしている。これにも日本に協力してほしい」といった、子供じみたもので。

 当方が、「具体的なビジネスプランがなければ検討のしようがない。そもそもそれらプロジェクトを実施するうえで連合国家の書記局は何らかの権限を有しているのか? 過去にもロシア・ベラルーシ間の共同プロジェクトは失敗してきたはずだが…」といった点を述べると、ボロジン氏は、「何を言っているんだ。ロシアはありとあらゆる地下資源を豊富に有し、外貨準備も世界有数の国なのだ。それこそがプロジェクトがうまく行く保証なのだ」といったことをのたまい、議論がまったくかみ合いません。さらに、「このクレムリンの写真を見ろ。こんなに豪華な金ぴかの場所は日本にはあるのか? 皇居だって? オレは皇居にも行ったが、全然こんなんじゃなかったぞ。アハハハハ」といった調子で。まるで、日本のような一介の技術屋は、何も言わずに、偉大なロシアに技術を差し出せと言わんばかりで。

 ちなみに、ベラルーシ側が出している連合国家の国家副書記という人物(上掲写真の右)も今回ボロジン氏に同行してやって来たのですが、そのベラルーシ人の言うこともまたお粗末でした。その人物は、ベラルーシのどこそこの工場では、産業廃棄物の問題に苦しんでいる、この問題を日本の技術を使って解決したいということを述べました。そこで当方が、「問題を抱えているのは分かるが、それはベラルーシ単独の問題のはずである。日本・ベラルーシ二国間で協力してほしいというならまだ理解できるが、なぜそれをわざわざロシア・ベラルーシおよび日本という三者間の枠組みでやらなければならないのか?」と指摘すると、先方は、「だって、ロシアも産業廃棄物の問題は抱えているじゃないか」とか言い出す始末。そりゃ抱えているだろうけど、なぜそれを解決するのに、わざわざロシア・ベラルーシ連合国家という、10年間も宙に浮いているバーチャル組織を使わなきゃいけないのかと、当方は言っているのに。

 そんなこんなで、パヴェル・ボロジン氏、予想以上に豪快な人物でした。彼のような男が大統領の金庫番をしていたわけですから、故エリツィン大統領治世下のロシアというのは、何とも豪放磊落な時代であったと言わざるをえません。ちなみにボロジン氏は、クレムリンの写真集に加えて、ロシア・ベラルーシ連合国家創設条約締結10周年を記念した記念切手と、記念コインをお土産としてくれました。私のベラルーシ珍コレクションに、また面白アイテムが加わりました。

ボロジン氏最大の自慢

「クレムリンの再興」と題する写真集

連合国家10周年記念切手とコイン

(2010年6月13日)


初めてのソウル訪問

 3月4〜5日に韓国のソウルにおいて、2nd East Asian Conference of Slavic-Eurasian Studies 2010(第2回東アジア・スラヴユーラシア研究大会2010)が開催され、それに出席してまいりました。私は4日に‘International Political Economy of Black Sea Port Sector: Rivalry between Russia and Ukraine’(黒海港湾セクターの国際政治経済学 ―ロシアとウクライナのライバル関係)と題する報告を行いました。 すでにブログで断片的に述べたことと重複しますが、ここで改めて訪問記を記しておくことにします。

 個人的に韓国はもちろんとても興味のある国ですが、恥ずかしながらこれまで一度も行ったことがありませんでした。今回は、羽田〜金浦便を利用しましたが、羽田空港からアジアに行くと、感覚的には国内出張とほとんど変わりませんね。こんなに気軽に行けるのに、なぜ今まで足が向かなかったのかと、改めて思いますが。普段仕事で出かけるのはどうしても自分の研究対象国ばかりだし、最近は個人の観光旅行とかも全然行っていなくて。考えてみれば、最後に自分の研究対象国でない国に行ったのは、2005年8月のフィンランドとポーランドが最後でした。でも、両国とも、自分の研究対象国の重要な隣国で、半ば研究対象みたいなものだからなあ。ロシア語とは縁もゆかりもないような、完全にロシア圏外の国に出かける機会としては、今回の韓国が本当に久し振りです。2005年9月に切り替えた現在の自分のパスポートを改めて眺めてみても、ビザやスタンプはお馴染みの国ばかり。数えてみたら、2005年9月以降、ロシアに12回、ウクライナに3回、ベラルーシに1回、モルドバに1回行っただけだった。今回、ようやくそれに韓国が加わったという有様で。

 で、「第2回東アジア・スラヴユーラシア研究大会2010」というのは、ロシアおよびユーラシア地域を研究している日本・韓国・中国の研究者たちが一堂に会して、研究成果を発表し合う国際学会。率直に感想を述べると、韓国による会議の組織振りは、お世辞にも優れているとは言えませんでした。普段、北海道大学スラブ研究センターや、私どもロシアNIS貿易会の水も漏らさぬ会議の組織振りを目の当たりにしているだけに、余計にそう感じます。そもそも、私がこの研究大会で発表をすることになったのは、黒海の国際関係に関するパネルを設置するのでその枠内で発表をしてほしいという依頼を受けたからだったのですが、日本側が粘り強く働きかけたにもかかわらず、黒海のパネルは結局実現せず。何と、私の報告は「ユーラシアの地政学」というパネルに割り当てられてしまったのです。私の報告は、タイトルにあるように国際政治経済学という立ち位置でして、ある意味で地政学とは対極にあるんだけどなあ……。このほか、宿泊等のロジ面に関しても、韓国側の手配は、だいぶ心もとない感じでした。

 それと、韓国や中国のロシア・ユーラシア研究者たちはだいぶ実力的に劣るのではないかというのが、今回の会議で感じた偽らざる印象です。たとえば、私が興味をもって参加してみた「ユーラシアと中国の経済発展」というパネルを例にとってみると、「中東欧諸国とNICsの経済発展戦略比較」という韓国人の報告は細かすぎる数字の羅列に終始、「ロシアでの直接投資:サンクトペテルブルグ市とレニングラード州の事例」という韓国人の報告はペテルに惚れ込んだ氏が同市のプロモーションをするという斬新な企画、「中国とロシアの競争力比較」という中国人の報告は中国語でペーパーが提出されロシア人コメンテーターを困惑させる……といった具合でした。このパネルに限らず、韓国人や中国人の報告はだいたいこんなレベルで、英語力も思ったほどではないなと感じました。

 もしかしたら、有能な韓国人や中国人は、ロシア・ユーラシアの研究者になったりしないのかもしれません。ロシア・NISのビジネスで日系企業が韓国や中国のパワーに押されることが多く、したがってこれらの国ではロシア・NIS研究がかなり盛んなのではないかと想像していただけに、ちょっと拍子抜けです。日本では有能な同僚に恵まれているので、ロシア・ユーラシア研究は立派な研究分野であると日頃信じているのですが、今回の大会に参加してみて、何だか急に自分の仕事が非常に周縁的な分野であるように思われてしまい、テンションが落ちました。

 とかなんとか言いながら、自分の報告も、全然うまくできなかったなあ。用意したペーパーは、オリジナリティもあって、そこそこの内容だったつもりだけど。問題の「ユーラシアの地政学」というパネルが、一番広い会場で行われた割には、客入りが悪く、しかも少ない客が白けた感じで後ろの方陣取っていて、妙に殺伐とした雰囲気だった。なので、私としては場を和ませようとして、ジョーク的なことを言ったら、それがスベって、ますます空気が悪くなり。こうなってしまうと、もう全然駄目で。もともと、当方は日常的に英語を話す機会などまったくなくて、それでなくても舞い上がっているのに、会場の雰囲気の悪さで、さらにグダグダなプレゼンになってしまいました。

 仕事の空き時間を利用した街歩きに関しても、雑感を述べておきましょう。韓国はおそらく日本以上に経済発展が急激だったはずなので、ソウルを歩いていると昔ながらの下町的なところがかなり残っています。日本の浅草のような、半ばエンターテイメントとしての下町ではなく、リアルな下町という感じがしました。繊維、建材、金属製品など様々な種類の問屋街があちこちにあり、オートバイに山のように大量の荷物を積み込んで運んでいく様子などは活気があって、壮観です。しかも、そういう下町的なエリアと、ハイソなエリア、それから政治経済の中枢的なところがかなり近接しているのがソウルの特徴ではないかという印象を受けました。東京で言えば、千代田区と目黒区と台東区が混在しているような感じでしょうか。

 ソウルで見付けたロシア地域との接点についても触れておきます。まず、『地球の歩き方』を読んでいたら、ソウルにロシア人・ウズベク人・モンゴル人街があると書いてあったので、その界隈に行ってみました。東大門運動場駅の近くにあります。ただ、見たところ完全にそれらの人々が街を埋め尽くしているわけではなく、韓国人の普通の街のなかにキリル文字の店が混在しているような感じでした。もともと、印刷屋など、零細企業が多い一画のようですね。ロシア系やウズベク系の人々は、運輸・旅行業や繊維製品の取り扱いを生業としておられるような雰囲気です。ロシア人といいつつ、実はウズベク系のロシア出身者だったりするのかもしれません。ロシア料理店もほとんど見当たらないし、あまり「ロシア色」は強くないように感じました。また、地下鉄の通路で、国際結婚斡旋業のそれと思しきポスターを見付けました。韓国人男性にアジアの貧しい国の女性を紹介するというサービスだと思いますが、そのなかに見慣れた国旗、ウズベキスタンとキルギスがありました。中央アジアには朝鮮系の人達が住んでるから、それを目当てにしたものでしょうか?

東大門運動場駅近くのロシア人・ウズベク人・モンゴル人街。

 

梨泰院(イテウォン)界隈で見付けた「フィルマ・ハラショー」と称する会社。

ただし、従業員の韓国人にロシア語で話しかけたが通じなかった。

国際結婚斡旋業。

非常に小柄なご老人たち。

 ソウル市民の皆さんを観察して驚いたのは、ご年配の方々が、非常に小柄であるということです。逆に若い人たちは体格が良いから、とても同じ民族とは思えないほどです。どの国でもだいたい若い世代ほど体格が良いものだとは思いますが、韓国の場合にはそれが極端です。おそらく、朝鮮半島では20世紀に入ってから、日本による併合や朝鮮戦争など動乱が続き、1950年代くらいまではまともに食えないような時代が続いたのではないでしょうか。それが、近年急激に豊かになって、若い人たちは見違えるような体格になったという。

 韓国の女子の皆さんは、日本人とはだいぶ雰囲気が違うんですね。日本でありがちな、ゆるゆる、ふわふわな感じの女子はほとんどいなくて、ソウルの街角でたまにそういう人がいると、たいてい日本人観光客だったりします。韓国の女子は、キリっとした感じで、私の勝手なイメージでは、木村佳乃さん的雰囲気の人が多いような。ていうか、スカートはいてる人、ほとんどいなかったなあ。

 最後に、まったく個人的な趣味の話ですが。私の好きな歌手の中島美嘉が、韓国で人気があるらしいという話を聞いていて、韓国に行く機会があったらそのあたりを確かめてみたいとずっと思っていました。で、ソウルの街を歩いていて、CD屋があったら覗いてみようと思ってたんだけど、そもそもCD屋が全然見当たりません(ついでに言えば本屋もほとんど見かけない)。アメリカなんかでも、もはやマンハッタンあたりにはCD屋なんかないと聞いたことがあるけれど、韓国も急激に配信とかに移行しているのかな? 結局、コスメ街として日本人にも人気の明洞(ミョンドン)に、日本人向けに韓流CDとかDVDを売っている店があって、そこで中島美嘉のCDを見付けました。また、梨泰院(イテウォン)や金浦空港でも、売っていました。色んなJポップが売られていましたが、売り場に大きなポスターが貼られたりもしていたので、確かに中島美嘉はとくに人気があるようです。

 記念に、3作目の『Music』韓国版を購入。パッケージだけハングル仕様で中身は日本製なのかと思っていましたが、今よく見てみたら「Made in Korea」と書かれているので、CD本体も韓国でプレスされたものである模様。ということは、音も微妙に違ったりするだろうなあ。記念品として買ったので、封を開けるつもりはなかったんだけど、聴きたくなってしまった。

(2010年5月22日)


ホームページのリニューアルと今後の抱負

 ご覧のとおり、4月1日をもって、当ホームページをリニューアルしました。先日、「2010年ウクライナ大統領選特報」のコーナーでそんなことをほのめかしましたが、善は急げということで、新年度に切り替わるタイミングで刷新に踏み切りました。

 リニューアルと言っても、今までのページをかなり生かしながらの部分的な変更です。アプリ面でFrontPageからDreamWeaverに乗り換えて全面的に刷新してみようかという気持ちもあったのですが、それをやるには最低3日はないと無理。今回は1日でやったので、折衷方式です。何と、全体をDreamWeaverのフレームセットにして、そのなかにFrontPageで作った旧デザインのコンテンツを埋め込んでいるという、かなり変態な処理が施してあります。まあ、見ている人には、どうでもいいことかと思いますが。しかし、この程度のリニューアルでも、分からないことだらけで、大変だったなあ。当面、不具合などが生じるかもしれませんが、徐々に改善していきたいと思います。

 繰り返しになりますが、「2010年ウクライナ大統領選特報」をやってみて、定期的で頻度の高い情報発信の場を設けることは、当該テーマについて常に問題意識を持ち続け情報を継続的にフォローするうえで、非常に有効であるということを痛感しました。したがって、自分の研究対象国であるロシア・ウクライナ・ベラルーシのそれぞれについて、とりあえずそうしたコーナーを立ち上げてみようというのが、今回のリニューアルの眼目です。

 ホームページのデザイン的には、それらのコーナーに入る入り口であるバナーを、左側にまとめて配置しました。ホームページ全体としては相変わらず不細工だけど、今回作ったバナーは、わりとかわいくないですか? 個人的にはルカちゃん登場のベラルーシが一番のお気に入りです。

 ロシアのコーナーは、「インサイド・ロシア」というタイトル。正直、ロシアが一番、どういう事柄を扱ったらいいか、決めかねています。何しろ対象が巨大だし、同国については情報も氾濫しているし、そうしたなかで自分としてどういう情報発信ができるか……。まあ、とりあえず始めてみるのが大事ということで、しばらくやっていれば、おいおい方向性も固まっていくことでしょう。

 ウクライナについては、「今週のウクライナ問題」というコーナーを設けました。現地の報道等をウォッチして、政治・経済の注目トピックスを毎週ピックアップし、紹介・解説するという内容になると思います。なお、「2010年ウクライナ大統領選特報」は相当気合を入れてやりましたので、そのバナーも残しておくことにします。

 ベラルーシについては、私自身長らく研究をサボってしまっていて、そうしたなかで2011年2月頃に大統領選が実施される見通しですので、それに向けて徐々にでも研究体制を立て直していこうということです。題して、「2011年ベラルーシ大統領選への道」 (注:大統領選の前倒し実施により、その後「2010年」に改名)。大統領選をめぐる動きを中心に、周辺の政治・経済の様々な話題にも触れていきたいと思います。当然のことながら、大統領選挙が終わっても、ベラルーシに関する常設コーナーは何らかの形で残ることになるでしょう。

 「インサイド・ロシア」「今週のウクライナ問題」「2011年ベラルーシ大統領選への道」の3コーナーは、基本的に週1回の更新を予定しています。たぶん、週末の発行ということになるでしょう。ただし、ニュースが多かったら週に2〜3度更新するかもしれませんし、逆に海外出張などで更新できない週もあるでしょう。まあ、あまり細かい話は抜きにして、とにかくほぼ週1のペースで、これら3国についての何らかの記事をお届けしたいと思います。週1だと、1年に50本くらいで、20年やったら1000本か。1000本めざしてがんばるぞ、オー! すいません、4月1日現在、まだゼロ本ですが(笑)。

 それから、本ホームページはタイトルどおりの3つの国を守備範囲としているわけですが、オマケとして、モルドバのコーナーを新設することにしました。これについては、上に配置されたアイコンをクリックしてコーナーに進んでください。まあ、モルドバはそんなに熱心に研究しているわけではなく、提供できる情報もほんのわずかですが、私自身とても興味のある国であることは間違いないので、軽い気持ちでコーナーをつくりました。今のところ中味が空っぽですけど、そのうちやってみたいと思います。

 ただ、以前は本ホームページで定期的に更新しているコーナーは「マンスリーエッセイ」だけで、ロシア地域の話題や豆知識、仕事や身の回りのあれこれ、果ては趣味の話まで全部そこに詰め込んでいましたが。さすがに、これだけ定期更新コーナーが増え、しかもブログまであると、エネルギーが分散することは避けられそうもありません。本マンスリーエッセイのコーナーは今後かなりトーンダウンするでしょう。現に今回の4月のエッセイも、単なる業務連絡の趣があります。正直言うと、最初は単にアナウンスするだけのつもりだったのですが、「ついでだからエッセイにしちゃえ」と、途中で方針転換した次第です。まあ、このあたりはご容赦願います。

 それから、あらかじめ申し上げておきますが、コーナー間や他の媒体とのネタの重複や使い回しなども、当然出てくることと思います。というか、私としては、「インサイド・ロシア」や「今週のウクライナ問題」の記事をさらに洗練させて、自分の編集している雑誌の記事に使うつもりでいます。もっと言えば、後者こそが本命で、前者はそのためのメモなんですけどね。というわけで、多少のネタの使い回しが目に付いたからといって、志の低いやつとおっしゃらず、暖かい目で見守っていただければ幸いです(笑)。

(2010年4月1日)


こっそりブログ開設

 突然ですがわたくし、ブログを始めました。

 何だそりゃ、つい最近のエッセイで、ブログ文化に疑問を投げかけるようなことを言っておきながら、その舌の根も乾かぬうちに、ブログ開設か?と言われそうですが。はいそうです。変節しました。

 もともと、ブログがどうの、ツイッターがこうのと言っていたのは、興味があったからなわけで。ただ、興味と同時に抵抗感も非常に強く、それが歯止めになっていたわけですが。「もういいじゃん」という心境になりました。別に私がブログを始めようが、始めまいが、それで世の中の大勢が変わるわけでもあるまいし。このホームページはYahoo! のジオシティーズというところに入居しており、ブログはその関連サービスのジオログというやつですので、まあホームページのオマケです。

 私が世のブログ文化を好きになれない最大の理由は、匿名性です。ただ、私の場合は、すでに名を名乗ってウェブサイトを開設しており、もともとそこでバカ話もしているのだから、その延長上でブログをやっても、まあ本質的にあまり変わりはないかと。だから、ブログをやるにしても、誰が書いているのか分かるようにして、責任の所在を明らかにするというのが、最低条件でした。

 それから、ブログやSNSといえば、中傷や荒らしが付き物で、そういったことも私がこれまで距離を置いていた一因です。そこで、私のブログは、こちらから情報を発信するだけで、他人がコメントができないように設定してあります。双方向のコミュニケーションを放棄しているわけで、保守的な態度ですが、質問が来たりしても答えるのが面倒だし、それに批判されたりすると結構傷付く人間なので(笑)。

 ブログはこちらです。右上の赤いアイコンからも進めます。ブログを試しに始めてみたのが1月29日で、嫌になったらすぐに止めようと思っていましたが、依然として違和感は抱きつつも、かれこれ2ヵ月近く続いています。この間、少なくとも1日に1回は更新していました。まったくアナウンスしていないから、誰も読んでないはずなのに、根が真面目なので(笑)、律儀に毎日更新し続けてきました。まあ、そろそろカミングアウトしてもいいかなと、そんなところです。

 タイトルは、「Mishaのこっそりブログ」と言います。Mishaというのは、別に欧米人を気取っているのではなく、私の名前ミチタカをロシア人に覚えさせるのは大変なので、(ロシア語のミハイルの愛称である)「ミーシャと呼んでくれ」といつも言っているので、それからとった次第です。「こっそりブログ」というタイトルに、「恥ずかしながら」「人目をはばかり」というニュアンスを汲み取っていただければ幸いです。

 色々疑問を覚えつつ、それでもブログを開設したのは、一つにはやはり、このホームページを見に来てくださる方々へのサービスということがあります。前々回も書きましたが、私自身、好きなサイトを訪問して、情報が更新されていないと、ガッカリしますので。数は多くないとは思いますが、このホームページを定期的に見てくださっている方もいるはずですので、そういう方々のために、日々ちょっとした話題だけでもご提供申し上げようということです。まあ、ほとんどがサッカーや音楽・映画の素人談義なので、もったいぶるようなものではないのですが。

 それにしても、ブログって、いったいどれだけの人がやっているんでしょうねえ。目に留まったところでは、こんな記事がありました。これによれば、2008年1月時点で日本国内のブログ人口は約1,690万人で、その後も増殖中とか。別のデータでは、世界のブログ人口が7,200万人で、うち日本語のブログが37%を占め(つまり2,664万人くらい)、英語の36%を上回り最多となっているとのことです。日本が、世界に冠たるブログ大国であることは間違いないようですね。ブログの実態については、総務省による詳細な調査結果も発表されています。また、2009年8月10日付の『日本経済新聞』によれば、全国の20〜50代の男女1,000人に聞いたところ、ブログの開設者は37%、SNSの会員は31%に上った由。ただ、この調査はネットを通じて実施したとのことで、すなわち対象がネットのアクティブなユーザーに限定されているという意味で、かなりバイアスがかかっているということが言えそうです。ちなみに、2010年3月18日付『讀賣新聞』夕刊によれば、ツイッターの日本国内の利用者はすでに470万人に上っているとのこと。

 これらの情報から判断するに、ざっくり言って、2,000万人以上の日本国民がブログをやっているということになるでしょうか。国民の5人に1人とか、4人に1人くらいの割合でブロガーがおり、PCユーザーの間ではその割合はさらに大きいということなのでしょう(ただし、上掲の総務省報告にあるように、休眠しているブログが多く、定期的に更新されているアクティブブログは必ずしも多くない)。でも、自分の身の回りに、「私ブログやってます」なんて人がまったくいないから、にわかには信じられません。それとも、ブログというのは基本的に匿名でやるものだから、ブログを始めたとしても、あえて周りの人に知らせたりしないのかな。

 先進国では、政治家のブログや、最近ではツイッターによる情報発信が当たり前になっているけど、ロシア・NIS諸国ではどうでしょうか。ざっと見た限り、同諸国の大統領や首相がブログだのツイッターだのを活用している様子はありません。かろうじて、クレムリンのホームページにメドヴェージェフ・ロシア大統領のブログ(ビデオログ)と称するものが設けられていますが、これは大統領の活動振りを動画などで紹介する広報的性格が強いもので、本人の肉声を伝えたり双方向・リアルタイムにコミュニケーションを図ったりするものではないようです。

(2010年3月22日)


酒とタバコとロシア人

 昨年末のエッセイで表明した2010年代の誓い、一応実践してますよ。早起きと禁酒。

 まあ、現状では、早起きといっても、以前は午前9時くらいに起きていたのを、2時間ほど早めて、7時くらいにしただけですけどね。世間一般の基準から言えば、こんなの全然早起きじゃないことは承知していますが。でも、この私が、たとえば日曜日の何も予定がない日に7時に起きるなんて、これまでだったら考えられないことなのです。

 今までは、低血圧で、朝起きるのがつらく、起きてからもダルいので、午前中はあまり活動らしい活動ができないという感じだったのですが。しかし、築山節さんという方の本を読んで(お奨めです)、目覚めていないから活動できないというのではなく、積極的に活動することによって意識的に自分を目覚めさせることが大事だということに、ようやく気付きました。その教えにならって、とにかく朝起きたらフルスロットルで体と頭を稼動させることを心がけています。

 それにしても、爽快ですよね、朝ちゃんと起きると。朝から活動を開始して、一仕事終え、さらに午前中の時間が余っていたりすると、すごく得した気分になります。その代わり、以前のように午前0時を過ぎてもパソコンにかじりついて仕事を続けるようなことは、しなくなりました。「遅くまで頑張ってやらなきゃ」という強迫観念を捨て、今は「眠くなったらすぐ寝る」と割り切っているので、精神的に楽です。本当に、もっと早くこうするべきだったと、つくづく思います。できれば、あと2時間くらい早く、5時起床くらいにして、正真正銘の早起き人間になりたいものです。

 あと、禁酒ですが、大晦日に飲んで以来、今年に入ってから、一滴も飲んでいません。この間、飲み会やパーティもありましたが、ノンアルコールで通しました。ちなみに、最後に飲んだのは、昨年秋の秋田旅行の際に買ってきた純米酒で、これが私が飲む一生で最後の酒になるかもしれないので、写真に撮っておきました。

 わたくし、思うのですけれど、たとえばタバコを止めたいと思った時に、「この一箱を吸い終わったら、禁煙しよう」とか考えると、絶対に止められません。結局、それを吸い終わったら、新しいのを買ってしまいます。私は、何度か禁煙に挫折したあと、2000年の9月19日に(自分の誕生日だからよく覚えている)、リトアニアのヴィルニュスに旅行に行っていた時に、最終的に禁煙に成功しました。その時は、自分が買ったばかりのタバコを、一箱まるごとタクシーの運転手にあげました。人に丸々あげてしまったので、さすがに買い直すのはばからしく、それでタバコがやめられたというわけです。10年が経ち、今では大の嫌煙家です。

 というわけで、「この一箱を吸い終わったら」とか考えるのが駄目なのであり、確実に止めるためには今あるものをすぐに人にあげたり捨てたりすることだというのが、私が禁煙成功体験で得た教訓でした。その教訓にならい、今回も酒を止めるにあたって、家にあった焼酎やバーボンをドボドボと流しに捨てました。数千円が失われたわけで、何とももったいない話ではありますが、酒を止めることによって得られるはずの有意義な時間、生活習慣の改善などを考えれば、まったく取るに足らない出費です。正直な話、禁酒というのはそれほど固い誓いではなく、そのうち何かの拍子でまた飲み始めるかもしれませんが、仮に2〜3ヵ月くらいで禁酒が途切れてしまったとしても、その間シラフでいられただけでも、試みは無駄ではなかったと思っています。

 さて、自分の話ばかりでなく、少しはロシア地域についても触れなければなりません。私の知り合いのあるロシア人が、いみじくも、「ロシア人は体に悪いものが好き」と言っておりました。確かにその知り合いも例外ではなく、豚の脂身にたっぷりと塩をふりかけたものを肴に、ウォッカをあおり、タバコをスパスパという具合で、お前そんなことしてたら死ぬぞと言いたくなります。

 ちなみに、豚の脂身のことを、ロシア語で「サーロ(Salo)」といいます。最近聞いた話で、サーロのルーツはウクライナにあり、虐げられたウクライナ人農民が飢えをしのぐために食べたのが始まりと、同国ではされているようです。ちょっと眉唾っぽい話ですが(笑)。

 話を戻すと、ロシアは世界的に見てもアルコール中毒問題が非常に深刻で、なおかつ喫煙率がきわめて高い国です。その具体的なデータを示そうと思って、WHOのウェブサイトをチェックしてみたのですが、最新の喫煙率の国際比較みたいな資料はちょっと見付かりませんでした。というわけで、感覚的な話で恐縮ですが、ロシアの飲酒も喫煙も、深刻な問題であることは間違いありません。さらに言えば、ロシアでは非合法な薬物の蔓延もかなり深刻です。これに関しては、正確なデータとか、国際的な比較などが、さらに難しいですけど。

 ロシアでは、日本みたいに夕食時に晩酌をしたり、サラリーマンが会社帰りに酒場に寄ったりといったことは逆に少ないと思いますが、ウォッカに薬物的な感じで溺れてしまう人が多いわけですね。失業者(主に男性)が昼間から家で飲んでいるとか。最近でこそ、中産・上流階級や青年層などで、ビールやワインのような軽いお酒に移行する傾向も見られますけれど。また、タバコに関して言えば、成人男性の喫煙率の高さはもちろんのこと、女性や未成年のそれが結構高いのではないかという印象を受けています。だいたい、オフィスビルの階段の踊り場は、女性たちの溜り場&喫煙所と相場が決まっていますし。日本もそうですけど、ロシアではタバコが安いですよね。

豚の脂身「サーロ」 気持ちワル

最近の低アルコール化の波に乗って日本の一番絞りもロシアに登場(モスクワのスーパーにて)

モスクワの街角のタバコ売り場

 分かりやすい国際比較が可能なのは、平均寿命の数字ですね。とりあえずロシアのデータだけ示しますと、同国の平均寿命は2008年現在で67.9歳、うち男性は61.8歳、女性は74.2歳です。女性はともかく、男性があまりにも低すぎますよね。やはり、飲酒・喫煙等の生活習慣が男性においてとりわけ劣悪であることがうかがえます。男性と女性の平均寿命は、下図のように推移しています。実線が男性、破線が女性です。男性と女性の乖離に加えて、目に付くのは、数値が結構目まぐるしく上下している点です。たとえば、1980年代の後半にゴルバチョフが「反アルコール・キャンペーン」をやった時には、平均寿命は確かに改善しました(国民のゴルビー支持率は悪化しましたが)。

 ところで、素人考えで、ロシアのような寒冷地はやはり人間の健康によろしくなく、それが平均寿命に響いているのではないかといったことも、つい勘ぐってしまいます。訃報は冬に多いような印象があるので、やはり寒さは健康の大敵ではないかと……。ただ、調べてみたところ、スウェーデンとかノルウェーのような北欧先進国は、平均寿命がかなり高いようですね。まあ、充実した社会福祉の賜物だとは思いますが、一概に寒いところほど短命とは言えないようです。日本のデータを参照してみても(とりあえずこことか)、確かに寒そうな都道府県の寿命がやや短めな傾向はあるものの、それらはいかにも漬物をつまみに酒をたくさん飲んでいそうなところであり、寒さが寿命に直接影響しているというよりは、寒さ→生活習慣→寿命という因果関係なのかもしれません。

 すいません、恐ろしくつまらないエッセイでしたね。これ以上書いていると酒が飲みたくなりそうなので、これくらいにします。

(2010年2月15日)


ショートな時代に

 このホームページを見てくださっている人から、「ブログ読んでますよ」と言っていただくことが、たまにあるんですけど。私自身の意識としては、「ブロク」をやっているつもりは、まったくありません。私がここで披露しているのは、あくまでもエッセイです。

 ブログとエッセイがどう違うか。私の定義によれば、ブログというのは、日々起きた出来事や感じたことを、日記形式でそのまま綴ることでしょう。一方、私がこの「マンスリーエッセイ」のコーナーに掲載している文章は、それなりに練り上げたものです。内容が高級とか高度という意味ではなく、中味自体は低俗なこともありますが、自分なりに努力や工夫をして完成させた文章ということです。面白そうなテーマを見付けて、そのテーマについて色々と検討を加え、必要であれば調べ物もして、それらをもとに文章を構築し、タイトルにも凝って、最終的にじっくり推敲して完成させる。ですので、本エッセイを1本執筆するには、半日とか1日とかかかったりします。普通、ブログではそこまでやらないでしょう。カジュアルな文章のように見えても、実はこれだけ手間隙をかけているので、月1本が限界です。

 まあ、要するに、話を組み立てるのが好きなんでしょうね。ブログ風に、「今日こんな映画を観た。面白かった」で終わってしまうのが嫌で。「今日こんな映画を観たが、ここで描かれていた問題はよく考えると今のロシアの世相に通じるところがある。くしくも主演の誰それはロシア系移民の子孫だ。ただ、調べてみたらこの映画はロシアでは公開されていませんでした(笑)」みたいな感じで話を膨らめ、できればオチもつけたいという。

 ただ、そんなことを言っているうちに、時代はますます変化して。最近では、ブログどころか、リアルタイムで短文の「つぶやき」を公開するTwitterが大流行しているようです。

 確実に、時代はショート化しつつあるなと、そんな気がします。お笑いの世界でも、ショートネタが全盛になり、「東京03」が腕はあるのに仕事が増えないとか(笑)。音楽では、着うたが幅を利かせたり、歌番組でも1曲が完奏されずにメドレーになったりと。

 こんなことを書くと、長尺で重厚なものが好きな人間なのかと思われそうですが、全然そうではありません。個人的に、長編小説なんてほとんど読んだことがなくて、昔読んだのはショートショートだけ。ポピュラー音楽でも、モータウンのように1曲が2分30秒くらいで終わるのが理想だと思っていますからね。それでも、モータウンの名曲には、2分30秒のなかに無駄なく起承転結があり、ドラマが詰まっているのです。私が言いたいのは、今日のショート文化は、最小単位よりもさらに短い、断片のようなものではないかということです。

 ただ、個人的にブログやTwitterには距離を置いているものの、他の人のブログやTwitterを読むことはよくあります。自分の好きな音楽評論家やスポーツライターのサイトは、結構マメにチェックして読んだりしています。

 しかし、気になることが。私の印象では、普通のホームページを開設していた人が、ブログを始めるとそちらにシフトして行き。さらに、Twitterを始めると、それにドップリはまってしまい、ホームページやブログさえも疎かになっていく傾向があるように思います。つまり、私が敬愛する方々の情報発信も、どんどんショート化しているのですね。どうも、Twitterには麻薬的な魅力があるようです。

 正直言うと、私自身も、ブログやTwitterをやってみたいという気持ちがないわけではありません。私などは、好きなサイトを訪問して、情報が更新されていないと、ガッカリします。それと同じように、もしも私のホームページの更新頻度が低いことで、誰かを失望させていたら……。それに、日常的に起きたことや考えたことのあれこれを、すぐに発信してみたいという気持ちは、確かに私にもあります。

 実を言うと、先日開設した臨時コーナー「2010年ウクライナ大統領選特報」には、そういうリアルタイム・高頻度情報発信の実験というか疑似体験という意味合いもあります。前回のベラルーシ大統領選挙の時に、ありがたいことにこのホームページの閲覧数がものすごく増えたので、その時も「2006年ベラルーシ大統領選特報」というのをやりまして、その再現をねらいました。

 一番良いのは、リアルタイムではTwitterでつぶやき、1日のまとめをブログでやって、それらを再吟味・集大成する形でエッセイとか論文を書くことなんでしょうけどね。でも、そういう3階層方式は、よほど自覚的に努力しないと、維持できないような気がします。Twitterでつぶやくと、「気が済んでしまう」のではないかと思うのですよ。何か出来事や思い付いたことがあっても、すぐには発信せずに、名状しがたい感覚やモヤモヤした気持ちをしばらく引きずって、ああでもないこうでもないと思いを巡らせるからこそ、物事をより深く突き詰めることができるのではないか。保守的かもしれませんが、そんなことを考える、2010年の初頭でした。

(2010年1月23日)


    

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