マンスリーエッセイ(2006年)

 
記号

2006年12月:運命の赤い糸

記号

2006年11月:モスクワ蛸祭り開催中

記号

2006年10月:モルドバに行ってきました

記号

2006年9月:中田英寿のこと

記号

2006年8月:ハイテク独裁国への道

記号

2006年7月:ラジミチ来日公演ルポ

記号

2006年6月:S銀行の「コンプライアンス」

記号

2006年5月:幻の民謡を求めて

記号

2006年4月:石神井川の桜

記号

2006年3月:大統領選挙前夜のベラルーシ

記号

2006年2月:バイオリズムがぴったんこ

記号

2006年1月:嗚呼、哀しき(楽しき?)股裂き人生

 

運命の赤い糸

 12月3日から8日まで、ロシアの銀行部門の調査のためにモスクワに出張してきました。そこで、思いがけない出会いがありましたので、それについてご報告します。

 12月4日に、この国の銀行界の業界団体である「ロシア銀行協会」を訪問しました。先方は幹部4名が応対してくれたのですが、そのなかの1人の名刺に目が留まりました。

MILYUKOV, Anatoliy Illarionovich

ロシア銀行協会副会長

経済学博士 教授

 ミリュコーフ氏とな? まさか、あのミリュコーフ氏では?

 私は、冒頭の挨拶で、単刀直入に聞いてみることにしました。

 :「本日のテーマとは関係ないことで恐縮です。もしも間違っていたら申し訳ありません。先生は、ひょっとしたら、日本で本を出したことがありませんか?」

 :「そのとおりです。日本経済に関するソ連政府の報告書が日本で出版されており、その本を書いたのは私です。」

 :「その本を翻訳したのは私です。」

 そうなんですよね。1991年に朝日文庫から『日本経済に学べ[ソ連・ミリューコフ報告]』という本が出ていて、翻訳作業を中村裕先生と私の2人でやったんですよね。ちなみに、日本側の関係者は皆、漠然と「ミリューコフ」と思い込んでいたのですが、正しくは「ミリュコーフ」だということは後から知りました。

 正直に言えば、内容的には、どうということのない本です。経済改革の必要に迫られたソ連政府が、日本の経験から何か安易に拝借できるものはないかという不純な(?)動機にもとづいて、ミリュコーフ氏らを我が国に派遣し、役人や識者からレクチャーを受けてまとめたレポートですので。日本人が読んで、面白い文章ではありません。

 そのような低調な中味にもかかわらず、なぜこの本が出版されることになったかというと。詳しいいきさつは知りませんが、どうも政治がらみの出版企画だったようですね。ミリュコーフ氏による前書きのなかに、安倍晋太郎氏への謝意が丁寧に述べられているあたり、同氏周辺が関与したであろうことをうかがわせます。この前書き、私が訳したんですけど、確か原文には安倍氏への言及なんかなかったんだけどな(笑)。時代は巡って、今やその息子が首相ですか。

 いずれにしても、ある筋から中村先生に依頼が来て、私も大学時代に中村先生には一方ならぬお世話になったものですから、2人で分担して翻訳をすることと相成った次第でした。

 ただ、いかに内容的にぱっとせず、政治的な背景のある出版であろうとも、『日本経済に学べ』は私にとって個人的に忘れがたい仕事です。東京外国語大学を卒業して(社)ソ連東欧貿易会(現ロシアNIS貿易会)に入社したものの、当時の私のロシア語力はかなりお粗末でした。しかし、ミリュコーフ報告の翻訳に取り込むことを通じて、「自分は翻訳ができるんだ」という自信めいたものを身に付けたような気がします。それに、テーマが日本経済だっただけに、翻訳の参考のために多くの資料に当たり、結果的に日本経済についての多少の知識や問題意識ももてるようになりました。

ロシア銀行協会の幹部の面々(一番左がミリュコーフ氏)

 と、私の個人史にとって重要な位置を占めるミリュコーフ報告の張本人と、予期せず出会ったものだから、びっくり仰天。ゴルバチョフ時代の政策エリートなので、すっかり過去の人になったのかと思いきや、銀行というロシアのなかでは先端的な業界に身を置いていたとは驚きです(銀行経営を経て協会幹部に転進した由)。もちろん、驚いていたのは先方も同じで、ミリュコーフ氏は面談テーマの銀行問題そっちのけで、報告書作成当時の思い出を感慨深げに語ってくれました。

 ミリュコーフ先生はお忙しかったらしく、1人だけ早く面談を切り上げることになり、私のところに歩み寄ってきてくれました。

 :「貴方とは別の機会にもっとゆっくりと話をしなければいけませんね。いつまでモスクワにご滞在ですか?」

 :「木曜日までです。」

 :「残念ですね。私はこれからもう、ミンスクに飛んでしまいますので。」

 :「ミンスクですか。私の第2の故郷です。3年間住みました。」

 :「え? だって私は、ベラルーシ人ですよ!」

 あらら、そうだったの!? 本の著者と訳者という関係だけではない、もっと深い、運命の絆で結ばれていたのね。

 

PS ロシアに旅行する際に書かされる「出入国カード」というものがあるのですが、この11月から、またしてもその様式が変わったようです。今回の出張で、初めてお目にかかりました。

 新しい記入用紙(右)を古いもの(左)と見比べてみると……。何と、新しいカードでは、ロシアとベラルーシの出入国カードとなっているではありませんか(新しい用紙の右肩に注目)。確かに、ロシアとベラルーシ間の国境管理がないに等しいので、これまではロシアからいったんベラルーシに行ってまた帰ってきたりすると、ロシアの出入国管理上空白が生じて、日本に帰る時にロシアの国境警備員と押し問答になったりということもあったのですが……。

 これで、両国の出入国カードが共通化され、ロシアで登録したカードがそのままベラルーシでも通用するということなのでしょうか。だったらビザはどうなるの? それにしても、なぜ今頃?

 何か分かったら、また報告します。

*          *          *          *          *

 というわけで、今年のエッセイはこれでお終い。また来年お会いしましょう。

20061211日)

 

 

モスクワ蛸祭り開催中

 ちょっと忙しくて、雑な文章しか書けませんが。

 この間、ロシア初心者の人たちと仕事でモスクワに出張する機会がありまして。その人たちが、せっかくロシアに来たから、バレエか音楽を鑑賞したいと希望されました。

 実は、私はこれまで、ロシアで劇場の類に行ったことが一度もありませんでした(ベラルーシでは何度かありますが)。有名なボリショイ劇場も、いつも横を通り過ぎるだけで、中にはまったく入ったことがありません。正直、お堅い芸術は苦手だし、劇場なんて敷居が高そうな気がして、足が向かなかったのです。まあ、つい最近までクレムリンの中にも入ったことがなかったくらいですから、何度もロシアに行っていながら、普通の日本人観光客が行くようなスポットには、あまり出入りしていないのですね。

 しかし、今回の出張では、私が引率役のような形でしたので。皆さんのリクエストにお答えして、「何か目ぼしい出し物をやっていないか、探してみましょう」ということになり、ホテルに置いてあったパンフレットを物色してみたのです。そうしたところ、我々のスケジュールと関心に合いそうな演目として目に止まったのは……

1014日(土)

V.フェドセーエフ指揮 国立アカデミーボリショイ交響楽団

ショスタコーヴィッチ交響曲第13番「バービー・ヤル」

会場:チャイコフスキー記念コンサートホール

というものでした。

 実は、お堅い芸術は苦手と言いながら、私は大学受験のころ、クラッシック音楽にはまりかけたことがあります。受験勉強に集中するため、好きなロックやポップスを聴くのをしばらく我慢していたら、飢餓感が募って、音に対する感受性がやたらに研ぎ澄まされてしまったのですね。その時、とあるきっかけで聴いたクラッシックに、大いなる感銘を受け、晴れて入学した東京外国語大学では、勢い余ってオーケストラ部に入部しそうになりました(気質が合わずやめましたが:笑)。不思議なもので、暇な大学生になり、ポピュラー音楽を浴びるほど聴く生活に戻ると、研ぎ澄まされていた感性が鈍化してしまったようで、その後はクラッシックを聴いても何も感じないようになってしまいました。

 でも、最近、また少しだけ、クラッシック音楽を聴くようになっていたのです。オーディオに凝り始めたのがそのきっかけで、音楽そのものへの興味というよりは、オーディオのレファレンスとしてですね。何しろ、私の本筋であるソウルミュージック、とくにモータウンなんかは、AMラジオで聴かれることを前提としてつくられた音楽ですからね。やっぱり、オーディオの性能を試すためには、もうちょっと高級な音楽が適しているわけです。

 それに、私の場合、ロシアは好きでかかわりあいになっているのではなく、あくまでも仕事の対象なわけですが、それにしても、一つくらい自分の趣味とオーバーラップした方が、仕事の励みにもなりますよね。ところが、ロシアはサッカーは大して強くもないし、ロシアン・ポップスは好みでないしで、なかなか自分が思い入れられるようなジャンルを見つけられなかったのです。だから、ロシアに関して、何か趣味的な関心をもつのだったら、やっぱりクラッシックかなと、最近漠然と考えていたわけです。ロシアに行くたびに、CD売り場を覗いたりして。だから、今回、モスクワで生演奏を聴くというのも、自然な流れなのかもしれません。

 それにしても、ショスタコーヴィッチか。難解そうだなあ。しかも、この13番って、何だ? 詩がエフトゥシェンコで、バスソロとバスコーラスのための曲って書いてあるぞ。訳分からなそうだなあ。寝るぞ、多分。

 まあいいや、他の皆さんは乗り気だし、話の種に、行ってみることにするか。というわけで、早速チャイコフスキー記念コンサートホールの前売り券売り場に行って、切符を買い求めました。意外だったのは、席に案外余裕があるみたいで、しかも切符がかなり安いということです。我々はそこそこ良い席をとりましたが、値段は600ルーブル(3,000円足らず)でした。今まで敷居が高そうな気がして敬遠していたのは何だったの? という感じで。

 そして、いよいよコンサート当日になり、会場に行ってみると、あれれ、何だか客入りがよくありません。残念ながら、客席の半分も埋まっていない様子でした。実は、今年はショスタコーヴィッチの生誕100周年で、9月から12月にかけて記念音楽祭が開催されており、このコンサートもその一環だったのですね。プーチン大統領が祝辞を寄せた立派なパンフレットもつくられていて。そんな大事なコンサートが満員御礼にならないというのは、とても残念な気がします。

 さて、会場でパンフレットを買い求め、交響曲第13番の解説を読もうとしたのですが、あまり時間もなく、よく飲み込めませんでした。何やら、悲劇的な事件を題材としているようなのですが……。第1楽章:バービー・ヤル、第2楽章:ユーモア、第3楽章:商店にて、第4楽章:恐怖、第5楽章:キャリア、って、意味分からなさすぎ。

 というわけで、何やらいわくつきの曲らしいということは分かったものの、正確なところは理解できないまま、開演時間を迎えて。オーケストラと男性だけの合唱隊、そして本日の主役である指揮者とソロ歌手が入場してきて、演奏に突入しました。

 でも、結論から言うと、かなり楽しめましたね。もちろん、音楽そのものは、私の理解を完全に超えていますが。それでも、変わった編成の曲だけに、特有の面白さがあったし、何よりも、生オーケストラの響きですよ。考えてみれば、私はこれまで、生で聴いたクラッシックは外語オケしかありませんでした。外語オケには申し訳ないけれど、本物のオーケストラは今回が初体験のようなものですからね。それだけでも、充分感動ものでした。同行者は、私よりもはるかにクラッシックに詳しい人たちでしたが、それぞれに感銘を受けておられたようでした。

 さて、コンサートが終わってから、ショスタコーヴィッチと交響曲13番について、ネットで色々と調べてみました。全然知りませんでしたが、ショスタコーヴィッチというのは、20世紀最大というか、音楽史上最後の交響曲作家と位置付けられているらしいですね。日本人のクラッシックファンたちのサイトに、色んなことが熱心に書き込まれていました。彼らの間では、ショスタコーヴィッチは「ショスタコ」の愛称で呼ばれ、果ては「タコ」と呼ぶ向きすらあるようです。曲や演奏を星印ならぬ蛸印で評価したりと(笑)。

 そして、それらのクラッシックファンのサイトで、交響曲13番の情報も仕入れることができました。「バービー・ヤル」は、第二次大戦中にナチス・ドイツがウクライナでユダヤ人を大量虐殺した事件を題材とした作品で、大変な問題作だったということのようです。この曲がつくられたのはフルシチョフ時代ですが、政治的に機微な作品なので初演にも一苦労し、長らく演奏禁止扱いだったとか。まあ、このあたりは、ド素人の私が云々してもしょうがないので、ご関心の向きはご自分で検索してみてください。

 

交響曲13番初演時のタコ先生(左)と

詩人エフトゥシェンコ(右)

 

 私もすぐに凝るタイプなので、今回モスクワでショスタコの6番と10番の入ったCD、そして7番を5.1サラウンドで収録したDVDオーディオを買い求めました。残念ながら、13番は良さそうなのがありませんでした。有名な7番とかに比べると、13番は演奏や録音の機会が少ないようで、モスクワでその生演奏に触れることができたのは、貴重な体験だったと言えるかもしれません。

 いずれにしても、これからはなるべく、ロシアに行ったらクラッシック・コンサートに出かけるようにしたいと思っています。

 

 PS 6月に、「S銀行の『コンプライアンス』」というエッセイを書き、自分の書いた原稿がボツになったグチを述べましたが、その後、同じ原稿を別のところ(D銀行!)に出したところ売れましたので(\(^o^)/)、本HPからは削除いたしました。

(2006年11月8日)

 

モルドバに行ってきました

 9月10日から14日にかけて、モルドバで現地調査をしてきました。その成果についてはこちらにまとめたので、それを参照していただくとして、本コーナーではベラルーシとの比較といった点を中心に、ざっくばらんな話をさせていただきたいと思います。ちょっと忙しいので、書き殴りですいません。写真はすべてクリックすると拡大されます。

 ご存知の方も多いと思いますが、モルドバ人という民族は、基本的にルーマニア人と同じです。非常に乱暴な言い方をすれば、スターリン時代のソ連がルーマニアの一部を占領して、「モルドバ人」という民族をでっち上げてしまったと……。こんな言い方をすると、本人たちが怒るかもしれませんが、まあ、そんなようなものでしょう。

 これまた不謹慎な発言になりますが、ベラルーシという存在は、ロシア文明(非文明であるという人もいます)とポーランド文明がせめぎ合った結果として生れ落ちたものという見方が可能です。そして、モルドバという国家・民族も、ロシアとルーマニアが争奪を繰り広げた結果、期せずして存在するに至ったと言って差し支えないのではないでしょうか。つまり、ベラルーシとモルドバは、狭間に生れ落ちたという意味で、一脈通じ合うところがあるわけです。

 今でこそ私は、ベラルーシ専門家のような役回りを演じていますが、実はルーマニアの専門家になりかけたことがあるのです。話は、大学時代にさかのぼります。我が母校、東京外国語大学には、当時 、ルーマニア語の特殊講義がありました。ほら、人間、一つのことに挫折すると、別のことに逃げたくなるじゃないですか。私は、ロシア語が落ちこぼれでしたので、何か目新しいことをやりたくなって、大学3年の時にルーマニア語の講義を受けてみたのです。それに、当時はまだ社会主義体制が健在だったので、「ソ連に加えて、東欧のいずれかの国に詳しくなる」というのが、 ソ連地域研究者の一つの理想でしたので。結局、そのルーマニア語も2〜3ヵ月で挫折して、単位すらとれなかったわけですが(涙)。

 それでも、1989年にソ連東欧貿易会(現ロシアNIS貿易会)に入社して、そこではやはり、ソ連のほかに、どこか一つ東欧の国のことを受け持つことが期待されていて、 私は自然の成り行きとしてルーマニアの担当ということになりました。ルーマニア語も、経済の簡単な資料くらいだったら、読めるようになりまして。ルーマニア語のようなラテン系言語は、語彙に馴染みのあるものが多いので、基礎的な文法を習得すれば、だいたい意味は分かるようになるわけですよ。私は、ロシアについては一切個人的な思い入れはもっていませんけど、ルーマニアは本当に好きな国でした。東欧研究者にありがちな、国民国家マニアというやつですね。私は、ルーマニアのマニアになる、一歩手前まで行きました。ただ、社内の体制の変化とか、色んなことがあって、90年代の半ばくらいからルーマニアにかかわることが少なくなり、1998年にベラルーシに行ってからは、すっかり無縁になってしまいました。もちろん、ルーマニア語はきれいさっぱり忘れました。

 いずれにしても、ルーマニアの「片割れ」であるモルドバという国は、私にとって常に気になる存在だったのです。ベラルーシに駐在していた一番最後の時期に当たる2001年初頭、私はモルドバ訪問を決行すべく、同国のビザを取得しました。しかし、この時はあまりにも多忙で、モルドバ行きを泣く泣く断念せざるをえ なかったのです。なまじ、ピカピカの外交マルチビザなどをとっていたものだから、行けなかったという悔恨の念ばかりが募って。以来、モルドバが私にとっての行ってみたい国ナンバーワンだったのですから、我ながら変人というほかはありません。

 さて、上掲のレポートにも書いたように、行ってみたモルドバは、思ったよりもずっとしっかりした国でした。国民性も素晴らしく、大いに好感を覚えました。ルーマニア人の場合、素朴ながら、ちょっとずるい面がなきにしもあらずなのですが(そこがまたかわいい)、モルドバ人はそれよりもさらに純朴という感じで。

 

派手やかなキシニョフの景観 市場では乳製品売り場が異常に充実 ミンスクにもこんな店ほしいぞ

 

 モルドバの首都、キシニョフに繰り出してまず感じたことですが。ロシアやベラルーシのような北の国に慣れた人間からすると、モルドバは南寄りの国だからか、あるいはラテン系だからなのか、色彩の感覚がより鮮烈というか、原色好みである印象を受けました。写真をご覧ください。

 ある国に初めて行って、生活の息吹を感じたかったら、市場に行くことでしょうね。私も、今回、到着した日曜日にまずキシニョフの中央市場に行ってみました。モルドバは農業と食品加工業を主産業としている国ですから、市場は食料で溢れ、人々で賑わっていました。これだけを見ると、豊かな国であるような錯覚に陥りますが、大陸性の気候ですので冬場は一面雪景色となり、商店や市場も外国産の食品に取って代わられ、食料完全自給とはいかないようです。

 いずれにせよ、上掲のレポートにも書きましたけれど、キシニョフでは商店・レストラン・ホテル・空港などが思ったよりも整備されており、ミンスクは完全に負けているなという印象でした。写真に見るような立派なスーパーなんか、ミンスクには一つもありませんよ。ていうか、ベラルーシ目線で見ると、どの国も立派に見えちゃうんですかね。

感傷的なメロディーに合わせて、

何だかとっても幸せそうに踊っていました

「モルドバ語」の教科書

 

 キシニョフで少し意外だったのは、街中でルーマニア語よりもロシア語の方が多く聞こえてくる印象を受けたことです。これは、モルドバ人がロシア語を話すのもさることながら、そもそもキシニョフにロシア人(およびウクライナ人などのロシア語話者)が非常に多いということに起因しています。ソ連時代に、大規模な工場が建てられて、ロシア人が入植してきたという歴史があるので。また、かつてソ連では、極北のような過酷な地で勤務に従事すると、早めに年金生活に入れて、彼らの多くが引退後の地としてモルドバのような温暖なところを選んだというのです(同様の話はベラルーシでも聞いたことがあります。ベラルーシの場合は温暖とは言いがたいですが、ソ連のなかでは豊かな地域とされていたのですね)。それゆえに、キシニョフでは年金生活のロシア語話者が非常に多いとのことでした。今回、街を歩いていたら、公園で写真のような熟年ダンスパーティーに出くわしたのですか、彼らもそんな人たちだったのでしょうかね。

 私が知りたかったことの一つは、今日のモルドバでは、彼らの言語が何語として教えられているかということです。ソ連時代には、「モルドバ語」はルーマニア語とは違う独自の言語であるという立場がとられ、写真に見るような、「モルドバ語」の教科書が編纂されていました(文字もロシア語と同じキリル文字を使用)。それが、現在どうなっているかという関心です。ソ連時代のようなルーマニア敵視政策はなくなったにせよ、独立国家モルドバを正当化するためには、ルーマニア語と同じ言語ということを言ってしまうのはまずいのではないか。そのように勘ぐっていたわけですね。結論を言えば、今日のモルドバの学校では、正調ルーマニア語をルーマニア語として教えているとのことでした。「ルーマニア文学」も教えている模様です。つまり、言語・文化的な面からモルドバという存在を正当化する試みは、放棄されているということでしょうか。ただし、憲法には「ルーマニア語」ではなく「モルドバ語」と書かれている由でした。

 ロシアとルーマニアは、宗教的な面でもモルドバを引っ張り合っています。この点も、ベラルーシの事情と似通っていると言えます。ただし、ベラルーシではロシア正教とポーランドのカトリックがせめぎ合っているのに対し、モルドバではロシア正教会とルーマニア正教会が張り合っているのですね。基本的にはソ連時代の名残でロシア正教会が優勢で、それにルーマニア側がちょっかいを出すという構図のようです。モルドバのロシア正教会はヴォロニン現政権と癒着しているらしく、これもベラルーシの状況に似ているなと思いました。

 

キシニョフの正教会教会堂にて

歴史博物館

淡々と物が置かれているだけ

独立15周年特別展示の一画

 

 教会といえば、今回キシニョフを散歩していたら、ある教会で新生児の洗礼の場面に出くわしたので、写真に収めました。こんな神聖な場面、普段だったら撮影を躊躇するのですが、この日は親戚のおじさんか何かがビデオカメラを回していたので、それに便乗して写真を撮ってみたという次第です(笑)。キシニョフの街並みは思ったよりは雰囲気があり、教会もいくつか目に止まりました。ドストなんか全然ない国だと思っていたのに。こんな風に思うのも、ベラルーシ目線のせい? (すいません、「ドスト」というのは、ロシア語のドストプリメチャーチェリノスチ=名所旧跡をもとに私が考案した新語です)

 それから、モルドバ国立歴史博物館に行ってみたんですけど。こればかりは、建物は立派でも、中身はベラルーシ国立歴史・文化博物館と良い勝負でしょうか。展示品の価値はあるのかもしれないですけど、それぞれの品がモルドバの国民史(そんなものは要らないとおっしゃる方もいるでしょうが)にとってどういう意味をもつのか、さっぱり分からないわけですよ。ただ単に、石器時代からのアイテムが並べられて、現在に至るという……。私が訪れた時には、独立15周年ということで、その記念展示をやっていましたけど、唐突感は否めません。もうちょっと、ウソでもいいから、物語がほしいよな。

 ところで、モルドバのヴォロニン現政権は、2001年に旧ソ連諸国で初めての共産党政権として成立しました。共産党は、モルドバのロシア・ベラルーシ連合への参加とか、物価の安値安定とか、大衆迎合的な公約を掲げて政権をとったのですね。つまり、ベラルーシにおけるルカシェンコ支持者と同じような、古き良きソ連を懐かしがる年金生活者がヴォロニン政権を生み出したと言えるわけで、これは旧ソ連各国に多かれ少なかれ共通する現象だったということです。ただ、ヴォロニンは、政権掌握後は現実路線に転じ、市場改革や欧州統合路線に舵を切りました。それに対し、大衆迎合的な公約をそのまま推進してしまったのが、ルカシェンコということになります。それだけ、ルカシェンコというのは強烈な個性の持ち主なのだなと、今回のモルドバ調査で改めて感じました。

 

ワインの里

すごい! ワインの噴水

延々と続くワイン地下貯蔵施設

う〜む、く、くえない……

 

 最後に、再びドストについて。今回、非常に親切な現地の有力者と知り合うことができ、その方が郷土料理の店や、「ワインの里」に連れて行ってくれました。モルドバはワインの名産地として知られています。とくに、キシニョフ近郊のMilestii Miciというところにあるワインの里は、石を切り出した跡地の地下に数kmにもわたってワイン貯蔵施設が連なるという圧巻なもので、これはもう絶対に世界遺産に登録すべきだと確信しました。しかし、実は今回、私はキシニョフでひどく体調を崩してしまい、せっかくのワインの里でほとんど飲み食いができなかったのです。日頃の行いは、悪くないつもりなんだけどなあ。

(2006年10月6日)

 

 

中田英寿のこと

 サッカーの中田英寿選手が現役を引退してしまいましたね。

 1998年、私がベラルーシに赴任した直後にフランス・ワールドカップがあって。その大会のあと、中田はイタリア・セリエAのペルージャに移籍しました。

 私は、最初の頃はあまり中田が好きではありませんでした。カズのような、我々と年代が近いベテラン選手を、下から突き上げる生意気な存在だったし。それに、何より静岡県出身の選手ではないので(笑)。

 でも、ペルージャでの中田の活躍は、本当に目を見張るものでした。ヨーロッパでは、色んな国の衛星放送が広域に受信できて、ベラルーシあたりまで電波が届くのですね。いつの頃からか、イタリア放送局の日曜夜のスポーツ番組を観て、中田の活躍をチェックすることが、私の1週間における最大というか唯一の楽しみになりました。ベラルーシは外国人が楽しめるような娯楽の乏しい国だし、私自身孤独だったので、思えば中田の活躍に随分励まされたような気がします。

 ちなみに、そのイタリアのスポーツ番組は、Domenica Sportivaとかいう番組なのですが、これがまたとんでもない代物で。日本のスポーツニュースのように、一応は試合のダイジェストを流すのが基本なのですが、その日のとくに重要な試合に放送時間の大半を費やし、このプレーはオフサイドだったかどうか、これはPKかどうかといったことを、スロー映像を何度も繰り返しながら出演者が延々と議論するのです。そのうえに、名物解説者の大演説というのが、何分も続くのですね。ペルージャのような田舎チームの試合は、後回しにされるうえに、わずかな時間しか取り上げられず、随分イライラさせられたものです(余談ながら、NHKの「サンデースポーツ」という番組にも、同様のフラストレーションを憶えますが)。

 しかし、そうしたなかでも、中田の鮮烈な活躍振りというのは充分に伝わってきました。日本の報道は日本人選手の活躍を実際以上に強調しようとするので信用できませんが、本国イタリアの番組で見ても目立った活躍をしているのだから、これはもう本物だと。中田の雄姿を追いかけた副産物として、私も「オフサイド」「コーナーキック」くらいはイタリア語で言えるようになりました。

 そして、中田を見ていて、考えさせられたこと。それは、陳腐なようですが、異文化コミュニケーションについてです。私は、東京外国語大学という、非常に閉鎖的で内向きな環境のなかで、外国語を勉強しました。しかし、閉ざされた環境で、活字と格闘したところで、それは真に異文化を学ぶことからは程遠いのではないか。中田のように、確固たる自己というものをもったうえで、自ら異文化のなかに飛び込んでこそ、他国の文化や言語も体得できるのではないか。今さらながら、そんなことを痛感させられました。

 これは、私がベラルーシ駐在を終え日本に帰国したあとの話です。2003年6月、私はベラルーシに調査出張に出かけました。その時知り合った日本大使館のK君が中田の熱心なファンだというので、私は彼に次のようなことを言いました。

「中田という男は、ただ単にサッカーをプレーするだけでなく、味方や相手の選手の背景にある国や文化も理解しようとする。たとえば、昨年(2002年)のワールドカップでロシアと戦うことになったので、その前年の暮れに中田はわざわざモスクワに行って、ロシアという国を自分の目で見ているんだ。実は、ASローマにおける中田の同僚に、グレンコというベラルーシ人の選手がいる。だから、中田は絶対にベラルーシという国のことを認知しているはずだ。ひょっとしたら、そのうちふらっと、ベラルーシに遊びにくるかもしれないよ。」

 とまあ、冗談でこんな話をしたのですが……。しかし、驚きましたね。そのわずか数日後に、中田が本当にベラルーシに出没するとは。しかも、私が泊まったのとまったく同じホテルに泊まり、同じレストランで飯を食って。そのことを、後日ヒデが自分のHPで報告しているのを読んだ時には、本当に仰天しました。でも、「ベラルーシ・ホテル」での朝食時に鉢合わせになったら、もっとびっくりしていたでしょうけど。中田ファンのK君も、あとから本件に気付いて、地団太を踏んでいたようでしたが。

 それにしても、一般の日本人がほとんど目を向けない、あるいは存在すら知らないようなベラルーシという国に、独自のアンテナで興味をもって、ぶらっと行ってしまう感性というのは、すごいですよね。しかも、VIPなのに、決して日本大使館に頼ったりせず(別の有名サッカー選手は頼ったという話を聞いたことがあります)、自分で情報を収集して行動するという。

 聞くところによると、現在も中田は「旅」をしているんでしょ。もしも、世界のどこかの街角で偶然に出会うことがあったら、「あのペルージャの日々をありがとう」と、それだけを伝えたいよ。

2006年9月4日)

 

 

ハイテク独裁国への道

 つい先日、注目すべき事件が起きました。7月27日未明、カザフスタンのバイコヌール宇宙基地でロシアの「ドニエプル」ロケットの打ち上げが失敗し、搭載されていた18個の小型人工衛星が失われました。そのなかには、日大が開発した一辺10cmのサイコロ型衛星「キューブサット」も含まれていたので、日本の新聞やテレビでニュースをご覧になった方もおられるかもしれません。そして、実は「ドニエプル」にはベラルーシ初の地球観測用衛星「ベルカ」も搭載されていたのです。

 間の悪いことに、今回の打ち上げにはルカシェンコ大統領が立ち会っていました。大統領が大号令をかけて取り組んできたベラルーシ宇宙開発の、記念すべき第一歩となるはずの衛星打ち上げが、墜落という最悪の結果に終わって。ロケットが落ちたのはカザフスタンとウズベキスタンの国境付近らしいから、実際に惨劇を目の当たりにしたわけではないにしても、失敗を伝えられた時のルカシェンコの苦虫を噛み潰したような表情は、容易に想像できます。

 それにしても、宇宙開発といい、最近物議を醸している原発の立地構想といい、ルカシェンコ政権の路線には、ソ連的な、とくにフルシチョフ時代のような、科学技術に対する素朴な信奉が感じられます。なお、原発云々というのは、ロシアがベラルーシ向けの天然ガス供給価格を引き上げようとしているから、独自のエネルギー源として原子力発電所を建設しようという構想が最近またぞろ浮上しているという話です。チェルノブイリであれだけひどい目に会ったわけだから、本来であれば、“反原発”が国是というか、国民理念になってしかるべきだと思うんですけどね。

 まあ、宇宙開発とか原子力とかいうのは、もともとソ連共産党の独裁体制の下で推進されてきたものなので。ルカシェンコがその精神を継承するというのは分かりやすいんですけど。今日のベラルーシで特異なのは、同じ科学技術でも、エレクトロニクス産業とか、それを基盤とした情報通信産業が、独裁的なルカシェンコ体制と奇妙な形で同居しているかのように見えることです。ルカシェンコ政権が2005年9月に、「ハイテクパーク」を設置するという決定を打ち出したことなどは、その 最たるものではないかと。

 今年3月、「第3回全ベラルーシ大会」での演説で、ルカシェンコは次のように述べました。

 (ベラルーシで)携帯電話の加入者数が急増している。2005年の時点で、人口1,000人当たり、約250台の携帯端末がある。これは東ヨーロッパで最も高い数字の一つだ。しかも、諸君、我が国の同部門は、全世界で最も機動的で、急成長しているのだ。その際に、言っておきたいのは、我が国では、すべての携帯端末、全携帯システムが、我々の国家に帰属しているということだ! 我が国の事業者たちは、たった5ヵ年の間で、このような高みに達した。これは、住民向けにちゃんとしたサービスを提供するといったことも含め、すべての分野において、国家もまた競争する能力があるということを物語っている。これは非常に利益率の高いビジネスだ。最近、私は「Velcom」の社長と会ったのだが、この1社だけで、昨年国庫に1億ドル以上の税収をもたらし、膨大な量の協賛活動を行っている。我が国には第2の事業者もあり、すでに発展している。そして、第3の事業者も現れ、これは完全に国有の事業者で、同社はベラルーシ全土を携帯通信網でカバーし、最も貧しい国民層にこのサービスを提供することになっている。この点こそ、携帯分野発展のミソである。

 反動的なんだか、進歩的なんだか、よく分かんなくて、頭がクラクラしてきますよね。携帯電話というのは情報通信革命の産物であり、そこでは分割民営化、規制緩和、自由競争、市場開放などがキーワードになるというのが我々の一般的な理解です。それに対し、ルカシェンコは携帯電話を、国家主導の経済体制を堅持し、家父長的な福祉国家を達成するための手段として位置付けています。

 言うまでもなく、情報通信革命は、独裁的な政治体制を掘り崩す可能性を秘めています。北朝鮮のような国は、国民が携帯電話やインターネットを使うことを、決して奨励しないでしょう。一方、ベラルーシでは、そのようなツールが(少なくとも表向きは)国民に奨励されているだけでなく、国としてエレクトロニクスやソフト開発、ICT産業に活路を見出そうとしているようです。もちろん、政治的に機微な内容のウェブサイトなどは容赦なく弾圧されるし、電話は携帯・固定問わずいくらでも盗聴されてしまうのでしょうが……。果たしてICT社会と独裁政治は共存しうるのか、ある意味でこれは全人類的な実験なのかもしれません。

2006年8月3日)

 

ラジミチ来日公演ルポ

 6月19日、以前から本HPで告知していたベラルーシの民族アンサンブル「ラジミチ」の公演を観に行ってきました。

 2ヵ月前の本コーナーで「知られざるベラルーシの“幻”の民謡を求めて」というエッセイを紹介して、何か奥歯に物がはさまったような文章だと感じた方もおられたと思います。実は、聖教新聞に寄稿したあの文章は、ちょっと訳ありだったのです。私は、今回の日本公演を主催したMIN-ONに紹介文の執筆を依頼された関係で、事前にラジミチのビデオを渡されてそれを観ていました。その結果、この楽団の音楽は、私が個人的に追い求めているようなものではないということを、すぐに悟りました。ベラルーシの民族アンサンブルなのに、何の屈託もなくロシア民謡を取り入れているのはどうかと思ったし、音楽性にも特別なものを感じませんでした。ロシア圏によくある、ありきたりのフォークロア・グループじゃないかと思ったのです。

 ラジミチのビデオを観ていて、能天気にロシアやウクライナの曲を演っているのにも疑問を覚えましたけれど、一番度肝を抜かれたのが、タチヤナさんというエース格の歌手がテレサテンの「つぐない」を日本語で歌い始めたことです。そのビデオが(たぶんミンスクで)収録された日は、MIN-ONの関係者が視察に訪れていたようで、日本人向けのサービス企画として、新たにレパートリーに加えたのでしょう。しかし、よりによって「つぐない」とはねえ。ビデオを観ながら、思わず、「お前は酒場の女か!」とツッコミを入れてしまいました。名曲には違いありませんけど、民族アンサンブルにはあまりに不似合いでしょう。

 このように、ラジミチの音楽的方向性が自分本来の好みではないことは一目瞭然だったんですけど。ただ、聖教新聞の文化欄に文章を寄せるに当たって、営業妨害みたいなことを書くわけにはいかないし、かといって嘘をついてまで持ち上げたくもないし。ということで、苦肉の策として、自分とベラルーシの出会いについて語りながら、「私はかつてすごいベラルーシ民謡を聴いたことがある。今度のアンサンブルがそういうものだったらいいなぁ」という願望を述べる、そんな文章を書くことにしたわけです。しかし、聖教新聞の編集部が、公演チラシの文章から切り貼りする形で、私がラジミチの公演内容を知っていることを示すくだりを原稿に足してしまい、その結果新聞に載った文章は矛盾したものになってしまいました。どんな楽団かを知らない善意の第三者が、かつての体験をもとに公演への期待を膨らませるという、そういう設定で書いた文章だったんですけどね。

 こういう次第で、コンサート当日も、あまり気乗りがせず、宣伝した立場上、観ないわけにはいくまいという義務感だけで会場に向かったのでした。ただ、びっくりしたのは、中野サンプラザの大ホールがほぼ満席になっていたということです。結構、大きな会場を回るうえに、切符も決して安くなくて、誰がこんなものを観に来てくれるのかと心配していたのですが。MIN-ONの動員力の賜物だったようです。その他の会場も、そこそこ埋まってくれたんでしょうかね。

 さて、コンサートが始まってからも、最初は気が重く、斜に構えて観ていたのですが。しかし、演目が進むうちに、「あれ? これって、ひょっとしたら、楽しいかも」と、心境が変わってきました。

 まあ、綺麗な衣装に身を包んだ美しい女性たちが、愛らしい歌や踊りを披露してくれているわけだから。本来はそれだけで充分楽しいわけですよ。男性陣の楽器の演奏力も見事だし。演出もなかなか良く出来ており、日本人の司会者が曲の内容を説明したりもしてくれるものだから、非常に親しみのもてるステージでした。MIN-ONの客層が、これがまたノリの良い人たちで、ラジミチの出し物は思いのほか受けていました。

 さて、後半のステージで、問題の「つぐない」が始まって……。さすがに、フォークロアとは対極の世界観を描いた歌であり、お客さんも、ブーイングとまでは行かないまでも、とまどっていたような雰囲気でしたが。日本の歌を取り上げるにしても、もうちょっと工夫があってもいいだろうに。たとえば、今回ラジミチが披露した曲のひとつに、嫁に行く娘と母親の別れを題材にしたものがありました(それはベラルーシ民謡ではなくロシア民謡だったと思いますが)。その歌というのが、さだまさし/山口百恵の「秋桜」にどことなく曲調が似ており、なるほど、ところ代わっても人の心情というのは同じなのか、と感心させられたものです。だから、たとえばその民謡と「秋桜」を続けて歌ってみるとか、そういう演出を試みたら、感動的だったと思うんですけどね。まあ、タチヤナさん、よく「つぐない」の歌詞を覚えましたよ。私でさえ、いまだに間違うものなぁ。それにしても、誰がベラルーシ人に「つぐない」を吹き込んだのか。まさか、N元臨時代理大使?

 そんなこんなで、ちょっと首をかしげるところもあったけれど、ラジミチのステージは大いに盛り上がり、私自身、予想外に楽しむことができました。

 ラジミチの公演チラシに寄せた文章のなかで、私は次のように書いています。

 しかし、見方を変えれば、そのような寛容性、大らかさこそが、ベラルーシ的とも言えるのです、自国の民謡を愛でるのと同じように、兄弟国の歌も慈しみ、まったくの異国の音楽さえ取り入れてしまう彼ら。そんな彼らのパフォーマンスを、我々も色眼鏡を取り払って、素直に楽しみたいものです。

 ちょっと苦し紛れのまとめだったのですが、生のステージに接してみたところ、実際にそのように公演を楽しむことができました。それは私にとって、うれしい驚きでした。

(2006年7月18日)

 

 

S銀行の「コンプライアンス

 ああ 忙しい 忙しい 忙しい 忙しい

 と、先月と同じことを言っておりますが。

 結局、当方のゴールデンウィークは、ほぼ毎日会社に出勤し、わずかに家にいた時も翻訳の仕事をやっていたという、最悪のものでした。相変わらず忙しいので、前月と同様、ネタのリサイクルで勘弁してください。

 実は、ある銀行(S銀行としておきます)に頼まれて、ロシアに関する連載エッセイの執筆を引き受けたのですよ。何でも、ロシア・東欧の新興市場を組み入れた金融商品を売り込むに当たって、一般の人は同地域のことをよく知らないから、国を紹介しつつ投資のヒントになるようなことを書いてほしいという依頼でした。それを、投資家向けのメールマガジンだかウェブサイトだかに掲載するとの話。

 それで、仕事が超多忙な合間を縫って、まず第一弾は自分が得意なテーマということで、「DVD文化を通じて見たロシア」と題する原稿を書いて提出しました。 内容的には、ロシアでは海賊版のDVDソフトが横行しており、それがDVDのハードのマーケットにも大きく影響しているというものでした。

 我ながら、字数が限られているなかで、よくできたエッセイだと思っていたのですが、S銀行からの反応は意外なものでした。特定の相手(この場合はロシアという国)を否定的に扱うような情報を発信することは、同銀行の「コンプライアンス・コード」に抵触する恐れがあり、掲載できるかどうかが微妙だと言うのです。

 正直に言えば、このような反応は思ってもみないことでした。私は、(社)ロシア東欧貿易会という、日本とロシア地域との貿易を促進するための公益法人に勤務しておりますが、ロシアに関する否定的な情報は日常的に発信しています。我々の顧客は、ビジネスのチャンスだけでなく、リスクについての情報も求めていますので。そもそも、ロシアで海賊版のソフトが横行しているというのは、わりとよく知られた事実であり、実際、ロシアがWTOに加盟するうえでの大きな障害にもなっています。ところが、S銀行の担当者によれば、否定的な情報を余談的に扱うのは許されるけれど、それを主題にすることは同行のコンプライアンス上問題があるというのです。

 一応、担当嬢はそれなりの誠意を見せ、「私が文章を修正したうえでコンプライアンス部にかけあってみる」とのこと。担当嬢の修正案は、次のように締めくくられていました。

 いずれこうした違法行為がしっかり規制を受けるようになれば、豊かな生活を送るために「もっとしっかり働いて稼ごう!」というフツウの感覚が働くようになるのでしょうか。戦後の日本の産業界にも野放図な面があったように感じますが、さまざまな規制が働き、それらを遵守することでかえって豊かな生活を実現していったようにも思います。ロシアは今、そうしたステージに立っているということなのかもしれません。」

 はっきり言って、この結論は、私が意図したのとは根本的に異なります。私は、ロシアの海賊版問題は国民性の要素が非常に大きいと考えているのですが、担当嬢はそれを見事に経済発展水準の問題にすり替え、文章を骨抜きにしてしまっています。普段の私であれば、このような不本意な修正は許しません。ただ、今回はとにかく忙しくて、面倒だったので、担当嬢の修正案に同意し、それで進めてくださいという話になったわけです。

 ところが、S銀行のコンプライアンス部は、修正したバージョンでも掲載は不可という結論を下しました。驚くべきことと言わざるをえません。そもそも、コンプライアンスとは何でしょうか。法律および社会的規範の遵守のことでしょう。ロシアについての紛れもない事実、よく知られた事実を語ることに、どこにコンプライアンス上の問題があるというのでしょうか。それよりも、担当嬢の修正案のように、勝手に真実を捻じ曲げて情報を発信することの方が、はるかに問題ではないでしょうか。

 結局、S銀行が「コンプライアンス」と称しているものは、真の意味で誠実な企業市民たろうというのではなく、誰かにイチャモンをつけられないよう気をつけようという、きわめて志の低いレベルのお話なわけですね。でも、まあいいですよ。銀行というのが色々と気を遣わなければならない業種だということは、それなりに理解できます。自信作のエッセイが日の目を見ないのは残念ですが、先方には先方の都合があるでしょうから、それはそれでやむをえません。

 しかし、本当に驚いたのは、ここから先でした。私は、「どうもお宅様とは考え方が合わないようだから、今回の連載企画は降りさせてもらいたい。しかし初回の原稿については当方がオブリゲーションを果たしたのだから、その部分についてはきちんと報酬を支払ってほしい」と述べました。ところが、担当嬢は、「今回の企画の予算枠があり、前例もないので、採用されなかった原稿の謝礼は払えない」と言い放ったのです。

 いやあ、しびれましたね。コンプライアンスなどとご立派なことを言いながら、契約の履行を拒否するわけですか。当方は原稿提出義務を律儀に果たしたわけで、それを掲載する、しないは、あくまでもあなたたちの勝手な都合でしょう。「行列」でも「生活笑百科」でも「支払え」って言いますぜ(さすがに、当方が強く主張したところ、払う方向になったようですが)。

 大丈夫かよ、S銀行? でも、こういう本末転倒的なところって、多かれ少なかれ、日本の大企業・組織に共通しているような……。

(2006年6月2日)

 

 

幻の民謡を求めて

 ああ 忙しい 忙しい 忙しい 忙しい

 世の中的には9連休とか言ってるけど、こちとら全然休みなしで、逆に15日連続出勤とか、そんな感じですよ。せっかく、最近オーディオを新しくして、CDも買いまくっているのに、聞く時間全然なし。涙。

 というわけで、文章を書いているヒマがないので、今月はネタの使い回しで勘弁してください。

 先日、『聖教新聞(日曜版)』4月23日号に、「ベラルーシの“幻の民謡”を求めて」という文章を寄稿しました。例のラジミチの来日公演に向けて、紹介記事を書いてくれないかと頼まれて、引き受けた次第です。

 ところがですねえ。新聞の発行前日になって、文章のなかの民族アンサンブルに関する紹介の部分をちょっと膨らませなければいけないということになったらしく、編集部の裁量で、文章を足してしまったのですよ。私の他の文章から一節をコピー&ペーストする形で。その結果、新聞に掲載された文章は、私が本来意図していたものとは、少々異なる趣旨になってしまいました。今回のは、ちょっとデリケートな文章でしたので・・・・・・。

 そこで、以下では、私が新聞社に提出した原稿を、そのままお届けいたします。

 


 

知られざるベラルーシの“幻の”民謡を求めて

 

ベラルーシという国

 ベラルーシ共和国は、かつてソ連邦を形成していた15共和国の一つで、1991年末のソ連解体に伴い初めての独立を果たした新興国である。面積は日本の半分強、人口は980万人ほど。首都ミンスク市は、日本の仙台市と姉妹都市の間柄である。

 ベラルーシ人はロシア人やウクライナ人と同じく東スラヴ系の民族である。ベラルーシはロシアとポーランドの狭間に位置し、歴史的にこの両国から強い影響を受けてきた。「ベラ」はスラヴ語で「白」という意味であり、以前は日本でも「白ロシア」と呼ばれることが多かった。

 日本とベラルーシの二国間関係には、今のところそれほど厚みがあるわけではない。ただ、両国には「被曝体験」という、重大な共通点が一つある。ソ連時代の1986年に起きたチェルノブイリ原発事故で、最大の放射能被害地域になったのがベラルーシだったのだ(原発自体はお隣のウクライナに所在)。この4月26日に事故20周年を迎えるので、最近我が国でも取り上げられることが多くなっている。この被害に対し、日本から各種の人道支援が行われており、これが官民ともに両国関係の柱になっている。

 

ベラルーシとの出会い

 やや私事にわたるが、私とベラルーシという国の出会いについて述べさせていただきたい。私がこの国を初めて訪れたのは、1994年7月のことであった。所属する団体の仕事で、当国の経済事情を調査するのが目的である。ベラルーシ入りする直前、私はモスクワであるロシア人から、最新のニュースを聞かされた。「昨日行われたベラルーシ大統領選挙で、ジリノフスキーのような人が勝ちました。」

 ジリノフスキー氏とは、ロシア自由民主党という極右政党の党首で、そのスキャンダラスな言動はたびたび内外のマスコミを騒がせている。日本で言えばさしづめ……。まあ、言わぬが華だろうか。ただ、ロシア政界でジリノフスキー氏はあくまでも個性派の名脇役といったところであり、現実に政権の座に近付いたことは一度もない。「ジリノフスキーのような人」が本当に大統領になってしまうとは、一体どんな国なのだろうか。私は、まだ見ぬベラルーシに思いを馳せた。

 ところが、実際に行ってみると、季節が良かったこともあって、ベラルーシは平和そのものであった。とても怖い大統領を選出したばかりの国とは思えない。ちなみに、その怖い大統領はルカシェンコ氏といって、のちに「欧州最後の独裁者」と呼び称されるようになるのだが、その時はまだ国際社会も、私自身も、彼のことをよく知らずにいたのだ。

 初めてのベラルーシで一番驚いたのは、その紙幣である。一応、独自通貨らしきものがすでに導入されていたのだが、子供銀行のお札のようで、デザインには偉人ではなく、何と動物の絵が用いられていた。それに、実際に支払をしようとしたところ、計算がまるで合わない。よく話を聞いてみると、インフレが激しいので、「各紙幣にゼロをひとつ足して読むことにしている」と言うではないか。日本の生真面目な経済専門家3名は、どうすればそんな荒っぽい通貨政策が可能なのかと、ひたすら首をかしげていたのである。

 「それにしても、何だかよく分からない国だなあ」。夕食前のひととき、私はホテル・プラネータの窓から、首都ミンスクのどこか間延びしたような風景を眺めていた。緯度の高い当国のこと、外はまだ昼間のような明るさである。いくら勤務先の事業対象国の一つであるとはいえ、そんなに何度も来るような国ではない。この風景を目に焼き付けておこうと思った。

 旧ソ連のホテルではだいたい、部屋の壁に昔風のラジオが据え付けられている。それが目に止まったので、何の気なしにスイッチを入れてみた。すると、不意に力強い合唱が耳に飛び込んできた。どうやら、ベラルーシの民謡のようだ。それは、今まで聴いたこともない旋律であり、響きであった。私の知っているロシア民謡とは明らかに異質のものだ。まるで大地から湧き上がってくるようなその歌声を聴いたとたん、窓外の景色すら違って見えてきたから不思議である。

 それから4年後の1998年春、私は在ベラルーシ日本大使館の専門調査員として働くことになった。大使館とホテル・プラネータは隣り合っているので、「目に焼き付けた」はずの風景を、それから3年間も毎日見て暮らすはめになったのである。2001年に日本に帰国して以降も、何度かベラルーシを訪れ、今や同国についての著作なども発表する身になった。

 

ラジミチの来日公演

 さて、このベラルーシから今回、民族アンサンブル「ラジミチ」が初めて来日することになった。その筋では高く評価されているアンサンブルのようなのだが、実は私はベラルーシ駐在中に彼らの音楽に接したことがなく、その存在すら知らなかった。

 かつてラジオで一瞬だけ出会ったベラルーシ民謡が鮮烈だったので、現地に駐在していた3年間というもの、何か良い商品が市販されていないかと、ことあるごとに探してみた。ところが、カセットテープやCDの売場に行っても、それらしいものは見当たらず、たまに売っていても内容的にお寒いものばかりであった。私なりにアンテナを立てていたつもりだったのだが、ラジミチはそれに引っかかってくれなかった。

 これには、当国の国情も影響しているかもしれない。ベラルーシは、ヨーロッパで最も豊かなフォークロア文化を抱えた国とも言われる。ところが、しかるべき振興策をとったり、それを商業的に利用したりといった努力が不充分なのだ。しかも、現ルカシェンコ政権は、国民文化にあまり深い理解を示していない。

 このような次第なので、ベラルーシの民族音楽について私は、幻を追い求めているような心境になっている。そんななかで実現するラジミチの初来日。どんな驚きと感動をもたらしてくれるか、期待して待ちたい。

 


 

 とまあ、本来は、こんなような文章でした。

 もちろん、編集者も良かれと思って文章を少し膨らめただけのことであり、当方としてもとやかく言うつもりはありません。

 1994年に初めてベラルーシに行った時の話は、いつか書いてみたいなと思っていたので、その機会を与えられて幸いでありました。

 というわけで、今月はこのへんで。お互い過労死には気をつけましょう。

(2006年5月2日)

 

石神井川の桜

 きわめて私的な内容です。ご容赦ください。

 春だから、どこかに花見に行きたいと思ったわけです。どこに行こうかと考えた末に、「そうだ、石神井川に行こう」と思い立ちました。

 考えてみれば、2001年春にベラルーシから日本に帰ってきて、ちょうど5年が経ちます。帰国直後、私は板橋区常盤台のウィークリーマンションに2週間ほど宿泊しました。その時に、近所の石神井川で見た桜が綺麗だったので、またあそこに行ってみようと思ったわけですね。

 実を言うと、私は1988年から1995年にかけて板橋区栄町というところに住んでいたことがあり、その時も石神井川はすぐ近所でした。よく、川沿いをジョギングしたものです。ただ、当時は桜を愛でるという感覚があまりなかったのか、ほとんど花見をした覚えがありません。2001年春に常盤台に半月滞在して、初めて石神井川の桜というものを意識するようになりました。同時に、常盤台から栄町界隈まで、簡単に歩いて行けるということも、遅ればせながら気が付いたのです。もう一度、あの桜を見て、この5年間をかみしめてみよう。そんな思いを胸に、4月1日土曜日、電車に乗りました。

 どういうルートで現場までたどり着くか、事前に決めていなかったのですが、巣鴨駅で山手線を降りてみました。どうせなら、巣鴨から歩いて行っちゃえと思ったのです。そもそも、私が以前板橋区に住んでいたのも、通っていた東京外国語大学に近かったからです。そして、外大の最寄り駅は巣鴨。したがって、巣鴨から、板橋方面まで、遠いけど、歩いて行けないことはありません。ついでだから、学生時代の思い出もたどりながら、散歩してみようと、そう思ったわけですね。

 さて、今は府中市に移転してしまいましたが、数年前まで、東京外国語大学は北区西ヶ原というところにありました。JRの最寄り駅は巣鴨で、そこから染井霊園を抜けて、結構長い距離を歩いてようやくキャンパスにたどり着きます。だから、巣鴨は私にとって元ホームタウンのようなものです。巣鴨と言えば、「とげぬき地蔵」が有名であり、巣鴨地蔵通り商店街は「おばあちゃんの原宿」などとも呼ばれています。もちろん、私が学生だった80年代当時も、お地蔵さんと商店街は有名でしたが、現在のようにタウン情報やお店情報の類が氾濫していなかったし、下町をもてはやすような風潮もなかったので、巣鴨の商店街は今ほど賑わっていなかった印象があります。今回、巣鴨を歩くのは、十数年振りだと思いますが、随分賑やかになったものです。

 ところで、巣鴨に来たついでに、一つだけ確認したいことがありました。学生時代によく服を買った地蔵通りの「マーキュリー」という店が、今でも残っているかどうか、知りたかったのです。上京した直後に服を買っていたのが巣鴨の西友で、それからちょっと背伸びして地蔵通りのマーキュリーですからね(笑)。だいたいどんな男子かは想像できますが。自分の名誉のために言っておけば、大学3年からは地元ではなく、青山で服を買うようになりましたよ、ハイ。

 結構ドキドキしながら地蔵通りを進んでいくと、ありました、マーキュリー! でも、何と婦人服の店に変わっていました(笑)。Since 1969って書いてあって、たぶん同じ店のはずですけどね。見たところおばあちゃん向けという店構えではないようですけど、いずれにしても商店街を訪れるのはほとんどがご婦人でしょうから、お店としても客層に合わせて路線転換したのでしょうね。外語ボーイ御用達の店を、婦人服専門店に変えてしまうとは、恐るべし、おばさんパワー! 驚いたことに、マーキュリーのホームページもありました。

 

婦人専科に変わっていたマーキュリー 妙に賑わう地蔵通り

 

上京して最初の家は、高速道路になってしまった

「グリルふじ」よ、永遠に

 地蔵通り商店街〜庚申塚商店街と進んでいくと、土曜日の上天気で、先日「アド街」で都電荒川線沿線が特集されたばかりということもあってか、かなりの人出でした。明治通りに抜け、「カバディ」で有名な(?)大正大学の前を通り過ぎると、そこは西巣鴨の交差点。私は、大学に入るために上京してから2年間、この交差点にほど近い北区滝野川のアパートに住んでいました。その後、アパートの建っていた一画はすべて取り壊され、首都高の高架が建設されました。狸大家は、立退き料で一儲けしたのかな?

 中山道を進み、ちょっと脇道に逸れ、JR板橋駅界隈で飯を食うところを探しましたが、さすがにこのエリアを離れてから20年近く経っているので、馴染みの店はすべてなくなっていました。そこで、さらに歩いて、自分にとってもうちょっと時代が新しい、板橋区役所方面を目指します。板橋区栄町に住んでいた頃、都営地下鉄三田線の板橋区役所前駅から、大学や職場に通ったのですね。懐かしいお店がいくつかあるなかで、とりわけ思い入れが深いのは、「グリルふじ」という定食屋です。私が外食した回数が一番多いのは、この店かもしれません。とくにメンチカツ定食が絶品で、こんなに美味いものが700円で食えるなんて、信じられないほどです。2001年に3年振りにベラルーシから帰国した時も、まず食べたかったのがここのメンチカツで、実際再会できたその味は、期待を裏切らないものでした。

 その後も、時々グリルふじのメンチカツを食べたくなったけれど、板橋区からは少し離れたところに住むことになって、なかなか行く機会がなかったのです。結局、5年間もご無沙汰してしまいました。果たして、今でもあの店はあるのだろうか、土曜日の、もう昼をだいぶ過ぎちゃったけど、営業しているだろうかと気を揉みながら行ってみたところ、ちゃんとやっていましたよ。うれしい。もちろん、オーダーしたのはメンチカツ。よく、雑誌の紹介記事がこれみよがしに貼ってある店とかありますけど、グリルふじには昔ながらのメニューしか貼ってありません。正確に言えば、今回壁をみたら、チーズ入りメンチカツという新メニューの案内が貼ってありましたが(笑)。いいんです、テレビとか雑誌で紹介されなくても、美味いものは美味いんです。これからも人知れず、世界一のメンチカツをつくり続けてください。

 満腹になったところで、栄町方面に赴き、かつて自分が住んでいたあたりを歩いてみました。10年ほど前に別れを告げたこの街ですが、このあたりはあまり変わらないですね。今自分が住んでいる台東区台東なんかと違って、低層住宅地域のはずなので、急にでかいマンションが建ったりということもないし。今思うと、暮らしやすくて、結構良い街だったような気がします。通学・通勤には板橋区役所前駅を利用しましたけど、もう一つの最寄り駅が東武東上線の大山駅だったんですよね。いいなあ、東上線沿線。

 さらに歩を進め、ようやくお目当ての石神井川に到達しました。桜はまさに満開。石神井川は、コンクリートで固められた都会の川で、普段はあまり人を癒してくれるような代物ではありませんが、さすがに両岸の桜が咲き乱れる様子は壮観で、板橋区を代表する桜の名所になっているようです。行かれる場合には、東武東上線の中板橋駅で降りるのが便利ですよ。

 石神井川沿いをずっと進むと、環七通りに近付いていきます。その環七を超えると、そこが今回の散歩の最終目的地である常盤台。いきなり、5年前に宿泊したウィークリーマンションが目に飛び込んできました。2001年3月31日の夕方、みぞれ模様の成田空港に到着して。天気が悪かったので、車で空港から常盤台にたどり着くのに、4時間くらいかかったんですよね。ラジオは、プロ野球開幕戦の巨人VS阪神戦の壮絶な打ち合いの模様を伝えていました。

 かくして、ベラルーシから、フランクフルトを経由して、ようやく日本に帰ってきました。ウィークリーマンションに滞在しながら、住むところをじっくりと探すつもりが、4月2日にはもう、今住んでいる台東区の部屋を見て気に入ってしまい(案外惚れっぽいらしい)、そこに決めてしまいました。そして、諸々の手続きを済ませ、4月14日には常盤台を引き払って、今の部屋に引っ越してきたというわけです

 あれから5年。前にも書いたとおり、ベラルーシから帰ってきた時の唯一かつ最大の関心事は、ベラルーシについての本を書くということでした。この5年間、すべてが順調だったわけではありませんが、最大の目標を達成できたので、よしとしなければならないでしょう。これからの5年も、がんばって生きたいと思います。私は怠惰な人間なので、時々こういうことを再確認したり、何か目標を設定したりしないと、ダメなのですね。だから、石神井川の桜を見に行って、こんな文章を書いてみました。

2006年4月4日)

 

 

大統領選挙前夜のベラルーシ

 2月25日から3月1日にかけて、ベラルーシで現地調査をしてきました。3月19日に大統領選挙が実施されることになっており、それをめぐる状況を探るというのが、目的の一つです。選挙目当てであれば、普通は投票当日に現地で情勢をウォッチしたり、あるいは選挙監視団に参加したりということになるわけですが。ただ、この国の場合は、投票風景を眺めたところで何も見えてこないし、不正選挙に対する抗議運動が盛り上がるようなことも想像しにくいので、投票日に行くことにはそれほど意味はないのです。今回は、あらぬトラブルを避けるためにも、少し前に入って、一通りの調査を済ませてしまおうと考えたわけですね。

 さて、2月25日の夜の飛行機で、モスクワからミンスクに飛びました。昨年3月のエッセイにも書きましたが、この便はロシア側では相変わらず国内便扱いになっていて、パスポートコントロールがありません。一方、ベラルーシ側では、何年か前から、外国人に対してのみパスコンが行われるという、変則的な形になっています。なお、昨年のエッセイでは、ロシア市民もパスコンの対象になっているのではないかというようなことを書きましたが、今回の様子だと、どうもロシア市民も免除のようです。今回は、日本人である私と、もう1人ウクライナ人だけが、パスコン対象でした。

 さすがに、大統領選挙を控えて、外国人の入国には神経質になっているのでしょう。私は事前にミンスク市内のホテルを押さえ、ベラルーシの観光ビザを取得して当国に舞い降りたのですが、国境警備兵は色んなことを根掘り葉掘り聞いてきました。ミンスクで何をするのか、所持金はいくらか、ホテルはどこの業者を通じて手配したのか、等々と。挙句の果てに、当方がもっていたホテルの手配書のようなもの(日本の旅行会社に、念のためにもっていた方がいいとして手渡された書類)を取り上げると言い出し、当方がそれは困ると言うと、ならコピーをとってくるから待っていろと言われ、かれこれ20分ほど1人で待たされました。

 ここミンスク国際空港というのは、成田空港のような不夜城とは全然違いまして。モスクワからの便が一日の最終便で、それが着くともう明かりを消して戸締りしちゃうわけですよ。さすがに私はこの国の勝手が分かっているので、少々のことではびびりませんけれど、初めて来たような人が、こんな風に誰もいなくなった薄暗い空港に1人取り残されたら、不安のどん底に突き落とされるでしょうね。

 ようやく書類を返されて、タクシーに乗り込みました。一部始終を見ていたタクシーの運転手によれば、「コピーをとるなんてのは口実で、あやしい外国人が来たと、今頃KGBに連絡が行っているぞ」とのこと。まあ、そりゃそうでしょうね。好きなようにしてよ。実際、私はあやしい外国人なんだからさ。

ホテル・ミンスク such a lovely place

 2001年3月に帰国してから、今回が4回目のベラルーシ出張です。今までは、大使館に近いベラルーシ・ホテルというところに泊まっていましたが、今回は市の中央部の独立広場に面したホテル・ミンスクを選びました。これは、昔からあるホテルで、私がベラルーシに駐在していた頃、トルコ資本でリノベーションをするという話が持ち上がっていました。2年くらい前にようやく改装工事が完成したらしく、これが今ミンスクで一番立派なホテルになっています。だから、一度ここに泊まってみたいと思っていたわけですね。まあ、一番立派といっても、シングル1泊140ドルだし、実際中身も大したことはなかったですよ。それから、トルコ資本が実際に関与したかどうかは未確認ですが、結果的にホテル・ミンスクは大統領官房の所有物になってしまったようです。この国ではだいたい、優良な不動産というのは、ほとんど大統領官房のものですね。盗聴器とかもあるのかしら。

 さて、到着した翌日の2月26日は日曜日。この日は、ミンスクから西に55kmのところにあるジョジノ市を訪問してみることにしました。なぜゆえにジョジノかというと。『不思議の国ベラルーシ』のあとがきに書いたとおり、私はベラルーシの人口10万人以上の都市をすべて訪問するという馬鹿な目標を立て、すでにその目標を達成してしまいました。実は、人口5万人以上の都市も、未踏のところはあと3つしか残っていなかったのです。その1つがジョジノであり、日曜日にミンスクから日帰りで手軽に行けそうだということで、今回の訪問と相成ったわけです。これでまた一歩、5万都市完全制覇の野望に近付いたぜ。残るは、ジロビンと、スヴェトロゴルスクか……。当たり前って言えば当たり前だけど、厄介なところが残ったなあ……。

 ジョジノ訪問には、一つ面白い点がありました。ジョジノという街は、ミンスクとモスクワを結ぶ幹線道路上にあります。そして、ホテル・ミンスクは、ミンスク市を東西に貫く目抜き通りに面しており、その通りは上述の幹線道路に直結しています。したがって、今回の小旅行は、ホテルで車に乗って、右折も左折も一度もせず、ひたすら一直線に走ったら目的地に着いたという、非常に稀有なものでした。

BelAZなしにはジョジノは語れない

 さて、ジョジノで私は、あるお宅にお邪魔しました。ジョジノには、「ベラルーシ自動車工場(BelAZ)」という有名な大型ダンプカー工場があります。というよりも、この工場ができたことに伴ってジョジノという街が生まれたと言った方が正確かもしれません。旧ソ連によくある、企業城下町というやつですね。私がお邪魔した家のご主人は、BelAZの技術部門の幹部で、過去数年にわたって工場の設備更新プロジェクトを取り仕切ってこられた方です。このプロジェクトの成果と、このところの世界的な石油、鉱山開発ブームの恩恵で、BelAZの業績は悪くないようです。ご主人は我々に対して、目を輝かせながら、導入した設備や新しい製品について事細かに語ってくれました。まるで、ミニカーで遊んでいた男の子が、そのまま大人になったようです。

 ところが、その後、やや政治的な談義になったとたん、ご主人は押し黙ってしまいました。このお宅の奥様は政治的な意識が高く、わりと物怖じしないタイプなので、必然的に政治的に機微な方向に話題が向かうのですが、ご主人はそうした会話には参加せず、テレビで中継されていたトリノ五輪のアイスホッケーにひたすら見入っておられました。今日のベラルーシでは、職場レベルでの政治的な締め付けが強烈で、増してやBelAZはルカシェンコ大統領も時折訪れる有力企業ですから、その管理職が迂闊な言動をとれるはずはないですよね。政治的には無難にやり過ごしながら、もっぱら技術屋として生き抜くという以外に、選択肢はないのでしょう。

 ところで、今回、すごく驚いたことがあったんですよ。ホテル・ミンスクにチェックインして、部屋のテレビをつけたら、いきなり政党のコマーシャルをやってるんで。ひえ〜、ベラルーシで政党のコマーシャル! と、慌てふためいたわけです。しかし、それはよく見ると、ウクライナの政党のコマーシャルでした。どういうわけか、ホテル・ミンスクではウクライナのあるチャンネルを見られるようになっていたのですね。ベラルーシ大統領選に遅れること1週間、3月26日にウクライナでは天下分け目の議会選挙が行われることになっており、今まさにPR合戦たけなわなわけです。ベラルーシのテレビ局ではもちろん、選挙CMは一切流していません。

 ミンスクの街は、すでに大統領選挙が告示されているにもかかわらず、まったくそれらしい雰囲気を感じさせません。政権側は、選挙そのものを盛上げない、なるべく平穏な日常の一こまとしてそれを乗り切ろうという戦略なわけですね。したがって、ルカシェンコの肖像を街の至るところに掲げるといったこともしないし、国営テレビのニュースでルカシェンコをいつも以上に露出させるということもしていません。世に独裁者は数多くあれど、ルカシェンコは最も個人崇拝色が希薄な部類かもしれません。

強力で繁栄したベラルーシに賛成!

ミンスク中心部の地下道にて

 その代わり、街のあちこちで見かけるのは、「ベラルーシに賛成」というスローガンです。これに色々な形容詞が付き、たとえば「強力で繁栄したベラルーシに賛成」という車体広告を掲げた路線バスが走っていたりします。「強力で繁栄したベラルーシ」に反対する者などいるはずもないのですが、なぜかこの国ではこのような前向きなスローガンは政権側の独占物になっていて、こうした公共広告機構的な宣伝(当然国庫から支出される)が有権者の潜在意識に、ルカシェンコに投票するよう促す仕組みになっているわけです。

地下複合施設の建設が進む独立広場

モスクワのマネージ広場の真似?

 これに対し野党側(ミリンケヴィチ陣営)は、最初から飛車、角、金、銀、その他もろもろ全部奪われて、王様と歩3つぐらいだけで闘っている感じでしょうか。戸別訪問などで、がんばってはいるようですけど。もちろん、オレンジ革命の時のウクライナと違って、ミンスクでピケを張っている若者とか、いるはずもないし。唯一、市中心部の地下道を渡った時に、『ナロードナヤ・ヴォーリャ』という野党系の新聞を無料で配っている活動家がいました。私も1部もらってみたところ、ミリンケヴィチの綱領が載っていて。でも、選挙らしい光景に出くわしたのは、それが唯一でしたね。

 ホテルの部屋は、独立広場に面した最上階でした。窓から広場を眺めていると、様々な感慨が浮かんできます。私がベラルーシに赴任して早々、1998年7月3日にこの広場で独立記念日の式典があって。当然各国大使も招待されるのですが、丁度その時は「ミンスク公邸退去事件」のさなかで、日本国としても「なるべく低いレベルで対応する」という変な方針を打ち出し、大使館で一番下っ端だった私が式典に出席したのです。思えば、あれが私のベラルーシへの本格デビューのようなものでした。当時すでにルカシェンコは国際的に問題児と見られていたけれど、あの頃はまだ可愛い部類の独裁者だったし、民主派の市民の間にも楽観的なムードが残っていました。あれから約8年。眼前の独立広場では、地下複合施設の建設が進められており、その風景は一変しました。そしてベラルーシは、私が「ルカシェンコの罠」と呼ぶ不毛な図式に、ますます深くはまり込もうとしています。

2006年3月6日)

 

 

バイオリズムがぴったんこ

 昨年の11月7日のことでしたが、日本政府の招待でベラルーシから来日したジャンナ・リトヴィナさんという女性と東京でお会いしました。この方はベラルーシ・ジャーナリスト協会の会長を務めていて、強権的なルカシェンコ政権の下、報道の自由を求めて闘っておられるわけですね。彼女の奮闘については、『毎日新聞』2005年9月8日および11月5日号に記事が掲載されましたので、ご関心の向きはご覧になってみてください。

 私自身はこれまで、彼女のことは名前を聞いたことがある程度で、面識はありませんでした。そこで、事前に日本外務省から、彼女の経歴をもらって眺めていたところ……。

 私も、だてにベラルーシのことに何年もかかわってないですからね。すぐに気が付きましたよ。

 あらら、この人、ルカシェンコと生年月日が同じだわ。

 そうです、リトヴィナさんはルカシェンコ大統領とまるっきり同じ、1954年8月30日の生まれだったのです。

 当日、会食場所の天ぷら屋さんに現れたリトヴィナさんに、早速、生年月日の件について話を向けてみました。ご本人も、日頃から自虐ネタにしておられるのか、「そうなんです。かのアレクサンドル・ルカシェンコ氏とまったく同じ生年月日で」と、笑いながら話してくれました。

 1954年8月30日か。終戦から約10年が経って、大祖国戦争の傷跡もようやく癒え始めた頃だっただろうな。ただ、人々は復興に勇気付けられながらも、前年のスターリンの死去で大きな喪失感を味わっていたに違いない。その日はどんな天気だったのか。ベラルーシの8月末といえば、もう穀物の収穫も終わり、明るい日差しのなかにも、吹く風には秋の気配が漂っていたかもしれない。そんなある日、東ベラルーシの僻村で生まれた男の赤ん坊が、今この国の大統領になっていて、同じ日にミンスクで生まれた女の子が、彼を批判する先頭に立っているのか。そう考えると、何だかすごく不思議です。

 生年月日がまったく同じである人間同士は、バイオリズムが完全に一致して、相性が抜群に良いという話を聞いたことがあります。これって、星占いなんかと違って、いかにも科学的な根拠がありそうですよね。私自身は、自分と同じ生年月日の人とは、これまで一度しか知り合ったことがありません。中学3年の時に同級生だった三谷君です。確かに仲が良くて、夏休みの自由研究も一緒にやりましたから、相性抜群説もあながちガセではないかもしれません。

 ルカシェンコ大統領とリトヴィナさんも、バイオリズム自体はぴったんこなのでしょうね。ただ、それを吹き飛ばして余りある、政治的立場の隔たりがあるわけで。バイオリズムが一致するということは、一人がテンション上がっている時は、もう一人もテンション上がっているわけで、それで敵同士だったら最悪ですよね。

 リトヴィナさんとは天ぷらを食べながら、色んな話をしたんですが、全体的に覇気がないのが気になりました。次の選挙でも絶対にルカシェンコが勝つ、我が国の国情は今後ますます悪化していくだろう、その時自分はどういう身の振り方をしていったらいいのだろうか……という心情が、言動からにじみ出ているわけですよ。彼女の様子が、今日のベラルーシ知識人のムードを代表したものではなく、単に少々お疲れだっただけなら、いいんですけど。

 その大統領選挙ですが、この3月19日に投票ということになりました。私自身は、選挙本番の監視活動や視察などはやりませんけれど、2月の末にベラルーシに現地調査に出かけます。今度ばかりはビザが出ないかと思っていましたが、あっさり出ました(笑)。まあ、このあたりは、まだまだ本物の独裁・諜報国家ではなく、かなり牧歌的な国であるということですよ。

 でも、やっぱりちょっと心配だなあ。そう思ったら、自分とルカシェンコのバイオリズムの一致度を調べたくなりました。こういう世の中ですから、バイオリズムをチェックできるインターネットのサイトがあるに決まっています。そう思い、検索してみたところ、やっぱりありました。2人の人間の生年月日と対象期間を入力すると、バイオリズムの相関がデータおよびグラフ化して示される、何とも便利なサイトです。そこで、出張期間中の私とルカシェンコのバイオリズムを調べてみると……。その間の2人の相性度は、身体リズム31%、感情リズム74%、知性リズム68%で、総合で58%との診断。数字が大きいほど相性が良いということであり、何だ、案外悪くないじゃんという感じでしょうか(別に「身体リズム」が一致しても嬉しくないし)。皆さんも、気になるあの人との、相性をチェックしてみては?

2006年2月3日)

 

嗚呼、哀しき(楽しき?)股裂き人生

 全国に数人はいるのではないかと思われる本HPファンの皆様。新年のご挨拶がずいぶん遅くなってしまいました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 私も、他人のHPが長らく放ったらかしになっていたりするのを見ると、「早よ更新せんかいボケ」と罵ったりするのですが、自分が当事者だと、色々と事情があって、ついつい更新を怠ってしまうことがあるわけですね。

 今回更新が遅れたのは、国立民族学博物館・地域研究企画交流センター主催の国際シンポジウム「消滅しない国家 ―民族を通して考える―」に出席して報告をすることになり、その準備に追われていたからです。シンポは1月13日から15日にかけて東大駒場キャンパスで開催され、私は初日に“State as Incubator of Nations −The Paradox of Belarus and other Former Soviet States―”と題する報告を行いました。この1カ月くらいは、その準備が大変で、HPどころではなかったのです。まあ、実際には、なかなか集中できず、だらけていた時間の方が長かったのですけどね。何とか、その報告を終えることができたので、ようやくこのエッセイを書く精神的余裕が生じたというわけです。

 しかし、今回の仕事は、手こずりましたね。確か、依頼を受けたのは、2005年の初夏くらいだったでしょうか。ナショナリズム問題に関するシンポジウムでベラルーシについて発表してほしいというようなことだったので、私の場合基本的に仕事は断らない主義だし、拙著のプロモーション活動の一環という意味もあり、軽い気持ちでお引き受けしたのです。

 しかし、シンポジウムが近付くにつれ、雲行きが怪しくなってきました。主催者から送られてきた企画趣意書を改めて読んでみると、そもそも私には理解不能な文章でした。また、ベラルーシだけでなく、旧ソ連全体を視野に入れて論じてほしいとのご所望。さらに悪いことに、シンポジウムは英語で行われ、報告ペーパーも英語で提出しなければならないというのです。どうやら不相応な仕事をお引き受けしてしまったらしいということを、遅まきながら理解しました。

 いったんお引き受けした以上は、自分なりに最善を尽くそうと思い、一応英語のペーパーを書き始めたのですが、これに四苦八苦しました。文章の中身というよりは、むしろ慣れない英作文と格闘するという感じで。The Paradox of Belarus and other Former Soviet States というタイトルを付けたくらいですから、最初のうちはベラルーシ以外の国にもなるべく言及しようという意欲があったものの、やってみて、これは無理だとすぐに悟りました。実質的にテーマをベラルーシに絞るしかなく、しかも今まで自分が書いてきた文章を英語で要約する程度のものしかできないだろうと、見切りを付けたわけです。でも、そういう単純作業でも、遅々として進まず、当初の締め切りをとうに過ぎて、シンポ開催の数日前にようやく出来損ないを提出する有様。

 まったく、情けないですよ。私は、青春時代のエネルギーの大半を英語の学習に費やし、そのうえ外国語大学などというやくざな大学を卒業したのではなかったか。それが、いくら日頃やっていないとはいえ、英作文能力の限界によって、シンポジウムの発表自体がスケールの小さいものになってしまうなんて。

 ただ、正直に言えば、そもそも私は物書きとして、日本語で日本の読者に訴求することにしか感心をもっていないことも事実です。たとえば、日本のロシア研究者でも、純然たる学者の皆さんなどは、英語の学術ジャーナルに自分の論文を載せることこそ最大の名誉と考えていることでしょう。でも、私はそういうのに全然関心がないんですね。万が一、私の本を英語やロシア語で出版しないかと打診されても、断るつもりです。私の本は、あくまでも日本の読者のためのエンターテイメントであり、それをベラルーシ人に読まれたりしたら困ります。それでも、こと日本語で文章を書くことに関しては、学術論文からお馬鹿エッセイまでこなせる多芸な人間でありたいという、そういう立ち位置なわけですね。

 閑話休題。何とか英語のペーパーを提出して、1月13日のセッションに臨みました。結構大きな会場でしたが、聴衆は40〜50人くらいだったでしょうか。8割方は日本人で、同時通訳もいるのだから、日本語でやった方がはるかに実り多いのではないかと思うのですが・・・・・・。普段、講演や講義をする時は、基本的にアドリブでしゃべる私が、この日ばかりは原稿を棒読み。中身とは関係なしに、人前で英語をしゃべる(読み上げる)というだけで、かなり緊張しました。ただ、質疑応答は日本語でもOKということだったので、これ幸いと日本語に移行したとたん、急に解き放たれたような感覚になりました。

 というわけで、今回の教訓。今後、外国語で書いたり、話したりする仕事は、一切引き受けない。もしも、どうしても必要に迫られたら、日本語で書いて、それをプロに翻訳してもらうと、まあそんなところでしょうか。

 そして、もう一つの、より大きな教訓。そろそろ私は、ベラルーシ研究に区切りを付けなければいけないだろうということ。

 今回のシンポジウムのお誘いだって、本当はものすごくありがたいお話なんですよ。ナショナリズム論を切り口にベラルーシを論じてきた以上、そのテーマのシンポジウムに引っ張り出していただけるという今回のような展開は、まさに望むところだったわけです。八重洲ブックセンターで、自分の本を勝手にナショナリズム論のコーナーに移動させたりしていたわけだし(笑)。でもねえ。拙著出版直後の、プロモーション活動やる気満々だった頃ならよかったんだけど、さすがに2年経つと、当初のテンションは維持しにくくなるわけですよ。せっかくお招きいただきながら、充分な貢献ができず、民博の皆さんには申し訳なく思っています。

 もともと私は、ベラルーシの専門家ではなく、「ベラルーシについての本を書く」というプロジェクトを立ち上げ、2004年3月に『不思議の国ベラルーシ』を上梓したことにより、そのプロジェクトを完了した人間です。ベラルーシに関する私の他の仕事というのは、@『不思議の国ベラルーシ』から派生したもの、A同書のプロモーション活動、B同書を書くうえでお世話になった方々への恩返し、このいずれかに該当します。そして、出版から2年近くを経た今、@もAもBも、もう充分やり尽くしたという思いがしています。ところが、自分の思惑と世の中のニーズというのはなかなか一致しないもので、本を出したあとになって、「あの人はベラルーシの専門家だ」ということで、色んなオファーが来たりするんですね。なまじ、HPなんかもやっているし。

 ベラルーシ研究は、(社)ロシア東欧貿易会での本業(ロシアの経済・ビジネスに関する調査が主)とはあまりにかけ離れていて、どうしても二束のわらじ状態になってしまいます。私の現在の関心は、何とかして本業を立て直すこと。どうもねえ、これがうまく行ってないんですよ。「こんなはずでは」ということばかりで。

 いっそのこと、ベラルーシ研究廃業宣言をしようかなとも思いました。現代ベラルーシの政治経済情勢のフォローということであれば、比較的本業とリンクさせやすいので、今後もできる範囲で続けていきたいと思っています。だから、完全廃業ではないのですが、少なくとも、歴史・文化・言語・ナショナリズム問題などにかかわる研究は、もうやめにしようと。

 とか何とか言いながら、また引き受けちゃったんですよ。今後は、北海道大学スラブ研究センターの『講座スラブ・ユーラシア学』シリーズに、ベラルーシの歴史について寄稿することになりました。締め切りは今年8月。編集の松里先生が、拙著を書いた際に草稿に目を通してくださって、その恩返しですね。 でも、松里先生への恩返し、もう4回目じゃないか? 何だか、「横須賀ストーリー」みたいになってきました(♪これっきり これっきり もう これっきりですか?)。

 昨年12月に北大スラ研に出張に行った時も、ちぐはぐだったなぁ。田畑教授主催のロシアのエネルギー問題に関する研究会に出席していたのだけれど、私だけ中座して松里先生の編集会議に参加。さっきまでM&Aだ石油価格だという話をしていたのに、今度はやれ帝国史だ地域形成だ跨境性だという議論になって・・・・・・。何か、こう、股裂き人生を象徴するような一日だったなぁ。

 何だか、新年早々、愚痴っぽい話になってしまいましたが、本人は心身ともに至って元気なので、ご安心ください。とにかく、今年は仕事を選ぶぞ!

2006年1月17日)

   

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