マンスリーエッセイ(2007年)

 
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2007年12月:ボリスポリ空港スーツケース紛失顛末記

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2007年11月:エカテリンブルグ満喫旅

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2007年10月:ノーベル平和賞の先物買い

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2007年9月:モスクワで見付けた意外なメイドインジャパン

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2007年8月:ベラルーシ紋章学序説

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2007年7月:ウィキペディアの多言語世界をさまよう

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2007年6月:サナトリウム・パラダイス

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2007年5月:以後ロクなことのない……

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2007年4月:石原慎太郎 まかり通る

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2007年3月:随筆家か!

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2007年2月:モスクワで江戸を発見

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2007年1月:弐拾壱世紀的奥の細道(予告編)

 

ボリスポリ空港スーツケース紛失顛末記

 12月のエッセイがすっかり遅くなってしまいました。いや〜、この間、色々バタバタしてたんですよ。ウクライナに出張に行ったり、デノンのAVアンプと格闘したり(笑)。

 そのウクライナ出張では、首都のキエフと、東部の重工業都市ドネツクを回ってきました。12月10日に日本を出発して、18日に帰国するという日程で。

 今回のウクライナ出張の旅程を検討している際に、良いことを思い付きました。 当会の場合、ウクライナに行くには、料金の安いロシア・モスクワ経由で行きます。ここで覚えておいていただきたいのは、モスクワにはシェレメチェヴォ空港、ドモジェドヴォ空港と、大きな国際空港が2つあるということです。そして、実はこの12月14日から、日本航空(JAL、週2便モスクワに運航)の乗り入れ空港がシェレメチェヴォからドモジェドヴォに変わったのです。さらに、今回の出張の目玉はドネツクに行くことだったのですが、調べてみると、ドネツクからモスクワへの便はドモジェドヴォ空港に着くということが分かりました。ということは、

12月10日 JL441 成田 → モスクワ・シェレメチェヴォ

       VV416 モスクワ・シェレメチェヴォ → キエフ 

      (VVというのはウクライナの航空会社「アエロスヴィト」の略称)

12月13日 VV4356 キエフ → ドネツク

12月17日 VV157 ドネツク → モスクワ・ドモジェドヴォ

       JL442 モスクワ・ドモジェドヴォ → 成田(翌日着)

という旅程を立てると、実にスムーズに移動ができ、しかもロシアは空港トランジットだけで入国しなくていいから、ロシアのビザも不要ということに気付いたのです。JALの乗り入れがシェレメチェヴォからドモジェドヴォに切り替わることを利用した、まるで完全犯罪のような絶妙の旅程だと、一人悦に入りました。この日程なら東京〜モスクワの往復をアエロフロートでなくJALにできるし(しかも早割を使えばJALの方がかえって安上がりなことを発見!)、ウクライナ部分はアエロスヴィトに統一できて料金も安く上がると、良いことづくめのように思われたのです。

 しかし、大きな不安材料がひとつありました。12月10日にVV416がキエフに向けて飛び立つのが、シェレメチェヴォの「C」というターミナルからだったのです。

 シェレメチェヴォ空港には国内線のターミナル1と、国際線のターミナル2というものがあります。両方とも名前のうえではシェレメチェヴォながら、結構離れているうえに、両者の連絡も悪く、基本的に別の空港だと考えた方がよいくらいです。 ややこしいことに、ターミナル1はロシア国内線用とはいえ、一部の旧ソ連諸国向けの国際便(ベラルーシ行きとか、中央アジア行きとか)もここを利用しています。それゆえ、外国から来てシェレメチェヴォ2に降り立った乗客が、シェレメチェヴォ1の国際線に乗り換える際に、どうやって1に移動するのか、ロシアのビザは必要なのか、預けたスーツケースはスルーでいけるのかというのが大問題になるわけです。結論から言うと、1への移動は自力でなんとかする(一応連絡バスもありますが……)、トランジットビザが必要、荷物はスルーでは行かない( 行くという説もあるが信用しない方がいい)ということのようです。

 このように、お馴染みのシェレメチェヴォ1ですら一筋縄では行かないのに、「シェレメチェヴォC」というのは2007年3月に新しくできた代物で。今回の旅行を手配してくれた業者(筋金入りのロシア地域専門旅行会社)も、Cについては勝手が分からなかったのですよ。何でも、Cは、1の隣に新設された国際線用のターミナルで、2からCへの移動はビザなしでいけるけれど、預け荷物が引き継がれるかが微妙とのこと(ちなみに、現在シェレメチェヴォではターミナル3というのを建設中だけれど、Cと3とは別物の由)。成田で搭乗する際に、JALのカウンターとよく相談してくださいとのことでした。

 シェレメチェヴォ空港というのは、利便性が悪いうえに、職員はぐうたらで腐りきった連中で、組織を立て直そうにも、マフィアの利権の巣窟と化していて、如何ともしがたいらしいですね。JALだけでなく、多くの外国エアラインが見切りをつけ、ドモジェドヴォに鞍替えしつつあるのも無理ありません。処理能力が足りなくなったからといって、ターミナルを建て増ししても、根本的な問題は解決しないっちゅうの。ますます入り組んで訳が分からなくな るのがオチであり、「蔵王の温泉旅館かお前は!」と言いたくなります。あんな空港、発破で更地にするのが一番だと思いますがね。

 それで、12月10日、出張に出かける当日、成田のJALカウンターで、荷物が通しでキエフまでいけるかどうか尋ねたところ、シェレメチェヴォ1についてはコンピュータにデータがあるけれど、Cというのは見当たらないとのご回答。「でも、まあ、試しに、スルーでやってみましょうか。ただし、シェレメチェヴォで、荷物の件を係員に念を押してください」とおっしゃるので、半信半疑のまま、キエフ・ボリスポリ空港までのスルー扱いで、 スーツケースを預けたのでした。ただ、今回の場合、乗り換え時間が7時間以上あったので、人間も荷物も、余裕をもって移動できるのではないかなと、漠然と考えていました。

 さて、約10時間の空の旅を終え、モスクワのシェレメチェヴォ2に到着。空港のトランジット窓口に申し出て、2からCに移動するトランジットバスの出発時間を告げられました。その際に、「私の荷物は大丈夫なんでしょうね?」と係員に確認したところ、「もちろん大丈夫です」との返答。その後、 適当に時間を潰し、トランジットバスに乗って、問題のターミナルCに移動しました。確かに、ビザは必要なかったですね。ただ、ターミナルCというのが、建物は明らかに手抜き工事だし、不慣れな職員同士が大声で怒鳴りあっているしで、とてもまともな空港の風景には思えませんでした。こんな連中が、私のスーツケースをきちんとリレーしてくれるとは、とても思えないのだが。

 そんな不安を抱えながら、アエロスヴィト便に乗り込み、キエフのボリスポリ空港に到着したのが現地時間23:20。日本時間ではもう完全に朝だし、前の日はあまり寝てないしで、疲労困憊です。早くホテルにチェックインして休みたいなあ。こんな時に、スーツケースが出てこなかったりしたら、嫌だなあ。そう思いながら、ターンテーブルが回るのを 眺めていたのですが、案の定、私のスーツケースは最後まで出てきませんでした。完全犯罪のごとく絶妙に組まれたはずの旅程が、出だしでいきなり破綻しました(笑)。

 しょうがないので、ボリスポリ空港の荷物紛失窓口に向かい、届出を出しました。その際に、税関を通す時に中身をチェックする可能性があるとのことで、スーツケースの鍵を預けさせられました。係員は感じの良い若い女性で、届出受理後、村上春樹のロシア語訳を全部読んだというようなことを話してきましたが、さすがにこちらは精神的に参っているので、会話が弾みません。とっととタクシーに乗ってキエフ中心部に向かい、ホテル・「コザツキー」にチェックイン、 やっとのことでベッドにもぐり込みました。

キエフ中心部の広場「マイダン」の

地下にあるおしゃれな地下商店街。

モスクワ「マネージ広場」の真似っぽい。

私がウクライナを訪問した12月半ば、ティモシェンコ

女史の首相就任をめぐる緊張が頂点を迎えていた。

写真は議員らしき人物に詰め寄るティモシェンコ

支持者たち。議会議事堂前にて。

 このコザツキー(「コサックの」という意味)というホテル、街の真ん真ん中にあってロケーションは抜群なんだけど、スーツケースを失った人間にとってはつらい宿でした。サービスが完全に旧ソ連型で、備品はタオルと石鹸くらいしか置いてないのです(シャンプーとドライヤーは頼んだら貸してくれましたが)。到着した翌日、いきなり日系企業を訪問する用事があったのですが、ヒゲも剃らず、ネクタイもなしで、着の身着のままで面談するはめになり、先方に失礼なことをしました。せっかく用意したお土産も、スーツケースのなかに入っていたので、渡せずじまいで。

 とまあ、荷物を失うという大きなアクシデントに見舞われたのですが。実は、私は直後こそ落ち込んだものの、わりと早く立ち直っていました。スーツケースがなくなった状況が、非常にはっきりしていたので(シェレメチェヴォ空港内の連絡の悪さに尽きるので)、これはすぐに見付かって、手元に届けられるはずだと確信していたのです。

 もうひとつ、ある思いが芽生えました。いっそのこと、キエフで身の回りのものを買い揃える買い物を楽しんでみようか、と。私はエコノミストという商売柄、外国に行くと、商店を回り、どこの国で 生産されたどんなものが売られているか、値段はどのくらいかといったことを、チェックするようにしています。ただ、普段は実際にはモノを買わないので、結局は冷やかしの域を出ません。それが、今回の場合は、身の回りのものすべてを失って、モノを切実に必要としているわけだから、いつもとは違った真剣勝負の商店巡りができるのではないか。ひいては、ウクライナの経済・生活事情をより深く理解するためのヒントがつかめるのではないか。そんな風に思ったのですね。 その際に、真っ先に頭に浮かんだのがTsUM、すなわちキエフの中央デパートでした。

目抜き通りにあるキエフ中央デパート「TsUM」。

ウクライナの国産品ばかりだった靴下売り場。

 このデパートには、ちょっとした思い出があります。私がキエフを初めて訪れたのが、1993年9月。日本で言えばまだ初秋というのに、この時ウクライナは猛烈な寒波に見舞われ、吹雪が荒れ狂う天候となりました。当地の秋を甘く見ていた私は、ジャンバーやコートの類を携行しておらず、慌ててTsUMに駆け込んで、外套を探してみたのです。運良く、紳士服のコーナーでダウンコートのようなもの(中身はダウンではなく綿か化繊だったはずですが)を売っており、それを買い求めることにしました。当時は、ソ連崩壊からまだ1年数ヵ月しか経っておらず、広い売り場にあったのはこの商品1種類だけで、色も緑1色しかありませんでした(デザインはそんなに悪くありませんでしたが)。商品タグにはメーカー名やブランド名でなく、「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国軽工業省」と書いてあったと記憶しています。当時のウクライナはハイパーインフレの渦中にあり、値札にはものすごい数のゼロが並んでいて、結構な厚さの札束を渡して買ったのを覚えています。

 もう一度、あのTsUMに行ってみよう。もちろん、その後も何度が立ち寄ってみたし、今では品揃えも比べ物にならないくらい豊かになったのは知っている。でも、14年前のことを思い出しながら、同じ店で買い物をして、郷愁にふけってみるのも、悪くないんじゃないか。そんな風に思ったら、スーツケース紛失の災難もどこへやらで、逆に ウキウキしてきたから、不思議なものです。

 というわけで、TsUMことキエフ中央デパートに出かけて、衣料品を中心に身の回りのものを買い求めてみました。単純な感想としては、ウクライナは国産の衣料品が結構あるなあというのを感じました。まあ、同じウクライナでも、地域、店の業態やグレード、商品の種類などで、事情が千差万別なのは当然ですけれど。それでも、TsUMにあった男性用の肌着類やYシャツ、スーツなどは、大半がウクライナ製でした。ロシアでは、国産の衣料品というのは あまり見かけないので、非常に対照的です。ただ、ネクタイだけはウクライナの国産品はまったくなく、イタリア製とフランス製だけでしたね。いずれにしても、リヴォフ州やジトミル州産の靴下、キエフ市産の下着やYシャツなどを買い揃えるのは、実に楽しいひと時でした。

キエフのSealine社のシャツ。

1回洗っただけで、脇のところが

ほつれてきましたが……。

http://www.sealine.biz/

ジトミル州(左)とリヴォフ州の靴下。

値段は1足だいたい200〜300円くらい。

http://www.ztsocks.com/

 

キエフ市のメーカーのYシャツ。デザインは至って普通で、値段は2,500円くらい。

 だから、ここまでだったら、到着時にスーツケースが出てこなかったといっても、笑い話で済んだんですよ。むしろ、ハプニングを楽しんだ面もあって。エッセイのタイトルだって、「キエフ中央デパートの郷愁」になるはずだったのです。

調子に乗って買ったディナモ・キエフのTシャツ

 ところが、私を待ち受けていたのは、もっと重大なトラブルでした。くだんのスーツケースは、私のキエフ到着から2日後に、ホテルに届けられました。せっかく身の回りのものを買い揃えたんだから、こんなに早く着かなくてもいいのに。ともあれ、事なきを得て良かったなあと思いながら、中を開けてみたらびっくり。何と、入れておいたはずのパソコンがなくなっているではありませんか。それと、電源やUSBなどのケーブル類も、ごっそりなくなっています。

 すぐに察しがつきました。盗んだのは、ウクライナの税関職員に違いありません。何しろ、当方はスーツケースの鍵を渡しており、それを開けうる立場にある人間は、ウクライナの税関職員しかいませんから。ウクライナの税関というのは、輸出入の書類にありとあらゆる難癖をつけ、早く手続きを進めたい企業から、賄賂をむしりとろうとするチンピラ組織であると言われています。そういう話は、雑誌で読んだり、人から聞いたりして知っていましたが、まさか自分がその腐敗振りを身をもって思い知るはめになるとは。今思えば、ウクライナの税関に鍵を渡したのは、テロリストに爆弾を渡すのに等しい行為でしたね。

 それにしても、国家の根幹的な機能の一つである税関が犯罪者集団というのは、困った国です。歴史を紐解けば、中世から近代に移行した時代に、今日に見るような国家の枠組みが形成され、その過程では関税が重要な役割を果たしました。ウクライナの場合、それを司る税関の機能が狂っているということは、近代以前の中世国家ということかな?

 まあ、私もスーツケースにパソコンを入れておいたのは、軽率だったかもしれません。私としては、往路の機内でパソコンを使用する予定はなく、昨今は電子機器を携行しているとセキュリティチェックやら何やらが面倒だから、とりあえずスーツケースに入れてもっていこうと思ったのです。今回は、新しいスーツケースを買って、その初旅行だったのになぁ。よりによって、デビュー・フライトで盗みに遭うとは、不憫なスーツケースだぜ。ていうか、ピカピカのスーツケースだから、金目のものが入っているように見えて、よけいウクライナの税関チンピラを刺激しちゃったのかな。

 おそらく、盗んだ人間にとっては、私のPCはそれほど役に立たないと思います。なにせOSもキーボードも日本語ですから、ロシア地域向けにカスタマイズしなければ使えないわけで。ましてや、ごっそりもっていかれたケーブル類は、それぞれ特殊なものだから、何の価値もないでしょう。泥棒側は、とりあえずPC周りと思しきケーブルを無差別に抜き取ったのだろうけど、実際にはそれはデジカメの電源ケーブルであり、iPodの充電ケーブルであり、ボイスレコーダーのUSBケーブルであったわけで、商品的価値はともかく、持ち主にとっては、ないと非常に困るものばかりなわけです。このように、盗んだ人間が得る利益は微々たるものなのに、失った私の損失は巨大であるという点が、非常に腹立たしいですね。キエフのジャンク屋で、タダ同然で叩き売られているかと思うと、まったくやりきれません。

 さて、ボリスポリ空港の荷物紛失窓口に電話をかけ、PC盗難の件につき、文句を言いました。しかし、窓口によると、本件については空港ではなく、航空会社であるアエロスヴィトに届け出るべきとのこと。これは、なんだかおかしな話ですね。私は空港の荷物紛失窓口に鍵を預け、税関職員がその鍵を使って荷物検査をし、その過程でPCが消えたのに、文句は航空会社に言えという……。航空会社と税関の力関係で、前者の方が強いなどということはありえないから、客からの苦情が来ても、航空会社としては税関相手に手の施しようがないでしょう。

 まあ、個人的に、泣き寝入りだけは絶対にしない主義なので、面倒臭かったけど、携行品紛失被害届を手書きで書いて、翌日ドネツクに向かう際に、空港のアエロスヴィト出張所に提出しましたよ。「確かに受け取った」という受領印はもらいましたけどね。それから2週間ほど経ちますが、アエロスヴィトからはもちろん何の音沙汰もありません(笑)。

 とくかく、今回のウクライナ出張は、仕事そのものはすこぶる順調で有益だったんだけど、旅行的には滅茶苦茶でしたね。というわけで、ウクライナ珍道中の報告は、後半のドネツク編に続く。

(2007年12月28日)

 というわけで、2007年のエッセイはこれでお終い。今年も1年間、ご愛顧いただき、御礼申し上げます。このホームページを、内容的にも、デザイン的にも、リニューアルしたいと考えているのですが、忙しくて手を付けられないまま、2007年も終わってしまいました。来年あたり、何とかしてみたいと思います。どうか皆さん、良いお年をお迎えください。

 

エカテリンブルグ満喫旅

 9月のエッセイで簡単に触れたように、この間、ロシア・ウラル地方のエカテリンブルグに行ってきました。エカテリンブルグはロシア第4の人口(130万人くらい)を誇る大都市ですが、私にとっては恥ずかしながらこれが初めての訪問でした。エカテリンブルグ市、およびそれを州都とするスヴェルドロフスク州の経済に関しては、近くまとまったレポートを書く予定ですので、このエッセイでは、街で撮った写真を紹介しながら、旅行者、または散歩趣味人の目で見たエカテリンブルグについて語ってみたいと思います。以下の写真はすべて、サムネイルをクリックすると拡大されます。

 私は、初めての街に行くと、とにかく一人で街中を歩き回ることにしています。そうやって、自分の感性で、その街を感じたいのです。今回のエカテリンブルグ出張は、仕事の予定がかなり立て込んでいましたが、その合間を縫って、根性で街を歩きました。こればかりは、自分の流儀、こだわりですので、やめるわけにはいきません。

 さて、エカテリンブルグの街並み。これは、まあ、ロシアの平凡な地方都市という感じでしょうか。ソビエト風の建築物が主流であり、あまり外国人を魅了するようなものではありませんね。教会はあまり多くありませんでした。エカテリンブルグの場合は、街の真ん中に貯水池および親水公園のようなものがあって、それが独特の情景を作り出していると言えなくもありませんが。

 そもそも、エカテリンブルグは文化や商業というよりは、工場の街。その生い立ちからして、重工業都市となることを運命付けられていたのです。エカテリンブルグは、サンクトペテルブルグと同じく、ピョートル大帝の改革の産物だったのですね。18世紀初頭、海への出口を必死に探していたロシア。艦隊、商船隊が創設され、軍の装備が近代化され、要塞、工場が盛んに築かれた時代でした。大砲、砲弾、碇をつくるために、大量の鉄、銅が必要とされました。そこでピョートルは手付かずだったウラル山脈の豊富な鉱物資源に目を向けたのです。ウラルでは、「要塞工場」、のちに「都市工場」という新しいタイプの集落が出来始め、エカテリンブルグもその一環として発祥したのでした。1723年3月に当地で製鉄所の建設が始まり、同年11月に稼働、これがエカテリンブルグの始まりとされています。以上、資料からの受け売りでした。

 ソ連時代には、エカテリンブルグ市は革命家の名をとって「スヴェルドロフスク市」と改名されていたわけですが、社会主義体制下で、重工業都市としての位置付けが一層明確化しました。第二次大戦中に、多くの軍需企業が国の西部から当地に疎開してきたことも、それを後押ししたと言われています。軍需工場だらけだったので、外国人はスヴェルドロフスクに立ち入ることができませんでした。 なお、スヴェルドロフスク市は、1991年に旧名のエカテリンブルグ市に戻されましたが、州の名前は今でもスヴェルドロフスク州のままです。

 今でも、エカテリンブルグ市の北側のエリアには、有名な「ウラルマシ」をはじめ、大規模な機械工場がひしめいています。私も、せっかくエカテリンブルグまで来たので、あのウラルマシを一目見たいと思い、地下鉄の「ウラルマシ」という駅があったので、そこで降りてみました。でも、……どこがウラルマシなのか、いまいちよく分かりませんでしたね。一応、それらしき一画を、写真に収めてきましたので、掲載しておきます。

写真1 エカテリンブルグ市の中心部。

街の雰囲気はだいたいこんな感じで。

写真2 エカテリンブルグ北の工場街。

ウラルマシと思われる一画。

 このように、無骨な重工業の街エカテリンブルグですが、街の中心部に、写真3に見るような昔風の木造建築がいくつか散見されました。おそらく、20世紀の初頭くらいの建物だと思うのですが、帝政ロシアの末期に人々が内地からシベリア方面に移住していった、そんな時代の雰囲気を感じさせる建築遺産です。

 ロシアの地方都市では珍しくも何ともありませんが、エカテリンブルグでは、レーニン像もまだ健在でした。事情を知らない外国人が見たら、「ロシア人はまだマルクス・レーニン主義を信奉しているのか?」と誤解するかもしれませんが、そんな深い意味はありません(笑)。これは、すべての都市にレーニン像が残っているベラルーシについても言えることです。要するに、レーニン像を壊すだけのエネルギーの瞬間的な高まりがなかったということですね(モスクワでは1991年に そうした高揚が起きたけど、ロシアの地方都市やベラルーシにはそれがなかったということです)。

 スヴェルドロフスク州は、石油・ガス資源こそないものの、このところ鉄鋼および非鉄金属産業が好調で、景気が良いわけです。当然、市民の消費生活も、なかなか活発であるように見受けられました。モスクワに比べれば5年くらい遅れているかなという気もしますが、全国的な小売や外食のチェーンも当地進出を果たしており、急激に成長していることは間違いないようです。街で一番おしゃれなショッピングストリートは、写真5に見る 「ワイナー通り」。古びたレンガ造りの建物に、有名ブランド店が入居していたりして、悪くない雰囲気です。

写真3 帝政末期を偲ばせる木造建築。

写真4 今も街ににらみを利かすレーニン。

写真5 ブランド店が軒を連ねるワイナー通り。

 写真6は、貯水池越しに見えるスヴェルドロフスク州行政府の庁舎です。なかなか品の良い佇まいですが、目抜き通りにあるエカテリンブルグ市庁舎の方が存在感を発揮しているように思えて、このあたりどうなのかなという気がしました。ちなみに、ロッセリ州知事とチェルネツキー市長、 犬猿の仲というのは有名な話です。

写真6 貯水池越しに臨む州行政府庁舎。

写真7 こちらは目抜き通りにある市庁舎。

 さて、スヴェルドロフスク州といえば、エリツィン前大統領が同州出身であり、エカテリンブルグ市内にあるウラル国立工科大学を卒業しています。エリツィンさん、今年の4月に亡くなってしまいましたね。エリツィン大統領は、在任中に奇行を繰り返し、晩年は死人同然でまったく指導力を発揮できていませんでしたから、一般国民には愛想を尽かされていました。さすがにスヴェルドロフスク州はご当地ですから、ロシア全般と比べれば、エリツィン氏は多少は市民に慕われているようでした。ただ、市内にも、母校にも、エリツィンの銅像だの記念館だのは、今のところありません。唯一、大学の正面玄関のところに、写真 9に見るようなプレートが掲げられていました。「国民の投票で選出された最初のロシア大統領、ボリス・エリツィンはここで学んだ。1955年の卒業。」という、何ともあっさりしたものですが。ちなみに、私の意識にはなかったのですが、ブレジネフ時代にソ連首相だったルイシコフ氏も、実は同大学の卒業生で、エリツィン氏の隣に同じようなプレートが掲げられていましたから、エリツィン氏はやはり特別扱いはされていないということでしょう。

 エリツィンの銅像はありませんでしたが、その代わり街の中心部で目に付いたのが、写真10に見るダブル立像です。一見、いたいけな少年と少女のように見えますが、そうではなく、エカテリンブルグ建設の功労者であるデ・ゲニン陸軍少将とタチシチェフ大尉とのこと。銅像がつくられたのは比較的最近で、90年代の末だったようです。

写真8 ウラル国立工科大学。

手前の銅像はエリツィンではありません。

写真9 エリツィンが卒業したことを示すプレート。

写真10 デ・ゲニンとタチシチェフの像。

 銅像ではありませんが、エカテリンブルグでは、昔の風俗を再現した人物のオブジェのようなものを、何箇所かで見かけました。写真11はその一つで、これは「スヴェルドロフスク鉄道歴史・科学・技術博物館」の建物の前です。この博物館、 私のもっていたガイドブックには載っておらず、鉄道駅の近くで偶然発見して、入ってみようとしたんだけど……。人っ子一人いないから、どうなっているのかなと覗き込んでい たところ、係員が出て来て、「今日は閉館。事前に予約したグループにしか見せない」という、つれないご返事。同じ鉄道博物館でも、最近さいたま市にオープンして大人気のそれとは、えらい違いです な。

 気を取り直して、「スヴェルドロフスク州地誌博物館」に行ってみました。中身は、……まあ、ごく普通というか、ちょっとありきたりだったかな。その次に私が向かったのが、「エカテリンブルグ市歴史博物館」。こちらも、ちょっと食い足りないというか……。ただ、 この博物館は常設展示もさることながら、特別企画に力を入れているらしく、ちょうど、当地ゆかりのロマノフ家の写真展と、日本に関する特別展示をやっていました。

写真11 鉄道博物館。

写真12 スヴェルドロフスク州地誌博物館。

写真13 エカテリンブルグ市歴史博物館。

 エカテリンブルグが、ロマノフ王家終焉の地であることは、ご存知の方も多いでしょう。1917年のロシア革命で帝位を退いたニコライ2世とその家族は、ボリシェヴィキによってエカテリンブルグのイパチェフ邸に幽閉され、1918年7月にこの館の地下室で銃殺されたのでした。

 実は、ちょうど私がエカテリンブルグを訪問した時に、ロマノフ家に関する大きなニュースがありました。銃殺されたロマノフ一家および従者たちの遺骨は、1989年にエカテリンブルグ郊外で発見されたのですが、11人のうち9人が発見されたのみで、皇太子アレクセイ、皇女マリヤの遺骨は発見されずじまいだったのです。それが、今年の7月29日になって、前回の発見場所からわずか8メートルの地点で新たに2体が見付かり、8月末にいくつかの関係機関が共同で、これらはアレクセイとマリヤのものと見られるという見解を発表したのでした。そして、その真偽を確かめるべく、DNA鑑定実施のため、モスクワに保存されていた9遺骨の骨組織が、9月3日にモスクワからエカテリンブルグに移送されてきたのです。ロシア検察局重要事件上級調査員のV.ソロヴィヨフ氏が、箱を大事そうに抱えてエカテリンブルグのコリツォヴォ空港に降り立ち、スヴェルドロフスク州法医学主席専門家のN.ネヴォリン氏に出迎えられる様子が、テレビのニュースで伝えられていました。9月3日というのは、私がモスクワからエカテリンブルグ入りした日であり、そういえば飛行機が着陸してから、不自然に 長く待たされたから、ひょっとしたら私が乗った飛行機に、ソロヴィヨフ氏も乗ってたんじゃないかなあ??? だとしたら、私もニコライ2世ほかロマノフ家の皆さん(の遺骨の断片)と一緒に空の旅をしたという……。大津事件から116年後の出来事でした。

 閑話休題。エカテリンブルグ市歴史博物館のロマノフ家写真展で、ベラルーシに関係する写真を2点見付け、隠し撮りしてきましたので、ここに紹介します。一つは、「1913年秋。ベロヴェージ原生林にて。オリガ、タチヤナ、マリヤ、アナスタシヤ」という写真。ベラルーシの森で、皇女4姉妹揃い踏みの図です。ベロヴェージ原生林は、王侯貴族が狩りを楽しんだところだから、ロマノフ一家もちょくちょく出かけて、男たちは狩り、女子供はきのこ狩りやベリー摘みをしたりしたのかな(手前にバスケットが見える)。

 もう一点。 「1916年、自動車の傍らに佇むニコライ2世とアレクセイおよび農民たち」という写真。やや不鮮明ですが、一番左にいるのが皇帝で、その手前にいる少年がアレクセイということでしょう。拙著『歴史の狭間のベラルーシ』に書いたとおり、ニコライ2世は第一次大戦時にベラルーシのモギリョフに本陣を構えていたのですね。血友病で病弱だったアレクセイ皇太子が前線で顔を見せているのは、やや意外ですが。

写真14 ロマノフ家4姉妹。ベロヴェージ原生林にて。

写真15 モギリョフでのニコライ2世親子の姿。

 ロマノフ一家が銃殺されたイパチェフの家は、ソ連時代の1977年に取り壊されました。その結果、ロマノフ家の最後を伝えるものがまったくなくなってしまったのですが、新生ロシアの時代になって、イパチェフの家跡に木造の礼拝堂が建てられ、史実を記した石碑も設置されました。さらに、最近になって、礼拝堂の隣に、大きな聖堂が建立されました(2003年完成)。何でも、その名を「血の上の聖堂」というそうで。聖堂の周囲にはロマノフ家に関係する写真などが掲げられており、「ロマノフ家終焉の地」を村興しに 利用しようとする意図が感じられます。一般受けするような観光スポットがそれほど豊かでないエカテリンブルグですから、ロマノフ家を観光資源として活用する動きは、今後さらに本格化していくでしょう。

写真16 イパチェフの家跡の

礼拝堂と聖堂。

写真17 イパチェフの家跡の石碑。

読めるかな?

写真18 その名も「血の上の聖堂」。

 さて、最後に、今回のエカテリンブルグ巡りで、最も印象に残ったものを。それは、「ウラル地質学博物館」でした。上述のように、エカテリンブルグはもともと、ウラル地方の鉱物資源を開発・加工するために築かれた街です。その伝統で、市内にはウラル国立鉱山・地質学アカデミーという研究・教育機関があり、その付属施設として地質学博物館が設けられているのですね。

 ここには、ありとあらゆる種類の鉱物、石が展示されています。私は、地質学のことは全然知りませんし、展示品の説明もロシア語だからますます訳が分からないのですが、色とりどりの鉱石を眺めていると、それだけで楽しめ ます。日本にも石マニアはたくさんいるようなので、そういう人たちが見たらヨダレをたらすのではないかと思います。スヴェルドロフスク州では金も採れるので、「黄金の部屋」というのもありました(入場は別料金)。ただ、厳重に施錠されているわりには、展示は大したことなかったなあ。

写真19 地質学博物館の外観。

石のオブジェがお出迎え。

写真20 色とりどりの鉱石を見ることができる。

 そんなこんなで、思いのほか楽しみながら、見学を続けていたのですが。一番最後のコーナーに来て、さりげなく置かれていた白っぽい石に、目が点になりました。 そこにあったのは、何と、アスベスト鉱石! しかも、ガラスケースの外にむき出しの状態で置いてあり、繊維質が風に当たってゆらりゆらゆらと揺れ動いているという。

ギャーーー

 私は、悲鳴を上げて、その場から走って逃げました。慌てて逃げてきたので、写真もありません(笑)。

 そういえば、スヴェルドロフスク州に、その名も「アスベスト」という街があるのを思い出しました。当然のことながら、アスベスト鉱石の採掘で成り立っている街でしょうね。後で統計で調べたら、スヴェルドロフスク州ではいまだに年間50万トンほどのアスベストが採掘されており、 外国に輸出もされています(最大の輸出相手国は中国!)。ロシアでは、アスベストが人体に及ぼす害悪についての認識が、日本ほど浸透していないのでしょうね。平均寿命が短いから、大抵の人間は中皮腫を発症する前に他の原因で死ぬということなのかな?

(2007年11月17日)

 今月のオマケエッセイはこれ。「モスクワ地下鉄物語」(『NHKテレビロシア語会話』2007年12月号)です。 エッセイを補足する写真も下に載せておきます。

 何やら、先月のオマケと、ネタがかぶっておりますが……。以前、このコーナーで、「ネタの使い回しはしない」と大見得を切りましたが、最近多忙でどうしようもなく、背に腹は代えられなくなりました(誤魔化し笑い)。

真新しいトルブナヤ新駅。

地下に下りていくエスカレーターはこんな感じ。

(ちなみにこれはエカテリンブルグの地下鉄)

NHKのテキストに載せた写真。

振動でぶれていますが、ご勘弁。

 

ノーベル平和賞の先物買い

 一昨日(10月12日)、2007年のノーベル平和賞の受賞者が決まりました。前米副大統領のアル・ゴア氏と、国連の「気候変動に関する政府間パネル」です。

 ところで、今年の受賞候補者のなかに、アレクサンドル・ベリャツキー氏というベラルーシの人権活動家がいました。同氏の下馬評はそれなりに高かったらしく、私はある放送局から、同氏がノーベル賞を受賞したら、専門家としてのコメントを寄せてほしいと頼まれていました。ノーベル平和賞の発表は日本時間の12日(金)の午後5時くらいということで、その時間に電話に出られるように待機していてほしいとのご所望。

 いや〜、惜しかったですねぇ。ベリャツキー氏が選ばれたら、某放送局の伝統ある7時のニュースで、「専門家」のこんなコメントが流れるはずだったんですが。

「ベリャツキー? 誰それ? 知らね。」

 そうです。正直に白状すれば、私は放送局に言われるまで、このベリャツキーという人物をまったく知りませんでした。まあ、正確に言えば、ベリャツキー氏は昨年もノーベル平和賞の候補者になっていて、昨年も放送局から同じ依頼を受け、その時に初めて彼の名前を聞いたのですね。ただ、実際には受賞を逃してしまったので、この一件のことはすっかり忘れ去っていて、まったく白紙の状態のまま、1年後にまたお鉢が回ってきたというわけです。

 ただ、いつまでも知らぬ存ぜぬでは、「専門家」(脂汗…)の名が廃るというもの。ひょっとしたら、来年こそ受賞するかもしれないし。そこで、ベリャツキー氏の経歴を調べてみましたので、以下にまとめてみます。

 アレクサンドル・ベリャツキー(BELYATSKY, Aleksandr Viktrovich):1962年9月25日、ロシア・カレリア共和国の農村生まれ。1984年、ゴメリ大学歴史・文献学部卒。1989年、ベラルーシ共和国科学アカデミー文学研究所大学院修了。1989年〜、ベラルーシ文学史博物館学芸員。1989〜1998年、マクシム・ボグダノヴィチ文学博物館館長。1986〜1989年、ベラルーシ作家同盟会員、青年文学協会「トゥテイシヤ」の発起人にして議長。1990年、「ベラルーシ・カトリック会議」の発起人の一人。1992〜1996年、ミンスク市議会議員。20歳の頃から反共産主義運動、民族・民主主義運動に身を投じ、逮捕や罰金刑を経験する。1988年、ベラルーシ人民戦線「Adradzhen'ne」の結成に参加。1996年から人権擁護センター「Vesna-96」の議長。1998年から人権レポート『Prava na volyu(自由への権利)』を編集。2000年から、500以上のベラルーシの組織を束ねる「非政府民主組織連合体」の議長。2006年、ノーベル平和賞の候補になる。2006年、ノルウェーでサハロフ記念賞を受賞、またチェコでは「Homo homini(人間のための人間)」賞を受賞。2007年4月、国際人権連盟の副総裁に選出される。2007年10月、再びノーベル平和賞の候補になるも、受賞を逃す。

 要するに、一言で言えば、ルカシェンコ政権と敵対する反体制派のなかで、民族主義的な潮流に属する活動家と位置付けられそうです。私の持論によれば、現在のベラルーシで最も望みの薄い路線です。

 国際社会が、ベラルーシの民主化運動への連帯を表明すること自体は、理解できることです。ただ、私がよく分からなかったのは、数ある活動家のなかで、なぜ同氏がその代表として、ノーベル平和賞の候補者にまでなるのかということ。上の経歴を見ると、非常に立派な活動歴があるように見えますけど、何せ(一時期必死にベラルーシのことを調べた)私が知らなかった人物ですからね。客観的に見て、今日のベラルーシの野党陣営で、それほど傑出した存在だとは思えません。

 上に色々と経歴を書きましたけど、最も重要なのは、人権擁護センター「Vesna」の代表というものでしょう。Vesnaは、2004年に国際人権連盟に加入しており、その後、ベリャツキー氏による国際的な賞の受賞やノミネートが相次いでいて。上述のように、ベリャツキー氏は同連盟の副総裁にも選出されています。つまり、ベリャツキー氏は自らを、ベラルーシにおける人権擁護のチャンピオンとして国際社会に認知させることに成功したということです。

 ただ、ベリャツキー氏の国内での影響力が、その国際的名声に見合ったものかというと、疑問です。国際社会でもてはやされながら、国内では不人気であったり無名であったりというのは、ゴルバチョフ以来、ロシア圏の政治家の一つの類型と化している観があります。もしもベリャツキー氏がノーベル平和賞を受賞していたら、大多数のベラルーシ国民は「???」という反応を示したことでしょう。(私はベリャツキー氏のことをよく知らないので、ここに書いたことはあくまでも直感的な評価です。同氏のことをこき下ろしたいのではなく、現実のベラルーシ政治の文脈に位置付けたら、おそらくこんなところだろうという憶測を示したにすぎません。)

 それから、私には根本的な疑問があります。ベラルーシの民主化の問題は、果たして「平和」と関係があるのかという疑問です(まあ、それを言うなら、気候変動問題が本当に「平和」と関係があるのかという議論もありますけど)。確かに、国際政治学には、民主主義を平和の基礎と考える立場もあります。いわく、民主主義国家同士が戦争をした事例はない、云々というやつですね。しかし、私見によれば、そもそもルカシェンコ体制のベラルーシは、国際平和を深刻に脅かすような存在ではありません。誤解を恐れず言えば、

村長さんは村で威張っています。

という類の話ですからね。私自身はベラルーシが民主化されることを望んでいますが、それはベラルーシ国民自身の問題であって、もとより、それほど世界に迷惑をかけているわけではないでしょう。米国による京都議定書調印拒否、イラク戦争、銃の野放しといった物事の方が、人類にとってはるかに大きな脅威であると、私は考えます。

 ただ、ゴア氏と「気候変動に関する政府間パネル」がノーベル平和賞をもらったということは、米ブッシュ政権が世界平和の敵であるということが国際的に認知されたと理解していいのかな?

(2007年10月14日)

 久々のオマケ・エッセイ、「モスクワ地下鉄車内の風景」。文中、「吊り革広告」とあるのは「中吊り広告」の誤りです。間違えました(汗)。

 

モスクワで見付けた意外なメイドインジャパン

 ロシアのモスクワとエカテリンブルグに調査出張に出かけ、帰ってきたところです。

 今のロシア、とにかくあらゆるものがバカ高くで、びっくりします。景気が良いうえに、通貨のルーブルも高くなっているので。ある調査で、モスクワが世界で一番物価が高いとされたのも、伊達ではないなあという感じです。

 今回の道中でとくに驚いたのは、帰りのシェレメチェヴォ空港で、ちょっと軽食でもとろうかと思い、焼き鳥1本、フランクフルトソーセージ1本、ポテトフライを頼んだら、何と500RURもしたことです(RURはロシアルーブルの略)。現在、1RUR≒4.5円くらいですから、500RURというのは約2,250円ということになります。いくら空港とはいえ、こんな出来損ないのジャンクフードが、2,000円以上とはねぇ。うな重の松が食える値段じゃないですか。

モスクワ地下鉄の5回切符

 市場経済に移行したロシアで、皆が金儲けに躍起になるのは、自然な成り行きです。ただ、その志向が、他人を騙したり、相手の足元を見たりといった方向に向かいがちなのが、残念。誠実な労働により、他者に奉仕をし、その満足の対価として収入を得る。そんな健全な労働の精神が、今のロシアにはあまりにも欠けています。

 とまあ、そんな風に嘆きたくなるほど、人をバカにした高価格が横行する昨今のロシア。モスクワに滞在して、多少なりとも割安感を感じるのは、もはや地下鉄の料金くらいでしょうか。5回乗りの切符が、75RURなので、1回70円程度という計算になります。不良グループのアジア人狩りに遭ったり、チェチェン人の自爆テロに巻き込まれたりする危険と隣り合わせなので、本質的な意味で安いかどうかは、微妙ですが……。

 しかし、そんな狂乱インフレのモスクワで、今回ひとつ、お買い得なものを発見しました。音楽CDです !!

 ロシアの音楽マーケットというと、違法な海賊版CDが横行していることが知られ、私もそれについては何度も文章を書いています。ところが、NHKテキストのエッセイに書いたとおり、最近ちょっと状況が変わってきました。欧米のエンターテイメント企業が、ロシア限定で正規の廉価版を発売するようになり、そうした全うな商品を扱う小売チェーンも発展してきたというのです。そうしたCDは、海賊版と比べると倍の値段だけれども、欧米から輸入されたCDと比べると半分の値段なので、徐々に消費者に受け入れられつつあるとのこと。で、こういう話は、ロシアの雑誌で読んで知ったのですが、今回ロシアに行ったついでに、そのへんのところを自分の目で確かめてみたわけです。有名な「ソユーズ」という音楽チェーン店が、最近「フセソユーズヌィ」という大型店をモスクワ中心部に開設したとのことでしたので、その店に行ってみました(写真)。

 店頭を調査したところ、ロシア限定の廉価版に関する話は、本当でした。ロシアの街頭で売られている海賊版CD(CD-RにMP3を焼いたものも含む)は、150RURが相場。欧米から輸入された正規版は、500RURくらい。それに対し、ロシア限定の正規廉価版は、249RURという価格設定になっているようです。今回私は、The Byrdsのベストを買ってみましたので、そのジャケットをここに紹介します。右肩には「Sony BMG: for sales in CIS」とロシア・CIS地域限定であることを示すシールが貼られており、左端には「Special Russian Version」と記されています。Byrdsの24曲入りのちゃんとしたベストが、1,100円くらいだったら、悪くないんじゃないですか。ちなみに、新譜も同じ値段であり、たとえばポール・マッカートニーの新作なんかも249RURでした。日本版は2,500円ですから、これはかなりお買い得。もちろん、歌詞カードがないとか、ちゃんとデジタル・リマスターした音なのか? とか、細かいことを言えばキリがありませんが。それでも、この値段なら、ロシアに行った折に、暇があったらCD屋を覗いてみて、いくつか買い求めてみるのも、悪くないでしょう。何もかもが理不尽に高い今のロシアですが、この廉価版CDだけは、ロシアに行く楽しみがひとつできたなという感じです。

 ところで、今回このフセソユーズヌィという店で、びっくり仰天したことがあります。ブルースのコーナーを見ていたら、日本版の紙ジャケCDがいくつか置いてあったのです。とりあえず目に止まったのは、マディ・ウォーターズでした。普段あまりCDを買わない方はご存じないかもしれませんが、最近日本のレコード業界では、昔の作品を「紙ジャケット」で再発することが盛んになっています。中身はCDなので、大きさは通常版のCDパッケージよりも少し大きい程度なのですが、味気ないプラスチックケースと違って、紙ジャケだと縮小版ではあっても昔のLPの質感やディテールを忠実に再現でき、こだわりの強い日本の音楽ファンに支持されているのですね。紙ジャケ文化は欧米にもないことはないはずですが、やはり緻密な作業は日本人の得意とするところらしく、我が国のレコード会社の専売特許のようになっているようです。とまあ、そんなわけで、日本が世界に誇る紙ジャケCDに、モスクワで不意に出くわしたものだから、非常に驚いたわけです。

 いやいや、時代も変わったわい。モスクワで、マディ・ウォーターズの日本製紙ジャケを拝めるとはね。いやあ、参った参ったと、傍らに目をやると、さらにびっくり。そこでは何と、「Made in JapanСделано в Японии」と題し、日本製CDの特別コーナーが設けられていたのです。ただ、こちらはジャズ中心の品揃えで、必ずしも紙ジャケというわけではなく、以前マイ・レコード大賞のコーナーで触れた1,500円ジャズなどが置いてありました。日本で1,500円で売られていた再発ジャズが、ここでは549RUR、つまり2,500円くらい。マディ・ウォーターズに至っては、799RUR、つまり3,600円ですからね。他の輸入盤とは一線を画す、別格の高級品という位置付けです。

 色んな音楽が買えるようになったロシアでも、ビートルズやクイーンのようなビッグネームを別にすれば、今のところ旧譜で手に入るのは、せいぜい各アーティストのベスト版どまり。その点、日本のレコード会社がジャズやブルースの昔のオリジナルアルバムを忠実に復刻してくれたりすると、ロシアの一部の音楽マニアにとっては、垂涎の的になるのでしょうね。フセソユーズヌィのメイドインジャパンのコーナーでも、熱心に商品をチェックする中年男性の姿が見られました。

 よく見ると、別のコーナーでは、2006年に日本で出たThe Rolling Stonesの60年代作品のCDシリーズがまとめて売られていました。下の写真に見るように、専用の陳列棚まで用意されて。こちらは、499RURとなぜか安く(2,200円くらい)、日本での値段2,548円と比べてもお得なので、1枚買ってきました。これなんか、2006年に出た限定版で、日本の店頭にはもう置かれていないはずのもの。ちなみに、別の陳列ガラスケースには、やはり日本でつくられたストーンズのでかジャケCD(中身はCDだがジャケットはLPサイズの商品)も飾られていました。こういう次第ですから、今後わたくし的には、日本で売り切れてしまった限定ものを、モスクワで探すなんてことも、もしかしたらあるかもしれません。

 ただ、メイドインジャパンのコーナーにしても、ストーンズのコーナーにしても、フセソユーズヌィが確固とした商品構成方針にもとづいて設けたものなのか、今ひとつ定かでありません。どうも、ヨーロッパあたりで売れ残った在庫を、そのまま買い上げて売っているような、そんな佇まいにも見えなくはないので。このあたりは、今後も継続的にウォッチしていきたいと思います。いずれにしても、

ロシア国民=インチキMP3を聴いて喜んでいるだけの連中

 という私の抱いていたイメージは、若干修正せざるをえなくなったようです。

(2007年9月9日)

 

ベラルーシ紋章学序説

 最近デスクワークばっかりで、目新しい話題もないので、ちょっと昔話を。私がベラルーシのミンスクに住んでいた一番最後の時期、2000年から2001年初めにかけての話です。

 ヨーロッパの都市には、それぞれ固有の紋章というものがありまして。ベラルーシの歴史のある街にも当然、、由緒のある紋章があります。ところが、帝政ロシア時代、ソ連時代に新しい (往々にして味気ない)紋章 が制定され、古い紋章は表舞台から姿を消してしまいました。それが、1980年代末から1990年初頭にかけて、ベラルーシでも一部でナショナリズムが高まり、それを受けて古い紋章が復活するようになったのですね。その一環として、都市の古い紋章を ピンバッジにしたものが商品化されました。

 私がベラルーシに赴任した頃には、ルカシェンコ政権下で反動的な気運が支配的になっており、そうしたアイテムはすでに生産中止になっていたようですが、在庫が残っていたのか、一部の店で紋章バッジを買うことはまだ可能でした。私は、最初は目に付いたものを買い求める程度だったのですが、次第に数が増えてきて。そうなると、全部揃えたくなるのが、人情というもの。2000年頃には、ベラルーシの都市紋章バッジ のシリーズを意識的にコレクションするようになりました。

 幸い、私の住んでいたアパートの真向かいが、「自由広場」というところで。ここは、モスクワのアルバート通りのように、土産物や民芸品を売る露天商が集まるところだったのですね。そのなかに、バッジ売りのお兄さんがいて、そのおかげで、ベラルーシ都市紋章バッジ・コレクションをかなり充実させることができました。

問題のノヴォ

グルドクの紋章

 ただ、どんなコレクションでも、ある程度までは簡単に集められても、最後の1〜2割くらいを完成させるのが難しいんですよね。ベラルーシ都市紋章バッジのコレクションも、重要であるにもかかわらず、どうしても見付からない街があって。とくに痛かったのは、リトアニア大公国発祥の地である古都ノヴォグルドクが欠けていたことですね。

 毎週末に現れては、並べられたバッジを眺めてため息をついているアジア人を見て不憫に思ったのか、バッジ売りのお兄さんが、「お前は何を探しているんだ。欲しいものがあったら、俺が見付けてきてやる」と切り出してくれました。私は、「都市の紋章なんだけど、ノヴォグルドク、トゥーロフ、バラノヴィチ、マラジェーチノ……」と、いくつか欠けていた街を挙げて、探してもらうことにしたのです。

 数日後に、自由広場に出かけ、バッジ兄さんのところに行くと、「バラノヴィチ、マラジェーチノは見付かった。ノヴォグルドク、トゥーロフは引き続き探すから、任せろ」とのこと。 ただ、残念ながら、バラノヴィチとマラジェーチノのバッジは、私が揃えていたのとは別シリーズの小ぶりなものでした(そもそも、それほど歴史的に由緒のある街ではないので、復刻 シリーズには入っていなかったのかもしれません)。それでも、せっかくもってきてくれたので、ありがたく買うことにしました。

 その後も何度か足を運んだものの、どうしても 欲しかったノヴォグルドクやトゥーロフは見付からずじまいで。そうこうするうち、2001年3月に帰国の時を迎え、私のベラルーシ都市紋章バッジ・コレクションは未完のまま終わってしまったのでした。自由広場も、今は市庁舎が再建され、露天は開かれなくなってしまいました。

 当時は、ベラルーシについての本を書く準備を進めていた時期で、紋章バッジを表紙のデザインに使ってみようかなんていうアイディアも、密かに練っていました。白い粘土でベラルーシ国土の土台をつくって、そこに都市紋章バッジを埋め込んで……なんてね。バッジがすべて揃わなかったこともあり、そうしたアイディアは実現しませんでしたが、今般、久し振りに バッジ・コレクションを引っ張り出してみて、ベラルーシの地図の上に並べてみました。上のサムネイルをクリックしてみてください。

 「ベラルーシ紋章学序説」なんて銘打ったわりには、単なる思い出話だけだったので、最後に一つだけ豆知識を。ベラルーシの古都の場合、紋章がマグデブルク法の受領とセットになっている場合が多いのですね。マグデブルク法というのは、ドイツ型の中世都市法のことであり、ベラルーシ史におけるその意味合いについては、拙著『歴史の狭間のベラルーシ』の18〜19頁をご参照ください。そして、マグデブルク法に伴う紋章は、その形に特徴があります。下に見るミンスク、グロドノ、ブレスト、ヴィテプスク、モギリョフのように、腰がくびれた形になっているのですね。それに対し、ベラルーシの州都のなかでは唯一、マグデブルク法を経験しなかったゴメリの紋章は、下図のように寸胴の形となり、やや残念なニュアンスを帯びることになります。

(2007年8月13日)

ベラルーシの各州都の紋章

ミンスク グロドノ ブレスト ヴィテプスク モギリョフ ゴメリ

 

 

 おまけエッセイもどうぞ。「今どきロシアのデジモノ生活」(『NHKテレビロシア語会話』2007年8月号)です。

 

 

ウィキペディアの多言語世界をさまよう

 インターネットをよくお使いになる方なら、ネット上のフリー百科事典『ウィキペディア』をご存知のことと思います。ウィキペディアの大きな特徴の一つは、多言語のプロジェクトであることで、日本語版もその一部ということになります。

 日本語版のトップページを開くと、ページの左端に、日本語以外の言語が30ほど表示されています。私も、このうちロシア語版や英語版はよく利用します。ただ、利用できる言語は、ここに出ているものだけかと思っていました。つい最近、トップページに表示される言語はほんの一部にすぎず、フルリストは実に253言語にも及ぶということを、遅ればせながら知りました。そして、当然のことながら、フルリストを見てみると、そこにはベラルーシ語もありました。

 なんだ、ベラルーシ語版のウィキペディアもあったのかと、認識を新たにさせられたのですが……。実は、驚いたのはそれだけではありませんでした。標準ベラルーシ語版とは別に、「タラシケヴィツァ」のベラルーシ語版が設けられていたのです。

 「タラシケヴィツァ」については、拙著『不思議の国ベラルーシ』で詳しく解説したので、そちらをご覧ください。簡単に説明すると、1918年に民族運動家タラシケヴィチが体系化したベラルーシ語の正字法・文法が「タラシケヴィツァ」と呼ばれ、その後スターリン時代にロシア語の規範に近付ける形で制定され、今日に至るまで公式的に用いられてきた体系が「ナルコモフカ」と呼ばれています。現代のベラルーシ・ナショナリストの少なからぬ部分は、ロシア語化され骨抜きされたものとして後者を忌み嫌い、前者の使用にこだわっています。

 ウィキペディアは統計が充実していて、2007年7月1日現在、タラシケヴィツァ版のウィキペディアは記事の総数が7,269本で、253言語のなかで第77位と発表されています。これに対し、標準ベラルーシ語(ナルコモフカ)版は同5,337本で、第88位。つまりは、非公式な民族主義バージョンの方が勝っていることになります。ウィキペディアに熱心に書き込みをするような知的な若者の間では(ウィキペディアは管理者ではなく、ユーザーの書き込みによって成り立っている)、ナルコモフカよりもタラシケヴィツァの方が優勢であろうことがうかがえます。

 2000年にベラルーシ語協会のトルソフ会長にインタビューした際、タラシケヴィツァとナルコモフカの問題について話を向けたところ、「2つの標準語が存在しているかのように言ってくれるな。1つの標準語に2つの正字法があるというのが正しく、大した違いはない」とおっしゃっておられましたが。でも、現にウィキペディアでは、別言語みたいになっちゃってるじゃないですか。分裂の結果、両サイトとも記事数が伸び悩み、ますますマイナー言語の地位に甘んじてるじゃないですか。言わんこっちゃない。ウィキペディアっていうのは、こういう問題を数字で表してしまう、残酷なメディアですね。

 しかし、マイナー言語に市民権を与えるのも、またネットという代物。今回、ウィキペディアの言語一覧を眺めていて、もう一つ驚いたのは、タラシケヴィツァの下の第78位に、「シベリア語」なるものがランクインしていたことです。ロシア語は方言が比較的少ない言語ですし、増してや「シベリア語」などというものは、まったく私の頭にありませんでした。しかも、その「シベリア語」のページを少し読んでみたら、ベラルーシ語と共通する語彙が多く、またビックリ。歴史を紐解くと、19世紀後半から20世紀にかけて、結構な数のベラルーシ人がシベリアに移住しているのですが、言語の類似性はそれとは関係ないでしょう。むしろ、大ロシア語では失われてしまったスラヴ語本来の古い語彙が、ベラルーシ語やシベリア方言に残っているということなのではないかと思います。まあ、私は言語学者ではないので、このあたりは素人談義ということで、あまり信用しないでください。

 ちなみに、東スラヴ系の言語としては、ポレシエ語、ルシン語なども予備軍として控えているようです。果たして、これらの言葉のウィキペディアは、誕生するのでしょうか。記事は勝手に書き込めるウィキペディアだけど、言語を追加する時はどうするのかしら?

*日本語版ウィキペディアの言語一覧で、「Belaruskaya (Tarashkevitsa)」をクリックすると、本来は言語としてのタラシケヴィツァについての説明が(タラシケヴィツァで)出てくるはずなのですが、なぜかリトアニア大公国時代の「古ベラルーシ語」についての説明が表示されてしまいます。「古ベラルーシ語」は「タラシケヴィツァ」とはまた別物ですが、どうもどこかでねじれが生じてしまっている様子です。しかも、「古ベラルーシ語」は、ロシア語版ウィキペディアでは「西ロシア語」に、英語版ウィキペディアでは「ルテニア語」に対応しており、ますますややこしくなります。多言語ネット百科事典の対応関係を構築するのは、それだけ至難の業なのでしょう。

(2007年7月10日)

 おまけエッセイはこちら。「ロシアのケータイ最前線」です。

 

サナトリウム・パラダイス

 昨年の12月にモスクワに出張した際に、展示会場「エクスポセンター」で開かれていた医療産業の見本市を視察しました。近年、ロシアで開かれる各種の見本市は活況を呈し、ロシア市場に売り込みを図りたい外国企業 はもちろん、地元ロシアの企業も数多く出展しており、見学するとなかなか勉強になります。

 ただ、私などはつい、欧米企業の立派な展示もさることながら、隅の方でジミ〜にやっているベラルーシ企業のブースなどに心惹かれてしまったりするものです。上述の医療産業見本市の際も、そういう変なツボにはまるものを見付けてしまいました。「ベルプロフソユズクロルト」というベラルーシの国営企業が、同国のサナトリウムの宣伝をしていたのです(写真)。

 「ベル」はベラルーシ、「プロフソユズ」は労働組合、「クロルト」は保養のことで、実に分かりやすい企業名ですね。同社は、ベラルーシの主立ったサナトリウムを管理する国営企業 で、ベラルーシ労働組合連盟の下部組織という扱いになっているようです。まあ、相変わらず親方赤旗といったところでしょうけれど、昔ほど手厚く国からの補助が約束されているわけでもない でしょうから、一応利用者拡大のための営業努力もしていて、その一環としてロシアの見本市にも出展しているのでしょう。

 それにしても、サナトリウムって、私の抱いているベラルーシのイメージそのものなんですよね。もちろん、基本的には、健康の優れない人が療養のために行く施設だから、 そんなに楽しいものではないのかもしれないけど。でも、味気のない病院とは異なり、ベラルーシの森や湖畔にあるサナトリウムなら、心身ともに癒してくれる不思議な力がありそうな気がして 。別に病気じゃなくても、行ってみたいような気がしませんか。12月の見本市では、ベルプロフソユズクロルトのブースに、ベラルーシ各地のサナトリウムのパンフレットが ずらっと並べられていたので、思わず「サナトリウム・パラダイスや〜!」などとうわごとを言いながら、全部かき集めてきました。一部を以下で紹介します。 パンフレットはクリックすると拡大されます。

 私も、人生いよいよ切羽詰まったら、ベラルーシのどこかのサナトリウムで1カ月くらいボーっと過ごして、リフレッシュしてみたいですね。(ますます煮詰まりそうな気がしないでもないが。)

(2007年6月11日)

 

これがベルプロフソユズクロルト保有のサナトリウムの分布図です。ご参考まで。

 

ミンスク近郊ジダノヴィチにある「ベラルソチカ」。親子連れのための保養施設だそう。

 

ベラルーシを代表する景勝地ナロチ湖に面する「ナロチャンスキー・ベーレグ(ナロチのほとり)」。

 

ゴメリ市近郊の「チョーンキ」。う〜む、場所柄、よけい体調が悪くなりそうな・・・・・・。

 

ブレスト近郊にある「ブグ」。ブグ川支流のムハヴェツ川に面している。

 

 

 

以後ロクなことのない……

 フライパンの余熱で、目玉焼きを焼いてみようかと思ったわけですよ。

 いやね、メインディッシュを気に入ってくれた人がいて、もうちょっと食べたいなんておっしゃるもんですから。冷蔵庫に卵があったことを思い出し、フライパンが熱いうちにパッと焼いて、もう一品、目玉焼きでもつくって差し上げようかなんて思って。ただ、せっかくごひいきのご注文だから、ちょっと凝った目玉焼きにしてみようかと。

 でも、考えが甘かった。フライパンはとっくに冷めていて、余熱で卵なんて焼けるはずはなかったのです。何のことはない、最終的には再びガスコンロに点火して、本気で料理するはめに。どうにか目玉焼きはできたけど、手間取った分、他のお客さんへのサービスが遅れて、店は大混乱。

 ……何のことか、分からないと思いますけど。つまりですね、1月のマンスリー・エッセイで苦労話を披露した北海道大学スラブ研究センター編の講座に載せる論文が、ようやく完成したんですよ。それを、たとえて言えば、こんな話(余熱で目玉焼きを目論んで大失敗)になるかなと思って。

 以前も書いたように、私は一生ベラルーシの専門家をやるつもりはなく、ベラルーシについての本を書くという期限プロジェクトを企画したにすぎないわけで、そのプロジェクトはすでに完了しています。そうしてできたのが、『不思議の国ベラルーシ』という本。ベラルーシに関する私のそれ以外の著作や仕事はすべて、このプロジェクトから派生したもの、それを補完するもの、本のプロモーション活動、あるいは本を書く時にお世話になった方への恩返しと、そのいずれかに位置付けられます。

 『不思議の国ベラルーシ』に始まって、歴史補遺編の『歴史の狭間のベラルーシ』も出したし、国際関係論の論文ロシア・ベラルーシ連合はCIS統合の牽引車かも書いたし、それから言語事情論なんかも披露した。個人的には、ベラルーシについてやるべきことは、ほぼやり尽くしたという感じがしています。もちろん、今後もベラルーシ専門家として生きていくのならば、研究を深めていく余地はいくらでもあるのでしょうが、私にはそのつもりはありません。

 唯一、個人的にちょっと引っかかっていたのは、自宅の本棚を眺めると、ベラルーシの宗教史に関する原書が何点かあって、ほとんど未読だったものだから、これらを使って1本仕事ができたらいいなという思いは漠然と抱いていました。そうした折り、スラ研の講座向けにベラルーシの国民史についての論文を書くことを依頼されて。それが、まさにお世話になった先生からのご依頼だったので、最後のご奉公という思いで、お引き受けすることにして。引き受けるからには、前著の単なる焼き直しではなく、新しい価値を付け加えたかった。そこで、唯一、やり残したという思いのあった、宗教史の観点から見たベラルーシ国民史というテーマを設定したのです。

 でも、まあ、失敗しましたね。変な話、スラ研の依頼を引き受けた時点で、「これは絶対失敗するぞ」という確信めいたものはあったのですが(笑)。案の定、失敗しました。フライパンの余熱、すなわち『不思議の国ベラルーシ』を書いた情熱の残余をかき集めれば、1本行けるかと思ったんですが、さすがに無理があったようです。結局、当初の締め切りから半年以上遅れ、最後は余熱どころかガスコンロ全開で、この3月にようやく完成にこぎ着けたという次第です。

 まあ、何はともあれ、終わったから、いいですけど。後は野となれ山となれという感じです。これで本当に、ベラルーシ研究も廃業です。この春は、中長期的な懸案がいくつか片付いて、日常的な忙しさは相変わらずなのですが、精神的にだいぶ楽になりました。

 ところで、今回の論文、題して「ベラルーシ国民史におけるユニエイト教会の逆説」っていうんですが、これを書くに当たって、一番大変だったのが、ベラルーシ語文献との格闘でした。いかに現代ベラルーシの日常コミュニケーションでロシア語が優勢とはいえ、歴史学の文献はベラルーシ語で書かれている場合が多いですからね。ところが、私の場合、ベラルーシ語は辞書を引きながら何とか読解できる程度の能力しかありません。鉄棒の逆上がりがちゃんとできないのに無理矢理上がることを「根性上がり」と言ったりしますが、私のベラルーシ語は「根性読み」です。

『ベラルーシ歴史百科事典』。全6巻で(第6巻は上下2冊)、1993年から2003年にかけて刊行された。ご覧のように、当初は民族主義的な国章「パゴーニャ」が表紙中央に配置されていたが、ルカシェンコ政権の成立に伴い、1996年発行の第3巻から削除された(国章なしでホームベースの形だけになってしまった)。

 それで、ある日、『ベラルーシ歴史百科事典』を根性読みしていたところ、何とこのベラルーシ国民史の聖典に、間違いを発見しました。第4巻の「キエフ府主教座」という項目を見たら、「1569年にミハイル・ロゴザ府主教はブレストの教会合同を受け入れた」と書かれていたのです(p.168)。

 あのねえ。1569年は「ブレストの教会合同」じゃなくて、「ルブリン合同」の年でしょうが。この合同により、ポーランド王国がベラルーシ地域を含むリトアニア大公国を実質的に併合し、その後ベラルーシ住民を支配・同化していくという。1569年だから、

イゴロクなことのないルブリン合同

 って覚えるんですよ。まったく、もう。

 「ブレストの教会合同」は、正しくは1596年。ブレスト合同の結果、東方正教の典礼を維持しながら、ローマ法王に忠誠を誓うという折衷的な「ユニエイト教会」が成立したわけですね。これは、ポーランドの支配層が、ベラルーシやウクライナの正教徒住民をカトリック化するための手段だったわけで、ロシア=正教文明とポーランド=カトリック文明の間で翻弄される歴史の始まりを告げるものだったと言えるかもしれません。そう考えると、1596年だから、

イゴクローの多いブレスト合同

 って覚えればいいのです。

 でも、「ロクなことのない」と「クローが多い」じゃ、どっちがどっちだか分からなくなるか。いずれにしても、ベラルーシ史の基本ですから、しっかり覚えましょう。

 っていうか、ベラルーシ研究廃業するのに、何うんちく語ってんだか。

(2007年5月14日)

 

石原慎太郎 まかり通る

 東京都民の皆さん、都知事選、投票行きました?

 私は、政治学者の真似事のようなことをやっているわりには、最近、選挙というものにほとんど関心をもてなくて。引っ越したばかりで、投票所の場所が分からないということもあり(笑)、今回の統一地方選挙はパスでした。で、まあ、問題の都知事選は、多士済々の候補者が名乗りを上げたわりには、終わってみれば、石原慎太郎氏の圧勝でしたね。

 何で突然、石原氏の話を始めたかというと、実は私と石原氏は、浅からぬ関係にあるからです。といっても、相手は私のことなんか、全然知らないんですけどね。どういうことかといいいますと、私は以前、東京都大田区の高級住宅街として知られる田園調布に住んでいたことがあり、その時たまたま隣家が石原慎太郎邸だったのです。しかも、私の部屋のベランダと、石原氏の書斎が向かい合うという位置関係。ちなみに、石原氏の著作リストを見ると、私が隣に住んでいた頃の作品として、『宣戦布告「NO」と言える日本経済―アメリカの金融奴隷からの解放』なんていうすごいタイトルの本があります。当時、石原氏の書斎から見える景色は、私の干した洗濯物ですからね。男物のパンツが目の前にちらついて、それでイライラして本の内容が過激になったと、そんな下らない想像をしたくなります。

 私自身は、田園調布といっても、家賃数万円のごく普通の賃貸住宅に住んでいたにすぎません。たまたま、隣の家が、石原邸だっただけで。石原氏は1995年4月に突然、衆議院議員の職を辞し、一方、私が田園調布に住み始めたのが1995年8月でしたから、私がお隣に住んでいた時期は、ちょうど石原氏の浪人時代に当たります。でも、私はその家に結局2年数ヵ月ほど住んだんですが、石原氏の姿を見かけたのは、1度だけだったなあ。石造りの要塞のような家でして、中の様子は全然うかがい知れず、1度だけ自宅前にとめてあった車に座っている姿を目撃しただけです。

 ただ、あれは確か1997年、ロシアからアレクサンドル・レベジ元安全保障会議書記が来日して、東京で講演会をやったことがあって、その時にも石原氏を見たことがあります。質疑応答の時間に石原氏は、日本とロシアが組んで「シナ」(発言のママ)に対抗しようというようなアホなことを述べていましたが(苦笑)。せっかく石原氏に遭遇したので、よっぽど「どうもどうも、となりの服部です」とか言って挨拶でもしておこうかと思いましたが、ご近所とはいえ住む世界も違えば価値観も違うので、やめておきました。

 私の奇妙な田園調布生活も、所属する団体の命令で1998年4月にベラルーシに赴任することになり、強制終了させられてしまったのです。石原氏が充電の時に終止符を打ち、1999年4月に東京都知事に選出されたというニュースは、ミンスクで知りました。そして、2001年4月、日本に帰国し、久し振りに田園調布を散歩すると、当然のことながら石原氏の自宅には警官の詰め所が設けられていました。

 ちなみに、石原慎太郎氏といえば、東京都のカラスを駆除するという珍政策が知られていますよね。三選後のインタビューでも、これまでの任期の成果として、カラスの数が減ったということを挙げていました。ネットなんかで調べると、かつて石原氏がゴルフ場でカラスにつつかれて、それでカラスが嫌いになったというのが定説のようですけど。ただ、私の見方は、ちょっと違います。実は、田園調布というのはカラスが異常に多いところなんですね。近所に大きな古墳があって、たぶんあれがねぐらになっているんだと思います。私も、田園調布時代は、朝は目覚まし時計ではなく、カラスの気味の悪いダミ声で目が覚めたものです。個人的には、石原氏の安全保障観はともかく、カラス駆除(効果はないという説もあるが)、スギ花粉根絶、ディーゼルトラック排除の政策は賛成!


 今月のおまけエッセイはこれ、「ロシアの面白カーナビ事情」です。

(2007年4月16日)

 

随筆家か!

 先月は、忙しくて、以前書いたエッセイをリサイクルしてお茶を濁しましたけれど。

 それで、改めて思ったんですけど、どうも私、最近エッセイばっかり書いているような。

 この「マンスリー・エッセイ」のコーナーとか、自分が編集をしている『ロシアNIS調査月報』に載せる小ネタ類は、自主的にやっているものなので、納得づくなんですけど。ただ、このところ、外部からエッセイの寄稿を頼まれることが増えてきたんですよね。2005年の8月に出した『ロシアのことがマンガで3時間でわかる本』が、それなりに人目に触れたようで、それ以来、この本の共著者3人にローテーションでエッセイを書いてほしいという似たような依頼が、立て続けに舞い込んできました。

 前にも書いたとおり、そのうちS銀行とは破談になりましたが(笑)、ドイチェ銀行系のドイチェ・アセット・マネジメント社向けにエッセイを書く仕事を続けています。直近では、「ロシアにおける女性の社会進出」なんて文章を書いてみました。

 この春からは、NHK教育テレビのロシア語講座のテキストに、やはり私どもロシアNIS経済研究所のスタッフが毎号順番に登場し、エッセイを披露することになりました。第一弾として、私が「シンクロ大国ロシアの実像」という文章を書きました。こちらの方は、たぶんテキストの4月号に載るはずですので、出たら本HPでも改めてご紹介します。スポーツのネタなので、「フーリガン ひとり」のコーナーにでも載せようかな。

 それから、以前、『生産性新聞』に「変わりゆくロシアのイメージ」という小文を寄せましたけれど、最近また同紙の編集部から寄稿の依頼がありました。何でも、今度は、外国の「ほっとする話」を紹介するコラムだとかで……。う〜む、どうしたものやらという感じでしたが。まあ、直感的にネタもひらめいたので、お受けすることにして、その結果、「ロシアの道案内人」という文章ができました(ちなみに、私の原稿では「ロシアで道に迷ったら」というタイトルになっていたのですが、掲載号を見たら変わっていました。どう考えても、私の原題の方が良いと思いませんか?)。

 とまあ、こんな具合に、忙しい忙しいといいながら、その実、外からの依頼をホイホイと引き受け、どうでもいいような文章を書いては恥をさらしている今日この頃。当然、その分、本格的な論文や調査レポート等の執筆は、おろそかになって。まったく、誰か、私の頭をバチっとやって、「随筆家か!」とツッコミを入れてほしいですよ。

 「色々寄稿をしていると、小金が入ってきて、いいじゃん」と思われるかもしれませんが、実際には全然儲かりません。仮に月に1本くらいのペースでこういう仕事が入ってきたとしても、ほとんど家計の足しにはなりません。その割には、労力ばかり大変で。私の場合、同じネタで何回も文章を書くということを、基本的にしませんからね(他の媒体に書いたものを本HPに載せるのは別の趣旨です)。短いエッセイでも、その都度、新しいテーマを見つけて、情報を収集して、それから書くので。レトリックに凝るせいで、執筆にもかなり時間がかかります。その割には、エッセイの謝礼なんて、たかが知れてますから、小遣い稼ぎの方法としては、非常に効率が悪いわけです。

 原稿料でメシを食っていこうと思ったら、同じネタを何度でも使い回す厚かましさがなければだめですね。昔、うちの団体にも、自分の古い原稿を切り貼りして(ワープロのコピペではなく、文字通りハサミと糊で切り貼りして)、十年一日のごとく、代わり映えのない原稿を生産し続ける人がいましたけど。まあ、発注側も往々にして、お馴染みの「○○節」を求めて、寄稿や講演を依頼してくるわけで、そのくらいの地位を確立すれば、内容に新味がないことは、全然OKなわけです。どうも、自分には、そうした生き方ができそうもありません。

 ならば、なぜエッセイの依頼を引き受けるのか。それは、やっぱり、好きだからなんでしょうね。新しいテーマを見付けて、話を組み立てて、オチを付けて、タイトルを考える、そうした作業が好きなんだと思います。ネタの使い回しには、そういう刺激がないから、興味がないと。自分にとって文章を書くとはそういうことなので、一見軽いタッチのエッセイでも、断りもなくタイトルを編集者に変えられたりすると、悲しかったりするわけです。

(2007年3月12日)

 

 

モスクワで江戸を発見

 いやいや、相変わらず、ひどい毎日を送っておりますが。

 この期に及んで、まだスラ研の原稿を引きずっておりまして。まさか2月にまでずれ込むとは。そろそろ北大出入り禁止か、はたまたロシア・東欧学会から永久追放か……。どっかの芸人じゃないけど、最近わたくし、謝ることばっかで。会長との打ち合わせに50分遅刻したりとか(笑)。

 それで、エッセイを書いている時間がないのです。ただ、先月「弐拾壱世紀的奥の細道(予告編)」を書いたあとに、そういえば以前、松尾芭蕉に関する冗談エッセイを書いたことがあるなあというのを思い出しまして。『ロシア東欧貿易調査月報』2006年8月の「一枚の写真」というコーナーに書いた、「モスクワで江戸を発見」と題するフォトエッセイです。今月は、これを再録して、お茶を濁してみようかと。


モスクワで江戸を発見

 4月号に続いて、再び飲料製品のネタである。シリーズ化していく予定は、今のところとくにないが。

 1年ほど前、ネットサーフィンをしていて、ロシア・リペツク州のレベジャンスキーという会社(http://www.lebedyansky.ru)が、その名も「江戸」という、ペットボトル入りのお茶を販売していることを知った。日本食ブームも、ついにここまで来たか。これは面白いと思い、それから2度ほどロシアに出張に行った際に、商店で探してみたが、見付からなかった。しかし、ようやく3度目の正直で、モスクワのスーパーで現物に出会えたのである。

 さっそく買って飲んでみたところ……。あれ? 想像していた味とは全然違う。緑茶とばかり思い込んでいたが、私の選んだ「ライム」は紅茶だったのだ(他に「梅」と「桜」があり、前者は緑茶のようだが)。しかも、砂糖が入っているので、まるっきり缶入り紅茶の味である。まあ、あの缶入り紅茶というものも、すぐれて日本的な商品と言えなくもないが。

 ボトルのデザインも、日本というよりは中国風という感じだ。味といい、デザインといい、「和」とは似て非なるものと言わざるをえない。

 ただ、この「江戸」で感心させられたのは、種類ごとに、俳句が一句添えられていることである。私の買ったライム味には、松尾芭蕉のこんな句が選ばれていた。

 Взгляд не отвести …

 Так редко я видел в Эдо

 Луну над вершиной гор.

 うむ、恥ずかしながら、原詩が分からない。これでは、ロシア人の「和」に対する無理解を笑えないと思い、日本に帰ってからネット検索してみたところ、それらしき句が見付かった。

 詠(なが)むるや江戸には稀な山の月

 芭蕉が、伊賀上野に帰郷した折に美しい月に感動し、江戸ではこんな月には滅多にお目にかかれないという感慨を詠んだものだそうです。納得。

(『ロシア東欧貿易調査月報』2006年8月号から再録)


 お粗末でした。

 

PS さて、久し振りに、ベラルーシについてまとまった仕事をしました。今般、『朝倉世界地理講座10 東ヨーロッパ・ロシア』という立派な本が出まして、第11章第2節のベラルーシの部分を私が書いています。まあ、実際に書いたのは、2年くらい前だったんですけどね。こういう風に、成果物が出ると、それなりに励みになるものです。

(2007年2月2日)

 

 

弐拾壱世紀的奥の細道(予告編)

 新年一発目のマンスリー・エッセイです。

 私は、文章を書くことを生業としているわけですが、日頃は何かとバタバタしているので、本格的な書き物に取り組もうと思ったら、どうしても正月休み、ゴールデンウィーク、または夏休みをその作業に充てざるをえません。毎年、年末年始は何らかの大きな懸案を抱えているので、ここ数年は正月には帰省もせず、自宅にこもって原稿を書く(あるいは書けずにのた打ち回る)というのが習慣になってしまいました。

 昨年の1月のエッセイでは、国際シンポ用の英語のペーパーを書くのに四苦八苦したという話を紹介しましたね。そしてその末尾で、ベラルーシの歴史の仕事をまた断りきれずに引き受けてしまったということに触れたと思います。その後、案の定、この仕事に手こずりまして……。昨年の夏休みに集中的にやろうと思っていたのですが、ベラルーシ語の原書を読み込んだだけで1週間が終わってしまい、長期戦の様相を呈し始めて。その後も、仕事の合間を縫って、時折書こうと試みはしたものの、どうもなかなかそのモードに入れなくて。

 私は今、自分が所属する団体の機関誌(ロシアNIS調査月報)を編集する役割を果たしています。これが、とてつもなく時間とエネルギーを消費するものなんですよね。昨年の9月から暮れにかけて、海外出張→月報編集→海外出張→月報編集→自宅の引越し→月報編集→海外出張と休みなく続いて、本業とは関係のないベラルーシ史の論文に腰を据えて取り組む余裕はとてもありませんでした。

 しかし、いくら何でも、この冬休みに決着をつけなければ。そのような決意のもと、年末年始に突入したのですが……、やっぱり駄目でした。結局、『月報』の執筆と編集の仕事を、ずっとやっていました。年明け早々、2月号の締め切りが来るので、何を置いてもそれを優先しなければならなくて。申し訳ないけど、ベラルーシの歴史は後回しにさせてもらいました。

 こんな風に書くと、私が本当に休みなく過酷な労働を続けてるように聞こえるかもしれませんが、別にそういうことではないんです。だらけている時間とかも、案外あって。要するに、何が言いたいかというと、スラブ研究センターという非常に権威あるシンクタンクの勝負出版企画のために、ベラルーシの歴史についての論文を書く、そうした大きな懸案がのしかかった状態がずっと続くと、なかなか心が晴れなくてしんどいなあということです。

こいつが悪さをしたんです。しかも不味いでやんの。

 という具合に、ベラルーシの歴史を棚上げにしたまま、ひたすら自分の雑誌の仕事をしていた、そんな年末年始でしたが。でも、大晦日くらいは、ちょっとのんびりしたいじゃないですか。1231日、遅めの大掃除を終え、やれやれ、途中からだけど紅白でも観よう、そうだ、この間の出張で買ってきたウクライナのスパークリングワインでも開けるか。この1年のご褒美だ。なんて思いながら、「セレブリャヌィ・ヴェーク(銀の世紀)」というワインを開けようとしたら、コルクが硬いの何の。渾身の力を込めて、ようやく引き抜いたと思ったら、今度は勢いよく噴出しまして、中身が3分の1くらい飛び出ました。しかも、白だと思い込んでいたスパークリングワインが、実は赤で、あたり一面、血の海のようになって、え? 大掃除やり直し? これがこの1年頑張ってきたオレへのご褒美? みたいな。おかげで、今井美樹の歌、聞き逃した。いくら何でも発泡しすぎでしょ。もうウクライナなんかキライ。

 年明け早々にも、トホホな出来事がありました。1月5日の仕事始めの日に、新年の決意も新たに出勤しようとしたところ、定期券がないのです。しかも、年末年始で1週間も間が開いたので、どこでどういう状況でなくしたのか、全然分からなくて。チュートリアルのM1のネタじゃないですけど、あちこち必死に探しましたよ。でも全然出てこなくて、もう諦めました。1年の最初がこれじゃあ、気勢が削がれるなあ。

 とまあ、ろくでもない日々を送っております(笑)。それで、私事ですが、昨年の11月に、北千住に引っ越してきました。東京の地理に不案内な方々のために説明しますと、東京の北側に、埼玉県に接する形で足立区があり、その足立区の南端に北千住があります。隅田川と荒川に挟まれた狭い土地にギュッと詰まった、そんな街です。

 私の住んでいるマンションは、旧日光街道に面しています。江戸の日本橋から日光街道および奥州街道が北に伸びていて、千住はその1番目の宿場だったのですね。松尾芭蕉もここ千住を起点に奥の細道の旅へと赴いたのでした。うちの近所には、そういった歴史的な記念碑がたくさんあります。

 実は私の働いている職場も東京中央区の隅田川沿いに位置し、私の散歩コースには芭蕉記念館などがあって、以前から気になっていました(普段は、ウォーキングを兼ねた散歩なので、早足に通り過ぎてしまうのです)。そして、新居もまさに芭蕉ゆかりの地。こういう次第ですので、日本の歴史や文化のことにまったく疎い私ながら、ちょっと千住のこと、日光街道のこと、芭蕉のこと、そして奥の細道のことなどを勉強してみようかななどと思い始めました。それで、本ホームページに、そういうコーナーをつくったりして。もともと散歩が趣味だから、芭蕉の歩いた道を自分でも歩いてみて、それをレポートし、題して「平成 奥の細道」とか!

 なんてことを、最近つらつらと考えているんですが、でも、そんなこと、誰でも思い付きそうなテーマ設定ですよね。現に、ネットで「平成 奥の細道」とか、「現代 奥の細道」なんて検索すると、いくらでも先客がいます。第一、今は時間がないでしょ。あと4つくらい、でかい山を越えないと、そんな呑気な散歩は、できそうもありません。

 まあいいや。あくまでもシャレですので。中期的な課題として、そのうちオレ流妄想散歩のサイトを立ち上げたいと思います。名付けて「弐拾壱世紀的奥の細道」。

 というわけで、今回は予告だけでした。でも、去年の6月に日光に旅行に行ったりしたのは、今思えばそうした志向を先取りしたものだったのかな。世界遺産の日光東照宮よりも、写真に見るような苔むした山道が良かった。

PS 今まで、自宅ではネットに接続していなかったので、本HPの更新は会社のコンピュータからやっていました。11月に引越し、新居ではネットにつながっているので、これでようやく自宅からHPの更新ができるようになりました。今回のエッセイが、自宅発の第一弾ですが、まあ読んでる人には何の関係もないですかね。でも、少しはコンテンツが充実するようになるかな。

2007年1月10日)

    

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