マンスリーエッセイ(2009年)

 
記号

2009年12月:成人おめ! ウクライナ

記号

2009年11月:Windows7ってロシアではどうなってるの?

記号

200910月:秋田と名古屋、それぞれの闘い

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2009年9月:モギリョフに生まれたユダヤ人がアメリカを祝福

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2009年8月:ごめんねボリソフ

記号

2009年7月:ソ連から遅れて来たハードバッパー

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2009年6月:それでもボクはやってない(in アディゲ共和国)

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2009年5月:エキゾチック・クバン

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2009年4月:タイムスリップ

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2009年3月:ヤロスラヴリ千年祭を先取りだ

記号

2009年2月:シェンコたちの憂鬱

記号

2009年1月:「舞台」としてのベラルーシの森

 

成人おめ! ウクライナ

 モスクワとキエフでの現地調査を終え、帰国したところです。

 最初に、前回述べたロシアにおけるWindows7事情につき、補足というか修正させていただきます。今回の出張ではあまり時間がなく、家電店をじっくり見て回るような余裕はありませんでした。それでも、1軒だけ、 モスクワ郊外にあるエルドラドの旗艦店に立ち寄り、パソコン売り場を覗いてみました。ざっと見たところ、普通のノートパソコンは(ロシアでは完成品のデスクトップが家電店の店頭で売られるということがあまりない)、7機とVista機が半々くらいでした。XP機は、完全にネットブックに限られていました。この図式であれば、日本などと大きく変わるところはなく、別にロシアが特殊というわけではなさそうです。

 ただ、店内を見渡してみた限り、Windows7発売に伴う販促キャンペーンが張られている様子は、やはりありません。店員さんに、「お客さんの7への反応は?」と訊いたところ、「好意的に受け入れられています」とのことでしたが、経済危機の渦中ということもあってか、そんなに売り上げが伸びているわけではなさそうです。

 まあ、日本のように、Windows7でも、ビートルズでも、ボジョレヌーヴォーでも、何でもカウントダウンしてお祭りにしてしまう国の方が、特殊なのかもしれませんね。

 ちなみに、ロシア語では「ウィンドウズ・セヴン」ではなく、「ウィンドウズ・セミョールカ」と言うようです。外来語が氾濫している今のロシアだけど、そういうところはロシア語なんだ。


 さて、12月の出張で訪問したロシアとウクライナのうち、今回はウクライナについて語ってみたいと思います。帰国後、早速、「大統領選前夜のキエフを訪問して」というレポートを書きましたので、政治・経済の一般的な話はそちらを参照してください。このエッセイでは、ウクライナ研究における自分の立ち位置的なことについて、つらつらと述べてみます。

 これは、上掲のレポートで書いたことと重複するのですが。先般、東京外国語大学の中澤英彦先生が、『ニューエクスプレス ウクライナ語』という入門書を上梓されました。私は、同書に関する書評を書き、自分の編集している雑誌に載せました。その時の基調は、本書によってウクライナ語入門の敷居が低くなったことは喜ばしいが、現実的に考えると、ビジネスマンに関して言えば、仮にウクライナに駐在するようなことになったとしても、ウクライナ語学習にあまり大きなエネルギーを割くわけにはいかないだろうというものでした。もちろんウクライナ文化に興味をもったり、ウクライナのことを突っ込んで研究しようという人にはウクライナ語は必須でしょうけれど、経済・ビジネスの情報であればロシア語でも充分に取れるので、ビジネスマンにはウクライナ語はまず必要あるまいと考えていたのです。

 ところが、今回キエフでお目にかかった日本のある商社の所長さんは、ウクライナ語もどうしても必要であるという結論に至り、今では週に2回レッスンを受けておられるとのことです。もう1人、別の商社の所長さんも、最近ウクライナ語を始められた由。ビジネスマンがウクライナ語に挑戦しているというのは、私にとって新鮮な驚きでした。依然としてこの国の日常的なコミュニケーションではロシア語が幅を利かせているものの、政治家は公の場ではウクライナ語しか話さないという人が多いし、公式的な文書もすべてウクライナ語。したがって、ウクライナという国の懐に飛び込んで商売をするためには、結局はウクライナ語が避けて通れないということのようです。もっと言えば、ウクライナの企業と商談をするのはロシア語でも、最終的にはウクライナ語の契約書を取り交わすわけだから、何も分からない言語の契約書にサインするのは不安ということもあるみたいです。

 所長さんとの面談のあと、私はキエフの目抜き通りにあるマクドナルドで昼食をとりながら、1人思いを巡らせました。ウクライナが独立したのが1991年暮れ。それから18年が経過しました 。18歳は、この国では成人です。つまり独立国家ウクライナは、年齢のうえでは、大人になったわけです。マクドナルドで、屈託のない笑顔を浮かべる若者たち。彼らが物心ついた頃には、ソ連などという国はもうなかったでしょう。新生児が成人するだけの時間が経ったのだから、独立国家としての国民意識が定着に向かい、ウクライナ語が浸透するのも、当然かもしれません。

 成人おめでとう! ウクライナ。ていうか、考えてみれば、ベラルーシとか、他の旧ソ連の新興独立諸国も、みんな18歳か。一堂に会したら、荒れた成人式になりそうだな(笑)。

 変な話ですが、私はベラルーシについては、ロシア語で通すというこだわりをもっています。同国でロシア語はベラルーシ語と完全に同格の国家言語であり、より優勢なのは明らかに前者なのだから、同国に限って言えばロシア語を使うことの方がむしろその個性を尊重していることになるはずだという考えが根底にあります。ベラルーシ駐在中は、ベラルーシ語を積極的に学習することはしませんでした。むしろ帰国後に多少やりましたが、辞書を引きながらどうにか文献を読める程度にしかなりませんでした。そもそも、ロシア語の会話がほとんどできなかった私が、ミンスクで先生に教えていただいたことでようやく多少しゃべれるようになり、『不思議の国ベラルーシ』執筆のための取材活動も全面的にロシア語で行ったという経緯から、「ベラルーシでロシア語を」というのが、一種のアイデンティティのようになってしまっているのですね。日本語の文章でベラルーシの地名や人名を表記する際も、ロシア語風にするのを原則としています(「フロドナ」でなく「グロドノ」)。

 それが、ウクライナとなると、悩ましいところです。個人的に、これまでウクライナ語をちゃんと勉強したことはありません。私にとってウクライナ研究は、ベラルーシ研究の延長上で入ったようなところがあるから、ベラルーシ研究のスタンス(民族語に対する引いた態度)を引きずっているようなところがあって…。でも、その気になれば、地名や人名をウクライナ語風に表記することくらい、私にもできるのです。現に、学術寄りの文章を書く時には、そうしています。ただ、勤務先のロシアNIS貿易会の刊行物のなかでは、これまではロシア語風にしていました。なぜかというと、ウクライナビジネスに携わっている日本人は、やはりロシア語畑の人が多いから、ロシア語風に表記した方が、伝わりやすいと思うのですよ(当会の刊行物は、啓蒙ではなく、会員サービスを目的としていますので)。第一、「ハルキウ・トラクター工場」とか言ったら、感じが出ないでしょ。やっぱり「ハリコフ・トラクター工場」じゃないと。ウクライナの企業のホームページを見ると、ロシア語だけっていうパターンも結構あるし。

 な〜んて言って、半ば意地になって、ウクライナ語を避けてきたんだけど、もう限界かな。ウクライナでは、趨勢的にウクライナ語がロシア語を駆逐していくであろうことは確実なわけで、それが早いか遅いかだけの問題だから。だったら、私自身のウクライナ情報収集および発信も、その方向に沿って変えていかざるをえないでしょう。

 ウクライナのメディアでも、私が読むような時事系の新聞・雑誌は、まだまだロシア語のものが多いような気がします。でも、書店に並んでいるような本は、ウクライナ語ばっかり。テレビも基本的にすべてウクライナ語で、ロシアで制作されたドラマにわざわざウクライナ語の字幕を付けて放送するようなことまでしています。

ウクライナの書店に行くと、ウクライナ自身に関する本が

多く、「どんだけ自分好きなんだよ」と思っちゃいます。

エッセイの内容とはまったく関係ありませんが…

ユーロ2012に向け、キエフのミハイロフ広場に

公式モニュメントが設置されました。

 今回のキエフ滞在中にも、ウクライナ語の必要性を痛感する出来事がありました。あるレストランで待ち合わせをすることになり、ウクライナ語の住所を告げられたのですが、地図をどう探しても、その通りが見付かりません。結局、すぐ近所らしいにもかかわらず、渋滞のなかをタクシーで出かけ、アポに遅れてしまいました。後で分かったのですが、その住所は「1月蜂起通り」という名前で、「1月」はウクライナ語ではsichen'、ロシア語ではyanvar'でぜんぜん違うから、ロシア語の地図を見ていた私は気付かなかったのです。ちなみに「1月」はベラルーシ語ではstudzen'で、これまた違うんですねえ。キミたち、本当に同系統?

 というわけで、遅ればせながら私、決めました。中澤先生の入門書で、ちょっとずつでも、ウクライナ語を勉強します。基本的な語彙を覚え、カタコトの会話くらいはできるようになり、辞書を引きながら文献を読める程度にはなりたいと思います。まあ、ロシア語と、生半可にかじったウクライナ語・ベラルーシ語がぐじゃぐじゃになり、収拾がつかなくなることは目に見えていますが、もうしょうがないです。それから、依然として抵抗は感じますが、来年からは日本語の文章のなかでウクライナの固有名詞を表記する際に、ウクライナ語風にする原則に変えたいと思います。

 ただねえ。ウクライナの独自性を尊重し、そのためにウクライナ語を学ぶにしても、個人的に、ウクライナ・ナショナリズムにからめとられるようなことは避けたいものです。ウクライナに深くかかわる外国人は、その陥穽に陥りがち。たとえば、有名な「ホロドモール」の問題ですね。もちろん、未曾有の人的被害が起きたことは間違いないものの、それをソ連当局がウクライナ民族だけを狙い打ちにした大量虐殺であったかのように唱えるのは、明らかに行き過ぎでしょう。飢餓は全ソ連的なもので、諸条件によりとりわけウクライナで集中的に被害が出たと見るべきで。現代のウクライナ国民自身が、その歴史的悲劇を語り継ぐことは大事だし、それに民族主義的な脚色を加えて国民的団結を図ろうとすることは、「あり」だとは思いますが。外国人が、ウクライナ人の言うことすべてを真に受けて、その応援団になったりすることは、どうでしょうか。私としては、ウクライナに密着するにしても、第三者的・客観的な視点は失いたくないなと、そんな風に思うわけです。

 それから、もう一つ言わせてもらいます。10年ほど前に、ウクライナのある高官が、こんなことを言っていました(大意)。

「ウクライナは、改革が遅れていると、批判される。しかし、我々を、ポーランドのような国と比べてくれるな。ポーランドには、数百年にわたる、国家建設の歴史がある。その土台があるから、民主化や市場経済化もたやすい。それに対し、我々は、改革以前の問題として、国づくりから始めなければならないのだ。言ってみれば、ポーランドは大学生、ウクライナは幼稚園児のようなものであり、比較すること自体が不公平である。」

 まあ、一理あるという気もします。でも、独立国家ウクライナも、もう18歳、成人式。いつまでも「国づくりが大変で」という言い訳は通用しないでしょう。私自身これからは、大人になったウクライナの独自性を最大限尊重するつもりですが、その代わり、ウクライナがいつまでも「赤ちゃん返り」のようなことを続けるのならば、これまで以上に手厳しくこき下ろすつもりです(笑)。


 オマケで、笑い話を一つ。キエフの地下ショッピング街を歩いていたら、CD屋があったので、立ち寄ってみました。この店は、CD以外にも、アナログ盤のLPレコードを結構置いていて。よく見ると、日本製のオビ付きレコードもいくつかありました。

 ご存知ない方のために解説いたしますと、LPレコードに様々な情報や宣伝文句を記したオビを付けて売るのは、日本独自の文化でした。今となっては、オビ付きの日本盤はちょっとしたコレクターズアイテムであり、海外でも珍重されたりするんですよね。キエフでこんなものが売られているということは、こうした商品の国際流通市場があるのかな。

 いずれにしても、キエフのCD屋で、日本語のオビ付きのワム!やスージー・クアトロのLPを目撃するのは、かなりの脱力でした(笑)。「スージーにカッコいいとかイカしているという言葉はもはや必要ない。彼女の存在自体がすでに栄光なのだから!!」とか書いてあるしr(^o^;) 。それにしても、驚いたのはその値段。ワムが450グリブナ(5,000円くらい)、スージー・クアトロが550グリブナ(6,000円くらい)ですからね。普通のCDとかは50グリブナ前後だから、日本製LPはものすごい高級アイテムという扱いです。明らかに、中古版をビニールでパックしてあるだけなのにな。ワムの中古LPなんて、日本のセコハン屋なら500円くらいなんじゃないの。今度キエフに来る時には、安い中古LPを大量に仕入れて持ってこようか。それを10倍の値段で転売して、ウヒヒ……。そんな妄想を抱いた私でした。


 最後に、年末で、なおかつ2000年代というディケードが終わる節目ですので、今後に向けた決意を。

 生活習慣を、根本的に変えようと思っています。このままでは、老いて朽ち果てていくだけで、私の人生、何も成し遂げられないまま終わってしまうことは確実ですので。自分を変えるなら、今しかないという気がします。

 まず、深夜型の生活パターンを改めて、朝型にします。現在は、普通の社会人よりも3時間ほど後ろにずれた生活リズムになっています。だいたい午前3時頃就寝、遅い時にはそれが午前4時とか5時になって、起きるのは9時頃という。低血圧なので、朝起きるのがつらく、どうしてもそうなりがちなのですが。でも、どんな自己啓発本や健康書を読んでも、夜更かしはよくない、早起きをしようと絶対に書いてありますよね。おそらく、この最重要な条件をクリアしないで、他のどんな脳トレやノウハウを実践しても、効果は挙がらないでしょう。というわけで、生活時間帯を少なくとも世間一般並みに戻すか、できればそれよりも前倒しのパターンにして、活動のピークを午前中にもってこようと思っています。

 また、酒をやめることにしました。私は、毎日飲んだり、アルコールに依存したりしているわけではないのですが、いったん飲み始めると、ずるずると長時間飲んでしまう癖がありまして。健康にも良くないし、時間の無駄です。「全か無か」という人間なので、アルコールについては無を選ぶことにしました。タバコも10年前にやめて、それ以来一切吸っていないので、酒もやめられるでしょう。

 以上、オレ・マニフェストでした。別に他人に言う必要もないのですが、対外的に表明した方が実践しやすいと思うので、あえて書きました。

 これにて、本年のエッセイはおしまい。本ホームページをご覧になってくださっている皆様、今年もお世話になりました。どうか良いお年をお迎えください。

(2009年12月29日)

 

Windows7ってロシアではどうなってるの?

 決して新し物好きとは言えないこの私ですが、このほど自宅パソコンのOSをWindows Vistaから7に入れ替えました。7が発売されたのが10月22日で、そんなに早く導入するつもりはなかったのですが、発売から数日後に店頭で眺めていたら欲しくなり、アップグレード版を買っちゃいました。

 やはり、コンピュータ雑誌などで7に関する記事を読んで、Vistaに比べて起動が速く操作が快適だというところに惹かれまして。どちらかというと、Vistaを厄介払いしたいという気持ちの方が強かったかな。さようなら、Vista君、キミとは短い付き合いだったな、ははは。とかなんとか言いながら、モバイルPCはいまだにVista、会社のPCに至ってはXPですが。

 ただ、Vistaから7への引越し、結構大変でした。雑誌を読んでいたら、「Vistaから7へは簡単にアップグレードできる。ソフトやファイルも保持される」って書いてあったから、安心してアップグレード版を買ったんだけど。そこで、欲張って「プロフェッショナル」を選んだのが間違いでした。7には「ホームプレミアム」「プロフェッショナル」「アルティメット」という3つのエディションがあって、その順番に機能がだんだん上がって、値段も高くなっていきます。普通、個人で使うのであれば、「ホームプレミアム」で充分とされています。でも、私の場合、滅多に物を買わない分、購入に踏み切る時には、あらゆる機能や要素を盛り込んだ商品を選ぶクセがあります。たまにラーメン屋に行くと、つい「全部乗せ」を注文してしまうみたいな(笑)。今回も、あとあと後悔したりしないよう、念のために「プロフェッショナル」くらい入れておこうと思ったのですね。

 それで、家に帰って早速7をインストールしようとしたところ、問題が発覚しました。自宅のパソコンはVistaの「ホームペーシック」というエディションだったのですが、何とVistaの「ホームベーシック」から7の「プロフェッショナル」にはアップグレードできないというのです。雑誌に、「下位版へのアップグレードはできない。同等か上位版を選びましょう」と書いてあったから、大丈夫だと信じたんだけどな。Vistaの「ホームベーシック」から7の「アルティメット」にはアップグレードできても、「プロフェッショナル」には駄目なんだそうです。雑誌の記事をよく見たら(下図参照)、確かにそう書いてありました。紛らわしい。ただ、アップグレードはできないものの、新規インストールという形なら可能。だけど、それだと、ソフトやファイルが消えちゃいます。

詳しくは『日経PC21』2009年12月号をご参照ください。

 

 どうしよう。自宅のメイン機はやめて、代わりにモバイルPCを7化しようか。でも、モバイルPCにも、絶対に失いたくないアプリケーションがあるし。それとも、「プロフェッショナル」は諦めて、ヤフオクにでも出すか。それで、「ホームプレミアム」を買い直して……。

 色々思い悩み、ウィンドウズの窓口にも相談してみたところ、新規インストールしても、そんなに実害はないだろうという判断に傾き、所期の目論見どおり、自宅メインPCへの7プロフェッショナル版のインストールを決行することにしました。自宅メインPCは、自分でパッケージを買ってきてインストールしたソフトがほとんどだから、それらは再インストールできるはずだし。ファイル類は、外付けHDDに一時保管しておけばいいし。いざ、インストール開始!

 結論から言うと、Vistaから7への引越しは、無事完了しました。というか、CドライブのOSを書き直しても、Dドライブはそのままなんですね。私は、マイドキュメントの類はDドライブに入れているので、実はそれに関してはバックアップをとる必要すらなかったということのようです。さらに、新規インストールしても、いままでCドライブにあった各種ファイルが、念のために自動的に保存されたりもしているし。結局、今回のOS転換作戦で失ったのは、もともとプリインストールされていた「筆まめ」くらいで(年賀状シーズンを前に痛いことは痛いが)、我がマシンは晴れてWindows7プロフェッショナル64ビット機になりました。

 とまあ、ここまでは、素人のパソコン談義。このホームページのエッセイである以上、話をロシア地域にからめなければなりません。そこで、ロシアではWindows7をめぐる状況はどうなっているだろうかということで、ちょっと情報収集を試みてみました。

 まず、Mヴィデオというロシアの代表的な家電量販チェーンのウェブサイトを見てみたら、ちょっと驚きました。ウェブサイトのパソコン・コーナーには多くの商品が掲載されていますが、そこにはCPU、メモリー、HDDなどのデータはあるものの、肝心のOSの種類が記載されていないのです。Vistaから7への端境期なのに、その情報が明記されていないということは、ロシアではOSの種類が消費者向けの訴求ポイントになっていないのではないかという疑いを抱いてしまいます。

 次に、エルドラドという、これまた有名な家電量販チェーンのサイトを見たら、これにも驚きました。エルドラドの場合には、各商品のOSの種類を明記しています。しかし、このサイトで紹介されているノートパソコン75モデルのOS別内訳を見ると、7が29モデル、Vistaが19モデル、XPが25モデル、Linuxが2モデルとなっています(11月20日現在)。日本ではXPは1年以上前に惜しまれつつも店頭から姿を消したはずですが(安いネットブックとかでは健在のようですが)、ロシアでは完全に「現役」の観があります。

 先日、石丸電気の広告が我が家に届いたのですが、そこに掲載されていた数十種類のパソコンがほぼすべて「Windows7搭載」をうたっており、ロシアとは好対照で非常に印象的でした。つまり、日本では新しい技術や規格などが登場すると、売る側がそれを商機と捉えて拡販のキャンペーンを張り、買う側もイベント的な感覚でそれに喜んで乗っかる傾向があると思うのですよ。それに比べると、ロシアは売る側も買う側ものんびりしているというか、新しいものにこぞって飛び付くということがあまりないように思われます。乗用車のモデルチェンジなんかには、割りと敏感なんですけどね。

 今回、情報を収集してみたら、ロシアのパソコン市場に関してそこそこ面白そうな記事がいくつか見付かったので、近いうちにちゃんとしたレポートにまとめようかと思い立ちました。というわけで、本エッセイでは簡単に終わらせていただきます。

(2009年11月20日)

 

秋田と名古屋、それぞれの闘い

 先月のエッセイで言及した所属団体ウェブサイトのリニューアル作業は、一応10月1日付で新デザインへの移行にこぎ着けました。まだまだやらなければならないことは山ほどありますが、とりあえず一山越えたかなというところです。

 それにしても、前回も書きましたが、Dreamweaver CS4というのは、本当に素人泣かせのアプリケーションです。まあ、Dreamweaverそのものというよりも、それが前提としているCSSという方式が厄介なんですけどね。CSSって、「これこれこういう風にページをデザインしなさい」っていう特別な命令書みたいなものを作成して、それでウェブサイト全体のデザインを制御する方式なんですよね。だから、ちょっとそれを変にいじったりすると、ウェブサイト全体が顔面崩壊のように崩れ落ちるという、恐ろしい代物で。

 ただ、CSSの難しさに加えて、Dreamweaverの操作性だって、相当問題があると思うんだけどな。何がうざいと言って、多くの操作用語が英語になっている点です。たとえば、表のセル同士を結合する方法がどうしても分からなくて、「ヘルプ」で調べても出てこなかったんだけど、結局「セルのマージ」という操作なんですよね。「マージ」って、言われてみれば確かに「融合する」という意味のそんな英単語があったような気もするけど、そんなこと言われても普通はピンと来ないでしょ。アホじゃないかと思いますけどね、このソフトの日本語版を作った連中は。

 こうした諸々の障害を考えると、むろん稚拙なものにすぎませんが、我ながらよく所属団体ウェブサイトのデザイン刷新を一応やり遂げたものだと思います。


 さて、愚痴はさておき、先日、秋田大学で開催された2009年度ロシア・東欧学会大会に参加してきました。私は、1018日の自由論題報告において、「ロシアの対ウクライナ投資の国際政治経済学」と題する報告を行いました。ついでに、夏休みをまだとっていなかったので、学会のあと2日ほど秋田県内にとどまり、休暇を過ごしてきました。

 ロシア・東欧学会には数年前に入会しましたが、自分で発表をするのは今回が初めてです。学会報告することを思い立ったのは、今年の5月くらいでした。実を言うと、当時は我が中日ドラゴンズが低迷しており、「今年の秋はヒマになりそうだな。代わりと言っては何だが、たまには学会で報告でもするか」などと考えて応募してみたのです。ところが、その後、思いのほかドラゴンズが盛り返しまして(笑)。結局、ロシア・東欧学会がクライマックスシリーズ第1ステージとモロに重なるという、悪夢のような事態になったのでした。

 正確に言うと、私は中日ドラゴンズのファンというよりも、落合博満の信奉者です。ですから、支持球団も、ロッテ・オリオンズ〜中日ドラゴンズ〜読売ジャイアンツ〜日本ハム・ファイターズと渡り歩いてきました。そもそも、野球を観ていて落合に惹かれたというよりも、落合という男に興味をもって野球を観始めたくらいで。そして、落合が現役を引退した時点で、私にとっての野球というスポーツは、終わったのです。普通であれば、指導者としての第二の人生にも期待を寄せるところですが、クセの強い落合には監督はおろか、バッティングコーチもまず務まらないだろうと、私は思っていました。ところが、2004年シーズンから中日ドラゴンズを率いることになった落合は、一年目にリーグ優勝を果たしただけでなく、その後も毎年優勝争いを繰り広げています。かくして、なくなったはずの野球というスポーツが、私にとって復活したのです。

 まあ、名古屋ドームでクライマックスシリーズを戦うドラゴンズを、落合の故郷・秋田の地から応援するというのも、一興と言えなくもありません。私としては、ドラゴンズがスワローズを撃破してくれることを信じ、自分の闘い、すなわちロシア・東欧学会における報告に集中することにしました。

 というわけで、「ロシアの対ウクライナ投資の国際政治経済学」です。報告の論文はこちらを、プレゼンテーション資料はこちらをご参照ください。もっとも、1018日に発表を行った際の討論相手は、気心の知れた金野雄五さんだったので、緊迫したやりとりという感じではありませんでした。野球に例えると、せいぜい紅白戦くらいで、クライマックスからは程遠かったです(笑)。

 一方、野球の方のクライマックスシリーズの中継はNHK-BSでやっていたけど、1017日の第1戦(●)は学会の懇親会で観れず、18日の第2戦(○)も関係者の打ち上げに参加したので観れませんでした。19日の第3戦(○)だけ、ホテルの部屋でテレビ観戦できました。観てるだけで疲れてフラフラになるような試合だったけど、何とか勝ってよかった!

 ドラゴンズの第2ステージ進出を見届けた翌日、私は秋田県の内陸部にある角館(かくのだて)という街の観光を楽しみました。角館は、武家屋敷で知られるこじんまりとした古都ですね。中心部だけでなく、レンタサイクルを借りて、抱返り(だきかえり)渓谷という景勝地まで赴き、紅葉を観賞したりもしてきました。

情緒あふれる角館の武家屋敷 抱返り渓谷の紅葉

 

 それで、角館の観光マップを眺めていたところ、思わぬものが目に飛び込んできました。

 

 

 

何と、落合運動公園!

 これは、秋田県出身の落合博満を称えて冠せられた名称に違いない。スタルヒン球場とか、山崎武司球場とか(笑)、そういった類であろう。きっと、落合の銅像とか、記念碑とかもあるだろうな。秋田の地からドラゴンズを応援するという今回の旅のテーマにぴったりのスポットだ。これは、絶対にこの目で見届けなければ!

 というわけで、街の外れにある落合運動公園をめざし、私は自転車をかっ飛ばしました。到着してみると、なるほど、運動公園の中核を成す野球場は、「角館落合球場」となっています。間違いない、これは落合へのトリビュートだ! ただ、あたりを探してみても、落合の銅像とか、記念碑とか、説明書きなどはまったく見当たらなくて……。公園内で清掃をしているおばちゃんがいたので、質問してみることにしました。

 「あのぉ、落合球場ってなってますけど、これって、プロ野球の落合とは関係があるんですか?」

 「いえ、関係ありません。あの落合さんは、秋田市の人なので。ここの『落合』っていうのは、地名だと思います。」

 おいおい、ややこしい名前を付けるなよ(笑)。秋田に「落合球場」があれば、誰だって落合博満がらみだと思うだろ。っていうか、後付けでもいいから、落合博満に乗っかれよ。落合記念館の分館建てるとかさ。みたいな物好きが、年に数人は巡礼に訪れるはずだから。

 でも、本当に地名なのかな? 地図を見ても、落合なんて地名、見当たらないけど。その代わり、球場の近くに「岩瀬」っていう地名があるのは笑うが(地図の右端参照)。

 以上、小話でした。おしまい。

 おい、それで終わる気か? 第2ステージで読売に負けた弁明は? という声が聞こえてきそうですが。うむ、残念ながら、現時点の総合的なチーム力でジャイアンツが上なのは、否定できないな。ただ、第2戦に中4日でチェンを出したのは、作戦ミスだったんじゃないかなあ? 第2戦を捨ててでも、チェンは3戦目以降に万全の状態で出してほしかった。それだけ、2位通過のチームは不利だということです(当然そうあるべきですが)。

20091026日)

 

モギリョフに生まれたユダヤ人がアメリカを祝福

 このホームページは、マイクロソフトのFrontPageというソフトを使って作成しています。このソフト、マイクロソフト商品のくせに全然普及しておらず、機能的にも限界があります。私のつくるウェブサイトが洗練されていないのは、私自身のセンスや技術力もありますが、FrontPageというソフトの問題に起因するところが大きいのです。しかも、昨年秋に自宅に新PCを導入した際に調べてみたら、FrontPageはすでに販売が打ち切られており、ビックリしました。

 それでも、私の場合、いったん会得すると後生大事にそれを使い続けるというクセがありまして(笑)。往生際悪く、新PCにもFrontPage2003をインストールし、の孤塁を守っていたのです。

 でもさすがに、これでいいのかと悩んでいたところ、あるコンピュータのエキスパートから、「最近はみんなDreamweaverだよ」ということを言われまして。なるほどそうなのかということで、今年に入って自宅および職場のPCに、AdobeDreamweaver CS4を導入しました(私の場合、個人のHPだけでなく、所属団体のHPも作成・管理しておりますので)。インストールはしたものの、習得する時間がなくてなかなかDreamweaverに移行できなかったのですが、9月になって多少余裕ができたので、今まさにDreamweaverを勉強している真っ最中で、まずは所属団体のHPをリニューアルすべく作業に没頭しているところです。

 でも、Dreamweaver CS4、とんでもなく難しいです。私は、このご時世、あらゆるコンピュータソフトは誰にでも分かりやすくつくられており、マニュアル本等を読めば簡単に扱えるようになるはずだと信じていました。現に、FrontPageなんかはWordとかの延長上で簡単に習得できたし、だいたいの操作は直感的にできますからね。しかし、Dreamweaverは敷居が高すぎ、素人泣かせです。たとえば、「ページを中央に配置する」といった単純なことでも、きわめて面倒な設定を必要とします。

 FrontPageの場合、「テーマ」というデザインのひな型が色々あり(ダサいものばかりですが)、それに沿ってつくっていけば、一応それなりのホームページが完成するようになっています。当然、Dreamweaverにもそのような機能があり、しかも格好良いテンプレートがふんだんに用意されているだろうと期待していました。ところが、実際にはまったく逆。Dreamweaverでは、作者が一からページをデザインしなければならないのです。思い余って、ヨドバシカメラAkibaの売り場に行き、「Dreamweaverに使えるテンプレート集のようなものは市販されていないのですか?」と店員さんに訊いたところ、「ありません。Dreamweaverは完全にプロ用ですからね。ホームページビルダーになさった方がよいのでは?」だって。

 おいおい、エキスパートさん、素人にプロ用のソフトを薦めないでくれよ(そもそもFrontPageだって同先生の薦めで使っていたのですが (^^;)。でも、もう後には引けないから、Dreamweaver CS4、絶対ものにしますよ。Dreamweaverをかじってみて、今まで自分のやってきたウェブサイトづくりがいかに前時代的なものであったか、痛感しました。何とか、時代に追い付きたいものです。所属団体HPのリニューアルも、おぼろげながら完成図が見えてきたし。これに関しては、キリの良いところで、10月1日新装開店を目指して作業をしています。

 問題は、この個人HP。私としては、個人HPに関しては、これからもFrontPageで行こうかなと思っておりました。というのも、このHPが入居しているのはヤフーのジオシティーズというサービスなのですが、ジオシティーズにはこれまた技術的な制約があり(一斉同期ができず、ファイルを一つ一つアップしなければならないなど)、Dreamweaverでページをつくっても、技術的にしかるべくアップできないのではないかという疑問があるのですね。

 ただ、そうも言っていられなくなりました。最近、自宅PCFrontPageが不調に陥り、ものすごく重くなってしまったのです。FrontPageの操作画面でこのエッセイのページを開くだけで、5分以上かかる始末で。Vistaとの相性が悪いのかな。もう、FrontPageには見切りをつけなければならないのかもしれません。というわけで、所属団体HPリニューアルが一段落したら、マイHPについても考えてみたいと思います。


 さて、前回書いた世界地名事典の話の続きというか、こぼれ話です。

 ベラルーシの地名について記事を書くために、色々と調べ物をしているなかで、びっくり仰天したことがあります。それは、アメリカの大作曲家として知られるアーヴィング・バーリンが、ベラルーシ東部のモギリョフ出身であったという事実です。バーリンと言えば、「White Christmas」などの名曲の作者として知られ、ロシアからの移民であるということは私も漠然と知っておりましたが、よりにもよってベラルーシのモギリョフの出であったとは、思ってもみませんでした。バーリンは、帝政ロシア末期の1888年、モギリョフのユダヤ人家庭に生まれたとのことです。自分で言うのもなんですが、私はベラルーシ事情通であり、もちろんモギリョフにも行ったことがあり、当国におけるユダヤ人問題についてもそれなりに関心を払っているつもりで、他方アメリカ の歴史やエスニシティ問題にも興味があり、しかもポピュラー音楽のファンです。その私が、こんな重要な事実を今まで知らなかったのか、やばいやばいと、恥じ入る他はありませんでした。

 ただ、言い訳をするわけではありませんが、バーリンの生誕地については、現ベラルーシのモギリョフという説とは別に、ロシアのチュメニで生まれたという説もあるようです。多言語ウェブ百科事典のウィキペディアでは、日本語版・英語版・ベラルーシ語版ではモギリョフ生まれとされているのに対し、ロシア語版ではチュメニ生まれになっています。まあ、19世紀も後半になるとユダヤ人たちが現ベラルーシ等の「定住地域」からロシア内地に移住するようになっていたのは事実としても、チュメニのような奥地にまで進出していたというのは、ちょっと一般的なイメージに反することではありますが。このあたりの諸問題については、私も寄稿させていただいた北大スラ研の『講座 スラブ・ユーラシア学 第3巻』に、高尾千津子さんが「内なる境界 ―ロシアユダヤ人の地理空間」という優れた論文を書いていらっしゃるので、よかったら参照してみてください。

 それから、バーリンは5歳の時に家族とともにアメリカに移住しているので、モギリョフで過ごした幼少期の記憶はほとんど残っていなかったようです(だからこそ生誕地も曖昧ということらしい)。したがって、ベラルーシの風土がバーリンの音楽に反映しているということも、まず考えられません。「バーリンが“White Christmas”で懐かしんでいるのは、モギリョフの雪景色かな?」なんて想像してみても、たぶん的外れでしょう。この点は、同じ帝政ロシア末期の現ベラルーシ東部に生れ落ちたユダヤ人でも、マルク・シャガールとはずいぶん事情が異なります。シャガールは、国外亡命後も生まれ故郷のヴィテプスクをこよなく愛し、作品に描き続けましたからね。それにしても、1887年にヴィテプスクでシャガールが生まれ、その翌年の1888年にお隣のモギリョフでバーリンが生まれて……。一体どれだけ20世紀の人類の文化史に貢献してるんだよ、帝政ロシア末期ベラルーシ東部出身のユダヤ人は!  ちなみに、どちらも非常に長生きしましたね。シャガールが1985年没、バーリンが1989年没ということで。

 モギリョフでの幼き日々が音楽家バーリンを形成したわけではないにせよ、彼の人生を変えたのはまさにこの地の情勢でした。実は、バーリン一家はモギリョフ郊外のユダヤ人集落のようなところに住んでいたらしいのですが、1893年にいわゆる「ポグロム」、すなわちスラヴ系住民がユダヤ人を襲撃する事件が当地でも起き、その結果バーリン一家は故郷を後にせざるをえなくなったみたいなんですよね。ある夜、コサックたちが襲ってきて、家々を焼き払ったということです。バーリンがモギリョフ時代で唯一憶えている光景は、道端で毛布にくるまれながら、自分たちの小屋が焼け落ちる様子を眺めているシーンだというのだから、悲惨な話です。着の身着のままで逃げ出した一家は、街から街へ、港から港へと転々とし、ついに自由の国アメリカのニューヨークへとたどり着いたのでした(以上は英語版ウィキペディア の情報にもとづく)。

 まあ、そこからのバーリンの成功物語に関しては、いくらでも情報があると思うので、ここでは書きません。私自身は、古典的な映画やミュージカルのことは不案内なので、バーリンの作品についても本当に「White Christmas」くらいで、他はほとんど知りませんでした。せっかくですので、今回、バーリン作品のCDを1枚取り寄せて鑑賞してみました。いくつか候補が目に止まったなかで、私が選んだのが、「Patti LuPone Sings Arving Berlin」というアルバムで、Hollywood Bowl Orchestraというところが手がけているポピュラー音楽をクラッシック仕立てで演奏するシリーズの一つのようです。ただ、ちょっとチョイスに失敗したかな。曲は一杯入っているし、音楽としての聴き応えはあるんだけれど、歌なしで演奏だけのメドレーが多くて、しかも管弦楽だから主旋律がよく分からないし、バーリン作品のサンプラーとしてはあまり適していなかったようです。

 それで、バーリンの作品リストを眺めていて、認識を新たにさせられたのは、

あの「God Bless America」もバーリンの作詞・作曲だった

という事実です。そう、「アメリカ第2の国歌」とまで言われる、超有名曲。あの、いかにもWASP然としたアメリカ愛国歌を、モギリョフ出身のユダヤ人が書いていたとは。これは、ちょっと、個人的に盲点でした。モギリョフに生まれたユダヤ人が、アメリカを祝福する曲を書く。これって、考えてみれば、20世紀の縮図かもしれないな。そんなことすら、考えさせられました。

God bless America, land that I love
Stand beside her and guide her
Through the night with the light from above
From the mountains To the prairies,
To the ocean white with foam
God bless America, My home sweet home.

 God Bless Americaは、とりわけ9.11事件後のアメリカにおいて、愛国心の象徴となってきた曲です。NFLMLBなどのスポーツイベントでも、頻繁に演奏されるようになりました。2003年のスーパーボールのセレモニーにおけるセリーヌ・ディオンの熱唱などが有名です。ただ、セリーヌ・ディオンはGod Bless Americaの代表的な歌い手ということになっているのですが、実はこの人カナダ人で、しかもフランス語圏の人だったんですね、知らなかった。

 でも、個人的にGod Bless Americaと言えば、スーパーボールで名歌手が歌い上げるような華やかな場面もさることながら、映画「ディア・ハンター」のラストシーンが忘れられません。ベトナムで戦って傷付き、友を失った人々。そのリユニオンのシーンで、ちょっと調子っぱずれの感じで、このアメリカ愛国歌が口ずさまれます。舞台はアメリカ東部のロシア系移民の街であり、くしくもバーリンと同じくロシアを逃れ自由の国にたどり着いた民の物語ということになります。しかし、アメリカの戦争で、真っ先に犠牲になるのは、移民に代表されるこのような下層の人々。そして、ディア・ハンターの主人公たちが、無益な戦いで傷付きながら、God Bless Americaを歌ってしまうというシーンに、この曲の、またアメリカという国の影の部分を感じずにはいられません。9.11後のブッシュの戦争も、そのような沈鬱なシーンを、実際に数多く作り出したのではないでしょうか。

2009年9月12日)

 

ごめんねボリソフ 

 終わった終わった、うれしいな。

 何が終わったかと言うと、世界地名事典の仕事が終わりました。これは、とある出版社が準備を進めている全10巻の事典であり、文字どおり世界の地名を集大成する大事典で、私はそのベラルーシ部分を担当しているのですね。このほど、すべての原稿を、無事出し終わりました。ただ、この仕事のオファーを最初に受けたのは、2003年4月のこと。原稿を出し終えるのに、実に6年もの年月を要したことになります。

 当初は、200312月末原稿締め切り、2004年末から順次刊行予定とされていたのですが……。私に限らず、原稿作成に手こずった執筆者が多かったようでして。出版スケジュールは大幅に遅れている様子で、いまだに第1巻も出ていません。さすがに、当初の企画から5年も6年も経つと、執筆陣のなかには引退したり、亡くなったり、あるいはボケちゃった先生とかもいるんじゃないかな。私のように、担当地域の研究の廃業を宣言しちゃう人もいたりして(笑)。

 この仕事の依頼を受けた2003年と言えば、私はまさに『不思議の国ベラルーシ』の完成に向けて全力を傾け、ベラルーシ熱が最も高まっていた時期でした。編集部から最初に示されたベラルーシの地名の執筆項目は141でしたが、当方は、

「重要なものが抜けている。もっと増やさなければダメだ!」

 みたいなことを主張しまして(笑)。結局、執筆項目は165に増えたのでした (^-^;)

 それで、よほど原稿の集まり具合が悪かったのか、編集部は原稿の提出方式を一括ではなく、五十音順の行ごとに順次提出するという形に変更しました。私はそれにもとづき、まず「ア行」を2004年7月に提出、その後も同10月に「カ行」、同12月に「サ行」、2005年5月に「タ・ナ行」とほぼスケジュールどおりに原稿を出し続けました。

 このように、当初はノリノリで原稿執筆に取り組み、「タ・ナ行」までは順調だったのです。ところが、「ハ行」になって、急につまずいてしまいました。何しろ、ベラルーシの「ハ行」と言えば、バラノヴィチ、ピンスク、ブレスト、ベラルーシ、ベロヴェージ原生林、ボブルイスク、ボリソフ、ポレシエ低地、ポロツクですよ! 事情の分からない方は、「このおっさん、何を色めき立ってるんだ?」と思われるかもしれませんが、要するにベラルーシにとって超重要な地名が目白押しということです。ちなみに、このほどすべての原稿が完成したので、改めて行別の原稿文字数を計算してみたら、下のグラフのようになりました。やはり、ベラルーシでは「ハ行」が突出して多くの労力を要するということがお分かりいただけると思います。

 そんなわけで、2005年の夏頃、最難関の「ハ行」を前に、私はすっかり萎縮してしまいまして。そうこうするうちに、他の仕事がやたら忙しくなり、地名事典の原稿は、ぱたりと止まってしまったのです。『不思議の国ベラルーシ』を上梓したことで、私個人のベラルーシ熱もだいぶ冷めてしまったし……。それに、編集部の原稿取立てが厳しくなかったので(あまりに原稿が揃わないので、編集部も途方に暮れていたのだと思いますが)、私もつい目先の案件を優先してしまい、地名事典は常に後回しになってしまいました。

 長らく編集部から連絡すらなかったので、「ひょっとしたら出版企画自体が頓挫したのか?」とも思いましたが。しかし、今年に入って、改めて編集部から再調整した締め切りが示され、私もこれ以上後ろめたい思いを引きずりたくなかったものですから、ネジを巻き直して、一気に「ハ行」「マ行」「ヤ・ラ行」を完成させたというわけです。これでようやく、肩の荷が下りました 。

 ところで、『不思議の国ベラルーシ』や『歴史の狭間のベラルーシ』を書いた時に、私がめざしたことの一つは、「ベラルーシの主な都市については、何らかの形で1回は登場するようにしたい」ということでした。密かにこのような目標を掲げていたので、正直に言うと、ちょっとわざとらしい形で地方都市の名前を挙げたような箇所もあります。ところが、決め手となる話題がないため、重要都市にもかかわらず、結局1回も言及できなかったところもありました。こうしたことから、世界地名事典は、心残りだったベラルーシの都市や地名について余すところなく語り尽くせるという意味でも、個人的に非常にやり甲斐のある仕事だったわけです。その割には途中でつまづいてしまいましたが、それはこの仕事への思い入れの強さゆえであり、最終的には腕によりをかけて良い原稿を仕上げたつもりです。まあ、いつ日の目を見ることになるのかは分かりませんが、気長に待つことにしましょう。

 さて、重要都市にもかかわらず、拙著では言及できなかった都市の代表例としては、ボリソフ市が挙げられます。いきなりボリソフと言われても、一般の方には分からないはずですので、地名事典の原稿を抜粋する形で、以下そのあらましを紹介します。

ボリソフ Borisov

 ベラルーシ・ミンスク州に所在する同名地区の中心都市。人口は2009年現在15.0万人。ボリソフというのはロシア語読みで、ベラルーシ語読みではバルイサウBarysau。市内をベレジナ川が流れる。

 1102年にポロツクのボリス公により築かれた街とされ、ボリソフという地名も同公に由来する。13世紀から14世紀初頭にかけてボリソフ城が築城され、バルト海〜黒海間の河川交通ににらみを利かす軍事拠点となった(城は18世紀まで存在)。14世紀前半にリトアニア大公国に編入され、1563年にマグデブルク法を受領、それを受け1565年には城砦の上に天国の鍵を携えた使徒ペトロの姿を配した紋章も制定された。16世紀半ばに一時ロシアに占領され、18世紀初頭の北方戦争でもスウェーデン軍およびロシア軍の占領を受けた。

 1793年の第二次ポーランド分割により、帝政ロシアに編入される。1871年に鉄道が開通(モスクワ〜ブレスト鉄道)。ベレジナ川の右岸に鉄道駅が建設されたことに伴い、駅の周辺にノヴォボリソフという新たな集落が形成され、ボリソフとは長大な木造の橋で結ばれた。19世紀末までには工業も発展し、人口は1.5万人に達した。

 1917年のロシア革命を経て、ボリソフはソ連邦ベラルーシ共和国に属し、1938年からミンスク州の直轄都市となった。第二次大戦時にはナチス・ドイツによる過酷な占領を経験したが、当地では地下活動、パルチザン運動がとりわけ盛んであり、占領軍からの解放に少なからず貢献した。戦後には、工業化を軸として目覚しい復興を遂げ、人口も急増する。

 今日のボリソフは、ベラルーシでも指折りの産業都市となっている。なかでもボリソフ自動車トラクター電装品工場(BATE)は、自動車エンジン用のセルモーターを生産している重要企業だ。

 とくに観光資源に恵まれているわけではないが、中心部の街並みはいかにも「メスチェーチコ」(この地域の伝統的な小都市)の趣があり、ベラルーシの原風景を垣間見ることができる。また、ボリソフではロシア正教会の教会堂、カトリックの聖堂とも立派なものが残っており、とくに前者のボスクレセンスキー大聖堂はベラルーシを代表する正教建築のひとつと言える。

 とまあ、こんな具合でありまして。「ボリソフといえばコレ」という決定的な話題はないのですが。逆に言うと、最も典型的なベラルーシの地方都市との感があります。地理的にも、ベラルーシの一番真ん中あたりだし。上にも書いたとおり、正教とカトリックの教会が両方ともちゃんと残っているというのも良いし。私自身、1度だけ、ベラルーシ駐在の一番最後の時期に、ボリソフを訪問したことがあります。記録によれば、それは2001年2月3日のことで、やたらと寒い1日でした。街並みには意外に雰囲気があり、ベラルーシ語に出会う頻度も明らかにミンスクよりも高く、「これこそベラルーシのハートランドではないか」という思いを強くしたものです。その時の写真のフォトギャラリーをご覧ください。

正教会の教会堂

カトリックの聖堂

旧市街の一角

駅前広場

 さて、これまでは「ボリソフといえばコレ」という決定的な話題を欠いていたのですが、最近になって突然それが出来ました。前出のボリソフ自動車トラクター電装品工場(BATE)を母体とするサッカークラブ「BATE」が、何と2008/09年シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ本戦の出場を果たしたのです。もちろん、ベラルーシのチームとしては初の快挙でした。

 サッカーライターの宇都宮徹壱さんは、「(BATEのような欧州辺境のクラブたちにとっては)いずれも1勝どころか、勝ち点1を勝ち取るのさえ難しいミッションだ」とお書きになっておりました。ただ、私自身は、ホームで引き分けるくらいなら、充分に可能ではないかと思っていました。というのも、地名事典にも書いたとおり、ボリソフ=独ソ戦時のパルチザン運動の拠点というイメージが私にはありまして。パルチザン戦というのは、要するにホームの地の利を活かして、負けない戦いをするということですよね(ベトナム戦争でベトナムがアメリカに勝てないまでも負けなかったように)。BATEボリソフも、何か際どい作戦、たとえばピッチに落とし穴を掘るとか(まさか)、なりふり構わないパルチザン戦を展開することによって、勝ち点の1つや2つくらい拾えるのではないかと、私は想像していたのです。

 それで、BATEボリソフはグループステージでH組に入ったのですが、同組はレアル・マドリード(スペイン)、ユベントス(イタリア)、ゼニト・サンクトペテルブルグ(ロシア)、そしてBATEという顔ぶれでした。個人的に、レアル・マドリが同組なのを見て、可笑しくなってしまいました。何しろ、ボリソフという街には、私の知る限り、外国人が泊まれるようなまともなホテルなど、一つもありませんからね。

すわっ、銀河系軍団が野宿か? !

などと妄想してしまったのです。こうしたボリソフの未開なところこそ、最大のホームアドバンテージであり、それを活かして地元で引き分けまくるに違いないと私は期待したのでした。

 それで、結論から言うと、H組はこんな結果に終わりました。BATEは、ホームでは2敗1分け、アウェイでは1敗2分け、合計3敗3分けでした。勝ち点3は期待以上の健闘でしたが、予想外にアウェイの方が好成績でしたね。観てないから分からないけど、多分ホームでは勝ちに行って、裏目に出たんだろうな。落とし穴を掘るまでもなく、意外に堂々と強敵と渡り合ったようです。

 それはさておき、私がガッカリしたのが、BATEがホームゲームを地元ボリソフではなく、首都ミンスクのディナモスタジアムで戦ったことです。どうも、ボリソフのスタジアムが施設としてUEFAの基準を満たしておらず、ミンスクで開催せざるをえなかったみたいなんですよね。それってどうなのよ。施設のダメさ加減も含めて、ホーム&アウェイなんじゃないの。UEFAっていうのは、本当にいけ好かない組織ですな。

 それでもって、2008/09年シーズンのUEFAチャンピオンズリーグは、2009年5月27日にローマでファイナルを迎えました。ご存知のとおり、FCバルセロナがマンチェスターユナイテッドに圧勝し、ヨーロッパ王者に輝きました。バルセロナと言えば、ベラルーシ人MFのアレクサンドル・フレブが所属していますよね。チャンピオンズリーグの決勝で、久し振りにフレブのプレーが観れるかなと思ったけど、先発メンバーにも、ベンチにも、彼の姿はありませんでした。後日調べてみたところ、要するにフレブはバルセロナで出場機会に恵まれず、カップ戦要員に成り果ててしまったようですね。3年前のチャンピオンズリーグ決勝では、アーセナルの主力として勇姿を見せてくれたのになあ。アーセナルのレギュラーよりも、バルセロナの二軍の方が名誉なのかな? 分からんな、ヨーロッパのサッカーというものは。ただ、さすがにバルセロナでの出場機会の少なさにはフレブも不満のようで、今シーズンからドイツのシュトゥットガルトにレンタル移籍しているようです。

 ちなみに、アレクサンドル・フレブも、他ならぬBATEボリソフでプロとしてのキャリアをスタートさせました。だから、2008/09チャンピオンズリーグのグループステージで、BATEがマドリではなくバルサと同組になっていたら、古巣対決が実現していたのですが(もちろん、フレブが試合に出場できたらの話ですが)。

PS 今回のタイトルは、奥村チヨの「ごめんねジロー」のパロディーです。どうせ誰も気付いてくれないだろうから、ネタばらししちゃいます。

(2009年8月23日)

 

ソ連から遅れて来たハードバッパー

 先日、ディスクユニオンお茶の水ジャズ館に立ち寄った時のことです。私の場合、音楽の本筋はソウルミュージックで、定期的にディスクユニオンのお茶の水ソウル館に出向いてCDを買っているのですが、ジャズ館はソウル館のすぐ隣にあるので、一応は興味があるジャズ館もついでに冷やかして帰るというのがパターンになっているのですね。

 

 それで、何の気なしにジャズ館の商品棚を眺めていたところ、次のようなCDが目に留まりました。

 Valery PONOMAREV “Trip to Moscow”

 何だこりゃ。ヴァレーリー・ポノマリョフというのは、明らかにロシア人の名前だな。しかも、作品のタイトルが「モスクワへの旅」と来たか。ロシア人のジャズなんて、どうせロクなもんじゃないだろ。それにしても悪趣味なジャケットだな。こんな変なもの、誰が買うんだ?

 そうだ、オレか!

 というわけで、中古版で安かったということもあり(確か1,500円でした)、騙されたと思って買ってしまいました。ジャズ館で実際に商品を買うのは初めてだけど、まさかこんなゲテモノでデビューするとは。Miles Davis Complete Recordingsとかでデビューしたかったなあ。でも、あまりにもマニアックなアイテムで、店員さんには逆に「通」みたいに思われたかしら(笑)。

 でも、真面目な話をすると、CDの裏に記載されているデータを見て、ちょっとひっかかるところがあったんですよ。これを見ると、ヴァレーリー・ポノマリョフというのはトランペット奏者なのですが、その他のミュージシャンは皆アメリカ人のようで、この作品は1988年にニューヨークでレコーディングされたとあります。1988年……。当時、ソ連ではゴルバチョフが果敢にペレストロイカを進め、東西の冷戦構造も変容し始めていた時期。そんな時代背景のなか、ロシア人と思しきジャズ・トランペッターが、ニューヨークで「モスクワへの旅」と題する作品を録音する。そこには、どんな物語があったのか。とりあえず、自分の耳でこのアルバムを聴いてみようと思ったわけです。

 それで、実際にこの作品を聴いてみたところ、非常にオーソドックスなハードバップで、驚きました。「ロシア民謡をジャズ風にアレンジ?」などと勘ぐっていましたが、実際には音楽にロシア的な要素は一切ありません。80年代の後半にハードバップかよという時代錯誤感は別として、演奏自体は「普通に格好良い」わけです。

 それで、CDのライナーノーツを読んで、ポノマリョフ氏とこの作品のバックグラウンドが分かってきました。ポノマリョフ氏は1943年モスクワ生まれ。アメリカによるソ連向けの宣伝ラジオ放送「ボイス・オブ・アメリカ」でジャズに夢中になったようです。ソ連という国では、ジャズはアングラ的な位置付けの音楽だったのですが、ポノマリョフ氏はその黎明期を支えたあと、1973年にジャズの本場アメリカに亡命。その直後、伝説のドラマー、アート・ブレーキーに見出され、1977年から1980年まではブレイキーの「ジャズ・メッセンジャーズ」に参加。それ以降はソロに転じ、Trip to Moscowはリーダー作としては2作目とのこと。ジャズ・メッセンジャーズの一員だったのなら、ハードバップにこだわるのも納得ですね。

 実はこのように実力派のミュージシャンなので、当然、熱心なジャズファンの間ではそれなりに知られた人物のようです。ネットでざっと検索した限り、この方のブログなどはとても勉強になるので紹介させていただきます。ただし、この方も含め、日本では完全に「ポノマレフ」で通ってしまっているようですね。ロシア語的に正しくは「ポノマリョフ」ですので、よろしく(Gorbachevと書いて「ゴルバチョフ」と読むのと同じパターンです)。

 それで、Trip to Moscowという作品には当時の時代的な背景があったのではないかという私の直感は、正しかったようです。ライナーノーツ等によると、ポノマリョフは、1973年にアメリカに亡命したあと、一度もソ連に足を踏み入れることなく(当時の状況からすれば当たり前ですが)、肉親とも離れ離れになりました。それが、ゴルバチョフのペレストロイカで、東西の壁が崩れ始めたことで、「またモスクワに帰れるかもしれない」という思いがポノマリョフのなかで募っていって、その望郷の念がこの作品をつくるインスピレーションになったみたいなんですよね。その際に、ライナーノーツのなかで本人も言っていますが、近く実現するかもしれないモスクワ再訪への思いを、あくまでも純ジャズ的に表現したというところがミソでして、したがってここにはロシア民謡などは入り込む余地がないわけです。

 アルバムTrip to Moscowには、以下の7曲が収められています。6曲目がスタンダードである以外は、すべてポノマリョフの自作曲で、しかもほとんどの曲が故郷への想いを綴ったものです。

1.SAME PLACE, SAME TIME

2.GETTIN' TO BOLSHOI

3.GORKY PARK

4.TRIP TO MOSCOW

5.FOR YOU ONLY

6.THE BEST THING FOR YOU

7.TELL ME WHEN / SKAZSHI KAGDA

 ちょっと解説しますと、2はもちろん「ボリショイ劇場へ」という意味。3の「ゴーリキー・パーク」というのは、モスクワの後楽園遊園地のようなものだと思ってください。それから、7は、「いつモスクワに行けるのだろうか?」という、モロに帰郷への想いを表現した曲です。同じ意味のロシア語「スカジー・カグダ」がサブタイトルになっていますが、普通はSKAZHI KOGDAと綴ると思うんだけど…。

 個人的には、アップテンポのGORKY PARKとかTRIP TO MOSCOWがとくに好きですね。文句なしに格好良いです。

 さて、その後、ポノマリョフ氏の帰郷の願いは、叶ったのでしょうか? 気になったので、ちょっとネットで調べてみました。結論から言うと、Trip to Moscow発表から2年後に、その夢は実現しました。ポノマリョフは、1990年6月に開催された「第1回モスクワ国際ジャズフェスティバル」に招待され、17年振りの帰郷を果たしたとのことです。ただ、この時点のソ連は、ようやく音楽鎖国から解放されたところ。本場のジャズメンを招いてのジャズフェスティバルは、かなり強烈な異文化遭遇の舞台となったようです。フェス出演直後に、ポノマリョフが『ルースカヤ・ムィスリ』という新聞のインタビューに応じているのを見付けたので、以下、彼の発言の大意をまとめてみます(『ルースカヤ・ムィスリ』というのは「ロシアの思想」という意味で、パリで発行されていた「タミズダート」、つまり亡命ロシア人の新聞ですね)。

 私は当然、Trip to Moscowの演目でモスクワで演奏することを決めた。けど、フェスの主催者側は、私に難しい条件を突きつけてね。私のアンサンブル全員の旅費は払えないというんだ。私が連れて行くことができたのは、スイス出身でアメリカ在住のドラマー、ドゥドゥリーだけだった。メイン・ドラマーのジョーンズは客演中で、ニューヨークにいなかったんだ。残りの3人のメンツについては、ソ連の地元ミュージシャンを起用することになった。ピアノのサディホフ、ベースのソボレフ、テナーのグリゴリエフだ。総じて、彼らの演奏は、とくにベーシストのそれは、悪くはなかったね。

 ただ、こんなこと言ってもしょうがないかもしれないけど……。アメリカのミュージシャンだったら、リハーサルなしでも、すぐに完璧に演れる。でも、ソ連のミュージシャンは、テナー奏者は楽譜が読めないとか、ピアニストは演奏ができないとか、そんな具合だった。事前に楽譜を渡していたにもかかわらずだ。結局、ごく単純なテーマしか演やれなかった。ソ連のミュージシャンには、才能はあるが、プロの腕がない。

 とくに私が参ったのは、一番重要なTrip to Moscowの演奏ができなかったことだ。来るべきモスクワへの旅を思い描いて、特別に書いた曲だったのに。

 こんなことがあった。フェス出演の3日前、我々は気の合った仲間同士でジャムセッションをやっていた。そのなかには、私のTrip to Moscowでテナーを吹いているラルフ・ムアーもいた。彼はレコーディング後、私の曲をまったく演っていなかったのだが、私が急にステージに招いたにもかかわらず、それでも彼は完璧に吹いた。次の日には、サックス奏者のブランフォード・マルサリスをジャムに招いて、私の曲の楽譜を突然渡したのだが、マルサリスは初見にもかかわらず、「ダイアローグ」や、難曲の「Trip to Moscow」を、完璧に吹いたのだ。

 でも、マルサリスの演奏のあと、何を思ったか、ソ連のミュージシャンたちのタガが外れてしまってね。彼らはオレもオレもという感じでステージに上がり、自らの「天才振り」を誇示し始めた。それでもう、音楽は台無しさ。

 こうした体験から、ポノマリョフは次のように結論付けています。

 私はロシア人で、これからもずっとそうだ。でも、モスクワ訪問後、ソ連でミュージシャンとして生きるのはきわめて難しく、不可能でさえあるということを悟った。彼の地では、共通の言葉で話せるミュージシャンがあまりにも少なく、プロのジャズミュージシャンがやっていくのは無理だ。

 とまあ、ポノマリョフにとっては夢にまで見た初のモスクワ凱旋公演だったわけですが、それは少々ほろ苦いものだったようです。

 さて、その後のポノマリョフはどうなったのでしょうか。実は、今でも元気に活動しており、1996年からは定期的にロシアで演奏ツアーを行っているとのこと。今年も、ビッグバンドを引き連れて、秋にロシアツアーを敢行するのだとか。まあ、新生ロシアの時代になって、ロシア国民のジャズ偏差値も多少は上がったし、何よりも裕福になりましたからね。モスクワ出身のポノマリョフにとってロシアは、今やうまみのある営業先ということなのかもしれません。最新の演奏を聴いたわけではないので、何とも言えませんが、もし仮にかつてのハードバッパーが、ビッグバンドで営業ジャズを演っているとしたら、ちょっと寂しいことではあります。

 そんなこんなで、店頭で偶然見付けた1枚のCDから、米ソ/米ロ関係、文化交流史の1つのサイドストーリーを知ることができました。

(2009年7月20日)

 

それでもボクはやってない(in アディゲ共和国)

 先月のエッセイの続きです。2月にロシア南部のクラスノダルを訪問した機会に、隣接するアディゲ共和国も日帰りで視察してみることにしました。クラスノダルから、アディゲ共和国の首都マイコプへと、車で向かいました。2月22日日曜日のことです。

 私自身はまったく不案内な分野なんですが、北コーカサスには狭いエリアに多様な民族がひしめいています。そのなかで、広義の「アディゲ人」(アゲィゲ諸民族)という民族グループがあり、狭義の「アディゲ人」はその一つという位置付けになっています。民族的には狭義の「アディゲ人」とほとんど同じながら、カラチャイ・チェルケス共和国に住む人々は「チェルケス人」、カバルディノ・バルカル共和国に住む人々は「カバルダ人」と呼ばれています。1つの民族にまとまってもおかしくなかったものの、ソ連時代の1920年代にこれら3民族の自治単位がそれぞれ設けられたことによって、その区分が固定化したということのようです。

 そのなかで、狭義のアディゲ人の自治単位であるアディゲ自治州が、1922年7月に設置されました。よりステータスの高い「共和国」という名称になったのは、ソ連時代末期のこと。ただ、アディゲ共和国の最新の人口は44万人にすぎず、しかもそのなかでアディゲ人は完全な少数派です。2002年時点の民族構成を見ると、ロシア人64.5%、アディゲ人24.2%、アルメニア人3.4%、ウクライナ人2.0%などとなっております。

 人口が少なく、しかも基幹民族が少数派というのは、実はロシアの民族共和国にはありがちなパターンで、別に特異というわけではありません。しかし、アディゲ共和国には、一つ特徴的な点があります。それは、先月掲載の地図を見ていただいてもお分かりのとおり、アディゲ共和国の領土が、クラスノダル地方に完全に包囲されているという事実です。ロシア当局は近年、「自治管区」と呼ばれる民族自治単位については廃止し、上位の地域がそれを吸収、もって地域の数を削減するという政策を推進してきました。現在のところ廃止されているのは「自治管区」だけですが、もしも今後「共和国」も合併政策の対象になるようなことがあれば、真っ先に廃止の憂き目に会うのがアディゲ共和国ではないかと思われます。そうなった場合、やはり私の訪問実績地域も、一つ減らしてカウントしなければいけないんでしょうかね?(笑)

 とまあ、ゴチャゴチャと細かい話はさておき、私にとっての初めてのロシアの民族自治体への訪問、エキゾチックツアーのスタートです。

 先月も書いたとおり、クラスノダル市から川を越えると、すぐにアディゲ共和国の領土になります。運転手のセルゲイが、「ほら、あそこでアディゲ人が食べ物を売っている」と教えてくれましたが、幹線道路を猛スピードで走っているので、すぐに視界から消えてしまいます。写真を撮りたいけど、まあいいや、アディゲ人の姿なんて、これからいくらでも拝めるはずだから(と、その時は思った)。

 そんなわけで、アディゲ共和国の首都マイコプ市に到着しました。人口は15万人。このあたりは石油が採れるので、独ソ戦の際にナチス・ドイツがその資源をめざして占領したということで知られており、第二次大戦の戦史には必ず登場する地名ですね。アディゲ共和国全体もそうですが、首都マイコプ市もアディゲ人は16.7%と少数派で、圧倒的に多いのは72.6%のロシア人です。街の雰囲気も、何の変哲もないロシアの田舎町といった感じでした。

 とはいえ、市場に行けば、アディゲ人が産物を売っていたり、この土地特有の風土的な何かを感じ取れるのではないか。そのように期待して、街に着いてまず最初に、食料品の市場に行ってみました。しかし、まったくの期待外れでした。市場の売り子たちは明らかにロシア系だし、物珍しい食べ物なんかを売っているわけでもないし。ロシアのどこの街にもある普通の市場なので、早々に退散しました。

ありきたりなマイコプの街並み 普通のロシアの市場と変わりなし

 次に、今回の出張の目的はあくまでも経済の調査なので、マイコプの経済のイメージを少しでも掴みたいということで、「トチマシ」という工場のところに行ってみることにしました。この工場に特別に興味があったというわけではなく、事前にマイコプの地図を買ってチェックしたところ、地図に記載されていた企業は同社だけだったのですね。日曜日なので、操業しているとも思えませんが、工場の外観だけでも眺めて、雰囲気を感じ取ろうとしたわけです。

トチマシ社の看板(私は写真を消去させられたけど、

同行した大学の先生は消さずに済んだので、

後日、ご提供いただきました)

 ただ、「トチマシ」という会社名は、あまり筋が良くありません。「トチマシ」というのは「精密機械」という意味で、これは旧ソ連ではほぼ確実に軍需企業であることを意味します。まあ、今となっては、こんな田舎にそれほど先端的な企業があるとは思えませんが、いずれにしても現在もある程度のセキュリティ体制をとっていることも考えられます。ロシアでは、こういうところで写真を撮ろうとすると、どこからともなく警備員が現れて、厳しく咎められるというのがお決まりのパターンです。

 というわけで我々は、敷地の外からトチマシの工場を眺め、写真を撮りたいと思ったものの、いざとなったらすぐに引き返してその場を立ち去る心積もりでした。カメラを構えながら、慎重に、トチマシ社の入口に近付いていくと……。そしたら、悪い予感が的中! 入口近くにある管理棟の窓から人が身を乗り出し、当方を睨んで何やら叫んでいるではありませんか! こりゃまずいということで、ゴメンゴメンという感じのジェスチャーをし、すぐに引き返して、道路脇で待たせていた車に乗ってその場を後にしました。

 いやあ、ちょっとまずかったなあ、やれやれと思いながら、車で次の目的地に向かっていたところ、もう工場からはかなり離れた場所だったのですが、不意に交通警察が我々の行く手を遮りました。驚いたことに、先方は「お前たちは工場の写真を撮っただろう。あの工場は撮影禁止だ」と、のたまわっています。そんなバカな! 完全に逃げ切ったはずなのに、何でこんなところで捕まるんだ?! さすがにビックリしましたが、どうも工場のセキュリティから警察に通報が入って、非常線が張られていたみたいなんですよね。

 私などは、常日頃、経済面でロシアという国と付き合っていて、ロシア内部の連携の悪さを目の当たりにしているので、今回我々の身柄を確保した手際の良さには驚かされました。情報が工場から即座に警察に伝わり、しかもそれを受けてすぐに交通警察が非常線を張るとは。工場の管理棟から車が見えたとは思えないが、どうやって我々を識別したのか。この国、ことセキュリティに関しては、一流なのか……。

 いずれにしても、ばかばかしいよな。工場の敷地に侵入したのならともかく、当方は天下の往来から、工場の外観、つまり誰からも丸見えな風景を撮影していたわけで。我々素人の写真撮影を咎めている暇があったら、グーグルの本社に爆弾でも仕掛けろってんだ。しかも、日本に帰ってから調べてみて、愕然。このトチマシって会社、昔は軍需製品とか作っていたのかもしれないけど、今では家具とか、遊具(!)のメーカーじゃないですか。ホームページで、工場内部の生産の様子とかも、普通に公開しているしさ。それなのに、外から工場の写真を撮っただけで捕まえるなんて、ひ、ひどい、ひどすぎる。

 それで、最初は交通警察の警官がその場で当方から事情を訊き、デジカメから工場の画像を消去したら放免してやるという話だったので、もちろん当方はそれに応じました。しかし、各方面と無線で連絡を取り合っているうちに、どうもそれだけでは済まないということになり、ついには(交通警察ではない)一般警官が現れ、「署までご同行願う」ということになってしまったのです。

 以前、モスクワの地下道でタバコを吸っていたところ、警官に捕まって詰め所に連れて行かれ、小額の罰金をとられたことがありましたが……。そんな小さな失敗はあったにせよ、入社20年目にして、ついに本格的にロシアの警察のお世話になろうとは! とくに恐怖感とかはありませんでしたが、ああ面倒臭いことになった、痛恨の極みだと、やりきれない気持ちで一杯でした。

 それで、連れて行かれた警察署(ロシア語で「ジェジュールナヤ・チャースチ」という詰め所のようなところ)は、外国人の感覚から言うとやはり薄汚いところで、人相の悪い人も含め、色んな人がせわしなく出入りする不快な場所でした。別に手錠をかけられているわけでもないので、いっそ逃げようかとも思いましたが(笑)、パスポートをとられているので、そういうわけにもいきません。

 我々の件について、警官同士でああでもないこうでもないと話をしている様子で、一人の女性警官が、「トチマシは軍需製品を生産しているんだから、写真禁止に決まってるでしょ」みたいなことを言っていたと思います。結局、件の工場の写真を撮ってはいけないという明確な法的根拠なんて、ないんじゃないの? 「戦略的に重要な施設の写真撮影を禁ずる」という法律はあると思いますが、トチマシという会社がそれに該当することを明確に示した文書などどこにもなく、単に軍需製品を昔作っていたから(最近はベッドとかブランコだけど)今も重要企業に違いないと関係者が思い込んでいるだけという。違いまっか?

 まあ、しょうがないから、取り調べに応じましたよ。ただ、終わったと思ったらまた次の捜査官が出てくるという繰り返しで、同じ説明を何度もさせられたのには閉口しました。おそらく、ロシアの治安機関の縦割り構造によるもので、所属の異なる捜査官がそれぞれ独自に取り調べをしたということなのだと思います。個人的に、1日にあんなにいっぱいロシア語をしゃべったのは、初めてだったかもしれません。最初は、同じような尋問をわざと何度も繰り返すという嫌がらせなのかな(つまり、放免の見返りとして賄賂を求めているのかな)とも思いましたが、どうもそうではなく、先方は真面目に取り調べをしているようでした。

 最後には、真打登場とばかりに、有名機関の捜査官が出てきました。差し障りがあるので具体名は挙げませんが、泣く子も黙る旧ホニャララ委員会、現F局とでも言っておきましょうか(笑)。それで、そのF局の捜査官、ミラトという名前だったんですが、彼の尋問を受けていた時のこと。ミラトの携帯電話が鳴り、電話をとった彼は、急に聞いたこともない言語を話し始めたのです。おお、これが初めて聞くアディゲ語、ついに訪れたアディゲ人との遭遇の瞬間!と、自分のやばい状況も忘れてつい色めき立ってしまったのです。思わず、当方より逆尋問。「あのぉ、失礼ですが、貴方は民族的に言うとアディゲ人ですか?」 ところが、「いや、オレはアディゲ人じゃない。カバルダ人だ。」

 何だ、違うのか、ガッカリ(笑)。まあ、冒頭で説明したとおり、カバルダ人は狭義のアディゲ人と民族的に大差なく、広義のアディゲ人と言えなくもないのですが。ミラトの場合、カバルディノ・バルカル共和国のナリチク出身らしいので、そうであれば当然「カバルダ人」ということになるのでしょう。F局はエリートだから、転勤族で、当地に派遣されてきたのかな?

 そんな、まさかの逆取材も織り交ぜつつ、当方は必死に、我々の目的が日本とロシアとの貿易投資関係の促進という真摯なものであり、その一環としてアディゲ共和国を訪問して視察・調査をしているのだと弁明しました。それが実って、最終的には、確かに貴方たちは怪しい人間ではなく、真っ当な目的で当地に来られたのであろうということを理解してもらえました。一応、調書を作成し、それでようやく放免ということになりました。

 それで、一件落着後にミラトいわく、マイコプに来るのだったら、最初から公式に連絡してくれればよかったんだ、街には写真に撮ってよいところもあれば、悪いところもある、また間違って機微な施設の写真を撮ったりしないように、オレが街を案内してやろう、とのこと。というわけで、F局職員の案内で街を視察するという、思わぬ展開になりました。もちろん、ミラトの側は、親切で案内を申し出たというよりは、我々を監視するのが目的だったのかもしれませんが。いずれにせよ、いやぁ、そこからの視察のスムーズだったこと(笑)。街の隅から隅まで知っているし、葵の御紋のごとくF局の手帳を見せればどこでもフリーパスだし。結局、警察署で2〜3時間足止めをくったにもかかわらず、ミラトの案内のお陰で、視察の目的はほぼ完全に達することができました 。

マイコプ市内のロシア正教会 イスラム教のモスク

ロシア民族とアディゲ民族の

永遠の友情を誓う記念碑

 私が地元の料理を食べてみたいと言ったものだから、ミラトは我々をマイコプ市郊外のレストランにも連れて行ってくれました。まあ、料理自体はアディゲ特有というよりは、シャシリク(串焼き)を中心としたよくあるコーカサス料理という感じだったけど、不思議な異国情緒はたっぷりと味わうことができました。でも、公務員倫理ということなのか、勘定は完全な割り勘でしたね。

地元料理を食べさせる店

怪しげなマダムが経営

食べたのは羊のシャシリク

(ミラトはムスリムなので豚肉は食べないとのこと)

 我々はミラトの案内でアディゲ共和国の奥地へとさらに足を延ばし、アディゲ民族のちょっとしたテーマパーク的なところ、それから渓谷を利用した自然公園のようなところにも行ってみました。下の写真は、テーマパークでなぜか豚に熱い視線を送るミラトです。現役のF局の捜査官が、日本人のウェブサイトに顔出しで登場していいのか? 出世に響くといけないので、目だけでも隠してあげましょう(笑)。

アディゲ民族の伝統・文化を紹介 敏腕捜査官M

渓谷の自然公園

日本ではありがちな風景だけど、ロシアでは貴重

 でも、テーマパークも、自然公園も、それなりに面白かったものの、売店の店員なんかはロシア人ばかりでしたね。「この付近の住民は何人か?」って訊いても、「ロシア人」って言うし。作り物のテーマパークとかじゃなく、普通のアディゲ人の住んでいる村みたいなところに行ってみたかったのが本音です。結局、アディゲ人というのがどこに住んでるどういう人達なのかっていうのは、最後までよく分からなかったなあ。

 マイコプ市に戻って、私がミラトにお願いした最後のリクエストは、「アディゲ民謡のCDを買いたい」というもの。そしたら、 日曜日の夕方だから店とかは閉まってたんだけど、市内にあるアディゲ民族文化展示場のようなところに連れて行ってくれました。ここは必ずしも品物の販売はしていないものの、事情を聞いた女性の支配人が、アディゲ人アーティストのCDを1枚プレゼントしてくれました。アスラン・トレブズというアディゲ人アーティストの「Gortsy」という作品です。

 それでこのCD、帰国してから聴いてみたところ、残念ながらそれほど心動かされませんでした。「Gortsy」、日本語で言うと「山の民」というタイトルが示すように、コーカサス系民族としての矜持を表現した作品には違いないのでしょうけれど。まず、全12曲なのですが、ほとんどの曲がインストルメンタルで(トレブズ氏はアコーデオン演奏が本職らしい)、期待していたアディゲ語がなかなか出てきません。演奏も、確かにコーカサス的と思えるモチーフにもとづいているものの、シンセだかテクノだかハウスだか、何だかよく分からない現代風の味付けがしてあって、外国人が聴いて面白いものじゃありませんね。一例として、アルバム冒頭の「Tanets Dzhigita(ジギトの踊り)」をお聴きください。ずっと同じようなインスト曲が続き、ようやく11曲目で、ボーカルものが登場。「Adygeya plyus(アディゲ・プラス)」というタイトルからも、意欲作ではないかという期待が高まります。しかし、言語はロシア語であり(歌詞はよく聞き取れません)、ちょっとがっかり。最後の最後、12曲目の「Rikh'aniya(リヒアニヤ)」で、初めてアディゲ語と思しき歌が披露されます。まあ、話の種に、ちょっと聴いてみてください。

アスラン・トレブズのCDジャケ写

イケメン?

アディゲ民族文化展示場のようなところ

左の細長いのがアディゲ・チーズ

右の丸いのはクラスノダル地方産の普通のチーズ

 そんなこんなで、波乱に満ちたアディゲ共和国訪問も終わりの時を迎え、我々はミラトに別れを告げてクラスノダルへの帰途に就きました。その道中、運転手のセルゲイが、「アディゲ・チーズという特徴的なチーズがあるんだ」という耳寄り情報を教えてくれました。クラスノダル市内の大型スーパーで探してみたところ、アディゲ共和国産のチーズを見付けたので、それを買って自分へのお土産として日本に持ち帰りました。確かに、非常に個性的なチーズでしたね。塩味のきついチーズを、縄状にひねって、それを燻製したものでした。何だか、荒縄を食っているような感じでしたが(笑)。

 2月の出張のネタで、4ヵ月も引っ張っちゃいました。以上、おしまい。

(2009年6月25日)

エキゾチック・クバン

 遅くなりましたが、2月のヤロスラヴリ〜モスクワ〜クラスノダル出張に関するレポートの後半クラスノダル編です。

 クラスノダル市を中心とするクラスノダル地方のことを、旧国名で「クバン(Кубань)」と呼びます。正確に言うと、歴史的な「クバン」は今日のクラスノダル地方だけでなく、アディゲ共和国、カラチャイ・チェルケス共和国、さらにスタヴロポリ地方およびロストフ州の一部も含むようです。ちょっと分かりにくいと思いますが、右のロシア南部の地図をご参照ください。しかし、現代において「クバン」は、ほぼクラスノダル地方の別名として使われていると考えていいでしょう。日本語版のウィキペディアにも、「クバーニ」という名前で記事が出ていますので、よかったら参照してみてください。でも、このウィキペディアの記事、明らかに、ウクライナ贔屓の日本人が、ウクライナ語版のウィキペディアを参照して書いたものですね。そういうニュアンスは、考慮した方がいいと思います。

 それで、改めて思ったんですけど、わたくし、ロシアの専門家でありながら、行ったことのあるロシアの地域が少なすぎます。2009年5月現在、ロシア連邦は全国83の地域(「州」「地方」「共和国」など)から構成されているんですが、自分の行った地域を数えてみたら、今回の2月の出張でようやく17地域に達したにすぎませんでした。いやあ、こんなことじゃ、駄目ですね。

 とくに、ロシアの南部を訪問するのは、今回のクラスノダル出張が初めての機会でした。クラスノダルは、ロシア史において異彩を放つコサックの故地であるだけに、ロシアの別の一面を見られるのではないかと、期待が高まります。しかも、事前にクラスノダル市の地図を買って眺めていたら、面白いことに気付きました。クラスノダル市の市街に、クバン川という川が流れているんですが(「クバン」という地名もこの川から来ている)、クバン川の対岸はもう、アディゲ共和国の領土だということが分かったのです。アディゲ共和国というのは、アディゲ人という少数民族の自治のために設けられている民族共和国です。実は、わたくしこれまで、ロシアの民族地域に足を踏み入れたことがなかったんですよね(極東のユダヤ自治州には行ったことがありますが、よく知られているとおり、ユダヤ自治州というのは人為的に設置された、ユダヤ人が2%しかいないインチキ自治州ですから、それは勘定に入れていません)。クバン川の橋を渡れば、簡単にもう一つの地域、しかも民族共和国を訪問できるのか。ラッキー!

 そんなわけで、期待に胸を躍らせクラスノダル空港に降り立ったところ、空港で拾ったタクシーの運転手が、明らかに非ロシア人の顔立ちで、すわ、早くもアディゲ人との遭遇か、と色めき立ったのです。もっとも、運転手に訊いてみると、アルメニア人だということでした。彼いわく、クラスノダル地方の住民の実に20%がアルメニア人なのだとか。いきなりのエスニック体験にすっかり嬉しくなってしまい、「Oh、エキゾチック・クバン!」などと心躍る私なのでした。ただ、20%がアルメニア人というのはガセだったようで、後で調べたところ、2002年時点でのクラスノダル地方の民族構成は、ロシア人:82.3%、アルメニア人:5.4%、ウクライナ人2.6%などとなっており、アディゲ人は0.3%しかいないようです。

 クラスノダル地方行政府の庁舎の前には、お決まりのレーニン像ではなく、写真に見るようなコサックの銅像が立っています。とうに社会主義を放棄したはずのロシアですが、今日でも地方都市の中心広場にはレーニン像と相場が決まっており、レーニン像が撤去されているところはモスクワとクラスノダルくらいしかないそうです。これは、ロシア地方経験の豊富な当会モスクワ事務所長が言っていたので、たぶんそうなのでしょう。

クバン・コサックに捧げる

クラスノダル市の目抜き通り

 ちなみに、私どもの所長は、ロシア83地域のうち、50以上を訪問したそうです。しかし、ここまで来ると、残っているのは辺鄙なところばかりで、なかなか増えないのだとか。まあ、アメリカの50州を全部踏破した人ならそこそこいると思うんですけど、ロシア83地域をすべて制覇するというのは、かなりしんどい目標ですね。当のロシア人でも、達成した人はいるんでしょうか? プーチン大統領/首相ですら、全部回ったかどうか、怪しいような気がします。増してや、私のようなフットワークの重い外国人となると、引退するまでに半分行くのもおぼつかないでしょうな。

 さて、再三「コサック」と言っておりますが、私もとくに知識があるわけではないので、詳しい説明は省かせていただきます。まあ、簡単に言えば、ロシア南部の辺境にいた屯田兵のような人々が、民族的にはロシア系なのだけれど、皇帝への反乱などを繰り返すうちに独自の自意識を備えるようになり、場合によっては固有の民族になりえたかもしれず、結局ロシアに取り込まれたものの、今でも特有のアイデンティティや文化を保持していると、そんなところでしょうか。コサックにはいくつかの流れがあり、当地のそれは「クバン・コサック」と呼ばれているもので、中心部の銅像も「クバン・コサックに捧げる」と銘打たれています。

 新生ロシアでも、コサックは政治・軍事体制のなかに公式に組み込まれており、クレムリンからも一目置かれた存在になっています。今回、クラスノダルの街を歩いていたら、その筋と思しき老人とすれ違い、土地柄を実感しました。また、劇場の壁に「軍付属クバン・コサック合唱団(1811年創立)」という大看板が掲げられているのも目に留まりました。我々がロシアの文化として理解している民族舞踊・音楽は、かなりの部分このコサック文化なわけですね。ただ、劇場のチケット売り場に行ってコサック合唱団のスケジュールを見てみたら、他の街に客演に行っているのか、我々の滞在期間には出し物がありませんでした。私自身、コサックダンスとかが特別に好きなわけではありませんが、生で観たらかなりの大迫力だったはずで、残念でした。

コサック爺さん? 銃刀法とかはないのか?

コサック合唱団の劇場

 あと、本屋なんかに行っても、クバン地方やコサックの歴史をはじめ、地元に関する本が山のようにありました。こういうのは、豊かな歴史や文化を感じさせてくれるので、嬉しいですね。ただ、博物館(フェリツィン記念歴史・建築博物館)は、急いで見たのと、やや総花的すぎて、あまり印象に残っていないかな。

クバン本がいっぱい

フェリツィン記念歴史・建築博物館

 日本人が旅行で楽しみにしているものといえば、何といっても食事ですよね。しかし、ロシアでは、あまり多くを期待できません。まあ、単なるロシア料理でよければ店もあるけれど、地域色の豊かなご当地料理みたいなものがないんですよね。その点、クバンはどうでしょうか? 今回、クラスノダルでガイドブックを買って物色したところ、「カザーチー・フートル(コサックの村)」というレストランを見付けました (《Казачий хутор》, 132 ул. Сормовская, TEL232-9955)。ちょっと街の中心から外れた不便なところにあったのですが、せっかくなので行ってみました。なるほど、店の雰囲気といい、料理といい、コサックらしさを感じさせてくれ、楽しめました(大音量で軽薄な音楽が流れていたのは、いただけませんが)。料理もそうですが、ご当地の赤ワインが良かったですね。クラスノダル地方にはタマニという葡萄産地があって、そこには「シャトー・タマーニュ」というワイナリーがあるので、そこのメルローを飲んでみました。ちなみに、別の日に試した白ワインも、なかなかでしたよ。

カザーチー・フートルの外観

クバン風焼き肉と、付け合わせのクバン・ライス

 

シャトー・タマーニュの赤

 

グランド・ヴォストーク社の白

 クラスノダル地方はロシアを代表する大穀倉地帯で、その農業生産高は2007年現在ロシア全体の7.0%を占めています(全国1位)。郊外などを車で走っていると、真っ黒な農地が印象的で(肥沃な黒土地帯ということ)、本当に豊かな農業地域だなということを実感しました。しかし、我々は今回、車に乗ってノヴォロシースクという黒海沿岸の港湾都市の視察に出かけたのですが、黒海に近付くにつれ山道となり、土壌も砂や岩の多い荒地に変わっていくのが興味深かったですね。

 クラスノダル地方の黒海沿岸は、山が海のすぐ近くまで迫っていて、風光明媚な観光地やリゾート地がいっぱいあります。2014年の冬季オリンピックが開かれるソチも、そうしたリゾートの一つです。ロシアは基本的に大平原の国ですから、海も山もロシア人にとっては非常に貴重で、それが一緒に楽しめる黒海沿岸はまさにパラダイスなわけですね。ロシアの『エクスペルト』という経済週刊誌が、ロシア各地域の投資ポテンシャルのランキングを毎年制定しているのですが、クラスノダル地方は観光部門で不動の1位となっています。しかし、これはあくまでもロシア人にとってのリゾート地としての価値という側面が強く、外国人にとっても魅力たっぷりなのかというのは、やや微妙かもしれません(とくに日本人のように海や山に恵まれた国民にとっては)。

ロシア最大の港湾、ノヴォロシースク港

クバン川の夕暮れ 対岸はアディゲ共和国

 さて、クラスノダル市内での仕事が終わった夕刻、私はクバン川のほとりに行ってみました。すでに述べたとおり、川の向こうはもう、アディゲ共和国です。クバン川に沈む美しい夕陽を見ながら、私は翌々日のアディゲ訪問への期待を膨らめました。実は、そのアディゲ訪問でかなり大変な目に会うのですが(笑)、話が長くなるので、続きはまた来月のエッセイで。

(2009年5月25日)

 

タイムスリップ

 前回の続きで、クラスノダル訪問記を書くつもりでしたが、ちょっと気が変わりました。

 私事で恐縮ですが、私は1989年3月に大学を卒業し、4月に今の職場に入社したので、ちょうど20年の節目を迎えたことになります。さすがに、ある種の感傷を覚えずにはいられません。もう20年経っちゃったのか、この20年の自分はどうだったんだろう、そして20年後にはどうなっているのかと、色々考えさせられます。

 1989年というのは、平成元年ですので、私の場合、勤続年数を数えやすいのですね。1989年=平成元年といえば、バブル景気の真っ盛りでした。私のように、一切就職活動をしなかった学生にも、大手都市銀行の採用担当者から電話がかかってきて、「頼むからうちの銀行に入ってくれないか」と懇願された、そんな幸せすぎる時代でした。ちなみに、最近私が観た映画で一番笑ったのは、「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」というやつで、まさにあの時代の狂乱振りを面白おかしく描いた作品です。何しろ、ホイチョイ・プロダクションズの映画なので、内容だけでなく、作風自体があの時代を思わせる懐かしいものでね。あ〜あ、もう一回、バブル来ないかなあ。来るわけないか(笑)。

 ところで、昨年の11月に出張でモスクワに出かけた時、強烈にノスタルジアにかられる出来事がありました。地下鉄で、モスクワの南部に向かっていた時のこと。地下鉄が地下から出て地上を走り始めたので、窓から景色を眺めていると、アフトフラモス社の工場が目に飛び込んで来ました。アフトフラモスがここにあるということは、ここは旧アゼルカ工場か。私は、地下鉄を途中下車して、辺りを散策してみることにしました。

モスクヴィチ2141

 アゼルカとかアフトフラモスとか言われても、一般の方には何のことか分からないでしょう。アゼルカというのは、ソ連時代の有名な自動車工場で、「モスクヴィチ(モスクワっ子)」というブランドの乗用車を生産していました。しかし、社会主義時代から品質面での評判が悪く、ロシアが市場経済化すると外国車との競争にあっさりと敗れ、数年前に倒産してしまったのです。そうしたなか、1998年に仏ルノーがモスクワ市と合弁企業「アフトフラモス」を設立し、アゼルカ工場の遊休施設を使ってルノー車の生産を開始したのでした。最近では低価格戦略車ロガンがここで生産されています。

 それで、私がなぜにアゼルカ工場に郷愁を覚えるかというと。あれは、私が今の職場に入社して1年後の1990年4月のことでした。当会の主催で、モスクワのエクスポセンターにおいて、「モスクワ日本自動車産業展」という見本市が開催され、私も事務局の一員として1ヵ月ほど現地で働きました。その際に、日本のビジネスマンの皆さんを引率して、モスクワにある2つの自動車工場、すなわち乗用車メーカーの「アゼルカ」と、トラックメーカーの「ZIL(リハチョフ記念工場)」を見学に訪れる機会があったのです(新米だったので、それくらいしかできる仕事がなかったのですが)。両工場を、2度ずつ訪問しました。今から思えば、初めての海外出張で、随分貴重な経験をさせていただいたものです。

 1990年4月の1ヵ月間が、私が「ソ連」という国を直に体験できた唯一の機会となりました。当時私はカメラをもっていなかったので、下に掲げる写真は社の先輩が撮ってくれたもの(左)と、同僚のカメラを借りて私が撮影したもの(右)です。

見本市は大盛況でした。

ペレストロイカの当時、確か『モスクワ・ニュース』紙の

編集部の前で、市民が政治問題を熱く論議している

光景があり、それを写したものです。

 その後、モスクワを訪れる機会は何度もあったものの、開店休業状態のアゼルカ工場に行く理由などあるはずもなく。しかも、モスクワの南の方って、あまり行かないんですよね。それで、長らくアゼルカ工場の界隈には出向く機会もなかったわけですが。ところが、昨年の11月にモスクワの南にあるショッピングセンターを視察しに行こうと思い立って、地下鉄に乗っていたら、突然、旧アゼルカ工場に出くわしたというわけでした。

 というわけで、地下鉄を途中下車して、工場の周りを歩いてみました。アフトフラモスが使っている建屋は、カラフルで小奇麗になっており、ここだけは西側の工場然としています。昨年11月の時点では、経済危機ですでに稼働率は落ち込んでいたはずですが、一応工場の壁には、「従業員募集中」と書かれていますね。それに対し、旧アゼルカ工場の正面玄関の方に行ってみると、そこはまさに廃墟であり、実に寂しげな光景でした。ああ、あれから、19年か。私は再び地下鉄に乗り、その場を後にしました。

「アフト」は自動車、「フラ」はフランス、

「モス」はモスクワの略ですね。

旧アゼルカの本社ビルと

ショールーム

 それでは、1990年に訪問したもう一つの工場、ZILは現在どうなっているでしょうか。こちらの方は、生産を続けています。しかし、こちらも外国のトラックに押され気味で、往時には年間20万台ものトラックを生産していたのに対し、2008年のトラック生産台数は4,540台にすぎませんでした。

 それで、私は奇遇にも、この2月に、ZILも再訪することができました。日本の重工メーカー「IHI」が2007年にZILと合弁企業を設立し、ZILの敷地内で自動車用パネル部品を生産しているのですね。製品は前出のアフトフラモスに供給されています。IHIから日本人数人が合弁に派遣されているので、今回、工場を訪問して見学させていただくとともに、事業についての聞き取り調査を行ってきたというわけです。かくして、アゼルカに続いて、ZILも、約19年ぶりの訪問を果たすことができました。ZILの方は、以前に比べればだいぶ活気はなくなったけれど、良くも悪くも、雰囲気的にはあまり変わっていなかったかな。

ZILとIHIの合弁によるパネル部品生産 ZILの栄光の歴史

かつてスターリンが乗った

戦車のようなリムジンもZILで生産

 入社から20年の節目を迎える前に、アゼルカとZILを再訪できたことは(「ソ連へGO」?)、これまでの自分を見つめ直すうえで、よかったんじゃないかなと思います。

(2009年4月13日)

 

ヤロスラヴリ千年祭を先取りだ

 2月にロシアのヤロスラヴリ、モスクワ、クラスノダルに行って現地調査をしてきました。ヤロスラヴリ、クラスノダルは個人的に初めての訪問です。そのうち、今月はまずヤロスラヴリについてレポートすることにします。

 ヤロスラヴリは、1010年に誕生したというロシアを代表する古都で、その歴史地区は2005年にユネスコの世界文化遺産にも登録されています。モスクワの北に点在する「黄金の環」と呼ばれる古都群のなかでも、代表格と言っていいでしょう。今日では人口60万人を数え、重要な工業都市でもあります。

ヤロスラヴリの繁華街

ヤロスラヴリ州行政府

サッカーは弱いけど、

ホッケーチーム「ロコモチヴ」は強豪

 ヤロスラヴリは、以前から行ってみたい街のひとつでした。昔の話になりますが、1992年にアメリカに行った時に、ロシア政治研究の重鎮ジェリー・ハフ先生にお目にかかって、先生いわく、今、自分はヤロスラヴリで定点観測的な共同研究をやっている、キミもこの研究に加わらないかと言われ、リップサービスとはいえ偉い学者さんにそんなことを言ってもらって嬉しく思ったので、それで印象に残ったというのがあります。確かに、ヤロスラヴリは規模といい位置といい、また歴史と現代的な産業を兼ね備えている点といい、ロシア地方都市の事例研究の対象として最適です。ちなみに、今調べてみたら、ハフ先生はその研究成果として、J.F. Hough, Political Cleavages in Yaroslavl Politics, in The New Legislative Politics in the Former Soviet Union and Eastern Europe, edited by Thomas Remington (1994), Westview Press .という論文をお書きになったようですが、私は不勉強ながら読んでおりません(ダメですね、反省)。

 我々「工場萌えラー」にとっては、日本の輸銀(現JBIC)の資金で改修なったヤロスラヴリの製油所をぜひ見てみたいという願望もあったし。それに、ヤロスラヴリ州がベラルーシと密接な経済関係にあることも、私が当地に関心を寄せてきた理由のひとつです(たとえば、ミンスク自動車工場で生産されるトラック用のエンジンは、主にヤロスラヴリ・モーター工場が供給)。

ヤロスラヴリ精油所

ヤロスラヴリ・モーター工場

我らがコマツ工場の建設現場

 そんなこんなで、関心はありながら、これまで訪れるチャンスがなかったヤロスラヴリですが、今回ついにその機会が巡ってきました。日本の建設機械メーカーのコマツがヤロスラヴリに自社工場を建設することになり、同プロジェクトに関する詳細な情報を収集するとともに、現地の投資環境を調査すべく、ヤロスラヴリ出張が決まったのです。すでにコマツの社員数名が現地に駐在し、州行政府とも密にコンタクトをとってプロジェクトを進めておられるので、同社および州行政府の多大なるご支援を賜り、大変有意義な調査をしてまいりました。コマツのプロジェクト、ヤロスラヴリ州の経済については別途レポートをまとめる予定ですので、ここでは写真を紹介しながら、街の印象などを語ってみたいと思います。

 さて、ヤロスラヴリはこれからしばらくの間、脚光を浴びることになるはずです。というのも、すでに述べたように、ヤロスラヴリは1010年に誕生したとされているので、来年2010年に市創設から1000年の節目を迎えることになり、記念行事が予定されているからです(具体的な日取りなどは未確認ですが……)。2003年のサンクトペテルブルグ300年祭や、2005年のカザン千年祭の例を見ると、ロシアでは重要都市のこうした節目はかなり盛大に祝われており、ヤロスラヴリ千年祭も結構な大イベントになることは確実です。現に、2008年5月には、メドヴェージェフ大統領自ら、ヤロスラヴリ千年祭の準備委員会議長に就任しています。ヤロスラヴリ州当局は、このイベントを利用して、道路の整備とか、文化遺産の修復とか、諸々の懸案を一気に解決してしまおうと、鼻息が荒いようで。

 もっとも、1年くらい前までだったら連邦予算からジャブジャブお金が出たんでしょうけれど、経済危機と石油価格の下落で、ロシアの財政もだいぶ雲行きが怪しくなっていますからね。ヤロスラヴリはついていません。まあ、メドヴェージェフが陣頭指揮をとる格好なので、大統領に恥をかかせるわけにはいかないでしょうから、最低限の投資はするとは思いますが。

 それにしても、私は旧ソ連以外の外国のことはよく分かりませんが、「この街が何年に誕生した」というのを明確に定めているのは、面白いですよね。日本にはそういうのはないので。ロシア地域の場合、年代記に初めて登場した年とか、「都市(gorod)」というステイタスを得た年が、誕生年とされる場合が多いように思います。日本であれば、市制50年とか100年といった節目が話題になることはありますが、それはあくまでも行政制度上のことで、街が誕生した年というのとは違いますよね。

 それで、ヤロスラヴリという街の感想なのですが、さすがに世界遺産に選ばれるだけあって、歴史的な街並みや建築遺産が比較的よく残っているなと感じました。ヤロスラヴリはヴォルガ川に面した街で、今回は真冬だったので川も凍っていましたが、もっと良い季節に訪れれば、古都の情緒と緑萌えるヴォルガ河岸の風景が相まって、さらに感動的だったことでしょう。

市中心部の風景

ヴォルガ川沿いの歴史地区

ほぼ氷結したヴォルガ川

 ただ、世界遺産というので、もっと観光地としての開発が進んでいるかと思ったけど、そうでもないようですね。教会などは、たくさん残っているのは素晴らしいけれど、なかにはボロボロのものもあり、千年祭までに修復が間に合うかなと、心配になりました。博物館も、展示とか接客とか、洗練されていないし。今回、私が泊まったホテルは、リング・プレミア・ホテルという当地としては最上級なところで、一応部屋は悪くなかったけれど、夜になると1階で大宴会が始まって、アメニティをぶち壊していました。当地で普通の外国人が快適な観光を楽しめるようになるには、まだ時間がかかりそうです。

ボロボロの建築遺産

もう一丁

リング・プレミア・ホテル

 博物館は、2ヵ所を見学しました。1つ目が、「ヤロスラヴリ国立歴史・建築・芸術博物館・公園」というやつ。これは、昔の修道院の施設を利用した博物館で、テーマごとにいくつかの館に分かれています。でも、説明が乏しく(むろん得られるのはロシア語情報だけ)、駆け足で見たこともあって、全体像がよく分からなかったなあ。建築も、収蔵品も、歴史的価値があることは間違いないんだろうけど。これがヤロスラヴリ随一の観光資源のはずなので、もっと外国人にも取っ付きやすいようにしてほしいところです。それから、「ヤロスラヴリ市歴史博物館」にも行ってみました。こちらは、収蔵品がものすごく貴重という感じはしなかったけど、展示に工夫があって、印象はまあ悪くありませんでした。

国立博物館の入り口

 

国立博物館の古代ロシア文化展示

国立博物館のヤロスラヴリ史展示

国立博物館の宝物館

ここだけ警備が厳重

市博物館の外観

市博物館

タイヤやエンジンなど、市の産業を紹介

 

 せっかくヤロスラヴリに来たので、ヤロスラヴリ州第2の街であるルィビンスクにも行ってみることにしました。ちなみに、わたくし、長い間、漠然とルィンスクと「ビ」にアクセントがあると思い込んでいましたが、正しくはルィビンスクであるということに、今回初めて気が付きました。そりゃそうか、ルィバ(魚)が語源だからなあ。もともとはウスチ・シェクスナという集落があって、それが1504年にルィブナヤ・スロボダ(「魚村」の意味)という名前になり、1777年には都市に昇格して今のルィビンスクという名前になったそうです。名前の変遷からもうかがえるとおり、ルィビンスクは水辺の街で、ヤロスラヴリと同じくヴォルガ川に面しています。何といっても、ソ連時代に造られた巨大なルィビンスク貯水池でその名を知られています。この人造湖、面積が4,580km2ですから、山梨県と同じくらいの広さということになりますね。魚の街のルィビンスクの紋章、ちょっと可愛くないですか。

 

ヴォルガ川の対岸から見た

ルィビンスクの中心地

ルィビンスクを代表する大企業

サターン社

ルィビンスク貯水池

一面真っ白で、広さも実感できない

 以上、甚だ簡単ではありますが、ヤロスラヴリ千年祭の先乗りレポートでした。実は、後半のクラスノダル編の方が盛り沢山ですので、次回にご期待ください。

(2009年3月16日)

 

シェンコたちの憂鬱

 今月は、ちょっと長いロシア出張を控えているので、早めにエッセイをアップしておきます。

 1月20日にウクライナ・ベラルーシ首脳会談があり、それについてコメントしたくなりました。というのも、見てくださいよ、下の写真(もちろん、現地のニュースサイトから勝手に拝借したものですが)。ユーシチェンコ・ウクライナ大統領とルカシェンコ・ベラルーシ大統領の仲睦まじそうな様子! 演技で笑ってるんじゃなくて、実際に打ち解けあっているように、私には見えます。本当に、隔世の感がありますよね。

 以前も書いたとおり、2人の大統領は、キャラクター、政治信条、国際的地位などがまったく異なります。ユーシチェンコはオレンジ民主革命の旗手、ルカシェンコは「欧州最後の独裁者」ですからね。名前は、「何とかシェンコ」で、似ているんですけど(正確に言えば、前者は「シチェンコ」ですが)。

 私は大学で非常勤講師をやってるんですけど、以前、「『欧州最後の独裁者』と呼ばれているベラルーシの大統領の名は?」という問題を試験で出したところ、「ユーシチェンコ」と答えた学生が何人かいて、笑わせていただきました。いくら語尾が同じだからといって、この2人を間違えちゃあ、ねえ。ちなみに、そのネタを、当時の駐ウクライナ日本国特命全権大使閣下に披露したところ、笑うというより、ほとんど泣きそうな顔をなさっていました(笑)。日本外務省でウクライナを担当なさっている皆さんは、オレンジ革命派へのシンパシーが強いですからね。無理もありません。

 2004年にユーシチェンコがウクライナ大統領に就任してから、ルカシェンコがウクライナを訪問したことは、これまで一度もありませんでした。まあ、調整を試みたことも5度ほどあったらしいんですけど、政治的緊張が壁になったり、合意文書がまとまらなかったりで、実現しなかったわけです。それが、今回、不意に実現したうえに、両大統領が急接近してしまったようで。1対1の会談を1時間くらいやる予定だったのが、かれこれ3〜4時間も話し込んだそうです。

 会談後にルカシェンコは、「両国間にはこれまでも問題はなかったし、これからも決してない。ベラルーシ側には、国(ウクライナ)にも、指導部(ユーシチェンコ)にも、アレルギーはない」と述べました(カッコ内は服部補足)。さらに、「貴方(ユーシチェンコ)が欧米と接触する際に、様々なレベルで(ベラルーシを)多大に支援してくれていることに対し、私は感謝を申し上げたい。今日、ベラルーシと西側の間で対話が成立しているのは、貴方の貢献もあってのことである」という注目発言もしています。それから、オデッサ〜ブロディ・パイプラインの石油をポーランドやバルトの市場に運ぶための輸送回廊の創設を支持するなんてことも言っていて、このあたり、ロシアに睨まれなきゃいいけどという感じですが。

 やはり、中身や程度は違えど、両雄とも、内憂外患に悩まされていますからね。とくに、ユーシチェンコ大統領の威信は地に堕ち、最近では、オレンジ革命の戦友であったティモシェンコ首相と、公然と罵りあう事態になっていて。一方のルカシェンコ大統領も、ロシアに首根っこを押さえられたまま、西側との関係改善とか、経済危機対策とか、難しい課題が山積しており。そうしたなかで、冷静に考えてみれば、ウクライナとベラルーシというのは、抜き差しならない利害対立があるわけではなく、むしろ協力し合える事柄の方がずっと多いわけで。「ユーシチェンコ=民主派の旗手」「ルカシェンコ=悪名高き独裁者」という図式が弱まるにつれ、一致する利害の方が前面に出て、今回の電撃会談と相成ったのではないかと思われます。

 というのもさることながら、お互いに、悩み多き、孤独な指導者として、傷をなめ合ったのかもしれないな。報道によればルカシェンコは、ロシアからガスを止められた時の様子をユーシチェンコに尋ね、ユーシチェンコがそれをユーモラスに返して、そのやりとりで2人は打ち解けたとされています。それ以降、ルカシェンコはユーシチェンコを「貴方(Vy)」でなく、「お前(Ty)」と呼んだそうで。

 そう、考えてみれば2人は1954年生まれの同い年、お互いロシアにいじめられる身、明日をも知れぬ政治生命、

貴様と俺とは同期の桜

 なんて感じで盛り上がってしまったのかもしれません、案外。

 ところで、今回のウクライナ・ベラルーシ首脳会談は、チェルニゴフというウクライナ北部の街で行われました(ウクライナ語読みだと「チェルニヒウ」です)。ベラルーシのゴメリから近いので、以前も両国の政府間会合がここで開かれたことがあります。私は、ウクライナの地方都市に行った経験がそれほど豊富ではありませんが、チェルニゴフは行ったことのある数少ない街の一つです。ベラルーシ駐在晩年の2001年2月に行きました。写真を1点掲載しておきますが、由緒のありそうな教会がいっぱいあって、良い感じの街でしたよ。

(2009年2月1日)

 

「舞台」としてのベラルーシの森

 新年第1回のマンスリーエッセイですので、まずはつらつらと、昨年の自分の仕事振りを振り返ってみたいと思います。

 私が仕事で主にかかわっている国は、ロシア・ウクライナ・ベラルーシの3国であり、それがそのままこのホームページのテーマにもなっているわけですが、このうち2008年はウクライナにかなりのエネルギーを割きました。仕事の半分くらいは、ウクライナのことをやっていたような印象です。『ロシアNIS調査月報』の2008年3月号でウクライナの特集を組み、そのあとウクライナの鉄鋼業のレポートを書いて、さらに『ウクライナ・ベラルーシ経済ガイドブック』をつくって、年末にはキエフとオデッサに出張して、それに前後して経済危機に関するレポートも2本書いて、と(面倒くさいので、いちいちリンクは貼りませんけど、「ウクライナ」のコーナーでチェックしてみてくださいね)。今までは、ウクライナは非常に興味のある国だし、文章なども書いてきたけれど、どこかおっかなびっくりで、胸を張って「専門家です」とは言えないところがありました。しかし、さすがにこの1年で、多少は事情が飲み込めてきたかなと感じています。最近になって、現代事情、とくに経済やビジネスを中心に、ウクライナについての本を書いてみたいという気持ちが強くなってきました。

 ただ、今ホットな話題となっているロシア・ウクライナ間の「天然ガス戦争」については、私はまったくフォローしていません。この問題を調べ始めるとキリがないし、本件に関しては日本でも研究・発言している人が何人かいるので、そういう人たちに任せてしまっています。まあ、ウクライナにまつわる一番重要な問題を抜きにして本を書こうなどという考えは甘いので、後追いという形でも、これから最低限の勉強はしてみたいとは思っていますが。

 ロシアに関して言えば(やはり、「ロシア」のコーナー参照)、2008年はサンクトペテルブルグに明け暮れた1年でした。それだけ、ロシア経済、日ロ経済関係において、ペテルブルグが脚光を浴びる昨今ということでもあります。2月にモスクワとペテルブルグで労働力市場に関する現地調査をやって、3月にはその成果をまとめた報告書を作成し、4月に所属団体がマトヴィエンコ市長らのペテルブルグ代表団を受け入れたこともあって、『ロシアNIS調査月報』2008年7月号ではペテルブルグを特集し、さらに「ロシア経済変革の試金石サンクトペテルブルグ」という論文を仕上げ(近刊)、その一部に加筆する形で「サンクトペテルブルグの自動車クラスター論争」というレポートも発表しました。あと、ロシア関連では、メドヴェージェフ=プーチンによるタンデム政権の誕生に関連した情報発信に努め、閣僚人事や経済政策路線などについての研究を試みましたが、正直、継続的なフォローはできていません。

 そんなこんなで、ウクライナとロシアだけで手一杯であり、ベラルーシについてはあまり大きな仕事をしなかった1年でした。もちろん、拙稿「ベラルーシ国民史におけるユニエイト教会の逆説」を収録した北大の講座が2008年3月に刊行されるというイベントはありましたが、それに向けた仕事は2007年中に終わっていましたので。強いて言えば、『ウクライナ・ベラルーシ経済ガイドブック』のベラルーシ部分を仕上げた程度か。このところ、本HPでも、ベラルーシの登場する頻度が減っていますね。

 でも、実は今月のエッセイのお題は、ベラルーシなのです! 先日、映画配給会社から連絡をもらい、ベラルーシを舞台にした映画が近く封切られ、その試写会をやるので、来ないかとのことでした。わたくし、恥ずかしながら、これまで映画の試写会なんて行ったことなかったんですが、配給会社から直々にお声をかけてもらえるなんて、嬉しいなあと思い、いそいそと出かけてきました。以下、その報告です。

普通のオフィスの

ような試写会の会場

 試写会初体験なので、どんな感じなのか、想像できません。それにしても、個人的に、最近はホームシアターばっかりだから、映画館は久し振りだなあ。いつ以来だろうか。そうだ、「ハウルの動く城」以来だ(笑)。とかなんとか思いつつ会場に着くと、それは劇場ではなく、こじんまりとした試写会専用のスペースでした。よく、テレビのコマーシャルで、試写会を観たシロウトさんが大興奮のコメントを述べるような場面がありますが、ああいう感じではなく、おそらく業界関係者だけを対象としたものなのでしょう。狭い会場は満員で、私はギリギリに行ったので通常の座席ではなく補助椅子でした。「選ばれた招待客」のような感覚で行ったので、ちょっとガッカリです。

 さて、問題の映画は、「DEFIANCE(ディファイアンス)」という作品。知名度の低いベラルーシが舞台といっても、単館でやるようなマイナーな外国映画ではなく、れっきとしたハリウッド映画なのです。主演は007シリーズの近作で知られるダニエル・クレイグ、監督は「ラスト・サムライ」のエドワード・ズウィック。映画の概要については、公式サイトのこことか、ここをご覧ください。

 物語のあらましは、ソ連のベラルーシ地域に住んでいたユダヤ人が、侵攻してきたナチス・ドイツの殺戮から逃れるために、森に逃げ込み、そこで生存をかけた闘争を繰り広げるというもの。つまり、ベラルーシを舞台としていても、ユダヤ人を描いた作品であり、ベラルーシ人の物語ではないわけですね。ついでに言えば、実際にロケが行われたのもベラルーシの森ではなく、リトアニアのヴィルニュス近郊だったようです。

 結論から言いましょう。この映画を観たら、今日のベラルーシ国民の大多数は、憤慨すると思います。そして、縁あってベラルーシに深くかかわることになったこの私も、小さからぬ違和感を抱きました。まあ、何しろ、これから公開される映画なので、ネタバレしてはいけませんから、何に引っかかったのかについては、今ここでは語らないことにします。ただ、私の著書である『不思議の国ベラルーシ』および『歴史の狭間のベラルーシ』をお読みいただいたうえで、この映画をご覧になれば、私の言いたいことは容易に察していただけるのではないかと思います。

 誤解していただきたくないのですが、この映画がつまらないと言いたいのではありません。エンターテイメント作品としては、充分に多くのファンを楽しませることのできる映画だと思います。ただ、この作品の冒頭では、「実話である」ということが、わざわざ謳われています。「実話である」と言われると、曲りなりにも自分が歴史研究を試みた地域の話なので、ストーリーが自分の歴史認識と乖離している点が気になって、なかなか物語に没入できません。むしろ、私個人としては、「この映画はフィクションであり、実在の人物や民族とは関係ありません」と言ってくれた方が、気が楽でした。

 そこで思ったのですが、「実話」という言葉は、クセ者です。もちろん、史実は史実で、確固としてあるわけですが。ただ、人間の認識や記憶というものは恣意的なので、「実話」といったところで、所詮は特定の人間やその集団による主観を経ているわけです。しかも、それが小説や映画になれば、さらに劇的な脚色が加えられます。20世紀の前半、ユダヤ人が人類史上稀に見る悲惨な人道的被害を受けたことは紛れもない事実で、ユダヤ人がその悲劇を語り継ぎ、告発し続けようとするのは当然です。しかし、「ソフトパワー」と言ってしまえばそれまでですが、ユダヤ人の情報発信ばかりが肥大化して(何しろ、アメリカのマスコミ、大学、映画産業を押さえているので…)、他者の声がかき消されるようなことがあったら、問題です。ハリウッド映画でベラルーシのことが題材になるなんて、最初で最後かもしれません。その映画で、ベラルーシ人が不当な描かれ方をされていたら、ベラルーシ人についての悪しきステレオタイプを世界中に植え付けることにもなりかねません。

 さて、映画「DEFIANCE(ディファイアンス)」につき、もう一点だけ、どうしても指摘しておきたいことがあります。映画の舞台となった森は、ロシア語で「ナリボクスカヤ・プーシチャ」というところです。この森について語れる日本人は、この私しかいないはずですので、言わせてください。「ナリボクスカヤ・プーシチャ」は、ミンスク州とグロドノ州にまたがる原生林で、バルト海に注ぐニョーマン川の上流域に当たります。19世紀にはポーランドの国民的詩人A.ミツキェヴィチにも詠われました。1960年に8.5haが自然保護区に指定されています。私自身も一度だけ行ったことがあり、その時に撮ったコウノトリの写真を、本HPにアップしたこともありましたね

 それで、この「ナリボクスカヤ・プーシチャ」を、日本語でどう表記したらいいかについて、私は一時迷っていました。しばらくして、「ナリボキ」という集落があることを知り、それが「ナリボクスカヤ」という形容詞の元の形であろうと推測して、「ナリボキ原生林」とすべきであるという結論に至りました。これが正解です。ところが、今回の映画では、この森のことを終始、「ナリボッカ原生林」と呼んでいました。確かに「ナリボキ」という正解にたどり着くのは難しいと思いますが、それにしても「ナリボッカ」とは、ずいぶん風変わりな語形です。しばらく考えたら、答えがひらめきました。これ、要するにポーランド語の、しかも読み間違いじゃん。文字化けするといけないので、下の画像をご覧ください。

 ロシア語は「ナリボクスカヤ・プーシチャ」、ベラルーシ語は「ナリボツカヤ・プーシチャ」、ポーランド語は似ているけど順番と語尾が変わって「プーシチャ・ナリボツカ」です(すいません、ポーランド語は学習したことがないので自信ありませんが、多分そうでしょう)。「ナリボツカ」というのも「ナリボキ」という地名の形容詞形で、ポーランド語から訳すにしても「ナリボキ原生林」であることに変わりはないのですが、それに注意を払わず、しかもポーランド語の「c」が「ツ(ts)」であることも知らず、「ナリボッカ」になってしまったのですな、きっと。そもそもベラルーシの地名をポーランド語で読むというのが失礼な話ですけど、それを英語風に発音することで、ますます訳が分からなくなってしまったという。

 映画のパンフレット、日本語字幕だけでなく、俳優のセリフ、(ロシア語の会話の時に出る)英語の字幕も、すべて「ナリボッカ:Nalibocka」になっていたと思います。ということは、日本サイドのミスではなく、原作とか脚本の段階で、Nalibockaに化けてしまったんでしょうかね。その割には、英語のHPを見たら、ちゃんとNaliboki Forestになっていましたけど。

 いずれにしても、私はここでも、民族や国による情報発信力の格差のことを考えさせられてしまうのです。つまり、この地域に関して発信される情報は、圧倒的にポーランド語経由のものが多いということを、本件は象徴しているのではないでしょうか(別にポーランドがどうこうということを言いたいのではありませんが)。情報の出所を見極め、複眼的に見て相対化することが大事だという当たり前のことを、改めて感じている今日この頃なのでした。

(2009年1月15日)

 

    

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