マンスリーエッセイ(2008年)
冬のオデッサこのところ、毎月PCの話をしておりますが、 その続きというか、完結編です。秋に新型VAIOを買ったものの、やはりモバイルPCで自宅で仕事をするのはしんどいので、このほど新たにデスクトップPCを買いました。今回は、今までの選択基準とは打って変わって、デザインや小洒落た機能などは追い求めず、PCとしての基本性能に徹底的にこだわりました。色々物色したところ、NECの直販サイトで、自分流にカスタマイズしたマシンを注文できるということを知り、VALUESTAR GタイプMというやつを選びました。CPUはインテルCore 2 Quad、HDDは750GB、メモリは2.0GBと、過剰なまでのスペックにして。これに、Office Professional と Adobe Creative Suite Master Collection をぶち込んで、最強マシンを作るのだ! Creative Suite で何をするのかは、自分でも謎ですが(笑)。 先月、いったん直った旧VAIOがまたすぐに壊れたと書きましたが、同マシンも再び復旧しました(笑)。ああでもない、こうでもないといじっているうちに、もしかしたらまたメモリーの問題なのかもしれないと思い立ち、今度は自分で増設分のメモリーを抜いたら、あっさりと起動しました。しかし、試行錯誤するなかで、Cディスクのリカバリーをしてしまったのが、まずかったですね。マイドキュメントなどはDディスクに移動してあったので、Cディスクをリカバリーしても問題あるまいと思っていたのですが。考えてみれば、各種ソフトも初期化されちゃうから、メールの送受信とか、ソフトに記録されていたデータも全部消えてしまうわけですね (←ですよね、きっと?)。とくに、「筆ぐるめ」が初期化されて、年賀状の送付先が消えたのには、往生しました(笑)。まあ、大した実害ではありませんが。 旧VAIOの不具合は、計3回生じましたが、結局3回とも増設メモリーが壊れただけで、PC本体には何の異常もなかったということになります。「5年寿命説」のようなことを述べたけど、撤回かな? ただ、メモリーが駄目になるということは、排熱処理など、PCの設計に難があるのかもしれず、そのあたりは何とも言えませんが。 旧VAIOが実質的に出荷時と同じ状態に戻ったので、我が家には今、新品同様のPCが3台もあることになります(笑)。このところ、PCの流浪生活が続いていたので、各マシンのソフトやファイルの状況が、すっかり混乱してしまいました。そこで、大晦日の本日、部屋ならぬPCの大掃除をしました。このホームページも、会社PC→旧VAIO→会社PC→新VAIO→NEC機と本拠地の移転を繰り返すうちに、だいぶちらかってしまっていたので。まあ、自宅にデスクトップ機を構えたので、これでようやく落ち着くでしょう。 さて、本題です。毎度、古い話で恐縮ですが、昔、「冬のリヴィエラ」という歌がありましたよね。リヴィエラは地中海沿岸のリゾート地として夏に賑わう場所なわけですが、それをあえて「冬の」とすることで、寂寥感を表現した曲でした。私はこのほど、それを地で行くような旅行をしてきました。真冬だというのに、ウクライナの黒海沿岸の街オデッサを、仕事で訪れてきたのです。1月のエッセイで述べた、「この目で黒海を見る」という念願を、ようやく叶えることができました。 ただ、オデッサがリゾート地であるというイメージは、私にはありませんでした。日本の場合、港の近くには、ビーチはあまりありませんよね。オデッサ=港町という先入観が強すぎ(横浜の姉妹都市ですからね)、保養地的なイメージがあまり浮かばなかったのです。しかし、実際に行ってみると、オデッサ市の北側の海岸 こそ港湾施設で埋め尽くされているものの、東側の海岸一帯は全部海水浴場になっていました。そして、砂浜に近い海岸沿いでは、リゾートホテル、リゾートマンションの建設が進められています。 まあ、保養地としての価値は、同じウクライナでもクリミア半島の方が上でしょうし、ウクライナやロシアの大富豪であれば、それこそリヴィエラあたりに別荘を構えるでしょう。オデッサは、それよりは財力が劣るウクライナ人やロシア人にとっても手の届く、現実的な別荘地・保養地という位置付けではないかなという感じがしました。もっとも、海岸沿いの無秩序なリゾート開発については、地元民から反発の声も上がっているようです。 いずれにしても、リヴィエラよりは相当格が落ちるとはいえ、オデッサも基本的にリゾート地 ・観光地であり、賑わうのは夏なわけです。今回、季節外れのオデッサを訪れてみて、さすがにどこも閑散としていました(映画「戦艦ポチョムキン」で有名な階段の写真をご覧ください)。私が泊まったホテルも、港よりはビーチに近いリゾートホテル的なところで、宿泊客はごくまばらでした。しかも、ずっと曇天続きで、かなり寒かったです。天気予報では毎日、「オデッサ:晴れ。降水なし。気温3〜5℃」とか言っているのに、実際にはずっと「曇り時々小雪、強風、気温−3〜0℃」 といったところでしたからね。近年これほど寒い思いをしたことはありません。 オデッサの街並みは、それなりに情緒があって、悪くありません。広葉樹の並木道、坂道のある風景などは、(ウクライナとしては)南の港町ならではでしょう。オデッサの面白いところは、産業施設(港)と観光地が隣り合わせになっているところで、そのあたりは本当に横浜に似ています。ただ、街の中心部が観光地として綺麗に整備される一方、ちょっと中心を外れると壊れかけの建物や廃工場などが目につき (←嫌いじゃないですけど)、ギャップが大きいなと感じました。オデッサ州では、港湾、一部の輸出産業、観光こそ栄えているものの、地域経済全体としては発展が立ち遅れているなというのが、偽らざる印象です。経済危機下の冬に訪れたので、余計にそう感じたのでしょう。
観光地といっても、キモになっているのは海であり、名所旧跡の類がそんなに豊富にあるわけではありません。街を歩くと、教会がちらほらと目に付く程度で。ただ、正教会のほかに、カトリック寺院、ユダヤ教のシナゴーグなども見られ、多民族・多宗教の歴史を偲ばせます。代表的な建築遺産は、写真に見る「国立アカデミー・オペラ・バレエ劇場」でしょうね。 ちょっと驚いたのは、市内の比較的大きな本屋で探してみても、オデッサに関連する本が一切なかったことです。あったのは市や州の地図くらいで、そんなものならわざわざオデッサに来なくても、キエフやモスクワの書店で簡単に手に入ります。店員に「オデッサに関する本はないのですか」と聞いても、「ありません」とキッパリ。お前は一昔前のベラルーシかという感じでした。 ところで、オデッサの街を歩いていて非常に気になったのは、犬がやたらに多いということです。飼い犬も多いのですが、とにかく野良犬が大量にいて。キエフなどウクライナの他の街では、そういう光景を見た記憶がまったくないので、これはオデッサの特殊事情なのだと思います。地元の人にそのことを指摘すると、「そうかなぁ?」などと言ってとぼけていましたが、明らかに多いっちゅうの! そういえば、今はどうか知りませんが、以前ルーマニアで野犬が大量発生してヒトを襲うという問題が起きていました。オデッサ州はルーマニアと国境を接しているので、風土的に共通するところがあるのかもしれません。今回、私が出会った犬は皆おとなしく、襲われるようなこともありませんでしたけれど、やつらが人間に牙を剥く日も決して遠くないと見た! オデッサは海に面した街なので、日本人はつい、「魚がうまいのではないか!?」と色めき立ってしまいます。実際、在ウクライナ日本大使館の館員は、オデッサは魚がうまいとおっしゃっていました。そこで、オデッサではぜひ魚を食してみたいと思っておりました。運よく、オデッサの繁華街で、「ウクラインシカ・ラスンカ」というウクライナ料理店を見付けたので、そこで魚料理を試してみることにしました。なお、「ラスンカ」というのは、ウクライナ語でグルメとか食いしん坊といった意味らしいです。同レストランのホームページもあります。それで、迷った末に、私が注文したのが「オデッサ風スズキ」という料理でした。ジャガイモとタマネギを敷き詰めた鉄板にスズキを乗せ、それをトマトやチーズで覆って蒸し焼きにしたもので、あっさりした塩味でなかなか美味でした。ただ、これが実際に「オデッサ風」なのか、スズキが地元で獲れたものなのかは、定かではありませんが。今回ウクライナ滞在中に読んだ雑誌によれば、ウクライナでは密漁により水産資源が激減しているらしく、スズキのような大衆魚も遠からず食べられなくなるといった説もあるようです。記事のスキャンをご覧ください。 最後に、恒例の博物館談義を。オデッサでは、2つの博物館を見学しました。ひとつは「オデッサ歴史・地誌博物館」というやつで、これはまあ、ありきたりな博物館でした。展示が粗末というわけではないのですが、郷土色が薄く、「ザポロジエ・コサック?、オデッサ関係ないやん」という感じで。 それに対し、素晴らしかったのが「オデッサ考古学博物館」でした。こちらはウクライナ科学アカデミーの傘下であり、おそらくウクライナの考古学関連施設としては屈指の存在ではないかと思われます。何しろ、このあたりは、遊牧民のスキタイ人が暴れ回り、またギリシャ人が黒海沿岸に植民都市を築いたところですので。その関連の展示が、圧巻でした。もっとゆっくり見たかったんですが、入館した時には閉館時間の5時まで1時間ちょっとしかなく、あせって駆け足で見ました。 それで、考古学博物館の一番最後の部屋は、何と、古代エジプトの展示でした。もちろんオデッサとは関係ありませんが、例の棺やらミイラやらがたくさん置いてあって、ビックリです。呆気にとられて、見入っていると、急に明かりが消えて、二度ビックリ。実は、シーズンオフの遅い時間なので、他の客はもう帰ってしまい、閉館時間までまだ20分くらいあったのに、館員が戸締りを始めてしまったのです。あやうく、古代エジプトの部屋に閉じ込められ、ミイラと一夜をともにするところでした(笑)。 そんなわけで、オデッサ出張のフォトエッセイをお届けしました。オデッサ州の経済については、後日ちゃんとしたレポートを書く予定ですので、ご関心の向きはチェックしてみてください。もう一度オデッサ州に行く機会があったら、今度は対ルーマニア国境とかドナウデルタのあたりを探訪してみたいです。 それでは皆さん、良いお年を! (2008年12月31日)
デルタ地帯のぬかるみ先月、パソコンが壊れた話をしました。個人所有のパソコンとしては、シャープのMebiusが初代、ソニーのVAIOが2代目と書きました。 少し補足すると、これ以外に、3年ほど前に買ったパナソニックのLet's Noteがありました。ご存じのとおり、Let's Noteは軽くて持ち運びに便利なモバイルPCですので、私も主として出張や会議出席などの際に使用していました。ところが、以前エッセイで書いたように、2007年12月、ウクライナでパソコン盗難の被害に逢いました。その時盗まれたのが、まさにこのLet's Noteだったのです。ほぼモバイル専用機として使っていたので、大事なファイルが失われてしまうようなことはなく、物質的な被害だけで済んだのは不幸中の幸いでしたけれど。 それで、10月に壊れたソニーのVAIOは、業者に修理に出しました。私としては、同マシンの復旧に期待はしていたものの、修理にはしばらく時間がかかり、その間にも急ぎの仕事や、ロシア出張の予定もありました。そこで、モバイル用途を主眼に、とりあえず新しいPCを1台買うことにしました。そして選んだのが、またしてもソニーのVAIO、VGN-Z70Bという商品。1.45kgの軽いやつです。まあね、モバイルPCとしての完成度はパナソニックのLet's Noteの方が上であることくらい、百も承知ですが。でも、学会とかに出かけると、皆が皆、同じ銀色のLet's Noteをもっていて、ムカつくじゃないですか。それに、ウクライナで盗まれたのと同じブランドを買い直すのもシャクなので(笑)。 というわけで、今回は2代目VAIO、ニューマシンVGN-Z70BでマイHPを更新しているのでした。しかし、Vistaにしても、Ofiice2007にしても、ロクなもんじゃありませんな 。 それで、旧VAIO機なのですが、修理業者から連絡があり、実は同機は故障しておらず、増設したメモリーが壊れているだけで、その増設メモリーを抜いたら正常に 動作するという報告を受けました。というわけで、不良メモリーを引っこ抜いただけだったので、修理代も一切かからず、旧VAIO機はいったん復旧したのです。ところが、1日使ったら、また起動しなくなってしまいました。どう考えても、メモリーだけの異常とは思えず、どうしたものやらと思案しているところです。新VAIO機は、画面が小さくて本格的な仕事はしづらいので、モバイルじゃない、家で使うメイン機を、新たに買わなきゃいけないのかな……。 最近、どうも色んなものが、よく壊れます。一番悲しかったのは、長年使ってきた黒電話がだめになったことです。私はこれまで、携帯電話はおろか、固定電話のプッシュホン回線すら拒絶して、ひたすら黒電話を使い続けてきました。黒電話といっても、皆様の想像するダサいものではなく、パルコのアンティークショップで買ったかわいいやつです。私としては、一生この電話と添い遂げるつもりだったのですが、最近ダイヤルのゼンマイが悪くなってきて、ダイヤルするのに、ものすごい力を入れないと動かなくなってしまったのです。指でやると痛いので、ペンを固く握りしめてその先でダイヤルを回し、番号を最後まで無事ダイヤルできれば ミラクルという感じになってきて。まあ、修理もできないことはないのですが、さすがの私も面倒になり、今般固定電話をやめて、携帯電話に乗り換えました。海外出張に行く時に、携帯がないと不便という事情もありまして。初めてのケータイなので、機能のこだわりなどは特段なかったにもかかわらず、普通にテレビ電話が付いるのには驚きました。アナログ回線の黒電話から、いきなりテレビ電話かよ。 あと、デジカメも壊れました。4年ほど前に買った富士フィルムのファインピックスF710という商品で、絵がきれいなので気に入っていたのですが。問い合わせたところ、富士フィルムに修理に出すと、最低でも1万2,000円、部品を交換すればもっとかかるとのことだったので、新しいのを買うことにしました。買ったのは、やはり富士のF100fdというやつです。同じファインピックスなら、使い勝手や付属品など共通する部分が大きいはずと期待していたのですが、残念ながらそうでもなかったようです。電池、充電器、USBケーブルなど、共通のものは何一つありません(皆さんもお困りだと思いますが、電子機器類を買うたびに形状の微妙に違うケーブルが増えていくのは、何とかなりませんかね)。カメラとしての基本性能も、かえってF710の方が良かったような気もします。 そんなこんなで、この不景気の世に、足繁くアキバに通ってモノを買いまくっている今日この頃です(笑)。 デジモノ買いまくりの話はこれくらいにして、仕事の面での最近の個人的トピックスとしては、「FDP International 2008」での講演がありました。これは、10月29〜31日にパシフィコ横浜で開催された薄型テレビ・ディスプレイ関係の大規模な展示会およびセミナーであり、私は31日に「成長と混沌が共存するロシアと周辺地域のFPD市場」と題する報告を行いました。 ただねえ。自分の大好きなジャンルで、講演の機会をもらったことはうれしかったんですけど。プログラム全体を眺めると、どうも私の報告だけ浮いているような気がしたんですよ。他の報告は、技術的な テーマが多くて、個別の外国市場に関する報告は私のものしかなかったし。私の参加したセッションは「激変するFPD産業のサプライ・チェーン」という題目だったのですが、当日、同じセッションの他の報告を聞いて、ますますその思いを強くしました。 たとえば、私の前に演壇に立ったのは、私なども時々レポートを読ませてもらっているプロ中のプロだったのですが、その専門家の報告は、だいたいこんな調子でした。
う〜む、何言ってるか、全然分んねえ(汗)。いくら私がデジタル家電を好きだからと言って、せいぜい最終的な商品のことを少し知っている程度で、その背景にある技術、工程、分業関係のことなどはほとんど知りません。こういう 技術的・専門的な議論が行われている会議で、私のような者が偉そうに講演をしていいのだろうか。 まあ、そうはいっても、主催者は私の既存のレポートを読んで、面白いと思ったからこそ依頼をしてきたわけだから、別に臆することはないか。そのように開き直って、講演に臨むことにしました。ただ、他の報告とあまりにも毛色の違う内容なので、冒頭、次のように切り出しました。
「デルタ地帯のぬかるみ」とは、我ながらうまいことを言ったものです。山本昌邦氏の「アジアの理不尽なぬかるみ」という表現にヒントを得ました。 FPD産業のプロの皆さんを前にプレゼンをするということで、多少舞い上がっていたのか、講師控室では間違って全然関係ない人と名刺交換をするというハプニングもありましたが(笑)。まあ、講演自体は、大過なく、無事に終えることができたと思います。報告の内容は、こちらをご覧ください。 なお、展示会の方は、時間がなかったので、ざっと眺めただけです。韓国勢のサムスン、LGが大きなブースを構えており、完全に「主役」 格でした。それに対し、日本の大手のテレビメーカーでは、本格的な展示を行っていたのがシャープだけで、ちょっと寂しい気がしました。 (2008年11月22日)
もうすぐ5周年大変だ大変だ、パソコンが壊れた。 このホームページの作成・管理にいつも利用している自宅のパソコンが壊れました。実は、このところ、ある本格的な論文を書く仕事に取り組んでいて(内容が「本格的」だと主張しているのではなく、かなりの作業量を要するしんどい仕事だったという意味です)。散々手こずった末に、先日ようやく書き上げ、編集者にメールで送付したのですが。送信を終えたその日に、パソコンが、まるで力尽きたかのように、ブチっと切れました。それ以来、起動しません。 5年くらい前に買ったソニーのVAIOで、総じて調子は良く、まだまだ行けると思ってたんだけどな。まあ、論文を書いている途中で壊れたらかなりのダメージだったけど、一仕事終えたところだったからね。せいぜい、復旧の道をじっくり探りたいと思います。というわけで、久しぶりに、会社のPCからマイHPを更新しているのでした。 VAIOの先代の個人パソコンは、シャープのMebiusでした。これは、私にとっては初めての個人PCで、1998年の春、ベラルーシに赴任する時に買って持っていったノートPCです。しかし、すぐに液晶画面が駄目になったうえに、ウィンドウズ95だったので動作の障害が年々深刻化していきました。ただ、ベラルーシで苦楽を共にした機械なので、ベラルーシの本は何としてもこのPCで書き上げたいというこだわりがあり、不具合に悩まされながらも、帰国後もずっと粘って使っていたのです。でも、2003年の夏頃だったか、いよいよもって、ほとんど動かなくなってしまって。断腸の思いで、Mebiusを諦め、やっとの思いでデータだけ取り出し、VAIOに乗り換えたという次第です。『不思議の国ベラルーシ』を上梓したのは、それから約半年後のことでした。 ということは、Mebiusの寿命が最大限延命して5年、今回のVAIOの故障も奇しくも買ってから5年目ということか。まあ、パソコンなんて、そんなもんなんだろうな。っていうか、世の人々は、もっと頻繁に買い換えてるのかな。VAIOは気に入っているので、直りさえすれば、まだ使いたいです。 それで、5年といえば、来月をもって、このホームページが立ち上げてから5周年を迎えます。記念に何かやろうかとも思いましたが、アイディアもないし、余力もないので、やめておきます。ただ、この機会に、日頃のご愛顧に改めて感謝を申し上げます。 (2008年10月27日)
遅ればせながら北京五輪についての雑感ちょっと込み入った仕事に手こずっているうちに、夏が終わり、9月も下旬になってしまいました。 この間の大きな出来事と言えば、やはり北京オリンピックでしょう。私も、決してヒマではないのに、結構観てしまいましたね。ただ、日本選手団の戦い振りといったことに関しては、時宜を逸してしまった感があるので触れないことにして、ここでは当ホームページの本題であるロシア・ウクライナ・ベラルーシ目線でのコメントを若干 述べるにとどめたいと思います。 さて、今回のオリンピックで私の印象に残ったシーンの一つに、陸上女子3,000m障害のレースがありました。オリンピックで初めて行われたというこの競技で、ロシアのサミトワ=ガルキナという選手が世界新記録で優勝しました。サミトワ=ガルキナは、スタンドからロシア国旗を受け取り、ウィニングランを始めました。ここまでは、よくある光景です。ところが、サミトワ=ガルキナはスタンドから、ロシア国旗とは別の、緑っぽい色のもう一つの旗を受け取り、それも誇らしげに掲げてみせたのです。 私は即座に、なるほど、彼女はロシア国民ではあるけれど、ロシアのなかの少数民族共和国の出身で、その共和国の旗を掲げているのだなと理解しました。しかし、不勉強なことに、その緑っぽい色の旗が、具体的にどこの共和国の旗なのかは、知りませんでした。 すぐに調べてみたところ、彼女はロシア沿ヴォルガ地域のタタールスタン共和国ナベレジヌィチェルヌィ市の出身であることが分かりました。タタールスタン共和国はロシアの少数民族共和国のなかでも最大かつ最重要なところで、ナベレジヌィチェルヌィは有名なトラック工場の「カマ自動車工場(KamAZ)」のあるところですね。 彼女が民族的に何人であるかというのは、よく分かりませんでした。タタール人は、ロシア人とそれほど顔つきが違うわけでもないので、なかなか区別がつきません。まあ、グリナラ・サミトワ=ガルキナというエキゾチックな名前からして、タタール系であることは間違いないでしょう。いずれにしても、オリンピックのウイニングランで、国旗の他にもう一つの旗が掲げられるシーンというのはちょっと記憶になかったので、非常に印象的だったわけです。日本で言えば、沖縄出身の選手が、日の丸に加えて、琉球王国の旗を振るようなものでしょうか。もし仮にそんな場面があれば、日本では大騒ぎでしょう。しかし、ロシアではサミトワ=ガルキナ選手のパフォーマンスが物議を醸したといったことも、とくになかったようです。やはり、多民族国家というアイデンティティが、それなりに定着しているということでしょうか。 ウクライナに関しては、う〜ん、あまり印象に残った場面がないなあぁ(笑)。強いて言えば、日本のフェンシング選手として初めてメダルを獲得した太田雄貴選手のコーチが、ウクライナ人だったという話題に注目した程度でしょうか。何でも、日本フェンシング協会が5年ほど前にウクライナ人のプロのコーチであるオレグ・マチェイチュク氏と契約し、同氏の指導の下で太田選手も力をつけたということのようです。ウクライナって、フェンシング強いのか??? 最後に、ベラルーシに関してですが。先日、こちらのサイトを見ていたら、今回の北京オリンピックでベラルーシが過去最高のメダルを獲得したということが紹介されていました。世界で第16位の成績だった ようです。正直、これは非常に意外でした。ベラルーシの選手が活躍したというイメージがあまりなかったので、てっきりベラルーシ選手団は ぱっとしない成績に終わり、例によってルカシェンコ(ベラルーシ・オリンピック委員会の会長!)が激怒しているのではないかと漠然と思っていたからです。 ところが、実際にはこのように過去最高の成績だったわけで、IOCのサマランチ名誉会長がベラルーシ選手団の活躍に対してルカシェンコに祝電を送ったという情報もあります。まあ、前出のサイトを見ても、言葉は悪いですが、地味な競技が多いですからね。メダルの数のわりには、印象に残らないのも、無理はありません。 陸上では、さながら「投てき王国」の様相を呈していますな。そのなかでも、男子ハンマー投げは、日本のヒーローである室伏広治選手がベラルーシの選手たちと競り合う形になったので、我々にとっても印象深いところです。結果は、スロベニアのコズムスが金、ベラルーシのジェヴャトフスキーが銀、同じくベラルーシのチホンが銅で、前回アテネで金だった室伏選手は5位にとどまりました。私は表彰式を眺めながら、今頃ルカシェンコは「なぜベラルーシの選手が2人いるのに、真ん中じゃないんだっ!」と怒っているだろうな 、などと想像していました。 それにつけても、ハンマー投げの中継をテレビで観ていて、ベラルーシ選手の名前の読み方が気になりました。「ジェヴァトフスキー」と読めばいいものを、「デブヤトフスキー」という何とも不細工な読み方で通していたのです。 本人はハンマーの選手の割にはそれほどポッチャリ体型ではありませんでしたが、それにしても「でぶや」などという「まいうー」な名前を冠せられたら、 「2ちゃんねる」あたりでいじられるのがオチでしょう。
原語で表記すれば、ジェヴャトフスキーの氏名は、上記のようになります。ロシア語では「ジェヴャトフスキー」(「デヴャトフスキー」も許容可)、ベラルーシ語では「ヅェヴャトウスキ」というあたりが妥当で、いずれにしても「デブヤ」は酷すぎます。たとえ、「ヴ」を使わないというのが放送局の方針であったとしても、「ジェビャトフスキー」にすればいいわけで。 まあ、以前も述べたように、ベラルーシ国民の名前の読み方については、当のベラルーシ国民自身が、ロシア語読みにするのか、ベラルーシ語読みにするのか、まったく統一がとれていないのが現状ですから。それに比べれば、日本の放送局がちょっと変な読み方をするくらいのことは、大した問題ではないのかもしれませんが。
そんなこんなで、北京オリンピックも終わり、しばらく経った頃、残念なニュースが飛び込んできました。ご存知の方も多いと思いますが、ハンマー投げで2位、3位となったベラルーシの両選手が、ドーピング検査で引っかかって、メダルを剥奪されるかもしれないということです。これに伴い、5位だった室伏選手が繰上げで銅メダルに輝く可能性が出てきたわけですが、室伏選手本人も言っているとおり、問題が問題だけに、素直に喜べるようなことではありません。尿検査の結果、「でぶや」だけに、中性脂肪が基準値を超えていましたとかいった笑える話ならよかったんだけどな。あるいは、「ベラルーシのデブヤトフスキーが選手村で『カナダのデブ』と恋に落ちました」というような、ほのぼのした話題を振りまいてくれるとかさ。 ジェヴャトフスキーはドーピングの前科があるみたいだし、同僚のチホンも引っかかっているわけだし、これはベラルーシ・チームによる組織的なドーピング行為だったと考えざるをえないでしょう。比較的地味な種目に集中して、薬の力も借りながら、国を挙げてメダルの数を稼ぐというのは、何やらかつての東ドイツを思わせます。まあ、ベラルーシという国は、今のところ東ドイツとは比べ物にならないほど牧歌的な国だとは思いますが、これ以上変な方向には進んでほしくないものだと思います。 ところで、私は北京オリンピックの開会式を観なかったんですけど、ど派手な演出で、インパクトが強かったようですね。次々回のオリンピック開催地に東京が名乗りを上げているわけですが、仮に東京が開催権を勝ち取っても、変に中国に対抗意識を燃やして過剰演出をするようなことは避けてほしいものだと思います。逆に、若干時流に媚びるようではありますが、エコ五輪を看板にしたらどうでしょうか。開会式も、電飾とか、花火とか、いかにもCO2を排出しそうなものは極力廃するようにして。いっそのこと、競技場に清流を設けて、蛍の光でやるとか。ついでに、灯篭流しもやって、本当に平和を祈る祭典にしたらどうかと。 (2008年9月24日)
柔道日本代表チームがミンスクにやって来た 〜ありがとうヤワラちゃんスペシャル〜北京オリンピックが始まりましたね。例によって、日本にとって前半戦は、柔道を中心に盛り上がることになるのでしょう。ただ、その先陣を切って出場した女子48キロ級の谷亮子選手は、惜しくも銅メダルに終わりました。 個人的に、柔道といえば、懐かしく思い出す出来事があります。あれは、私が在ベラルーシ日本大使館で働き始めて半年ほど経った、1998年9月のことです。柔道日本代表チームが、男女揃って、ミンスクに遠征に来たことがあったのです。ミンスクで「柔道ワールドカップ」という団体戦が開催され、それに出場するために来たのですね。 普通、日本の選手団が外国を訪れる場合には、文部省(現在は文部科学省)→外務省経由で、現地の大使館に支援要請が入ります。しかし、この時はどういうわけか、大使館には公式的に何の連絡もありませんでした。この話は最初、かなり特異な経緯で、私のところに伝わってきました。@日本チームに、明治製菓のスタッフが、栄養士として帯同することになった。A明治製菓のスタッフが、たまたま、私の勤める団体の某職員と間接的なつながりがあり、ベラルーシ事情について尋ねてきた。Bそこでその職員が、明治製菓のスタッフに、服部という者が現地の大使館にいるので、詳しい現地事情については同氏に聞くのがよいと勧めた、というわけです。これを受け、私が明治製菓のスタッフさんに情報を提供し、その後も大使館が可能な範囲で支援をすることになりました。この個人的なつてがなかったら、きわめて異例なことですが、大使館とはまったく接点がなく終わってしまったかもしれません。 さて、やって来ました、柔道日本代表チーム! 一行は、モスクワ経由、昼の飛行機でミンスク入りしたのですが、モスクワ←→ミンスク間の昼の便は、(いまはどうか知りませんが)オンボロのプロペラ機です。これは人づてで聞いた話ですが、柔道家の皆さんが乗ったフライトはひどく揺れて、天井のランプか何かが落下してくるというハプニングがあり、さすがの猛者たちも顔色を失っていたそうです。 それで、選手の皆さんはミンスクで何日か調整合宿をして大会に臨んだのですが、そこで大きな問題が発生しました。在ベラルーシ日本大使館は、日本人の旅行者に対して、ベラルーシでは放射能汚染の問題があるので、素性の分からないような食べ物は食べないようにと、注意を喚起しています。当然、柔道チームにも、注意を促しました。ところが、女子選手たちがこの注意に過剰反応してしまい、一切食事を摂らなくなってしまったのです。困り果てた明治製菓のスタッフが、(臨時代理)大使夫人に、女子選手たちを安心させてあげてもらえないだろうかと、泣きついてきました。夫人はこれを快諾し、女子選手たちに対して、そんなに過敏になる必要はない、ちゃんと食事をするようにと訴え、ようやく事態は収まりました。やはり、将来的な出産の可能性のある女性の方が放射能の問題には敏感なのだなあ、女子柔道選手も「乙女」なんだなあと、実感した次第です。 それで、肝心の柔道ワールドカップの結果ですが、男子は見事優勝! しかし、女子チームは、絶食がたたったのか(笑)、5位に終わってしまいました。私は、男子の試合は会場で観ることができず、女子の試合は会場に駆けつけたものの、すでに日本の 優勝の可能性は絶たれ、ベルギーとの3位決定戦が行われているところでした。団体戦は、体重の軽いクラスからやっていくのですが、先鋒の田村選手は勝ったものの、あとの選手が全然振るわず、完敗でした。ヨーロッパの連中がみんなベルギーを応援しており、何かすごいアウェー感があって、悔しい思いをしましたね。でも、日本のある選手(残念ながら名前は覚えていません)がベルギーの金髪女を絞め技で落とした時には、すごい快感でしたが。 それで、大会終了後に、レストランで日本選手団の打ち上げがあり、大使館の我々も招待されて出かけました。場所は、ユビレイナヤ・ホテルの中華レストラン、今はなき「コンフーツィ(孔子)」です。放射能パニックから解放された反動からか、女子選手も中華をバクバク食っており、呆気にとられましたが(笑)。 恥ずかしいことに、当時の私は、柔道選手をほとんど知りませんでした。この時ミンスクに来たのは、紛れもなく日本柔道のオールスターであり、その後シドニーやアテネで大活躍する人たちだったわけですから、サインをもらったり、もっと会話をしておけばよかったのにと思います。篠原選手、井上選手、野村選手といった面々がいかに偉大かというのは、後から知りました。 ただ、さすがに国民的スターであるヤワラちゃんのことは、私も知っていました。間近に見る田村選手は、テレビで見るとおりの愛くるしい姿形で、「これって、人間じゃなくて、ヤワラちゃん人形なんじゃないの?」という感じでした。それから、柔道協会からお土産として「ヤワラちゃんTシャツ」をもらいました。ヤワラちゃんのイラストが背中にプリントされているやつで、今でも着ています(Tシャツ10年着る人間って、どれだけ貧乏性なんだよ)。でも、ヤワラちゃんのTシャツだけつくったら、絶対、他の女子選手がひがむと思うんだけどな。女子って、放射能だけじゃなくて、そういうことにも敏感なんでしょ? 打ち上げの際、選手とはあまり会話をしませんでしたが、団長の山下先生とは言葉を交わす機会がありました。協会の人に、「ぜひ山下先生とご歓談ください」と促され、「何でオレが山下先生と歓談しなきゃいけないんだ?」とか思いつつ(笑)。でも、山下先生をはじめ、柔道家の皆さん、礼儀正しくて、良い人たちだったなあ。 というわけで、ちょうど10年前の、柔道日本代表来訪の思い出話でした。その時の写真を以下に掲載しますが、どういうわけか、この時撮った写真はピンボケばかりで、しかもフィルムからのプリントをスキャンしたものにつき、不鮮明でご勘弁ください。もう、ベラルーシ時代のネタは、ほとんど全部語り尽くしちゃって、これが最後かな。それと、あの時ミンスクに来た選手たちも、ほとんど皆、現役引退してしまったんだろうな。ヤワラちゃんも、北京を最後に、主婦になるみたいだし。時代の移ろいは、寂しいですね。 (2008年8月10日)
サッカーと「地域」のかかわりについて考えてみたサッカーのユーロ2008は、スペインの優勝によって大団円を迎えました。スペイン人は、お互い攻撃的に渡り合って、最終的に3対2くらいで勝つことを美学とする、というような話を聞いたことがありますが(ガンバ大阪型?)、それを地で行くような見事な攻撃サッカーでした。実際に3対2の試合は一つもありませんでしたが(笑)、「攻め倒して勝つ」という姿勢は一貫していたように思います。 先月のエッセイで述べたように、当初、わたくし的には、今回のユーロは「無視」するつもりでした。ていうか、この大会に限らず、最近は、ヨーロッパ・サッカーをあまり進んで観たいと思わないようになったのです。チャンピオンズ・リーグとかも、全然観てないし。何て言うか、個人的な心境として、グローバリゼーションが産み落としたモンスターみたいなものには距離を置きたいな、と。サッカーはJリーグだけ観ればいいやって、そういう内向きというかドメスティックな気持ちになっていたのです。 それでも、今回のユーロは、ロシアが思わぬ快進撃を見せたりしたので、地上波(TBS)で放送したやつは、結構観ちゃったという感じで。それで、久し振りにヨーロッパのサッカーを真剣に観て、改めて思ったのは、
ということです。私の場合、静岡出身なので、清水エスパルスというチームを応援しています。e2 by スカパー!の「Jリーグセレクション」というサービスに加入しており、これだとJ1の試合を全部生で観られるのですね。しかし……、今シーズンは、エスパルスが絶不調だということもあり、観ても全然面白くありません。「何で高い金払って、こんな不愉快な思いをしなきゃいけないんだ?」という試合ばかりで。ある評論家が、「当面の間、Jリーグを有料で観戦することは、スペクタクルに対する対価ではなく、未来への先行投資だと割り切らざるをえないだろう」というようなことを述べていましたが、身につまされています。ていうか、投資を続けたら、未来のスペクタクルは約束されるのか? むしろ、地盤沈下してないか、日本サッカー? エスパルスほど酷くはないにしても、日本代表の試合だって、何のワクワクも与えてくれないでしょ。てなわけで、このところ、こうした鬱屈した気分で日本のサッカーばかり観ていたものだから、ユーロ2008で繰り広げられる至高の技の数々を目の当たりにして、今さらなが ら、彼我の格差に愕然としたわけです。強い・弱いの差どころではなく、何やら違う種目にすら思えて。 そうは言いながら、興行としてのJリーグは、そこそこ成功してるんですよね。浦和レッズのように、「ビッグクラブ」と呼びうるような存在も現れて、世界の舞台に挑戦したりもしているし。その際に、Jリーグがある程度成功している鍵が「地域密着」という方向性にあることは、論を待ちません。つまり、日本のスポーツは、読売ジャイアンツのようなメディア主導のコンテンツという存在、あるいは企業丸抱えの広告塔という存在を脱し、「地域」に軸足を移しつつあり、Jリーグはそのトレンドに乗る形で成長してきたと言えるかと思います。 ただ、これも当然のことですが、「地域」というものは決して一義的ではなく、重層的かつ流動的です。自らの拠って経つ「地域」というものを的確に設定しないと、Jリーグのクラブの存立はおぼつかないと言っても、過言ではないでしょう。 あくまでも私見ですが、Jリーグのクラブのなかで「地域」という観点から非常にうまく行っているなと思えるチームとしては、アルビレックス新潟、大分トリニータなどが挙げられます。この両チームは、「県」の単位を丸ごと支持基盤にしているところに強みがあると思います(2007年の観客動員数でそれぞれJリーグの2位と5位)。新潟も、大分も、もともとはサッカー不毛の地ですし、経済力もそれほど強固とは思えませんが、だからこそJのクラブという地域の新しい象徴を皆が盛り立て、それに2002年W杯誘致・スタジアムの建設という追い風が加わって、強力な求心力を発揮しているのでしょう。ベガルタ仙台もほぼ同じ位置付けですが、こちらは肝心の成績が振るわず、入場者数も下降気味のようです。 それに対して、ジュビロ磐田、鹿島アントラーズなど、県庁所在地でない小都市を本拠としているところは、微妙だと思います(理念を否定するのではなく、あくまでも経済的に合理的かどうかというだけの話です)。静岡県の場合、県西部の遠州地方が一つの文化圏であることは間違いないので、そこにJリーグのクラブがあることはごく自然ですが、最大都市の浜松ではなく、磐田を本拠としているのは、商圏の設定という観点からどうなのかなという気がしないでもありません。今後、FC浜松とか、FC茨城といった、より広域の地域設定のクラブが台頭してきた時に(あるいは、もうあるのかもしれませんが)、ジュビロ磐田や鹿島アントラーズが今の地位を保持できるかというのは、難しい問題だと思います。その意味で、サポーターからは批判もあったようですが、私はジェフ市原がジェフ千葉になったのも、Jの強豪として生き残るにはやむをえなかったのではないかと考えています。 さて、清水エスパルスですが。静岡県は、最も多くのJリーガーを輩出している都道府県であり、なかでもその中心が清水という土地でした。ですから、地域のサッカー・ポテンシャルから言えば、巨大なものがあることは間違いありません。それを考えると、清水エスパルスというチームはもっと大きなプレゼンスを発揮できていいような気もします。おそらく、新潟県のサッカー好きはほぼ100%アルビレックスのサポーターだと思いますが、静岡県中部におけるエスパルスの支持率というのはせいぜい3〜4割くらいしかないのではないかという気がします。 まあね、もちろん、「サッカーの街=清水」にこだわり、チーム名に「清水」と銘打ったことで、自ら狭い地域設定にしてしまったという要因もあったでしょう。ちなみに、旧静岡市と旧清水市が2003年4月に合併し、新たな静岡市ができたので、今では清水市という自治体はありません(静岡市のなかの「清水区」として名残をとどめていますが)。それに加えて、静岡県の場合、新潟県とは真逆で、サッカーがあまりにも盛んなので、サッカーの「極」が複数存在し、一つにまとまりきれないというのがありますね。クラブチームも多いし、高校サッカーも盛んだし。清水あたりだと、「何丁目の誰それさんのところの長男が、横浜Fマリノスに入った」といった類の話が、至るところにあると思うんですよ。その親戚やご近所は、当然その選手の応援をするだろうから、地元のエスパルスには関心が向かないという。 エスパルスというのは、もともとは、地元出身の選手で固めるというコンセプトで出発しました。Jリーグ発足時には、外国人以外、全員が静岡県出身者(!)だったはずです。Jリーグの理念である「地域密着」の極限形態だったと言えるかもしれません。しかし、そのコンセプトは、すぐに崩れました。今エスパルスを支えている中心選手は、ほとんどが県外、とくに神奈川県や千葉県の出身者が多いと思います。 正直、私がなぜエスパルスを応援しているかというと、故郷を捨てたことに対する償いのためです。私自身、「地域」というものを支持しているようでいて、実はそれを放棄してしまったからこそ、その埋め合わせをしているという……。だから、静岡の地で育まれたサッカー選手が、地元のチームではなく、関東や、さらには海外のクラブでプレーしたいと望むのも、当然だと思います。自分の高校の頃のこととか考えれば、絶対に地元になんか残りたくない、何としても東京に出たいと思ったし。 さて、今年の正月に、高校サッカー選手権の決勝戦をテレビ観戦しました。選手権を観るのも、実に久し振りのことで。何故に観たかというと、何年か振りに、静岡県のチームが決勝に残ったからです。静岡県の藤枝東VS千葉県の流通経済大付属柏高。結果は、4対0で、流経大付属の圧勝。ユーロ2008におけるスペインVSロシアのように、大人と子供の試合でした。 ただ、流経大付属のすばらしいパフォーマンス以上に、この試合で私の印象に残ったのは、日本サッカーにおける「地域」のねじれでした。まず強い違和感を抱いたのは、藤枝東の応援スタイルが、浦和レッズ調だったこと。まあ、応援のスタイルがレッズ調だからといって、レッズ贔屓とは限りませんが、少なくともレッズに強い敵意を抱いていたら、あのような応援はしないでしょう。藤枝市は静岡市のすぐ西隣であり、清水エスパルスとしてはぜひとも商圏としてがっちりと囲い込みたい地域のはずですが、どうも分は良くないようです。無理もないか、藤枝東出身の長谷部がレッズで活躍したし、あちらさんは世界と戦ってるビッグクラブだし。 もう一つ、意外な現象が。実は、流経大付属のエースで、決勝戦でも活躍した大前元紀君という選手が、エスパルスに入団することが決まっていたのです。それで、私の目の錯覚でなければ、流経大の応援席で、エスパルスの旗を振っている学生がいたのです。柏には柏レイソルというJリーグクラブがあるにもかかわらず。う〜む。私が子供の頃は、正月になると、高校サッカー選手権で、静岡のチームを夢中になって応援したものだが。しかし、そんな単純な構図の地域愛は、とうに通用しなくなったようです。今年の正月の決勝、エスパルスのファンとしては、どちらを応援したらよかったのか。レッズ調応援の静岡県のチームか、それともエースがエスパに入団する千葉県のチームか。 それから、これはごく私的な感慨ですが、実は流経大付属を高校チャンピオンに導いた本田裕一郎監督は、
ということを、最近知って驚きました。我が母校、静岡東高校は、学業もスポーツも、すべてにおいて中途半端で、有名人らしい有名人はほどんど出ていません。静岡市の高校でJリーガーを1人も出していないところは、逆に珍しいのではないかと思います。それなのに、我が母校出身の指導者が、あんなスリリングなサッカーをやる高校チャンピオンを育て上げるなんて、まったく信じられません。調べたら、玉田とか、宮沢ミシェルも、本田監督が育てたんだって。 もう一つオマケに、余談です。本日、山下達郎氏のラジオ番組「サンデーソングブック」を聴いていたら、達郎氏が最近お気に入りの新譜として、村田陽一というトロンボーン奏者の新作をオンエアしていました。その後、本田監督のことを調べるために、「ウィキペディア」で静岡東高校の「主な卒業生」というのを見ていたら、「村田陽一(ジャズ・トロンボーン奏者)」というのが目に止まりました。「あれ、これ、さっき達郎がかけた人じゃない?」と思って調べたら、本当にそうでした。恐ろしい偶然。しかも、私とは年齢が一つしか違いません。へえ、一コ上に、こんな人いたんだ。知らなかったなあ。 すいません、国際政治学者らしく、ユーロ2008を枕に、グローバリズム、ナショナリズム、リージョナリズムについて語ってみようなどと思って書き始めたのですが、ほとんどがエスパに関するグチで、最後は母校自慢になってしまいました(笑)。さしあたり、村田陽一氏のCD、注文してみます。 (2008年7月13日)
好き好き大好きルーマニアサッカーのヨーロッパ選手権が始まりましたね。でも、全然観てません。WOWOWで全部やるらしいということは知っていたので、加入を検討もしてみたのですが。でも、スカパー!やスカパー!光だと、チャンネルの選択肢としてWOWOWが入っているのに、私の利用しているe2 by スカパー!には、なぜかそれがなくて。ユーロのためだけにわざわざ直接WOWOWに加入するというのも面倒な気がしたので、見送ることにしました。前回のユーロは、もっと地上波でやったような記憶がありますが、今回はTBSがごく一部の試合を放映するだけですね。まあ、個人的に、何かと忙しいので、ユーロ2008は無視することにしたわけです。 少し前の文章で、ユーロにおけるロシア代表の戦いに期待を寄せるようなことを述べておきながら、それを見届けないの? と言われそうですが。まあ、あれは、ウソとは言いませんが、あくまでも営業エッセイで書いたものでして。別に私の本音を吐露したものではありませんから。ロシアがスペインにこてんぱんに負けた試合を、ニュースの映像で見ましたけど、まあ、あまり期待をもてそうな雰囲気ではありませんね。ディフェンダーに屈強な選手を並べているらしいけど、俊敏性がなさすぎる。簡単に裏とられすぎ。なお、わたくし、長い間、漠然と「ヒディング」だと思い込んでおり、上掲のエッセイでもそう表記してしまったのですが、「ヒデ ィンク」だということに、最近ようやく気が付きました。反省。 というわけで、無視することに決めたユーロだったのですが、昨夜テレビを眺めていたら、たまたまイタリアVSルーマニア戦をやっていて、つい観てしまいました。チャンネル変えたら、ちょうどムトゥが先取点をとったところだった。TBSは、グループリーグは、死のC組を中心に放映する方針のようですね。まあ、無理もありません。イタリア、フランス、オランダ、ルーマニア……。これがそのままベスト4の顔ぶれでも、おかしくないですからね。 おいおい、最初の3つは分かるけど、ルーマニアも強豪か? という声が聞こえてきそうですが。いや、強いでしょ、ルーマニア。前にも書いたことがありますけど、わたくし、以前にルーマニア語をかじったり、同国の情勢を研究したりしていたことがあって、ルーマニアは本当に好きな国なんです。ルー大柴のファンのことを「ルーマニア」というそうですが、私はルーマニアのファンなので「ルーマニアマニア」といったところでしょうか(ちなみに、私は読んだことありませんが、そういうタイトルの本も日本で出ているようです)。 1994年のアメリカW杯の時は、ルーマニア代表を相当入れ込んで応援したなあ。天才MFゲオルゲ・ハジ率いるルーマニアは、最高のチームだった。モスクワの安ホテルで怪しげなウォッカを飲みながら観たスウェーデンとの準々決勝は、忘れられない試合です。延長にもつれ込んで、ルーマニアが1点勝ち越したんだけど、修了間際に追い付かれて。結局、PK戦で涙を飲み、ベスト8止まり。惜しかったなあ、ルーマニアが勝っていたら、3位決定戦で、ルーマニアVSブルガリアという夢の顔合わせが実現していたかもしれないのに。日本人は誰も区別がつかなくて、どっちでもいいやという(笑)。ウルグアイVSパラグアイみたいな。 それで、話は戻りますが、昨晩観たイタリアVSルーマニア戦。まあ、TBSアナウンサーの品位のない実況は仕方がないとして、ルーマニア選手の名前の読み方が誤っているのが気になりました。ルーマニア語にはいくつかの特殊文字があり、「T」の下にヒゲの生えたような文字(右図参照)は「Ts」に相当します。したがって、ゴールキーパーの名前は正しくは「ロボンツ」なのですが、アナウンサーはずっと「ロボント」と言っていました。まあ、「T」で読むと「ロボット」に似てくるので、「ロボット、止めた!」とか、「ロボット、ナイスセーブ!」みたいに聞こえ、ロボコップがゴールマウスを守っているようで、それはそれで愉快でしたが。
同様に、途中交代で入ったMFは、正しくは「ニコリタ」ではなく、「ニコリツァ」ですので、よろしく。それで、このニコリツァ選手なんですが、ちょっとエキゾチックな顔立ちをしていますよね。ルーマニア人は、多くは色白で端正な顔立ちですが、時々こういう顔の人を見かけるような気がします。気になって調べたところ、ニコリツァ選手はロマ(ジプシー)の家庭出身だそうです。なるほど。 私は地域研究者ですが、個人的に、「この固有名詞、正しくはこう読むのじゃ」みたいなことを指摘するのは、あまり好きではありません。地域オタクみたいで、格好悪いような気がして。しかし、ルーマニアについては、昔はともかく、今は専門家じゃなくて、単なるファンですので、心置きなく豆知識を披露した次第です。 (2008年6月14日) PS この間、FIFAランキングを見ていたら、モルドバが日本より上の37位にランキングされていて、ビックリした。何があったのか知りませんが、瞬間的に順位が急上昇したようで、そのあとすぐに50位以下に沈みました。
ニッポンの罠、ウクライナの罠遅ればせながら、この4月から、Yahoo!オークションを始めました。 というのも、5月の初頭に、山下達郎のアコースティック・ミニライブというのがありまして。これは、チケットは市販されず、最新シングル「ずっと一緒さ」を買って応募した人のなかから、抽選で当たった人だけが招待されるイベントでして。私も応募はしてみたものの、「月9」効果でこの曲が大ヒットしたこともあり、かなり高い倍率だったはずで、案の定落選しました。そこで、「これは多少のカネはつぎ込んでも、ヤフオクあたりでゲットするしかあるまい」と覚悟を決めたのですね。それで、Yahoo!オークションのサイトを見てみると、出品者が「新規の方お断り」としている場合が多く、チケットの入手に向けた実績作りという意味もあり、4月からいくつかのオークションに参戦してみたというわけです。 結論から言うと、山下達郎のチケットは、結局入手できませんでした。もともと小さいハコでのイベントだったので、チケットの出品がごくわずかしかなく、たまに出てくると、3万円近くにまで高騰してしまって、とても当方の予算には収まらなかったのです(私としては、せいぜい1万円くらいかなと思っていましたので)。まあ、そのうち通常版のコンサートもやるみたいだから、今回は諦めることにしました。 その代わり、それ以外のオークションでは、色々と面白いものを入手することができました。というか、「今までの自分のレコード・CDコレクションって、何だったの?」と思うくらい、意外なものを思わぬ値段で手に入れることができて。ヤフオクのことは知っていたし、以前1度だけ利用したこともあったけれど、自分の趣味であるレコード・コレクションの世界でこんなすごいことになっていようとは、思いもしませんでした。 たとえば、ヤフオク・デビューして、私が入手した商品の一つに、山下達郎のEPレコード「レッツ・ダンス・ベイビー/ボンバー」というものがあります。これは、1979年に、達郎がソロになって初めて切ったシングルです。「RIDE ON TIME」でブレークする前の作品なので、当時ほとんど売れず、モノがあまり残っていないのです。私は長年、達郎のレコードを集めていますが、「レッツ・ダンス・ベイビー/ボンバー」の現物など見たこともなく、一生拝めないアイテムだと思っていました。しかし、今回ヤフオクのページをスクロールしていると、「レッツ・ダンス・ベイビー/ボンバー」が500円〜で出品されており、しかも入札している人は誰もいないではありませんか。狐につままれたような心持ちで、入札してみたところ、実にあっさりと落札できました。送られてきた現物が、これがまた大変な美品で。私の従来の感覚からすると、このレコードが中古屋に並んでいたら、少なくとも1万円くらいの値札が付いていると思うんだけどな。それを、わずか500円で入手できてしまうとはねえ(これ以外に若干の手数料と送料がかかりますが)。いやはや、すごい世の中だわ。 しょっぱなから、こんな思いもよらぬ成果があったので、すっかりオークションに夢中になってしまい、あれこれ物色する日々が続いたのですが。そんなある日、出品された一つの商品を見て、目が点になってしまいました。
ほ、欲しい。欲しすぎる。やばい。 中島美嘉の作品がアナログ盤でも出ているらしいことは知っており、私も2点ほどもってはいました。しかし、そのリリース状況については情報が乏しく、本人の公式HPにもそんな告知は載っていないし。一度、新作が出た時に、大型レコード店に問い合わせたことがあるけれど、アナログ盤についての商品データはないとか言われて。私のもっていた2点も、上野にある場末のレコード屋でたまたま見付けて買ったものでした。だから、何の気なしにヤフオクの画面を眺めていて、これまで発表された中島美嘉のシングル盤はすべてアナログ・レコードでも発売されていたということを知り、しかもその新品が18枚セットで売りに出されているのを目の当たりにして、色めき立ってしまったわけです。 実は、最近、AVアンプの設定を変えたら、オーディオの再生音質が劇的に改善されまして。とくに、アナログ盤のレコードが突然すごい音で鳴り始めて、アナログの魅力を改めて実感していたところだったのです。我が家のアナログ盤の再生装置なんか、ハイエンドでも何でもないのになあ。20年ほど前に7万円くらいで買ったケンウッドのレコードプレーヤー、ごくありふれたデノンのカートリッジ、それからオーディオテクニカの安物のフォノイコライザー、全部足しても10万円くらい。その装置で再生した音が、少なくとも私の耳には、CDプレーヤーの音よりもずっと魅力的に聞こえます。今まで聞こえなかった音が聞こえたり、一つ一つの楽器がより生々しく響いたりと。自分の意識としては、CDプレーヤーの方が、それなりの機械をもっているつもりだったんだけどな(私の使用しているCDプレーヤーは、デノンの1650AEといいまして、普及価格帯の商品としては最高級の性能と評価されています。こちらを参照)。 とまあ、こんな個人的なアナログ・ブームもあり、これは何としても中島美嘉シングル18枚組みをゲットせねばということで、気合を入れてビッドに臨みました。ところが、さすがに人気アーティストのレア商品ということで、壮絶なマネーゲームに発展しまして(笑)。4万円を超えたあたりで、「ダメだ、こりゃ」と諦め、あえなく撤退しました(涙)。最終的には、5万円以上の値段が付いたようです。5万円強ということは、普通のCDアルバムを20枚くらい買える値段なわけで。いくら好きでも、さすがに、そこまでのお金は出せないので、泣く泣く諦めました。 それで、ここからが話の本題なのですが。中島美嘉18枚組み争奪戦に破れ、傷心で過ごしていたある日。突然、問題のオークションにつき、私宛にメールが届きました。以下のような文面です。
つまり、私が最後にオファーした金額を支払えば、逃したと思っていた商品を、入手できるというのです。今、メールの内容を冷静に吟味してみれば、おかしいことだらけですが。ただ、この時は、「欲しかったあれをゲットできる!」と舞い上がってしまい、ちょっと妙な話だなとは思いつつ、このメールの主に、「買いたい」旨返答してしまいました。 しかし、このメールは、実は詐欺だったのです。別件で、本物の出品者と連絡をとる機会があり、上記のメールについて質したところ、「自分とはまったく関係ない」とのことだったので、虚偽メールであると確認できました。幸いだったのは、たまたまゴールデンウィーク期間中だったので、金融機関が休みで、すぐにお金を振り込めなかったことです。私は、用心深い人間のつもりですが、この時ばかりは物欲に駆られ、お金を騙し取られる寸前まで行ってしまいました。あとから調べたところ、このメールは、Yahoo!オークションを舞台とした典型的な詐欺の手口のようですね。実は、そのあとにも、別のオークション商品につき、同じ内容のメールが来ました。犯人は、過熱して値段がつり上がったオークションを選び、敗退して落ち込んでいるであろう入札者に狙いをつけて、メールを送り付けているわけですね。陳腐なことを言うようですが、ネット社会は便利でも、大きな落とし穴が、身近に潜んでいるのですね。自分があやうくその被害に遭いそうになって、そんな当たり前のことを、改めて痛感させられました。 さて、これだけでは当HPのネタとしては不充分なので、詐欺未遂つながりで、ウクライナで騙されそうになった話をしてみたいと思います。あれは、2005年2月にキエフを訪れた時のこと。キエフの地下道を通り、階段を登って表に出ようとしていた時、目の前に何やら封筒状の落し物を見付けました。ちょうどその時、隣を歩いていたあんちゃんと目が合って、2人して「なんじゃ? こりゃ」という感じになり、そのあんちゃんが落し物を拾い上げて中身を見ると、何とそれは札束だったのです。ドル、ユーロ、現地通貨グリブナなどがごっちゃになった、結構分厚い札束でした。 そのあんちゃんいわく、「おい、見ろよ、金だぜ。いっぱいある。山分けしよう!」 でも、私は、ウクライナのような国ではとにかく「危うきに近寄らず」だと思ったので、「俺は要らない」と言って立ち去ろうとしました。それでもあんちゃんは、「まあ、そう言わずに、半分受け取れよ」とか言って。そんなやりとりをしているところに、えらく慌てた様子の中年男性が現れて、「このへんで金を落としたんだけど、知らないか?」と言ってきました。私は、よほど、「このにいちゃんがとった」と言ってやろうかと思いましたけど、あとで危害を加えられないとも限らないですしね。とにかく、かかわりあいにならないことだと考え、「知らない」と言い通すことにしました。中年男性は疑いを捨てきれないような様子で、あんちゃんと私のボディーチェックまでしましたが、結局札束を見付けられず、首をかしげながら去っていきました。一方、カネをうまく隠し通したあんちゃんは、小躍りして街に繰り出していきました。 というわけで、このケースで私は特段被害に遭うこともなくやり過ごしたのですが、私はずっと、中年男性がカネを落としたというストーリーをとくに疑うこともありませんでした。ところが、昨年12月にキエフに行った時、またしても目の前に包みのようなものが落ちており、どこからともなくあんちゃんが出てきて、落し物を指差し、「おいおい、何だこりゃ」と始めました。あんちゃんは、多分、3年前と同じ男だったと思います。ここに至って、鈍感な私も、ようやく悟りました。要するに、あんちゃんも中年男性もグルだったのですね。もしも私がカネを半分受け取ってしまったら、そこに中年男性が現れて私を泥棒扱いし、あの国のことだから、そこにタイミングよく警官(もちろんグル)も登場して、やばいことになるのでしょうな。最終的には、警官に多額の賄賂を払ってようやく放免と、そういう筋書きでしょう。外国人旅行者をねらった、手の込んだ罠です。でも、芝居うまかったなあ、あいつら。 幸い、私は海外で大きな犯罪に巻き込まれたりした経験はありません。一番の被害は、本エッセイでも述べた、昨年12月にウクライナでパソコンを盗まれたことくらいですから、まあ大したことではないでしょう。でも、キエフの落し物事件を、当初罠だと気付かなかったくらいですから、まだまだ甘いと言わざるをえません。ニッポン国内でもそうですが、とくに海外に行く際には、より一層気を引き締めなければならないと思っているところです。 (2008年5月26日)
劣化する世界最近、我が家のリビングにスクリーンとプロジェクターを導入して、ホームシアターを始めまして。まあ、私の場合、映画は趣味の本筋でなく、語れるほどの知識や鑑賞眼は持ち合わせていないのですが。 それで、ここ半年くらいで観た映画のなかで、一番印象に残ったのが、「トゥモロー・ワールド」というイギリスの作品です。「トゥモロー・ワールド」というのは邦題で、原題は「Children of Men」といいます。私が下手な紹介をするよりも、こちらあたりをご覧ください。要は、今から20年後、子供がまったく生まれなくなってしまった世界を描いた作品です。 何しろ、映画の半分以上はテロとか、暴動とか、殺人とか、戦闘とかのバイオレンス・シーンなので。本来、個人的に、こういう映画は好きではありません。しかし、不思議とこの映画は、最後まで引き込まれて観てしまいました。 この作品、何がすごいと言って、20年後の世界を描いているのに、全然「近未来」っぽくないことです。近未来の物語というと、やたらハイテクな乗り物が出てきたり、すべてをコンピュータで制御したりと、そういうSFチックなイメージがあるわけですが、「トゥモロー・ワールド」にはそういう近未来的なアイテムが一切登場せず、我々にとって既知のテクノロジーしか出てきません(むしろ、今日よりも10年か20年くらい退化したような雰囲気)。登場人物が聴いている音楽も、コンピュータミュージックなどではなく、60年代〜70年代ロックだったりしますからね。そして、爆弾や銃や、さらには鈍器といった原始的な方法で、人々が殺し合っているという……。 一般的に、人類というのは、歴史を経るに従って、進歩していくものだと思われていますよね。もちろん、環境問題とか、自らの繁栄がかえって問題を招くということはあるにせよ、基本的には、科学技術が発展し、それによって色んな問題を解決する可能性も高まっていくというのが、普通のイメージではないでしょうか。しかし、「トゥモロー・ワールド」で、子供が産まれなくなり、残された大人たちが愚かに殺し合っている様を観ていると、「案外、未来ってこうなのかもしれないな」などという気がしてきます。もちろん、「トゥモロー・ワールド」の物語は科学的には荒唐無稽で、実際にそのような世界が訪れると私が予想しているというのではありませんが、そんなことを考えさせるほど、その映像世界には妙な説得力があったということです。 そういえば、日本政治学会の重鎮として知られ、私もこよなく尊敬する永井陽之助先生が、興味深いことをおっしゃっておりました。青山学院大学大学院で、永井先生の講義を受けていた時のこと。ある院生が、「未来の世界は、どんな風になると予想されますか」と尋ねたところ、永井先生は、「映画『マッド・マックス』のような世の中になるのではないか」とおっしゃったのです。私は、「マッド・マックス」を観たことないので、詳しいことは分かりませんが、これも近未来の話で、マシンだけはグレードアップしているものの、社会規範は崩壊し、プリミティブな殺し合いをするストーリーですよね。つまり、永井先生も、技術の進歩とは裏腹に、人間社会については退歩していくイメージを抱いておられたということです。 実際、今日の世界を見渡してみると、人類は明らかに劣化しているのではないかと思わせるような出来事に事欠きません。いくら科学技術が発達しても、人間の根本的な愚かさとか、ばかばかしさというのは、変わらないわけですね。テクノロジーの進歩によって、愚かさやばかばかしさの表れ方が変わることはあっても、それを解決してくれることはないわけで。アメリカのイラク戦争とか、中世の十字軍と同じくらいバカな戦争だし。今のイラク国民の生活なんて、メソポタミア文明の頃より酷いんじゃない でしょうか。 21世紀および第3ミレニアムに突入して、数年経ちますけれど、我々の子供の頃は、数字のマジックで、2000年代がすごく遠い未来に思えました。それこそ、ドラえもんのセワシ君の世界のようなSF的な未来が待っているかのようなイメージだった気がします(実際にはセワシ君は22世紀の人だそうで)。しかし、2000という数字を越えてしまい、そうした大きな節目がなくなってしまうと、現在からの連続性の方が意識され、「今よりずっと進歩した世界」を想像しにくくなりました。かえって、地球温暖化のような、人類を脅かす大問題が出てきたりして。私が映画「トゥモロー・ワールド」に強い印象を受けたのは、そんな時代状況ゆえのことだったのかもしれません。 (2008年4月24日)
PS 2月のエッセイで、アーラ・プガチョワについて書きましたが、その後、くだんの大学の先輩から連絡があり、プガチョワが東京外国語大学でコンサートをやったことがあるという話は
ということが判明しました。 何でも、よく考えてみたら、実際に外語に来てコンサートをやったのはリュドミーラ・ズィキナという歌手であり、まったくの勘違いだったとのこと。今さらそんなこと言われても、ねえ。 まあ、都はるみを美空ひばりと言い間違えたアナウンサーもいましたから、それと同類の失敗ということで、ご勘弁ください。 人の勘違いを揶揄するエッセイで、自分がこんな間違いをしたら、シャレにもなりませんな。一番劣化しているのは、他ならぬこの私です。中嶋先生には、古傷に触れてしまって、申し訳なかったなあ。ただ、エッセイを消去しようかとも思いましたが、自分の誤りを隠蔽するようで嫌なので、そのまま残しておきます。
ダライ・ラマ、サンクトペテルブルグに光臨いや〜、チベットで暴動が起きて、大変ですね。 日本のニュース番組で、「最初は僧侶のデモだったが、それが一般市民による暴動に発展した」とか伝えてますけど、映像を見ると、明らかに、袈裟を着た坊さんも商店とか襲ってますよね(笑)。 それで思い出したことがあります。先月、仕事でロシアのサンクトペテルブルグに行った時に、ずっと一緒に働いてくれた運転手がいたのですが、彼が「俺はダライ・ラマを乗せたことがある」と言っていたのです。何でも、ダライ・ラマがサンクトペテルブルグに視察か何かに来て、その時この運ちゃんが雇われ、市内の名所をあちこち案内してやったそうです。「あの格好だから、行く先々で目立っちゃって、人だかりができて、大変だったよ。ハハハ」とは運転手の弁。まあ、ダライ・ラマがあの格好ではなく、背広とかだったら、そっちの方が逆に怖いが。 それで、この運転手は、「サンクトペテルブルグには仏教寺院がある」という面白いことも言い出しました。それは、市内の北部の、ネヴァ川右岸の道路沿いにあり、実際我々はその前を通り過ぎましたが、時間もなかったので立ち寄ることはしませんでした。ただ、ちらっと見えたその姿は、日本の仏教寺院とは似ても似つかないエキゾチックな外見で、小乗仏教か何かかなぁ?などと思った次第です。 このエッセイを書くために、改めて調べてみたら、この仏教寺院のホームページが見付かりました。そしたら、何のことはない、これはチベット仏教の寺院であったということが分かりました。もともとは帝政ロシアの末期の20世紀初頭に建立されたもののようです。考えてみれば、ロシア帝国にはブリヤート人、トゥヴァ人、カルムィク人などの仏教徒がいたわけですから、帝都ペテルブルグにチベット仏教の寺院が出来ても、何の不思議もなかったわけですね。その後、無神論の社会主義時代には寺院ではなく文化施設として利用されたりしたものの、ソ連末期の1990年に再び仏教徒に返還され、修復もされて、今日に至るというわけです。だから、ダライ・ラマが今日のサンクトペテルブルグに出没するのも、そんなに唐突なことではなかったのですね。 寺院のホームページを見ると、中国によるチベットでの人権侵害を告発するでもなく、今回の暴動について触れるでもなく、淡々と布教活動をしているような雰囲気ですね。そもそも、ロシアは中国との友好関係を重視しているし、自国内にチェチェン問題等の火種を抱えてもいるので、チベットの分離主義者がロシアの支援を取り付けようとしても、絶対に無理ですけど。 (2008年3月18日) * * * * エッセイが短かったので、ちょっとオマケのネタを。2007年12月のエッセイでモスクワのシェレメチェヴォ空港について書きましたが、その後、新しい情報を仕入れましたので、ご報告します。 その後、判明したところによると、昨年あたりから、シェレメチェヴォ1と2の連絡は、大きく改善されたようです。私は先月、モスクワとサンクトペテルブルグに出張しましたが、その際にその事実を確認することができました。 2月の出張の復路では、まずサンクトペテルブルグでモスクワ行きのアエロフロート便に乗り、シェレメチェヴォ1に到着、そのままシェレメチェヴォ2に移動して、そこから東京行きのアエロフロート便に乗り換えるという段取りでした。今回の場合、シェレメチェヴォ1到着時に、シェレメチェヴォ2で国際線にトランジットをする乗客だけが集められ、シェレメチェヴォ1で東京行きの搭乗手続き、そして出国手続き(パスポートコントロール)も済ませてしまいました。その後、全員がシャトルバスに乗せられ、シェレメチェヴォ2に移動し、同ターミナルの免税店のエリア(すなわち、もうパスポートコントロールを終え、あとは搭乗するだけの状態)に連れて行かれました。もちろん、最初にサンクトペテルブルグで荷物を預けてしまえば、モスクワでの手続きは必要なく、東京までスルーで届きました。
この仕組みはまだ始まったばかりのようで、若干の混乱も起きていました(トランジットの客が1人行方不明に!)。それでも、アエロフロートを使う限りにおいては、シェレメチェヴォ1と2の連絡が大幅に改善されたことは間違いなく、一定の評価には値すると思います。 ただ、サービス改善が遅きに失した感も否めず、最近シェレメチェヴォ空港がライバルのドモジェドヴォ空港に押されっぱなしであるという小文を書きましたので、よかったら併せてご一読ください。
神出鬼没のアーラ・プガチョワモスクワとサンクトペテルブルグに調査出張に出かけ、17日に帰国したところです。今回の出張は、東京外国語大学ロシヤ語学科の大先輩と一緒に行ったのですが、その先輩からちょっと面白い話を聞いたので、今月のエッセイはそのネタで行ってみたいと思います。 話は、私が外語に在学していた1980年代の半ばに遡ります。当時、外語で一番の売れっ子の教官といえば、何といっても国際政治学者で中国専門家の中嶋嶺雄先生でした(後に外語の学長)。中嶋先生は中ソ関係の研究をしておられたので、ソ連にも造詣が深く、1987年に『ゴルバチョフ ソ連の読み方』という著作を発表されました。 中嶋先生の本は読んでも楽しい作風で、『ゴルバチョフ ソ連の読み方』も非常に気の利いたエピソードで始まります。ゴルバチョフ書記長が誕生してから半年後の1985年9月、中嶋先生はソ連科学アカデミーの招待で、モスクワを訪れました。帰りの空港で、ある学者から、1枚のレコードをそっと手渡された先生。音楽好きの自分に、いつものようにクラッシックのレコードをくれたのかと思いきや、帰国して聴いてみると、それは「いまソ連の若者をとらえ、ソ連で最も人気のあるアラ・プガチューバ(ママ)の歌う、いわばソ連のニューミュージックであった。……これがアメリカで流行しているニュー・ミュージックだといわれても、何の疑問も感じないだろう。……そのナウいリズムとメロディーの中に、ロシア的ムードも含まれており、私も大変すばらしい曲だと思っている」。衝撃を受けた中嶋先生は、欧米の学者に、外務省の役人に、そして学生たちに、このレコードを聞かせてみたが、これがソ連の音楽かと、驚きの声が上がるのが常だったそうです。 この体験を踏まえ、中嶋先生は、次のように論じています。「ソ連社会がいま、アラ・プガチューバの一枚のレコードが象徴するように、内部から大きく変わりつつあるのだ。レコードをくれた旧知の学者は、いわばソ連のリベラルな学者の一人であり、しばしば外国を訪れて西側社会をよく知っており、これまでのソ連社会にうんざりしているように思われる。彼がプレゼントしてくれたこの一枚のレコードには、重大なメッセージが秘められていたことを私は痛感している。ソ連社会も変わらなくてはいけない、変わりつつあるのだ、ということを私をはじめ、広く日本人に知ってほしいというメッセージである。そして同時にソ連社会の変化に対する彼自身の期待も込められていたように思われる。」 このように、中嶋先生の『ゴルバチョフ ソ連の読み方』は、非常に印象的なプロローグで読者を引き付け、学生だった私なども「うむ、なるほど」と唸りながら拝読したものです。ところが、この本に、強烈な批判が寄せられました。防衛大学の佐瀬昌盛先生が、確か雑誌『諸君!』だったと思いますが、中嶋先生のゴルバチョフ論に異議を唱える論考を発表したのです。佐瀬先生いわく、『ゴルバチョフ ソ連の読み方』のプロローグ自体がまったくの見当違いだ。そもそもアーラ・プガチョワ(「プガチューバ」というのは読み間違い)は硬直的なブレジネフ時代から公認されていた歌手であって、現に数年前に、ソ連の広報誌である『今日のソ連邦』の表紙を飾っているほどである。この一件の象徴されるように、中嶋氏のゴルバチョフ論は思い込み先行の不正確な議論であり、ソ連の変革に対してナイーブな期待を寄せすぎている。これが、佐瀬先生の批判の概要でした(残念ながら、佐瀬先生の論考は私の手元に残っておらず、以上は記憶にもとづいて書いています。多少違っていたらすいません)。 当時は私もウブだったので、母校の看板教授の著作がバッサリと切り捨てられたこの一件は強く印象に残り、忘れられない出来事になったわけです。 さて、それから約20年を経て、今回の出張中に、外語の大先輩から聞いた面白い話というのは、何とアーラ・プガチョワはこの先輩の在学中に、
というのです。先輩によれば、大学紛争で外語が封鎖される直前、おそらく1968年頃だったのではないかとのこと。文化祭とかではなく、どういう経緯なのか、大学の講堂で単独コンサートが催されたようです。外語でコンサートをやったことのあるアーティストはゴダイゴとBOWWOWだけかと思っていましたが(笑:ともに外語卒業生がメンバーにいるので)。 中嶋先生が、ペレストロイカの象徴、リベラル知識人の祈りと見立てたプガチョワの歌が、ブレジネフ時代からソ連でごく普通に聴かれていただけでなく、とっくの昔に自分の大学で鳴り響いていたとはねえ。これは相当気まずい、大いなる勘違いでしたな。 まあ、中嶋先生はソ連プロパーの専門家ではないので、ロシア語やロシア文化に関するちょっとした誤解や思い込みについて、揚げ足をとるのはフェアではないでしょう。先生が主張したかったのは、ソ連は大きく変わろうとしているということであって、その大局的な分析は正しかったわけですから、敬服せざるをえません。 ところでアーラ・プガチョワさん、外語とは関係ありませんが、私が務めている職場の近くに「新八」という寿司屋があって、その店に以前彼女が来店したという伝説を聞いたことがあります。ここ十数年、味が落ちており、最近ではロシアのスターどころか、私ですら寄り付きませんが。 それから、私がベラルーシのミンスクに駐在していた頃、友人の話によると、大晦日の夜、ミンスクのあるナイトクラブにアーラ・プガチョワが現れて、唄を歌って帰っていったとのこと。日本で言えば紅白歌合戦をやっている時間に、ロシア歌謡界の女帝が、場末のナイトクラブで歌う? さすがにこの話はちょっと怪しいけど、アーラ・プガチョワが神出鬼没キャラであることは間違いなさそうですね。 (2008年2月20日)
仁義なき戦い(ドネツク死闘編)というわけで、少し時間ができたので、前回のマンスリーエッセイで抱負を述べたホームページの模様替えを、早速やってみました。 ウェブサイトをフレームで区切るのは、あまり好きではないのですが、あえて区切ってみました(何だそりゃ)。本文を表示する下側のフレームにスペースの余裕があまりなく、読みにくくなったかなあ。でも、今回の模様替えで、ウェブデザインの基礎技術が、多少向上したように思います。「ターゲットフレーム」というやつを、使いこなせるようになったし。 自己流デザインの限界を感じていたので、ジオシティーズのテンプレートに乗り換えようかと思ったんだけど、どうも自分に合うのがなかったので、 あちこちから素材をかき集めたり自作したりして、結局またも素人デザインでリニューアルしました。 ジオシティーズのテンプレートって、結局、ブログ向けのような気がする。私の場合、長い記事が多いし、読みやすいように文字は大きくしているし、画像なんかも多いから、こじんまりしたテンプレートには収まりにくいのですよ。 だいたい、私、ブログ文化って、嫌いなんですよね。ごく稀に面白いブログもあるけれど、大多数はクズみたいなものばかりでしょう。基本的に、匿名の発言というものには、何の価値もないと考えています。私のホームページは、ブログ文化 とは一線を画すものでありたいと思っており、だからデザインも自己流でいいのです。 話は変わりますが、この文章を書きながら、ジオシティーズのトップページを見ていたら、私の利用している「ジオプラス」というサービスの加入者は、
ということに、初めて気が付きました。つまり、これまで使ってきた という、借家住まい風のアドレスではなく、 という、いかにも一国一城の主らしいアドレスにすることが可能というのです。私も、「いつかは独自ドメインを」と夢見てはいましたが、こんなに簡単に、しかも追加料金なしで実現できるとは! というわけで、早速、申し込んでみたのですが。 なんだ、確かに新しいURLは有効だけど、古いURLに転送されるだけか。「ハットリミチタカ、ドットコムです」と他人に言えるのは誇らしいけれど、実質的には今までと変わらないなあ。ひょっとしたら、新しい方をメインにする方法もあるのかもしれないけど、ジオシティーズの説明が難解で、よく分かりません。 そのうち、また試みてみたいと思います。 * * * * * * さて、本題に入ります。前回予告したように、ウクライナ珍道中後半のドネツク編です。 なお、都合により、固有名詞はウクライナ語ではなくロシア語風の読み方でやらせてもらいます。 ウクライナ税関にパソコンを奪われた私は、12月13日、ボリスポリ空港の「アエロスヴィト」社カウンターに被害届をたたきつけ、その足でドネツク行きのVV4356に乗り込みました。ドネツクに着いたのが、同日夜。ドネツクは、ウクライナを代表する大都市ながら、私にとっては初めての訪問です。私がドネツクないしドネツ炭田という言葉を初めて聞いたのは、中学時代の地理の授業だったと記憶しています。それから30年近くの時を経て、ようやくドネツクにたどり着きました。 空港からタクシーで、予約してあった「ホテル・ヴィクトリア」に移動。キエフの「コザツキー」には多くを期待できなかったけど、このホテル・ヴィクトリアは4ツ星ホテル! 地方都市なので、料金もそんなに高くなくて。ウクライナの場合、地方を地盤とする有力な財閥があって、地方都市に財閥の経営する良いホテルがあったりするのですね。ヴィクトリアは、レセプションの上品な対応といい(スタッフは愛想よく英語を話す)、客室のグレードといい、私が今まで旧ソ連圏で泊まったホテルのなかでは最高レベルでした! ……少なくとも、第一印象は、良かったんだけどなあ。このホテルで、またもトラブルに見舞われることになるわけですが、その話はまたあとで。 到着した翌朝。ホテルの窓から外の景色を眺めると、驚いたことに、街のそこかしこに、ボタ山(石炭採掘後の捨石を積み上げた山)が見えます。ドネツクと言えば誰もが石炭を連想しますが、郊外かどこかで掘っているのかと思いました。まさか、100万都市の街中で掘りまくっていようとは。4ツ星ホテルの窓からボタ山が見えるところは、世界でもここだけじゃないかなあ??? もちろん、順番から言えば、まず炭鉱ができて、それを中心に大都市に発展していったということなんですけどね。 資料によれば、この地の石炭資源が注目されるようになったのが、17世紀末から18世紀初めのピョートル大帝の時代。1779年、アレクサンドロフカという村が当地に設けられ、最初の炭坑がいくつか出来ました。その後、石炭産業は拡大し、それを活用した鉄道レールの生産工場が当地に建設されること が決まって。そして、1869年、その利権がウェールズ人実業家のジョン・ヒューズに売却されたのでした。ヒューズは「ノヴォロシア石炭・鉄・レール生産会社」を設立、それを中心とした「ユーゾフカ」という街がつくられ(「ユーゾフカ」は「ヒューズ」のロシア語発音にちなむ)、これが現在のドネツク市の始まりとされています。社会主義ロシア革命を受け、1924年にユーゾフカは独裁者スターリンの名をとって「スターリノ」に改名(このリストによれば、スターリンにちなんだ都市名を授かったのは、当地が第1号だったようですね)。それが、フルシチョフによるスターリン批判を受け、1961年に「ドネツク」に改名され、現在に至るというわけです。ちなみに、フルシチョフ自身、少年〜青年期にユーゾフカで暮らしたとのこと。 いずれにしても、日本人的な目でドネツク市の風景を眺めると、「市街地で石炭なんか掘って、地盤沈下はしないの?」と心配になります。しかし、タクシーの運転手(彼については後述)に聞いたところ、かなり深いところを掘っているので、その危険はないとのこと。むしろ問題は、第1に、ドネツクではすでに長らく地下鉄の建設工事が続いているが、坑道が邪魔になって、なかなか完成しないということ。第2に、地下の基礎工事がしづらいので、ドネツクではあまり高い建物は建てられないこと、だそうです。また、これも日本人の発想からすると、子供がボタ山を遊び場にして危険ではないかと思うのですが、それもないという話でした。 本当かしら? これは、現地の雑誌で読んで知ったのですが、ドネツ炭田では数千人の人々が、家族を養うために、禁じられている危険な炭坑に無許可で入って、手作業で 石炭を掘り出しているとのことです。一番危ないのは、こうした人たちなのでしょうね。
さて、初めてドネツクに来たので、例によって、まずは街を歩き回 ります。その際に、今回のドネツク散策には重要なテーマが一つありました。それは、前回述べたように、パソコンと一緒に様々なケーブル類が盗まれてしまったので、デジカメとiPodの充電ケーブルだけでも、可能であれば買いたかったのです。結果的には、デジカメの充電ケーブルは、やはり無理でしたね。私はフジフィルムのファインピックスというデジカメを使っていて、もしファインピックスの安いモデルを売っていたら、ケーブルは共有のはずだから、ケーブルのためだけにでも買ってしまおうかと思って探したのですが。しかし、ドネツクの電気店やデジタルショップを回っても、ファインピックスはほとんど置いておらず、1台だけ見付けたものは、充電式ではなく 一般の乾電池で使用するタイプでした。その代わり、iPodの充電ケーブルは、苦労した末に、写真に見る「ALLO」(Helloの意味)というデジタル小物店で、ようやく買うことができました。これで、帰りの飛行機は楽しく過ごせる! ただ、後日、ドネツクに正規アップル・ショップがあるというのを知って、愕然としましたが(笑)。 ドネツクでは、徒歩で街の中心部を闊歩するのもさることながら、街の外れにあったりする工場などを見て回りたかったから、タクシーが重宝しました。たまたま拾ったアンドレイという 名前のタクシー運転手が面白いやつで、経済や地元の事情に通じており、彼の話から学ぶところが大でした。何でも、以前はいくつかのカジノの支配人を務めていたそうで、若い割には世の中の表と裏をよく知っている男でした。 というわけで、見て回った主な工場を紹介すると、まず「ドネツク冶金工場」。かつてジョン・ヒューズが設立した工場の後継企業に他ならず、街の南側の広大な領域を占めています。また、有名な冷蔵庫メーカー「ノルド」も、その近くにありました。
運転手アンドレイの案内が非常に有益なので、12月15日の土曜日に予定していたクラマトルスク市への訪問も、彼に頼むことにしました。クラマトルスクは、ドネツクから北西方向に車で2時間ほどのところにある中規模の都市。機械産業の集積地であり、州都のドネツク市を見ただけでは分からない地方経済の 苦しい実情を探りたいという思惑があったのですが、予想に反し、クラマトルスクもなかなか景気が良いようで、スーパーマーケットや家電店などの出店ラッシュに沸いていました。この街だけで判断することはもちろん禁物ですけれど、ウクライナの好景気は本物だなという印象を強くした次第です。 クラマトルスクを訪問したあと、ちょっと欲張って、一路南に向かい、ドネツク州のもう一つの重要都市、アゾフ海に面したマリウポリも視察しました。アンドレイはマリウポリでタクシー運転手をしていたこともあるそうで、手際よく 見て回ることができましたが、それでもマリウポリ視察を終えた夕方頃には、辺りはもう真っ暗。マリウポリの港は思ったよりも小規模で拍子抜けでしたが、大手鉄鋼メーカーの「イリイッチ記念製鉄所」 および「アゾフスターリ」の雄姿は壮観でした。地球環境の危機が叫ばれる御時世に、煙をモクモク上げる工場を見て喜んではいけないのかもしれませんが、ウクライナ経済の脈動を目の当たりにしたようで、嬉しかったわけです。 ところで、最近、日本のロシア・東欧地域研究者の有志が、「黒海研究会」という勉強会を立ち上げ、私も誘われるままにそのメンバーになりました。ところが、実を言うと、私は黒海を自分の目で見たことが一度もありません(笑)。今回、黒海に連なるアゾフ海に面したマリウポリを視察することになって、ようやくその念願が叶うかと思われました。しかし、その話をアンドレイにすると、「アゾフ海は黒海の一部ではなく、まったく別物。混同してはダメ」とのこと。彼に言わせると、アゾフ海は淀んだ内海であり、あんなところで喜んで泳ぐのはロシア人くらいで、ウクライナ人にとって海と言えば絶対に黒海なのだ、とのことでした。へえ、そうなんだ。いつの日か、本物の黒海を見る時が、私にも訪れるでしょうか。 アバウトですが、位置関係だけでも分かるように、大まかな地図を掲載しておきます。
ウクライナおよび周辺地域地図 ドネツクは石炭・鉄鋼で発展してきた街なので、前々回に報告したロシアのエカテリンブルグ市と同じように、観光の見所というのはあまりありません。ただ、「ドネツク州地誌博物館」は素晴らしかった。確か4フロアか5フロアくらいあって、展示品が質・量ともに申し分なく、ソ連時代の展示もきちんと残している点にも好感がもてた。旧ソ連の地方レベルの博物館で、ここまで充実しているところは、ちょっと記憶にないですね。 そんなこんなで、ドネツクでも仕事はうまく行き、州内の視察なども大変に有意義だったのですが、宿泊したヴィクトリア・ホテルに落とし穴がありました。到着した翌日の14日金曜日の夜、翌日のクラマトルスク〜マリウポリ視察を控えて、早目に就寝しました。ところが、深夜12時頃になって、爆音で目を覚まされて。この規則的なビートは……どうやら、ホテル内にあるディスコから聞こえてくるようです。音が漏れているという程度ではなく、低音がずし りずしりと響いて、建物全体が振動しているような感じで。結局、 爆音は数時間、途切れることなく鳴り続け、一睡もできぬまま朝を迎えたのでした。 当然のことながら、翌15日、私はフロントに出向いてきつく苦情を言いました。それに対し、フロント係いわく、「昨日は有名なDJをお招きして特別なDJナイトを催しました。しかし、貴方の他にも、苦情を寄せられたお客様が多くおり、申し訳なく思っております。今夜もナイトクラブでディスコパーティーはありますが、今夜は普通のディスコですので、昨晩ほど酷くはないでしょう。」 さすがに、私はキレましたね。ただ、こういう時に困るのが、ロシア語のボキャブラリーのなさ。だいたいロシア語会話は得意な方ではありませんが、怒った時にそれをうまく表現できないことほど、情けないものはありません。言葉が出てこないから、相手を睨みつけて「ウ〜」とか唸ってみたりして。発育の遅い三歳児じゃあるまいし。ロシア語での喜怒哀楽の表現力はイクラちゃん並みですな。 とにかく今回のウクライナ出張は、窓口に怒鳴り込んだりするケースが多かったので、辛かったです。 幸い、ヴィクトリアは4ツ星ホテルですから、従業員は外国人相手には英語で話そうとするので、私もナイトフィーバーに関する苦情は英語でぶちまけました。「客のことを何だと思ってるんだ。今日もディスコをやるだと? 絶対に止めろ! 支配人を呼べ! 今呼べ! すぐに呼べ!」とまくし立てました。 フロント係は、支配人を呼ぶことを嫌がっていましたが、こちらが強硬に主張したところ、渋々電話で呼び出しました。しばらく待つと、支配人が出てきたのですが……。若く、品が良く、英語を話すフロント係とは打って変わって、支配人は目付きといい服装といい (客の前にジャージ姿で出てきた)、どう見ても堅気には思われず、ロシア語しかしゃべらないと言います。当方は、ボキャ貧のロシア語で一通りの苦情は言いましたが、こわもての支配人から「まあ、あんちゃん、そうムキになるなよ」みたいなことを言われて、トーンダウンしてしまう自分が悲しかったですね。 私も、懸命の捨てゼリフとして、「もし、今夜も同じことが繰り返されたら、このホテルについて日本で悪口を書きますからね」と言ってやりました。支配人は、「分かった分かった。今夜は大丈夫だから、貴方はこのホテルについて良いことしか書かないよ」と言って去っていきました。それで、その日の夜、深夜12時を過ぎると、昨晩よりも強烈なのではないかと思われるディスコビートがまたぞろ始まりまして。2晩続けて、朝まで一睡もできず。というわけで、支配人に警告したとおり、ヴィクトリア・ホテルに関する悪口を今こうやって書いているわけです(笑)。 ヴィクトリア・ホテルというのは、ヤヌコヴィチ前首相の庇護下にある財閥グループ「アルス」が経営しているそうで、くだんのこわもて支配人も大方、炭鉱上がりでしょう。いくら外見だけ立派なホテルをつくっても、すぐにお里が知れるというものです。ドネツク市には「ドンバス・パレス」という、より高級なホテルがあるので、予算に余裕のある方にはそちらをお勧めします。大富豪アフメトフ氏の「システム・キャピタル・マネジメント」グループに属する5ツ星ホテルで、私はレストランで食事だけしてみましたが、高級感がヴィクトリアの比ではありませんでした(そちらも、にわか成金という点では同じですけどね)。 さて、そんな眠れぬ夜を過ごしつつも、ドネツク滞在の最終日、16日(日)の夜に、せっかくだから観劇でもしてみようと思い立ちました。市の中心部に「ドネツク・アカデミー国立オペラ・バレエ劇場」があり、水準もそこそこ高いらしく、 スケジュールをチェックしてみると16日は折り良くオペラ「ボグダン・フメリニツキー」のシーズンプレミアの日でした。ウクライナの歴史・文化に触れるには打って付けの出し物なので、これを観ることに決めました。ほぼ最前列で、切符は30グリブナ(650円くらい)。 個人的に、生でオペラなんか観るのは初めてですね。したがって、評価する資格もありませんが、出し物のレベルは優れているように感じました。ただ、観客の質がねぇ。空席が多いし、フラッシュを焚いて写真を撮る連中がいるし(そもそも写真撮影禁止とかケータイの電源を切れというようなアナウンスが一切なかった)、小さな子供がおしゃべりしてるし。会場の雰囲気から 、どうしても田舎芝居じみてしまい、シーズンプレミアにふさわしいような緊張感や高揚感は感じられませんでした。あまりにも写真を撮る客が多いので、以前の誓いもどこへやら、私も便乗して撮ってしまいました 。この時点ではもう、デジカメの電池が切れる寸前で、冷や冷やの撮影でしたが(笑)。
ただ、終わってみれば観客はかなり盛り上がり、「もうやめて」と言いたくなるくらい、カーテンコールを繰り返していましたね。ウクライナ史を代表する説話であるコサックの頭領ボクダン・フメリニツキーの物語を、今日のウクライナ・ナショナリズムに結び付けようとする意図がうかがえる演出でした。刀を納める鞘が青と黄色のウクライナ国旗カラーになっていたりとか(笑)。まあ、私はナショナリズム容認派なので、目くじらを立てるつもりは全然ありませんが。 以上、ホテルでは酷い目に遭ったけど、ドネツクに行ってみてよかった。 (2008年1月18日)
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