天国にいちばん近い半島、カムチャッカ

 そんなわけで、2013年最後のエッセイである。今年度私は、ロシアの地域開発政策に関する調査事業を担当している。その関係もあり、2013年には実に数多くのロシアの地域を訪問した。列挙してみると、モスクワ市、モスクワ州、ロストフ州、ヴォルゴグラード州、カルムィク共和国、ムルマンスク州、カルーガ州、ヤロスラヴリ州、サハリン州、ノヴォシビルスク州、トムスク州、ケメロヴォ州、ハバロフスク地方、マガダン州、カムチャッカ地方、計15地域である。

 こうやって振り返ってみると、2013年は特にロシアの辺境、端っこの地域で、重点的に現地調査を実施したと総括できる。南のロストフおよびヴォルゴグラードは序の口として、北極圏のムルマンスクに出向き、個人的には初めてシベリアに足を踏み入れてノヴォシビルスクおよびトムスクを回り、久し振りの極東ではサハリン・マガダン・カムチャッカへの初訪問が実現した。

 その中でも、最も鮮烈な印象を受けたのがカムチャッカだったので、2013年最後のエッセイではカムチャッカについて語ってみたい。ただ、カムチャッカ地方の経済や産業については現在別途レポートを執筆中なので、ご興味のある方はそちらを参照していただくとして、この小文では、観光的な観点からの、ごく簡単なフォトエッセイに留めさせていただく。

 さて、私は9月の下旬にロシア極東のハバロフスク、マガダン、カムチャッカで現地調査を実施したわけだが、当初はマガダンからカムチャッカへ直行便で移動する予定だった。しかし、出発する数日前になって、マガダン→カムチャッカの直行便がキャンセルになってしまい、やむなくマガダン→ウラジオストク(そこで1泊)→カムチャッカという移動を余儀なくされた。その結果、カムチャッカ滞在時間がわずか一昼夜くらいになってしまったのが、何とも残念だった。いったんはなくなったはずのマガダン→カムチャッカ直行便が、その後、直前になってまた復活したりして、恨めしく感じた。今回私が活動したのは州都ペトロパヴロフスクカムチャツキー市内だけであり、カムチャッカの醍醐味とも言うべき大自然とは無縁のプログラムだった上に、わずか1日では、この地域のほんの表層だけを見聞きした程度であろう。

 ただ、ルートが変わった賜物か、ウラジオストクからカムチャッカまでの空の旅は、窓からの眺めが素晴らしく、忘れえぬ思い出となった。私は初めての土地に行く際には飛行機の窓側の席をとって窓からの景色を楽しむことにしているが、今回ほどそれを堪能したことはない。ウラジオストクを飛び立った飛行機は、サハリン島の北部を横切ったようで、海岸線と湾が織り成す複雑な地形が見え、そして沖合の石油・ガス採掘リグと思われる物体がかすかに見えたりした時には、大変に感動した。オホーツク海上を一路東に進んだ飛行機は、ついにカムチャッカ半島に到達し、さらにしばらく陸地を進むと、左手には火山群の織り成す絶景が広がっていた。カムチャッカ半島を抜け太平洋に出た飛行機は、そこで右旋回し、アヴァチャ湾上空をかすめるようにして、目的地のエリゾヴォ空港に着陸。これほど見応えのある空中遊覧は、そうはないはずだ。皆様も、カムチャッカにお出向きになる機会があったら、ぜひ窓際の席に陣取ることをお勧めする(大陸側からカムチャッカに飛ぶ場合には、今回の私がそうだったように、左側の窓際の方が、火山群をばっちり拝めるはずである)。

見えてきたカムチャッカ半島

いきなりカムチャッカのシンボルがお出迎え

アヴァチャ湾の上空

 こうした次第で、カムチャッカに到着した時点で、もうこの地の虜になっていた。実際、これだけダイナミックな自然と観光資源に恵まれたロシアの地域は、珍しいのではないか。言うまでもなく、カムチャッカの代名詞となっているのが火山であり、富士山を思わせるような均整の取れた成層火山が、半島には多数ある。2013年には富士山のユネスコ世界文化遺産入りが話題となったが、カムチャッカの火山群は世界遺産の大先輩であり、早くも1996年に自然遺産として登録されている。州都のペトロパヴロフスクからもいくつかの火山が見え、街を歩いているだけで楽しい。

アヴァチャ湾の対岸に見えるのは、たぶんヴィリュチンスク火山

 ただ、地方行政府で聞き取り調査を行ったところ、カムチャッカ地方を訪問する外国人観光客の数は、現状で年間4,000~5,000人程度であるということだった(うち2,000人程度が日本人とのこと)。観光資源のスケールの大きさを考えると、訪問客数が釣り合っていないように思われた。

 むろん、観光客を誘致するためには、それなりのインフラ、アメニティを整備する必要がある。今回私は、上述のように、非常に気分良くカムチャッカの空港に降り立ったのだが、空港施設はきわめて貧弱で、何かのトラブルも加わり、預けたスーツケースが出てくるのに1時間以上を要した。大いに改善の余地がある。

かなり混沌とした雰囲気の空港

 また、外国人観光客、とりわけ日本人を呼ぼうと思ったら、グルメの充実は欠かせないだろう。しかるに、この点はまったく未発達である。海岸沿いに伸びるペトロパヴロフスクのメインストリートを歩いたら、カムチャッカ料理店の一つでもあるかなと期待したが、実際には皆無だった。本屋ではカムチャッカに関する多種多様な書籍が売られていたし、小物等の土産物はそこそこ充実していたけれど、肝心の食べ物が駄目である。

ツェントラーリヌィ書店の品揃えは最高だった

街の中心に、地元産の商品を売るマーケットがあった
カムチャッカは意外に多様な食品産業が発達していることが確認できたが、
やはりサーモンの売り場が圧倒的に多い

 夕食をとるために、海沿いのひなびたカフェに入ってみたが、メニューを見るとボルシチやシャシリクといったありきたりなロシア料理ばかりであり、唯一地元っぽかった「カムチャッカ・サラダ」というのを注文しようとしたら、「イカが入荷していないからできない」と言われてしまった。まあ、レストランの朝食では、地元で獲れるサーモンの切り身がふんだんに出てきたけれど、サーモンくらいならモスクワでも日本でも、どこででも食べられるから、全然ありがたみがない。地元特有の食材はサーモン以外にもあるはずだから、要はメニュー・商品開発の努力の問題だろう。B級グルメ考案に傾ける日本人の情熱を、少しは見習ってほしいものである。

カムチャッカのもう一つのシンボル、ヒグマ
ただ、さすがにロシア人は熊肉料理には抵抗があるか?

ロシア語でタラバガニのことを「カムチャッカガニ」と呼ぶ
こちらの話題参照

 カムチャッカ地方には、コリャーク人をはじめとする先住の少数民族がいる。これも観光資源として活用可能であり、ペトロパヴロフスク市内には写真に見るようなエスノサロン「シャーマン」なんて土産物屋もあった。せっかくなので私も、少数民族の民謡CDを何枚か買ってきた。まあ、民謡と言っても、ほとんどシャーマンの呪文みたいな感じであり、西洋の平均律的なメロディーとは無縁だが、話のタネに、コリャーク人のナターリヤ・ヴォロノヴァという女性のパフォーマンスを、こちらにアップしておく

カムチャッカに住む先住民の少数民族

エスノサロン「シャーマン」

 ところで、日本人は観光の際に、グルメと並んで、写真撮影にもこだわるものだろう。観光ガイドブックを見ると、写真撮影ポイントについて解説したくだりなどを目にすることが多い。私はペトロパヴロフスクでの滞在時に、街のシンボルとも言うべきアヴァチャ山とコリャーク山の麗姿を写真に収めたいと思った。しかし、市街地からだと、障害物があって、なかなか全景を捉えきれない。結局、最初に降り立ったエリゾヴォ空港こそ、火山の最高のビューポイント・撮影ポイントに他ならないということが分かった。空港なので、視界が開けていて、火山見放題・撮り放題である。カムチャッカを後にする日は、折良く快晴で、出発までに少し時間があったので、私は短かったカムチャッカ滞在の名残を惜しむように、空港のデッキで火山のパノラマを目に焼き付けたのである。

(2013年12月29日)

「探訪」人生の中間報告

 8月のエッセイでも述べたように、2003年11月に本ホームページを立ち上げてから、10年の節目を迎えた。本HPでは「マンスリーエッセイ」と題し、毎月雑文をお届けしているが、今回は月例のエッセイとは別に、10周年記念の特別エッセイをお届けしたい(というほど大袈裟なものではないが)。本来であれば本HPの誕生日である11月26日にお目にかけたいところだが、明後日からロシア・ウクライナ出張に出かけなければならないので、前倒しする次第。

 10周年記念特別エッセイのお題は、「『探訪』人生の中間報告」である。私は自分のテリトリーである国の調査・研究に取り組む中で、なるべく足繁く現地に出かけ、様々な地域や都市を訪問することを心がけている。調査の成果は、所属団体の刊行物等で発表しているが、本HPにおいても、「ロシア・ウクライナ・ベラルーシ探訪」の題名どおり、訪問した先々での見聞や土産話を披露するようにしている。では、私はこれまでどんなところを訪問してきたかということを、この節目に当たって整理しておきたいと思い立ったわけだ。認めたくないが、年齢的に言って、人生およびキャリアの上でも、最終コーナーに差し掛かりつつあるのかもしれない。残された時間を最大限有意義に過ごすためにも、ここで中間決算を報告をしておこうという趣旨である。と、口上を述べてはみたが、どう考えても大した話じゃないな(笑)。

 手始めに、私が行ったことのある国だが、これが非常に少ない。母国の日本以外では、まず旧ソ連諸国を挙げると、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、モルドバ、カザフスタン、ウズベキスタン、エストニア、ラトビア、リトアニア。中東欧では、ポーランド、チェコ、スロバキア、ルーマニア。ヨーロッパでは、英国、ドイツ、オーストリア、フィンランド、トルコ。アジアでは、中国、韓国、台湾。北米では、米国、カナダ。計24ヵ国か、情けないな。基本的に、海外への観光旅行というのはほぼ皆無で、ほとんどが仕事での出張だからなあ。残りの人生で、少なくとも所属団体の事業対象国には一通り行ってみたいし(キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジア、モンゴルが未踏)、南欧・東南アジアなど、もっと色んな国に行ってみたいもんだ。

 ロシアについては、どうだろうか? 現時点でロシアは、全国83の連邦構成主体(地域)から成っている。そのうち、私が訪問したことのある地域を、地図上に朱色で示した。具体名を挙げると、ベルゴロド州、カルーガ州、モスクワ州、スモレンスク州、トゥーラ州、ヤロスラヴリ州、モスクワ市、カリーニングラード州、レニングラード州、ムルマンスク州、ノヴゴロド州、プスコフ州、サンクトペテルブルグ市、アディゲ共和国、カルムィク共和国、クラスノダル地方、ヴォルゴグラード州、ロストフ州、バシコルトスタン共和国、タタルスタン共和国、ペルミ地方、ニジェゴロド州、サマラ州、スヴェルドロフスク州、チュメニ州、チェリャビンスク州、ケメロヴォ州、ノヴォシビルスク州、トムスク州、カムチャッカ地方、沿海地方、ハバロフスク地方、マガダン州、サハリン州、ユダヤ自治州で、計35地域か。まだ半分にも到達していない。まあ、83地域をすべて訪問するのは、ほぼ無理だろうな。私の場合、もっぱら経済の調査目的だから、産業が発達していたり、日本企業にとってのビジネスチャンスがある地域に、基本的に絞られるわけで。ロシアの場合、極北・シベリア・北カフカスの僻地や、民族問題・テロに悩まされている低開発地域も多く、そういう地域を訪問する機会はなかなか発生しない(そもそも、北カフカス各地域への渡航は日本の外務省が自粛を勧告している)。ただ、重要地域でもまだ未踏のところは多いので(特にリペツク州、ウリヤノフスク州、クラスノヤルスク地方、イルクーツク州、サハ共和国など)、なるべく多くの地域を訪れて地域の実情を体感するよう心がけたい。

 地域よりも下位の「都市」のレベルで見ると、私が訪問したことのあるロシアの都市は、下表のとおりである。表にはロシアの百大都市が掲げられているが、そのうち青く塗った訪問済みの都市は35だった。う~む、これも全然多くないなあ。引退するまでに、何とか人口30万人以上のところくらいは、制覇したいものである。

 次に、ウクライナについても、自分の訪問したことのある地域を地図に、都市を表に整理した。ウクライナは全国27の地域から成るのだが、改めて確認したところ、訪問経験のある地域は12だった。都市で言うと、表に示した50大都市のうち、行ったことのあるのは14止まり。う~ん、これも少ない(泣)。訪問済みの地域は、具体的には、リヴィウ州、イヴァノフランキウシク州、キエフ市、チェルニヒウ州、ポルタヴァ州、オデッサ州、クリミア自治共和国、セヴァストポリ市、ドニプロペトロウシク州、ハルキウ州、ザポリージャ州、ドネツィク州である。地図に見るように、訪問したところは見事に東ウクライナというかロシア語圏に偏っている。これは経済研究という商売柄、仕方がないな。中部および西部ウクライナは、空白地点ばかりだ。ただ、ウクライナは、たかだか27地域しかないので、ぜひ全地域踏破を実現したいものだ。

 他方、ベラルーシに関しては、何せ小国なので、ほとんど行き尽している。すべての州を訪問したことがあるのはもちろん、何と人口5万人以上の都市はすべて訪問してしまった。これに関しては、以前エッセイに書いたことがあるので、ご参照のこと。

 最後に、本エッセイでも時々、日本の国内旅行についての談義を披露しているが、今まで自分が訪問したことのある都道府県を地図に示してみた。なお、この場合の「訪問」というのは、仕事・学会・観光・スポーツ観戦・散策など、それなりの目的意識を持って当該都道府県を訪れたことを意味している。車で通ったことがあるとか、交通機関の乗り換えで降りただけとか、あるいは記憶が曖昧なものなどは除外している。現在までのところ、47都道府県中、訪問歴があるのは29のようだ。空白地帯は、九州の中央と南部、山陰、紀伊水道の両岸、北陸、東海と近畿のグレーゾーン(?)に集中している。不思議なことに、東北では宮城にだけ行ったことがない。もちろん、これは全都道府県を制覇するつもりである。

 「特別エッセイ」などと称して、つまらない話に付き合わせちゃって、すいませんでした。以上、ささやかながら、HP10周年のお祝いということで。

(2013年11月19日)

「ペルム紀」でお馴染みのペルミ

 私は、ロシア圏の地方都市などを訪問したら、なるべく本エッセイでその土地に関する談義を披露するようにしている。昨年の9月に出張でペルミに出かけたのだが、まだ本エッセイで語っていなかったので、遅れ馳せながら取り上げることにしたい。まず、ペルミ市と同地方の概要を整理しておこう。以前何度か言及した世界地名事典向けに執筆した原稿から、以下のとおり抜粋してみよう。

 ペルミは、ヨーロッパ・ロシアの最東端、中央ウラル山脈の西麓に位置し、カマ川に面している。2010年現在で人口99万人であり、ロシアの都市の中で13番目に大きい人口数。「ペルミ」という語は古代ルーシ時代に、ヴイチェグダ川およびカマ川上流域を指した地名であり、ヴェプス語で「遠い土地」を意味する言葉から来たという説が有力である。

 ペルミ一帯には太古の昔から人々が住んでいたが、史料に初めて登場するのは1647年のことだった。当時この土地は商家のストロガノフ家に属し、この地の川と同じエゴシハの名で呼ばれていた。1720年、ピョートル大帝の命を受け、軍人のヴァシーリー・タチシチェフが、精銅・銀工場建設のためシベリア県に赴き、彼は精銅工場の建設地として、鉱石が得られ製品の出荷にも至便なエゴシハに白羽の矢を立てた。タチシチェフの仕事を引き継いだ別の軍人のゲオルグ・デゲニンが1723年に「エゴシハ銅溶解工場」の建設に着手、今日ではこの工場定礎の年がペルミ誕生年とされている。

 1781年、銅工場を基盤にペルミ市が創設され、同時にペルミ総督管轄地域が設けられた。1796年にペルミ総督管轄地域はペルミ県に改組された。初代県知事のカール・モデラフの下、ペルミ市の都市計画が進められるとともに、ウラル全域の官営工場を束ねる管理局がペルミに設置された。19世紀終盤に街は鉄道の開通に沸き、文化施設も整備された。

 ロシア革命後の内戦時には、ペルミに武器工場があったことから、各陣営がペルミの占領を目指した。1918年12月、シベリア白軍のアレクサンドル・コルチャーク提督がペルミを占拠したが、数ヵ月後には赤軍が奪取、一連のドラマは「ペルミの惨劇」と呼ばれている。1917年3月に最後の皇帝ニコライ2世が退位し、その弟で新皇帝に推挙されていたミハイル公は、1918年3月にボリシェヴィキに捕えられ、6月にペルミ郊外のモトヴィリハで射殺された。また、ロシア正教会の主教で、日本に赴任し初代京都の主教となったアンドロニク・ニコリスキイが、やはり1918年6月にボリシェヴィキの秘密警察に捕えられ、ペルミ近郊の森で銃殺されるという悲劇もあった。

 ソ連体制成立後、1940年3月にはソ連中央の決定により、時の首相・外相だったヴャチェスラフ・モロトフの名をとって、モロトフ市と改名された。しかし、戦後の1957年10月には元のペルミ市に戻された。戦時中には前線に近い欧州方面からペルミ市に64もの企業が疎開してきたこともあって、ソ連体制の下でペルミは一大重工業都市へと変貌していくことになる。その位置付けは今日も変わらず、2010年現在、ロシア全国の都市の中で6番目に大きい鉱工業出荷額を誇る。

今日のペルミの街角

 ペルミ市を州都とし、「ペルミ地方」が設けられている。その成立過程を整理すると、まずソ連体制成立後、1938年10月に、スヴェルドロフスク州から分離する形で、ペルミ市を州都とする「ペルミ州」が創設された。一方、かつて州内には、下位単位として、少数民族コミペルミャク人の民族自治体である「コミペルミャク自治管区」(首都はクドイムカル市)が設けられていたが、2000年代に入ってロシア政府が自治管区を基本的に廃止するという方針を打ち出したため、コミペルミャク自治管区も2005年12月1日をもってその存在を終えた。そして、ペルミ州とコミペルミャク自治管区が合併し、新たに「ペルミ地方」が創設されたわけである。形式的には合併という扱いだったが、実質的には前者が後者を吸収したものであった。ただ、かつて「コミペルミャク自治管区」を形成していたクドゥイムカル市をはじめとする7地区は、今日も「コミペルミャク区」として特別のステータスを有している。

コミペルミャク人の民族衣装

 ペルミ地方を語る上で重要なのが、豊かな鉱物資源である。この地では、石油、天然ガス、石炭、岩塩、金、ダイヤモンド、クロム、鉄鉱石、銅、泥炭、石灰岩、各種の宝石、建材材料などが採掘されている。カマ上流域のベレズニキ、ソリカムスクなどの地区に広がるカリ塩鉱床は、世界最大級の鉱脈であり、当地のカリ肥料産業を支えている。2010年現在、ロシアに83存在する連邦構成主体の中で、ペルミ地方の鉱業出荷額は14位(全国シェア1.8%)、製造業出荷額は11位(全国シェア3.0%)であり、ともに枢要な位置を占めている。2011年の化学肥料の生産量は760万tで、これはロシア全体の40.4%に相当し、むろん全国首位の数字である。

ペルミ地方で産出される各種の鉱石

 なお、ペルミ地方は、今日の連邦管区の枠組みでは沿ヴォルガに分類されているが、ソ連時代には「ウラル経済地区」に属しており、今日でも「大ウラル地域間経済協力協会」に籍を置くなど、ヴォルガよりはむしろウラルという地域的アイデンティティの方が強い面がある。ウラル管区と同じエカテリンブルグ時間を採用しているのも、その表れと言えよう。ウラル山脈の西麓に位置するペルミ地方やバシコルトスタン共和国を総称して「沿ウラル(Priural’ye)」と呼ぶこともある。

 以上がペルミ市と、同市を中心とするペルミ地方の概要である。このように、ペルミはカマ川上流域の中では伝統がある街であり、興味深い歴史エピソードにも事欠かない。ただ、ロシアの地方都市ではありがちなように、味気ない工業都市に姿を変えており、観光して楽しいようなところではない。そうしたなか、文化・芸術面で、この街最大の見所は、ペルミ国立美術ギャラリーに展示されている「ペルミ木造彫刻」であろう。美術ギャラリーはカマ川沿いに立つスパソ・プレオブラジェンスキー聖堂の建物を利用して1922年に開設されたものであり、私も立ち寄ることができたが、聖堂の構造を上手く活かした見事な展示は、見応えがあった。一方、日本の若い方などには、ペルミは巻誠一郎が一時期所属したサッカークラブ「アムカル・ペルミ」のホームタウンとして、一定の知名度があるかもしれない。アムカル・ペルミに関しては、以前サッカー・コーナーで語ったことがあるので、そちらを参照していただきたい。

ペルミ国立美術ギャラリーの「ペルミ木造彫刻」

 さて、「ペルミ」の名を世界的に知らしめたのは、有名な地質年代の「ペルム紀」であろう。ロシア語ではPerm’と最後に軟音記号が付くので、「ペルミ」と読みたいところだが、こと地質年代に関しては「ペルム紀」で定着してしまったので、やむをえないだろう。ペルム紀は、別名「二畳紀」とも呼び、古生代最後の紀であり、両生類時代ともされる。今から298.9±0.2~252.2±0.5(単位100万年)前の期間を指す。1841年、スコットランドのR.I.マーチソンという地質学者が、ロシア・ウラル山脈西部のこの地に発達する石灰岩、砂岩、泥灰岩、礫岩などから成る地層群を発見して「ペルム系」と命名、これが学会に定着したものである。地質年代には「カンブリア紀」のように英国の地名に由来するものが多いが、ペルム紀の地層はブリテン諸島には見られないことから、マーチソンはそれを求めてロシアの地を訪れたようだ。こちらの記事によると、当該の地層を発見したマーチソンはその年のうちにモスクワ自然学者学会に書簡を送り、12世紀のロシア年代記に登場する古代民族の名にちなんで、古生代最後の紀を「ペルム紀」と名付けるべきことを主張したそうである。

ペルム紀の地層に関する博物館の展示
(これはマガダンの博物館の展示)

 ロシア国内で、ペルム紀の地層は、ペルミ地方だけで見られるわけではなく、キーロフ州のコチェリニチおよびソヴィエツク、アルハンゲリスク州の北ドヴィナ川沿いにも分布しているようである。ペルミ地方では、スィルヴァ川およびオチョル川(ともにカマ川の支流)の川岸で、ペルム紀の地層が露出している箇所がある。特に、クングルから程近いスィルヴァ川の「イェルマーク岩」は有名で、景勝地になっているとのことだ。

イェルマーク岩 写真はこちらのサイトから拝借

(2013年11月10日)

執念で実現したロシアDVDの鑑賞

 私が仕事でかかわっているロシアという国は、とにかく現地出張の楽しみが乏しいところである。むろん、芸術の好きな人がモスクワやサンクトペテルブルグを訪問したら、いくらでも楽しみ方はあると思うが、地方都市となるとアメニティがガクンと落ちる。地方ならではのグルメなんてないし、その土地特有のお土産なんてものもまず期待できない。今年度、私はロシアの地域開発に関する調査事業を担当していて、実際にいくつかの地方を回っているが、現地調査に付随するオマケの楽しみなどはほぼ皆無である。

 そうしたなか、最近個人的に、密かな喜びを見付けた。それぞれの地方に関するドキュメンタリー的なDVDを買って帰ってくることである。土産物が乏しく、マトリョーシカ人形とか画一的なアイテムが目立つロシアにあっても、地元の歴史・文化・地理・経済などを紹介したDVDは割とよく見かける。それらは、その土地でなければ手に入らないものだし、現地調査の復習教材としても打って付けだ。そんなわけで、ここ3~4年くらい、ロシアの地方を訪問しては、ご当地DVDを買って帰ってくるということを繰り返していたら、いつしかロシアDVDが小山のように積み上がってしまった。

 ただ、ご存知の方も多いとは思うが、一般的にはロシアのDVDを日本のDVDプレーヤーで観ることはできない。DVDにはリージョンというものがあり、日本はリージョン2、ロシアをはじめとする旧ソ連諸国はリージョン5なので、日本のプレーヤーにロシアのDVDを挿入しても、そもそも受け付けない。

 もっとも、こう言ってしまうと元も子もないが、パソコンでならば、だいたいロシアのDVDを観られる。しかし、パソコンのモニターで観るような貧乏くさいことは、できればしたくない。正直言うと、パソコン鑑賞ではテンションが上がらないので、これまではDVDを買うだけで、ほとんど観ていなかった。ホームシアターを趣味としているこの私だ、やはりソファーに座って大画面で観なければ、沽券にかかわるというものであろう。そこで、9月にモスクワに出張した際に、ロシア版のDVDプレーヤーを買い求めることに決めたのである。

 というわけで、モスクワの家電量販店の店頭で、商品を物色してみた。言うまでもなく、日本とロシアでは、DVD(以下、ブルーレイ=BDも含む)機器をめぐる状況が大きく異なる。日本では、テレビ番組を録画できるHDD/DVD/BDレコーダーが主流であり、人々はテレビ番組を撮って観たら消すというライフスタイルであり、そのレコーダーを使ってDVDも観るというのが一般的だろう。それに対し、ロシアではそもそもテレビ番組を録画するという文化がない。なので、売られているDVD機器はもっぱら、ディスクを再生するだけのプレーヤー専用機である。なお、今回モスクワ量販店の店頭で調べた限りでは、ほとんどの機種がBD対応機になっていた。また、多くの機種がネットに接続してウェブをテレビ画面で観られるようになっており、言わばスマートプレーヤー化していた。

 さて、私も愛国者の端くれ、電化製品は極力日本ブランド品と決めている。しかし、モスクワのショッピングセンター「MEGA」にある大型店「Mヴィデオ」の店頭には、SONY、PanasonicのDVDプレーヤーが置かれていたものの、電圧がロシアの220Vにしか対応していなかった。フィリップスのプレーヤーも然り。電圧が日本の100Vに対応しているのは、韓国系のサムスンだけだった。まあ、機能的にも全部入りで一番優れていそうなのが、そのサムスンのBD-F7500という機種だったので、これを買い求めることにした。お値段7,990ルーブル、ざっと2万5,000円程度である。う~む、ついに私も韓流メーカーの軍門に下ったか( TДT)。デザイン的には、SONY、Panasonicの方が、はるかにスタイリッシュだったんだけどなあ。

 とか何とか言いながら、いざ自分のものとなってしまえば、今日からこれが我が愛機。帰国後に、早速HDMIでTVに接続し(本機BD-F7500の出力はHDMIしかない)、こけら落としを試みた。ちゃんと映るかな、ドキドキ、ワクワク。

 ……駄目だ、映らない。orz まず、ロシアのDBをプレーしてみたところ、最初のイントロダクション的な映像とサウンドは再生された。しかし、ディスクのメニューの段階に差し掛かると、映像が消えてしまい、テレビ画面に「対応できない映像信号が入力されています。出力機器側の設定を確認してください」という表示が示される。ただ、音声は出ている。次に、ロシアのDVDを挿入してみたところ、最初から「対応できない映像信号が入力されています。出力機器側の設定を確認してください」という表示が示される(ただ、音声は出ている)。その一方で、日本のBDを再生してみたら、意外にも映像・音声ともに正常に再生されて、訳が分からない。他方、本機BD-F7500を、HDMIでパソコンのモニターに接続すると、ロシアのBD・DVDとも、映像が正常に表示された。

 以上の状況を総合するに、ディスクを正常に再生していることは間違いなく、音声はちゃんと出ているけれど、日本仕様のTVではその映像信号をしかるべく受け取れていないようだ、ということになる。

 ここで浮上するもう一つの要因が、映像方式の違いである。日本の映像方式はNTSC、ロシアの方式はSECAM/PALで、互換性がない。当然、今回ロシアでプレーヤーを購入するに当たって、私にもその問題は頭の片隅にあった。しかし、私には、ロシアで買ったプレーヤーを日本のTVに繋げられるはずだと考える、2つの理由があった。第1に、以前、自宅にある何台かのDVDプレーヤーでロシアのDVDを再生する実験を試みたところ、VictorのDVDレコーダー「DR MF1」でのみ、それが可能だったのだ。このことから私は、ある種のプレーヤーはロシアのディスクを再生でき、そして再生さえできればそれを問題なくTVで視聴できるのだと考えた。第2に、以前、ロシアで長く日系家電メーカー現地法人の社長を務められた方とDVD談義をした際にも、「ロシアのDVDを日本で観る一番簡単な方法は、ロシアのDVDプレーヤーを買って帰ることでしょうね」とおっしゃっておられた。こうしたことから、NTSC/SECAM/PALの壁が問題になるとは、思ってもみなかった。

なぜかロシアのDVDを普通に再生できるVictor機

 いずれにせよ、現実に、ロシアで買ってきたBD-F7500を日本のテレビに接続し、あちこちいじってみても、音声が出るのみで、画面は真っ暗なままである。そこで私は、AV機器に詳しいある有識者に、ご意見を伺ってみた。その回答が、ざっと以下のようなものだった。「お買いになったBlu-rayプレイヤーは、思いっきりそのままPAL/SECAM信号を出力しているようです。PCモニターは元々マルチフレームレート対応ですし、解像度もある程度どうにでもなるように設計されていますので、PALでも映ります。というか、そもそもNTSC専用やPAL専用のPCモニターやDVD再生ソフトというのはなく、ワールドワイドで共通です。一方テレビは、関税や違法視聴などの問題がありますので、現地放送システムに対応したものがその国内で売られるというのが普通です。ですから日本で売られているテレビは、NTSCしか映りません。要するにこの問題を解決するには、PAL/SECAMのソースをNTSC出力に変換すれば見られるということです。」

 う~む、やっちまったか。ただ、そう考えると、同じTVで試しているのに、なぜVictorのDR MF1で再生するとロシアのDVDがTVに映るのか、ますます不思議である。DR MF1は、もう10年ほど前に買ったもので、3年ほど使ったら色々と不具合が起きたのでその後は放ったらかしてあったのだが、DVDプレーヤーとしてはまだ使用可能で、今回久し振りに引っ張り出してきてロシアのDVDをセットしてみたら、やはりちゃんとTVに映った。おそらくこのマシン、うたい文句には掲げていないものの、PAL/SECAMを自動的にNTSCに転換する機能を備えているのだろう。隅に置けない野郎である。

 まあ、Samsung BD-F7500、買ってしまったものは、しょうがない。2万5,000円をドブに捨てるわけにもいかないし、PAL/SECAMをNTSCに転換するようなディバイスとか、どこかに売っていないだろうか? そのように思って、ネットで検索してみたところ、日本国内では見付からなかった。PAL/SECAM/NTSCコンバーターの類はいくつか目に付いたものの、私が必要としているのはイン・アウトともにHDMIという機器であり、日本にはそのタイプはなさそうだった。諦めきれず、さらにワールドワイドに検索してみたところ、米国版のAmazonで、まさに私の求めているようなディバイスを発見。いくつか同じような商品があった中で、私はOrei XD-990というアイテムをチョイスした。54.99ドルで、送料も12.98ドルかかっちゃったから、つごう7,000円ほどの追加出費だけど、まあそれで我がBD-F7500が使用可能になるなら、安いものである。

 で、注文から2週間くらいが経ち、昨日になって、海の向こうからOrei XD-990が届いた。早速、Samsung BD-F7500→HDMI→Orei XD-990→HDMI→TVと繋いで、こけら落としに再挑戦。その結果、今度は成功! 実は今回も最初は映らずに焦ったのだけれど、あちこちボタンをランダムに押してみたら、ようやく画像がテレビに映った。ふう、追加で7,000円ドブに捨てなくて、良かった。

 ロシアのBDもDVDも、問題なく普通に観れている。PAL/SECAMをNTSCに転換したら、画質が劣化するかもなんて疑ってたけど、全然そんなことはなく、綺麗なもんである。これで今後は、ロシアで買ってきたDVDを積んどくだけなんてことにはならず、マメに観るようになるだろう。新しい趣味が一つ加わったようで、嬉しいっすわ。

PAL/SECAM/NTSCコンバーターをかませてTVに接続

 そんなわけで、ロシア版DVDの視聴環境を苦労して整えたという談義をお届けしたわけだけど、実はもっと簡単な方法がある。前出のAV機器に詳しい有識者に教えていただいたのだが、パイオニアからマルチリージョンでなおかつPAL/SECAM/NTSCを自動転換してくれるDVDプレーヤーおよびDVD/BDプレーヤーというのが出ており、並行輸入品ながら、日本のAmazonで簡単に買うことができるのだ。私は、こういうリージョンフリーの怪しい商品はむしろロシアのオハコだと思い込んでいたのだが、まさか日系メーカーが堂々とこういうものを出していて、それが日本でも手に入るとは、思いもよらなかった。知っていれば、私も最初からこれを買ったのだが、まあ色々試行錯誤して勉強にもなったので、よしとするか。

 なお、本エッセイを参考になさった結果として、皆様に何らかの損害が発生したとしても、当方は責任は負えませんので、すべて自己責任でお願いいたします。

(2013年10月13日)

富士山もいいけど白神山地もね

 先々月のエッセイで、「青森で出会った巨大シャガール」というのをお届けした。本当は、シャガール以外の単なる旅行記も書きたかったのだけれど、前回は時間がなくてできなかった。そこで、2ヵ月ほど間が空いてしまったが、ちょとした補足を。ほとんど写真だけの無意味な内容であり(いつもそうか (^^;))、なおかつロシア圏と何の関係もない話になるが、悪しからず。

弘前城の天守閣から眺める岩木山

 まず、個人的に日本の地方旅行に出かける際に楽しみにしているのが、鉄道である。日頃は特に鉄道マニアというわけでもないが、地方に出かけた時にはなるべく珍しいローカル線に乗ってみるようにしている。私は今回の青森旅行で浅虫温泉というところの温泉宿に一泊した。その際に、青森駅から、「青い森鉄道」という第三セクターの鉄道に乗って、浅虫温泉に出向いた。陸奥湾の海岸を沿うように走る、ローカル色豊かな列車である。青い森鉄道に乗った際に、上に見るような、「青森鉄道むすめ」というポスターを見かけた。青森県の私鉄・三セクがアライアンスを組んで共同PRに努めているもののようだ。

 浅虫温泉の翌日は、内陸の大鰐温泉というところに投宿することになっていた。弘前市内で観光をしたあと、JR奥羽本線で大鰐温泉に向かうつもりだった。しかし、弘前市内で、不意に面白いものを見付けた。レンタサイクルで市内を走っていたところ、弘南鉄道大鰐線の中央弘前駅というものに出くわし、そのあまりの風情ある佇まいに、思わず見とれてしまったのである。しかも、大鰐線というくらいだから、まさに私が向かおうとしていた大鰐駅まで行く電車である。こんなレアな電車に乗れるのは、まさに一生に一度しかないと思い、私はJR利用をやめ、この弘南鉄道大鰐線で目的の宿に向かうことにしたわけである。なかなか楽しい体験だった。ちなみに、思わず私が見とれてしまった中央弘前駅、「東北の駅百選」にも選ばれているということである。

 さて、青森県の究極のローカル線と言えば、やはり五能線であろう。青森県の五所川原(今は別の駅が終着だが)と秋田県の能代を結ぶから「五能線」であり、ご当地ソングの女王こと水森かおりの歌でも知られている。私も青森県の日本海側まで行ってみたかったので、弘前から深浦という港町まで五能線の旅を楽しんでみた(翌日再び五能線に乗り込み、秋田まで抜けた)。五能線は日本海の海岸ぎりぎりのところを走る旅情満点の路線で、海岸沿いの岩棚や奇石などは見応え満点だ。特に日本海に夕日が沈む様子は絶景と言われているが、残念ながら私が五能線に乗った日は曇のち雨といった天候で、夕日は拝めなかった。ただ、私が6月に旅行したあと、青森地方は長雨や豪雨にたたられたようで、私はむしろだいぶ天候に恵まれた方だったと思う。

観光用の特別列車は意外に車両がモダン

 鉄道談義はこれくらいにして、今回の青森旅行でハイライトとなったのは、世界自然遺産に登録されている白神山地への巡礼だった。日本の原風景であるブナ林の原生林が手つかずで残ると言われる白神山地は、ぜひ一度訪れてみたい場所だった。だいぶ強行軍の簡易バージョンだったが、弘前から日帰りのバス旅行で、白神山地を訪れてみた。

 しかし、平日だったせいか、津軽峠行きの弘南バスに乗っていたのは、私一人しかいなかった。ちょうどその頃、富士山の世界文化遺産入りが目前ということで、早くも大フィーバーの兆しが生じていた。他方、白神山地は1993年にユネスコの世界自然遺産に登録されており、世界遺産歴で言えば、富士山よりも20年も先輩である。その聖地行きのバスに乗っているのが、私一人だけとは。バスに揺られながら、少々複雑な気持ちになった。むろん、観光バスや自家用車で白神に入る人は少なくなく、現地に着いたら、そこそこ人はいたけれど。

客一人だったので、資源を浪費している罪悪感が…

津軽峠から眺める白神山地の風景

有名な「マザーツリー」 樹齢400年と言われるブナの巨木

 白神山地は本当に素晴らしいところだったけど、余計なことを言わせていただけば、ダム建設など、開発の手がすぐ近くまで及んでいるのが悲しかった。

 そんなわけで、本当にとりとめがありませんでした。最後に、我が故郷・静岡が誇る富士山の写真を、世界遺産登録記念ということで掲載。清水エスパルスのホーム、IAIスタジアム日本平のバックスタンドから撮影。三保の松原からの富士もいいけれど、日本平スタジアムから清水港越しに見る富士もまた味わいがありますよ。

(2013年9月15日)

ホームページ開設10周年を記念してリニューアル

 このほど、当HPのデザインを全面リニューアルした。このHPを立ち上げてから、もうすぐ10年になるので、そのお祝いも兼ねて。

 まあ、10周年だからリニューアルというのは、やや後付けだ。正直に言えば、成り行きでそうなった。今年の3月に、自宅で使用していたデスクトップPCが、不具合を起こした。 → そこで、やむをえず、自宅PCをウィンドウズ8機に買い替えた。 → そしたら、HP作成に使用していたソフト「Adobe Dreamweaver CS4」がバージョン遅れになり、再インストールできなくなってしまった。 → 仕方がないので、新しいAdobe Dreamweaver CS6を最近購入してインストールした。 → ついでに、教則本『Dreamweaver + HTML5 & CSS3レッスンブック』も買い求め、勉強してみた。 → そしたら、この教則本が思いのほか分かりやすく、「これなら懸案だったマイHPのリニューアルも意外に簡単にできるかもしれないな」と思えてきた。 → 実際やってみたら、案外スムーズにできた、というのが真相である。

 そんなわけで、何でも自己流でやりがちな自分としては珍しく、今回のリニューアル作業は上掲の教則本に全面的に依拠しながら実施した。その賜物で、自分で言うのもなんだが、結構クールに仕上がったのではないかと思う。今回は、単に見た目のデザインが新しくなっただけでなく、技術的によりスマートな方法論にもとづいてウェブサイトを構築したのが、大きな変化である。たとえば、このページの冒頭に、「マンスリーエッセイ」という見出しが掲げられており、その行頭が紫色に塗られている。従来の私であれば、この大きさの紫色の画像を作って、それをページに貼り付けていた。以前はそんな具合に、各パーツを全部自作したりしていたので、手間がかかる割にはデザイン的に洗練されていないサイトになってしまっていたのである。それに対し、今回はより現代的なCSSという命令書のようなものを全面的に活用したデザインになっている。紫の行頭も、「このページの見出しの左罫線を、紫色で、20ピクセルで表示せよ」という命令で表示させているわけである。私にしても、数年前に所属団体のウェブサイトをリニューアルした際にCSSを使用はしていたものの、この個人HPではCSSへの移行が遅れおり、今回ようやくそれを果たせた。

 それにしても、人生は異なものというか、必ずしもコンピュータが好きでも得意でもなかった自分が、もう10年間も個人ウェブサイトを運営しているというのは、不思議な感じがする。その間、世の中も変わったし、私自身の活動の重点や価値観も変化したりして、それに応じて本HPも色々と変遷してきた。そこで、この10年間の本HPと関連事項の歩みを、振り返ってみたいと思う。

 私が、このHPを立ち上げたのは、2003年11月のことだった。当時私は、ベラルーシについての本を書き上げることに全力を傾注していたのだが、知人から「そんな地味なテーマの本を出してくれる出版社があるはずはない。せいぜい自分でHPでも立ち上げて、ベラルーシについての情報を発信したらいいのではないか」というようなことを言われた。私の目標は、あくまでもベラルーシについての本を商業出版という形で世に問うことだったので、当然のことながら知人のアドバイスに聞く耳など持たなかったが、「なるほど、本を出すにしても、宣伝が必要だし、来たるべき著作を盛り立てるという意味で、ベラルーシに関するウェブサイトを立ち上げるのも一案かもしれないな」と考えるようになった。ちょうどその頃、所属団体のウェブサイトがあまりにも荒廃していたので、見るに見かねて、自分がその管理を引き受けることにした。そんなこんなで、ウェブサイト作成ソフト「Microsoft FrontPage」をPCにインストールし、所属団体のウェブサイトの管理を始め、その余勢を駆って個人HPの構築にも乗り出したのだった。YahooのHPサービス「ジオシティーズ」に加入し、個人HP「ベラルーシ津々浦々」を公開したのは、記録によれば、2003年11月26日のことだった。

昔のホーム画面は、こういうコテコテした感じだった。

 こうした次第だったので、最初このHPは、完全にベラルーシ情報サイトという位置付けであり、なおかつ、自分が紙媒体で発表した著作物を宣伝・紹介することに主眼を置いていた。ただ、それだけだとウェブサイトとして活気が出ないので、2004年6月から、HP独自のコンテンツとして、「マンスリーエッセイ」を始めた。さらに、一つのターニングポイントとなったのが、「2006年ベラルーシ大統領選特報」だった。この時初めて、現地の最新情報をリアルタイムでフォローし、それをいち早くウェブ上で発信するということを試みたのである。ベラルーシ大統領選が山場を迎えた時には、私のHPへのアクセス数もかなり増えたので、なるほど、広い日本にはこういう国に興味を持って私のHPにアクセスしてくれる人もいるのだなと思い、ならばそれにお応えしようかということで始めた企画だった。その後この流れは、「研究ノート」シリーズへと引き継がれていく。

 他方、2004年に『不思議の国ベラルーシ』を上梓し、その他ベラルーシに関する一連の著作を発表し終えたことで、個人的にはベラルーシ研究には一区切りを付けたという思いがあった。元々、ベラルーシに特化した専門家になるつもりはなかったし。2005年くらいから、しばらくなおざりになってしまっていたロシア研究を立て直すことの方が、むしろ個人的に急務となった。さらに、オレンジ革命などもあり、自分の中でウクライナへの関心が強まっていた。仕事の面で、所属団体の機関誌である『調査月報』の編集長になり、時間的な余裕がまったくなくなって、ベラルーシに関するマニアックな研究や執筆などはできなくなった。必然的に、HPでもベラルーシに関するコンテンツが減り、ロシアやウクライナのそれが増えていった。HPの題名も、しばらくは「ベラルーシ津々浦々」というのを惰性で維持していたが、結局内容に合わせて「ロシア・ウクライナ・ベラルーシ探訪」に改名することにした。改名したのが具体的にいつだったのか、実は今回正確には確認できなかったのだけれど、状況証拠からして、たぶん2008年1月のことだったかと思う。

 ところで、私が個人HPを立ち上げた10年ほど前、すでに何人かの知り合いや同業者は個人HPを開設していた。私は当時、特に研究や文筆を生業とする我々の仲間内では、個人でHPを持つことが当たり前になっていくだろうと漠然と予想していた。しかし、その後、世の中は全然そういう方向には進まなかった。私のように、古典的なウェブサイトを個人でやっている人は、実に少ない。率直に言って、とても不思議な感じがする。まあ、確かにこういうレガシー的なウェブサイトを作成・管理するのは、かなり面倒である。大学の先生やシンクタンクの研究員なんかの場合には、たいてい所属組織のウェブサイトに教員・研究員紹介のコーナーがあるので、それで事足りているのかもしれない。

 他方、世の中はブログ、そしてその後はSNSの世界へとなだれ込んでいった。私自身は、元々はアンチブログ派であり、SNSなどにも興味がなかった。情報発信者としての自分は、あくまでも紙媒体を主体とし、デジタルはそれを補完したり便宜的に置き換えたりするものという価値観である。HPにコメント欄を設けようとは思わないし、読者と双方向のコミュニケーションなんかしたくない。たとえば、私の著作物を批評してくださるのはウェルカムだけど、それは私のHPに書き込むのではなく、皆さん各自でやってくださいねというのが基本的な考え方だ。

 で、散々そういう立場を表明していた私だったが、2010年1月に「こっそりブログ」と題して、ブログを始めた。魔が差したとしか言いようがないが、本HPが入居している「ジオシティーズ」のおまけのサービスとして「ジオログ」というブログがあったので、まあせっかくあるんならちょっとやってみようかという気になった。そして、2年間ほど、毎日ほぼ皆勤で、ブログを続けてみた。だが、正直言えば、「こっそりブログ」の時代には、「何のためにこんなことをやっているのだろう?」という疑念をずっと抱いたままだった。

 しかし、そこで時代がまた急展開する。スマホとタブレットのブームが来たのである。私自身も、音楽プレーヤーとして購入したiPod Touchを色々といじっているうちに、スマホやアプリのことに興味を覚えるようになった。本HPでは、2010年4月から、ロシア・ウクライナ・ベラルーシに関する最新情報を高頻度でお伝えするコーナーを開設しており(現在の「研究ノート」)、せっかくなのでそれをスマホ等でも閲覧していただきたいなと思うようになった。ところが、試してみたところ、当時の私のHPはiOS(というかSafari)では表示することができず、アンドロイド端末でもひどくレイアウトが崩れた状態で表示されていた。当時、私のHPはフレームによってヘッダー・サイドバー・本文と3つに区切られた形でレイアウトされており、これは時代遅れの手法であって、おそらく最新のモバイル・ブラウザではそれを表示できなかったのだと思われる。

 そこで私は、モバイルでの表示用に最適化したページを自己流でデザインし、いったんローンチしたのだけれど、いくらなんでもやり方がスマートでないなと思って、引き続き他の方法を模索してみた。その結果、ライブドアブログのインターフェースが、なかなか優れていることを知った。その機能は、ジオログなどとは比べ物にならないほど洗練されている。入力の自由度がはるかに高いし、何よりもブログがPC・タブレット・スマホとデバイスごとに最適化されて表示されるのが素晴らしい。そこで私はジオログの「こっそりブログ」を打ち切って、ライブドアブログに乗り換えることにした。2012年2月のことである。iOSおよびアンドロイド端末からhttp://www.hattorimichitaka.com/にアクセスすると、自動的にhttp://blog.livedoor.jp/httrmchtk/に飛ぶように設定した。いつしかHPとブログの優先順位が逆転し、最新ニュースなどはむしろブログの方で先に紹介して、HPには後からコピーするようになったのである。また、以前は紙媒体で発表した著作をHPで宣伝・紹介するというスタイルだったのが、最近はまずブログでニュースや情報を日常的にフォローし、最終的にそれを切り貼りして文章を書くようなスタイルにシフトしている。

 そんな中での、今回のHPリニューアル。その眼目の一つが、同一のウェブサイトが、PC・タブレット・スマホにそれぞれ最適化されて表示されるようにデザインしたことである。むろん、HPにアクセスしたらブログに飛ぶような設定は解除したので、ぜひ本HPをタブレットやスマホでもお試しいただきたい。私は今回、PCに加えて、自分の手持ちのiPad、Nexus 7、iPod Touchで動作確認しながらHPのリニューアル作業を進めたので、あらゆるデバイスで問題なく閲覧していただけるはずである。ただ、アンドロイド機のNexusでは、文字が小さかったり、行間が狭すぎたりで、ちょっとイマイチかなあ。小技として、分量が長いページには、右下隅に「BACK TO TOP」というボタンを常時表示することにした(←この設定、結構大変だった)。特にタブレットやスマホでは、スクロールが大変だからね。

 従来は、上にあるナビゲーションボタンで、たとえば「ロシア」というところを押すと、ロシアに関する私の著作・業績の一覧を示したページに進んだ。上述のように、元々このHPは、自分の著作物を宣伝・紹介するという趣旨だったので。それに対し、今回からは、「ロシア」のボタンを押すと、ロシアの最新ニュース・情報等を紹介する「研究ノート」のページに進むようにした。その方が利用者が多いだろうという判断である。著作・業績一覧は、「WORKS」のページから、各国別のページに進んでいただく。

 まあね、ブログに書いた記事を、HPの方にコピーすることには、その労力に見合う意味があるのだろうかという疑問は、自分でも感じているのだけれど。でも、確かにブログはカテゴリー分けもされ、文字列検索などもできるのだけれど、ライブドアのブログでは検索でヒットする確度が100%ではないようだし、それにどうしてもブログのスタイルでは一覧性に欠ける。後から自分の記事を検索したり、俯瞰したりするためには、やはりHPの方が優れている気がするのだ。とにかく、個人的にはブログよりもHPの方を大事にしたいので、今回のリニューアルをきっかけに、更新頻度などもより高めていきたい。

 あと、ここ数年の変化としては、このHPが本来守備範囲としているロシア・ウクライナ・ベラルーシに加えて、モルドバおよびカザフスタン、そしてサッカーおよびエネルギーのコーナーが加わったことが挙げられる。元々、東スラヴ3国のフォローだけでも大変で、「三冠王宣言」などと称して無理にフォローしていたのだが、それにモルドバやカザフまで加わったら、盗塁王やゴールデングラブ賞も同時にめざすようなものである。まあ、個人的には3.11に大きな衝撃を受け、「とにかく思い付いたことは何でも迷わずにやってみよう」という価値観が強まったことが大きい。エネルギー・コーナーを設けたのはまさに3.11ショックを受けてのものだったし、サッカーも個人的には震災で強まった郷土愛と結び付いている。これだけ多くのコーナーを手掛けることは無謀としか言いようがなく、一部のマイナーなコーナーはなかなか更新もままならないが、まあ細々とでも続けていければと思っている。

 最後に、このHPをブックマークしてくださっている皆様へのお願い。ブックマークはhttp://www.geocities.jp/hmichitaka/ではなく、ぜひhttp://www.hattorimichitaka.comにしていただければ幸甚。せっかくの独自ドメインなので。

(2013年8月25日)

青森で出会った巨大シャガール

 6月にちょっと休暇をとって青森を旅行してきた。今月のエッセイでは、その青森で「巨大シャガール」に出会ったという話を披露し、ついでにそれとは関係のない青森旅行の談義も色々と語ってみようと思っていたのだが、明日20日からまたロシア出張(自分としては珍しく極東・シベリア)であり、時間がなくなってしまった。なので、今回のエッセイはやや手抜き気味に、巨大シャガールのことだけ述べておきたい。

 さて、私は青森県を訪れるのは初めてだった。前にも一回、青森旅行を企画してガイドブックまで買ったことがあったけれど、どういう事情だったか、実現しなかった。そうしたなか、今年の2月頃に、青森県の酸ヶ湯温泉というところで5メートルを越えるとかいうべらぼうな積雪量を記録したことが話題となり、「春か夏頃になったら、あのあたりに行ってみたいな」と、漠然と思い始めたのである。震災のあと、まだ東北のどこにも行ってなかったということもあって。で、6月の半ばに仕事に一区切りがついたところで、3泊4日の青森旅行に出かけたというわけである。

 新青森駅に降り立った私が、その足で真っ先に向かったのが、青森市内にある有名な三内丸山遺跡。日本でも屈指の縄文遺跡で、縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落跡である。ど素人ながら考古学大好きの私としては、当然のチョイスだ。

 三内丸山遺跡を見学して分かったのは、同遺跡が栗の文化であったということ。下の写真に見るように、巨大な掘立柱の遺構が発見されているが、掘立柱も栗の木で出来ていたことが確認されている。ただ、現代にこれを復元するに当たり、こんな栗の巨木はもう日本には残されていない。そこで、何とロシアのソチ近郊にある原生林で栗の巨木を調達し、はるばる青森まで運んできたというのだ。

 その恩返しかどうかは知らないが、遺跡に併設されている「さんまるミュージアム」の入口には日英中韓の各国語に加え、ロシア語も書き添えられていた。でも、よく見ると、文字が間違っている。ゼーの字(з)が、ちょっと似ているエーの字(э)になってしまっていた。一応、係員の方に指摘しておきましたけどね。ただ、お話をお聞きしたところ、実際にはロシア人が来ることは滅多にないそうだ。それにしても、三内丸山遺跡が堂々たる縄文遺跡だというのは聞いていたけれど、博物館等の付属施設がとても立派なのに驚かされた。

 さて、私にとってもう一つ、絶対に見逃せない観光スポットがあった。三内丸山遺跡のすぐ隣にある青森県立美術館である。ガイドブックで予習したところ、ここにはマルク・シャガールが描いた、巨大なバレエの背景画が常設展示されているというのだ。個人的に美術は疎い分野だが、ベラルーシ出身のマルク・シャガールのことはテーマとして追っており、機会があればなるべく作品も鑑賞するようにしている。

 そんなわけで、青森県立美術館に参上。う~む、どうも不思議な感じのする空間だ。地方の美術館のわりには、やたらとスペースがたっぷりとしており、色彩は白に統一され、何やら異空間に迷い込んだのかと錯覚する。そして、入館してすぐのところにある大規模展示スペースに、巨大シャガールはあった。館内は撮影禁止だったので、シャガール展示の様子は、こちらのブログあたりでチェックしていただきたい。

美術館の外観

 本作品は、シャガールがアメリカ亡命時代の1942年に、バレエ『アレコ』のために制作したもの。1点の大きさが、縦約9メートル、横約15メートルという巨大な作品で、4幕のバレエのために4点が描かれている。そのうちの3点が青森県立美術館にあり、残り1点はフィラデルフィアにあるという。同美術館の開館に合わせて、2006年7月から9月にかけて「シャガール ―『アレコ』とアメリカ亡命時代」と題する記念展が開かれ、その際にはフィラデルフィアから背景画を借りてきて全4点が勢揃いしたようだ。シャガールの絵を展示しているスペースは「アレコホール」というそうで、つまりこの美術館は巨大シャガールありきのコンセプトになっているようだ。

 美術館の売店で、2006年の記念展の立派なアルバムをまだ売っていた。当方は旅行中なので、こういう重い本は買いたくない。すぐにその場で、Amazonで検索してみたが、一般には流通しておらず、ここでしか買えないようだ。ただ、このアルバム、ずしりと重いものの、値段は確か1,000円くらいと、冗談のように安かった。それに、今回見学してみて分かったのだが、どうも「アレコ」はロシアの文化を理解する上で重要な作品のようなのである。これはもう、買うしかあるまいと覚悟を決め、やむなくお買い上げとなった。翌日、早々に青森土産を色々と買い求め、それらと一緒に宅配便で東京に送った。

 私がこれ以上「アレコ」について語ると、教養と審美眼の欠如がばれてしまうので、やめておく。それよりも、上述のずしりと重いアルバムに、立派な解説が掲載されているので、それをそのまま引用させていただく。改めて、「アレコ」はこんな作品である。

 アメリカに暮し始めて間もない時期、シャガールはニューヨークのバレエ団「バレエ・シアター」からバレエ『アレコ』の舞台美術の依頼を受ける。『アレコ』はロシアの文豪プーシキンの叙事詩『ジプシー』を原作とし、チャイコフスキーのピアノ三重奏曲を音楽の原曲とした、ロシア的色彩の濃いバレエであった。シャガールは振付家のレオニード・マシーンとの親密な協力関係のもと、4点の背景画と60点以上におよぶダンサーの衣装をデザインした。構想はニューヨークで温められていたが、実際の制作は初演が開催されるメキシコ・シティで行われた。シャガールと妻ベラは1942年8月、メキシコへ移住し、初演までの約一ヶ月の間、背景画と衣装の制作に没頭した。

 (中略)

 文明に嫌気がさし、自由を求めて「ジプシー」の一団に加わったロシアの貴族の青年アレコは、「ジプシー」の娘ゼンフィラと恋に落ちる。しかし、奔放なゼンフィラはすぐに別の「ジプシー」の若者へ心を移してしまう。それを知ったアレコは、嫉妬のあまり錯乱状態に陥り、ゼンフィラとその愛人を殺害する。

 アレコの中に潜む文明人の傲慢と「ジプシー」が体現する真の自由。その二つの矛盾が引き起こす生と死のドラマ。『ジプシー』を通じて原作者プーシキンが語り掛ける言葉に共鳴したシャガールは、物語にみなぎる激情を色彩へと翻訳しながら、「色彩だけが演じ、語る」比類無き祝祭空間を舞台上に実現した。(『シャガール ―「アレコ」とアメリカ亡命時代』(書誌情報不明)、120頁より)

 以下は、各作品についての解説。なお、サムネイルの絵をクリックすると、より大きな絵が表示されるようになっている。ちょっと別ウインドウ表示の設定が上手く行かなかったので、右クリックして「新しいウインドウで開く」で開いてくださいね。

月光のアレコとゼンフィラ

 暗い青を基調としたバレエ『アレコ』第1幕の背景画。空中に漂うカップル、白く輝く月に向かって飛ぶ赤い雄鶏、といったこの作品の主要イメージはシャガール特有のもので、シャガール・ファンにとってはもうお馴染みである。その他のイメージとして、湖面に映える月影、そして三連の山並みがある。これらの数少ないイメージを除くと、自余は広大な色彩空間が広がる。図解でも挿絵でもない自立した絵画を目指したシャガールの面目躍如とした抽象的構成となっている。「ただ色彩のみに語らせたい」というシャガールの意図がこれほど実現している背景画は他にない。夜明け前の雰囲気、これからアレコの悲劇が始まろうとする不気味な予兆は、青の表現主義的な処理法によって実現されている。この巨大な色彩空間がアメリカの抽象表現主義の揺籃期にニューヨークで展示された意味は思いの外大きいのではないか。

 この背景画の前で愛し合うアレコとゼンフィラが踊り、幸福感に満たされる。しかし一方で、ジプシーの若者が身近な者から殺される運命にあると、占いの娘から予言され、大きな不安、悲劇の予兆が舞台に広がる。


カーニヴァル

 朝焼けに照らし出された田舎の風景が、黄色とオレンジを基調に湾曲して画面左に描かれている。右側には城を背景として緑のなかに赤紫のライラックのブーケが空中に大きく浮かんでおり、ヴァイオリンを掲げた熊がブーケの下に描かれ、ブーケからは一匹の黒い猿が熊に飛びかかろうとしている。ブーケの左には青い雲が二つ朝焼けの上に漂う。第1幕とは対照的に明るい画面である。しかしこの楽しげな雰囲気とは裏腹に、ここではアレコは愛するゼンフィラの心変わりを目撃し、その苦悩を義理の父に打ち明けるという、この悲劇の発端となるシーンが展開する。


ある夏の午後の麦畑

 4点の背景画の中で最も強烈な色彩を放っている作品である。黄色を背景に真っ赤な太陽が二つ上空に輝く。一つは放射する太陽、一つは標的のように同心円の太陽である。左下の麦畑の上には大きな鎌が首を出し、右側に一方の逆さの木と青いボートが人ひとりを乗せて寂しく浮かんでいる。この作品はフィラデルフィア美術館に寄贈された。現在西側のエントランスホールに常設されている。フィラデルフィア美術館が4点の中からこの1点を選んだ理由は、常設の場所が照明の乏しい暗いところなので、最も明るい画面が良かったからであるという。確かに黄色と赤からなるこの作品は4点の中では最も明るく輝いている。さらに夏の午後の麦畑というこの主題が4点の中では最もアメリカ的なので、それも選択の理由になったのかも知れない。


サンクトペテルブルグの幻想

 バレエ『アレコ』最終幕はサンクトペテルブルグである。もちろんバレエ自体の現場はベッサラビアの平原であった。ここでもシャガールは舞台背景画をバレエの図解と考えていない。では何故サンクトペテルブルグなのか。ここでシャガールは『アレコ』の原作者プーシキンのことが念頭にあったのではないか。プーシキンが女性問題で決闘におよび命を落としたのはここサンクトペテルブルグであった。バレエ『アレコ』の劇中劇として、錯乱したアレコは自らが詩人となって決闘を余儀なくされ命を落とす場面を幻覚で見るが、それはまるでプーシキンが自らの運命を予言しているかのようで印象深い。

 赤く染まったサンクトペテルブルグの街並み上空を白馬の二輪馬車がシャンデリアを目指して点翔る。暗黒の空には白い馬と黄色のシャンデリアがくっきり浮かび上がっている。そして左下の墓地には磔刑のキリスト像が描かれている。そしてプーシキンとの関連を強調するように赤い街並み中心に、「青銅の騎士」像が描き込まれる。これらのことを総合的に考えれば、白馬はプーシキンその人の魂を天上に運んでいるのではないか。従ってこれは『アレコ』の原作者プーシキンのレクイエムと言うことができよう。

 この《サンクトペテルブルグの幻想》を背景にして、主人公アレコは錯乱状態に陥り、舞台ではアレコの幻覚が群舞する。そして幻覚から醒めやらぬ状態で、アレコはゼンフィラの恋人を刺し殺し、ゼンフィラその人まで殺してしまうのである。


 以上が作品の解説だけど、本からの丸写しで、ご勘弁。何しろ今回は手抜きエッセイなのでね。だいたい、アルバムには折り込みで背景画が収録されているのだけれど、それをスキャンして整形するだけで大変だったので(ブツブツ…)。

 まあ、シャガールの他の作品と比べると、モチーフや色彩的にはお馴染みの作風だけど、舞台の背景画だけに、書き込みの密度はそれほどでもないね。だから、作品の大きさに完全に比例して、お値段が高いということはないのかもしれないけれど。それにしても、これだけの記念碑的な大作、お高いんでしょうねえ。

 そんなことをつらつらと考えているうちに、色んなことが不自然に思えてきた。三内丸山遺跡のやたらと立派な施設。青森県立美術館のちょっと浮世離れした佇まい。そして、この巨大シャガール。「これはきっと、アレのお金に違いない」。私はそのように思い当たった。そう、原子力マネーである。まあ、通りすがりの旅人が、検証をする余裕はないので、断定はできないけれど、青森県が原子力マネーで潤っているからこそ、他県が羨むような潤沢な文化行政費が捻出できていると、考えて間違いないのではないか。現に、前出のアルバム『シャガール ―「アレコ」とアメリカ亡命時代』には、記念展の協賛企業として、原子力関係企業が名を連ねている。東北電力、東京電力、電源開発、日本原燃……。そう考えると、アルバムが妙に安かったのも、合点が行く。

 う~ん、不謹慎なことを言えば、原子力マネーが潤沢なうちに、フィラデルフィアにある残り1点も札びらで買い上げておいてほしかったぞ。

(2013年7月19日)

ムルマンスクで人生最北を体験

 私は今年度、ロシア・NIS諸国の地域開発政策に関する調査事業を担当することになったので、ロシア圏の地方への出張が、例年以上に多くなりそうである。先日、その第一弾として、ロシア北部のムルマンスクを訪れ、現地調査を行う機会があった。帰国後に早速、現地調査の成果を活かして、「低成長からの脱却をめざすムルマンスク州」と題するレポートを発表したので、同地域の経済・政治事情にご関心の向きは、そちらをご参照いただきたい。レポートを書き終えて燃え尽きてしまった感があるので、ここでは前掲レポートで触れられなかったムルマンスクの薀蓄やこぼれ話的なことを簡単に紹介し、月例エッセイとさせていただきたい。

 さて、ムルマンスクと言えば、何と言っても、特筆されるのはその緯度の高さであろう。ムルマンスク市は北緯68度58分であり、これより北が「北極圏」とされる北緯66度33分を優に超えている。私自身、「北極圏」に足を踏み入れたのはもちろんこれが初めてだし、いくらロシアの調査を生業としていても、ここよりさらに北の地点を訪れることは今後もまずなさそうだ。実際、私の場合は経済の調査でムルマンスクに出向いたわけだが、一般の日本人の皆さんがムルマンスクに旅行することがあるとしたら、冬場のオーロラ鑑賞ツアーくらいではないだろうか。もっとも、ムルマンスク沖には暖流である北大西洋海流が流れているため、ムルマンスク港は不凍港となっているし(本格的な貿易港としては世界最北の不凍港と言っていいと思う)、当地は緯度のわりにはそれほど極寒の地ではない。

ムルマンスクに向かう機上からの眺め。氷河が造形した無数の湖が織り成す景観に息を飲んだ。
(ただし、もしかしたらムルマンスク州の手前のカレリア共和国かもしれない)

 極寒どころか、私がムルマンスクに滞在した5月の下旬は、大変に暑かった。気温は30℃に迫って5月の記録を更新し、あちこちでツンドラ火災が発生していると、ニュースで伝えていた。私も、3日ほど街を歩き回っていたら、すっかり日に焼けてしまった。そして、これだけ緯度が高いと、5月の末ともなれば、もはや白夜である。夜11時くらいまで、昼間と変わらない明るさだった。たぶん、それ以降も昼間のように明るかったと思うのだが、寝てしまったので分からない。

 ムルマンスクは、都市としてはまだ新しく、できてから100年も経っていない。この地に港を建設することが初めて計画されたのが、帝政時代の1870年代だった。第一次大戦中の1915年に港が完成、翌1916年の10月4日に正教会の聖堂完成に伴う式典が行われ、この1916年が都市の誕生年とされている。ムルマンスクは、帝政ロシアで誕生した、最後の都市だったということである。当初の都市名は、「ロマノフ・ナ・ムルマネ」であった。ちなみに、かつてロシア人はノルウェー人、ノルマン人のことを「ムルマン人」と呼び、そこから「ムルマン」が地名としても使われるようになり、コラ半島全体を指して「ムルマン」と呼ぶようになったということである。帝政ロシア最後の都市には、「ムルマンのロマノフ」という都市名が冠されたわけだが、ロシア革命でロマノフ王朝が廃止されたことを受け、当然その地名とも決別することとなり、1917年に今日の「ムルマンスク」に改名されたというわけだ。

港好きにはたまらない、崖の上から全景を眺められるムルマンスク港。
輸出向けの石炭が貨物全体の4分の3を占める。

 そんなわけで、ムルマンスク市は2016年に誕生から100周年を迎えることになっており、3年後にはそれなりの記念行事が行われることになるだろう。ところが、それに先立って、今般ムルマンスク州の祭典があった。実は、私が現地に滞在していた6月1日の土曜日が、ムルマンスク州創設から75周年の記念日とされ、盛大な祝賀行事が行われたのだ。どうも飛行機の便がとりずらい、アポ取りの反応が芳しくないと思ったら、そのような事情があったということに、現地に行って初めて気付いた次第だ。まあ、そのお蔭で、土曜日に訪問したムルマンスク州立地誌博物館が無料開放日だったりして、少しばかりの恩恵もあったが。

州創設75周年のお祭りの様子。

 その地誌博物館では、地質学および鉱物関係の展示に、目を奪われた。実はムルマンスク州は、エネルギー資源こそ産出しないものの、金属資源および鉱石の産地としては、ロシア屈指の存在なのだ。個人的には、先月のエッセイでも述べたように、半年ほどウラルの地理にどっぷりと浸かって、すっかり鉱物への興味が芽生えてしまったので、もう一つの聖地であるムルマンスクの博物館の展示も、興味津々だった。しかし、悲しいかな、当方には鉱物学の知識がなく、日本語ですら難しいのに、増してやロシア語ではちんぷんかんぷんである。そんな私に、ぴったりのアイテムを見付けた。博物館の土産物売り場で、下の写真に見るような、代表的な鉱石のサンプルセットを売っていたのである。しかも、英語とロシア語のバイリンガルになっているのが、ありがたい。喜んでこれを買い求めた(数種類あったので、すべてお買い上げ)。よし、これから毎日これを眺めて、勉強するぞ!

 ところで、ムルマンスクと言えば、原子力潜水艦の基地ということでも知られているかと思う。正確に言えば、ムルマンスク市内にあるのは貿易港と漁港だけで、戦艦や潜水艦の姿はここでは拝めない。ロシア北方艦隊の基地が置かれているのは、州都ムルマンスク市から北東に25kmほど離れたセヴェロモルスク市というところで、ここには一般人は立ち入ることはできない。

 そんなわけで、ムルマンスク市では原潜を眺めたりはできないのだけれど、原子力砕氷船の勇姿に触れることはできる。1957年に進水した世界初の原子力砕氷船「レーニン号」は、1989年に退役したが、その後ムルマンスク港に係留され、現在は博物館として公開されているのである。ただ、物件の性格上、普通の博物館のように自由に見学できるわけではなく、毎日正午にスタートするツアーに申し込まなければならない。私自身は、他の予定との関係でどうしても時間が合わず、結局内部を見学できずに終わってしまい、とても残念だった。他方、ムルマンスク港には、現役の世界最大の原子力砕氷船とされる「戦勝50周年記念号」も係留されており、遠巻きではあるが、その姿を目に焼き付けてきた。2007年に進水し、それ以来ムルマンスクの港を母港としている。全長160m、幅30mということである。なお、昔は海運会社のムルマンスク海運社が原子力砕氷船も運航していたのだが、現在は原子力公社「ロスアトム」に移管されている(ムルマンスク海運の関係者が残念そうに語っていた)。

ムルマンスク海運のミュージアムの展示。

世界初の原子力砕氷船、レーニン号。

こちらは現役、戦勝50周年記念号。

 さて、最後に、恥ずかしい失敗談を一つ。今回、ムルマンスクを訪問するに当たって、事前に情報収集をしていたところ、同市に「ヨーロッパ最北のオケアナリウム」というものがあることを知った。「オケアナリウム」とは個人的に聞き慣れない言葉だったが、「アクアリウム」が水族館のことだから(ロシア語でも同じ)、「オケアナリウム」というのは、より大洋に特化した海洋博物館であるに違いない。ムルマンスクという場所柄、北極海の生態系について、学べるような施設なのだろう。う~む、これはきわめて興味深い。私は、そのように勝手に想像と期待を膨らませ、空き時間のあった土曜日に、そこを訪問してみたのである。

 そしたら、私の読みは大外れ。そこは単なる、子供向けの海獣ショー施設だった。生態系を学習することはおろか、魚は一匹もおらず(餌となる死んだイワシはいたが…)、単に4~5匹いるアザラシだかアシカだかが出し物を披露するという……。

 しかも、朝一番に行ってしまったので、困ったことに、私の他には観客が一人もいない。で、いい年をした外国人が一人だけだったので、ロシア人の係員は、「ショーはお見せするけれど、貴方一人しかいないので、アナウンスは省略させてもらう」なんてことを言い出した。これが日本であれば、仮に観客が一人だけだったとしても、いつもと変わらぬショーをお届けしようと努めるはずだが、金を払った客に「省略させてもらう」と堂々と言ってしまうあたりが、いかにもロシアらしい。

 まあ、当方にしても、子供向けの出し物をフルバージョンで力一杯やっていただいても、気まずいだけなので、アナウンスなしバージョンに同意し、冴えない気分のまま海獣ショーの開幕を迎えた。まったく、我ながら、ムルマンスクくんだりまで来て、なにやってんだか。いや~、もっとちゃんと事前に調べなければ駄目ですね。しばらく前に、東海大学海洋科学博物館を見学したことがあって、そのイメージに引きずられすぎた。

 と、弱り切っているところへ、救世主が登場。ショーが始まってしばらくして、2組の家族が遅れて入ってきたのだ。「アナウンスなし」と言っていた係員も、やおらマイクを持って立ち上がり、海獣ショーの実況中継を始めたのだった。いや~、助かった。あの家族連れが来てくれなかったら、下の写真に見るようなアシカとのボールの絡みも、私がやるはめになったかもしれないな(笑)。危ない危ない。

(2013年6月21日)

オケアナリウム…。

何が悲しくて、こんなものを観なければ…。

石の花咲くウラル

 終わった終わった、うれしいな。♪

 あれ、これって、4年前に書いたエッセイの出だしと同じだ。まあ、それもそのはずで、4年前にその書き出しだったのは、世界地名事典の仕事で、ベラルーシの地名についての記事を書く仕事をやり終えた時のこと。今回も、同じ地名事典で、今度はロシアの担当箇所の原稿を今般すべて書き終え、それでちょっとした解放感に浸っているというわけ。

 1月のエッセイに書いたことの繰り返しになるが、ベラルーシの記事を書き終えて、だいぶ経ってから、ロシアのウラル圏の地名に関する記事の執筆を追加で頼まれた。具体的には、ペルミ地方、バシコルトスタン共和国、オレンブルグ州、スヴェルドロフスク州、チェリャビンスク州、クルガン州が私の守備範囲である。執筆項目は最終的には234に上り、字数は12万字にもなった。執筆作業には、昨年の11月に着手したので、ちょうど半年を要したことになる。この間、何度か中断はあったものの、自分の自由時間は、ほとんどこの仕事に費やしてきたような感じだった。

 何と言っても印象深かったのは、ウラル地方の地名の原稿書きをしていて、「チェバルクリ湖なんて、記事書いても、読む人いるのかな?」などと、首をかしげながら原稿書いてたら、そこに隕石が落ちて、世界的に有名になっちゃったこと。いつどこで何が起きるか分からないからこそ、そういう時に参照するために、この手の事典が必要なんだなと、認識を新たにさせられた。

 上述のとおり、私の担当地域は、ロシアのいわゆるウラル地方に属すところである。ペルミ地方、バシコルトスタン共和国、オレンブルグ州は、今日の連邦管区の枠組みでは沿ヴォルガに分類されているが、ソ連時代には「ウラル経済地区」に属しており、今日でも「大ウラル地域間経済協力協会」に籍を置くなど、依然としてウラル圏への帰属意識が強い面がある。このマンスリーエッセイではこれまでも、こちらの一覧にあるように、2007年11月にエカテリンブルグ市、2010年7月にチュメニ市、2010年8月にニジニタギル市、2012年10月にバシコルトスタン共和国、2013年1月にオレンブルグ市、そして2013年2月にチェリャビンスク州と、(広義の)ウラル地方についてたびたび語ってきた。

 それで、ウラルの都市には、主に2つの誕生パターンがある。第1に、遊牧民の来襲に備える要塞を起源とし、そこから都市に発展していったパターン。オレンブルグやチェリャビンスク、ウファといった南ウラルの都市は、そのようなルーツを持つ。第2に、ウラル山脈の豊富な鉱物資源を採掘・加工するための拠点として誕生し、それが都市に成長していくというパターン。富国強兵が推進されたピョートル大帝(在位:1682-1725年)の治世以降、カマ川流域と中部ウラルでは、エカテリンブルグの冶金工場、ペルミの銅精錬工場、イジェフスクの製鉄工場など、一連の官営工場が次々と誕生し、これらがウラルの主要都市に成長していったのである。今回、ウラルの各都市についての記事を書いていても、スヴェルドロフスク州を中心に、鉱山または冶金工場がそのまま都市に発展していったというパターンが本当に多いということを、改めて実感した。

 私はロシア地域研究を専攻しながら、ロシア文学・文化のことをまるで知らない。今回、ウラルの地名のことを調べていて、恥ずかしながら、パーヴェル・バジョーフという作家のことを、初めて知った。日本語版のウィキペディアにも記事があるような有名な人なので、詳しくはそちらを参照していただきたいが、要するに、まさにウラルの鉱山の街に生まれ育ち、地元の民話を収集し、それを元に童話の名作を生み出した人である。それを集大成した『孔雀石の小箱』という作品集はロシア内外で広く親しまれており、それを元にプロコフィエフがバレエを制作したり、ソ連初のカラー映画も作られたりしたということで。いや~、まったく認識していませんでしたわ。

 スヴェルドロフスク州の中でも、スィセルチやポレフスコイは、特にバジョーフ所縁の地である。作家が生まれ、物語の舞台ともなっているスィセルチには、バジョーフ生家記念館が開設されている。ポレフスコイも、バジョーフ作品の中心的な舞台であり、同市の紋章(下図参照)は、石の花の上を這う王冠を被ったトカゲという、童話の世界にもとづいている。

 こんな有名な作家のことを知らずに恥ずかしかったので、本を1冊取り寄せて読んでみた。『石の花』というのがそれであり、集英社の「少年少女 世界名作の森」の中の1冊になっている。児童文学全集の一環なので、998円とお安い値段になっているのがありがたい。まあ、元々感受性が鈍い上に、童心を失って久しい身ゆえ、読んで感動するということは特になかったが、バジョーフ作品の世界観はだいたい理解でき、勉強にはなった。

 以前、エカテリンブルグの「ウラル地質学博物館」で撮った写真を見直してみたら、下に見るように、まさにバジョーフと、作品のモチーフである孔雀石に関する展示の写真があった。

(2013年5月20日)

好きです!ロシア南部

 しばらく前の話になるけれど、今年の1月に、ロシア南部のヴォルゴグラード州、ロストフ州を訪問し、現地調査を行ってきた。その土産話は、ブログの方ですでに断片的に披露しているけれど、改めて少し語ってみたい。

 今回主に訪問したヴォルゴグラード市とロストフナドヌー市(ロストフ州の州都)は、ともにロシア南部を代表する百万都市である。ただ、格式においては、随分違っていた。ヴォルゴグラードは、かつてスターリングラードと呼ばれ、第二次大戦下の独ソ戦で史上最大と言われる市街戦が戦われたことで知られる。したがって、今日でも「大祖国戦争」の記念碑がもっぱらヴォルゴグラード市のシンボルとなっており、街並みは味気ない。それに対し、ロストフの方は、南連邦管区の行政・経済の中心であり、豊かな歴史・文化を感じさせ、まさにロシアの南の首都といった風格があった。

ロストフ市内にある南連邦管区大統領全権代表部

半分凍結した静かなるドン川、ロストフ市内にて

ヴォルゴグラードの永遠の火を守る衛士たち

 今回の出張では、土曜日に時間があったので、ヴォルゴグラード州の隣のカルムィク共和国エリスタ市まで足を伸ばし、市内の様子を視察してきた。カルムィク共和国は、ロシアでも最も貧しい地域の一つである。ロストフ州やヴォルゴグラード州は経済的に強力であるものの(今回は行かなかったがもう一つの要衝クラスノダル地方も)、そのすぐ傍らに民族系の貧しい地域が隣接しているという点が、ロシア南部の特徴である。

カルムィク人はユーラシアで最も西に分布する仏教民族(チベット仏教)
寺院で結婚式のカップルを見かけた

 さて、ここからが本題だ。一般の方にはまず関心外だろうと思うが、今回ロストフを訪れて、個人的に感慨深かったことを書き記しておきたい。ロシアの最有力な経済週刊誌で、『エクスペルト』という雑誌があり、私なども散々お世話になっている。そして、その地域版として、北西、南、ウラル、シベリアの各版が出ている(あと、ウクライナ版とカザフスタン版もあるが)。これらは、新聞の地域版のように全国版にローカルニュースをちょっと加えただけというのではなく、全国版とは全面的に内容が異なる。ところが、私がロシアの各地域を訪問し、キオスクなどで探してみる限りでは、『エクスペルト』の全国版を見かけることはあっても、地域版を目にすることは滅多にないのだ。今回も、ヴォルゴグラード市内の売店やキオスクをいくつか覗いてみたが、『エクスペルト南』は1箇所でしか売っていなかった(それも随分古い号で…)。一体、『エクスペルト』の地域版というのは、どこでどんな風に読まれているのだろうかと、改めて疑問を抱いたのである。

 一方、ヴォルゴグラードからロストフに移動したところ、街角のキオスクに『エクスペルト南』の看板が掲げられており(上の写真参照)、期待感を高めたのだが、雑誌そのものはやはり売っていなかった。そんなこんなで、『エクスペルト南』についての興味がにわかに募ったものだから、ロストフ市内にあるという編集部を、アポなしで訪問してみることにしたのだ。もし在庫があれば、いくつかの号を買ってみたいとも思って。そして、実際に編集部に行ってみると、アポなしにもかかわらず、とても暖かく迎えてくれた。バックナンバーを買ったりはできないようだが、日本の珍客が自分たちの雑誌に関心をもってわざわざ編集部まで来てくれたということで、バックナンバーを気前よくプレゼントしてくれたのである。せっかくの機会なので、ロシア南部の地域情勢や、雑誌の流通事情などについても、話を訊いてきた。やはり、地方においても、一般に流通しているのは主に全国版の『エクスペルト』であり、地域版は定期購読で読まれている程度のようだった。

『エクスペルト南』誌の編集部

ヨダレが出そう…

 実は、もう一つ同じような出来事があった。ロストフに到着した日曜日の夕方、滑り込みで、ロストフ州立博物館を見学した。そしたらそこに、実に興味深いものが陳列されていた。市内に、「ロシア科学アカデミー南研究センター」というものがあるらしく、そのセンターが刊行したロシア南部および北カフカスの地域情勢に関する豊富な書籍類が、ガラスケースの中に飾られていたのである(写真参照)。う~ん、これは完全に私のツボだ。こんなセンターがあるというのは知らなかったが、かくなる上は、ぜひ同センターを訪問し、これらの貴重な資料を入手しなければなるまい。そんなわけで、私は翌日、ネットで住所を調べた上で、これもアポなしで研究センターを訪問してみたのだった。

 それで、センターを訪問してみると、出版部のようなところに通されたものの、書籍を市販することは想定していないという。仮に購入するとなると、銀行での振込みという形をとらざるをえず、その他諸々の問題があり、きわめて面倒であるということだった。正直、私はこの展開は予期していた。ロシアの地方統計局を訪れると、現金を受け付けてもらえず、銀行振り込みを求められるからである。しかし、出版部の事務職員とああでもない、こうでもないとやり取りをしていたところ、幹部の人が出てきてくれ、「せっかくいらっしゃったのですから、必要な出版物を差し上げましょう」と言ってくれた。一部の刊行物がすでに在庫切れだったのは残念だったが、それでも貴重な書籍を数点、無料でいただくことができたのである。時間がなかったので、すぐにおいとましたが、もし今度ロストフを訪れる機会があったら、改めてじっくりと意見交換をしてみたいものである。

研究センターの入居している建物

 ロシアでは、にべもなく門前払いをされることも少なくないなかで、『エクスペルト南』編集部にしても、ロシア科学アカデミー南研究センターにしても、突然の客人に対し、思いもよらない柔軟で、温かい配慮を示してくれた。貴重な資料をたくさんいただき、鞄はずしりと重くなったが、私はその重さに比例する、何とも言えぬ幸福感を噛み締めながら、ロストフの街を歩いた。モスクワやサンクトペテルブルグでは、こうはいかないだろうなあ。これはロシア南部の暖かい気質によるものに違いない。私の中で、ロシア南部の好感度が急上昇したのであった。あとは、これらの資料を使って、立派なレポートを書くのが自分の仕事だな(笑)。

(2013年4月25日)

黒海経済空間についての一視点

 2013年2月21日、東京の国際文化会館において、第4回「日・黒海地域対話:日・黒海地域協力の発展に向けて」が開催された(共催:グローバル・フォーラム、黒海経済協力機構=BSEC)。その第2セッション「黒海地域の開発戦略」において私は、「A Viewpoint on the Black Sea as Economic Space(黒海経済空間についての一視点)」と題する基調報告をさせていたいた。今月のマンスリーエッセイでは、この会議の模様と、私が行った報告に関し、概要をお伝えする。文章だけでは少々味気ないので、ここ数年の間に私が黒海沿岸諸国に出張に行った際に撮ってきた写真をいくつか交えながらお届けしよう。

2月21日の会議の模様

 私は、昨年の秋頃、黒海に関するこの国際会議で経済についての基調報告を行うよう求められ、務まるかどうかの不安はあったが、黒海の経済関係は自分の研究対象の一つなので、お引き受けすることにした。しかし、結論から言えば、会議の趣旨と私の報告とは、だいぶズレがあった。私自身は、現実に黒海に地理的に面した国々を対象に、リアルな経済関係につき研究を行ってきている。あくまでも、黒海という経済空間が現実にどのように機能しているかというのが、私の関心事である。それに対し、この「日・黒海地域対話」の言うところの黒海諸国とは、BSEC加盟国のことに他ならず、黒海という海には面していないバルカン諸国やコーカサス諸国も含まれる。引き受けた後になって気付いたのだが、会議の趣旨自体が、日本とBSECの組織的な関係構築・深化を主眼としたものであった(なお、右の写真がV.トヴィルクンBSEC事務総長)。私は今回の基調報告で、狭義の黒海沿岸諸国であるロシア、ウクライナ、ルーマニア、ブルガリア、トルコ、グルジアにしか言及できなかったのだが、外国からのパネル参加者はアゼルバイジャン、アルバニア、ギリシャ、セルビアの方々であり、申し訳なく思った。また、私は日頃ビジネスパーソンへの情報提供を生業としているので、現実の経済の動きにしか興味がないのだが、「日・黒海地域対話」はどちらかと言うと国家および国際機構主導で域内協力および日本との協力を推進しようという理念的なものであり、その意味でも私の能力の及ばないところだった。

 ともあれ、私が今回用意したスライド資料はこちらのとおりである。報告要旨は、時間の都合ではしょった部分も含めると、以下のようなものだった。

 私は今回の報告で、実際に地理的に黒海に面しているロシア、ウクライナ、ルーマニア、ブルガリア、トルコ、グルジアだけを対象とする。ただ、差し当たりこれらの国々が織り成す経済関係を「黒海経済空間」と捉えるにしても、一体何に着目したらいいのか、必ずしも自明ではない。

ロシア最大の貨物量を誇るノヴォロシースク港

 一般に、ある地域の域内経済関係を分析するに当たって、貿易関係に着目することが常道であろう。そこで、一次的接近として、黒海諸国間の二国間商品貿易関係をマトリックス状に整理したTable 1およびFigure 1を作成してみた。これを見ると、ロシアが域内貿易で最大の貿易国であるとか、ロシア・ウクライナ間の貿易高が一番大きいとか、小国は黒海域内貿易への依存度が高いとか、ロシアが域内貿易で黒字を記録する一方で他の国の多くは赤字であるとか、いくつかの傾向は見て取ることができる。

 しかし、こうした分析は、黒海経済空間の本質を捉える上で、表面的なものにすぎないのではないかと、私は考えている。なぜなら、たとえばロシアという国は地理的にあまりに広大であり、ロシア・ウクライナ貿易の大半は、黒海という地域性とは何のかかわりもないからである。ウクライナがロシアのシベリアで産出された天然ガスを輸入するような場合に、黒海という海は何の役割も果たさない。こうして考えると、狭義の黒海経済空間、すなわち黒海という海を取り巻く経済関係を論じるに当たっては、国レベルよりも、地域レベルの視点を用いた方が、まだしも実のある議論ができるのではないかと思われる。

ウクライナの主要な乗用車陸揚げ地となっているイリチウシク港

 黒海地域の重要性を強調する際に、しばしば、黒海沿岸諸国の国家レベルの面積・人口・GDPなどを合計して語られることがある。しかし、たとえばロシア極東のカムチャッカ半島あたりまでを含めて黒海圏と呼ぶことがフェアとは、私には思われない。むしろ、黒海に地理的に隣接している地域・自治体だけに絞るというのも、一つの考え方ではないか。そこでTable 2では、国家レベルで積み上げた黒海経済空間の面積・人口規模(左半分)と、黒海隣接地域・自治体に絞ったそれ(右半分)とを、対比して示している。これはあくまでも一つの試みにすぎないが、国レベルの統計とはまた異なる黒海経済空間イメージが浮かび上がってこよう。

 私の見るところ、現状において黒海経済空間で最も重要なセクターは運輸であり、とりわけ海運・港湾である。その海運・港湾の観点から見ると、黒海経済空間をどのように特徴付けることが可能だろうか? Figure 2では、一例として、ウクライナの港湾で処理される輸出貨物の仕向け先と、輸入貨物の発送国を示している。これを見ると、ウクライナの港湾で処理される輸出貨物の78.6%は黒海域外に向かっている。輸入貨物の76.3%は、黒海域外から来ている。他方、この間の黒海沿岸諸国の港湾政策を見ると、各国は自国の港湾を整備し、貨物、とりわけコンテナ貨物の誘致を競い合っており、ゼロサム的な競合関係にある。つまり、最も重要な海運・港湾の観点から見る限り、黒海経済空間は高い域内取引比率を有する自己完結的な経済圏とは言いがたい。むしろ、各国の港は、各国と外部世界とを繋ぐ役割を果たしていると言える。そうした観点からすれば、黒海経済空間は、緊密な域内経済関係が営まれる表舞台というよりは、各国のいわば「勝手口」の集まった「バックヤード」のようなものではないかというのが、私の持論である。

トルコ・イスタンブールからボスポラス海峡を臨む

 このように、黒海諸国間の経済関係が各国国民経済に及ぼすインパクトは大きなものではないし、「環黒海経済圏」と呼べるような一体性も今のところ見い出せない。しかし、ここで再び地域レベルの視点に立ち戻ると、違った様相も見えてくる。たとえば、ロシアの中で黒海に面している「南連邦管区」の2012年の貿易データを見ると(Figure 4)、輸出の31.8%は黒海諸国向け、輸入の38.2%が黒海諸国からとなっている。ロシアという国全体では、黒海域内取引の比率は輸出で11.9%、輸入で9.5%にしかすぎなかったわけで(2011年、Table 1)、明らかにそれとは様相が異なっている。また、ロシア・ロストフ州とウクライナ・ドネツィク州およびルハンシク州間の国境を越えた交流を目的とするユーロリージョン「ドンバス」が2010年に設立されて以降、両者間の経済関係の拡大に成功しているといった報告も伝えられている。

 今回の私の報告は、あくまでも私なりの一つの視点を提供するというものなので、最後にConclusionではなくSuggestionとしてまとめさせていただくが、ご報告申し上げたように、黒海経済空間に何らかの経済的な実態を見出そうとするのであれば、国レベルよりも、地域レベルの視点からアプローチした方が有効なのではないかというのが、私の見解である。

ウクライナ・セヴァストポリのロシア黒海艦隊

 なお、現在、黒海地域で最もホットな争点となっているのは、サウスストリーム等の天然ガス・パイプラインの建設であろう。ただ、パイプラインはそれ自体が一つの大きなテーマであり、純粋に経済的というよりは半ば地政学的な問題でもあるので、今回の報告ではあえて割愛した。サウスストリームにつき、今回の報告との絡みで一つだけ指摘するのであれば、それがロシア国内の「サザンコリドー」プロジェクト、すなわちロシア南部におけるパイプラインの敷設と沿線のガス化・工業化の推進という地域開発にリンクしているプロジェクトであるということだけ申し添えておく。

 というような報告を、私は披露したわけである。これに対し、コメンテーターの蓮見雄さんが私の報告を敷衍するようなコメントをしてくださり、また別の方からは私の作成した表を誤読した指摘などはあったわけだが、それ以外には、フロアからの反応は、まったくと言っていいほどなかった。まあ、上述のとおり、そもそもの問題意識が異なるので、それもやむをえまい。

 今回の出席者の一連の発言の中で、私にとって一番腑に落ちたのは、別のセッションで披露された経団連の幹部の方のコメントだった。その方は、①自分はこれまでBSECというものをよく知らなかったし、何人かの日本の企業関係者に訊いてみたが彼らも知らなかった。②現在のところ日本企業が黒海地域を面として捉えて取り組む動きは見られない。③しかしながら、それは日本企業が黒海地域に関心がないということではなく、日本とロシア、日本とウクライナ、日本とトルコ、日本とEUというバイラテラルの関心は非常に強い、と指摘なさっていた。まさに、その通りだと思う。私自身も、日頃ロシアやウクライナの経済・ビジネスに関する文献・報道を読んでいて、BSECという語に出会った経験は、ほとんどない。

ロシア・タガンログの港を見下ろす公園に立つピョートル大帝像
帝政ロシアの黒海地域進出に道筋をつけた

 今回の会議では、「黒海諸国には、経済開発、汚職の克服など、様々な課題があるので、それに鋭意取り組んでいこう」とか、「日本はそれらの問題の解決に寄与できる」といった前向きな議論が多く聞かれた。しかし、経済開発や汚職克服などの課題に直面しているのは何もBESC諸国だけではなく、たとえばベラルーシや中央アジア諸国も同じである。それらは市場経済移行後発諸国共通の問題であり、それをことさらに黒海という地理的概念でくくる必然性は低いように思われるし、またBSEC等の多国間の枠組みでそれを改善できるとは想像しにくい。なかには、日本人は海外旅行に熱心であり、黒海諸国は今のところ日本人観光客をわずかしか受け入れていないので、その方向で努力すべきだと指摘された日本人出席者もいた。しかし、それも現実的に考えれば、国ごとに取り組むべき課題であり、BSEC等の多国間の枠組みでできることは限られている。

 ちなみに、BSECは日本との関係で、①運輸、②エネルギー、③環境という3点を、重点的な協力分野として設定しているということである。しかし、ややシニカルな言い方になってしまうが、この地域で最もホットなイシューである天然ガス・パイプラインの問題で、各国や各企業の熾烈な駆け引きが繰り広げられる一方、BSECが何ら影響力や調整機能を有していないのは、象徴的である。つまり、各国の死活的な利害が絡むような重要な争点ほど、BSECは権限を持ちえないということであろう。そうした重要領域では、日本を含む外部世界との関係はバイラテラルにならざるをえず、BSECの役割は名目的なものにとどまると予想される。

 BSECが主導するプロジェクトで、私が唯一、かねてから一定の有望性を感じていたのが、環黒海高速道路(Black Sea Ring Highway)の建設であり、今回の会議でもたびたび話題になった。しかし、このプロジェクトにしても、今のところ新規建設が実現したのは一部の区画だけのようである。現実的に考えれば、ロシアとグルジアの対立が続いている現状では、実際に黒海を取り巻く高速道路のリングが完成するのはまだだいぶ先なのではないか。また、今回の会議で聞いた話で、私にとって目新しかったのは、かつてBSEC諸国が各国の電力網を連結しようと試みたことがあったという話だった。しかし、「ロシア統一電力システム」(当時)の提案で、1990年代に2度にわたってプロトコールが調印されたものの、その後具体的に動いてはいないようだ。

 ちなみに、今回の報告内容をフェイスブックで公開したところ、環黒海経済空間は環日本海経済空間と似ているのではないかという指摘を知人からいただいた。確かに、両者には似ている部分がある。日本海に関して言えば、もともと「裏日本」という後ろ向きな響きの言葉があるように、日本海側はどうしても発展の遅れたアウトサイダーというイメージがあり、これを逆転の発想で成長のフロンティアに転換しようというアイディア、すなわち「環日本海経済圏」が、冷戦構造が崩壊するのとともに唱えられた。だが現実には、ロシア極東や中国東北部にしても国の中では後進的な地域なので、結局環日本海諸国は海を挟んで背中合わせに向き合うような格好になり、環日本海経済圏といったものも必ずしも確固たる実態を備えるに至っていない。一方、黒海にも「裏ヨーロッパ」的なイメージがあり、それを地域協力で成長の海に転じようという動きが生じ、その一環としてBSECも誕生したのだろう。ただ、いかんせん重要分野ではマルチの枠組みは機能せず、せいぜい人的交流に留まっているというところなのではないか。以上が環黒海と環日本海が似ていると思われる点なのだけれど、当然違うところもある。日本海の方は昔よく「日本の資金と技術、ロシアの資源、中国の人的資本を組み合わせれば」云々と言われたように、ある程度相互補完関係がある。それに対し、黒海の方はわりと似たような水準の新興国の集まりであり、しかもそれぞれがネーションビルディングの最中なので、どうしても協力し合うよりも、各自がそれぞれの発展を目指して張り合いがちということがあると思う。なお、もう一つ、海をめぐる国際関係として、私の守備範囲の中には環バルト経済圏というものもあるのだけれど、環バルトの方は成熟した国が多いので、コンセプトが先走って空回りするようなことはあまりなく、各分野で堅実に協力関係が進められている印象である。

狭いボスポラス海峡を抜けて黒海に進入していく船舶

 私にしても、黒海諸国がどのような課題に直面しているかはだいたい知っているつもりだし、その改善に日本がどのような貢献ができるかということであれば多少語ることはできる。しかし、それはあくまでも各国ごとの取り組みであり、日本が関与するとすれば多国間ではなくバイにならざるをえず、したがってそこにおけるBSECの実質的な役割は想定しにくい。大きな風呂敷を広げるよりも、私としては現実に黒海を取り巻くエリアで生じている経済の実態に目を向け、とくに地域のレベルに着目し、そこから日本の国なり企業なりにとっての機会を見出す努力をしたい―――私は、研究者としての良心から、このような立場しかとることができないのだが、国際機構および国の主導的な役割、多国間主義を建前とする会議のベクトルとずれてしまい、結果的に私は浮いてしまった。

 ただし、私にしても、BSEC、そして日・黒海地域対話の「フォーラム」としての役割には、きわめて大きなものがあると考えている。つまり、問題を実効的に解決できるかは別として、関係国の政策担当者や学者が定期的に集うこと自体に大きな意義があると考えるのだ。今回の会議で、あるBSEC関係者が、「バイラテラルの関係によって成り立っている黒海地域で、BSECは唯一マルチラテラルの枠組みだ」と主張しておられた。まさにそれゆえに、BSECはフォーラム機関として存立しているというのが、今回の会議で私が得た結論である。

(2013年3月10日)

チェリャビンスク州ならオレに任せろ

 いや~、昨日のチェリャビンスク州を中心とするロシア・ウラル地方の隕石落下には、驚いたねえ。天文学的に言えば、ある程度の確率で起こりうる現象なんだろうけど、人類の多くが手軽に動画を撮るようになってから、このように比較的人口の多いところに落ちたのは初めてのはずで、それだけに多くの「衝撃映像」が伝えられ、ニュースのインパクトが大きかった。

 それで、世界の注目が集まってしまったウラルのチェリャビンスク州だが、再三申し上げているとおり、私は『世界地名事典』の仕事でウラル地方の地名に関する記事を書く作業をこのところずっと続けていて、その中には当然チェリャビンスク州の地名も含まれる。そこで、事典用に書いた記事を抜粋する形で、チェリャビンスク州というのがどういうところかご紹介し、今月のエッセイに代えさせていただきたい(何しろ、この原稿、いつ日の目を見るか、まったく見通しが立たないからねえ…)。昨日の報道ステーションで内藤特派員が、いかにもウィキペディア読み上げましたみたいなコメントをしていて、しかもチェリャビンスク市の人口を誤って1,000万人などとおっしゃっていたが、それよりはマシな情報だと思う(内藤さんご自身は優秀な特派員だと思いますよ、ハイ)。

 チェリャビンスク州

 ロシア連邦ウラル連邦管区に所在する州。2010年現在、人口347.6万人。面積は8万8,500平方キロメートル。ロシアに83ある連邦構成主体の中で、9番目に人口の多い地域であり、全国の人口の2.4%を占める。ロシアの中でも都市化が進んだ地域で、2010年現在、都市人口が82.0%、農村人口が18.0%となっている。州都はチェリャビンスク市。モスクワ時間を2時間進ませたエカテリンブルグ時間を採用している。

 州は、ウラル山脈南部の東麓に位置する。州の主要河川は、ミアス川、ウイ川、ウラル川など。州の大部分はオビ川の流域に当たる。また、州内には3,748もの湖があると言われ、もともとは大変に風光明媚な土地だ。

 州は、北でスヴェルドロフスク州と、東でクルガン州と、南でオレンブルグ州と、西でバシコルトスタン共和国と接している。また、南東部でカザフスタン共和国のコスタナイ州と国境を接しており、その国境線は869kmに及ぶ。なお、チェリャビンスク州はしばしば、「南ウラル」という雅称で呼ばれる。

 ロシアの地理分類によれば、州はヨーロッパとアジアに跨っているとされる。ズラトウスト市から8kmのウルジュムカという鉄道駅の近くには、欧亜の境界を示すオベリスクが立っている。チェリャビンスク州の主要都市では、ズラトウスト、カタフイヴァノフスク、サトカがヨーロッパに、チェリャビンスク、トロイツク、ミアスがアジアに、そしてマグニトゴルスクがヨーロッパ・アジアに跨って位置しているとされている。

 チェリャビンスク州は、鉱物資源に恵まれている。なかでも最も重要なのが鉄鉱石であり、マグニトゴルスク、バカル、ズラトウストの各鉱床で採掘が行われている。バカル鉱床では、2世紀半にわたる開発で、すでに1.5億tの鉱石が採掘されているが、いまだ12億tの埋蔵量が残されているという。州ではこのほか、銅およびニッケル鉱石、褐炭、建材材料などの鉱物が産出されている。ミアス市近郊には、イリメヌイ山地があり、チタンの原料となるチタン鉄鉱はこの山地で初めて発見されたので「イルメナイト」と名付けられた。ミアスの名をとった「ミアスカイト」という鉱石も産出する。イリメヌイ山地はその地質学的な価値ゆえに1920年に国立の自然保護区「イリメヌイ」(303.7㎢)に指定されたが、これはソ連で最も初期に誕生した自然保護区の一つだった。

 州成立の歴史を振り返ると、ロシア革命後の1919年9月、ソビエト政権はチェリャビンスク市を中心とするチェリャビンスク県を設置した。同県は1924年11月に、ウラル州チェリャビンスク管区に改組された。さらに、1934年1月にチェリャビンスク州に改編され、現在に至っている。ソ連時代、とりわけ第二次大戦中に前線に近い欧州部から当地に多くの企業が疎開してきたため、チェリャビンスク州の産業は急激に発展し、国を代表する金属産業地域となった。

 その一方で、戦中から戦後にかけてチェリャビンスク州では、軍事・原子力関係の施設が建設され、それに従事する閉鎖都市の一群が誕生、それらはソ連時代には秘密都市であるがゆえにコードネームで呼ばれていた。特に、かつて「チェリャビンスク65」と呼ばれたオジョルスクの街は、チェルノブイリ、福島第一に次ぐ人類史上3番目の規模の核事故とされる1957年の「ウラルの核惨事」で悪名高い。プルトニウム製造工場「マヤーク」で起きた爆発事故であるが、この工場では当初、廃液をカラチャイ湖やテチャ川に投棄しており、地域に深刻な放射能汚染をもたらしてきた。森と湖が織り成す美しい自然の中に、汚染物質が垂れ流されているという、チェリャビンスク州の矛盾した姿を見て取ることができる。放射能ではないが、製鉄所の周囲では、製鋼スラグが山積みで放置されている現状もあり、同じく鉄鋼の街である日本の北九州市がその有効利用に向け技術支援に乗り出している。

 最新の2010年の国勢調査によれば、州の主要都市の人口は、チェリャビンスク113.0万人、マグニトゴルスク40.8万人、ズラトウスト17.5万人、ミアス15.2万人、コペイスク13.8万人、オジョルスク8.2万人、トロイツク7.9万人、スネジンスク4.9万人、サトカ4.5万人、チェバルクリ4.3万人など。また、州の民族構成は、ロシア人83.8%、タタール人5.4%、バシキール人4.8%、ウクライナ人1.5%、カザフ人1.0%などとなっている。

 経済に着目すると、2010年現在の地域総生産の部門構造は、製造業36.5%、商業13.9%、運輸・通信11.2%、不動産・ビジネスサービス7.1%、農林業6.2%、行政・安全保障・社会保障5.4%、建設5.1%などとなっており、圧倒的に製造業優位の構図である。さらに、製造業の出荷額の内訳を見ると、冶金62.8%、食品・飲料8.8%、建材6.5%、輸送機器5.3%、機械・設備4.2%などとなっており、いかに冶金への依存度が高いかが見て取れる。2010年の時点で、チェリャビンスク州の製造業出荷額はロシアで6番目に大きく、全国の4.0%を占める。2011年のチェリャビンスク州の銑鉄生産量は1,320万t(ロシア全体の27.4%)、完成鋼材生産量は1,610万t(同27.1%)、鋼管生産量は115万t(同11.5%)であった。

 2002年に制定された州の紋章は、深紅の背景に、荷を背負った銀色のラクダが歩くという図柄となっている。ラクダは古来この地を交易路が通っていたことを象徴するとともに、知恵、長寿、記憶、忠誠心、忍耐、力などを表している。

2010年に視察したチェリャビンスク管圧延工場の生産風景

 次に、州都のチェリャビンスク市の概要を、ご紹介しよう。

 チェリャビンスク

 ロシア連邦チェリャビンスク州の州都。2010年現在、人口は113.0万人で、これはロシアの都市の中で9番目に大きい。

 市はウラル山脈南部の東麓に位置し、市内をミアス川が流れる。地元では、このミアス川より西がウラル地域、東がシベリアとされており、川にかかる橋が「ウラルとシベリアの架け橋」と呼ばれたりする。市はシェルシニ貯水池と、スモリノ、シネグラゾヴォ、ペールヴォエの3湖に囲まれている。チェリャビンスクはウラル連邦管区の中心都市であるエカテリンブルグから南に199kmの距離にある。

 チェリャビンスクという地名の語源に関しては、いくつかの説がある。代表的なものとしては、チュルク語で皇子を意味する「チェレビ」という名から来たという説、バシキール語で窪地を意味する単語から転じたという説などがある。

 ともあれ、バシキール人のチェリャブイという村に、1736年に砦が築かれたことが、チェリャビンスクという街の始まりだったとされている。この砦は1787年に「チェリャビンスク要塞」と名前を変え、それに伴ってチェリャビンスクには市のステータスが与えられた。この当時のチェリャビンスクは単なる田舎町であったが、1788年にはステパン・アンドレエフスキーを長とする医師団が当地で炭疽症の研究に取り組み、この感染症を「シベリア潰瘍」と名付けるとともに、その治療法を開発するという、人類史上に残る出来事もあった。18世紀にミアス川では砂金の採取が始まり、ちょっとした「ゴールドラッシュ」に沸いた時期もあった。

 チェリャビンスクの本格的な発展が始まるのは、19世紀末に鉄道が開通して以降である。1892年、シベリア横断鉄道のチェリャビンスク駅が誕生した。1896年には、北のエカテリンブルグとを結ぶ鉄道路線も稼働。交通の便が改善されたことで、チェリャビンスクは短期間のうちに穀物、油、食肉、茶の取引で枢要な位置を占めるようになり、19世紀末には穀物取引でロシア随一の取引地となった。人口も、1897年の2万人から、1917年には7万人に急増した。

 ロシア革命を経て、ソビエト政権は1919年9月にチェリャビンスク市を中心とするチェリャビンスク県を設置、同県は1924年11月にウラル州チェリャビンスク管区に改組され、さらに1934年1月にはチェリャビンスク州となった。1936年には、政治家ラザリ・カガノーヴィチの名をとって、チェリャビンスクをカガノヴィチグラードと改名することが検討されたという。

 1929~1933年の第1次五ヵ年計画期に、チェリャビンスクはソ連を代表する工業都市となり、街にはトラクター、研磨剤、合金鉄、工作機械、亜鉛精錬などの工場が林立するようになった。その成長をさらに決定的にしたのが、第二次大戦だった。1941年に前線に近い欧州方面から当地に200以上の企業が疎開し、それがもともと当地に立地していた企業と融合する形で、チェリャビンスク鍛造・プレス工場、チェリャビンスク冶金コンビナート、チェリャビンスク管圧延工場といった巨大企業が誕生した。

 とりわけ特筆すべきは、第二次大戦でのナチス・ドイツに対する勝利に、チェリャビンスクの軍需産業が果たした役割である。レニングラードとハルキウの工場がチェリャビンスク・トラクター工場に疎開して、戦車の一大生産拠点が誕生、同工場では赤軍を勝利へと導くことになるT-34戦車が6万台も生産された。また、コリュシチェンコ記念工場(現在はチェリャビンスク建設・道路機械工場)では、有名なカチューシャ自走式多連装ロケット砲が開発・生産された。戦時中にチェリャビンスクは非公式に「タンコグラード(戦車の街)」と呼ばれるようになり、1941~1945年には中央官庁の一つである戦車産業人民委員部までもが当地に居を構えていた。1943年8月から1958年6月にかけて市はロシア共和国の直轄都市となっていた。

 戦後も、チェリャビンスクの工場群はソ連の復興に大きな役割を果たした。都市計画によって街の相貌も変容していく。各工場の近代化も進み、1956年に管圧延工場では世界最大の電気溶接設備を導入、冶金コンビナートでは18もの新ラインが導入され、ソ連鉄鋼業の代名詞とまで呼ばれるようになった。1976年に総合大学のチェリャビンスク国立大学が開校するなど、文化・教育面での充実も図られた。

 現時点で、チェリャビンスク市は行政上、カリーニン、クルチャトフ、レーニン、冶金、ソビエト、トラクター工場、中央の7地区に分かれている。最新の国勢調査によれば、民族構成は、ロシア人86.5%、タタール人5.0%、バシキール人3.1%、ウクライナ人1.4%などとなっている。

 ソ連解体後、市場経済への移行に伴う混乱もあったものの、今日でもチェリャビンスクはロシア屈指の工業都市であり、2010年現在その鉱工業出荷額はロシアの都市の中で第9位とされている。市の中心産業は何と言っても鉄鋼業であり、チェリャビンスク冶金コンビナート(今日では大手グループのメチェル傘下)、チェリャビンスク管圧延工場、チェリャビンスク電気冶金工場、チェリャビンスク亜鉛工場(ウラル鉱山冶金会社の傘下)などの大工場が軒を連ねている。そのほか、製菓・ビール・ソフトドリンクなどの食品・飲料産業もあり、チェリャビンスク・トラクター工場などの機械メーカーも健在である。

 金属産業を中心に近代になって急激に成長した街だけに、一般受けするような観光の見所は、特にない。むろん、さすがは百万都市で、演劇劇場、オペラ・バレエ劇場、コンサートホール、州立地誌博物館と、文化施設は立派なものが揃っている。代表的な建築遺産である正教会のアレクサンドル・ネフスキー聖堂は、社会主義時代の1986年にパイプオルガンのコンサートホールに転換されている。前出のチェリャビンスク国立大学を筆頭に、市内には約30の高等教育機関が所在する。スポーツでは、アイスホッケー・クラブの「トラクトル」が国際的にその名の轟く強豪であり、コンチネンタル・ホッケーリーグのレギュラーシーズンで優勝経験もある。それに比べると、サッカークラブのFCチェリャビンスクの実力は、だいぶ見劣りがする。

 2000年に制定された市の紋章は、銀色の煉瓦塀の前で、荷を背負った金色のラクダが歩くというデザインとなっており、1782年の古い紋章をほぼ踏襲している。ラクダは古来この地を交易路が通っていたことを象徴するとともに、知恵、長寿、記憶、忠誠心、忍耐、力などを表している。米国のサウスカロライナ州コロンビア、英国のノッティンガムシャー、イスラエルのラムラ、中国のウルムチと姉妹都市になっている。

チェリャビンスク市中心部の風景

 最後に、今回の隕石墜落の際にその模様が間近で目撃され、また負傷者などの被害が出たチェリャビンスク州内の都市についての情報をお伝えしたい。報道によれば、ズラトウスト、ミアス、コペイスク、チェバルクリ、サトカ、コルキノ、エマンジェリンスクなどが被害を受けたようだ。

 ズラトウスト ロシア連邦チェリャビンスク州に所在する市。2010年現在、人口17.5万人。街の中心をアイ川が流れている。北東にクルグリツァ山を臨む。ロシアでは、ウラル山脈がヨーロッパとアジアの境界線を成すと考えられている。ズラトウスト市から南東に8kmのウルジュムカという鉄道駅の近くには、その境界を示すとされるオベリスクが立っている。ズラトウスト自体は、ヨーロッパ側に位置付けられている。街は1754年、トゥーラの産業家であるモロソフ家が当地に製鉄所を建設したことに伴い誕生した。製鉄所には正教会の聖人である「金口イオアン」の名が冠せられ、「金口」とは説教の名人で「黄金の口」を持つという意味だが、それをロシア語で「ズラトウスト」と言うので、街の名もズラトウストとなった。ただ、そもそもなぜ工場に金口イオアンの名を冠したのかは、謎なのだそうだ。1815年に街には兵器工場が建てられ、刀剣が生産されるようになったが、初期にそれを担ったのはドイツのゾーリンゲンから連れてこられた職人だった。1857年には火器工場も立てられ、ロシアで最初の鋼鉄製の砲弾が当地で生産された。銃刀に装飾を施す技術の延長で、19世紀初頭以降、ズラトウストは金属版画の一大中心地となった(その創始者であるイヴァン・ブシュエフの銅像が、ズラトウスト市内に建てられている)。1865年に街には市制が導入された。ズラトウストは、チェリャビンスク州の鉄鋼業を支える鉄鉱石産地の一つである。オルロフスキー、テシミンスキー、タガナイスキー、セミブラーツキー、アトリャンスキーという大規模な採掘場が、街にすぐ隣接して所在しているのが特徴である。そして、その資源を活用した鉄鋼業が今日でもズラトウストの産業の中心となっている。「ズラトウスト冶金工場」がその担い手であり、多様な鋼材および金属製品を生産しているが、大手企業グループに属していないので、設備は前近代的な平炉のままである。なお、かつてのチェスの世界チャンピオンであるユーリー・カルポフはこの街の生まれであり、幼少期にズラトウスト冶金工場のチェスクラブでその腕を上達させた。もう一つの重要企業が「ズラトウスト機械工場」で、同社はロケットのユニットの生産を主力とし、近年では電気コンロなどの民生品も生産している。1815年創設の「ズラトウスト武器工場」もいまだ健在で、凝った装飾のナイフや刀剣類を生産している。このほかの有力企業としては、建材生産用の機械設備を生産する「ストロイテフニカ工場」社、「ズラトウスト鉄骨工場」、戦時中にモスクワから疎開してきた時計工場をルーツとする「ズラトウスト時計工場」などが挙げられる。国立の演劇劇場、地誌博物館と、一通りの文化施設は揃っているが、金属産業を中心とした工業都市であり、市内に観光名所のようなものがあるわけではない。同市の近郊に残る森林地帯を中心に、国立公園「タガナイ」が1991年に指定されており(クルグリツァ山もその中にある)、郊外の自然にこそ見所がありそうだ。1966年に制定された市の紋章は、赤色の取鍋の形をした盾に、金色のペガサスを描いたもので、取鍋は冶金工業を象徴する。

 ミアス ロシア連邦チェリャビンスク州に所在する市。2010年現在、人口15.2万人。街は1773年に誕生。機械産業が中心でGAZおよびロスコスモス傘下の企業が立地している。市の近郊には、国立の自然保護区「イリメヌイ」が設けられている。自然保護区は、地質学的な価値が認められてい制定されたものだが、産出される鉱石の中には、この街の名の付いたミアスカイトという石もある。

 コペイスク ロシア連邦チェリャビンスク州に所在する市。2010年現在、人口13.8万人。州都のチェリャビンスク市中心部から東にわずか十数kmの地点にある。街の南東にはクルラドゥイ湖が広がる。元々この地にはトゥガイクリという集落があり、その地に1736年にチャリャバ要塞が築かれ、それが今日のチェリャビンスク市に発展していったという歴史がある。一方、当地においては、1907年に炭鉱が開設され、これが街の誕生年とされている。当初、集落は炭鉱を意味する普通名詞で「コピ」と呼ばれていたが、1933年にそれが都市名らしく「コペイスク」と改められ、同時に市に昇格することとなった。新生ロシアの時代になり、2004年に周辺の集落を吸収して人口が拡大した。街のルーツとも言える炭鉱は、品質と採算の問題で、1990年代にすべて閉鎖された。今日では、砲弾、ポリエチレンフィルム、鋼管の分岐や腐食防止、鉱山機械などの生産を手掛ける各工場が経済の中心となっている。コペイスクの郊外にはいくつかの刑務所があるが、そこで何度か看守が服役者に暴行を加える事件が起き、問題となっている。

 チェバルクリ ロシア連邦チェリャビンスク州に所在する市。2010年現在、人口4.3万人。市の周辺には多数の湖があり、特に市街地の西側には同名のチェバルクリ湖が広がっている。チェバルクリという地名はチュルク系の言語で「美しい、斑色の湖」という意味。18世紀、この一帯はロシア人とバシキール人の境界地域だったわけだが、1736年にロシアがこの地に砦を築いたことが、街の始まりとされている。チェバルクリの砦はロシアの南東国境を防衛するとともに、南ウラルのコサック軍の兵站基地となり、コサックの一大駐屯地へと発展していった。1892年にサマラ~ズラトウスト間の鉄道路線が開通し、当地にも駅が建てられた。チェバルクリ・コサック軍は1904年の日露戦争にも参戦した。ソ連時代になり、第二次大戦中にモスクワ州のエレクトロスターリ市から当地に工場が疎開してきた。それが発展して出来た「ウラリスカヤ・クズニツァ」社が、今日でも市の工業生産の大半を担う中核企業となっている。同社は、2003年に大手企業グループ「メチェル」に吸収されたが、機械および航空機向けの鋳物、鍛造品、溶接部品などの生産を継続している。このほか、クレーン、バーミキュライト製品、鉱滓レンガ、縫製、家具、食品、木材加工などの工場がある。2002年に近郊のネプリャヒノ村で金の採掘が始まった。チェバルクリ地区の一部は、1920年に創設された国立の自然保護区「イリメヌイ」(に含まれている。

 サトカ ロシア連邦チェリャビンスク州に所在する市。2010年現在、人口4.5万人。この地は歴史的にはバシコルトスタンの領域であり、サトカという地名も川の交差を意味するsatから来たという説が有力。帝政ロシア時代、この地に企業家が移り住み、1758年に製鉄所を開設したのが、街の始まり。1824年には皇帝アレクサンドル1世がこの地を行幸したこともあった。1898年製鉄所のサリニコフという研究者が、付近の山で見付けた鉱石の成分を分析したところ、当該鉱物(マグネサイト)が耐火性を有し金属精錬に利用できることを発見、これがその後のサトカの歩みを大きく決定付けた。マグネサイトを採掘する鉱山が開設され、街には耐火煉瓦製品を生産するマグネジト社が設立された。1905年には、その耐火煉瓦製品が、万国工業博覧会で金賞を受賞している。多くの労働者が移り住み、20世紀初頭の時点で人口は1万人を超えた。今日でも、マグネジト・コンビナートと、製鉄所のサトカ冶金工場が、街の経済の中核を担っている。鉱山と製鉄所の城下町ゆえ、観光の見所のようなものは特にないが、マグネジト・コンビナートが保有している全長20kmの専用鉄道は、ロシアではきわめて稀な狭軌鉄道であり、知る人ぞ知る存在となっている。郊外には美しい自然が残っており、国立公園「ジュラトクリ」として1993年に指定されている。

 コルキノ ロシア連邦チェリャビンスク州に所在する市。2010年現在、人口3.9万人。州都のチェリャビンスク市からは南に30kmあまりの距離で、チェリャビンスク~トロイツクを結ぶ鉄道および幹線道路沿いに位置する。コルキノという地名のルーツについては、この地に逃れて居を構えたコルキンという名の盗賊から付いたという説が有力となっている。街の誕生年は1795年とされ、ソ連時代の1942年に市に昇格した。1931年、街に隣接してコルキノ炭鉱が開設され、今日でも操業を続けている。最近では、段ボール生産の「ユジウラルカルトン」社、ビン類を生産する「コルキノ・ガラス工場」などが主要企業となっているほか、自動車修理および運送、貨車修理、縫製、製菓、乳製品、建材などの企業もある。

 エマンジェリンスク ロシア連邦チェリャビンスク州に所在する市。2010年現在、人口3.0万人。街の始まりは、1770年にエマンジェリンカ川に面して要塞が築かれたことだった。街の名前はこのエマンジェリンカに由来するが、これはバシキール語の「悪い川」という語から来ているとのことである。ソ連時代になって、1930年代に石炭採掘のための集落が築かれ、1951年にそれがエマンジェリンスク市となった。しかし、新生ロシアの時代になると、石炭産業のリストラが始まり、1997年に炭鉱は閉鎖された。今日では、機械(トラクターのユニットを生産)、配合飼料、縫製、レンガなどの工場があるが、基幹産業の石炭を失ったことで地域経済は沈滞している。鉄道、道路で州都チェリャビンスクと結ばれており、交通の便は悪くない。対カザフスタン国境から近いことから、国境貿易の推進が期待される。

 最後に、上でチェバルクリという街を取り上げたが、隕石の一部がその街の西側にあるチェバルクリ湖に落ちたらしいので、湖についての記事もオマケでご提供する。

 チェバルクリ湖 ロシア連邦チェリャビンスク州にある湖。ウラル山脈南部の東麓、標高320mの地点に位置し、同名のチェバルクリ市の西隣にある。チェバルクリとはチュルク系の言語で「美しい、斑色の湖」を意味する。南ウラルには他にも同名の湖が複数存在するが、このチェバルクリ湖が最大のものであり、一般にチェバルクリ湖と言えばこれを指す。周辺の湖沼地帯を総称して「チェバルクリ諸湖」と呼ぶ場合もある。湖には、エロフカ川、クドリャシェフカ川、クンドゥルシャ川が流入している。一方、湖からは、コエルガ川が流れ出ている。

 (2013年2月16日)

街に歴史あり:オレンブルグの雑学

 ブログの方に再三書いているのだが、現在『世界地名事典』という出版企画で、ロシアのウラル圏の地名に関する記事を書く仕事をしている。具体的には、ペルミ地方、バシコルトスタン共和国、オレンブルグ州、スヴェルドロフスク州、チェリャビンスク州、クルガン州が私の守備範囲である。これがなかなか大変な仕事で、300近い記事を書かなければならないので、12月から1月にかけてのプライベートの時間はほぼすべてそれに費やしているような感じだ。なので、今月のエッセイも、地名事典絡みというか、その記事の部分的流用でご勘弁いただきたい。

 私は、なるべく機会を見付けて、ロシアの地方都市を訪問することを心がけている。むろん、そこには自ずとプライオリティがある。人口の多いところ、経済面で重要なところを優先することになる。そうした観点から言うと、今回私が担当しているエリアの中で、オレンブルグという街などは、決して優先順位が高いとは言えない。オレンブルグ州の州都ではあるが、人口は55万人と平凡。産業面でも、ガスプロムが天然ガスの採掘に従事していることを除けば、全国区の大企業などがあるわけではない。文化・観光資源があるようにも思えない。何か特別な用事でもない限り、自分から進んで訪問してみようという気には、なかなかなれない。実際、私もまだ行ったことはない。

 しかし、今回『世界地名事典』の原稿執筆に取り組んでみて、つくづく思った。一見つまらなそうな地方都市でも、調べてみると、面白い事実やエピソードが出てくるものだ、と。まさに「街に歴史あり」という思いがする。このオレンブルグについても然りで、「へえ、そうだったのか」というトリビアを色々と発見した。以下では、そのうち4つほど紹介したい。

 雑学その1:オレンブルグは元々250kmも離れた場所に建設された

 帝政ロシアは18世紀前半、ウラル山脈南部に進出する過程で、遊牧民の来襲に備えるべく、オーリ川がウラル川に合流する地点に、要塞を建てた。それが1735年のことであり、要塞は最初、「オーリ川の要塞」という意味で「オレンブルグ」と名付けられた。ところが、その要塞は1739年に「オルスク」と改称され、これが今日のオルスク市になった。一方、オレンブルグという要塞はウラル川を下った別の場所に移されることになった。その計画は1741年にいったん頓挫し、1743年に再度試みてようやく成就した。かくして1743年に、最初の「オレンブルグ」からウラル川を250kmも下った場所に、今日のオレンブルグが誕生したわけである。

 写真は、(たぶん)ウラル川を背に立つ、後述のチカロフの銅像。なお、私はオレンブルグに行ったことがないので、以下写真はすべて市行政府等のウェブから拝借したもの。


 雑学その2:ロシアの国民的詩人と初のロシア語辞典の編纂者がオレンブルグで…

 1773~1775年の「プガチョフの乱」では、オレンブルグはプガチョフの軍勢に半年間も包囲され、甚大な被害を被った。初のロシア語辞典を編纂することになる学者ウラジーミル・ダーリは、1833年から1841年にかけて当地に住み、官職に就いていた。1833年、のちにロシアの国民的詩人・作家と讃えられるようになるアレクサンドル・プーシキンが、『プガチョフ反乱史』執筆のための資料収集などの目的で当地を来訪した際には、知己の間柄のダーリが反乱ゆかりの場所を案内して回ったという。のちにそれは、プーシキンの最高傑作である『大尉の娘』にも活かされることになる。オレンブルグ市内にはプーシキンとダーリが並んで立っている銅像が据えられている(写真)。


 雑学その3:カザフスタンはオレンブルグで誕生した

 カザフスタンの草原地帯と、バシキール人の領域とが交差する地点に当たり、なおかつロシア人のオレンブルグ・コサックの中心地でもあったオレンブルグは、ロシア革命とその後の内戦に際して、ユニークな役割を果たすことになる。1917年に、「全キルギス大会」が開催され(現在のカザフ人のことを当時はキルギス人と呼んだ)、民族自治の問題が討論・決議された地は、オレンブルグであった。同じく1917年に、「全バシキール大会」が開かれ、バシキール人の民族自治が宣言された地も、やはりオレンブルグであった。1920年8月に、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の枠内でのカザフ人の自治単位である「キルギス自治社会主義ソビエト共和国」が創設された際に、オレンブルグが首都となったのも、自然な成り行きであった。なお、同共和国は1925年4月に「カザフ自治社会主義ソビエト共和国」に改編され、首都もキジルオルダに(その後さらにアルマトィに)移された。その際にオレンブルグの領域はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に留まり、1934年12月にオレンブルグ州が創設された際にオレンブルグ市はその州都に指定され、現在に至っている。写真は全然関係ないけど、オレンブルグ歴史博物館。


 雑学その4:チカロフはチカロフ市には住まなかったが、ガガーリンは住んだ

 ソ連時代になると、オレンブルグでは人口が急増し、また第二次大戦中に欧州方面から内陸の当地に多くの工場が疎開してきたこともあって、工業化が進展した。なお、1938年から1957年までは、ソ連の高名な飛行士ヴァレーリー・チカロフにちなんで街は「チカロフ」に改名されていたが、この人物がオレンブルグと特別な関係があったわけではない。ただ、人類史上初の宇宙飛行士であるユーリー・ガガーリンは、この街が「チカロフ」だった時代に当地の航空学校で学び、家庭も設けている。かつての家は、現在は記念館になっている(写真はそれがある通りの様子)。また、オレンブルグの国際空港は、2011年に「ユーリー・ガガーリン空港」と名付けられた。

 (2013年1月19日)