愛しき達郎&まりや

 2014年は私にとって、人生で最も奇妙な1年だった。いやぁ、本当に色んなことがありました。

 もちろん、一番大きかったのはウクライナ危機と、そこから派生したロシアの混迷。地味キャラの私としては珍しく、春から夏にかけては多少マスコミに露出したりもしたし、秋には3つもの学会で共通論題報告をさせていただくことになった。したがって、研究者として充実していたと言えないことはないのだけれど、自分が研究し、愛着も持っていたウクライナという国が壊れてしまったのはショックで、それに伴ってプーチン体制のロシアが何やら「本性」のようなものを見せ始めたことにも、衝撃を受けた。

 もっとも、個人的な死活問題としては、我がクラブの清水エスパルスがJ2降格危機に陥り、結果的に薄氷の残留を果たしたということが、一番の出来事だった。あくまでも私的なことなので、日頃はあまり多くを語ろうとは思わないが、ちょっとだけブログには書いてみた

 そんな、ウクライナ危機とエスパルス危機に引き裂かれる思いの1年だったが、もちろん楽しいこと、思い出深いこともあった。これまた、大方の皆さんにはまったく関心外だと思うが、本年最後のエッセイは、そんな楽しかった出来事について。

 私はかれこれ30年以上、山下達郎さんの熱心なファンであり、ここ最近は達郎さんの全国ツアーに合わせて地方旅行に出かけるのが趣味の一つになっている。2014年には、福島県郡山の公演を鑑賞し、その流れで初めて宮城県を旅行することができた(その模様に関しては10月のエッセイで述べた)。その後も、10月には島根県の松江に遠征し、足を伸ばして出雲も観光してきた。結局、本年のツアーは、7月25日のパルテノン多摩の初演から始まって、9月の郡山、10月の島根、そして大阪の千秋楽と、4公演を満喫させていただいた。そして、本年は何と、滅多にステージに立たない奥様の竹内まりやさんのコンサートツアーも行われ(33年振り!)、それも追いかけることになった。11月22、23日の広島2日公演を皮切りに、札幌、そして12月21日の武道館千秋楽と、こちらも計4公演を楽しませていただいた。

マニアックツアー千秋楽、大阪の夜にかかったナイアガラ・ムーン、
じゃなくて、この夜は皆既月食だった。

 本年の達郎さんの全国ツアーは、「マニアックツアー」と銘打ち、普段あまり演奏していない渋い曲を披露するというのがコンセプトだった。とりわけ、挑発的とも言える冒頭4曲の流れ、「SPACE CRUSH」「甘く危険な香り」「雨の女王」「ピンク・シャドウ」という4連発は、ファンにとってはたまらない選曲で、「殺す気か?」というくらいの感動を味わった。初演の時に受けた印象については「雨の女王」を軸にこちらのブログに記したが、個人的にはとにかく「ピンク・シャドウ」にやられたよなあ。何だよ、あのキレは。何で、20代の頃より上手くなってんだよ。まったくもって恐ろしいバンドだ。自分が観た4公演、どれも素晴らしかったが、一番良かったのは島根公演で、出雲大社のお膝元だけに、本当に神が降りたのかと思った。島根県民会館は、なぜか音が無茶苦茶良く、コーラスなどのディテールがビビッドに伝わってきて、最高だった。そう言えば、私の隣の席の人は10本以上観たと言っていたけど、その人も「島根が一番良かった」と言っていた。

神が降りた、島根県民会館。

 今回のマニアックツアーの影のテーマは、大瀧詠一さんの追悼だった(考えてみれば、大瀧さんが2013年12月30日に突然亡くなり、自分にとってはそこから奇妙な2014年が始まったような気がしているのだが)。マニアックツアーでは、これまた往年のバラード「夏の陽」が歌われ、ファンはそれだけでも感涙なのに、何と達郎さんはそこに大瀧さんの「君は天然色」の一節を挿入し、これはもう決壊である(事後の達郎インタビューによれば、この2曲はコード進行が同じで、たぶんキーも同じということだった)。さらに、恒例の「Let's Dance Baby」の曲中で披露されるメドレーも、今回は大瀧メドレーだった。世間には、「なぜ山下達郎は、世話になった大瀧詠一の追悼をしないのか」といった声もあったようだが、自らの作風を「趣味趣味音楽」と称した大瀧さんを追悼する上で、「マニアックツアー」でオマージュを示すということ以上の粋なやり方があるはずはなく、見事としか言いようがなかった。

 これはすでにブログに書いたけど、マニアックツアーでは、普段はほとんどステージにかからない「WAR SONG」も披露された。曲の前に達郎さんがMCで、「ウクライナの問題など、世界は相変わらず平和に程遠いが、それにしてもウクライナ問題が報道される際に『親ロシア派』という紋切型の言葉が繰り返されるだけで、誰もその本質を説明してくれない」と苦言を呈していた。すいません、自分もその責任者の一人ですと、観客席で一人肩身の狭い思いをしていた(笑)。私は国際政治学徒として、達郎さんが発言していたことすべてに同意はできないが、それはともかく、とにかく「WAR SONG」の演奏は凄かった。それにしても、あの宮里陽太という人のソプラノサックスは、一体何なのかと思うよね。

 ところで、達郎さんのコンサートに合わせて島根に行ってみたいというのは、前々からの私の夢だった。というのも、奥様の竹内まりやさんは島根県出雲市の出身であり、実家が出雲大社の門前で老舗旅館を営んでいるというのは有名な話だからである。ちなみに、下の動画に見るように、まりやさんは故郷のために「愛しきわが出雲」という曲を書き下ろしている。島根で達郎コンサートを観たついでに、奥様のご実家の「竹野屋」に泊まるというプランを、以前から思い描いていた。10月に、それがついに実現した。

 というか、出雲の前に、県庁所在地の松江市が、非常に情緒ある城下町だったなあ。東京から朝の飛行機で松江に着いて、半日ほど観光し、夜はマニアックツアー。松江に一泊し、翌朝ローカル電車の一畑電車北松江線に乗って、出雲へ。

 まあ、今さら縁結びにすがろうという気もないのだけれど、せっかくなので出雲大社にお参りし、あとは古代出雲歴史博物館を見学したり、上掲の「愛しきわが出雲」にも出てくる稲佐の浜の景色を眺めたりして過ごした。

 さて、個人的にはむしろメインイベントというべき旅館「竹野屋」での宿泊なのだが、個人的にはこの旅館で確かめたいことがあった。竹内まりやさんが今年出したアルバム『TRAD』は、お蔭様で(←関係者か?)オリコンチャート1位を記録し、今年の日本レコード大賞最優秀アルバム賞にも輝いた。で、その『TRAD』のカバー写真は、下に見るように古びた木造階段に腰掛ける姿を捉えたものである。これを見て私は直感的に、「これは実家の旅館だな」と考えた。しかし、身内の宣伝を遠慮したのか、はたまたファンが殺到することを回避しようとしたのが、CDにも撮影場所は明記されていないし、まりやさんもそのことを積極的に発言することはなかったようだ。なので、自分の目でそれを確かめようと思っていたのである。実際、旅館に足を踏み入れると、くだんの階段はすぐにそれと分かった。なるほど、やっぱりそうだったか。自分も1枚、記念にパチリ(笑)。

 ただ、竹野屋自体は、ビックリするくらい普通の日本旅館で(笑)、ちょっと老朽化もしていた。温泉でもないし、出雲大社の目の前ということと、まりやさんの実家ということが売りの旅館だろう。和の建築には似つかわしくない、パステル色のまりやコーナーがあったけど、大したものは売ってなかったなあ。あと、「真夜中のナイチンゲール」と、「縁の糸」の歌詞の一節を記した書のようなものが飾られていたけど、こんな経緯もあるので、もしかしたら亡くなった緒形拳さんの筆によるものかもしれない(未確認)。

 一方、その竹内まりやさんの33年振りのツアーは、11月22日広島グリーンアリーナで開幕、12月21日の日本武道館で千秋楽を迎えた。個人的には、最新アルバム収録曲でぜひ聴きたいと思っていた2~3曲が披露されなかったのが少々残念ではあったが、達郎バンドに支えられたパフォーマンスは、文句なし。特に、終盤からアンコールにかけての流れが素晴らしく、アンコールでバンド演奏を披露したあと、本人とコーラス隊だけが残ってのアカペラの「リンダ」、達郎さんと2人でのデュエット「Let It Be Me」、そして最後の弾き語り「命の歌」と、だんだん人数が絞られていくというのが、すごい演出だった。評論家の萩原健太さんも、リンダが劇ヤバかったと言っていたけど、ホントそのとおり。マイった。

 自分と同時代の同じ国に、自分が一生添い遂げられるようなアーティストがいてくれた、その幸福を噛みしめる、2014年の大晦日でした。

(2014年12月31日)

コルィマ番外地

 先日お亡くなりになった高倉健さん。個人的に、一番真剣に観た作品は、「網走番外地」だと思う。10年くらい前だったか、主題歌の中古シングルレコードも買って、聴き込んだものだった。

 で、網走番外地で、私が連想するのが、しばしばコルイマ(Kolyma)の雅称で呼ばれるロシア極東のマガダン州である。正確には、コルイマという歴史的呼称は今日のマガダン州だけでなく、サハ共和国東部、カムチャッカ地方北部も含んでいるらしいが、一般的にはほぼマガダン州と同義で用いられている。ただし、雅称と言っても、そのイメージは「雅」とは程遠く、スターリン時代の忌まわしい過去、非人道的な強制労働の歴史と結び付いている。つまり、私の中では、オホーツク海に面した、荒涼たる囚われの地という共通点で、網走とマガダンのイメージが重なるのだ。私は2013年9月にマガダンを訪問して現地調査を行う機会があったので、このマンスリーエッセイで「コルィマ番外地」というのを書きたいと思っていたのだが、ちょっと時機を逸しかけていた。しかし、高倉健さんが亡くなってしまい、個人的に再び番外地モードになったので、今月のエッセイはマガダンで行ってみたい。

 まず、マガダンの地の概要を解説しておこう(州の位置は右の地図のとおり)。この一帯には17世紀頃からロシア人が進出していたが、20世紀に入ると帝政ロシアは貴金属の新たな産地を求め、チュコト半島およびオホーツク海沿岸地域への関心を強めた。ただ、最初に送られた何度かの探検隊は、金を発見することができなかった。1915年にスレドネカン川の流域で、単独の採掘者であるシャフィグリンが金を発見したのが、最初の成果であった。ソ連時代となり、1926年に派遣されたセルゲイ・オブルチェフの探検隊が、金の産出にとって有利な地形を確認。その2年後のユーリー・ビリビン率いる第一次コルイマ探検隊が、この一帯のより詳細な資源調査の嚆矢となる。他方、イヴァン・モロドゥイフ率いる調査隊は、当地一帯の水系に関する情報をもたらすとともに、ナガエヴォ湾に港を築いて、そこを内陸に向かう道路建設の起点とすることを提案した。これが後のコルイマ街道となる。

 1928年10月、オラ地区執行委員会は当地で先住民啓蒙のための東エヴェン(ナガエヴォ)文化基地を建設することを決め、1929年6月に住宅や公共施設の建設を開始、これを基盤として同年マガダン町が誕生した(1939年に市に昇格する)。1931年11月に国営トラスト「ダリストロイ」が創設され、これ以降、コルイマ街道の建設と、金の採取を軸とするコルイマ川上流域の開発が本格化していくことになる。特に、第二次大戦が始まってから1952年まで、ダリストロイの支配下で労働に従事していた人員は20万人前後で推移し、そのかなりの部分が囚人や元囚人であった。さらに、第二次大戦末期から戦後にかけて、日本人の将兵や民間人がソ連領に抑留された際には、マガダンもその受入地となった。日本人は金鉱などでの労働に従事させられ、多数の犠牲者が出た。

 1953年12月3日、ダリストロイの活動領域に対応するような形で、マガダン市を州都とするマガダン州が創設された。1930年12月に設置されていたチュコト民族管区も、1953年のマガダン州創設と同時に、同州に属すこととなった。なお、チュコト民族管区は、1980年にチュコト自治管区へと改組されている。ソ連解体後、1992年7月16日にチュコト自治管区はマガダン州から離脱し、ロシア連邦を構成する独自の構成主体となった。

 今日でもマガダン州はロシア有数の金・銀の産地である。2012年の金の生産量は20tで、これはロシア全体の約10%であり、全国で4位であった。また、2011年の銀の生産量は768tで、これはロシア全体の約38%であり、全国で1位であった。ゆえに、州を代表する大企業も、セレブロ・マガダナ社、オモロン金鉱会社、ススマンゾロト社といった金・銀採掘会社である。このほか、錫、タングステンの資源が豊かであるほか、モリブデン、石炭、石油、ガスコンデンセートも賦存している。従来、マガダン州はエネルギー資源を本格的な規模では産出していなかったが、近年オホーツク海大陸棚での石油開発プロジェクトが動き出そうとしており、それに日本企業が参画していることが注目される。また、州内でウスチスレドネカン水力発電所が稼働したことから、安価な電力への期待が高まり、日本の重工メーカーが州内での液体水素工場の建設を予定している。

 とまあ、お堅い文章で恐縮だが、ざっと以上が州の概要である。ちなみに、その誕生が比較的新しいにもかかわらず、マガダンという地名の語源は明らかになっておらず、多くの説が唱えられている。エヴェン語で海の堆積物を意味するmongodan、または枯れ木を意味するmongotから来たという説などが代表的なものである。なかには「マンハッタンに由来する」などと言う人もいるらしい。以下、マガダンの街のフォトギャラリーを少々。

空港は市街地からは結構離れている。

州行政府。上述のとおり1953年に州が創設されたので、60周年を迎えるところだった。

人文大学のマガダン支部。

驚くなかれ、マガダン市内には、結構立派な土産物屋があった。

こういう荒涼とした風景、嫌いじゃない。でも住みたくない。

 昨年9月に現地調査に赴いた際には、思いがけず、副知事と面談することになった。執務室に入ると、テレビカメラが入っていて、大汗をかきながらやり取りしたものだった。当方の目的はあくまでも調査なので、細かい具体的な質問を色々投げかけたのだけれど、儀典的な面会を想定していた先方は「なんだ、まるで雑誌インタビューみたいだな(笑)」なんて呆れ顔で、少々かみ合わなかった。まあ、田舎に行くと、ありがちなパターンですな。

 ともあれ、何とか行政府での聞き取りが終わったということで、解放感に浸りつつ、マガダン州地誌博物館を見学してみた。そうしたところ、マガダン州の負の歴史、上述の「ダリストロイ」管理下の強制労働に関する大規模な展示に出くわした(常設展示なのか、特別展示なのかは未確認)。以下、その写真をお目にかける。

ソ連全体の強制収容所の囚人数と、ダリストロイ傘下の収容所の囚人数。

ダリストロイの活動成果。1932~1956年に1,193tの金を採掘した。

 翌日、飛行機に乗るまでに時間があったので、ロシア科学アカデミー極東支部北東総合科学研究センターに併設された自然史博物館というところも見学してみた(以下の写真)。金などの鉱物に関心のある人にとっては、非常に見応えのある施設だと思う。素材の寄せ集めで、散漫なエッセイだったけど、とりあえず以上。

(2014年11月29日)

ローカル線と教会堂と萬画のよもやま話

 2011年3月11日に東日本大震災があり、多くの人達がボランティアなどで現地入りしたし、ある程度落ち着いてから被災地を旅行で訪れた人なども多いかと思う。しかし、行動力のない私にはまったくそうした機会がなく、この3年あまりで東北に出かけたのは、昨年の青森旅行だけだった。今般、遅れ馳せではあるが、ようやく被災地を訪れる機会があった。私の場合、好きなアーティストのコンサートを観に行くついでに(地方の方がチケットが取りやすかったりするので)、その地方を旅行するというのが、趣味の一つである。で、9月の上旬に福島県の郡山でコンサート観賞の機会があったので、ついでに足を伸ばして宮城県を旅行してみることにした。当方、日本の都道府県はすべて行ってみたいと思っているのだが、東北の中でなぜか宮城県だけ行ったことがなかった。福島県も、二十数年前に行ったきりであり、しかも回ったのは会津地方だけだった。なので、今回は夏休みを利用して、福島県の中でも未踏破だった中通りの郡山を散策するとともに、その延長上で宮城県旅行を敢行することにした。

安積歴史博物館(旧・福島県尋常中学校本館)

 さて、福島県郡山である。新幹線で郡山の駅に降り立つと、観光客で溢れ返っていた。ただ、あの人たちはたぶん、会津を観光してきた人たちで、郡山の街そのものは素通りなのだと思う。事前の情報収集では、郡山には観光名所も名物の食べ物も、何もないような話だった。ただ、実際に街歩きをしてみると、意外にそうでもなく、半日くらい散策するのにはちょうど良かった(ベラルーシの地方都市の行き過ぎで、基準が甘くなっているのかもしれないが)。上の写真は、かつての安積中の校舎を利用した安積歴史博物館。震災でだいぶ破損したが、このほど改修が完了し、ちょうどリニューアルオープンするところだった。それにしても、郡山が江戸期まで荒地で、明治に入って猪苗代湖から用水路を引いて灌漑し開墾したという話は知らなかった。

郡山市内の公園の前を通りかかったところ、
「除染を実施しました」という文字が目に飛び込んできた

 地方に旅行に出かけると、ローカル電車に乗るのが、楽しみの一つ。今回、郡山から仙台まで、新幹線ではなく、東北本線の各駅列車で移動するという無茶なプランを遂行した。郡山から仙台まで直通で行く列車は、きわめて数が少なく、早起きして7:06郡山発の列車に乗り込んだ。9:28仙台着ということで、2時間半近くを要したことになるが、まあ夏休みなのでのんびり行こう。

 仙台の循環観光バス「るーぷる仙台」というのに乗って、仙台市内を観光した。市内の主な観光地を巡るバスで、620円の一日券を買えば何度でも乗れるというやつである。ただ、当日は平日だったので、バスが30分に1本しか来ない。これだと、あまり効率的に時間が使えないし、乗ってみると通勤ラッシュのように激混みで、正直どうかなと思った。しかし、運転手さんの観光アナウンスみたいなものがあり、それがとてつもなく面白かった。まあ、当たり外れがあり、全員が全員面白いわけではないのだが、たまたま私が長い区間乗ったバスの運転手さんは、ほとんど神レベルの話芸で、感動してしまった。どんな職業でも、自分の仕事に情熱と誇りを持って取り組んでいる人は、素晴らしいものである。

 仙台市内では、瑞鳳殿、仙台市博物館、仙台城跡などを見学したが、そのあたりは私が説明するまでもないので、本エッセイでは華麗にスルー。楽天イーグルスの試合なんかも現地観戦してみたかったが、滞在時にはアウェーに出ており、残念だった。翌日、これまたローカル線の仙石線に乗り、松島海岸に向かう。ただ、よく調べもせずに列車に飛び乗ったら、多賀城で終点だった。松島海岸に行くには、22分後の別の列車に乗り換える必要があった。まあいいや、気まま旅だから。

 松島みたいな、ザ・観光地みたいなところは、久々に来た気がする。さすがメジャーな観光地は観光資源の質と量がすごい。ベタだけど、観光船に乗って、松島湾と嵯峨渓というところを見物。嵯峨渓というところ(下の写真)はちょっと遠く、省略されることも多いようだが、これを見ずして本当の松島を見たとは言えないのだとか。でも、ちょっと欲張りなコースなので、船がやたらスピードを出しており、少々怖かった。

伊達政宗ゆかりの瑞巌寺
海からすぐの場所にあるので、境内まで津波が押し寄せたようだ

 さて、気まぐれ旅なので、松島で一泊して、その先どうするか、事前には決めていなかった。石巻に行ってみようかなと漠然と思ってはいたが、現地で成り行きで決めようと思っていた。しかし、思い立つと、どうしても行きたくなる性分である。翌日、やはり石巻に出かけてみることにした。ただし、仙台と石巻を結ぶJR仙石線は、津波の被害を受け、松島海岸から先は不通となっており、そこから先の一部区間は代行バスでの移動となる。10:40松島海岸発の代行バスに乗り、11:22に矢本駅というところに到着、そこから改めて11:35発の電車に乗り換え、11:49に石巻に到着した。現地の方々はさぞご不便をなさっているかと思うが、ローカル線好きの当方としては仙石線に乗れたことに加え、途中をバスで乗り継ぐという、貴重な体験をさせていただいた。

この矢本駅から西の部分が不通区間

石巻駅前のタクシー乗り場だが、このあたりも浸水は酷かったようだ

 思い起こせば、3年半前の大震災を受け、このマンスリーエッセイのコーナーでも、仙台とミンスクのかかわり、久慈とクライペーダのかかわり、そして石巻の正教会教会堂の津波被害などについて語り、私なりにエールを送っていた。まあ今回は久慈は無理としても、ぜひ石巻は訪れて、特に津波を被ってしまった教会がその後どうなったかを、自分の目で見極めたいと思ったのである。

 その旧石巻ハリストス正教会教会堂は、旧北上川の河口近くにある中洲に位置し、有名な「石ノ森萬画館」と隣り合っている。ところが、現場に到着しても、教会堂らしきものが見当たらず、完全な更地になっている。津波で大きな被害は受けたものの、建物は何とか原型を保ったと聞いていたので、空き地になっているのを見て、愕然とした。そこで、石ノ森萬画館の係員にお聞きしたところ、教会堂は半壊状態で危険と判断され、今年の春頃に解体されたということだった。部材は保存されており、どこか別の場所に移築されるはずというお話だった。その後、本件につきフェイスブックに投稿したところ、現地事情に詳しい方から情報を寄せていただいた。すでに移築先も決まっているとのことだった。そもそも、教会堂は最初からここにあったのではなく、何十年か前にこの中州に移築されたということなので、必ずしもこの場所にこだわる必要はないのかもしれない。いずれにしても、個人的には解体される前にこの場所でその姿を見たかったものである。

写真の右手前辺りが教会堂の立っていた場所、 左奥のドーム状の建物が石ノ森萬画館

 ところで、以前のエッセイに書いたように、日本における正教会の分布を見ると、日本正教会の草創期に仙台の人士が活躍したこともあって、東廻り航路の拠点港である石巻の流通関連地域(河川流通:北上川流域、海運:三陸海岸)を中心とした宮城県北部から岩手県南部に多くの教会があるとされている。今回の旅行のお供に読んだ『あなたの知らない宮城県の歴史』という本に、そのあたりの事情が記されているので、紹介したい。

 同書によると、戊辰戦争の戦闘に敗れた仙台藩士の中には、函館の榎本武揚のもとへ走り新政府に対して最後の抵抗を試みた者も多かった。函館で藩士らは、当時布教のため同地を訪れていたロシア人司祭ニコライと接触し、この出会いがのちに宮城県にハリストス正教会が広まるきっかけとなった。最初にニコライに師事したのは、仙台藩士・新井奥邃(おうすい)であり、新井を通じ高屋仲、笹川定吉らが入信。明治4年(1871年)に3人は仙台へと戻り、伝道を開始した。しかし、太政官が慶応4年(1868年)キリスト教の布教を禁止していたことから、明治5年(1872年)5月、宮城県当局はハリストス正教徒への弾圧を開始した。2月、函館から伝道の応援のために仙台入りしていた元土佐藩士・沢辺琢磨が逮捕された。沢辺は明治元年にニコライから洗礼を受け、日本で最初に正教徒となった人物であった。その後、笹川と高屋も逮捕される。この事態に、東京にいたニコライは、仙台から上京中だった小野荘五郎を通じて、外務卿の副島種臣に助力を求めた。太政官顧問を務めていた米国の宣教師フルベッキも大隈重信ら政府高官に抗議。外交問題化を恐れた政府により、この問題は不問に付され、沢辺らは同年5月に釈放された。日本でキリスト教の布教が許されたのは、翌明治6年2月のことであった。(山本博文監修『あなたの知らない宮城県の歴史』洋泉社、2013年、154-155頁から抜粋)

 そんなわけで、教会が姿を消していたのは残念だったけれど、石巻観光のメインイベントは、やはり石ノ森萬画館である。なお、石ノ森章太郎氏は宮城県北端の現登米市の生まれで、石巻は第2の故郷といった位置付けらしい。それにしても、こうやって博物館で改めて触れてみると、石ノ森作品の数の多さに圧倒される。自分が子供の頃、知らず知らずのうちに親しんでいたアニメや特撮が、あれもそう、これもそうという感じで、軒並み石ノ森作品なのである。むろん、晩年には大人向けの重要作品も残している。以前、まんだらけの店長だったか、「漫画の世界にノーベル賞があったら、第一号は手塚治虫」と言っていたと記憶するが、おそらくその次くらいに受賞するのが石ノ森氏なのではないか。

 直近では、サイボーグ009という超有名作が、1964年7月の連載開始から50周年を迎えたということで、それに関する大掛かりな展示が行われていた。正直に言えば、サイボーグ009に関しては私はマンガもアニメも映画も一切観賞したことがなく、個人的には思い入れのない作品である(私はマンガ誌を購読したことがなく、地方育ちで民放数も少なかったので、欠落しているコンテンツが多いのだ)。しかし、東海道新幹線とか東京モノレールとか、半世紀の時を刻んできた様々なものが近頃話題となる中で、サイボーグ009も誕生して50年なのかと思うと、妙な感慨があり、展示物に見入ってしまった。

 最後は、一時期ニュースでよく取り上げられていた石巻の仮設店舗の商店街で地元名物の焼きそばを食べて、福島~宮城旅行を締め括った。松島海岸→石巻の移動は大変だったけれど、石巻から仙台までは直通の高速バスが出ており、帰りは楽である。しかし、バスの発車時刻を気にするあまり、石ノ森萬画館のコインロッカー(下の写真のような楽しげなもの)に荷物を置き忘れたことに、高速バスに乗ってから気付いた。仙台市内から萬画館に電話して、着払いの宅配便で東京に送ってくれるようお願いし、どうにか事なきを得た。

(2014年10月26日)

10年前に一度だけ行ったユダヤ自治州

 終わった終わった、うれしいな。

 あれ? この書き出しで始めるの、4度目だ。最初が2009年8月、2度目が2013年5月で、3度目が2014年5月だった。世界地名事典の仕事で、最初はベラルーシの原稿を書くのを片付けたという話で、2度目がロシアのウラル地方、3度目がロシア極東の地名の原稿を書き終えたという報告だった。

 で、それで本当に終わりのはずだったんだけど、その後、諸般の事情により、ロシア極東の地名で残ってしまっているものが数十個あるということで、編集部に泣き付かれた。まあ、こっちも嫌いじゃないし、乗りかかった船なので、それを引き受けることにした。その、落穂拾いのような原稿書きもようやく終わり、9月初めに無事提出することができたというわけである。まあ、今度こそ、正真正銘の終了だ。春に書き上げたのはロシア極東の中でも北部に位置するサハ共和国、マガダン州、カムチャッカ地方、チュクチ自治管区だったけれど、今回仕上げたのは極東南部のサハリン州、アムール州、ユダヤ自治州だった。実は今、きわめて多忙なので、今月のマンスリーエッセイは、地名事典の記事を部分的に流用する形で、ユダヤ自治州についてごく簡単に述べることで、お茶を濁したい。

 ユダヤ自治州は、右の地図で赤く塗った小さな地域。「小さな」とは言っても、それはロシアのスケールであり、36,000平方キロメートルだから、日本の関東地方ほどの広さはある。南側には大河アムール川が流れており、それが国境となって中国と面している。自治州の西隣はアムール州、東隣はハバロフスク地方である。

 1917年にロシア革命が起こると、ソビエト政権はそれまでロシアで横行していた反ユダヤ主義の克服を目指すようになった。そうした流れの中で、ソ連政府は1928年に、極東のアムール川沿いの地にユダヤ人の集住する集落を築くことを決め、この地をビロビジャンと命名、これがユダヤ自治州のルーツとなった(なお、アムール川の支流であるビラ川とビジャン川が付近を流れており、そこから街の名が付いた)。1930年8月にはビロビジャン民族地区が形成され、1934年5月にはそれにユダヤ民族自治州の名称が冠せられた。もっとも、当地に住民を入植させるというソ連政府の決定には、ユダヤ人の自治という表向きの理由とは別に、極東の国際情勢が緊迫化する中で、対中国・満州国境地帯の強化を図りたいという思惑があったとされる。

 自治州は長くハバロフスク地方の下位の自治単位であったが、ソ連末期のロシア共和国で1990年12月に憲法が改正され、独自の連邦構成主体となった。他方、かつてロシアには自治州がいくつか存在していたがが、1990年代初頭にそれらはすべて共和国へと名を変え、それ以来ユダヤ自治州はロシア連邦における唯一の自治州となっている。

 ユダヤ自治州の最新の人口は19万人ほど。ユダヤの名を冠しているとはいえ、現実にはユダヤ人がこの自治州の多数派になったことは一度もなく、しかもその比率は長期的な低下傾向にある。2010年現在の民族構成は、ロシア人92.7%、ウクライナ人2.8%で、ユダヤ人は1.0%にすぎない。都市は2つしかなく、州都のビロビジャン市が人口7.5万人、オブルチエ市が8.9千人である。

 自治州には、農林業、現地で採掘される原料を利用した建材産業以外には、これといった産業がない。人口や経済規模も小さいので、元々属していたハバロフスク地方や、あるいはアムール州と合併するという案も唱えられている。しかし、「ユダヤ」という民族名を関した地方行政単位は世界的に見てもほとんど例がなく、国際交流にとっての利点となるので、今日まで存続している形である。

 得意の(?)紋章の話をすると、1996年に制定された自治州の紋章は、針葉樹林を表す緑の地に、そこに生息するアムールトラの姿を真ん中に描いている。上下の2本の青い線は、当地を流れるビラ川とビジャン川を表している。2004年に制定されたビロビジャン市の紋章は明確にユダヤ的であり、ユダヤ教の象徴である「メノーラー」と呼ばれる7枝の燭台を描いたものとなっている。

ユダヤ自治州 ビロビジャン

 私はロシア極東とそれほど縁が深くないが、実はユダヤ自治州には一度だけ行ったことがある。確認してみたら、2004年9月のことで、ちょうど10年前の出来事だった。ビロビジャンの街では、住民に占めるユダヤ人の比率はわずかであるものの(多目に見積もっても5%程度とされている)、下の写真に見るように、街には1947年に建立された立派なシナゴーグがある。よく見ると、鉄柵に上述の「メノーラー」の模様が入っている。

(2014年9月22日)

チェルノブイリ・ツアー体験記

 5月にウクライナに旅行に行って、本マンスリーエッセイでは、3ヵ月連続でそのネタである。何しろ、自腹で行った旅行なので、元とらないとなー。ただ、時間的余裕がないので、ほぼフォトギャラリーでご容赦いただきたい。

 在ウクライナ日本大使館の館員の方から、「チェルノブイリへのツアーが解禁になった」というお話をお聞きしたのは、確か3年くらい前のことだったと思う。それ以来、このツアーのことがずっと気になっていた。また、以前もご紹介したかと思うが、この間、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』という出版企画に少しだけ協力したりもして、チェルノブイリを自分の目でぜひ見てみたいという思いがさらに募っていった。そこで、5月のウクライナ旅行では、チェルノブイリ・ツアーへの参加を旅程の柱に据えた。なお、ツアーを実施している組織は複数あるはずだが、私はChernobyl-TOURというところを利用することにし、事前に予約をした上で参加した。

 当然のことながら、前出の『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』である程度予習した上で、ツアーに参加した。実際に参加してみたツアーの概要は、概ねこの本に書かれていたとおりだったので、詳しくはそちらを参照していただきたい。ただ、同書の中にはチェルノブイリ原発のかつての中央制御室を見学するくだりが出てくるが、一般のツアーではそのプログラムは含まれていないようで、施設内部の見学は残念ながら叶わなかった。他方、ツアーはわりと融通が利き、当方が参加したグループではガイドの人が最後の方で、「皆さんとても規律正しく時間通りに行動してくれたので、時間が余りました。何か追加でリクエストはありますか?」なんて具合に、参加者の要望に応えてくれたりもした。実際、前掲書には含まれていないコースが、追加されたりもしたのである。

 ところで、キエフ市内には、国立の「チェルノブイリ博物館」がある。かつての消防署の建物を利用して、1992年に開設されたということだ。私はこの博物館にも行ったことがなかったので、5月のウクライナ旅行の際に初めて見学してみた。

チェルノブイリ博物館の展示の様子。展示物はすべて本物ということだ(除染済み)。

 そんなわけで、以下がチェルノブイリ・ツアーのフォトギャラリー。

ディチャトキのチェックポイント。ここから先が立ち入り制限区域。

廃村になったザレシエの村。民家の廃墟が続く。

 廃村のザレシエを過ぎ、ツアー一行はキエフ州のチェルノブイリ市(ウクライナ語で言えばチョルノーブィリ)に入る。実はチェルノブイリ原発は同市にあるわけではなく、プリピャチ市の方が至近である。プリピャチがすでに無人のゴーストタウンになってしまったのに対し、チェルノブイリは今でも人が住んでいて(500人くらいらしいが)、居住地として一応の機能を果たしている。

実はモスクワと同じくらい歴史の古いチェルノブイリの街

 チェルノブイリ市から発電所に向かう途中で、どエラいものを見せられた。ソ連時代に建設された、ICBM早期警戒巨大アンテナという代物である。こちらの情報によると、ソ連全域で3箇所確認されているのみであり、そのうちの1つがチェルノブイリにあったのだ(残りの2つは、ロシア極東のハバロフスク地方と、ウクライナ南部のミコライウ近く)。何でチェルノブイリにこんな巨大構造が建てられたかというと、一つには、この巨大アンテナが大量に電気を消費するからだったそうで。しかし、1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故とともに、この巨大アンテナも稼働を停止した。一部の機器はハバロフスクに運び去られ、チェルノブイリのアンテナは荒れ果てたまま放置され、現在に至るということのようである。このアンテナが至近で見学できるようになったのは、最近のことらしい。

ただ、このアンテナの周囲は、線量が高かった。

 ところで、チェルノブイリのゾーンで、影の名物となっているのが、モウコノウマという現存する希少な野生馬である。1990年代初頭に実験目的でゾーンに放ったところ増殖し、現在100頭余りに増えているという。

運が良ければこのように野生馬に出会うことができる。

原発から至近にある廃村の幼稚園跡。ここの軒下はかなり線量が高かった。

いよいよ原発の所在するプリピャチ市へ。

ゴーストタウンに佇む、「ホテル・ポレシエ」。

世界で一番有名な観覧車の一つ。

これはかつてのスタジアム跡だという。
二十余年でグランドを林に変えてしまう植物の生命力に驚く。

(本当は禁止らしいが)プリピャチ市で一番高い15階の団地の屋上に登り、
原発の方向を眺める。街は腐海ならぬ緑の森に没しつつあるように見える。

爆発した4号機をこんな間近に眺められるとは思わなかった。

ただ、さすがに線量は高い。今回のツアーで最高値を記録した。

国際的な支援で建設中の「新石棺」。受注したフランス企業が莫大な利益を挙げる一方、
現場のウクライナ人は高線量下で低賃金労働に従事させられているという話を聞いた。

かつて事故処理に活躍したマシンの数々。

ツアーが終わり管理区域から出る際に、
一応全身をスキャンして安全を確認。

最後に、ツアー参加証をもらえる。

 そんなわけで、ほぼフォトギャラリーだけだったけれど、チェルノブイリ・ツアー参加報告でした。なお、私の参加したツアーは、ガイドがロシア語だった。たぶん、外国人向けの英語のツアーも存在するはずである。ただ、可能であれば、日本語のガイドがいてくれたりすると、一般の日本人が参加しやすくなるだろう。日本の旅行会社が企画するウクライナのパックツアーは、歴史とか文化に重点を置いていることと思うが、チェルノブイリをプログラムに組み込んでみたりするのも一案かもしれない。現状ではチェルノブイリ・ツアーは「学習」に重きが置かれており、アメニティの要素は乏しい(ゾーン内ではまともなトイレはほぼ存在しないとか)。学習効果を広げるためにも、より広範な市民に参加してもらうことが大事であり、そのためには快適性に配慮することも必要かと思う。他方、ツアーでは廃屋に入ったり、瓦礫に触れたりするので、日本人の感覚から言うと、ヘルメットや軍手を着用した方がいいのではないかと感じた。

(2014年8月11日)

南北ブコヴィナを行く ―ルーマニアのスチャヴァを突撃訪問

 先月のエッセイで語ったとおり、5月にウクライナを旅行してきた。その際に、ウクライナ西部のチェルニウツィから足を伸ばし、ルーマニアのスチャヴァを突撃訪問したので、今月はそれについて述べてみたい。

チェルニウツィの街角

 今回のウクライナ旅行で最後の滞在地となったのが、西部のチェルニウツィだった。事前に旅程を考えていた際に、地図を眺めてみると、改めて、チェルニウツィは対ルーマニア国境から近いなあと感じた。人間、山があれば登ってみたくなり、国境があれば越えてみたくなるものである。しかも、以前もエッセイに書いたように、私にとってルーマニアは特別な思い入れのある国なのだが、そのルーマニアには1993年の一度きりしか行ったことがなく、「チェルニウツィから足を伸ばして、ルーマニアに行っちゃおうかなあ」という思いが、沸々と湧き上がってきたのである。ただ、チェルニウツィ滞在はわずか1泊2日の予定だったので、あまり時間的余裕がない。そもそも、どういう交通手段で国境を越えればいいのだろうか? そんなわけで、現地で様子を見ながら、余力があればルーマニア訪問も試みてみようかという構えで、チェルニウツィに赴いた。

ブコビナ・ダルマチア府主教の邸宅は、現在はブコヴィナ大学の校舎として使われている

 チェルニウツィは、「プルート河畔のウィーン」の雅称はさすがに褒めすぎかなとも思うが、観光上の見所が豊かな街だった。特に、ブコビナ・ダルマチア府主教の邸宅は、ユネスコの世界遺産にも登録されており、必見である。

 実は、チェルニウツィの土地は、単にルーマニアに接しているだけでなく、いわゆるブコヴィナ地方として、ルーマニアの領域に組み込まれていたことがある。ブコヴィナとは、カルパティア山脈とドニエストル川に挟まれた地帯を指し、語源は「ブナの国」という意味らしい。ブコヴィナは、1775年の第1次ポーランド分割でハプスブルク領となったが、第一次大戦を受け1918年にルーマニア王国領となった。第二次大戦時の1940年に、ソ連が北ブコヴィナを占領し、ソ連邦のウクライナ共和国に組み込んだ。こうした経緯から、今日では北ブコヴィナがウクライナ領(概ねチェルニウツィ州にあたる)、南ブコヴィナがルーマニア領(概ねスチャヴァ県およびボトシャニ県にあたる)となっているわけである。

 別のところで書いたように、今日のウクライナの国境は、歴史的な地域を分断する形で引かれているところが多く(上図参照)、ブコヴィナもそのパターンということになる。中井和夫先生の『ウクライナ・ナショナリズム ―独立のディレンマ』(東京大学出版会、1998年)では、ウクライナ国内の分離主義運動の一例として、北ブコヴィナのルーマニア系住民のそれが挙げられている。以下、固有名詞表記を当方の統一に合わせた上で、引用させていただく。

 ウクライナ西部のチェルニウツィ州は北ブコヴィナと呼ばれる地域で、独ソ不可侵条約による取決めで1940年にルーマニアからウクライナ領となった地方である。1990~91年にかけてルーマニアとモルドバはこの併合を違法なものと批判し、同時にウクライナ領となった南ベッサラビア(現在のオデッサ州の一部)と並んで返還を要求した。……クーデター後の1991年9月17日、州ソヴェトはルーマニア人とモルドバ人の多いフルボツキー地区に対して、ウクライナ語と同等の権利をルーマニア語に与える決定をした。

 北ブコヴィナがザカルパティアとやや様相を異にするのは、戦間期のルーマニア時代に厳しい強制的なルーマニア化を経験していることである。チェコスロバキアのザカルパティア支配はずっとリベラルであった。最近のルーマニアの経済状態も影響して、ルーマニアに対する感情はウクライナ人のあいだではそれほど友好的とはいえない。……(152頁)

ブコヴィナのウクライナ人(上)とルーマニア人(下)

 ちなみに、チェルノウツィで地誌博物館を見学したところ、上に見るような1910年時点の民族分布地図が掲示されていた。見づらいかと思うが、各地点の円グラフで赤がウクライナ人の比率を、緑がルーマニア人の比率を示している。これを見ると、北は赤が、南は緑が多くなっているが、混住地域も見られる(なお、大都市ではユダヤ人も多い)。時代は下って、2001年の国勢調査によれば、チェルニウツィ州の民族構成は、ウクライナ人75.0%、ルーマニア人12.5%、モルドバ人7.3%、ロシア人4.1%などとなっており、ルーマニア人およびモルドバ人は州の南部の国境地帯に集中的に住んでいる。一方、ルーマニアの方ではかなりルーマニア人の優勢が強まっていて、ウクライナ人の比率はスチャヴァ県で0.9%、ポドシャニ県で0.1%にすぎない。なお、チェルノウツィの街を歩いていたところ、ルーマニアの総領事館を見かけたし(下の写真)、また街で随一の劇場では、たまたま私が滞在した日にルーマニア語の出し物をやっていた(さすがに観なかったが)。こうしたものを見ているうちに、やはりどうしてもルーマニアに行ってみたくなり、チェルニウツィ市内の観光もだいたい片付いたので、5月22日の昼頃、私はルーマニア行きを決意したのである。ただし、同日の19:05にはチェルニウツィ発キエフ行きの列車に乗らなければならないので、完全なとんぼ返りだ。

 さて、問題は、ルーマニアのどこに、どのように行くかである。地図を見ると、チェルノウツィから国境を越えて、ルーマニア領に入り、最初にある集落は、シレトという街である。なので、少なくともシレトまでは行きたいと思った。でも、もうちょっと頑張ると、スチャヴァ県の県庁所在地であるスチャヴァ市まで行けそうなので(チェルノウツィからは82.5kmほど)、もし時間が許せばそこまで行きたいと考えた。そして、移動手段であるが、どうも使い物になる公共交通機関はなさそうだった(ごく少数のバスの便はあるようだが)。ただ、これだけ対ルーマニア国境から近いのだから、タクシーの運転手などは、EU圏に入るのに必要なシェンゲンビザを持っているのではないか。そして、だいたい100ドルくらい出せば、ルーマニアとの往復を引き受けてくれるのではないか。そのように考えて、私はチェルニウツィの街中で、シェンゲンビザを持っている運転手を探したのである。しかし、かれこれ20人くらいに声をかけたのだが、誰もそんなビザは持っておらず、したがってルーマニアには行けないという。う~む、もはやこれまでか。

シェンゲンビザ、ルーマニア国籍取得、ルーマニア語教室の案内だが、
ルーマニアの国の形が戦間期の大ルーマニアなのが若干気になる

 諦めかけたところ、最後の最後に、ジーマという親切な運転手に出会った。彼が、知り合いの運転手に片っ端から電話をかけ、「お前、シェンゲンビザ持ってない?」と尋ねて、しかるべきドライバーを探してくれたのである。そうしたところ、実に奇跡的な状況が生じた。ジーマが情報収集してくれたところによると、実は自動車でウクライナからルーマニアに入国しようとすると、国境で3~5時間程度の行列に巻き込まれ、そんなことで時間をロスしたら、19:05までにチェルニウツィに帰ってくることなど覚束ないというのである。ところが、偶然にも、知り合いのサーシャという運転手が現在ルーマニア側におり、くしくもスチャヴァからチェルニウツィに向け客を運んでいるところというのだ(!)。したがって、まず私がジーマの車で対ルーマニア国境まで出向き、車の行列を回避するために徒歩で国境を越え、ルーマニア領で待ち構えているサーシャの車に乗り換え、その上でスチャヴァまでドライブすればいい、というのである(サーシャが乗せていた客は、逆にジーマの車に乗り換えるわけだ)。料金は、トータルで150ドルということだった。

チェルニウツィとスチャヴァの位置関係

 確かに、理屈の上では大丈夫そうだが、だいぶリスキーな気がして、私はウ~ンとうなって、この案を受け入れるかどうか、5分ほど考え込んでしまった。でも、やはりルーマニアに行ってみたいという気持ちが勝って、ジーマの提案を飲んだのだった。そんなわけで、ルーマニアに向け、いざ出発。

ウクライナ側から見た国境通過ポイント

 チェルニウツィ近郊のデコボコ道をジーマの運転で進み、ほどなくして対ルーマニア国境に到着。確かに、ウクライナ→ルーマニア方向は、トラックが列をなしており、3~5時間待ちという話はそのとおりなのだろう。もっとも、物流の大動脈になっているというよりは、単に手続きがノロノロしているような雰囲気だったが。ウクライナ側の出入国管理官や税関係員の硬直的な対応に憤って、ルーマニア市民が怒鳴っているような場面も目にしたりして、キエフで盛り上がるヨーロッパ統合の機運とは裏腹に、現実のウクライナ・EU国境はずいぶんとぎくしゃくしていた。私の方はと言うと、勝手が分からず面食らったものの、確かに徒歩の通過は楽であり、型通りにウクライナ出国~ウクライナ税関~ルーマニア入国という手続きを経て、簡単にルーマニア領に入ることができた。なお、中間地帯には免税店が設けられており、ジーマから「マルボロを1カートン買ってサーシャに渡すように」という謎の指令を受けていたので、何だか意味が分からないまま、一応タバコを買い求めた。ルーマニアの入国管理官のオバチャンが、微妙な日本語で話しかけてきたけど、面倒なのでスルー。

21年振りのルーマニア入国

 さて、国境を越えると、確かにそこにはサーシャが待っていた。車に乗り込んで話を聞くと、サーシャは元々チェルニウツィの生まれだが、ユダヤ人ということらしく、イスラエルに移住した。どうもイスラエルとウクライナの二重国籍ではないかと思う。現在は、チェルニウツィに戻り、運転手の仕事をしている。イスラエル国籍があるので、EU圏に自由に出入りでき、したがってこんな風にウクライナとルーマニアの間を行き来するような仕事もできるらしい。

ルーマニアの農村風景

 越境が意外にスムーズに済んだので、やはり欲張ってスチャヴァまで行くことにした。でも、夜汽車に乗り遅れたら大変なので、長居はできないということで、スチャヴァ滞在はわずか30分くらいで切り上げた。10ドル両替して、ホットドック食べて、キオスクでルーマニア民謡のCD売ってたから2枚買って、中心部の街並みや教会などを眺めてと、それだけで終わり。本当は世界遺産の修道院とかもあるらしいんだけど、早々にウクライナに取って返した。途中で、シレトの街にも立ち寄って、中心部をちょっと眺めたけど、まったくのとんぼ返りだった。

サーシャいわく、「チェルニウツィにはないマクドが、スチャヴァにはある」

市中心部の教会もちょっとだけ見学(もちろんルーマニア正教会)

記念にキオスクでルーマニア民謡CDを購入
サンプル音源を用意したので、こちらおよびこちらでどうぞ
この、ビートが引っかかる感じ、ルーマニアだよねえ

 今度は、反対側から国境を越える番だ。ちなみに、ルーマニア→ウクライナ方向は、ほぼ待ち時間なし。サーシャが車の登録証か何かのことで、ウクライナの係官になにやらイチャモンを付けられていたみたいだけど、それも10分くらいで終わり、無事にチェルニウツィに帰還した。上述のとおり、料金はトータルで150ドルということだったのだけど、最初にジーマに手付金を20ドル渡して、さらにタバコ代の20ドルを差し引いて、残金の110ドルをサーシャに支払って、精算となった。おそらく、あの免税店はルーマニア→ウクライナの方向の時には買えないようになっていて、それで往路でタバコを頼まれたんだろうな、たぶん。初対面で、大丈夫かなと不安もあったけど、ジーマもサーシャも誠実な人で、2人のお陰で、夢にまで見たルーマニア再訪を果たすことができた。

ちょっとだけ眺めたシレトの街並み

 対EU統合を国是として掲げている現ウクライナであるが、こうやってウクライナ・EU国境を越えてみると、まだ隔たりを感じる。それに、南北ブコヴィナの明暗のようなものが、どうしても目に付いてしまう。ルーマニア側のブコヴィナは、それほど豊かではないし、むろん現実には問題も山積なのだろうが、街の様子は小奇麗であり、落ち着いて見える。それに対し、ウクライナ側のブコヴィナは、発展から取り残され、道など穴ぼこだらけである。体制転換前は、南北ブコヴィナの優劣は、逆だったはずだ。なるほど、こういうのを見ると、ウクライナのエリートが、なりふり構わずEUの方向に突き進もうとしているのも、道理ではあるかな。キエフ行きの夜行列車に揺られながら、そんなことをつらつらと考えた。

(2014年7月21日)

ユーロマイダン革命の残像を追いかけて

 すでにブログの方で色々と語ってきたが、5月14日(水)発、24日(土)帰国という日程で、ウクライナを旅行してきた。今月のエッセイでは、ブログの切り貼りのような感じになるが、先のウクライナ旅行の報告をお届けする。

右奥の、もみの木に色んなものがゴタゴタと括り付けられた様子が、ハウルの動く城のようで

 今回は、業務出張ではなく、純然たる個人旅行だった。私の所属団体には、勤続20年特別休暇というのがあり、それを利用しての旅行である。アエロフロートのマイルも溜まっていたので、その消化も兼ねて。実は勤続20年を達成してからもう数年が過ぎているのだが、これまでは特別休暇を消化する暇がなかったのである。このままでは勤続30年が来てしまいかねないということで、今年こそは特別休暇を消化しようと思っていた。で、行ったことのないイタリアとか、フランスとか、そういう良さげなところにバカンスに出かけるイメージだったのだけど、やはりウクライナのことが気になって、気になって。最後にウクライナに出向いたのは、2013年11月24~29日のことで、この半年間、報道等を通じて間接的にウクライナの情報を収集してきたけれど、やはりこのあたりで一度自分の目で今のウクライナを見てみたいと思い立ったわけである。

 で、行くからには何かイベントがあった方が楽しいと思い、そこは私の場合やはりサッカーであろうと考えた。5月15日にウクライナカップの決勝がハルキウで開催されると発表されたので、まず東京~モスクワ経由でハルキウに入ることを決めた。そして、ウクライナ・プレミアリーグの最終節が5月18日に組まれているので、ハルキウからドネツィクまで列車で移動し、ドネツィクでシャフタールの試合を観戦、あわよくばその優勝を見届けようと目論んだ。そして、そこからキエフに飛んで、マイダン革命の余韻や、大統領選挙の動向を観察しようと、そんな旅程を立てたわけである。

大統領選の、M.ドプキン候補のビルボード広告
旧政権派の同氏の広告は、西ウクライナではほぼ破壊されていた

 ところが、この旅程は、すぐさま頓挫(涙)。まず、ウクライナ東部の安全保障に問題が生じたため、アエロフロートのモスクワ~ハルキウ便が飛ばなくなった。しかも、15日のウクライナカップの決勝戦は無観客試合とするという決定が下り(後日、会場も変更)、リーグ戦も第29節は無観客とされ、分離主義騒ぎが続くドネツィクやルハンシクでの試合開催自体が禁止されてしまったのである(結局、シャフタールは最終節を待たずして、第29節で、無観客の中立地で優勝を決めるという、何とも悲しいことになるのであるが)。こうしたことから、ハルキウ、ドネツィクは危ないだけで、訪問の目玉がなくなってしまったのである。むろん、東部の情勢を自分の目で確かめてみたいという気持ちもあったが、武装勢力に拉致られたりしたらシャレにならないので、危うきには近寄らないことにした。

 そこで、キエフと、中部および西部ウクライナを中心とした旅程に、変更したというわけである。東部は捨てがたかったが、中部・西部にもまだまだ行きたいところは一杯あるから、これはこれで全然OKだ。そんなわけで、キエフと、そこから日帰りでジトーミルに出かけ、それと以前から関心のあったチェルノブイリ・ツアーにも参加することにした。さらに、バス・鉄道を乗り継いで、西のテルノピリ、チェルノウツィと回ることにした。

 東京~モスクワ~キエフとアエロフロートを乗り継いで、深夜にキエフの「シティホテル」というところにチェックイン。TVをつけたら、一体どんな緊迫したニュースが伝えられているのかと思ったが、日本の「虚構新聞」をそのままTV番組にしたようなやつをやっていて(政治ネタ含む)、脱力した。

 翌15日から、行動開始。今のキエフを訪れて、とにかく奇異なのは、中心部の独立広場(狭義の「マイダン」)を中心に、ユーロマイダン革命の遺物がほぼそのまま残されていることである。撤去する・しないという議論はあり、今後どうなるかは分からないが、私が訪れた5月中旬時点ではそうだった。自分たちの力で悪しきヤヌコーヴィチ政権を倒したと、そういう達成感に浸り続けていたい、といったところだろうか? しかし、単純に物理的に言っても邪魔だし、ウクライナが新しい歩みを始めるためには、妨げにしかならない。

 もともと、昨年暮れ~本年初頭の革命期には、純粋に独裁打倒のために立ち上がった市民が多かったはずだが、現在のテント村は少し様子が違い、胡散臭い人々が多い。中には、明らかに見世物用のテントや、「右派セクター」(今回の政変で武闘派として存在感を発揮した民族主義団体)のコスプレをしているだけのような人々も見受けられ、そういう人たちが観光客と一緒に写真を撮ってカネをせびろうとしていたりする。

 マイダンだけでなく、テント村は、目抜き通りのフレスチャティク大通りも侵食し、通りはなし崩し的に歩行者天国になっている(まあ、何らかの許可的なものは出ているのかもしれないが)。アスファルトにテントを固定する杭まで打っているのには驚いた。日本で言えば銀座に当たるような場所の道の真ん中で、訳の分からない連中が迷彩服姿でテントに寝泊まりして、煮炊きまでしているのである。破綻国家の分際で、何やってんだかと、呆れてしまう。

 さて、今回のウクライナ旅行は、この国を基礎から学び直すというのが、一つのコンセプトだった。だから、いつも近くまで行くけれど素通りするだけだったソフィア大聖堂を見学してみたり、21年振りに(要するに1993年のウクライナ初訪問時以来)ペチェールシク大修道院を訪れたりもしてみた。その一環として、これまたずいぶん久し振りに、ウクライナ国立歴史博物館も見学してみた。

 その国立歴史博物館で驚いたのは、下の写真に見るように、もう今般のユーロマイダンに関する展示が掲げられていたことである。個人的には、支持も共感もしかねるが。こんな、生々しい、評価も定まったとは言いがたい、国内でも意見が割れている出来事について、国立の歴史博物館に展示すべきではないだろう。火炎瓶も、百年前のものなら「歴史」と言えるが、つい3ヵ月ほど前に使われたものとなると、話は違う。ユーロマイダンでは暴徒の火炎瓶で亡くなった治安維持部隊員もいたはずであり、彼らもそれぞれの立場にいたウクライナ国民には違いなく、その無念さや遺族の悲しみには配慮しなくていいのか? まったくもって単細胞な官軍史観と言わざるをえず、中央がこれでは分離主義運動が高まるのも無理はないなと思う次第だ。

 5月16日、キエフから西に131kmのころにあるジトーミル市を訪問。行きは路線バスで3時間ほどかかったんだけど、帰りはマルシルートタクシーに乗ったら1時間半くらいでキエフに帰ってこれた。マルシルートカって、ダイヤとか路線とか、いまいち正確な情報が得にくくて、外国人の旅行者が利用するのには不安があったのだけど、要は適当に乗り場に行けばいいわけか。

 ジトーミルは、割と平凡な地方都市で、観光資源がふんだんにあるような街じゃない。強いて言えば、ロケット開発で有名なS.コロリョフがジトーミルの生まれであり、その関連で宇宙飛行士博物館があるのが見所かな。ただ、個人的にはジトーミルの活気あふれる食品市場が、最も印象に残った。写真を掲げたのは、肉売り場の様子だけど、なんか久しぶりにこういう「これぞルィノク」というのを見たなあ。豚肉・牛肉・鶏肉だけでなく、羊、ウサギ、あとなんだか良く分からない小動物の肉など、何でもござれだった。近くに巨大ショッピングセンターもあるのだけれど、明らかに市場の方が賑わっていた。こういうのを見るにつけ、ウクライナはデフォルトを起こすことはあっても、国民が飢えることはないな、と思う。逆に言うと、この人たち飢えさせたスターリン体制の破壊力たるや、恐るべしである。

 ところで、5月の旅行で最も強い印象を受けたことの一つは、今日のウクライナでは「天国の百人(ネベースナ・ソートニャ、Небесна Сотня)」がほとんど神格化されているということだった。ユーロマイダン革命の際にキエフにおける治安部隊との衝突で犠牲になった100人あまりの市民のことを、そう呼んでいる。キエフの中心部に犠牲者を悼む記念碑が設けられていることは知っていたが、今回私が訪れた一連の地方都市でも、一様にそのようなモニュメントが見られた。ジトーミル市では、目抜き通りの「モスクワ通り」が、勝手に「天国の百人通り」に書き換えられている光景も目にした。

 ジトーミルの街角では、こんなものも見かけた。FIDOBANKという銀行の店舗に掲げられていた宣伝であり、「(ウクライナの)一体性預金」という商品の広告。預金者が受け取る金利とは別に、金利の1%分がウクライナ軍の支援に回るということである。先日、あるイベントでこの写真を紹介したところ、「そもそも、金利、高っ!」と驚かれてしまった。確かに、基本金利が、フリウニャの年率24%はまだ分かるとして、米ドル12%、ユーロ11%というのは、外国人から見ればギョっとするところだろう。まあとにかく、色んなところで愛国心が前面に出ている。

 キエフ滞在を終え、5月19日に列車に乗って西ウクライナのテルノピリに移動。私は、車窓からの景色を眺めるのが好きで、当日は天気も良く風景を堪能できたが、直線距離でわずか366kmという両都市を(しかも停車駅も数えるほどしかないのに)、6時間もかけて走るというのには、少々閉口した。

 一口に西ウクライナと言っても、多様である。今回私が訪ねたところだけでも、テルノピリとチェルニウツィは全然違うし、これがザカルパッチャあたりになると、またかなり様相が異なる。テルノピリは、リヴィウやイヴァノフランキウシクと並んで、ガリツィア(ハリチナ)地方に属し、いわゆるウクライナ・ナショナリズムが色濃い土地柄である。言語的には、完全なウクライナ語圏ということになる。私はこの4月からウクライナ語の勉強を始めたので、まだ完成度が腐った巨神兵程度だが(笑)、以前のようにウクライナ語話者に対して気後れすることはなくなった。何しろ、今回の旅行はウクライナ語ブートキャンプも兼ねており、中澤先生の教科書を携えて勉強しながらの旅だったので、当たって砕けろ、だ。実際、今回の旅行で、拙いウクライナ語でも、ちょっと通じたりした時は、嬉しかったものだ。他方、チェルニウツィはブコヴィナと呼ばれる歴史的な地方に属し、伝統的にルーマニアとの繋がりが深く、言語面ではロシア語がかなり幅を利かせていた。

 「天国の百人」と並んで、今般のウクライナ行脚で強い印象を受けたのが、赤・黒の旗がそこかしこに氾濫していたことである。サッカーのコーナーでも述べたとおり、ウクライナの正式な国旗は黄・青の二色旗だが、今日ではそれに近いくらいの勢いで赤・黒の旗が溢れ、もはや第二の国旗と言っていいくらいの目立ち方である。要するにかつてのウクライナ蜂起軍やバンデラ派のシンボルカラーなわけだが、前出の「右派セクター」の色でもある。愛国心は結構だが、バンデラや右派セクターに不快感を抱く国民も非常に多いわけであり、国民統合にとってプラスになるのかという疑問を覚える。言い換えれば、今日のウクライナ国民は、ウェーバー先生の言う「心情倫理」にあまりにも傾いてしまっており、「責任倫理」が顧みられていないと指摘せざるをえない。

 ウクライナ・ナショナリズムが色濃いテルノピリあたりでは、もう完全に黄・青国旗と赤・黒民族旗が左右セットで掲出されるのがデフォルトみたいになっている。テルノピリでは、土産物屋レベルでも超ナショナリスティックで、私が立ち寄った店には民族主義展示コーナーみたいのがあった(上の写真参照)。また、テルノピリでは、ウクライナ・ナショナリズムの英雄S.バンデラの立派な銅像があり、その左右にもくだんの2つの旗が掲げられていた。それが下の写真なのだけど、こんな時に限って風吹かないのな(我ながら、持ってないな)。ちなみに、こちらのページを見る限り、今のところバンデラの銅像があるのは、リヴィウと、このテルノピリだけのようだ。テルノピリのそれは2008年にできた由。

 さて、もう一つ強烈な印象として残ったもの。テルノピリの街をブラブラ歩いていたら、5月20日夜に劇場でコサック・アンサンブルのコンサートがあるというので、これを鑑賞してみることにしたのだ。実際に観てみたところ、パフォーマンスは、素晴らしかった。客入りが悪く、演者の数の方が多いんじゃないのか?というくらいだったのが残念だったが、歌と踊りは文句のつけようがない。それもそのはず、よく見たら演者はウクライナ国立アカデミー・コサック歌唱・舞踊アンサンブル「ポジーリャのコサック」となっているではないか(フメリニツィキー市が本拠地の模様)。コーラスの響き、コサックダンスのキレ、群舞する娘たちの可憐さなど、どれをとっても一級品だった。柄にもなく、「なんか、ウクライナって、いいなあ」と、ジーンと来てしまったのである。ちなみに、同じアンサンブルによる2012年のパフォーマンスがYouTubeに上がっていたので、お目にかけたい。

 しかし、コンサートもクライマックスに差し掛かったところで、だいぶ趣向が変わった。MCで、「先のマイダンで犠牲になった人々への鎮魂の曲です。タイトルは『天国の百人』」と説明があり、とても重いレクイエムが披露された。なお、この曲は同アンサンブルのオリジナルのようであり、コンサートのプログラムには記載されておらず、最近になってレパートリーに加えたものなのだろう。これは重要だと思ったので、当該の演奏の動画を撮影し、YouTubeにアップした。個人的に、YouTubeに動画を上げたことは、実は今までほとんどなかったのだが、今回ばかりは必要に迫られた。なお、「天国の百人」演奏中に、観客が皆起立し始めたので、私もそれに倣い、その際にピントが外れたりしている。

 このように、きわめて愛国的なクライマックスが用意され、最後には「立ち上がれ、ウクライナよ!」という、これまた同アンサンブルのオリジナルではないかと思われる軍歌調の曲が合唱で披露され、コンサートは大盛り上がりのうちに幕を閉じたのだった(客は少ないのだが…)。う~ん、私はこれをどう受け止めたらいいのだろうか。私自身は、むろんマイダンが追求しようとした理念自体には共感するものの、その手法を全面的には肯定しかねる立場だ。マイダンによって問題が解決したわけではなく、むしろ別のより深刻な問題を作り出したという側面を、どうしても重視してしまう。キエフや西部の人々が愛国心を誇示したい気持ちも分からないでもないものの、それをすればするほど、ドンバスの人たちなど、国民の一定部分との溝が広がり、貴方たちの愛するウクライナが分裂の危機に直面するのですよと、そういう心配をしているのである。正直に言えば、純朴なコサック・ショーだけを観たかったというのが、私の本音だ。

 5月21日、テルノピリから、チェルニウツィに移動。実は今回の旅行でこの移動だけ事前に手配していなかった。日本で調べても、不便な夜行列車くらいしか移動手段が見当たらず、現地の窓口で直接尋ねた方が手っ取り早いだろうと考えたのである。ところが、実際にテルノピリ駅の窓口で尋ねてみたところ、やはり列車は02:15テルノピリ発の夜行しかないそうだ。お隣の州で、線路もダイレクトに繋がってるのに、1日1本しかないとはねえ。いやはや、陸羽西線だってもうちょっとあるだろと言いたくなる。そんなこんなで、途方に暮れかけたわけだが、困った時には、やはり長距離バスだ。慌ててテルノピリのバスターミナルに駆け込んだところ、チェルニウツィ行きのバスは1日3本あり、そのうち8:25発というのをチョイスした。やった、これでウクライナ旅行の数珠が繋がった! テルノピリからチェルニウツィまでのバスの旅は、8:25発で、着いたのが13時くらいだったから、だいたい4時間半くらいかな。距離は182kmらしいけどな。

チェルニウツィの美しい正教寺院

 チェルニウツィは、「プルート河畔のウィーン」という雅称もあり、さすがにそれは褒めすぎかとも思うが、なかなか壮麗な街で、散策を楽しんだ。実は、チェルニウツィから足を伸ばして、ルーマニアのスチャヴァを突撃訪問するという無茶をしたのだが、そのあたりは来月のエッセイで南北ブコヴィナ談義という形で語ることにしたい。

ブコヴィナ地方の民族衣装
テルノピリもそうだったけど、西ウクライナは黒っぽい色使いが多い気がする
白と赤ばかりのベラルーシの民族デザインを見慣れた人間からすると、新鮮

 ルーマニアのスチャヴァから、慌ててチェルニウツィに帰還し、22日夜のチェルニウツィ発の夜行列車に乗り込む。それにしても、チェルニウツィからキエフまでは、直線距離で400kmちょっと、鉄道の走行距離でも最短ルートを通れば600km弱だろう。それが、19:05にチェルニウツィを出発して、ようやく翌朝の09:20にキエフに着くのよね。まあ、こちらの夜行列車というのは、だいたいそういうものだけど(ハンパに未明とかに着いても困るし)。で、列車内に張り出してあった時刻表を見て、驚いた。チェルニウツィを出発したあと、北西方向に向かい、何とウクライナの西端のリヴィウまで行って、そこから東方面に大屈曲して、キエフに向かうというルートだった。そもそも、この列車はブルガリアのソフィア発、ロシアのモスクワ着という国際列車であり、どういう客層のどういうニーズに対応して、こんな大回りをするのか、謎である。

 苦手な夜行列車で一晩を過ごし、翌朝キエフ駅に無事到着。あとはタクシーでボリスポリ空港に向かい、キエフ~モスクワ~東京というルートで帰国するだけである。到着したキエフ駅には、下に見るような貼り紙が貼ってあった。これはクリミア自治共和国住民への案内なのだが、キエフにはクリミア住民の住居・生活に関する調整センターが設置されており、駅にはその相談窓口も設けられているので、お気軽に申し出てほしい、といったことが書かれている。ロシアの支配下に入ったクリミアからウクライナ本土に逃れてきた人たちは、キエフ駅に降り立つ人が多いだろうから、そういう人たち向けの案内である(ロシア語で書かれているのはなかなか親切だ)。ただ、この時点ではまだキエフ~シンフェロポリの列車は運行していたが、6月1日に廃止されるという話を、現地で聞いた。なお、下にある、赤字で書かれたものは、「右派セクター」のビラで、ウクライナを根本から変革しようみたいなことが書いてある。

 そんなわけで、昨年11月以来、半年振りにウクライナを訪問し、ずっと気になっていた現地の様子を肌で感じることができて、有意義だった。私はウクライナの全27地域(これはクリミアも含んだ数字)をすべて制覇することを目標としており、今回の旅行ではジトーミル州、テルノピリ州、チェルニウツィ州と3つの地域を新規訪問することができ、残すは10地域となった。実は私はこれまで秋と冬にしかウクライナに行ったことがなく、良い季節のウクライナを始めて体験できたのも新鮮だった。全体として、とにかく横溢するナショナリズムを目の当たりにした旅だったが、中部や西部の人々が愛国主義を唱えれば唱えるほど、ドンバス住民との溝が深まるというジレンマもまた痛感した。果たして、次回私がウクライナの地を踏む頃には、この国はどうなっているのか。

(2014年6月22日)

ウクライナ国立歴史博物館に飾られていた帝政ロシア末期の勲章で、
以前ブログで紹介した黒・オレンジの「聖ゲオルギーのリボン」が使われている
元々はウクライナ・ナショナリズムに反するものではないはずだが
現在のウクライナは赤・黒 VS 黒・橙のような構図になってしまっている
何とか黄・青に収斂してほしいものである

行ってみたいなサハ共和国

 終わった終わった、うれしいな。

 あれ? この書き出しで始めるの、3度目だ。最初が2009年8月、2度目が2013年5月で、今回が3度目。世界地名事典の仕事で、最初はベラルーシの原稿を書くのを片付けたという話で、2度目がロシアのウラル地方の地名の原稿を書き終えたという報告だった。

 この地名事典は、本来ならばとっくの昔に発行されてなきゃいけないものだったんだけど、遅れる原稿が相次いで、大幅に出版スケジュールが押している。まあ、私自身も、最初に担当していたベラルーシの原稿を、何年か遅れで、やっとの思いで完成させたのだけれど。でも、私なんかまだ良い方で、ロシアの担当者の中には、数年間放ったらかしにした挙句に、「できません」とか言い出す人がいたらしく、2013年5月のエッセイで述べたように、遅れていたロシアの原稿のうち、ウラル地方の地名に関する記事の執筆を、私が追加で引き受けたのだった。

 ウラルで終わりかと思いきや、何人かいたロシアの執筆担当者のうち、極東担当の某先生の原稿提出状況が、とりわけ芳しくないということで、ついに2013年7月になって、そのお鉢が私のところに回ってきた。極東全部じゃないけれど、その北部、すなわちカムチャッカ地方、マガダン州、サハ共和国、チュクチ自治管区の各地名に関する記事の執筆を、私が引き受けることになった。まあ、やりたいから、引き受けたんですけどね(笑)。というわけで、昨年秋くらいに実際にその作業を開始して、この半年間くらい、ウクライナのことばっかりやっているような振りをして、実は自分の自由時間のかなりの部分を割いて、ロシア極東の地名に関する記事執筆にいそしんでいたわけである。そして、このほどようやくその作業が完了し、すべての原稿を出し終えたのだった。

 今回私が執筆担当したロシア極東の地名の数は(一部ロシアの他地域の漏れ原稿のようなものも含まれていた)、102だった。ベラルーシが165、ウラル地方が234だったことに比べれば、ボリューム的には少ない。重要度の高いAランクやBランクの記事も数多くはなかった。しかし、その割には、結構手こずったなというのが、実感である。そもそも、ロシアの中で極東はどちらかというと、個人的に土地勘の薄いところだ。しかも、極東北部の地名は、人口希薄な地域ということもあって、都市名ではなく、海、湾、岬、海峡、島、川、山などの地形の名称が圧倒的に多かった。都市であれば、歴史や産業などを語ればよく、得意分野なので割合簡単に書けるのだが、地形となると自然地理学の世界になってしまい、ロシア語の資料を見ても理解不能な単語ばかりで、大いに苦労をさせられた。「ナントカ湾」って、地図で「これ」って指させば簡単だけど、言葉で説明しようとすると、意外と大変なのである。最後に残った、一番書きにくい辺境に関する記事を、押し付けられちゃったんだろうな(何度も言うように、好きで引き受けたのだが、笑)。

 さて、今回執筆を担当した極東北部4地域のうち、個人的に行ったことがあるのがカムチャッカ地方とマガダン州、ないのがサハ共和国とチュクチ自治管区である。チュクチ自治管区は、あまりにも特殊なところなので訪問は無理にしても、サハ共和国はロシアの中でも重要地域であり、機会があればぜひ行ってみたいものである。このマンスリーエッセイでは、だいたい訪問した土地の土産話を語るのが通例だが、今回はサハ共和国に関し、「行ってみたい」という願望を語っている次第である。それから、現地で撮ってきた写真を紹介するのも恒例になっているが、いかんせんサハは行ったことがないので、自前の写真も持ち合わせていない。そこで、こちらのサイトから、1枚拝借させていただく。一応、礼儀として、解像度を落としておくので、勘弁してほしい。

 それでは、サハ共和国とは、どのような地域なのか? 地名事典の記事から抜粋する形で、以下その概要を紹介しよう。以下の中でも、共和国の中に時差があるというくだりは、これまで個人的に知らなかったので、驚いた話だった。

 サハ共和国は、ロシア連邦を構成する連邦構成主体の一つ。サハ人(ヤクート人)を基幹民族とする。「共和国」の名が付いてはいるが、独立国家ではなく、あくまでもロシアの一地域である。別名、ヤクーチヤとも呼ばれる。その面積は、ロシアの地域としてトップであるだけでなく、世界の地方行政単位の中で最大の領域を誇る。2010年現在の人口は96万人。首都はヤクーツク。

 サハ人は、南方からレナ川流域に進出してきたチュルク語系の住民が、エヴェンキ、ユカギールといった既存の狩猟採取民族を征服・同化することによって成立した民族であると考えられている。こうして成立した先住民の領域を、ロシアが支配下に組み込んだのは、1620~1630年代のことだった。その際に、先住民は自らをサハと名乗ったものの、エヴェンキ人が彼らをヤコと呼び、それをロシア人に伝えたため、ロシアではヤコが転じたヤクートという名で知られるようになった。18世紀後半にサハ人の大部分はロシア正教に入信したものの、シャーマニズムの要素も色濃く残った。

 ロシア革命後、1922年4月27日に、ロシア共和国の一地域として創設されたヤクート自治ソビエト社会主義共和国が、今日のサハ共和国の前身である。ソ連末期の1990年9月27日、ヤクート自治共和国は国家主権宣言を採択した。1991年10月には共和国大統領性が導入され、11月の住民直接選挙の結果、1991年12月にM.ニコラエフが初代大統領に就任した。その際に、共和国の正式名称も、サハ共和国(ヤクーチヤ)に変更になった。ソ連解体を経て、ロシア連邦を構成する主体となったサハ共和国は、1992年4月に共和国憲法を採択した(その後何度か修正)。

 サハ共和国の面積は308万3,523平方キロメートルであり、ロシア全体の18.0%を占める。この面積は、日本の約8倍にも上る。共和国のほぼ全域が永久凍土地帯。共和国の面積の40%強が北極圏に位置する。ロシア連邦の連邦管区の枠組みでは極東に属すが、地理学的には東シベリアの一部として扱われることも多い。北はラプテフ海および東シベリア海(北極海)に面しており、海岸線は4,500kmに及ぶ。共和国は、南北2,500km、東西2,000kmの範囲に広がっている。サハ共和国は3つの時間帯に分かれており、共和国西・中部、首都ヤクーツクはUTC+10、中部はUTC+11、東部はUTC+12の標準時をそれぞれ用いている。

 サハ共和国は長く厳しい冬を特徴とし、10月から4月までが冬と見なされているほどである。とりわけ、オイミャコン村(上の写真はこの村)では1933年2月6日に気温-67.7℃が観測されており、これは人間の定住地および北半球で記録された最も低い気温であるとされている。これに関しては、同じサハ共和国のヴェルホヤンスク市でさらに低い気温が観測されたことがあるとして、異論を唱える向きもあるが、いずれにしてもサハ共和国が北半球で最も気温の下がる地域であることは間違いない。他方で夏には気温が30℃を超えることもあり、1年間の寒暖差がきわめて大きい。

 今日のサハ共和国の経済に着目すると、2011年の地域総生産の実に43.7%が鉱業によって占められており、鉱物資源の採掘によって経済が成り立っていることが分かる(その一方で、製造業は弱体)。2011年の時点で、サハ共和国の鉱業出荷額はロシア全体の3.6%を占め、これは全83地域の中で第8位であった。しかも、エネルギー資源と、エネルギー以外の鉱物とをバランス良く産出するのが、同共和国の特徴である。エネルギー資源では、石油のタラカン鉱床、天然ガスのチャヤンダ鉱床などが、ロシアの今後の主力産地となることが期待されている。ネリュングリ、カンガラスコエ、エリガといった炭田もきわめて重要である。エネルギー以外の鉱物では、ダイヤモンドの世界最大の産地となっており、ロシアで採掘されるダイヤモンドの99%が当地産であると言われる。また、ロシアを代表する金(ゴールド)の産地でもあり、2012年の金の採掘量は21tで、ロシア全体の約10%を占め、全国で3位であった。共和国を代表する企業は、ダイヤモンド採掘・販売のアルロサ社であり、その名は世界に轟いている。その他の主要企業としては、電力部門の極東発電会社、ヤクーツクエネルゴ社、石炭のヤクートウーゴリ社などが挙げられる。

 2010年の国勢調査によると、主な都市その人口は、ヤクーツク28.6万人、ネリュングリ8.1万人、アルダン3.8万、ミールヌイ3.7万人、レンスク2.5万人など。共和国の住民の64.1%が都市に、35.9%が農村に居住している。共和国の民族構成は、サハ人49.9%、ロシア人37.8%、ウクライナ人2.2%、エヴェンキ人2.2%、エヴェン人1.6%などとなっている。国勢調査では、共和国民のうち49.3%がサハ語を母語と、44.3%がロシア語を母語と回答している。

 サハ共和国の紋章、旗はともに1992年に制定された。円形の紋章の中央には、旗を掲げた騎士が描かれているが、それはシシキノ村で発見された洞窟壁画の図柄から採られたものである。また、旗はそれぞれ太さの異なる青、白、赤、緑の帯が水平に伸び、最も太い最上部の青の帯に白い太陽が浮かぶという図柄となっているが、これはサハ人が自らを白い太陽の子と考えていることにちなんでいる。

(2014年5月11日)

2014年、始まりの春

 先日、本HPの閲覧数が10万件を突破した。まあ、カウンターの数え方が、時代によって変わったりしているので、あまり厳密なものではないけれど。他方、2年前に立ち上げたブログが、すでに閲覧数17万件を超えていたりして、あくまでもHPを主と位置付けている自分としては、少々微妙な思いもあったりする。ともあれ、HPは10年間で10万件ということで、何やらキリも良く、自分おめ!と思うとともに、本HPをチェックしてくれている皆様方に改めてお礼申し上げる次第である。

 日本では、春、特に4月は、色んなものの始まりの季節である(右のやつは、遺作になっちゃったけど、春っぽい歌ということで)。個人的には、特に今年の春は、色んなものが変わる、始まる、そんなタイミングになっている。いや、もっと能動的に、変える、始めると言った方がいいかもしれない。私は、所属団体のロシアNIS貿易会においては、会員企業向けの情報提供サービスを統括する役割を担っているのだけれど、この4月からいくつか新たな試みを始めている。で、その一環として、会員企業向けのニュースブログのサービスを立ち上げた。当会には『ロシアNIS経済速報』という、月に3回メール送信で発行しているニュースレターがあるのだけれど、10日に1回コンパイルしてお届けするというのではどうしても限界があるので、ブログ形式でより迅速かつ機動的に情報を発信することにした。新サービスは、「ロシアNIS経済速報 プラス」というタイトルになっている。

 それで、お断りしておくけれど、今後は所属団体のニュースブログを優先し、私個人のブログは薄くしていきたいと思う。私のブログは、あくまでも自腹で、かつ自分の自由時間を利用して続けているものであり、職務とは無関係である。ただ、これまでは、「プーチンがこんな注目発言をした」といった話題があったら、それを自分のブログに掲載していた。これからはそういった事実関係に関する情報は、所属団体のニュースブログで優先的に取り上げるようにしたい、ということである。そもそも、私がブログやフェイスブックを試していたのは、所属団体の情報発信に活かすための実験またはレッスンという意味合いがあって、その目途が立ったから、いよいよ本格的に職務としてそれをやっていこうということだ。

 ここで、個人的な思いを吐露させていただきたい。確かに私はブログで情報を発信しているし、それを多くの皆さんに読んでいただくこと自体はありがたい。しかし、声を大にして言いたいのだが、「情報がタダ」だと勘違いしてもらっては、困るのである。以前も書いたように、元々このHPは、『不思議の国ベラルーシ』という本の販売促進のために立ち上げたものだった。今でも、HPやブログそれ自体が目的というよりは、自分の著作物を宣伝するという意識の方が強い。しかし、最近「ブログ読んでますよ」と声をかけられることは非常に多いが、これだけウクライナが騒がれても、わずか600円の私の『ウクライナ・ベラルーシ・モルドバ経済図説』が売り切れたという話は、一向に聞こえてこない(笑)。いや~、タダ乗りはいけませんよ、皆さん、タダ乗りは。情報を消費する側は、生産する側がそれを安定して続けていけるように、自覚を持って盛り立ててくれないと。私のHP/ブログの読者の皆さんは、私の著作物は無条件に購入する。いや、数冊購入して、親類縁者に配る。企業であれば、四の五の言わずに、ロシアNIS貿易会に入会する。それが社会のルールであると、わきまえていただきたいのだ。

 と、ひとしきり暴言を吐いたところで、個人の近況について述べると、この4月に北海道大学大学院文学研究科博士後期課程(歴史地域文化学専攻・スラブ社会文化論)に入学した。とは言っても、ロシアNIS貿易会の仕事はそのままで、在職のまま博士号の取得を目指すことになる。なお、厳密に言うと違うのだけれど、実質的には、かの有名な北大スラ研にお世話になるということである。ちなみに、北海道大学スラブ研究センターは、この4月からスラブ・ユーラシア研究センターに改称し、先日その改称記念シンポジウムが開催された(上掲写真)。

 それとは別に、やはりこの4月から、毎週金曜日夜、ウクライナ語の講座に通うことになった。私の母校である東京外国語大学が、本郷のサテライトオフィスでやっているオープンアカデミーというやつで、ウクライナ語初級1を受けることにした。こちらは、北大の大学院と違い、実際毎週通って講義を受けている。北大の方はほとんど通わないのに授業料がっつり取られるのに比べて、ウクライナ語の方は全14回の授業で受講料18,000円って、コスパ高っ!と思った次第である。正直に言うと、私はウクライナ語を学ぶこと自体にも、このオープンアカデミーに参加することにも、ためらいを感じていたのだが、現在までにすでに3回あった授業の満足度は非常に高く、本当に申し込んで良かったと思っている。

 (2014年4月27日)

ベラルーシ、やがて来る「その日」のために

 3月が、そして平成25年度が終わろうとしている。それにしても、この1ヵ月ちょっと、2月下旬から3月にかけての日々は、怒涛のように過ぎていった。ウクライナで政変が起き、かれこれ20近いテレビ・ラジオ・新聞・雑誌の取材に対応。まあ、もっと出ている人はいるはずで、ピーク時でもその程度かと言われそうだが、地味キャラの私としては異例の露出振りだった。それとは別に、所属団体の年度末特有の忙しさというのは普通にあり、それに3月19日には日露投資フォーラムという大イベントもあった。むろん、そんなことはお構いなしに、毎月の『調査月報』の編集作業は、容赦なくやって来る。そんな合間を縫って、3月の頭には北海道大学に大学院の受験に行き、見事合格! そうそう、エリック・クラプトンやローリング・ストーンズのコンサートもあったっけ。個人的には、スケジュール表が真っ白な状態が好きなのだが(むろん、遊ぶのではなく、調査・研究活動にじっくりと取り組むためである)、この1か月強は予定表が真っ黒で、今から振り返ると、よく乗り切ったものだと思う。

 さて、そんな具合に忙しさに追われるうちに、重要なことを忘れていたのに気付いた。私の主著である『不思議の国ベラルーシ -ナショナリズムから遠く離れて』が、発行から10年の節目を迎えたのである。2004年3月25日に刊行された本だから、この3月25日でちょうど10年だったのだ。以前も書いたように、元々このホームページ自体、『不思議の国ベラルーシ』の販売促進を目的に立ち上げたものだった。その後、仕事や研究の重点がロシア・ウクライナにシフトし、それに伴って本HPも変容してきたわけだが、「原点」とも言うべき『不思議の国ベラルーシ』が世に出て10年経ったのだから、一言触れておかないわけにはいくまい。

 これまで、あまり意識したことなかったけど、考えてみれば、この『不思議の国ベラルーシ』という本は、ベラルーシ・ナショナリズムにとって神聖な3月25日に発行されたわけか。先日ブログに書いたように、3月25日というのは、実はベラルーシの民主化運動にとっては大事な日で、1918年に「ベラルーシ人民共和国」の建国が宣言された日であり、独立後のベラルーシでは3月25日が「自由の日」として記念され、毎年デモ行進などが行われているのである。むろん、この日が発行日になったのは、著者のあざとい狙いなどではなく、単に出版社のスケジュールの都合でそうなったのだが、不思議な巡り合わせもあるものである。余談ながら、こうやって自分の本の10周年を自分で祝ったり、奇妙な符合について語っていると、自分の大瀧詠一気質をつくづく感じるのである(能力的には足元にも及ばないが)。

 今般のウクライナ政変を受け、マスコミ対応をこなす中で、実は私が一番強く感じたのは、次のようなことだった。いつか、ベラルーシについても、こんな日が来るかもしれない。むろん、ベラルーシは国の重要度という点ではウクライナに劣るものの、ルカシェンコ大統領が政権の座から追われるとか、新政権がロシア圏から離脱するなどということになったら、それなりの騒ぎになるだろう。乗りかかった船だ、そのあかつきには、私がマスコミ対応を一手に引き受けようではないか。そんな時のためにも、日頃からベラルーシ情報の収集を怠ってはいけないな。そんなことを、思った次第だ。

 せっかくなので、ベラルーシのフォトギャラリーを少し。特にキャプションとか付けないけど、雰囲気だけでも。

 (2014年3月29日)

ウクライナ・ボツ原稿供養

 週末にウクライナでドラマチックな政変があったので、24日月曜日にはマスコミ等からの問い合わせが殺到し、1日その対応に追われた。電話取材だけでなく、海外向けテレビニュース用のコメントの収録もあり、そして深夜にはTBSラジオの「荻上チキSession-22」という番組にお邪魔してウクライナ問題につき解説させていただいた。地域研究者であれば誰しも、現地で大事件が起き、マスコミから引っ張りだこになるということをイメージしながら、日々地道な研究に打ち込んでいると思うが、私にとっては今週の月曜日がまさにその日になった。人生最大のモテ日といったところである。まあ、これ以上のことはもうないだろうから、人生のハイライトとして、2014年2月24日、覚えておくか。

 ただ、痛感したのは、自分は今回のウクライナの出来事について、甘い認識や見通しを抱いていたということだ。今さらながら、反省しているところである。

 ところで、TBSラジオの「荻上チキSession-22」に出演した際に、ウクライナに関する入門書を挙げてほしいと頼まれ、私は自分の『ウクライナ・ベラルーシ・モルドバ経済図説』や、黒川大使の『物語 ウクライナの歴史』を挙げたのだった。自分の本を宣伝させてもらったのは有難かったが、私のブックレットは経済が中心で、『物語 ウクライナの歴史』はクチマの時代で終わってしまっており、いずれもウクライナの直近の政治情勢はカバーできていない。むろん語学関係や中井先生の歴史研究などはあるにしても、今回のような大事件が起きた時に、本邦で気軽に手に取れるウクライナ入門書の選択肢があまり豊富でないのは、残念である。

 しかし、実は出版企画はあったのである。現に、私は原稿を書いた。しかし、それは多くの著者による共著だったので、原稿が揃わないのか、一向に出版される気配がない。ただ、語学・文学・歴史系の人はいいかもしれないが(たぶんそういう人たちが原稿を出し渋っていると想像する)、当方は時事問題の章を担当しているのである。政治や経済は、半年経ったら、もう賞味期限が怪しくなってくるのに、私が最初に原稿を出してからもう1年半ほどが過ぎた。もし今入稿するとなれば、それでなくても書き直しが必要なのに、そこへもってきて今回の大事件である(泣き笑い)。ほぼ全面的なリライトが必要だろう。

 ただ、せっかく書いたものを、日の目を見ないまま捨てるのも、忍びない。そこで、原稿の中で、おそらくもう使えないだろうという部分を以下に掲載して、今月のマンスリーエッセイに代えさせていただく。ボツ原稿の供養企画である。当然、今回のような激動は予想だにしておらず、自分の見通しが甘かったことを晒すことにもなるが、いくらでも笑っていただいて結構。

 まず、くだんの出版企画の、内政に関する部分を、私は次のように締めくくった。こりゃ完全にボツだ。

 2012年最高会議選挙の前後の時期に、ウクライナ政界で盛んに指摘されていたのは、次のような見方だった。すなわち、国民からの支持率が低下しているヤヌコーヴィチ大統領が、2015年の大統領選で再選を果たすのは、困難だ。そこで、政権側としては憲法を改正して、たとえば議会が大統領を選出する制度に変更したい。そのためには、単に議会の過半数を制するだけでなく、憲法改正が可能な3分の2の議席、つまり300議席を達成する必要がある。そこで政権側は、これまでも連立を組んできた相手の共産党に加え、小選挙区の無所属議員や野党議員も取り込み、何としても300議席をかき集めるだろう、という展望である。こうした見立てが的中するか否かはさて置き、ヤヌコーヴィチ政権が憲法改正を視野に入れていること自体は、紛れもない事実である。現に、ヤヌコーヴィチ大統領自らが主宰する形で、2012年6月に「憲法会議」を立ち上げている。

 経済については、こんなことを書いていた。

 地域党政権は、手法は強引ながらも、政権発足後ほどなくして行政・立法・司法、そして地方まで含めた権力を固めた。大統領と首相、行政と立法が対立するのが伝統の当国にあっては稀有な、比較的安定した体制が成立した。その下でウクライナ経済は、2010年に4.1%、2011年に5.2%と、まずますの経済成長を達成することになる。むろん、金融・経済危機からの回復効果で、どんな政権であってもウクライナ経済は成長したはずであるが、新政権のもたらした安定が一つの好材料となったことは間違いない。また、2012年6~7月にはウクライナでサッカー選手権「ユーロ2012」が開催され(ポーランドと共催)、それに向けた政府主導の大規模な投資も経済拡大に寄与した。2012年現在の経済規模は、改革開始前の69.4%の水準までどうにか盛り返してきた。ただし、2012年下半期には景気後退に見舞われており、国際機関は相次いで当面のウクライナの経済見通しを下方修正している。
 2010年7月にはIMFによる149億ドルの新たなスタンドバイ・クレジットも決まった。2011年2月にウクライナ政府はIMFの支援も受けながら構造改革プログラムに着手、労働分野やエネルギー・セクターなどの改革を目指すことになった。欧州復興開発銀行(EBRD)など国際金融機関の評価によれば、その後、コーポレートガバナンス、エネルギー効率、税制・財政・金融セクターの安定性強化などの分野では、一定の成果が達成されているということである。
 しかし、司法改革や、公的部門の汚職対策などは、緒に就いたばかりだ。さらに、不安定な年金制度、金融セクターのドル化、ガス事業の独占企業ナフトガスの経営問題などが、引き続き財政にとってのリスク要因になっていると指摘されている。最後の点に関して言えば、政府は公約に反し家庭向けのガス料金を輸入コストをカバーする水準まで引き上げておらず、その結果ナフトガスの純損失は依然としてGDPの1.5~2%に匹敵する規模に上っている。経済危機の時期に増大した民間および国家の対外債務の問題もある。
 今後、ウクライナ経済はどのような軌道を描いていくのであろうか? 現在のところ、ウクライナが輸出できるのは付加価値の低い鉄鋼、化学品などである。なかでもウクライナの基幹産業たる鉄鋼業の技術水準は、先進国から30年前後も遅れており、前時代の遺物である平炉がいまだに使用されているありさまである。鉱工業にしても、農業にしても、全般に生産性はきわめて低い。逆に言えば、近代化の余地が存分にあり、長期的な伸び代が相当に大きいということでもある。ウクライナ当局が適切な政策を講じていけば、そのポテンシャルを活かし、経済を中長期的な発展軌道に乗せていくことは可能であろう。
 もっとも、現時点のウクライナは、経済的に見れば、ヨーロッパ辺境の小国にすぎない。当面ウクライナが、国内の要因で自律的に急成長していくということは、考えにくい。その逆に、内部要因で崩壊の危機に陥るという可能性もまた、低そうだ。ウクライナ経済の浮沈を握るのは、むしろ外的要因であると考えられる。とりわけ、直接的な影響力が大きいのが、2つの巨大な隣人、すなわち欧州連合(EU)およびロシアである。直近では、ギリシャに端を発する欧州危機がウクライナに波及するというシナリオが、最も懸念されるところである。

 まあ、経済に関しては、それほど酷くはなかったかな。次に、対ロシア関係については、こんなことを書いていた。

 2010年1~2月に実施されたウクライナ大統領選の結果、「親ロシア」とされる地域党のヤヌコーヴィチ候補が勝利を収め、新政権が成立した。これにより、完全に行き詰っていたウクライナ・ロシア関係も、改善に向けて動き出した。
 両国の再接近を象徴したのが、いわゆる「ハルキウ協定」である。2010年4月、メドヴェージェフ・ロシア大統領とヤヌコーヴィチ・ウクライナ大統領が会談を行い、「ロシア連邦黒海艦隊のウクライナ領駐留の諸問題に関する協定」に調印したものだ。これにより、両国はウクライナ南部のセヴァストポリに司令部を置くロシア黒海艦隊の駐留期限を、当初の2017年から、25年間延長することで合意した。その見返りとして、ロシア側はウクライナに天然ガスの値引きを提供することになった。すなわち、1,000立米あたり330ドルを超えた場合には100ドル分を、それ以下の場合には30%分を値引きすることで合意した。ウクライナ議会で野党が猛反対したものの、協定は両国で迅速に批准され、発効した。2012年7月には、長年の懸案であったウクライナ・ロシア間の海上国境の画定につき、両国が基本合意するという進展もあった。ロシア側が海峡の中間にあるトゥズラ島のウクライナ領有を認め、両国大統領が共同声明に署名したものだ。
 ところで、2010年のハルキウ協定について、当初から根強かったのは、ヤヌコーヴィチ政権はウクライナ国内のオリガルヒ(大規模な企業グループを有する富豪)に配慮して協定を結んだという批判的な見方であった。ヤヌコーヴィチ大統領および地域党は、ドネツィク州を中心とする東ウクライナの重工業地帯を地盤としており、そこには天然ガスを大量消費する製鉄所や化学工場がひしめいているので、工場向けに「安いガス」を取り付ける点に主眼があった、という批判である。真偽のほどはさて置き、ヤヌコーヴィチ政権の対ロシア戦略が経済的利益の追求に重点を置いたものであることは、紛れもない事実であろう。その一方で、外交・安全保障面ではロシアに配慮する傾向が強く、歴史・言語などの領域でもロシアを刺激しない政策が採られている。
 このように、ヤヌコーヴィチ/地域党政権成立後、ウクライナ・ロシア関係は総じて改善に向かった。しかし、次第に両国の思惑の違いも目立つようになっている。なかでも主要争点になっているのが、ウクライナがロシア・ベラルーシ・カザフスタンの関税同盟/共通経済空間に参加するか否かと、ロシアがウクライナに供給する天然ガスの価格である。
 関税同盟/共通経済空間に関して言えば、ロシアが自国主導の統合への参加をウクライナに強く求めているのに対し、ウクライナ側は抵抗を示している。言うまでもなく、本件はウクライナが目標とする欧州統合への参入と、裏表の関係にある。ヤヌコーヴィチ政権は、関税同盟諸国と「3+1」の協力関係を築きたいとの立場を示しており、ロシアとの付かず離れずの距離感を保とうとしている。
 一方、一向に妥協点が見えてこないのが、天然ガスの価格をめぐるウクライナ・ロシア間の交渉である。現在のウクライナのロシアからのガス輸入は、2009年に当時のティモシェンコ首相の下でロシアと結んだ協定にもとづいて行われており、石油に連動して価格が決まる方式となっている。だが、その後の油価高騰でウクライナのガス購入価格が大幅に上昇してしまっていることから、ウクライナ側はこの方式が自国にとってきわめて不利と見なし、その見直しをロシア側に求めている。また、天然ガスおよびシェールガスの国内生産の拡大などを通じ、脱ロシア依存を急いでいる。
 最近では、ロシアはトランジット国を介さずに海底に天然ガス輸送パイプラインを敷設してヨーロッパ市場に直接アクセスするという戦略を強めつつある。北のバルト海では「ノルドストリーム」がすでに稼働し、南の黒海でも「サウスストリーム」の建設が2012年12月に開始された。天然ガス輸送トランジット国としてのウクライナの価値、ひいてはロシアに対する交渉力は、低下しつつある。

 以上、ごみ箱行きの可哀想な原稿たちの供養でした。来月まで、御機嫌よう。

 (2014年2月25日)

3ヵ国(1ヵ国?)B級グルメとCDの旅

 1月15日から19日にかけて、香港とマカオに旅行に行ってきた。中国のシンセンにも足を延ばしたので、3ヵ国を駆け足で回ってきたことになる。まあ、厳密に言えばいずれも中華人民共和国なので、1ヵ国なのではあるが、それぞれ出入国手続きを経て出たり入ったりしたわけで、せっかくなので「3ヵ国」とカウントさせていただきたい。

 今回は、私費で出かけた、純然たる観光旅行である。実は、私の所属団体のロシアNIS貿易会は1月16日が創立記念日で休業なので、これに成人の日をからめたり、1日くらい有給休暇を足したりすると、旅行に出かけるのには打って付けなのである。私も十数年前に、これを利用して台湾に遊びに行ったことがあった。今回久し振りに、この手を使ってみることにした。年末・年始と雑誌の編集作業でまったく休んでいなかったので、その代わりのようなものである。考えてみれば、2001年にベラルーシから日本に帰任して以降では、仕事の出張を別にすれば、いわゆる「海外旅行」に出かけるのは、これが初めてである。

 ただ、香港・マカオという超ベタな観光地について、いまさら私が語ったところで、無意味だろう。なので、本エッセイで取り上げるつもりも特になかったのだが、他にこれといってネタもなく、まあせっかく行ったので軽く触れておくことにした。一般的な観光スポットのことなどにはあまり立ち入らず、B級グルメと、音楽コンテンツの話題に絞ってお届けする。実は香港から帰国直後にインフルエンザにかかり現在療養中ということもあり、いつもにも増して無内容であり、なおかつロシア圏とはまったく関係ない話ばかりだが、ご勘弁いただきたい。

 まずは、以前北京で買ってきた地図帳から、香港・シンセン・マカオ(澳門)の位置関係を。あんまり分かりやすくもないかな。

 1月15日夜に成田からの直行便で香港に到着し、この日は九龍・尖沙咀のホテルにチェックインして寝るだけ。翌16日から行動開始。個人的に、ブランドものとかにはまったく興味がなく、また高級中華を食べたりする柄でもないので、とにかく香港に行ったら猥雑な下町を散策し、屋台で売っているような怪しげな食べ物なんかを色々食べてみたかった。そこで、まずは九龍の油麻地、佐敦界隈のストリートマーケット、市場などを冷やかした。ホントは、昔の九龍城を観たかったのだけれど、とっくの昔に取り壊されて、今は何も残っていないようだ。

 次に、地下鉄に乗って香港島に向かい、香港の中心である中環から、漢方薬・乾物屋などの商店が軒を連ねる上環方面まで歩いてみる。珍しいものでは、毒蛇スープなんてものを食してみた。味にはそれほどクセはなく、普通に食べられる。

乾物屋の店先にて、気味の悪い食材を発見

 やはり中環~上環の界隈で、下の写真に見るように、オーディオビジュアル関係のソフトを販売している店を見付けた。香港でも、当然パッケージソフトは時代の逆風にさらされて苦戦していると想像されるが、それでもこういう物理的なCD・DVDを売っている店があると嬉しい。しかし、この店、無秩序に商品が山積みされており、下の方のディスクを取り出そうとしたら、ディスクの壁が崩壊してきて、大変だった。

 崩壊した壁の後始末は店員に任せ、私がチョイスしたのは、「客家山歌」というカセットテープ。床に置いてあった埃だらけのエサ箱の中に、紛れていた。客家とは何かという説明はウィキペディアにお任せするが、客家は香港の郊外にも一定数が暮らしていて、観光資源になってもいるようだ。私は今回そんなものまで観て回るヒマはなかったので、その代りに民謡のカセットだけ買ってきたというわけである。いやー、数年振りにカセットなんて聴いたな。一応、1曲目をMp3にしてアップしておいたので、話のタネにどうぞ。アンサンブル的に言うと、エレキベースに異物感があって、ない方がいいな。

 上環名物のハンコ街で、自分の干支の龍の彫り物の入ったやつをチョイスして、名字を掘ってもらった。所属団体の創立記念日でもあるし、何やら色々めでたそうで、良いではないか。値段も全然高くはなく、2,000~3,000円程度だったと思う。下のおじさんが作ってくれた。

 で、一応香港に来たからには、ヴィクトリア・ピークに登って、そこからの夜景を楽しまねばなるまい。そこで、夕方5時頃、ピークに登るための「ピークトラム」というケーブルカーの乗り場に向かったところ、観光客で大行列ができており、乗るのに最低でも2時間かかるとのことだった。こりゃ駄目だとすぐに見切りをつけ、今晩はまた九龍の旺角~油麻地の界隈に取って返して、そこの夜市で遊ぶことにした。

 旺角の通称「女人街」と呼ばれる通りには、本格的なCDショップが何軒かあった。私はそこで衝撃の出会いを果たすのである。店頭で演奏されていた中華歌謡の歌声に、釘付けとなった。最初は声質や歌の上手さからして鄧麗君(テレサ・テン)かなとも思ったのだが、サウンドがモダンで、演奏が生ジャズ的なスタイルでもあるので、ちょっと雰囲気が違う。店頭のディスプレイで確認すると、それは胡琳(ビアンカ・ウー)という女性歌手の『Jazz Them up Once More』という新作とのことだった。店頭で演奏されていた作品を気に入って即買いという、実に久し振りの体験をした。ちなみに、私は次の日に別の店でも、やはり店頭でかかっていた曲が気に入り店員にアーティストを尋ねたのだが、実はそれは同じアルバムの別の曲だったというオチがあり、よほど私好みなのだろう。そんなわけで、私が店先で衝撃を受けた「分手總要在雨天」という1曲を、サンプルとしてご紹介する。今はニューヨークを拠点に活動してるみたいで、このアルバムもニューヨーク録音だ。

 観光客で賑わう女人街~男人街で、露店などを冷やかしながら、夕食をとる店を探したが、どうも上手いものが見付からない。もちろん、入ってみたい店は色々とあるのだが、今回は1人で旅行に来ているので、1人で入りやすく食べやすそうな店というのが中華ではなかなか難しいのだ。結局、麺になっちゃうんだよなあ、そうすると。で、迷いに迷った挙句、最終的に入ったのが、雲桂坊というエスニックな麺料理を供する店だった。たぶん、チェーン店ではないかと思う。ここの小鍋酸辣米線というのをオーダーし、豚肉を甘辛く煮たものと、鱈魚豆腐というやつをトッピングした。結果的には、きわめて美味であった。かなり辛く、酸味もあって、とてもコクのあるスープだ。トムヤムクンに近い感じと言えばいいか。結論から言えば、これが今回の香港・マカオ旅行中に食べたものの中では、最も美味しかった。

 翌17日は、日帰りで中国本土のシンセンを訪問することにした。事前に香港のガイドブックを眺めていたら、香港から簡単に行けそうだということが分かって、どうしても行きたくなったのである。初めて香港に行くのだから、もっとじっくりと香港を観光すればいいものを、色んな場所を制覇したいと思ってしまうのが、個人的な性分なので。一応、ロシアの経済特区の研究者でもあるので、経済特区で成功したシンセンを一目見ておくかという気持ちもあって。

 そんなこんなで、17日朝、北の郊外に向かう電車「東鐡線」に乗り込んだ。1時間ほど乗ると、国境の街、羅湖に到着。1時間に1本くらい、本土の広州まで直通で行く列車もあるみたいだけど、大多数の列車はここが終点。電車を降り、国境になっている川の上に設けられた通路を各自徒歩で超えることになる(上の写真)。当然、香港側の出国手続き、中国側の入国手続きを経なければならないが、観光客を中心に利用者も多いし、それほどのものものしさはない。無事中国に入国して表に出ると、そこはシンセン鉄道駅前の広大な広場である。

 とりあえず、地下鉄に乗って、シンセンのランドマーク的な高層ビルに向かい、69階展望台からシンセンの街を見渡してみた。いや~、何と言っても今日ではシンセンは人口1,500万に迫る超巨大都市に成長していて、この街一つだけでベラルーシの人口軽くオーバーみたいな、すさまじいことになっている。

 中華人民共和国では、とかく毛沢東を偉人として崇め立て、その一方で改革開放の立役者である鄧小平は少々影が薄い感じがする。ただ、シンセンの超高層ビルの展望台には、経済特区設置に果たした鄧小平の役割に関するパネル展示があったり、サッチャー英首相との香港返還交渉に臨む彼の蝋人形がディスプレイされていたりして、土地柄を感じさせた。

 そのあと、シンセンで若者が集う場所ながらなぜか老街という名の繁華街に移動して、そこのフードコートでひたすらジャンク飯を食いまくった。肉の盛り合わせライス的なものに始まって、潮州水餃子、客家豆腐、カニ・エビ・シャコのスパイシー炒め、臭豆腐、などなど。日頃、ロシア圏の出張でご当地グルメ的なものにはまったく無縁なので、このフードコートのように中国各地の料理やおやつが一堂に会していると、さながらパラダイスのようである。

水餃子は皮がやたら厚くもちもちしすぎていて、具の旨味はあまり感じられなかった

かなりピリ辛い客家豆腐

ちょっと名前にびびったが、何でも食べてやれと思って試した「臭豆腐」、思ったよりも食べやすい

皆さん、イス低すぎ(笑) 銭湯じゃないんだから

 散々食い散らかして、残った中国元は、老街にあったCDショップで、CDを買って使い切り。昨日の胡琳さんに味をしめて、女性歌手3人のベストを組み合わせたようなCDセットを購入。しかし、どこの地域のどんな歌手なのか、説明がないのでさっぱり分からない。だいたい、メーカー名やタイトル名を検索しても、1件もヒットしないということは、海賊版なのかな?

 短いシンセン滞在を終え、再び出入国手続きを済ませて、香港中心部に戻る。昨日のリベンジというわけで、今日は早目にピークトラムの列に並び、ヴィクトリア・ピークをめざすことにしたのだ。麓駅の行列は、昨日よりは半分以下に見えたが、それでも頂上行きのトラムに乗り込むのに、1時間半くらいかかった。こりゃー難儀だ。ピークのテラスで、夜のとばりが降りるのを待つ。てなわけで、世界三大夜景の一つを、拝んできたわけだが、正直に感想を言えば、世界三大というほど綺麗か、2~3時間も行列してまで見に行く価値があるかと言えば、少々疑問だった。個人的には、ニューヨークのエンパイアステートから見る夜景が、宝石箱をひっくり返したようなきらびやかさで、世界一だと思っている。

 さて、この2日間、露店やフードコートでジャンクなものばかり食べていたので、香港最後の晩くらいまともなレストランに入るかと思い、ガイドブックに出ていた倫敦大酒楼という飲茶で有名な店に行くことにした。行ってみると、名店であり、金曜日の夜ということもあって、だいぶ混雑していて、かなり待たされたが。それに、個人的に飲茶って日本でも経験したことがなかったから、まったく要領を得なかった。水餃子のスープ、鶏のちまき、シューマイ、チャーシューまん、鶏の足の蒸しもの、名物「マンゴー入りココナッツ団子」などを注文。味は、う~む、美味かったような、期待ほどでもなかったような、良く分からん。

 18日(土)朝、ホテルからフェリー埠頭まで徒歩で移動し、最後の訪問地、マカオ行きの船に乗り込む。むろん、香港からの出国手続きをとり、現地に着いたらマカオ入国手続きをとるわけである。乗ったのは、ターボジェットという乗り物。これ、写真に見るように、水面から浮くようにして、かなり高速で疾走するのよね。なので、デッキの外に出ることは禁止で、窓にもかなり水しぶきがかかったりして、効率は良いものの、のんびり景色を見るような船旅ではなかった。1時間くらいで、マカオ到着。ただ、冒頭の地図を見ていて初めて気が付いたけど、何と香港空港とマカオを海上橋で結ぶプロジェクトがあるみたいで(工事の様子は見て取れなかったが…)、それが完成すればマカオへのアクセス事情も一変しそうだ。

 

 ところで、香港からマカオに移動したら、香港ではまったく見かけなかったバイクがやたら多い街であり、びっくりした。同じような国民で気候もだいたい同じなのに、なぜマカオだけがバイクだらけなのか、不思議だ。

 さて、マカオでは南欧的なしっとりとした街並みをのんびり散策しようなどと思っていたのだけれど、とんでもなかった。マカオ観光の中心地であるモンテの砦、聖ポール天主堂跡、聖ドミニコ教会の周辺では、土曜日ということもあってか、世界各国から詰めかけた観光客でごった返し、ほとんど原宿のような喧騒の地と化していた。ちょっと中心部から外れると、ほとんど人影がないようなエリアもあるのだが、とにかく中心部に観光客が集中しすぎである。

夕方になったらだいぶ人気もなくなった、聖オーガスチン教会

 人混みが何より嫌いな私としては、人でごった返す中心部には、辟易とさせられた。そこで、ガイドブックを片手に名所を巡るのは止め、足の向くまま、適当に旧市街の路地裏を歩き回ることにしたら、これが楽しいの何の。南欧的な街並みではなく、ディープな中華路地裏散歩であり、結局香港でもマカオでも同じことをやっていた。

 さて、そんな路地裏散歩を続けていたら、おあつらえ向き、私の大好きなCDショップを発見! 上の写真に写っている店がそれなのだが、ぜひとも、こんなマカオのうらぶれた路地裏で、記念の一品を買って帰りたいものである。しかし、このように買う気満々の客が大甘な基準で査定しても、購入するに値するものが見付からなかった(涙)。とにかく、商品が20年前に仕入れたような古びたものばかりで、それらが埃をかぶって薄汚れたまま放置されているような感じの店だった。それはそれでえもいわれぬ情緒だったのだが、結局一つの品も選ぶことができず、後ろ髪を引かれるようにして、この店を後にした。

マカオで個人的に気に入った食べ物
板状に伸ばした甘辛い肉を、ハサミでチョキチョキ切って売っている

 さて、今回の旅行で最後の晩は、やはりちゃんとしたものを食べてみたいものである。そこで、ここはガイドブックに頼ることにし、鳳城珠記麺食専家という名の、海鮮が良さそうなレストランに入ってみた。ただ、メニューを見ると、魚料理のバリエーションが意外に多くない。そのことを店員に訴えると(英語があまり通用している雰囲気はないが)、生簀に案内された。魚は、メニューというよりも、生簀から選んで時価で、ということらしい。行きがかり上、適当な魚を指さしたところ、その重さを計り、確か「280パタカ」とか言われた。ワオ、それって4,000円近いじゃないの。こちとら、今晩は手持ちの200パタカ以内で夕食を済ませようと思っていたので(この店はカード不可)、「すいません、お金足りません」と謝り、魚を生簀に戻してもらって、私は1つの命を救ったのだった。

 結局、チャーハン、イカと野菜の炒めもの、牛肉と卵の炒めものという、日本の中華でも充分食べられそうな平凡なものを選んで、ひたすらこの3品をぱくついたのだった。向こうのテーブルでは、何やらどこかのグループが色んな品を頼んで、大騒ぎしながら食事していた。「中華料理って、大家族を担保するものなのかな?」なんてことをつらつらと考えながら、私はひたすら三角食べを遂行した。

 考えてみれば、普通の皆さんは、せっかくマカオに行ったら、カジノで遊んでみようとか思うのかな? あいにく、飲まない、打たない、買わないをモットーに生きている(?)人間なので、下の写真に見るような醜悪なカジノホテルのビル群を見ても、嫌悪感しか抱かない。結局、マカオでは6,000円くらいしか使わなかったな(カードで払ったホテル代とフェリー代は別として)。カジノに何億円と注ぎ込む人もいるみたいだけど、こちとら下町を散歩してきただけだからな。安い男だな、我ながら。

 翌朝、再びターボジェットに乗り、香港国際空港に到着。香港ドルも、中国元も、マカオ・パカタも、綺麗さっぱり使い切り、これで心置きなく帰国できると思ったのだが、香港の空港で予想外に、空港使用税の払い戻し120香港ドルというのが戻ってきた。1,500円くらいか。そこで、食べたいと思いながら香港では機会のなかったお粥を、空港のレストランで食すことに。調子に乗って、山東風肉団子も付けちゃった。注文した品は余裕で120に収まっていたのだが、会計しようとすると、テーブルチャージだの何だのが加算されて、133に(笑)。結局、2米ドルを足すはめになった。まあいいや、これで正真正銘、使い切った。

 まあ、そんな感じの、香港・マカオ旅行でしたわ。全体的な感想としては、香港・マカオともに、思ったよりも英語が通じないな、ということ。もちろん、サービス業の人とか、若い人なんかは最小限はできるけど、香港なんて最近までイギリスの植民地だったのに、そうとは思えないくらい、ごく普通の中国語(広東語)社会だな、と。他方、香港では北京流の大幅に簡略化した「簡体字」は使っておらず、繁体字を使っているのだななどということにも、今さらながら気付かされた。あー、それにしても、中国語勉強したいわ。

 (2014年1月27日)