マンスリーエッセイ(2004年)

 

2004年6月

はじめに

 ホームページも立ち上げてしばらく経つと億劫になり、なかなか更新しなくなってしまうものですね。そこで、今月から「マンスリー・エッセイ」と題して、月1回気ままなエッセーをお届けすることにしました。ベラルーシの話題だけでなく、幅広いテーマを取り上げていきたいと思います。どうぞお楽しみに。

 
記号

2004年12月:コウノトリは本当に絶滅危惧種か?

記号

番外編:お陰さまで1周年 ―疑惑のアクセス1万件突破

記号

2004年11月:緊急報告 テレビ出ちゃいました

記号

2004年10月:兄弟ロシアとともに ―ベラルーシの国歌に関する考察

記号

2004年9月:読書感想文の思い出

記号

2004年8月:村上さんと、アメリカと

記号

2004年7月:嗚呼、ミハイルよ!

記号

2004年6月:韓日共催ワールドカップ余話

 

コウノトリは本当に絶滅危惧種か?

 先日(1128日)、テレビでNHKスペシャルを観ていて、仰天させられました。「データマップ63億人の地図」というシリーズの最終回で、その回のテーマは世界で絶滅の危機に瀕する動物についてでした。その一つとしてコウノトリが取り上げられ、次のような説明があったのです。

 「コウノトリは世界に2,000羽あまりしかいない絶滅危惧種です。」

 私はこのセリフを聞いて、思わず桂三枝のようにソファーから転げ落ちそうになりました。だって、ベラルーシではコウノトリはごくありふれた鳥で、さすがにミンスクの街中にはいませんが、ちょっと田舎に行けばいくらでも目にすることができるからです。私の感覚から言うと、ベラルーシだけでも、とても2,000羽では利かないのではないか、そんな感じがするのです。

 そこで、私なりに少し調べてみました。まず、ソ連時代のベラルーシ共和国の百科事典。ちょっと古いデータなのですが、1975年時点で、ベラルーシ国内には1万3,000以上のコウノトリの巣があり、個体数は5万3,000〜5万6,000羽に及ぶと書いてあります。ネット情報などを総合すると、その後もベラルーシのコウノトリはほとんど減っていないようで、直近の数字で1万2,000程度の巣/つがいの数が確認されている模様。

 NHKさん、何かの間違いじゃないでしょうか? そう思って、日本のインターネット・サイトをいくつか見てみたところ、確かに「コウノトリは世界に2,000〜3,000羽しかいない」という記述にいくつか出くわしました。別にNHKがケタを間違えたというわけではなさそう。これは一体どういうことなのでしょうかね。あるいは、ベラルーシはついに「世界」から追放されてしまったのでしょうか!?

 確かに、コウノトリは日本では絶滅してしまったので、いかにも危ない種であるという印象を抱きがちです。でも、ベラルーシではそのへんを普通にばたばたと飛んでいる鳥なので、私などには、種の存続が危ぶまれるほど生命力が弱いとはどうも思えないのです。ちなみに、コウノトリには2種類があり、一般に知られているのは白コウノトリで、それとは別に黒コウノトリというのがあります。形は同じでも、色が真っ黒なのです。さすがに、黒コウノトリは非常に数が少なく(それでもベラルーシに1,000羽程度いるようなのですが)、ベラルーシでも保護鳥獣に指定されています。しかし、普通の白コウノトリについては、そのような指定すらないようです。ご参考までに、ベラルーシの保護鳥獣の一覧をアップしておきますので、クリックしてご覧ください。19番が黒コウノトリです。

 言うまでもなく、コウノトリはベラルーシを象徴する鳥です。コウノトリは木のてっぺんに小枝などを集めて巣をつくりますが、ベラルーシの田舎の人たちは、自分の家に来てくれるように、あらかじめ屋根に巣をつくっておいてコウノトリを招いたりします。ただし、コウノトリは、善人のところにしか宿らないと言われています(ベラルーシ・テレビのロゴがコウノトリのデザインなのは、片腹痛いと言わざるをえません)。

 私は都市型の人間なので、ベラルーシに住んでいた時には、それほど多くコウノトリと出会ったわけではありません。初めてコウノトリを見たのは、知り合いに誘われて1999年夏にナリボキ原生林に行った時でしたか。すぐ近くを力強く羽ばたいて飛んでいく姿に圧倒されました。ちょっと遠景ですが、その時の写真がこれ(左)。

 

ナリボキ原生林にて

『不思議』の表紙に登場してくれた

コウノトリ君たち(別テイクですが)

トゥーロフ村行政府の屋根にも クレヴォ城塞のコウノトリ

 

 2003年6月にベラルーシに出張に行った時には、季節柄と、地方視察が多かったので、コウノトリ大当たりでしたね。とくに、ゴメリ州の古都トゥーロフを訪れた際には、巣から飛び立つコウノトリの姿を至近距離から撮影することができました。良い写真が撮れたので、それを『不思議の国ベラルーシ』の裏表紙に使ったわけです。やはりポレシエ地方はコウノトリがとくに多いようで、トゥーロフでは行政府の屋根にまでコウノトリのつがいがいました。それから、これはずっと北の方になりますが、くだんのクレヴォ要塞にもコウノトリの巣がありましたね。「いにしえの廃墟に馬とコウノトリ」という俳句を詠んだんですけど、コウノトリって季語になるのかなぁ。

 私がベラルーシ関係の写真集を見ていて最も惹かれた作品が2点あるんですが、それらもやはりコウノトリの登場するものです。プロの写真家の写真を、勝手にHPに転載してしまうのは本当はまずいと思うんですけど、作品紹介およびレビューという趣旨でご理解ください。一つはセルゲイ・プルィトケヴィチという写真家の作品で、ミンスク州のゼムビン村というところで撮った作品。半ば廃墟と化したカトリック教会にコウノトリが宿るというもので、ある意味ベラルーシを表現したものとしては究極の作品だと思います(でも、わびさびの理解できないポーランド人がやって来て、こういう味のある教会をピカピカに直しちゃったりするんですよね)。あまりにもこの写真が気に入ったので、よっぽど作者に頼み込んで『不思議の国ベラルーシ』の表紙に使わせてもらおうかとも思ったんですけど、オリジナリティーを重視してやめました。もう一つは、ヴャチェスラフ・アレシカという写真家の撮影したもので、明記はされていませんが、おそらくはポレシエ地方の風景と思われます。春の雪解けで辺り一面が水で溢れ、ところどころ高い木の上にコウノトリがいるという、これまたいかにもベラルーシという作品です。いずれの作品も、私のような通りすがりの外国人には、絶対に撮れないものですね。

 

Сяргей Плыткевіч, Беларуская Экзотыка. Мінск, Рифтур, 2002.

これは現在でも比較的手に入れやすい写真集です

Вячеслав Алешка, Наслелие с природой: Фотоповесть о дикой природе Белоруссии. Минск, Экология, 1997.

ページの折り目のところが少し痛んでしまっておりますが

 

 というわけで、ベラルーシにはコウノトリがてんこ盛りに生息しているわけですが、ネットを色々と見ていたら、九州石油株式会社のホームページに、あまりにも低レベルな文章が出ていて、驚かされされました。チェルノブイリによる環境汚染や健康被害はいくら強調しても強調しきれないほど重大なものですが、それでもベラルーシの大部分の地域では人々が普通に暮らし、美しい自然も健在であるということを知るべきです。

 さて、ご存知のとおり、コウノトリは渡り鳥です。ベラルーシには、3月から4月初めにかけて飛来します。5月の後半に産卵し(一つの巣で概ね4つくらいの卵だそうです)、雛は早くも7月の下旬には巣立ちます。そして、8月には遠くアフリカのナイル川沿岸へと旅立っていくのです。

 そういえば、ピンスクの環境保護活動家ドゥブロフスキー氏が、こんなことを言っていました。「コウノトリが、渡りに出る前に、自分の巣の上を何度も旋回しているのが、非常に印象的でした。それはまるで、自分が帰ってくるふるさとを、記憶に焼き付けているかのようでした。」

 うん、ベラルーシある限り、コウノトリも大丈夫だ。

200412月1日)

 

 

番外編:お陰さまで1周年 ―疑惑のアクセス1万件突破

 本ホームページ「ベラルーシ津々浦々」を立ち上げたのは、2003年11月18日のことでした。早いもので、このほどHP開設1周年を迎えることになりました。日頃の皆様のご愛顧に感謝申し上げます。

 とはいっても、一体このHPはどれだけの人たちに見られてるんでしょうかねえ。実は、私はこのHPにアクセス・カウンターを設置しようと何度か試みたんですけど、原因不明の技術的問題により、設置できないでいるんです。本HPの作成ソフトである「FrontPage」の機能を使っても、HPが入居しているジオシティーズの機能を使っても、どっちもうまく行かないんです。だから、アクセス数を把握することは、諦めていました。

 ところが、このほど事情が一変しました。先日の「マンスリー・エッセイ」にも書きましたけれど、本HPの入居しているジオシティーズのサービスが、2004年10月末から大幅にパワーアップしたのです。まず、HP容量が、従来の25MBから、一気に300MBに増えました。それだけでなく、自分のHPへのアクセス状況を様々な形で解析できる新サービスが加わったのです。

 実際に、トップページのアクセス数を見て見ました。フムフム、なるほど、2004年11月半ば現在の累積アクセス数が、10,346件か・・・・・・。

 何ですと!? 1万件!?

 よく、色んなウェブサイトを見ると、地味なサイトの場合は、カウンターが1,000とか、2,000とか、そんな数字になってる場合が多いですよね。本HPもそうした地味ページの一つなので、1年間の閲覧数はせいぜい数百くらいかなと思っていました。それが、1万件を突破しているということが分かり、信じられない気持ちになったわけです。

 ちなみに、ジオシティーズのアクセス解析は、月ごと、週ごと、日ごと、果ては毎時間ごとのアクセス数が、グラフ化されて表示されるんですよ。面白いから、本HPが開設されてから今月までの月ごとのアクセス数の推移を、ここでご紹介しましょう。ご覧のように、毎月だいたい千件前後のアクセスがあるということになっています。

 

  ページ閲覧数の合計

(このページが実際にブラウザに表示された回数)

2004年11月     (16日現在) 445
2004年10月  910
2004年9月  898
2004年8月  1465
2004年7月  845
2004年6月  885
2004年5月  1039
2004年4月  878
2004年3月  1002
2004年2月  843
2004年1月  683
2003年12月  400
2003年11月  53
 
 

 ただ、ヒット数1万件というのは、どう考えてもウソですよね。普通は、こういうサイトを開設していると、「ベラルーシのビザをとるにはどうしたらいいか」とか、「ミンスクのだれそれと文通をしたい」とか、素人さんのトンチンカンな質問がメールでたくさん来るらしいんですけど、私のところには、メールアドレスを公開しているにもかかわらず、数えるほどしか来てないですからね。そういうことから考えても、どうもちゃんとした閲覧はこの10分の1以下ではないのだろうかと、思うわけです。

 ベラルーシについての問い合わせなどはあまり来ませんが、最近は出会い系のメールとか、ジャンクメールがいっぱい来るようになりました。聞くところによると、様々なHPを自働的に閲覧して、そこで公開されているメールアドレスに一斉にメールを送りつけるような手口があるらしいですよね。本HPのアクセス1万件というのも、9割方はそうしたものではないかと、推察するわけです。

 ただ、上掲の図を見ると、8月のアクセスが突出して多いですよね。これは、アテネオリンピックと関係があるのではないかというのが、私の見方です。つまり、突然ベラルーシの選手が金メダルをとったりすると、「ベラルーシって何だ?」ということになり、ヤフーを検索する。すると、現在のところ、日本でまともなサイトはここくらいしかないから、皆ここに来る、というわけです。だから、1万のなかの何%かは分からないけど、実際にベラルーシに興味をもって本HPにアクセスしてくれた人も、少なからずいたと思いたいですね。

 さて、私はというと、この間、本年3月に主著である『不思議の国ベラルーシ』を出し、同じく3月に国際関係論の共著である『CIS:旧ソ連空間の再構成』が出て、そしてこの10月には『不思議』の歴史補遺編と位置付けるブックレット『歴史の狭間のベラルーシ』を刊行にこぎ着けました。このように、「ベラルーシ三部作 (?)」を出し終えたことで、もう逆立ちしても鼻血も出ないという感じで、正直ベラルーシは個人的に卒業モードです。ただ、せっかくこれだけ深くかかわるようになった国ですから、これからはロケットエンジンを巡航 運転に切り替え、「土日の道楽」と位置付けて、気長に付き合っていきたいと思っているところです。

 本HPも、立ち上げた当初にやりたかった企画が、まだ実現できていません。「ベラルーシ地方案内」の完成はもちろん、「ベラルーシ名刹巡り」「ベラルーシ博物館案内」などはぜひやりたいと思います。 もちろん、「マンスリー・エッセイ」は続けていきますし、趣味のコーナーもつくりたいと考えています。なにしろ、上述のように容量が300MBに増えて、まだ3.3%しか使ってないわけですからねえ。

 これからも、ふと思い出したら時々、本HPに立ち寄ってみてください。

(2004年11月16日)

 

緊急報告 テレビ出ちゃいました

 NHK BS-1で、平日午後11時からやっている「BSニュース・きょうの世界」という番組があるんですけど、先日この番組にゲスト出演する機会がありました (なお、その後、放送時間が変わりました)。ご存知かもしれませんが、10月17日にベラルーシで憲法改定を問う国民投票があり、その結果ルカシェンコ大統領の三選に道が開かれました。それを受け、翌18日の「BSニュース・きょうの世界」で「ベラルーシ『強権体制』の行方」という特集が組まれ、それに私がコメンテーターとして招かれたというわけです。恥ずかしながら、このような形でテレビに出演したのは初めてですので、一部始終を報告させていただきます。

 今回の出演依頼は、放送の1週間ほど前に、遅い夏季休暇で訪れていた長崎市で受けました。まさか、ベラルーシの国民投票が(BSの国際ニュースという地味な番組ではあれ)テレビで詳しく取り上げられるとは、予想外でしたね。実は、2001年のベラルーシ大統領選の時には、自分のところに取材が来るのではないかと、身構えていたのです。しかし、この選挙は日本では、せいぜい新聞のベタ記事になった程度でした(しかも投票の2日後にはあの9.11事件が起き、すべてが吹き飛んだというわけです)。それ以来私は、いかに自分が日本における希少なベラルーシ専門家であっても、マスコミに引っ張り出されるようなことはよもやあるまいと考えてきました。だから、今回の国民投票もまったく無警戒で、フォローすらしていなかったのです。現に、休暇をとって遊んでいたわけですし、出演依頼を受けて、「そういえばそんな国民投票もあったか」と、ようやく思い出す始末でした。とてもテレビに出てコメントをする専門家とは思えませんね。

 一つの綾は、放送当日の10月18日がプロ野球日本シリーズの移動日であったということです。何しろ今回のシリーズは、私の野球観戦人生を賭け、全身全霊を傾けて観ていましたからね。試合のある日だったら、絶対に出演を断っていました。放送前日の10月17日、ディレクターが自宅近くまで来てくれて打ち合わせをしたんですけど、その際も「夜は野球があるから昼間にしてくれ」と頼みました。

 さて、初めてのテレビ出演、勝手が分からないことがたくさんあります。当日、NHKのハイヤーが夜8時に会社まで迎えに来てくれるという。む、その場合、食事はどうなるのだ? よく芸能人は、楽屋で支給される弁当について話している。私にもそのような豪華弁当が振舞われるのだろうか? ただ、あからさまに聞くのははばかられる。担当のディレクター氏に、ちょっと婉曲的に聞いてみた。「あのぉ……夜11時の番組ですから、あらかじめ自分でちょっと食べてから局に入った方がいいんですかねえ?」 すると、あっさり「そうですね」とのこと。何だ、豪華弁当は出ないのか。結局、ファミリーマートで買ったおにぎり3個を職場で平らげ、ハイヤーでNHKに向かう。移動は地下鉄でもいいから、弁当が食べたかった。

 局に着き、メインキャスターの長崎泰裕さんと顔合わせ。長崎さんというのは、ロシア・東欧地域に造詣の深いジャーナリストで、拙著『不思議の国ベラルーシ』もお読みいただいたとのこと。長崎さんの読後感は大変鋭く、私がこれまで出会ったなかで一番手応えのある読者でした。

 ここで、長崎さんと私で、ちょっと掛け合いのシミュレーションをしてみようということになったんですけど、最初はどうもうまく行きませんでした。私の場合、人前で講演をしたりする時には、臨場感を大切にします。原稿を棒読みするようなことはせず、手元の紙にはキーワードが書いてあるだけで、当意即妙にやるというのがオレ流。ただ、テレビの場合には、時間の制約が非常にシビアです。今回の場合も、このコメントは約20秒、このコメントは約90秒と、細かく区切られており、局入りしたこの時点では、まだそこまでの対応はできていなかったのです。

 そこで、1問ごとの時間の長短はとくに決めないで、むしろ単純に1問1分と考え、全体として5問で5分くらいのコメントということにしよう、という話になりました。この時点で、本番まであと2時間ほど。私は、これ以上細かい打ち合わせをするよりは、むしろ1人にしておいてもらった方が準備がしやすいと申し出て、以後は編集局の片隅で、1人ひたすら問答の練習を繰り返していました。豪華弁当どころか、楽屋もないんですねぇ。途中、スタジオに入って簡単なリハーサルをしたり、番組で流すVTRに目を通したりとしているうちに、あっという間に本番直前となりました。この間にも、ちょっと時間が押しそうだからこのコメントは半分に短縮、いややっぱり1分でいいなどと、紆余曲折がありました。何と言っても、生放送のニュース番組、現場はかなりバタバタしています。

スタジオでの準備の光景

 ところで、テレビ番組に出るからには、顔にメークをしなければならないはずだが、一向にその話が出ない。まさかこの番組はノーメークなのだろうか? そう思い始めたところ、本番直前になって、ようやくメークのお声がかかりました(普通はもう少しゆとりをもってやるそうですが)。片隅にある狭いメーク室で、専門のお姉さんがやってくれました。うむ、大学時代の「語劇」以来のお化粧。

 さて、ついに本番です。「BSニュース・きょうの世界」 は午後11時からの30分番組で、ベラルーシの特集は11時14分頃から(上述のように、その後放送時間が変わりました)。11時過ぎにスタジオに入ると、もちろん番組はすでに始まっていて、イラク情勢につき中東調査会の大野元裕さんがコメントしていました。私と違って、テレビではお馴染みの顔ですね。とりあえず私は、セットの真向かいに置かれた椅子に座って待機。お役目を終えた大野さんが引き揚げてきて、会釈をし合いました(同業者気分)。ここから番組は、世界各国で放映されたニュースを紹介するコーナーに入ります。VTRを流している最中に、アナウンサーの児玉良香さんが原稿を読む練習をしたりしているのが、面白かった(さすがにお上手!)。そして、いよいよベラルーシの特集が始まり、スタッフに促され、コメンテーター席に向かいました。

 席に着くと、キャスターの長崎さんが、「落ち着いてくださいね」と声をかけてくれました。ただ、そう言っていただくまでもなく、私は平常心そのものでした。すでにコメントも練り上げていたし、1問が1分間という明快な配分になったので、やりやすくなりました。スタッフとの事前の打ち合わせで、各コメントごとに、割当時間の半分が過ぎたら「残り30秒」という紙を、1分が過ぎたら「時間です」という紙を掲げてくれることになりました。業界で言うところの「カンペ」(カンニングペーペーのこと)ですね。

 司会の長崎さんに紹介され、いよいよ私のコメントが始まります。最初の質問は、「今回の国民投票で憲法が改定されて、これにより当面ルカシェンコ体制が続くことになるのでしょうか」というものでした。この質問に対し、最初は調子良く答えていたのですが、実は恥ずかしい間違いを犯してしまいました。

 私は、コメントの締めくくりに、「ベラルーシ国民は忍耐強い、我慢強い国民で、そのことが独裁政治・強権政治を許してしまう傾向があります」と言おうとしたのです。ところが、このセリフを言い終わろうとするまさにその時に、「時間です」という例のカンペが目に飛び込んできました。何しろ最初の発言だったので、それに過敏に反応してしまったのですね。「許してしまう傾向があります」と言うべきところを、「時間があります」と言ってしまったのです。

 ひえ〜、やってもうた。古典的なコントのような失敗をやらかしてもうた。慌てて、「傾向があります」と言い直したものの、ちょっと察しの良い人には、カンペを読んでしまったことがばれたかもしれないなあ。一生の不覚なり。

 でも、この失敗で頭の中が真っ白になるということもなく、それを心の中で笑う余裕もありました。何だか俺、全然緊張してないぞ。これはうまくやれるかもしれない。Q&Aが進むにつれ、私は手応えを感じていました。

 ありがたいことに、長崎さんがベラルーシにおけるナショナリズムの希薄さのことに話を振ってくださいました。私は待ってましたとばかりに、「実は、私は今年の春に『不思議の国ベラルーシ』という本を出しまして、まさにその問題を詳しく論じているんですけど……」と応じました。自分の本を紹介することは、事前の打ち合わせではまったく言っていませんでしたが。私としては、テレビ出演に応じたのも、本をPRしたいという一心からであり、大目に見ていただきたいところです。

 やってみて分かったのは、あれこれしゃべりたくても、とにかく時間がないということ。今回の場合は、テレビにしては比較的長い持ち時間でしたが、言おうと思っていたことの半分くらいしか言えないという感じです。あと、これはNHKだからなのか、ギャグなどは言いにくい雰囲気ですね。「子羊たちの沈黙」とか、「ベラルーシに脱北者はいない」とか、色々決めゼリフも考えてあったんですけど、さすがに自主規制しました。

 そんなこんなで、正味約5分にわたる私のコメント・コーナーは終了。翌日の予告などを行い、番組も無事終わりました。持参したデジカメでの記念撮影、メーク落とし、謝礼の支払手続き、長崎さんとの談笑などを経て、再びハイヤーで帰宅の途に。

 まあ、カンペを読んでしまう失態はあったけれど、初めてのテレビ出演で、しかも生放送にしては、まあまあうまくやったんじゃないんですか。それにしても、我ながら不思議なくらい余裕がありました。その原因を考えるに、一つには、スタジオにあまり人がいなかったことが挙げられます。自分の視界に入る人間が5〜6人しかいないので、見られているという感じが全然しないのです。もう一つ、私が日頃「BSニュース・きょうの世界」をほとんど観ていなかったということがあるかもしれません(長崎さんゴメンナサイ)。自分の観慣れた番組、たとえば「報道ステーション」とかだったら、視聴者の存在を想像してしまって、もっと緊張したのかもしれません。

 ただ、自分が出た番組ということで情が移り、その後は「BSニュース・きょうの世界」を何度か観てみました。ああ、今日もまたやってるなぁ、って。私はわずか1日取り繕っただけですが、あのドタバタと緊張感を毎日繰り返しているとは。いくら職業だといっても、頭が下がります。やっぱり、テレビのこちら側で、ボケッと観てる方がいいや。

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 PS.今日、突然気が付いたんですけど、このHPの入居している「ヤフー・ジオシティーズ」のHP容量が、10月下旬から一気に300MB(!)に増えたんですよね。それまでは上限25MBで、このHPはすでにその半分近く使用していて、そろそろ窮屈な感じがしてきたところでしたが ・・・・・・。それが、300MBに増えたことで、まだ3.3%しか使用していないということになりました。まだ、あとこの30倍アップできるのか。体がもつかしら。

2004年11月2日)

 

 

兄弟ロシアとともに ―ベラルーシの国歌に関する考察

 拙著『不思議の国ベラルーシ』では、ベラルーシの国旗・国章についての問題を取り上げています。ルカシェンコ政権が、民族主義的な国旗・国章を廃止し、ソ連時代のそれに酷似したものを導入してしまったという話です。実は、原稿の最初の時点では国歌の問題も論じていたのですが、紙幅の都合で泣く泣くその部分を削ってしまったのです。そこで、ボツになってしまったベラルーシの国歌談義を、ここで披露いたします。

 さて、ソ連では、ソ連全体の国歌とは別に、15共和国それぞれのアンセムがありました。1955年に制定されたクリムコヴィチ作詞、ソコロフスキー作曲のベラルーシ共和国歌は、こんな歌い出しです(原詩はベラルーシ語)。 

我らベラルーシ人は、兄弟ロシアと

ともに幸福への道を追い求めた。

自由を求める闘い、幸いを求める闘いにおいて

我らはロシアと勝利の御旗を手にした。

 

我らを結び付けしはレーニンの名、

「党」は我らを幸福への歩みへといざなう。

「党」に栄光あれ! 郷土に栄光あれ!

汝に栄光あれ、ベラルーシ人民よ!

 と、ロシアの弟分でいることを永遠に誓うような歌詞であったわけです。

 弟うんぬんは別として、1991年暮れにソ連が崩壊すると、さすがのベラルーシ国民も、レーニンだの党だのと歌うわけにはいかなくなりました。そこで、1990年代前半に、新しい国歌の制定が検討されたのです。

 ところが、歌詞という複雑な要素がからんでいるだけに、新国歌をめぐる議論は収拾がつかなくなってしまいました。国旗・国章問題では民族派にしてやられた共産党系の議員や保守派官僚が、「国歌だけは譲らないぞ」とがんばった結果だと言われています。というわけで、新しい国歌の制定は棚上げになり、昔ながらの共和国歌が、歌詞なしでメロディーだけ演奏されるという方式が、独立後10年以上続けられたのです。

  結論から言えば、ようやく2002年になって国歌制定コンクールが実施され、同年7月に大統領令によって晴れて新国歌が承認されたのでした。ただし、新国歌とはいっても、カリズノ氏という詩人がソコロフスキーのお馴染みの曲に新しい歌詞をつけただけであり、しかもクリムコヴィチの詩の補作にすぎません。そしてそこには、ロシアと名指しこそしていないものの、相変わらずの兄弟愛を吐露した次のような一節が見られます。

栄えあれ、諸国民の兄弟連合!

……

兄弟たちとともに勇敢に長きにわたり

我らは生家を守り、

自由を求める闘い、幸いを求める闘いにおいて

自らの勝利の御旗を手にしてきた。

 ある程度の年齢のベラルーシ国民であれば、ソコロフスキーの曲を聞くとどうしても昔の歌詞を連想します。民主独立国家として処していくためには、曲ごと変えなければだめだという意見も当然ありました。実際、今回のコンクールでもいくつかの新曲が提案されています。しかし、結局メロディーはそのままで、詩を部分的に変えるだけの最低限の手直しに終わったわけです。

 ところで、本件は10年も宙に浮いていたのに、今ごろになってなぜそそくさと決着がつけられたのでしょうか? 管見によれば、それは2000年暮れにロシアが旧ソ連国歌(アレクサンドロフ作曲)に新しい歌詞をつけてロシア国歌として制定したことに関係しています。言うまでもなく、ベラルーシ国民の多数派は、ソコロフスキーの曲などよりも、旧ソ連国歌の方に愛着を感じています。ソ連を再興して再びアレクサンドロフの曲を共有したいと夢見ていたベラルーシ人は、少なくなかったはずです(実際、この曲はロシア・ベラルーシ連合のアンセムという扱いになっていました)。ところが、アレクサンドロフのメロディーがロシア一国のものになってしまった以上、ベラルーシとしても未練を断ち切って独自の国歌についての態度を固めざるをえなくなったわけです。その際に、とかくロシアに右へ倣えをするベラルーシ国民のこと、古い曲に新しい詩をつけるという方式も踏襲したということではないでしょうか。

(2004年10月5日) 

 

 

読書感想文の思い出

 最近、鎌田實著・唐仁原教久画『雪とパイナップル』(集英社、2004年)という本が刊行されました。月刊誌『潮』の9月号に、私がこの本をレビューした書評が掲載されています。鎌田實さんというのはお医者さんで、ベラルーシのチェルノブイリ汚染地域で医療活動に携わった方です。本書は、その鎌田先生がある患者との出会いと別れについて書き綴り、それに挿絵を添えて「大人のための絵本」に仕立てたものです。私にとっては、馴染みのないテーマとメディアであり、依頼をお受けしたものかどうか躊躇しましたが、ついでに拙著『不思議の国ベラルーシ』も宣伝してしまえという下心もあり(笑)、チャレンジしてみました。

 それにしても、私が人様の本を公の場で論評するとは、感慨深いものがあります。というのも、私は若い時分から読書が嫌いで、増してや読書感想文を書くとなると大の苦手だったからです。

 私も、小学校時代までは、結構本を読むのが好きでした。ところが、中学に入って学校が夏休みの指定図書一覧みたいな大層なものを出すようになり、それらをなるべくたくさん読まなければいけないという強迫観念ばかりが先に立つようになって、急に読書が苦痛になったような記憶があります。中学から高校にかけて熱心に読んだ本といえば、ショートショートやSFくらいであり、そんなものでは学校に出す読書感想文は書けないですよね。

 ただ、一度だけ、私は読書感想文で輝きかけたことがあります。中学2年の時でしたが、1クラスからそれぞれ2名の作品を選び、学年全体で1冊の読書感想文集をつくることになりました。その際に、私のクラスから、学級委員の超優等生に加え、私の作品が選ばれたのです。私は、成績はそんなに悪くはなかったものの、悪ガキでしたから、それが発表された時にはクラスがどよめきました。

 ただ、担任の先生(国語がご専門)がおっしゃるには、内容はすごいけれど、説明不足のところがあるので、加筆する必要があるとのこと。私としては、ちょっとした優越感を味わうのと同時に、「嫌いな読書感想文をやっとの思いで終えたのに、まだ書き足さなければいけないの?」と、困惑しました。

 結局、私は先生の加筆注文をよく理解できず、一応作業を試みたものの、完成させることはできなかったのです。私の中学は、1学年が14クラスもあるマンモス学校だったのですが、各クラスから2人ずつの感想文が採録されている文集に、私のクラスからは優等生1人の作品しか載りませんでした。あれはちょっと切なかったなぁ。

 そんな私も、相変わらず読書は嫌いなものの、いつの間にか文章を書くことを生業とするようになって……。内田先生、俺のこと覚えてるかな。俺、本を出したよ。全国的な月刊誌で書評もやったよ。今だったら、どんなご注文も楽々受け止めて、良い仕事しますぜ。

(2004年9月1日) 

 

村上さんと、アメリカと

 2004年7月13日、北海道大学スラブ研究センターの村上隆教授がお亡くなりになりました。享年62歳。7月17日、札幌の教会で執り行われた葬儀式に出席してまいりました。

 村上さんは1994年3月まで、(社)ロシア東欧貿易会・ロシア東欧経済研究所の調査部長を務めていました。私にとっては、5年間、直属の上司だったことになります。

 村上さんが亡くなってから、その人柄や業績について、多くの人から賛辞が寄せられています。それだけ、沢山の人に愛され、認められていたということでしょう。

 ただ、私自身は、村上さんとの人間関係が常に円滑なものではなかったことを、正直に認めておきたいと思います。入社したばかりの私は、生意気にも仕事の方向性をめぐって村上さんに歯向かうことが多かったのです。村上さんが北海道大学に移って、仕事上の直接的な利害関係がなくなってはじめて、私と村上さんの関係は平穏なものになりました。

 しかし、村上さんの偉いところは、私のような可愛くない部下に対しても、排除するのではなく、何とか一人前にしてやろうと色々配慮してくれたことです。引っ込み思案で、語学力が弱い私は、入社してからあまり海外出張に行く機会がありませんでした。村上さんは、そんな私に、アメリカに行く機会をつくってくれたのです。

 まあ、ただアメリカに行くだけなら誰でもできるのですが、私が参加したのは米国務省の主催するInternational Visitor Programという特別なものでした。これは、アメリカ政府が諸外国の有力者(あるいは将来そうなる見込みのある人物)を招聘し、各参加者の希望を取り入れてアメリカを自由に見てもらおうというプログラムで、費用はアメリカ政府持ちのうえに1カ月も通訳兼エスコート付きで好きなところに行っていいという太っ腹な企画なのです。それまでの参加者リストというのを見たら、確か作家の落合恵子さんなどもいましたので、普通はれっきとしたオピニオンリーダーが招待されるのでしょう。なぜ私のような駆け出し者が参加できたかというと、それがまさしく村上さんの力だったのですねぇ。当時村上さんは駐日米国大使館の経済担当官と親しくしており、私を強く推薦してくれたのでした。

 これは後から分かったことなのですが、どうもその頃(1980年代末から1990年代初頭にかけて)駐日米国大使館というのは、ソ連・東欧の経済や東西間の通商関係、技術移転の問題などに関する情報を収集する特命を帯びていたようなのです。冷戦体制が崩壊しつつあるなかで、米国は共産圏との経済関係が希薄だったので、日本で情報をかき集めようとしたのでしょう。その一環として、この分野の第一人者であった村上さんに食い込もうとしていたのではないか。私はそのように推測しています。

 何はともあれ、その賜物として、私は米政府のInternational Visitor Programに参加できることになりました。決まったのは1991年の 夏だったと思います。正式に決まった当日、呑気にも私は休暇をとって家でゴロゴロしていたのですが、村上さんが弾んだ声で家に電話を入れてくれました。「オイ、決まったぞ」って。

 かくして、1992年5月16日から6月16日まで、私はアメリカ各地を旅しました。ルートは、ワシントンDC〜ニューヨーク〜シカゴ〜デトロイト〜ニューオリンズ〜メンフィス〜ロサンジェルス……。あれ? これってひょっとして、音楽ファンの物見遊山? まあ、いいじゃないですか。アメリカ政府が、どこでも好きなとこに行けと言うんだから。

 でも、ちゃんと研究の仕事もしましたよ。とくに、「アメリカの外交政策決定におけるロシア・東欧系マイノリティの要因」というテーマを立て、ロシア人、ウクライナ人、アルメニア人、グルジア人、リトアニア人、ポーランド人、ルーマニア人、ソ連系ユダヤ人などの団体を訪れたり、活動家と会って聞き取り調査をしたりしました。ちなみに、この頃はまだベラルーシのことは眼中になかったので、ニューヨークにあるベラルーシ人民共和国の本部を訪れるといったことはありませんでした。残念。

 あまりにも中身の濃い1カ月のアメリカ旅行でありましたが、なかでも一番強烈に印象に残ったことを紹介し、村上さんへの追悼の辞に代えさせていただきます(本当は自慢したいだけ?)。

 私は米政府のプログラム担当者に、「黒人の教会に行ってゴスペルを聞きたい」というリクエストを出しました。こんなリクエストにも対応してくれるのがこのプログラムの素晴らしいところ。シカゴを訪れた折に、日曜日に1人でCTA Trainという市電に乗って指定された教会に向かいました。電車はシカゴのダウンタウンから一路南下し、気が付けば車両に乗っているのは自分一人、しかも駅に降り立ったところそこはどう見てもスラム街で(冷汗)。この時ばかりは、死ぬかと思いましたね。でもまあ、何とか地図を頼りに教会にたどり着いて。4315 Wabash, Chicago, Il 60653にあるFirst Church of Deliveranceというところでした。ちょっと焦ったのは、日曜の礼拝は彼らにとって当然神聖なものなので、全員正装しているのだけれど、自分だけカジュアルな格好で来てしまったこと。会衆は1人だけ白人で、あとは皆黒人。

 というわけで、怒涛のゴスペル礼拝の始まりです。それにしても、音楽を聴いて、最初の音が鳴り響いた瞬間に涙があふれてきたという経験は、後にも先にもこの時だけです。1度聞いただけなのに、いまだに鮮明に覚えてますからね。実際に信者が失神してしまう、黒いホーリネスの世界。ニューヨークあたりで観光バスが乗り付けて、クワイヤーが小奇麗な合唱を聞かせるような、そんなものとは全然違います。 こんなすごいものがあるのに、知らずに生きてきたなんて、今までの自分の人生は何だったんだろう……。そんなことすら考えさせられました。

 「シカゴのスラムで本物のゴスペルを聞いた」というのは、私の人生で最も素晴らしかったことの一つです。どうにもロシア研究者らしからぬ話になってしまいましたが、この体験 が可能になったも、紛れもなく村上さんの度量のお陰です。

 所変わって、静寂に包まれた札幌の教会。私は村上さんの霊前で、自分が村上さんの後継者になるということを心に誓いました。今まで、つまらぬ意地を張って散々遠回りしてきましたが、もう迷いません。私は村上さんの後を継いで、日ロ経済関係の専門家として、必ず第一人者になってみせます。だから、どうか安らかにお眠りください。

2004年8月2日)

 

 

嗚呼、ミハイルよ!

 先日、ベラルーシのニュースを眺めていて、愕然としました。

 ジャーナリストのミハイル・ポドリャク氏がベラルーシから国外退去処分!

 ニュースによれば、ベラルーシの国家保安委員会(KGB)は6月21日、ミンスクを拠点とする『ヴレーミャ』紙のミハイル・ポドリャク副編集長(ウクライナ国籍)を国外退去させた。その理由は、偏向した報道、当局への挑発によりベラルーシの国益を損なったこと、また外国人の滞在に関する法令に違反したこととされている。KGBの職員がポドリャク氏を駅まで 連行し、同氏をウクライナ行きの列車に乗せた。今後ポドリャク氏は5年間、ベラルーシ入国を禁じられるという。ベラルーシ・ジャーナリスト協会は翌日この措置について抗議、ウクライナ外務省もベラルーシ当局に釈明を求めた。

 私がポドリャク氏に注目したのは、1999年頃だったと思います。当時の私は、在ベラルーシ日本大使館で、現地の新聞や通信社の配信記事に目を通し、ベラルーシ情勢をフォローする仕事をしていました。その頃、『ベラルーシ新聞(Belorusskaya gazeta)』という週刊紙に、毎週のように渾身の政治評論を寄せていたのが、ミハイル・ポドリャク氏でした。最近名前を見ないなぁと思っていたら、別の新聞に移っていたのですね。

 『ベラルーシ新聞』というもの自体、かなりどぎつい新聞なのですが(ロシア資本であることが関係しているようです)、そのなかでも、当時ポドリャク氏の書いていた記事は、「一体どこでそんなネタを仕入れてきたの?」と思わず唸るような内幕情報に満ちていました。ルカシェンコによる独裁が強まりつつあるベラルーシで、なぜこのような記事がまかり通るのか? 一体このポドリャクという記者は何者なのだろう? そもそもミハイル・ポドリャクなる人物は実在するのだろうか? いつしか私は、ポドリャクという人物が実在するなら、ぜひ会ってみたいと思うようになりました。

 そんな折り、東京から出張者があり、ベラルーシ情勢について現地の識者と懇談したいので、適任者をピックアップしてほしいというではありませんか。丁度その頃、『ベラルーシ新聞』のヴィソツキー編集長とも仕事上の接点ができたので、これは好都合ということで、ポドリャク氏との面談を編集長に依頼したのです。恐る恐るだったのですが、あっさりとOKが出ました。2001年3月のことです。

 面談の当日も、「本当に来るのだろうか?」と半信半疑なままでした。しかし、これがちゃんと来たんですねぇ。しかも、ミハイル君、まだ若く、なかなかの好男子。東京からの出張者は女性だったので、私としては一手柄立てた気分です。飛び切りの事情通の上に、男前なんですからねぇ。出張者はしっかり、ミハイル君と2ショット写真に納まっていました。

 「ミハイル・ポドリャクという人物は実在しないのではないかと疑っていました」。私がこう切り出したところ、彼氏は、「他の国の外交官にもよく言われますよ」と言って笑っていました。

 聞けばミハイル君、医学部出身で、救急医療の医者として働いていたのだが、周知のように旧ソ連では医者は薄給であり、割に合わないと考え、ジャーナリストに転身したのだという。当方から、「若いのに鋭い記事を書いておられる」と持ち上げると、「この仕事は歳とは関係なく、実力次第」と自信を覗かせていました。

 実はミハイル君、父はウクライナ人、母はロシア人という家庭の出身だそうで、1980年代後半まではウクライナのキエフに住んでいて、その後ベラルーシのミンスクに移り住んだとのこと。「今年(2001年)、私はベラルーシ国籍からウクライナ国籍に切り替えました。私は常に検察に目をつけられているのですが、外国籍だと、当局も迫害しにくくなるからです。実際、ウクライナ国籍にしてから、呼び出される回数が減り、より穏便になりましたね」。

 なるほど、自由に書いているようで、やはり締め付けはきついのか。

 とくに、ベラルーシの「第2の国家予算」として関係者の間で知られる「大統領基金」に話題が及んだ時には、さすがのミハイル君も次のように漏らしていました。

 「ルカシェンコの大統領基金については、危険すぎて、誰も書こうとしません。私自身も書く勇気はありません。どうやらルカシェンコはまだ政権に居残るつもりのようで、私自身もまだしばらくこの国で働かなくてはならないから……」

 つまり、この国では、言論の自由がまったくないわけではなく、ある程度は政権批判も可能であるが、越えてはいけない一線というのがあって、そういう間合いを計りながら、ジャーナリストは仕事をしているわけか。でも、何がよくて、何がいけないのか、そういう線引きというのは、外国人にはなかなか分かりにくいものだなぁ。ポドリャク氏と話をしてみて、私は一筋縄では行かないベラルーシのマスメディア事情を垣間見た思いがしたものです。

 さて、それから3年あまりの月日が流れました。私が今回のポドリャク氏の事件を憂慮するのは、単に自分の知っているジャーナリストが国外退去処分になってしまったからだけではありません。これまでも、『不思議の国ベラルーシ』で紹介したマルケヴィチ氏のように、ルカシェンコ政権への敵対的な姿勢をむき出しにするジャーナリストが弾圧されることはありました。しかし、ポドリャク氏は、当国の暗部に迫りつつ、越えてはいけない一線というものを見極め、現実と折り合いをつけながら仕事をしてきたジャーナリストのはずです。そのために国籍もウクライナに変えました。そのような人物すらも国外退去を迫られたということは、ルカシェンコ政権による言論弾圧が質的に新しいレベルに移行しつつあることを意味するのではないか。今後、独立系メディアに対しては、まさになりふり構わない迫害がなされていくということを暗示しているのではないか。私はそのような危惧を禁じえないのです。

2004年7月1日)

 

 

韓日共催ワールドカップ余話

 私は、拙著『不思議の国ベラルーシ』において、スポーツ、とりわけサッカーというものを通じて見たベラルーシの国民意識について論じました。2000年10月、韓日共催FIFAワールドカップのヨーロッパ予選における対アルメニア戦をミンスクのディナモ・スタジアムで観戦し、その時体験した信じがたい出来事についても本のなかで紹介しています。

 しかし、実はそれだけではなかったのです。その後、ベラルーシの国民意識の問題を象徴する、よりスキャンダラスな出来事が起きました。『不思議の国ベラルーシ』には収録しきれなかったこのエピソードを、今回はお届けいたします。

 くだんのアルメニア戦を辛くもものにしたベラルーシは、その後も粘り強く勝ち点を拾い、かつてない堂々たる戦いぶりを見せました。この予選グループでは、ポーランドが頭ひとつ抜け出し、ベラルーシとウクライナという兄弟国同士が激しい2位争いを繰り広げる展開となりました。2001年9月1日、ホームにウクライナを迎えたベラルーシは、この試合に勝つか引き分ければ、グループ2位確保=プレーオフ進出に向け大きく前進するはずでした。ところが、この試合はそれまでの快進撃をすべて台なしにするほどの、最悪の結果に終わるのです。

 誰もが認めるベラルーシ・チームの大黒柱は、ハツケヴィチとベリケヴィチの2人。それまでの予選の全得点は、両名のうちどちらかがからんで生み出されていました。しかし、ウクライナ戦で頼みの2人はみるからに精彩を欠き、敵の背後を突くという戦術を実践しなかったばかりか、相手攻撃陣に再三の中央突破を許しました。両者はともに途中交代させられています。結局、この大一番を〇対2で落としたベラルーシは、2位の座をウクライナに明け渡してしまいました。試合終了後、マロフェエフ監督は問題の2人を名指しで非難し、これは裏切りだと息巻きました。その後の試合で、両雄がピッチに立つことは2度とありませんでした。プレーオフの切符も、結局ベラルーシの手をすり抜けてしまったのです。

 問題は、ハツケヴィチとベリケヴィチがウクライナの最高峰、ディナモ・キエフでプレーしていたこと。しかも、ウクライナの代表監督は、キエフのロバノフスキー監督その人だったのです。まずいことに、ベラルーシのエース2人はキエフとの契約更改を控えていました。ウクライナ・サッカー界を札束で牛耳る名うてのスールキス氏が、2人の弱みに付け込んだのでしょうか……。

 ある国のトップ選手が、より高い報酬と競技のレベルを求めて国外のクラブでプレーするということは、いくらでもあります。それでも、普通は母国のナショナル・チームへの思いは特別ではないでしょうか。祖国を裏切って出稼ぎ先の国に荷担するなどということは、日本人にとっては想像しがたいことです。

 むろん、意図的な怠慢プレーがあったかどうかは謎のままです。それでも、ひとつだけ確かなのは、そのような疑惑が取り沙汰されるほど、ベラルーシにおける国民的忠誠心が微妙なものであるということです。その際に、ベラルーシ人にとってウクライナは、単なる出稼ぎ先ではないという点を考慮すべきでしょう。もしも1991年に進学、就職、結婚等の事情でたまたま住んでいたら、特段のためらいもなく自分の祖国として受け入れたであろう、そのような国なのです。ハツケヴィチ、ベリケヴィチにしても、国籍などにはかかわりなく、まさにウクライナのサッカー界が富と名声をもたらしてくれたのだとしたら、それに忠誠を誓ったとしても不思議ではないのかもしれない。

 なお、念願のプレーオフ切符をもぎとったウクライナは、実にこの国らしいことながら、ドイツとのプレーオフにあっさりと破れ、韓国・日本の地を踏むことはできませんでした。

(2004年6月28日)

  

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