マンスリーエッセイ(2005年)
月と日における普遍と特殊の位相ベラルーシ在住で、日・ベ間の文化交流に尽力されている辰巳雅子さんが、新作CDを送ってきてくれました。WZ-Orkiestra, “Месяц і сонца(月と日)”, West Records WR-0137 という作品です。中身は、日本の民謡や唱歌をベラルーシのミュージシャンたちが演奏し、ベラルーシ語で歌うというもの。辰巳さんが企画し、 色々と奔走されて実現した企画のようです。アートワークにもこだわった、なかなかすばらしい作品に仕上がっています。 私は、この録音に参加したのがどのようなミュージシャンたちなのか、よく知りません。しかし、CDを聞けばすぐに分かるように、音楽的な教養が豊かな、「引き出し」の多い演奏家集団のようです。今回の作品集でも、多様な音楽スタイルが駆使されています。 逆に言うと、音楽スタイルという点に関しては、ベラルーシらしさはあまり感じられません。日本の民謡を、ベラルーシ民謡風に歌うというのではないのですね。ここで展開されているのは、日本の歌をモチーフにした無国籍音楽。たとえば、これを演奏しているのがフランス人だったとしても、何の不思議もないわけです。もちろん、これはあくまでも音楽スタイルの話であって、詩はすべてベラルーシ語になっているわけですから、本作品が日本文化とベラルーシ文化の融合であることは間違いありません。 本CDに収録されている曲は、以下のとおりです。
上述のように、本作の場合、こと音楽スタイルという点においては、ベラルーシの音楽家特有の個性を感じ取ることはできません。しかし、日本の風土に根差した歌をどう解釈してどのように料理するかという点においては、きっとベラルーシ人の民族性が表れるはずです。
私が一番興味をもったのは、「われは海の子」ですね。何しろ、ベラルーシには海がありません。かろうじてバルト海や黒海が身近なものとしてありますが、日本の海とは似て非なるものです。今年の8月にバルト海周辺諸国の調査旅行をして、バルト海が本当に閉塞的で生気に乏しい海であることを実感しました。それに対し、「われは海の子」で歌われている日本の海は、太陽が輝き、生命に溢れ、大海原に連なる海でしょう。私は、東海道で生まれ育ちましたので、この歌で描かれている世界はまさに自分の原風景のようなものです(実は泳ぐのは嫌いなのですが・・・・・・)。さあ、ベラルーシのミュージシャンは、この歌をどう表現してくれるのでしょうか? 結論を言うと、5の「われは海の子」は、やはりちょっとひねったアレンジが施されていました。日本であれば少年・少女合唱団のレパートリーという感じですが、ベラルーシ版は非常に内省的な味付けがなされていて、だいぶニュアンスが違います。やはり、海というものの受け止め方の違いによるものなのではないでしょうか。それと、「われは海の子」が素直なメロディーラインであるがゆえに、大胆なアレンジが可能になったという側面もあるかと思われます。 さて、一般的には、「さくら」のようなエキゾチックなメロディーこそ、日本を象徴するものだと考えられることが多いですよね。海外のレストランなどで生演奏の楽団が、こちらを日本人と見るや、「さくら」を演奏しながらにじり寄ってくるという経験をされた方もおられるのではないでしょうか。私などは、「日本人ならば『さくら』を演奏すれば喜んでチップをはずんでくれるはず」という浅はかなステレオタイプが許せず、絶対に無視しますけどね。「われは海の子」なら、あげるかもしれないですけど。 というわけで、いつもは「さくら」という歌に拒絶反応を示す私なのですが、今回のCDの1曲目に収録されている「さくら」には、なぜか心惹かれるものがありました。ちょっと大袈裟かもしれませんが、Innervisions あたりのスティーヴィー・ワンダーに通じるニュアンスがあるような気がして。クセのあるメロディーを普遍的なポップスに昇華させようとするアプローチに、相通じるものを感じました。 というわけで、ベラルーシのミュージシャンが日本の歌に挑戦した本作品では、「われは海の子」という素直なメロディーの歌が非常に個性的な仕上がりで、「さくら」という純和風メロディーの方がより普遍的な音楽に聞こえるという、得がたい体験をさせていただきました。 なお、本CDについて詳しくは、こちらのサイトをご覧ください。また、京都に「ヴェスナ 」というロシア・東欧地域の雑貨ショップがあり、そこで購入も可能です(オンラインショッピングも可)。 (2005年12月1日)
索引、我が命私の尊敬する野口悠紀雄先生は、出版物における索引の重要性を強調し、「『索引』のない本は本ではない」とまでおっしゃっています(『「超」整理日誌』(ダイヤモンド社、1996年)、108〜109頁、ほか)。けだし名言であると言わざるをえません。ちなみに、野口先生はもちろんその信念を自ら実践していて、エッセイ集の類にまで索引を付けておられます。 我々のような海外事情研究者は、米英で出版される研究書を目にする機会が多いわけですが、感心させられるのは、そうした英語の洋書にはほぼ100%索引が付いているということです。しかも、キーワードを羅列するだけでなく、非常に機能的にできています。単に「ベラルーシ」という言葉の登場ページが示されるのではなく、その下位レベルに、「戦間期の」とか、「ルカシェンコ政権下の」とか、「カトリックと」といった具体的なトピックスが挙げられていて、これをたどっていけば目的のページにピンポイントでたどりつけるわけです。もちろん、「カトリック」という項目もあり、そこにも「リトアニア大公国における」とか、「ベラルーシと」とか、「ブレスト合同と」とかいったトピックスがあります。言ってみれば、クロス検索ができるようになっているわけですね。 索引が完備されているのは、何もお堅い本だけではありません。洋書の場合、娯楽ものでもたいてい索引が付いています。今、私の手元にはダイアナ・ロスの伝記本のペーパーバック版がありますが、これにも当然のごとく詳細な索引が付いています。つまり、情報というものをインデックス化して検索可能にするということが、文化として根付いているわけですね。おそらく、出版社には索引づくり専門の職人みたいな人がいるのではないかと思われます。 それに対して、日本の状況は、お寒い限りです。海外事情に関する本などでも、徐々に増えているとはいえ、索引が付いているのはまだ半数くらいではないでしょうか。索引がある場合でも、洋書のような機能的なつくりは望むべくもありません。それと、よくあるのは、「人物索引」だけでお茶を濁すというパターン。我が日本国民が、いつまで経ってもアメリカ人のようなくだらない連中に勝てないのは、本にちゃんと索引を付けないからではないのか。私などは、半ば本気で、そのように疑っております。 さて、このように「索引フェチ」と化してしまった私が、自分の書く本に是が非でも索引を付けたいと思ったのは言うまでもありません。ベラルーシについての出版企画を最初に岩波書店に持ち込んだ時にも、内容そっちのけで、「索引は付けていただけるでしょうか?」ということを尋ねました。私の本を担当してくださった編集の山田まりさんは、それは丁寧で良心的な仕事をなさる方ですが、こと索引については私と若干温度差がありました。とにかく、ベラルーシのような地味なテーマの本を商業出版として成り立たせるためには、ページ数をできるだけ減らして価格を抑制しなければならないのですね。そのようなジレンマはあったのですが、とくにお願いをして、結局『不思議の国ベラルーシ』に索引を付けていただくことができました。いやぁ、何しろ、「ノグチスト」の私にとっては、索引のない本は、本ではありませんからねえ。良かった良かった。 その際に感じたのですが、どうも編集サイドには、執筆者に索引づくりのような雑事をやらせることは気が引けるという意識があるようですね。しかし、私に限っては、まったく逆。索引づくりこそ至福の時間、悦楽のひと時なのです。絶対に他人になんか任せません。最後に楽しい索引づくりが待っているということを心の支えに、執筆の苦しみを乗り越えてきたのですから。 ところで、『不思議の国ベラルーシ』の117頁で、『白ロシアの歴史的建造物』という本のことを紹介しています。これは、V.チャントゥリヤという人が書いた本で、ソ連時代の出版物であるものの、私が出会ったなかでは、ベラルーシ各地を訪ね歩くうえでの手引書として一番役に立ったというものです。ただ、惜しむらくは、地名の索引がついていないこと。州別にまとめられているのですが、ある街のことを調べたい時に、それがどの州に所属するのかが分からなければお手上げだし、そもそもこの本で取り上げられているかどうかも分からないのです。私は、散々フラストレーションを感じながらこの本を使用した末に、一念発起して自分で索引(マイ索)をつくってしまいました。あ〜、すっとした。これを見ると、ベラルーシのなかで、訪ねる価値のありそうなところが、だいたい分かります。 奇しくも『不思議』と時を同じくして発行されることになったのが、共著の『CIS:旧ソ連空間の再構成』であります。こちらの方は、学術書ということもあり、索引を付けること自体はすんなりと決まりました。ところが、編者がつくってくれた索引の原稿を見たところ、かなり簡略なものになっていて、そこには「アメリカ」とか「中国」といったキーワードすらなかったのです。「索引命」の私としては黙っておれず、「こんなんじゃダメだ!」とゴネて、大幅に項目数を増やしてもらったという経緯があります。ただ、そのせいもあり、出版日が若干ずれ込んでしまったのは、冷や汗でしたが。 さて、『不思議の国ベラルーシ』の歴史補遺編として、ブックレット版の『歴史の狭間のベラルーシ』を出しました。この時も、編集部との打ち合わせの際に、ぜひ索引を付けたいということを訴えたのですが、今度ばかりはにべもなく断られました。「正味63ページしかないブックレットで、中味を充実させようと考えたら、索引はムリ」とのお達し。まあ、言われてみればその通りですが。ただ、私にとっては、索引を付けないというのは、本が無価値であると認めるに等しいことです。そこで私が考えたのが、世界初(?)、索引のダウンロード・サービスだったわけです。 ベラルーシとは関係ありませんが、2004年の秋に、勤務先の(社)ロシア東欧貿易会が、『ビジネスガイド ロシア 2004〜2005』という出版物を出しました。もちろん私が編集したもので、ロシアでビジネスをやりたい日本人のための手引書です。そして、このガイドブックの眼目の一つが、索引付きであるという点。当会の出版物に索引を付けるのは、今回が初めての試みです。実は、私は1998年にも『ビジネスガイド ロシア』をつくりかけたのですが、同年4月にベラルーシに赴任することになってしまい、作業半ばにして断腸の思いで日本を後にしたのです。結局『ビジネスガイド』は同年夏に同僚が完成に漕ぎ着けてくれたのですが、念願だった索引までは実現しませんでした。今回、索引付きの『ビジネスガイド』を出せたことで、ようやく自分がベラルーシから日本に帰ってこれたような気分です。 今年に入ってからは、共著で、『ロシアのことがマンガで3時間でわかる本』を出しました。これなどは、入門者向けの肩の凝らないハウツー本なので、それほど気張るものではないのですが、それでも私は一応信念を貫こうとしましたよ。明日香出版の担当編集者に、「あのぉ、索引付けませんか?」と切り出してみたのです。「マンガ」に索引を付けるとしたら、それはそれで画期的じゃないかと思ったし。でも、あえなく却下(笑)。 今回の場合は、ページ数の制約とかいうのではなく、発行スケジュールが押せ押せなので、そんな悠長なことはやっていられないということでした。それにしても、今回の『マンガ』は、恐ろしい仕事でしたよ。企画自体は早くから持ちかけられていたんだけど、実際の原稿執筆期間は1カ月くらいだし、校正やイラスト・チェックなどは10日間くらいでやらなきゃならないしで。まず発行日ありきでの作業で、まるっきり週刊誌のノリでしたね。本当の商業出版というのはこういうものかと、身にしみて知りました。(暗に、「内容についてはあまり厳しく問わないでね」と言いたいわけですが……) とまあ、こんなところが、索引に関する私の哲学と、その実践振りについてのお話なのでした。 ところで、私たちの関心地域であるロシアやベラルーシの索引事情はどうでしょうか? ご存知の方はご存知でしょうけれど、ロシア地域で出版される本に索引が付いていることは、まず絶対と言っていいほどありませんね。少なくとも、我が家にあるロシア語やベラルーシ語の書籍を見る限り、ほぼ皆無です。あまりうかつなことは言えませんが、リトアニアで買ってきたいくつかの本などを見ても、索引は見当たりませんから、旧ソ連全体の傾向なのかもしれません。 考えてみれば、不思議なことです。どういう歴史的・文化的背景があるのか、知りたいものです。 (2005年11月1日)
マリヤ・シャラポワとベラルーシ拙著『不思議の国ベラルーシ』に、「ベラルーシに偉人はいるか」という一節があります。古来ベラルーシの地は少なからず偉大な人物を輩出してきたけれど、そうした人物が活躍したのが故郷を飛び出した後だったり、あるいは民族的にベラルーシ人でなかったりして、現代のベラルーシ人が彼らを自分たちの「国民的偉人」として大っぴらに誇ることがなかなかできない。この節で私が論じたのは、そんなジレンマでした。 突然ですが、皆さんはマリヤ・シャラポワをご存知ですよね。言うまでもなく、世界の頂点に上り詰めた女子テニスプレーヤーで、その美貌ゆえに日本でも大変な人気です。私は別に彼女のファンではありませんが、前から一つ気になっていたことがありました。どこかの週刊誌に、シャラポワ一家がかつてチェルノブイリ原発事故の影響で移住を余儀なくされたという記事が出ていて、ひょっとしたらこれはベラルーシがらみの話ではないかと思ったのです。そして、調べてみたところ、実際にそのとおりでした。シャラポワの物語はまさに、「ベラルーシに偉人はいるか」の現代版ではないかという思いを強くしたわけです。 話はソ連時代、1980年代半ばに遡ります。ユーリーとエレーナのシャラポフ(シャラポワ)夫妻は、ベラルーシ共和国のゴメリ市で暮らしていました。その平和な暮らしに襲いかかったのが、1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故です。ゴメリ一帯が放射能汚染にさらされ、住民がパニックに陥っていたちょうどその頃、エレーナは赤ちゃんを身ごもります。のちのマリヤ・シャラポワです。放射能が、生まれくる子供に悪影響を及ぼすことを、夫婦が心配したのは言うまでもありません。ユーリーと身重のエレーナは、ロシア共和国のニャガニという町への転居を決意しました。 ニャガニというのはシベリアの奥地、チュメニ州ハンティ・マンシ自治管区にある石油開発拠点です。そして、ユーリーの職業は、エンジニア。これは私の想像ですが、シャラポワ・パパは以前から石油開発部隊の一員として、おそらくは単身赴任のような形で、ニャガニで働いていたのでしょうね。何しろ、北極圏に近い場所で、過酷な労働・生活環境でしょうから、普通は家族を家に残して、男たちだけで働くと思うのです。ところが、シャラポフ夫妻の場合は、放射能汚染の渦中で妻が妊娠してしまい、やむにやまれず、一時避難的な形で、身重の妻を酷寒のシベリアに呼び寄せたのではないでしょうか。 ともあれ、このシベリアの地で、マリヤは産声を上げました。原発事故からほぼ1年後の、1987年4月19日のことです。ただ、さすがにニャガニでの生活には限界があったのか、チェルノブイリのパニックが一段落したのを受け、一家はゴメリに 帰ってそこでしばらく暮らしました。しかし、それもつかの間、マリヤが3歳の時、一家は黒海沿岸のロシアのリゾート地、ソチに移住します。 ここからの話は有名なので、知っている方も多いでしょう。マリヤはソチで4歳の時にテニスを始め、6歳の時にモスクワでナブラチロワに見出され、9歳で米国に渡り名門テニスアカデミーに入学……、となっていくのですね。 ここで注目すべきは、シャラポフ一家がその後も時折ゴメリに帰省していたという話です。マリヤのおばあちゃんや叔父さんがゴメリに残っていたので、会いに行ったのですね。何でも、マリヤ少女はゴメリのおんぼろコートで地元の人とよくテニスもしていたらしいです。マリヤ12歳 の時には、父ユーリーの友人で、ゴメリ州テニス協会の現会長であるヴィクトル・ドブロジェエフなる人物と試合をしたと伝えられています。本人は、「俺はマリヤ・シャラポワに負けたことがある」というのを自慢にしているそうですが。 残念ながら、マリヤ・シャラポワがゴメリを訪れたのは、6年前のこの時が最後だったようです。ただ、64歳のおばあちゃん(ガリーナ・シャラポワ)は健在で、今でもゴメリ市のアパートで元気に暮らしています(少なくとも、2004年のウィンブルドン直後の報道によれば、そういう話です)。ガリーナさんはなかなかの肝っ玉母さんのようで、若くして夫に先立たれたあと、食料品店で支配人として働き、女手一つでユーリー(シャラポワ・パパ)とアレクサンドルの2人の息子を育てたのだそうです。 ちなみに、ゴメリに残ったアレクサンドルにもダーシャという娘がいて、つまりはマリヤ・シャラポワの従姉妹ということになります。そのダーシャ・シャラポワも、やはり米国でのテニス修行の道を歩んでいるそうですが、彼女の方は今でも頻繁にゴメリに出入りしているようです。やっぱり美人なんでしょうかね? ここで疑問に思うのは、シャラポフ(シャラポワ)家の人々は民族的には何人(なにじん)なのだろうかということです。正直言って、私にはよく分かりません。マリヤが「ロシアの妖精」と呼ばれているだけに、やっぱりロシア人なのかなあと考えてしまいます。それにしては、ゴメリに親戚がたくさんいるようだし、ロシアの地から移ってきたというよりは、どうもゴメリ地域にしっかりと根を張った一族という感じがします。ただ、『不思議の国ベラルーシ』で取り上げたアンドレイ・グロムイコの例でもそうですが、ゴメリというところ自体がロシアとベラルーシのグレーゾーン的な土地柄なので、そこから積極的なベラルーシ・アイデンティティは育ちにくいという事情もあります。 民族的に何人かはさておき、上述のことからお分かりのとおり、マリヤ・シャラポワが、事の成り行き次第ではベラルーシ国籍になってもおかしくなかった女性であることは、間違いありません。たとえば、ソ連の解体が1991年12月ではなく、あと1〜2年早かったら(もちろん、その場合、今日のような世界的アイドルになれたかというのは、別の問題ですが)。現に、ゴメリに残ったアレクサンドルの方は、娘のダーシャがどこで活躍しようと、彼女の国籍はこれからもずっとベラルーシだ、と言っているそうです。 (2005年10月3日)
ソヴィエツク、恐るべし8月23日から31日にかけて、調査出張でバルト海沿岸都市を回ってきました。その一環として、11年振りにロシアのカリーニングラードを訪れました。その昔「ケーニヒスベルク」の名でドイツ領だったところで、第二次大戦後はソ連領となり、現在はロシアの飛び地になっています。昨年EUが東方に拡大したことで、ポーランドとリトアニアに囲まれたカリーニングラード州は、EUに包囲された格好になってしまいました(地図参照)。 今回の出張の主目的は、国境域の地域交流を調査する点にあったので、カリーニングラード州にあって対リトアニア国境に接するソヴィエツクという街を訪れてみました。あまり深い考えもなく、思い付きの訪問だったのですが、今回の出張で最も新鮮な驚きを受けたのがこのソヴィエツク視察でした。そこで、今月のエッセイでは、これについてお伝えします。 カリーニングラード州にソヴィエツクという街があることは、前から知っていました。でも、名前が名前ですからね。いかにもソ連的な味気のない工業都市で、今は産業も廃れて殺伐とした光景が広がると、勝手にそんなイメージを抱いていたわけです。まあ、期待はできないけど、一応カリーニングラード州としては大き目の街で(人口4万人)、調査テーマである国境にも面しているから、行くだけ行ってみようか、と。 ところが、車でソヴィエツクに着いて、とりあえず売店で絵葉書セットを買うと、そこには意外に由緒ありげな建築物の数々が。そして、絵葉書セットの表紙には、Советск(Tilsit)と記されています。なるほど、「ティルジット」というのが旧名なのか。案外、歴史のある街なのかもしれないな。まてよ、「ティルジット」、どこかで聞いたことのあるような……。 そういえば、世界史で「ティルジット条約」というのを習ったぞ。確か、ナポレオン戦争に関係のある条約だったような。でも、まさかそのティルジットが、この現ソヴィエツクなのだろうか。 写真を撮りながら街の中心部へと進むと、市歴史博物館が目に止まったので、見学してみることにしました。学芸員のお姉さんに、「ひょっとしたら、この街は有名な『ティルジット条約』が結ばれた場所なのでしょうか?」と聞いてみました。
いやあ、うかつだったなあ。「ソヴィエツク」がそんなに豊かな歴史を秘めた街なんて。むしろ、ソ連以前の豊かな歴史があったからこそ、それを封印するために、「ソヴィエツク」に改名したのか。 ちなみに、本件に関しては、同行したロシア人も驚いていました。「ティルジット条約」といえば、多くのロシア人が知っているけれど、そのティルジットが「ソヴィエツク」という名でロシア領内にあるなどとは、99%のロシア人が知らないのではないかとの話でした。多分、ドイツとかフランスあたりにあると、漠然とイメージしているとのことです。 日本に帰り、高校時代に使った山川出版社の『世界史用語集』を見てみました。驚いたことに、ティルジットが現ソヴィエツク市であることがちゃんと書いてありますね。
私は受験生時代は世界史の鬼で、この山川の用語集も何度も読んだはずですが、もちろん「現ソ連のソヴェツク」云々のくだりはまったく印象にありません。そもそも、「ソヴェツク」とか言われても、どこにあるのかさっぱり分からないですよね。昔ソ連で制作された大判の地図帳を引っ張り出し、索引をチェックしたところ、旧ソ連には「ソヴィエツク」という街が3、「ソヴィエツカヤ」が4、「ソヴィエツキー」が8、「ソヴィエツコエ」に至っては16もあったことが分かりました。 ついでに、カリーニングラード市に戻ってから買った資料では、ソヴィエツクのことがこんな風に紹介されています。
なお、ティルジットおよびそのチーズに関しては、こちらのサイトもご覧ください。 ベラルーシに関する私の本を読んでくださった方ならお分かりいただけると思いますが、私はひねくれ者でして、こういう「一見するとつまらなそうな所に、実は豊かな歴史が秘められていた!」というパターンが好きなのですね。今回のソヴィエツク訪問は、まさにそのストライクゾーンど真ん中でした。
(2005年9月2日)
拙著がベラルーシ本国で紹介されたのですが……先日、ベラルーシのマルジス博士から不意に郵便が届きました。マルジス博士というのは、拙著『不思議の国ベラルーシ』にも何度か名前が出てくる方で、現代ベラルーシを代表する文芸派知識人ですね。 何だろうと思って封筒を開けて見てみると、そこには新聞の切抜きが入っていました。どうやら、マルジス博士のはからいで、私の本に関する紹介文を現地ベラルーシの新聞に載せてくれたようなのです。ところが、よく見ると、どうもおかしな按排で……。 問題の新聞は、『ゴーラス・ラジムィ(故郷の声)』というもので、政府系の昔ながらの新聞です。国際的な文化交流やディアスポラの問題を多く取り上げ、国内もさることながら、ベラルーシ人の在外同胞を主な読者としているようですね。調べてみたらネットでも記事が読めるようなので、とりあえずこちらをご覧ください。
結論から言えば、私の主著である『不思議の国ベラルーシ』と、ブックレット版である『歴史の狭間のベラルーシ』を、混同してしまっているのですね。なんともはや。 以下で、記事を翻訳してご紹介しましょう。ベラルーシ語なので、ちょっと怪しい箇所もありますが、悪しからず。
「国際ベラルーシ専門家協会」というのは、マルジス博士のスコリナ協会が事務局をしているベラルーシ専門家の国際ネットワークですね。タチヤナ・ペトロヴィチという人とは面識がありません 。 それにしても、なぜこんな勘違いをしてしまったのでしょうかね。確かに私は、スコリナ協会に『不思議』と『狭間』の両方を寄贈しながら、その内容についてよく説明しませんでした。私としては、「お陰様で本を出せたよ」というメッセージさえ伝えられれば、それでよかったのです。ただ、当然先方としては内容も気になるでしょうから、おそらく大使館員か誰かから断片的に内容を聞いて、それで紹介文を書いてくれたのだと思います。その過程で、伝言ゲーム的な状況が生じ、こんがらがってしまったのでしょうね。 この記事では、「不思議の国」というのを、「謎の国」というふうに訳しています。実は、私自身、多分そういう単純な意味に受け取られるだろうなぁとは予想していました。実際には、謎という意味もありますが、「不思議の国のアリス」的な素敵っぽいニュアンスも込めているわけで。ちなみに、ロシア語でアリスの不思議の国は、もちろんзагадочная странаではなく、страна чудесのようです。ぜんぜん意味が違いますね。 それから、タチヤナさん、「ベラルーシ東欧協力会」というのは、一体何なんでしょうか。私の勤務先を言うなら「ロシア東欧貿易会」でしょうが。 というわけで、突っ込んでいるとキリがないのですが、元はといえば私の説明不足もいけなかったわけですし、良かれと思ってやってくれたことでしょうから、目くじらを立てるのはやめましょう。むしろ、ずっこけた形ではあれ、私の著作がベラルーシ本国で紹介されたことを、素直に喜びたいと思います。 (2005年8月15日)
こんにちは、ルカシェンコ! ―ソラミミはベラルーシにもあった―ふとした拍子で、昔の馬鹿な話を思い出したので、今月はそのネタで。 あれは、私がベラルーシに駐在していた一番最後の頃、2001年2月のことでした。ウィーンから日帰りでスロヴァキアの首都ブラチスラヴァに遊びに行ったことがあります。スロヴァキアを訪れるのは初めてだったし、そう何度も行くような国でもないので、記念にスロヴァキア民謡の入ったカセットテープを買いました。 ベラルーシに戻り、後日、大使館の車に乗っている時に、運転手のサーシャ君に、何の気もなしに、「このカセットかけてみてよ」と頼みました。ところが、1曲目の途中で、彼がゲラゲラと笑い始めるではないですか。「どうしたの?」と聞くと、「何、この歌! 『プリヴェート・ルカシェンコ!』って聞こえますよ」とのこと。「プリヴェート」というのはロシア語で、「やあ」とか「こんにちは」という感じの、親しい者同士の挨拶言葉です。こんにちは、ルカシェンコ!? ホンマかいなと思って、テープを巻き戻して聞いてみると、確かにそう聞こえるような、聞こえないような……。いずれにしても、スロヴァキアの陽気な男声合唱と、「こんにちは、ルカシェンコ!」という妙な言葉の取り合わせに、二人して大いに笑ったのでした。 へえ、外国にもソラミミってあるのか。しかも、ロシア語話者が、同じスラヴ系の言語であるスロヴァキア語を聞いて、こんな現象が起きることもあるのかと、一応外国語大学出身の私としては、興味をそそられたわけです。 ご参考までに、カセットのデータをご紹介しておくと、Spievajuce Slovensko@(Musica 720 032-2)という作品です(写真参照)。問題の曲は、Otvaraj gazdina dvereというタイトルで、演者は、L’udova hudha Miroslava Dudikaと書いてあるのが、たぶんそうだと思います。MP3に転換してここにアップしておきますので、本当に「プリヴェート・ルカシェンコ!」と聞こえるかどうか、よかったらご自分の耳で確かめてみてください。後半に曲調が変わって、その最後のあたりでソラミミに出会えます。 私はどちらかというと、「ルカチェンク」に聞こえますけどね。でも、語尾がかえってベラルーシ語の呼格(相手に呼びかける時の変化形)みたいで、ますます味わい深い。 もともとスラヴ系の諸言語は、お互いの距離が近く、基礎的な語彙をかなり共有しているのですね。私はロシア語しか勉強したことがない人間ですが、スロヴァキア民謡を聞くと、「多分こういう歌詞ではないか」と察しがつくような箇所が少しだけあります。ただ、「プリヴェート・ルカシェンコ!」と聞こえる一節は、チンプンカンプン。実際にはどんな歌詞なんでしょうかね。 (2005年7月 4日)
我が街、台東区私は今、東京都台東区の御徒町に住んでいます。正確に言うと、今日では「御徒町」という町名はなく、台東区台東という住所です。私の住んでいる場所は、昭和30年代前半までは御徒町2丁目だったようです。 昭和22年、浅草区と下谷区が合併して現在の台東区ができました。上野、浅草をはじめ、谷中、根岸、下谷、蔵前、浅草橋などのエリアがあり、典型的な下町と言えるでしょう。昔ながらの職人の街、商業の街です。台東区は、東京23区で一番面積の狭い区です。それだけに、散歩好きの私は、ほとんどの道を歩き尽くしたのではないかと思います(区の北東部にあるいわゆる山谷地区は未踏ですが)。 御徒町の「御徒」というのは、「歩行衆・徒士衆(かちしゅう)」、すなわち徒歩で行列の供をしたり警固に当たったりするする侍のことであり、江戸時代この地にそうした下級侍がまとまって住んでいたことに由来するようです。現在では、なぜか駅前に宝石店が立ち並ぶ街になっています。 私がこの街に住み始めたのは、2001年4月、つまりベラルーシから帰国した直後です。当時の私にとっての唯一かつ最大の関心事は、ベラルーシについての本を書くことでした。したがって、現在住んでいる部屋はもっぱら、「本を書くスタジオ」というイメージで選んだものです。資料を配置するための充分なスペースがあり、休息の場というよりは知的労働に励むための場であると、そんな感じでしょうか。仕事から帰宅後、すぐに執筆作業にとりかかれるように、職場から地下鉄で17分という場所に居を構えました。 私は、野口悠紀雄先生の教えにならって、「歩く」ことを知的労働作業の一環として組み込んでいます。ベラルーシの本の構想を練りながら、あるいは文句をひねりつつ、よく散歩をしたものです。基本コースは、御徒町を出発し、上野広小路を経由して、不忍池を周り、上野公園界隈を歩いたのちに、上野駅を経て帰ってくるというもの。浅草にもよく出没しました。これは文京区ですが、本郷まで足を伸ばして東大をぐるっと一周するというのも最適な散歩コースです。千代田区の秋葉原はもちろん、御茶ノ水や神保町も徒歩圏内です。 『不思議の国ベラルーシ』という本では、建築遺産、文化財、博物館、都市景観といったことが重要な題材になっています。私がこの本で書いたことは、台東区とその隣接地域を散歩しながら思いを巡らせたことであったと言っても過言でありません。 私が住んでいる部屋は、結構見晴らしがいいのですが、窓から見える景色は中層のビルがごちゃごちゃと立ち並ぶ殺風景なものです。今日、東京の下町の風景というのは、だいたいこんな感じです。台東区台東は、もともとは零細企業や住宅などが混在する場所柄なのですが、構造不況や空洞化を受け、活力が低下しているように見受けられます。近所にある佐竹商店街は、かつては下町を代表する有名な商店街だったらしいのですが、今ではすっかり寂れてしまいました。この界隈は、交通は至便なのですが、スーパーなどはなく、生活には案外不便な面があります。 そんな我が町も、最近では少しずつ変わりつつあるようです。近所には新築マンションが増え、人口が盛り返してきている気がしています。私が住んでいる古い賃貸マンションも、4年前には事務所用に使っている人が多かったのですが、今ではほとんど居住用になっているようです。都心回帰の動きもありますので、今後このエリアはマンション街として再開発されていくのかもしれません。
我が家の窓から外を眺めても、ビルが無秩序に立ち並んでいるだけです。それでも、夏にはバルコニーから隅田川の花火大会の模様を見ることができます。川からはかなり離れているので、あまり迫力はありませんが、その分、2つの会場を同時に見ることができます。 下町に住んで実感したのは、江戸っ子は本当にお祭が好きなんだなあということです。とにかくお神輿を担ぐのが好きなのですね。私のような異邦人の目から見ると、こんな情緒も何もない街並みで、よく気分が乗るなあと思うんですけど。気質は生きているということなんでしょうか。 決して美しくはないけれど、不思議に居心地の良かった台東区、御徒町。ただ、この街に住み始めた時に立てていた目標であるベラルーシについての本は、すでに書き上げました。そろそろ、次のステージに進む時なのかもしれないと、思っているところです。 (2005年6月2日)
僕はどうすればいい最近のベラルーシの国情悪化については、私自身色んなところで論じてきましたが、ついに個人的に一番恐れていた事態が起きてしまいました。2005年4月15日、ベラルーシ最高裁が、民間シンクタンク「社会・経済・政治独立研究所(IISEPS)」の閉鎖を決定したのです。 閉鎖の理由というのは、実にくだらない、言いがかりのようなものです。以前レポートに書いたとおり、ベラルーシでは有望な不動産がほとんど大統領官房の所有物になっており、オフィスビルの家賃収入はすべてそこに吸上げられる仕組みになっているんですね。さらに言えば、政権に歯向かう店子がいたらビルから追い出し、家なき子にしてしまうことも可能なわけです。IISEPSもかつては大統領官房傘下のオフィスビルに入居していたものの、2002年か2003年頃に追い出されてしまい、その後は一般のアパートの一室で仕事を続けていたのでした。ところが、ベラルーシには住宅をオフィス目的で使用することを禁ずる法律が存在し、多くの民間シンクタンクや団体がそれを口実に解散に追い込まれてきた経緯があって、今回ついにIISEPSにもそのお決まりのシナリオに沿って解散命令が下されたのでした(ただ、後掲の声明に見るように、最高裁の判決が出たあとも、IISEPSは活動を続けると言っていますが)。 変な言い方ですが、私はベラルーシに関してなるべく「通りすがりの外国人」というスタンスを貫きたいと考えてきました。所詮外国人なのだから、過剰に思い入れたり、自分の願望を押し付けたりすることはやめよう、と。ルカシェンコの独裁がけしからんとか言うのも結構だけれども、ルカシェンコ体制というのは多かれ少なかれこの国の現実を反映したものであり、それなりの必然性があって存立しているわけで。出来合いのものさしで安易に価値判断してしまうのではなく、この国のありのままを見極めようという気持ちですね。 ただ、IISEPSの閉鎖となると、さすがの私も「それがベラルーシの現実」と平静に受け止めることはできません。2000年春、ベラルーシに関する本を書くことを決めた私が、それに向けて最初に面会した相手が、IISEPSのマナエフ所長でした。IISEPSは当国の民間シンクタンクやNGOを束ねる立場にありますから、私は基本的にIISEPSのネットワークをたどって人脈を広げていきました。『不思議の国ベラルーシ』をはじめとする一連の著作で私が披露したベラルーシ論は、マナエフ所長の決定的な影響下にあり、またIISEPSの世論調査結果に多くを負っています。公私にわたる恩人と言っても過言でありません。 というわけで、これまではベラルーシに関し中立の観察者(卑下して言えば野次馬)の立場を貫いてきましたが、そんな私もいよいよ旗幟を鮮明にすべき時なのかもしれません。しかし、「自分に具体的に何ができるだろうか?」ということを考えると、絶望的な気持ちになります。 たとえば、ベラルーシの民主化デモに参加したらいいのでしょうか。そうすれば、心情的には満足を得られ、ベラルーシの友人たちに義理を果たした気持ちになれるかもしれません。しかし、そんなことをしてみたところで、現状では実際に民主化を促進する効果は、ゼロでしょうね。しかも、今デモに参加したら、確実に逮捕されます。すると、現地の日本大使館に多大な迷惑をかけ、救出オペレーションが難航したりすると、イラクで人質になった3人組のように国賊扱いされたりして……。本を売るための売名行為、自作自演とか言われそう。 ヒトゲノムが解読されてしまうほど科学は進歩したのに、人間の世の中って、いつまで経ってもままならないですよね。そして、個人は無力です。アメリカのおバカさんのように、「俺達の正義で世界を染めてやる」なんて心境には、とてもなれません。山下達郎の「War Song」という歌があるのですが(1986年の『ポケットミュージック』に所収)、今の私の気分はこの歌の世界に似ています。この曲は、平和を願いながら、それを叫ぶのではなく、「僕はどうすればいい」と、あえて無力感を歌うのです。確か本人は、「静かな 絶望の歌」と言っていたように思います。もちろん、戦争の問題と民主化の問題は一緒ではありませんが、ベラルーシの現状を憂う今、20年近く前のこの歌が、私には一番リアリティをもって響きます。 私は無力ですが、せめてもの連帯の表明として、IISEPSが4月18日に発表した声明を翻訳して紹介させていただきます。 →2005年4月18日付IISEPS声明(仮訳) 同ロシア語原文 (2005年5月6日)
『不思議の国ベラルーシ』刊行1周年に寄せて早いもので、拙著『不思議の国ベラルーシ』が刊行されてから、1年が経ちました。大変ありがたいことに、『月刊言語』において佐藤純一先生が、また『世界週報』において中澤孝之先生が拙著を書評で取り上げてくださり、身に余る光栄という他はありません。 ただ、全体として言えば、「本を出しても、こんなにも反響がないものなのか」というのが、私の偽らざる感想です。日本の進歩的な知識人のナショナリズム観に反するようなこともあえて書いたので、誰か挑発に乗ってくれるのではないかと期待していたのですが……。野球に例えれば、ストレートが130キロしか出ないことを承知のうえで、開き直ってど真ん中に直球を投げ込んだつもりが、痛打されるのではなく見送られてしまったと、そんな感じでしょうか。 拙著の内容に関して、一つだけ訂正させていただきます。76頁で、ラリーサ・ゲニユシという民族派の詩人を取り上げ、同女史は名誉回復されていないので百科事典にも掲載できないままになっていると書きました。しかし、今般『ベラルーシ歴史百科事典』を入手したところ、ゲニユシがしっかり掲載されていました(冷汗)。しかも、家族3人手をつないで仲良く歩いている写真付きで、反体制派とは思えない妙にほのぼのした雰囲気ですね。ゲニユシを百科事典に載せられないという話は、『ベラルーシ実業新聞』で読んだのをそのまま信用して書いたのですが、やっぱこういうのはちゃんと自分でチェックしなければダメですね。お詫び申し上げます。 それと、補足情報を一つ。拙著69頁で、ベラルーシ歴代当局はタデウシ・コシチューシコを冷たく扱ってきたけれど、最近同氏の生家を復元して博物館を開設しようとする動きがあり、「今後の成り行きを見守りたい」ということを書きました。「成り行きを見守りたい」という表現には、「本当に実現するのだろうか? まあ、お手並み拝見だ」という懐疑的なニュアンスを込めていたわけです。ところが、その後、コシチューシコの生家は実際に復元され、コシチューシコ博物館が本当にできてしまったのです。個人的には、ちょっとした驚きでした。 以上のように、部分的な訂正や、若干の状況の変化はあるにせよ、私としては短期間で価値を失うようなものではなく、何年後に読まれても鑑賞に堪えるような本を書こうと、最大限の努力をしたつもりです。1年間で、自分が期待したほどの大きな反響はありませんでしたが、きっとこれからも新たな読者を得て、それぞれに何かを感じ取っていただけるはずだと、前向きに考えたいと思います。
PS.ちょっと忙しいので、短くてすいません。夏頃になったらまた本HPの拡充に本格的に取り組みたいと思っております。 (2005年4月4日)
モスクワ・ミンスク・キエフ三都物語2月17日から26日にかけて、モスクワ、ミンスク、キエフに出張してきました。東スラヴ3兄弟のそれぞれの首都を、駆け足で回ってきたというわけです。私にとって、これらの街は大なり小なり馴染みがあるところなわけですが(ミンスク大、モスクワ中、キエフ小)、3つまとめて訪問したのは、実は今回が初めてです。そこで今月のエッセーでは、今回の旅行で見てきたこと、感じたことを、思い付くままに書き綴ってみたいと思います。 よく、日本の旅行会社の広告などにも、「モスクワ〜サンクトペテルブルグ〜キエフ三都物語」といった商品が出てますよね。私はそういうのを見るたびに、「あのぉ、ちょっと大事なものを忘れてませんか… サンクトからキエフへと、無造作に飛び越えちゃってますけど、その間に結構かわいい国があるんですけどねぇ…」と、ひそかにツッコミを入れたりしています。そう、正しい三都物語は、やはりモスクワ、キエフ、そしてミンスクでありたいものです。誰が何と言おうと、これはもう、そう決まっているのです。 今度の出張は一人で出かけまして、割と自由に街を歩き回るようなプログラムにしました。ベラルーシに行くのは1年8ヵ月振りで、『不思議の国ベラルーシ』を書き上げてからは初めての訪問です。モスクワも、案外通り過ぎるだけのことが多く、街中を闊歩するようなことは随分していません。キエフに至っては、4年前に行ったきりです。というわけで、まずは久し振りにこれらの街に行ってみて、それぞれの空気感のようなものをつかみたいというのが、主たる関心でした。 もちろん、遊びではなく調査出張ですから、仕事の中味も盛り沢山です。具体的には、@3国とEUとの関係の調査、Aベラルーシ、ウクライナの内政状況(とりわけウクライナ政変後の状況)の調査、B家電産業および販売市場の観点から見た3国の経済状況の把握、Cモスクワで開催されていた食品産業国際見本市の視察、D3国の地域統計・地図などの資料の収集、などが主たる目的でした。何だか脈絡がないと思われるかもしれませんが、要するにせっかく久し振りにこれらの国を回るのだから、今現在の自分の関心事はすべてやっつけてしまおうと、欲張ったのですね。これらの調査テーマに関しては、別途レポートを書く予定ですので、ここではそうした本筋以外のこぼれ話的な話をします。 さて、昨今のモスクワは大変なバブル景気に沸いていて、その一方で「インツーリスト」や「モスクワ」のようなキャパの大きいホテルが解体されてしまい、宿泊先の確保が難しくなっています。今回私は、早くから宿舎の留保を旅行会社に依頼していたにもかかわらず、中心部の手頃なところはまったくとれませんでした。旅行会社いわく、どうも上述の食品産業見本市が盛大で、それが影響しているらしいとのこと。結局、中心部から離れたところにある「コスモス」などというトホホなホテルに泊まるはめになりました。それに加えて、モスクワでは車の渋滞が年々ひどくなっており、今回もシェレメチェヴォ空港からコスモスに行くのに2時間近くかかったような気がします。 渋滞があまりにもひどいので、最近のモスクワでは車を使った移動がかなりリスキーになりつつあります。私のように、地下鉄と徒歩で歩き回った方が、実際には快適だったりするわけで、その意味では中心から離れていても地下鉄駅が目の前にあるコスモス・ホテルは悪くない選択だったかもしれません。ただ、学生や観光旅行者ならともかく、普通の日本人ビジネスマンがモスクワに行って自分の足で縦横に歩き回るということにもならないでしょうから、そのあたりが難しいところですね。
2月18日、モスクワのエクスポツェントルで開かれていた食品産業国際見本市を視察しました。リストを見ると、出展している会社は地元ロシアのものと、西欧勢が多く、中東欧諸国もかなり出ています。それに比べるとベラルーシやウクライナの企業は、ロシアとの実際の経済的つながりが強い割には、資金不足ゆえか、数がそれほど多くありません。カタログによれば、ベラルーシが20社、ウクライナが15社だけです。 巨大見本市なので、すべてを見るというのは不可能であり、今回は製菓部門に重点を置いて視察しました。大手の寡占が進んでいる日本と違って、ロシアやベラルーシでは製菓会社というのはもともと地場産業ですから、実に多くのメーカーがあるわけですね。ベラルーシでは、ミンスクの「コムナルカ」とゴメリの「スパルタク」が2大チョコレート・メーカーとなっていて、今回の見本市では両社仲良く並んでブースを構えていました。担当者にロシア市場の状況を聞いたら、「まあぼちぼち」というような回答。あと、ボブルイスク市の「クラスヌィ・ピシチェヴィク」、ナロヴリャ市の「クラスヌィ・モズィリャニン」の両社も出展していました。コムナルカとスパルタクの他にも、こういうお菓子メーカーがあるというのは、正直今回初めて知りましたね。 そういえば以前、あるベラルーシ人が、「チェルノブイリの汚染が心配だからスパルタクのものは買わないようにしている。コムナルカしか買わない」と言っていました。でも、それを言うなら、ナロヴリャの工場なんかどうなっちゃうの? という感じですが……。 ベラルーシの食品メーカーといえば、何と言ってもブレストの「サンタ・ブレモル」でしょう。同社の魚加工品はロシアなどでも広く売られているので、店でご覧になったり、あるいは実際に食べたという方も少なくないかもしれません。同社のA.モシェンスキー社長を政府のプログラムで日本に招待したことがあって、その関係で個人的に懇意にしていただいていました。実は、今回の見本市の事前の出展者リストを見て、サンタがなかったので、少し心配していたのです。あのサンタが出ないなんて、ひょっとしたら商売が左前になってきたのかな、と。でも、そんな心配は無用、サンタはちゃんと出展していました。どうも、事前のリストは、暫定的なものだったようですね。ただ、残念ながら社長は不在で、再会は果たせませんでしたが。
見本市から話は全然変わりますが、今回モスクワで『TimeOut Moskva』という雑誌が売られているのを見付けました。『TimeOut』といえば、もともとはロンドンの『ぴあ』みたいなエンターテイメント情報誌であり、それが世界の各都市にも広がって、ついにモスクワ版ができたのですね。ミンスク時代の私は、たまにロンドンに出かけるのが唯一の 息抜きの機会で、ロンドンに着いたらまず『TimeOut』を買って、サッカー、ミュージカル、コンサート、映画、アンティークフェア、レコードフェアのスケジュールをチェック、そして思い切り羽を伸ばすというパターンでしたから、同誌には特別な思い入れがあります。嗚呼、夢のロンドン時代! というわけで、ただのモスクワ情報誌だったら別に買ったりしないのですが、『TimeOut』だったので試しに買ってみました。雑誌のつくりは、ロンドン版とまったく同じですね。中を見てみたら、セリョーガSeryogaという名前のゴメリ出身の歌手が今ロシアで売れているらしく、そいつのインタビュー記事が出ていました。普段はロシアン・ポップスをばかにして聴かない私ですが、ゴメリ出身ということで興味を覚え、CDを探してみることにしました。結果的には、ミンスクで買うことができ、聴いてみたところ、これが案外悪くない印象。ラップなんですけど、超絶なうえに結構ストリートな感覚があって、これでもうちょっと伴奏がクールなら、はまってやってもいいんだけど、という感じ。言葉はもちろんロシア語ですよ。モスクワでも、ミンスクでも、セリョーガのコンサートのポスターが街角に貼られているのを見かけて、本当に結構ブレークしてるんでしょう。ロシアン・ポップスに詳しい人には、「今さら」の話題だったでしょうか。 さて、2月19日夜、ベルアビアの夜の便でモスクワからミンスクに移動しました。知っている人は知っているでしょうけれど、モスクワからミンスクへの航空便はいまだに「国内線」扱いで、それもあってシェレメチェヴォ2ではなく1から出発するのです。出国の際のパスポートコントロールもなし。シェレメチェヴォ1で、しかも手続き面でこのように特殊となると、初めての人は面食らったりするのですが、私の場合はミンスク時代に散々利用した便なので、そこは昔取った杵柄、まったくの余裕です。 しかし、今回はミンスクの空港に着いてから、大きな変化を経験しました。ロシアとベラルーシは国家統合に関する条約を結んでいるので、以前はロシア・ベラルーシ両国の国民はもちろん、第三国の国民に対してもパスポートコントロールは行われなかったのです。国境警備兵はおらず、パスポートを見ることすらなかったのですから、この面ではロシア・ベラルーシ国境は確かに世界で一番開かれた国境でした。それが今回は、ミンスクの空港で、ベラルーシのパスポートをもっている乗客は相変わらずパスコンなしでしたけど(表紙を見るだけ)、そうでない乗客は「ちょっと来い」という感じで窓口に連れて行かれて、パスコンがありました。私の他に、ロシア語を話す人間が2人いて、たぶんロシア市民だったはずですが、残念ながら未確認です。 はっきり言って、相当に矛盾したシステムですよね。ベラルーシ国民のパスポートについては表紙しか見ないというのは、表紙の偽造なんか可能だろうから、いくらでも不正ができそうだし。ロシア便だからベラルーシ国民のパスコンを省略しているのなら、ロシア国民に対しても省略しなければ整合性がないし。もう、ロシアとベラルーシは1つの統合国家ではなく普通の外国同士になりつつあるのに、そのことを政治的に認めたくないから、変な形で簡易出入国を惰性で残していて、そのことによりセキュリティを犠牲にしているように思われます。もう、乗客全員を並ばせて、普通にパスコンをやればいいんじゃないんですか。それで、ベラルーシ国民とロシア国民についてはスタンプ省略とか、それで充分でしょう。
さて、1年8ヵ月振りのミンスクで、大きな変化といえば、中心部・自由広場の小公園において、旧市庁舎(ラトゥシャ)の再建がなったことでしょうか。私がミンスクを離任する直前の2000年頃にラトゥシャを再建するという話が持ち上がり、2003年6月にミンスクを訪れた時にはちょうど建設工事をやっていて、そして今回行ってみたら本当にそれが完成していたという次第です。 実は、この文章を書くために色々資料を見ていて、自分が今まで勘違いしていたことに気付きました。私はこれまでずっと、公園の筋向い、カトリック大聖堂の隣、現在のフランス大使館のあたりに戦時中まで建っていた時計台のある建物がラトゥシャだと思い込んでおり、このHPの「ミンスク物語&ギャラリー」のコーナーでもそのように書いていたんですが、実はその建物は昔の税務署であったことが判明しました(冷汗)。ラトゥシャは1851年にロシア皇帝ニコライT世の命により破壊されていて、写真すら残っていなかったんですね。 上にご覧いただくような絵しかありません。私は、公園にラトゥシャを建てるという話を聞いて、「なぜもともとの場所に建てないんだ」などと色んな人に言っていたのですが、何のことはない、今の公園で正しかったのですね。ちなみに、再建なったラトゥシャですが、現在のところ何の目的でも使用されていない模様で、今後についても明らかでありません。
それから、先月のマンスリー・エッセイで触れたミンスクの「赤の教会」と長崎の浦上天主堂の交流ですが、その後、2000年9月の行事に関してはやはり大使館の別の館員がお世話をしたということが判明しました。今回ミンスクに行けたので、あらためて記念碑を写真に収めてきました。前回「平和の鐘」などと書きましたが、説明書きには「原爆によって破壊された天使の鐘の写し」とされていますね。 さて、今回の出張の柱の一つが家電市場の調査でしたから、売り場を視察するために、ミンスクの馴染みのデパートを久し振りにハシゴしてみました。それで気が付いたのは、現在この国では「メイド・イン・ベラルーシ」が強調されるようになっているということです。ネミガという百貨店では、「メイド・イン・ベラルーシ」というプレートをわざわざつくって (写真)、靴などの国産品を積極的にPRしています。TsUMというデパートでも同様でした。これもナショナリズムの一つの表れと言えるでしょうか。まあ、この国の場合はそれだけソ連時代からの産業基盤がかなり残っていて、小さい国の割には、自国製品である程度カバーできるということでもあります。 家電産業・市場については、別のところでまとめる予定なので、ここでは詳しく論じません。簡単に触れておくと、今回私は、ミンスクにあるテレビ工場の「ゴリゾント」、冷蔵庫工場の「アトラント」を訪問することができました。言うまでもなく、ベラルーシでは経済の構造改革が手付かず のままです。他方で、旧ソ連のテレビ工場があらかた潰れてしまい、現在では外国製品のノックダウン生産くらいしか行われていないなかで、ゴリゾント社はある程度裾野の広がりというものももっているし、自前の研究開発も細々と続けて います。これは、旧ソ連では大変に稀有なことです。私はベラルーシの経済体制を決して称賛しようとは思いませんが、それでもモノづくりに寄せる姿勢などには好感を覚えるところがあります。 ただ、生産活動は別として、現時点のモスクワ・ミンスク・キエフ三首都の消費水準の格差には、歴然たるものがあります。今回、ミンスクのTsUM百貨店に薄型大画面テレビが1台も置いていなかったのには、正直ショックを受けました(ゴリゾントも小型ながら液晶テレビをつくり始めてるんですがね)。今日のミンスクの消費生活の水準は、おそらくロシアの地方都市(州都レベル)よりもさらに下ということになると思います。それに対し、モスクワはもちろん、キエフの家電店でも、テレビ売り場は先進諸国のように徐々に薄型に比重が移りつつあります。大型ショッピングセンターの建設などでも、ミンスクはモスクワだけでなくキエフにまで完全に水を開けられてしまいました。現在ミンスクでは、市中心部の独立広場を大々的に掘り返していて、それがショッピングセンターになるとされていますが、どうなることやらという感じです。 話はまたまた変わりますが、今回ミンスクのボリショイ劇場でバレエ作品の「ログネダ」を観ることができました。ログネダの物語については、拙著『歴史の狭間のベラルーシ』で詳しく紹介しておりますけれど、実はこれまで1回しか観たことがなかったので、もう1度観てみようと思ったわけです。考えてみれば、この作品も三都物語のようなものですね。この場合は、ノヴゴロド、ポロツク、キエフですが。ただ、バレエ上演には12歳以下の子供は入場不可というような貼り紙があったにもかかわらず、今回どういうわけか妙に子供が多く、騒がしくて作品に集中できませんでした。それ と、こともあろうに、上演中にフラッシュを焚いて写真を撮る大バカが結構いるんですよ。私は絶対に幕間とカーテンコールの時しか撮りませんけどね。残念ながら、これがベラルーシ・ボリショイ劇場の格式なのでしょう。 2月23日、早朝のベルアビアでミンスクからキエフに移動。ボリスポリ空港からタクシーで市内のホテルに向かいました。道中、タクシーの運転手から、クチマ前政権に対する批判、ユーシチェンコ+ティモシェンコに対する熱烈な支持、そしてオレンジ革命の理念を聞かされることに。ベラルーシでは、タクシーの運転手が政治談議をしたり革命理念を語ったりするのはありえないことであり、いきなり文化の違いを思い知らされます。 ミンスクからキエフに行くと、「いやあ、外国人が多いなあ」というのを感じます。私は今回ミンスクではベラルーシ・ホテルに泊まったわけですが、国を代表するホテルの割には英語が飛び交うわけでもなく、薄暗いホテルには生気というものがまるでありません。それに対し、キエフで泊まったルーシ・ホテルでは、従業員は皆明るい表情で英語を話し、外国人のビジネスマンや観光客の姿も多く見られ、活気に溢れています。 ホテルの部屋に落ち着き、テレビをつけると、ユーシチェンコ・ウクライナ新大統領のストラスブールにおける演説を生中継していました。お世辞にも迫力のある演説ではなく、ウクライナ語なので内容もよく分かりませんでしたが、それでも何か胸に迫るものがありました。演説 を終えたユーシチェンコ氏がスタンディグオベーションで迎えられたことは言うまでもありません。私はふと、前日テレビで観たルカシェンコ大統領主宰の政権幹部会合のことを思い出しました。欧州の晴れ舞台で拍手喝采を浴びる「オレンジ革命の立役者」と、部下たちを次々と起立させては罵倒する「欧州最後の独裁者」か。ちなみに、両者はともに1954年の生まれです。 (2005年3月2日)
長崎はけっこう晴れていた少し古い話になりますが、昨年の10月12〜15日に休暇で長崎に遊びにいってきました。昨夏は、ブックレット『歴史の狭間のベラルーシ』の仕上げと、うちの会社で出した『ビジネスガイド ロシア』という出版物の編集が大変で、休みらしい休みが全然とれなかったんです。10月も中旬になって、ようやく夏休みが消化できたというわけでした。 国内旅行もパック・ツアーで行くとすごく安いやつがありますけど、今回の長崎旅行は数日前になって自分で飛行機とホテルを手配したので、割高でした。まあ、直前まで行けるかどうか分からなかったから、しょうがないかと。それに、直前に旅行を決めることには、ぎりぎりまで天候を見極められるというメリットがあります。天変地異が続く昨今の世の中では、これは重要なポイント。10月の長崎旅行は、まさに「台風の合間を縫って行く」という感じで、その甲斐あって大変な晴天続きでした。 ところで、何ゆえに長崎に行ったかというとですねえ、まあいくつか理由があるんですけど、まず、恥ずかしながら個人的に九州に一度も行ったことがなかったからというのがあります。本州、北海道、四国は一応行ったけれど、九州は未踏破だったので、とりあえず九州のどこかに行きたいなというのがありました。 それでは、九州のなかで、なぜ長崎になったかというと、唐突ですが私、クール・ファイブの「長崎は今日も雨だった」っていう歌、好きなんです。もともとは十数年前に、カラオケでかますギャグのネタとして「東京砂漠」でも仕込もうかと思い、中古屋で投売りされていたクール・ファイブのベストを買ったのがきっかけでした。それで聴いてみたところ、クール・ファイブをギャグ扱いするなど、とんでもないことであり、これはきわめて秀逸な音楽なのだということに気付かされたのです。そのなかでも、「長崎は今日も雨だった」という曲は、別格と言ってもいいほどの格調を漂わせた超名曲であることが分かりました。彼らは長崎出身で、これはご当地の歌ということになります。衝撃を受けた私は、「クール・ファイブは隠れキシリタンに違いない」などと訳のわからないことを周りの人に訴えたりしたたのですが、多くの人は「ムード歌謡」というだけで嘲笑するのが常でした。まあ、別に、分からないやつは分からなくてもいいけどさ。いずれにせよ、それ以来、クール・ファイブの甘美なコーラスによって長崎という街のイメージがかき立てられ、私のなかで、いつか長崎に行ってみたいという想いが募っていったのでした。
それと、街並み評論家の私としてはですねえ、長崎の都市景観にも興味がありました。というのも、私の尊敬する野口悠紀雄先生が、日本の地方都市には街としての魅力に欠けるところが多く、(地図から実際の街を想像してみる)バーチャル・ツアーをやって楽しいのは長崎くらいだろうということを書いていたからです(野口悠紀雄『無人島に持ってゆく本 ―「超」整理日誌2』、ダイヤモンド社、1997年)。これを読んで、へえ、長崎ってそんなにいいのかと、期待感が高まりました。 そしてもちろん、長崎は被爆都市であり、その関係でチェルノブイリ原発事故の被害を受けたベラルーシと色々つながりがあることも、今回の旅行に出かけるうえで、頭の片隅にありました。これについては後述しましょう。 さて、結論から言うと、長崎という街は大変すばらしく、今回の旅行は大満足でした。しかし、思い描いていたイメージと、ずれがあったのも事実。何しろ、私が勝手にイメージしていたのは、クール・ファイブが歌った1970年代の長崎ですからねぇ。「長崎は今日も雨だった」に、「夜の丸山 たずねても 冷たい風が 身にしみる」という印象的な一節があるので、実際丸山というところに行ってみましたよ、夜に(笑)。でも、想像したほどムーディーなところじゃなかったなぁ。当たり前か。それでも、写真に見るような、ちょっとミステリアスな坂道があったりして、面白かった。
あと、長崎の都市景観は、思ったよりも平凡でした。駅前をはじめとする中心部などは、普通の地方都市ですね。むろん、市内には名所旧跡の類が豊富で、散歩して非常に楽しい街であることは間違いありませんが。それから、長崎が良いのは、何と言っても地形の妙でしょうね。野口先生が長崎に魅力があると言っていたのも、そういう意味だったのでしょう。 さて、長崎とベラルーシのつながりの最たるものが、やはり、カトリック聖堂の「浦上天主堂」ということになろうかと思います。もともとは1873年に建設が開始され、その30年後に完成した東洋一の大聖堂でしたが、1945年8月の米軍による原爆投下で全壊、今日の聖堂は1959年に再建されたものです。その際に、焼け跡から木製のマリア像が奇跡的に発見され、この「被爆マリア像」は平和の尊さを伝えるものとして、人々の崇敬を集めるようになりました。そして、2000年9月下旬には、ベラルーシのミンスクで被爆写真展が開催され、この被爆マリア像も展示されたのです。これを記念して、展示会が開かれたミンスクの聖シモン・ヘレナ聖堂(通称「赤の教会」)の傍らには、「平和の鐘」が据えられました。(実はこの辺はうろ覚えで、間違っているかもしれません。今度ミンスクに行った時に確認してきます)
2000年9月下旬というと、私は大使館員としてベラルーシに駐在していたわけですが、この展示会にはまったくかかわっていません。大使館を素通りした行事だったのか、あるいは別の館員がお手伝いしたのか、分かりませんが。ちょっと当時の日誌を見返してみたら、ちょうどその時私は夏季休暇をとってミンスクにいなかったことが分かりました。旅行記に書いたように、楽しいバス旅行をしていたのですね。展示会や「平和の鐘」の話は、あとから報道で知ったような記憶があります。 というわけで、ミンスクではお目にかかれなかった被爆マリア像に、その4年後、今回長崎で会うことになりました。行ってみて少しがっかりしたのは、浦上天主堂では現在聖堂の修復工事が実施されており、外壁がカバーで覆われていて、外観を観られなかったことです(写真)。ベラルーシでも、カトリック寺院では時々あるパターンですね(ポーランドの資金的なテコ入れがあるからです)。それでも、天主堂南側の小聖堂に安置された被爆マリア像は、しっかり拝むことができました。 なお、この浦上天主堂のすぐ近くには、長崎大学医学部のキャンパスがあります。ある研究室が、ベラルーシとの医学交流を続けており、私もミンスクで関係者に何度かお会いしました。 さて、長崎のカトリック教会と言えば、もう一つ忘れてはいけないのが「大浦天主堂」です。こちらは1864年竣工の日本最古の天主堂で、堂々国宝に指定されています。 今回私が大浦天主堂を訪れて興味を抱いたのは、1930年ポーランドからコルベ神父と2人の修道士がこの教会に赴任したというお話です(コルベ神父はその後、アウシュビッツ強制収容所で餓死刑に指名された男性の身代わりなって死を引き受けたというお方で、大変に尊敬されているようです)。両大戦間期というと、西ベラルーシがポーランド領になっていましたから、ポーランドから来たといいながら実はそれはベラルーシ地域で、民族的にはベラルーシ人であったとか、そんなことがありはしないかと一瞬思ったのです。すわ、日本とベラルーシの隠れた交流史発見か?、と。実際には、コルベ神父がワルシャワから来た方であることは展示資料からすぐに分かりましたが、残りの修道士については具体的にポーランドのどこ出身かというのは不明である由でした。残念。 というわけで、楽しかった10月の長崎旅行について、ベラルーシ・ネタを中心に、遅ればせながら報告してみました(クール・ファイブ話の方が力がこもっていたような気もするが)。 ところで、長崎市さん、ゴメリ市と姉妹都市になりませんか? ベラルーシと実際のつながりがこれだけある日本の都市は、長崎市だけだと思うのですけど。何だったら、ゴメリのクール・ファイブを、私が発掘してきましょうか。 (2005年2月1日)
フー・イズ・ミスター・マカラウ?―アテネ五輪で改めて考えたベラルーシの固有名詞問題―2004年は皆さんにとってどんな年だったでしょうか。 私個人にとっては、念願の著書『不思議の国ベラルーシ』を出すことができたり、初めてテレビ出演もしたりと、非常に盛り沢山な1年でした。しかし、世間一般では、自然災害が多発し、子供が巻き込まれるひどい事件が増えるなど、全体として暗いニュースが多かったように思います。そんななかで、アテネ・オリンピックでの日本選手の活躍に救われたと感じている国民は、多いのではないでしょうか。 もちろん、期待以上の活躍をした日本選手もいれば、期待に反してメダルに手の届かなかった選手もいます。柔道男子100キロ級の井上康生選手などは、さしずめ残念組の代表格でしょう。 ところで、その100キロ級を制したのが誰だったか、覚えていますか? 多くの日本人は、井上選手のまさかの敗退で興味が半減し、決勝のことなど覚えていないかもしれません。実は、この階級を制したのは、ベラルーシのイーハル・マカラウ選手だったのです。誰それ? Who is Mr. Makarau ? 日本人だけでなく、世界の誰もが井上選手こそ大本命と信じていただけに、多くの人が伏兵の優勝をそのような思いで受け止めたことでしょう。 さて、ロシアのことを良くご存知の方なら、こんな風にお感じになったのではないでしょうか。「イーハルとか、マカラウとか、ロシアでは聞いたこともないエキゾチックな名前だなあ。やっぱりロシアとベラルーシは全然違うんだ」、と。しかし、この名前をロシア語風に読んだらどうでしょうか。答えは、「イーゴリ・マカロフ」です。何のことはない、ありきたりなロシア人の名前です。 なぜ「イーゴリ・マカロフIgor’ Makarov」が「イーハル・マカラウIhar Makarau」になるのか、順を追って説明していきましょう。まず、ベラルーシ語では「г(ゲー)」の音があまり濁らずに、「g」と「h」の中間ぐらいの音になります。したがって、ローマ字に翻字する際に、「g」ではなく「h」で表すことが少なくありません。次に、ロシア語でもアクセントのない「o」は発音上は「a」と読まれることが多いわけですが、ベラルーシ語では「a」と読まれるだけでなく、表記も「a」となります。そして、ベラルーシ語ではロシア語と違って、「р(エル)」は常に硬音ですので、軟音記号が付くということはありません。以上のことから、イーゴリがイーハルに化けるわけです。最後に、ロシア語では男性の姓をはじめ語尾が「в(ヴ)」で終わる単語が少なくなく、それが無声音化して「フ」と読まれるわけですが、ベラルーシ語は音声上「フ」で終わることなはいので、「ў(短いウ)」に変わります。というわけで、マカロフがマカラウになるわけです。 私は、ベラルーシ代表として戦っているくだんのマカラウ氏が、民族的にもベラルーシ人なのか、それともロシア人なのかということは知りません。したがって、同氏の名前が「本来的に」イーハル・マカラウなのか、あるいはイーゴリ・マカロフなのかということは判断できません。いずれにしても、ベラルーシ語の名前とロシア語の名前は対応関係にあり、相互に言い換えが可能です。そして、日常会話で実際に用いられるのはむしろロシア語形であり、ベラルーシ語形はどちらかというとそれを人為的に言い換えている場合が少なくないということをご理解いただきたいと思います。 現在のベラルーシは、その是非については意見が分かれるかと思いますが、ベラルーシ語とロシア語の二言語政策をとっています。1996年に導入された現行のベラルーシのパスポートというのも、実に合理的な代物であり、自分の名前が、ベラルーシ語、ロシア語、英語(ローマ字)で併記されているのです。 それでは、英語表記はベラルーシ語風なのか、ロシア語風なのか、どちらでしょうか? 私は、大使館で3年間、査証業務の事務処理を補佐する仕事をしていましたから、ベラルーシのパスポートのことは良く知っています。結論から言えば、「どっちでもいい」ということになります。同じ「セルゲイ」という名前でも、ベラルーシ語風にSiarheiとしている人と、ロシア語風にSergeyとしている人とに分かれるのです。ちなみに、これは民族的にベラルーシ人か、ロシア人かということとはまったく関係ありません。私が懇意にしていただいている社会学者のオレグ・マナエフ氏などは、ウラジオストク生まれの生粋のロシア人ですが、パスポートの英語表記はベラルーシ語風にAleh Manayeuになっていました。 私の印象では、どうも役場の人間の気紛れによって決まっているのではないかという気がします。ロシア系住民のなかには、パスポートで自分の名前がベラルーシ風に表記されることを快く思わず、人権問題だと騒ぎ立てている向きもあるようです。 おそらく、オリンピックのような国際スポーツ大会では、パスポートと照合して本人確認をするでしょうから、パスポートに英語で記載されている名前がその選手の正式な氏名として扱われるはずです。マカラウ選手も、本人の意識や日常の呼び名にかかわりなく、たまたまパスポート上の英語表記がIhar Makarauだったから、世界的にそう呼ばれることになったのだと思います。 アテネ・オリンピックのベラルーシ選手団を見ても、ロシア語風の読み方とベラルーシ語風の読み方が無秩序に混在しています。本人たちがかくもバラバラなのだから、外国人がベラルーシの地名や人名を表記する場合に、絶対にベラルーシ語風でなければいけないなどということは、とてもじゃないけど言えないですよね。だからこそ私は、『不思議の国ベラルーシ』も、『歴史の狭間のベラルーシ』も、すべてロシア語風で通したわけです。私なりの、見識の表明のつもりでした。 さて、ロシア地域のことをかじった方であれば、ベラルーシ人には「何とかヴィチ」とか、「何とかスキー」という苗字が多いとお感じになっていることでしょう。一方、オフとかエフで終わるのはロシア人の苗字であり、ベラルーシ国民でもそういう苗字の人は民族的にロシア人なのではないか、などとお考えになるかもしれません。苗字の語尾によって、民族的ルーツが分かるのではないかというのは、もっともな発想です。 実は、私自身もそのように考えて、ベラルーシの人名データベースを作成したことがあります。上述のように、査証業務の補佐で、ベラルーシ国民のパスポートを数多く見る機会があったので、一時期それをノートに付けて、どのような語尾の苗字が多いかを集計してみたのです。合計210のサンプルが得られました。もっとも、ベラルーシから日本に行く人には、ミンスク市とゴメリ州の出身者が多いという傾向があり、それらの地域が若干過大に代表されているという難点があります(前者はエリートが多いから、後者はチェルノブイリで被災した子供たちですね)。科学的な調査ではなく、参考程度のものとお考えください。 このデータベースもどきを集計してみたところ、ベラルーシ国民の苗字の類型は、次のような内訳になりました。便宜的に、ロシア語の男性形で表記します。
ご覧のように、一般にはロシア人のものと考えられているオフ、エフの類が実際には一番多く、やはりロシア人に多く見られる何とかイン(プーチンとか)を加えると、3分の1を上回ります。ウクライナ人に多いと考えられている何とかエンコ(ルカシェンコ!)も10%に上り、同じくウクライナ系の何とかウーク(クラフチュークとか)もちらほらと見られます。これに対し、典型的なベラルーシ人というイメージのある何とかヴィチは、この調査では11%どまりでした。 ちょっと注釈を入れますと、そもそも、ウクライナ系と考えられている何とかエンコ、何とかウークは、実際にはウクライナ地域だけのものではありません。まず、何とかエンコは、ゴメリ州やモギリョフ州でごく一般的な姓で、むしろコサック系と言うべきかもしれません。また、何とかウークも、ブレスト州・西ポレシエ地方の土着住民の間に広く見られる姓です。コブリンという街の戦没者慰霊碑を見たら、ほぼ全員が何とかウークで、驚いたことがあります。 ベラルーシ語協会のトルソフ会長に聞いたところによると、ベラルーシ地域においては、農民はかつては名字をもっておらず、農奴解放後に、基本的に領主の名字を名乗るようになりました。何とかヴィチ、何とかスキーはそうして付いたもののようです。しかし、多くの農民はカジョール(ヤギ)とか、ピョートフ(ニワトリ)といった具合にあだ名をもっていて、それが名字になる場合もあったようです。実際、ベラルーシには動植物名がそのまま名字になっている人も多く、私などはそうした名字こそいかにもベラルーシ的だなあという感じを受けます。 しかし、トルソフ氏によると、19世紀末から20世紀初頭の「ロシア化」の推進により、ロシア風の語尾の名字が増えたとのことです。したがって、ロシア風の語尾であっても、それは民族的なルーツとはまったく関係ないというのが、トルソフ氏の説明でした。何しろ、ご本人も「オフ」ですからねぇ(ベラルーシ語風に読めば「アウ」ですが)。 ところで、くだんの人名データベースの集計結果を何人かのベラルーシの識者に見せたところ、「これは素晴らしい。こんなデータは見たこともない。ぜひ頑張って研究を続けるように」などと言われるのが常でした。まったくもう、俺は忙しいんだからさぁ。自分の国のことは自分で調べてくださいね。 (2005年1月5日) |
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