今年買った大物

 大掃除をしていたら、大晦日の夕方になってしまった。まだ12月のマンスリーエッセイを書いていなかったので、ロシア・ユーラシア研究とはまったく関係ない、道楽の話をさせていただく。

 個人的に、音楽のサブスクはやってない。厳密に言えばAmazon Prime Musicは利用できるが、実際にはほとんど使っていない。相変わらず、音楽は自分が購入したフィジカルコンテンツを聴くのが中心である。

 とはいえ、以前と比べれば、フィジカルを買うことはかなり少なくなった。そんな中、今年購入した、大物のフィジカルを、ここでご紹介したい。

 これは、ドイツの名門リイシュー会社であるベアファミリーから出たFats Domino, I’ve Been Around - The Complete Imperial and ABC Recordings (12-CD & DVD Deluxe Box Set)というアイテムである。ニューオリンズR&Bを代表するファッツ・ドミノのImperialおよびABC時代の全録音を網羅した代物だ。

 この商品についてはちょっとした経緯があり、元々20年くらい前に出たCD全集があったのだが、それはとうに廃版になっていた。私はそのCDボックスを、一度だけモスクワのマルチメディアショップで見かけたことがあり、その時に買っておけばよかったのだが、ロシアで売っている商品なのでまがいもののようなイメージがあり、購入に踏み切れなかったという悔いがあった。

 それが、2019年にさらに音質の向上が図られ、レア音源なども追加した新たなCDボックスが発売されたのである。ところが、そのCDボックスが日本の音楽雑誌などで紹介され、私がAmazonで注文を試みた時には、あろうことか、もう売り切れになっていた。Amazonだけでなく、タワーもHMVもユニオンもあらゆる販路が売り切れであり、何度か利用したことがあるアメリカAmazonも駄目で、途方に暮れた。その後も、ヤフオク、メルカリ、色々探し続けたが、徒労に終わった。一度などは、このアイテム欲しさに、詐欺サイトにお金を振り込む寸前まで行ってしまったこともあった。

 諦めきれず、今年になって、このCDセットの発売元であるベアファミリーのサイトをチェックしてみたところ、なぜか大元のベアファミリーでは「在庫あり」になっており、直接注文ができそうだった。発売元には在庫があるのに、あらゆるショップで品切れになっているというのは、なかなか不思議なことである。ドイツの会社に直接通販を申し込むのは初めてなので、不安があったが、思い切ってベアファミリーのサイトに注文を出してみたのである。そしたら、無事、日本の我が家に届けられた。所要時間は1ヵ月くらいだっただろうか。DHLの配送料がかかったが、トータルで日本での小売価格と変わらないくらいの出費で済んだ。案ずるより産むが易しとはこのことかと思った次第。というわけで、念願のファッツのボックスを手に入れたことは、自分の趣味の分野で、今年一番嬉しい出来事だった。

 あとは、適当に流して紹介するけど、これはロッド・スチュアートのアトランティック時代のLPをまとめたボックスセット。ロッドはこれまで有名曲くらいしか聴いておらず、アルバムは未体験だったし、音楽的にアナログ盤が似合いそうなので、買ってみた。

 個人的に、サザンオールスターズはモロに世代なのだけど、これまで、ほぼ素通りしてきた。しかし、思うところあり、一度きちんと聴いてみるかと思い立ち、聴くならやはりオリジナルのLPだろうと考え、一つずつ集めるのは面倒なので、ヤフオクのセット商品を一気買いした。音楽的にはともかく、ちょっとLP盤のオーディオ的品位が低い印象を受けたのだが、どうなのだろうか。

 これは、セット商品ではないけど、大貫妙子さんの再発LP10枚。大貫妙子さんは、これまで断片的には聴いてきたのだけれど、体系的に聴けてないという負い目があった。今年、従来CDだけだった東芝EMI時代(1992年~2005年)のオリジナルアルバム10作がLP化されたので、それらを買い揃えた。昨今のシティポップ・ブームで高騰してしまい、大変なのだけど、それ以前の時代のLPも、そのうち集めてみたい。

 最後に、大大大好きな歌手の柴田淳さんが、今年デビュー20周年を迎えたようで(ただし私が聴き始めたのはここ5~6年くらい)、記念に出た20th Anniversary Favorites: As Selected By Her Fansというアイテムを、暮れに購入した。普通の3枚組CDも発売されたが、ここは当然男気で24,200円のSPECIAL BOX SETを選択。初回限定盤+2LP(3SHM-CD+2LP+書籍)という内容。

 忙しくて、まだ箱を空けてもいなかったんだけど、今からこれを聴いて年越しすることにしよう。

(2021年12月31日)

我々外国語学習者が素人さんから訊かれる三大質問

 先日、静岡に帰省した際に、久し振りに親戚の皆さん多数とお目にかかる機会があった。私自身は、東京の大学でロシア語を専攻し、今も東京に住んでロシア関係の仕事をしているわけだが、親戚の皆さんは地方都市在住の、フツーの日本国民である。

 今回、ずいぶんと久し振りに親戚の方々と会話し、「我々外国語学習者が、一般の方から必ず訊かれて困る典型的な質問があるな」ということを実感したので、今回はその三大質問について語ってみたい。

質問その1:あなたはその言葉がペラペラなのか?

 これは必ず訊かれる。しかし、答えるのに非常に困る質問だ。日本人は謙遜の民族である。たとえば、美味しいと評判の料理人がいたとして、「あなたはカリスマシェフですか?」と尋ね、「はい、私はカリスマシェフです」などと答える人は、まずいないだろう。会社の社長で、自ら「オレは敏腕経営者だ」なんて言っている人がいたら、白眼視されるに違いない。ロシア語屋が、仮に多少自信があっても、「私はロシア語がペラペラです」などと言うはずはないのである。

 ただ、例外も、なくはない。私の勤務先の先輩で、惜しくも亡くなってしまったが、池田正弘さんという方がいた。大変なロシア通として知られており、自ら車を運転してロシア各地を周り、上掲のような本まで上梓された。

 その池田さんは、「ロシア語ペラペラですか?」と訊かれると、「はい、私はロシア語ペラペラです」と、何の躊躇もなく言い切っていた。確か、生前伺ったところによると、変に日本的に謙遜せずに、自信をもってその語学ができると言い切った方が、実際に上達するというようなことをおっしゃっていたと思う。

 まあ、私のような半端なロシア語力の人間と違い、池田さんは実際にペラペラだったので、そう答える資格もあったわけだが。

質問その2:通訳もできるのか?

 どうも、一般の皆さんは、語学力→通訳という連想が強いようだ。これも答えるのに困る質問である。

 本物の通訳というのは、単にその外国語ができるというだけでなく、訓練で身に付けた特殊技能である。プロの通訳は、語学力や知識も膨大なものが要求されるし、とっさの判断力なども必要である。

 通訳専門家でなくても、たとえば外務省なら、職員が要人の通訳をしたりする機会もあるので、ちゃんとした研修を受けさせて、語学のエキスパートを然るべく養成する。私が在ベラルーシ大使館で働いていた時の臨時代理大使は、そのようなロシア語のプロで、天皇陛下の通訳までしたことがあった。外務省の語学エキスパートは、職業的な意味での通訳専門家ではないにせよ、通訳をすることは業務の一環である。

 そういう高度なレベルではなく、もっとカジュアルでいいので、通訳ができるかと問われれば、これはもう程度の問題としか答えようがない。私の場合、「通訳ができるか?」という質問に、正直かつ丁寧に答えようとしたら、以下のような回答となる。

 「政治や経済など、自分の得意分野であれば、まったくできないわけではない。ロシア語→日本語に関しては、相手がゆっくりはっきり話してくれれば、それなりに正確に訳せるだろう。当然、日本語→ロシア語は、より難易度が高く、かなりたどたどしくなり、大汗をかきながら、何とか意味を通じさせる程度になる。文化とか科学とか、そういう自分が門外漢の分野は当然無理で、増してや会議通訳などは論外。」

 その一方、プロの通訳さんというのはオールラウンダーなので、たとえば経済問題などの通訳を、必ずしも常に完璧にできるわけではない。そういうテーマについては、私のような専門知識を持っている人間の方が、すぐに「あ、あの話だな」と察しがつくので、結果的に私の方が上手く訳せたりすることもあるだろう。

 というような込み入った説明をするのは非常に面倒なので、一般の方に「通訳もできるの?」と訊かれると、困るのである。

質問その3:その国の「主食」は何か?

 最後は、語学とは関係ないが、我々のようなある外国にかかわっている専門家に対し、一般の日本人が必ず尋ねるのが、その国の「主食」である。

 ロシアの場合、「パン」と答えておけば正解であり、それだけのことではある。しかし、どうも私は、「いや、そうとばかりも言い切れないぞ」などと余計なことを考え、色んなことに思いを巡らせて、つい口ごもってしまうのである。

 そもそも、日本における「主食」という概念自体が、かなり独特のものではないかと思うのだ。日本では、米は単に主な食べ物というよりも、「石高」に象徴されるように歴史的に統治の枠組みにすらなってきたし、現代でも「米は聖域」として輸入を規制するなど、神聖視されているところがある。食事の構成も、まず米の飯がありきで、そのお供としておかずがある形が基本だ。諸外国にも、日常的に食されている主な食べ物は当然あるだろうが、日本における米の位置付けとは微妙に違うような気がする。

 日本語版のウィキペディアには当然「主食」という項目があるが、それに対応するロシア語版ウィキペディアの項目は「Основные продукты питания」であり、「基本的な食料品」というかなり説明的なものだ。日本語の「主食」とは、ニュアンスが違うのではないか。なので、「ロシアの主食は何?」と問われ、「パン」と答えておけばいいものを、個人的にはつい「いや、そもそも『主食』という概念が」などと言いたくなるタイプなので、どうも会話が上手く行かない。

 まあ、「ペラペラ」にしても、「通訳」にしても、「主食」にしても、訊く方もそんなに関心があるわけじゃなく、場を繋ぐための話の種として訊いているだけだから、答える方もテキトーでいいんだけどね、本当は。

(2021年11月21日)

旅客機絡みの事件に追いかけ回される人生

 あまり人に言ったことはないが、実は私がソ連~ロシア研究を志すきっかけとなったのは、大韓航空機撃墜事件だった。1983年9月1日に大韓航空のボーイング747が、ソ連領空を侵犯したため、ソ連軍の戦闘機により撃墜された事件であり、乗員・乗客合わせて269人全員が死亡している(日本人28人を含む)。

 私は高校時代には英語や世界史が得意で、その延長上で、東京外国語大学に進学して英語以外の欧米言語を学んでみたいと考えるようになった。ただ、現役の時はどの言語を選ぶか迷いがあり、確固たる決め手もないまま、ドイツ語学科を選択して受験した。それが、見事に不合格となり、1年間の暗く寂しい(?)自宅浪人生活を送ることになったのである。

 それで、1年目で外語受験に失敗した教訓として、自分は古い受験英語にばかりとらわれ、生きた英語に触れる機会が少なすぎたのではないかと考えた(外語の受験では英語のリスニングもあり、それが上手く行かなかった反省があった)。そこで、浪人時代にはジャパンタイムズを読み、FENを聴くことを習慣付けるようにした(静岡ではノイズだらけで聴きづらいのだが)。当時は、ソ連の体制が硬直化し、米国との冷戦が再燃して、核軍拡を含む国際的な緊張が高まっていた時代だった。1983年の私は、孤独な日々を過ごす中、ジャパンタイムズとFENを通じて世界と向き合っていたので、もともとそれほど大きいわけではなかった国際政治への興味が、急激に膨らんでいった。その最中、1983年9月に起きたのが、くだんの大韓航空機撃墜事件だったというわけである。

 もっと具体的に言うと、特に私を突き動かしたのは、朝日新聞に掲載された記事だった。特派員が、街の一般市民に、ソ連軍が民間機を撃墜した事実を告げると、その市民は自国軍の無慈悲な行為に酷く動揺した、といったレポートだったと記憶する。それを読んで私は、「ソ連と言うと、指導部は冷酷無比なイメージしかないが、市井の人々はこんなに善良で、我々とさほど変わらぬ感覚を持って生きているのか。ソ連の硬直的な外見だけで判断するのではなく、人々の心根も含め、この国がどんな風に成り立っているのか、研究してみる価値がありそうだぞ。そのことを抜きに世界平和の問題は理解できないのではないか」などと考えるに至り、それでロシア語学科を受けることにしたのである。今から思えば幼稚な発想だが、なにせ田舎の宅浪生が考えたことなので、ご容赦願いたい。

 ちなみに、私のブログなどをお読みいただくと、世論調査の結果を紹介することが多いと、お気付きになるかもしれない。ロシアやベラルーシの政治が、民意によって決まるわけでもないのに、世論にこだわるのは、1983年9月に読んだ朝日新聞の記事が、自分のソ連/ロシア研究の原点だからなのだと思う。

 というわけで、ソ連研究を志すに当たって、私のもともとの関心は国際安全保障だった。ただ、その延長上で東西貿易、対ソ経済制裁、政治と経済のリンケージなどにも関心を持つようになる。そして、大学卒業後に、現在の勤務先であるソ連東欧貿易会・ソ連東欧経済研究所(現在のロシアNIS貿易会・ロシアNIS経済研究所)に職を得たことで、経済研究にシフトしていったという経緯がある。

 ただ、お里がお里なだけに、経済研究を生業としながら、経済学的な方法論に不得手であるという引け目が、私にはあった。そこで、2014年4月に入学した北海道大学の博士課程では、遅れ馳せながらその課題に向き合い、経済学的に洗練された博士論文を仕上げるという決意を抱いていた。当初思い描いていた研究テーマは、現代ロシアの地域開発であった。

マレーシア航空機を撃墜した地対空ミサイル「ブーク」

 ところが、「さあ、大学院で経済学に特化だ」と思ったその矢先に、30年あまりの時を経て、再び民間機が撃ち落とされる事態となった。マレーシア航空機撃墜事件である。2014年7月17日にマレーシア航空の定期旅客便がウクライナ東部上空を飛行中に撃墜され、乗客283人と乗組員15人の全員が死亡したものだ。私はその時、大学院の総合演習で初めての発表を行うために札幌に滞在していたのだが、日本ではウクライナ研究者は希少なため、事件に関する分析やコメントを求め私の携帯に電話をかけてくるマスコミなどもあった(むろん、こんな事件に関し満足な受け答えはできないが)。本人としては純度の高い経済学の研究をしたいのに、まるで自分のロシア研究のルーツに追いかけられているような、とても奇妙な感覚を覚えた。結局、博士論文のテーマ自体、ロシアの地域開発から、地政学危機の中のロシア・ウクライナ・ベラルーシの経済利害というものに変更を余儀なくされたのである。

 そして、今年に入り、またしても私は、旅客機絡みの事件に振り回されることになった。5月23日に発生したミンスク旅客機強制着陸事件がそれである。この事件に関しては、6月のエッセイでも言及したし、「旅客機の強制着陸で『ルビコン川』渡ったベラルーシ その先に待っていたのはロシア?」というコラムも発表しているので、そちらをご覧いただきたい。

 我が国では、ベラルーシの専門家は、ウクライナのそれ以上に希少なので、強制着陸事件を受け、またぞろ私の携帯電話が騒がしくなった。こうなると、個人的に、もはやトラウマである。旅客機絡みの事件は、多くの人命がかかるだけに、それ自体重大なのは当然だが、私の場合は個人史と照らし合わせて、より一層、心をかき乱されてしまうのである。

(2021年10月24日)

核戦争におびえた夜 ―私の9.11―

 このコーナーでは4月に「『●●周年』にこだわる私だけど」というエッセイを書いた。書いたあとにすぐ、「そう言えば今年はアメリカ同時多発テロ9.11から20周年でもあるな」と気付いた。そんなわけで、その重い記念日が巡ってきた。

 ところで、今日の今日まで私はずっと、2001年9月11日は金曜日だと思い込んでいた。今般確認したところ、実際には火曜日だったそうである。記録を調べたら、私は翌12日から夏休みだったということが判明。事件の翌日は休みで、家でテレビをずっと観まくった記憶があり、だから事件当日は金曜日だと勘違いしていたわけだな、なるほど。

 私は事件の発生を、テレビ朝日のニュースステーションを観ていて知った。ちなみに、若い人は知らんだろうが、当時の日本国民は、だいたい久米宏氏司会のニュースステーションを観るものだった(?)のである。あの夜私は、編集を担当している調査月報が校了したところであり、翌日から夏休みということで、酒なんか飲んでくつろいでいたんだと思う。

 ちなみに、1機目のアメリカン航空11便が世界貿易センタービル北棟へ衝突したのが、日本時間では9月11日21時46分。ニュースステーションが始まるのが21時54分だから、ドンピシャのタイミングだったことになる。ウィキペディアによれば、以下のような状況だったらしい。

 テレビ朝日 (ANN) では、定時の21時54分より「ニュースステーション」の放送を開始した。冒頭からCNNの映像をそのまま放送しており、1機目激突後の時点ではまだ事故と考えられていたため、1機目の激突により炎上する北棟の映像をしばらく流した後、台風関連のニュースを伝えていた。なお、この時メインキャスターの久米宏は夏季休養中であり、久米の進行はサブキャスターである渡辺真理が務めた。
 ニュースステーションでは台風関連のニュースを伝えていた間に2機目の突入が起こったため、突入の瞬間は生放映されなかったものの、すぐに再びテロ関連のニュースに切り替えられた。この時、コメンテーターの萩谷順が「先週末からアメリカの情報機関により『中東のテログループが米国の利益を代表する建物ないし組織に対してテロを行おうとしている』との警告が流されていました」と述べている。

 個人的なことを言うと、当時ある友人から「ニューヨークのマンハッタンで遊覧飛行をしてきた」と聞いていた。なので、最初に飛行機がビルに衝突したと聞いた時は、遊覧飛行のセスナ機が事故で貿易センタービルにぶつかったのだろうくらいにしか思わなかった。もちろん、それだけでも稀に見る大事故ではあるが。

 2機目の旅客機が、貿易センタービルにモロに突っ込んでいく光景を目の当たりにして、ようやくそこで、さすがにこれは何らかの攻撃なのだろうと悟ったわけである。

 ただ、貿易センタービルへの旅客機突入とビル倒壊も確かに衝撃的だったけれど、個人的には米国防総省本庁舎(ペンタゴン)までもが攻撃の標的となった事態にこそ震撼させられた。上掲のとおり、私の観ていたニュースステーションも含め、イスラム過激派によるテロの可能性に関する指摘は、早くから出ていたようだ。しかし、くだんのコメンテーターの指摘を私はまったく覚えていないし、とにかく誰が米国に戦争を仕掛けているのかがさっぱり分からないというのが、当夜の実感だった。

 今でこそ、何か大きな事件があれば、反射的に「これはイスラム過激派の仕業か?」と疑う癖が、我々にはついている。しかし、9.11以前はそうではなかった。まだまだ、冷戦的な戦争観というか、大国同士が核を含む戦略兵器で対峙し合うというイメージが抜け切らなかったのだ。少なくとも私はそうだった。

 なので、あの夜私が考えたのは、ペンタゴンが攻撃された! もしかして、核戦争になる!? え、ひょっとして、自分も今夜、死ぬの? ということだったのである。核戦争で自分が死ぬかもしれないということを最もリアルに感じたのが、あの夜だったと思う。

 事件の夜、午前2~3時くらいまでテレビのニュースを観たけど、「何だかさっぱり分からないし、もしかしたら寝ている間に核戦争が起きて、自分はもう目覚めることはないのかもしれないけど、疲れたから、とりあえず寝るか」と思って、寝たんだったな。

 結局、核戦争は始まらず、翌朝は普通に目が覚めたけれど、核戦争とはまったく異なる新しい戦争が始まろうとしていた。

(2021年9月11日)

ソ連保守派クーデターで私が起こしたビギナーズラック

 1991年8月19日に発生したソ連保守派クーデターから、30年の時が過ぎ去った。今回は、この事件にまつわる個人的な思い出話をさせていただく。

 今なら、クーデター・レベルの大事件が起きれば、ツイッターで速報が流れてきて、現地から遠く離れた我々日本人も、発生から1時間もあれば知るところとなるだろう。そして、ニュースサイトなどで最新情報を収集できるし、YouTubeでリアルタイムに近い映像も観られるし、何なら現地の人にメールやネット通話でもして様子を訊いてもいい。

 しかし、とにかく30年前の情報環境は牧歌的なものだった。1日に2回出る新聞には速報性は望めず、増してやプラウダやイズベスチヤが日本に届くのは3日遅れくらいだ。私は1989年に今の研究所に就職し、1991年のソ連クーデターの時には入社3年目だったわけだが、恥ずかしいことに、我々ソ連圏のことを調査している人間にとっても、最新情報を得るためには、当時は日本の地上波テレビニュースが唯一の頼りだったのである。

 1991年8月19日、あの日のことは覚えている。ソ連でクーデターが発生したのは早朝だったから、日本時間では昼頃である。私は先輩のAさんと一緒にランチに出かけ、職場に戻るところだった。そしたら、台車を押しながら歩いていたアルバイトのB君とすれ違った。当時、我々の研究所は『エコノミック・トレンド』という四半期報を発行しており、B君はそれを郵便局に発送しに行くところだったようだ。そのB君が我々に対し、「ゴルバチョフが辞めることになったみたいですね」とだけ告げ、そのまま台車を押して通り過ぎていったのである。我々2人はあっけにとられるばかりであった。職場に戻り、他の先輩方と、テレビニュースにかじりついたことは言うまでもない。

 さて、それからが大変である。当時、何か大きな事件が起きると、マスコミの皆さんはまず我々のような専門家に電話をし、取材をするというのが常套手段だった。私が研究所に入社した1989年は東欧革命の年で、そこから数年は東欧・ソ連で激動が続き、何か事件が起きるたびに、職場の電話が鳴りっぱなしという状態になった。うちの職場の場合には、どれだけ見識が鋭いかは別として、一応は地域の専門家が電話の前にずっと座っている状態なので(大学の先生なんかだと捕まえにくい場合がある)、電話をかけやすいという面もある。もちろん、マスコミだけでなく、会員企業からの問い合わせもひっきりなしに来る。

 当然、1991年8月19日の午後も、研究所の電話が鳴りっぱなしになった。たぶん、うちの研究所の歴史で、電話が一番激しく鳴り続けたのは、あの日だったのではないか。マスコミの側は、最初は名前の売れている小川和男さんや村上隆さんを名指しするが、すでに別の電話に出ていると告げると、「ではどなたか他の研究員でも」ということになる。そこで、経験が豊富な中堅レベルの先輩方が対応に当たる。だが、この日ばかりは、とにかく全員が電話に対応している状態で、私のような新米にもお鉢が回ってきてしまったのだ。たまたま、ある全国紙の記者からの電話に、私が出ることになったのである。

 当時の私は、入社3年目の駆け出しであり、とても大新聞にコメントを寄せるような器量はなかった。何しろ、さっきまでNHKのニュースを口をあんぐりと開けて見ていたわけで、特別な情報も何も持っていない。大汗をかきながら、何とか次のようなコメントをひねり出した。

 これは、ゴルバチョフ主導の新連邦条約調印を阻むため、保守派が起こしたクーデターと見て間違いないだろう。ただ、エリツィンら改革派は抵抗するだろうし、一般市民も改革派支持に馳せ参じることも考えられる。案外、保守派によるクーデターは、三日天下に終わったりするかもしれない。

 その後、保守派の国家非常事態委員会は国内を完全に掌握できず、エリツィンらによる抵抗に屈し、実際にクーデターは三日天下に終わったのである。この事件につき「三日天下」と表現したのは私が世界で初ではなかったかと、密かに自負している(笑)。もっとも、英語には「三日天下」に相当する表現は存在しないようだが。クーデター騒ぎが実際に3日間で収束したあと、くだんの大新聞の記者から、今度は名指しで電話がかかってきて、「流石ですね」などとお褒めの言葉をいただいた。

 かくして私は、ほぼ人生初だったマスコミ取材対応で、ホームランをかっ飛ばしたのだった。しかし、当時の自分の認識がいかに浅かったか、今なら良く分かる。あの頃は、改革派=善 VS 保守派=悪という単純な二元論で捉えており、「正義は勝つ」というような子供じみた発想で、保守派の企てが意外ともろく潰えるのではないかと予想しただけだった。その後のロシアの歩みや、現在のプーチン体制のことを考えれば、そんな単線的歴史観はとても通用しない。「三日天下」が的中したのは、完全なビギナーズラックだった。

これはクーデターが起きた当日の朝日夕刊
ただ、私がコメントしたのは朝日ではなかった

 ところで、私の記憶によれば、保守派クーデターが三日天下で終わる可能性もあるという私のコメントは、ちゃんと私の名前入りで、くだんの新聞に掲載されたはずである。ただ、「私は三日天下を予想した」などと30年前の手柄を自慢しようとしても、信じてもらえないだろうから、当時の新聞紙面の画像を撮って、お目にかけようと思い立った。

 ところが、先日、近所の図書館で当時の新聞の縮刷版をチェックしてみたのだが、私のコメントがどうしても見付けられなかった。また、掲載紙は初のメディア露出の記念として保存してあったはずなので、それも探してみたのだが、それもどうしても見付からなかった。参ったなあ、これじゃあホラ吹きのようではないか(笑)。まあ、もしも見付かったら、後日お目にかけたい。

 ところで、昨今では連絡の手段が電話からメールに置き換わった。また、マスコミの皆さんも、大事件が起きれば、まずはネットで最新情報を収集しようとするので、我々のような専門家にとりあえず電話を架けるということは少なくなった。なので、勤務先でも、1、2時間くらい電話がずっと鳴らないということも珍しくない。しかし、「オフィスの電話が鳴りっぱなし」という時代を知っている私などは、あまりに電話が鳴らないと、「大丈夫か、この職場?」などと心配になってしまうのである。

(2021年8月20日)

我が家のホームシアター・ルネサンスとHDMI地獄

 旧ソ連圏の研究とはまったく関係ない道楽の話だが、ご容赦を。このコーナーでは時々、趣味のオーディオビジュアル、ホームシアターの話をさせていただいており、その近況である。

 この分野に関しては、3年ほど前に「我が家のホームシアター、リニューアルオープン」と題してお届けしており、その時点でいったん、インフラ整備は一段落したつもりだった。

 ところが、最近、ついにAmazonのサブスク・サービスである「プライム」に加入してしまい。従来以上にAmazonの商圏に取り込まれつつある。そして、プライムビデオというサービスがあり、生来の貧乏性が災いして(?)、せっかく観放題なので観なければ損という心理になり、ドラマなんかを観ているわけである。

 それで、当初は主に、液晶テレビにインストールされているプライムビデオのアプリを使って視聴していたのだが、以前もグチったように、日本で売られている液晶テレビというのはとにかく画面が反射しまくり、ドラマの暗いシーンなどでは自分の姿や部屋の様子が写り込んでしまい、本当に不快である。なので、せっかくだからプライムビデオのコンテンツを、液晶テレビではなく、プロジェクター&スクリーンで観たいと思うようになった。しかし、それをどうやって実現すればいいのか、すぐには思い浮かばなかった。

 そうこうするうちに、先日、Amazonの年に一度の特売日であるプライムデーがあり、せっかくだからこの機会に何か買おうかなと、商品を物色した。そうしたところ、Amazonの独自商品であるFire TV Stick 4Kが、かなり手頃な値段で売られていた。これは、プライムビデオ等のネット動画配信サービスをWiFiで受け止め、それをテレビ等の受像機のHDMI端子に差し込めば、それらのコンテンツを視聴できるというアイテムである。存在は以前から知っていたが、「そうか、これを使えば、プライムビデオの信号をHDMIでAVアンプに流し、プロジェクターでスクリーンに映写できるのだろうな」と考えた。そこでこのアイテムを注文し、セットアップして使ってみたところ、結果は大成功。これでドラマなどをテカテカ反射画面の液晶テレビで観るのとはおさらばだ。

 それで、購入時には意識していなかったのだが、Fire TV Stick 4Kでは、アプリを追加でき、プライムビデオ以外の動画配信サービスもこれ経由で利用できるのである(むろんそれぞれのサービスの加入料金は別途支払う必要があるが)。私はサッカーのJリーグを観るのでスポーツ配信のDAZNに加入しているのだが、普段はテレビのアプリまたはパソコンのブラウザで観ている。まあ、うちの液晶テレビは60インチとそこそこ大きいので、それで満足していたということもあるが、DAZNをプロジェクターで100インチスクリーンに映すという発想が、これまではそもそもなかった。それが、このFire TV Stick 4KにDAZNのアプリをインストールすれば、スクリーン映写が簡単にできそうだということを知り、それも試してみたら大成功だった。実を言うと、以前の印象で、サッカーの試合を100インチスクリーンで観ると逆に違和感があってあまり心地良くないなという先入観もあったのだけど、今回はむしろ「案外良いものだな」と感じた。

 それで、ちょっと欲が出てしまった。DAZNにはダウンロードサービスがなく、一定期間が過ぎると、試合の動画が観られなくなってしまう。そこで私は動画キャプチャーソフトを使って、自分がひいきにしているチームの試合動画をせっせと作成しアーカイブ化している。そうして作成したAVIファイルは、「PCで作成したものなので、PCで観る」という先入観が、これまでは抜けなかった。

 だが、考えてみれば、私のモバイルノートPCにはHDMI端子があったので、もしかしたらモバイルPCからHDMIで液晶テレビやAVアンプに繋げば、外付けHDDに保存してあるAVIを大画面で再生できるのではないか? そう考えて、これも試してみたところ、この実験も上手く行った。モバイルPCは、主に出張や外出先などに持って行く用途だが、今はコロナ禍でほとんど家にいるので、しばらくこのPCはHDDもろともホームシアターシステムに繋ぎっぱなしにしておくことにする。

 ところで、これだけ映像ソースが増えると、機器間の接続がややこしくなってくる。元々私は、映像・音声ソースとして、DVDレコーダー/プレーヤーを3台ほど使っていたし、(実際にはゲームはほぼやらないが)Playstation 3もあった。他方、映像・音声の出口としては、液晶テレビと、AVアンプ~プロジェクター&スクリーンという2パターンがある。そこで私は以前からHDMI分配器というものを導入しており、これはinが4系統、outが2系統という優れものだった。しかし、今回、Fire TV Stick 4Kやら、モバイルPCやらと、inがさらに増えてしまったため、HDMI分配器をさらに1台かませることにした(笑)。言葉で説明するのはもどかしいので、下に見るように、今般完成した私のホームシアターシステムを図にしてみた。青で示したところが映像・音声のソースであり、緑がその出口である。

 赤で描いたラインが、すべてHDMIである。HDMIをこれだけタコ足配線にしている人も珍しいかな。何はともあれ、ボタン一つで、映像・音声ソースと、その出口を切り替えられるようになり、大満足である。2台のHDMI分配器の裏側は、カオスのようになっているが。

 ついでに、ホームシアター周りで、一つ懸案だったことにも手を打つことにした。これまで、プロジェクターに映像を投射する際には、スピーカーシステムを鳴らすことを前提としていた。しかし、ご近所の迷惑にならないように、夜は遠慮をし、結果的にせっかく構築したホームシアターを楽しむ時間帯が限定されてしまっていた。そこで、近年話題になっていたウェアラブルネックスピーカーを導入することにした。ネックスピーカーとは、肩にかけて使うもので、使用者には音がはっきり聞こえセリフなども聞き取りやすいが、少し離れるとほとんど聞こえず、深夜でも隣近所に迷惑をかけないというものである。私が選んだのはSONYのSRS-WS1という商品で、一頃は大評判で品薄になったりもしていたが、最近は落ち着いてきて、手頃な中古品が見付かったので、買ってみたわけである。

 このように、私のホームシアターライフは、言わば第2章に突入した。これまでは、ブルーレイのようなフィジカルソフトを購入したり借りてきたりするか、あるいはテレビ番組を視聴することを前提としていたのに対し、それが動画配信のサブスクにシフトしようとしている。そういえば、最近、近所のTSUTAYAも閉店してしまった。エヴァンゲリオンの劇場版に関しては、私は前作まではブルーレイを購入して観たが、「シン・エヴァ」は8月13日からAmazonプライムビデオで独占配信されるそうなので、おそらくそれで観るのではないか。

 あと、私はサッカーを例外として、オリンピックを一切観ない人間なので、オリンピック期間中はプライムビデオとDAZNのアーカイブをせっせと観るつもりであり、その意味でもホームシアターシステムをリニューアルできたことは良かったと思っている。

(2021年7月25日)

ミンスク旅客機強制着陸事件で甦るルジャヌィの思い出

 5月23日に発生した驚天動地のミンスク旅客機強制着陸事件に関しては、「旅客機の強制着陸で『ルビコン川』渡ったベラルーシ その先に待っていたのはロシア?」と題するコラムを発表したので、そちらを参照していただきたい。

 この事件では、ライアンエアー機に搭乗していた反体制派ジャーナリストのロマン・プロタセヴィチ氏が、同乗していたガールフレンドとともに、ミンスクの空港で逮捕された。なお、6月25日に両氏は留置所からは解放され、自宅軟禁に切り替えられたということだが、罪もない若い男女の自由が強権政治の手により奪われている言語道断の状況に変わりはない。

 さて、事件の本筋からは外れるが、ベラルーシ・オタクとして反応せざるをえないのは、プロタセヴィチ氏とともに逮捕されたガールフレンド(上掲写真)が、ソフィア・サペガさんという名前だったことである。サペガさんはロシア国籍と報じられたが、「サペガ」という姓がいかにもベラルーシらしかったからだ。サペガ家というのは、ベラルーシの地を代表するかつての名門貴族である。

 ソフィア・サペガさんは1998年ロシアのウラジオストク生まれで、幼少の頃に家族とともにベラルーシに移り住んだが、国籍はロシアのままだった。父親がアンドレイ・サペガさんという名前であり、確認はとれなかったが、少なくとも父方はベラルーシの地にルーツがあるのではないか。

 私にとって、名門サペガ家と言えば、西ベラルーシのルジャヌィへの旅が忘れられない。ルジャヌィは、1598年にリトアニア大公国宰相のレフ・サペガが取得した領地であり、そこには壮麗な宮殿が建てられた。だが、度重なる戦乱により、戦後この地がソ連領となった時には、宮殿はすでに廃墟と化していた。それでも、その姿は歴史的なロマンに溢れ、かえってかつての栄華を偲ばせるところがある。拙著『不思議の国ベラルーシ ―ナショナリズムから遠く離れて』を読んでくださった方ならお分かりのとおり、ルジャヌィ宮殿の廃墟は拙著の重要なモチーフとなり、その写真を表紙のデザインにも用いている。

 私は、2001年に現地の郷土史家に案内していただいてルジャヌィの地を訪れたのだが、その際に、ルジャヌィを拠点として活動しているYu.マルィシェフスキー氏という切り絵作家の工房に立ち寄った。ルジャヌィ宮殿を描いた作品を、一点購入したので、お目にかける。

 案内役の郷土史家氏が、マルィシェフスキー氏に、「何か記念にあげなさいよ」と言ってくれ、マルィシェフスキー氏は私に、宮殿跡で拾った陶器の破片をプレゼントしてくれた。矢印のようなマークの入ったサペガ家の家紋入りだ。これが私のベラルーシのお宝なのである。

(2021年6月27日)

浅草ストロバヤさんは綴りを直して元気に営業中

 ツイッターを眺めていたら、以下のようなつぶやきが目に留まった。

 それで、一つ思い出した話があった。浅草にある「ストロバヤ」というロシア料理店のことである。この店について、私は自分が編集長を務める『ロシア東欧貿易調査月報』(現在は『ロシアNIS調査月報』)2006年3月号で、ちょっとしたフォトエッセイを綴っていたのだ。以下それを再録してみよう。

浅草のストロバヤ

 家が近所なので、時折、浅草を散策する。それで気が付いたのは、浅草にはロシア料理店が結構あるという事実である。つい最近も、1軒発見した。「ストロバヤ」というお店だ。ただ、「食堂」を意味するロシア語をローマ字に翻字するなら、「Storovaya」ではなく「Stolovaya」であろう。普段は、別にロシア料理店だからといって入ったりしない私だが、綴りのことが気になったので、ランチを試してみた。

 食後、シェフの秋山司郎さんとお話をしたところ、綴りのことは先刻ご承知だった。以前、何かの拍子でLとRが入れ替わってしまい、それっきりになってしまっているとのことで、それほど気にも留めておられない様子だ。ロシア人のお客さんが来ることもあるそうなので、何度も指摘を受けているのだろう。

 確かに、ここは堅気の皆さんが、料理を楽しむ場所である。私のようなロシア屋が、一文字の間違いを云々すること自体、野暮であろう。

 もともと、浅草は文明開化の最先端を行った街であり、その名残で洋食の名店が多い。ロシア料理店がいくつかあるのも、そのせいだと思われる。ストロバヤも、その筋ではよく知られたお店のようで、秋山シェフは料理本にボルシチの作り方について寄稿したりなさっている。日本橋高島屋のデパ地下で、ストロバヤのピロシキが売られているというのも、今回初めて知った(通販もあり!)。

 ところで、ストロバヤで「日本式のロシアンティー」を20年振りくらいに試してみたところ、思いのほか美味で、新鮮な感じがした。ただ、こんな風にカップ入りのジャムを目の前に出されたら、ロシア人は直スプーンでペロペロ始めちゃうだろうなぁ。

 とまあ、そんなフォトエッセイだった。その直後に私は引っ越してしまい、浅草界隈に出没することはほぼなくなったので、ストロバヤさんのその後のことは、存じ上げなかった。今回、前掲のツイートで、誤ったロシア語という話に触れて、「そう言えば、あの浅草のストロバヤさんは今、どうなっているのかな?」と思い出し、ネット検索してみたのである。

 そしたら、嬉しいことに、こちらのHPに見るように、ストロバヤさんは同じ場所、同じシェフで、元気に営業を続けておられるではないか。飲食店というのは新陳代謝が激しいので、15年前に訪れた店が、いまでもそのままあるというのは、それだけで称賛に値する。しかも、コロナ禍での日本国政府および東京都による飲食店いじめ(?)にもめげず、「ストロバヤは3月22日(月)以降も、営業時間を変更して営業いたしております」とのことであり、頼もしい限りだ。

 そして、いつの時点だったかは不明だが、ストロバヤさんは店の綴りを、「Storovaya」から「Stolovaya」に修正なさったようだ。大変に結構なことだと思う。私のようなロシア関係者が1文字の誤りをいちいち指摘することは無粋かなとも思ったが、こうしてきちんと直ったりしているのを見ると、無駄ではなかったかなと思えてくる。

(2021年5月23日)

「●●周年」にこだわる私だけど

 日頃、たくさん文章を書いたり、企画を練ったりするので、「●●周年」というのに注目する癖がついている。

 最近の例で言えば、東日本大震災の10周年があった。GLOBE+に「3.11後の日本とロシアのエネルギー地図」を寄稿したし、このマンスリーエッセイのコーナーも先月分は「東日本大震災で私が変わった3つのこと」と題しお届けした。

 ロシア・ウクライナ・ベラルーシを主たる研究対象国とする私にとって、チェルノブイリ原発事故が起こった4月26日は毎年、重い記念日である(ベラルーシでは民主派が決起する日でもある)。特に、今年は1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故発生から35年という節目の年となる。そこで今般、やはりGLOBE+に、「チェルノブイリ原発事故から35年 ウクライナ、今も依存度が世界3位の理由」を寄稿した(タイトルはウクライナだけになっているが、ロシアとベラルーシも論じている)。

 さらに、これもGLOBE+に寄稿した周年物だが、先日はソ連の宇宙飛行士ユーリー・ガガーリンが人類初の宇宙飛行に成功した1961年4月12日から60年の節目を迎えたのを記念して、「ガガーリンの偉業から60年 ロシアが譲れない宇宙大国のプライド」「ソ連版スペースシャトル、ソユーズ、ガガーリン…宇宙大国ロシアをめぐる」という2本のコラムを発表した。宇宙のネタはいつか取り上げたいと思っていたのだが、ガガーリン60周年というちょうど良い機会が巡ってきた。

 最近、そういう周年物の執筆が続いたので、色々思いを巡らせていたら、この春で、私がベラルーシから日本に帰国してから20周年であることに気付いた。私は、1998年4月に専門調査員として駐ベラルーシ日本大使館に赴任し、3年間ミンスクで働き、2001年3月31日に日本に帰国したのだった。もっと正確に言うと、2001年3月30日フランクフルト発のNH210に搭乗し、それが翌31日15:00頃に成田に到着し、帰国を果たしたのだった。みぞれ模様の中、タクシーで予約してあった板橋区常盤台のウイークリーマンションに向かい、日本での生活を再開した。それから20年の月日が流れたわけだ。

 ベラルーシから帰国した私は、台東区御徒町に部屋を借り、そこで住み始めた。結局、そこに5年ちょっと住んだのだった。そして、2006年11月、今住んでいる足立区の北千住に引っ越してきた。なので、今年の秋で、北千住の今の家に住み始めてから15周年ということになるわけだな。

 まあ、さすがに「自分が日本に帰国してから20周年」とか、「北千住に住み始めてから15周年」といったことは、あまりに個人的な事柄で、これ以上掘り下げて語るつもりはない。

 そんなことよりも、今年は、ソ連が崩壊してから30年という、我々旧ソ連圏の研究者にとっては、とてつもなく大きな節目の年なのである。気合を入れて臨まないと。

 ところで、私の個人的な道楽の分野に関して言うと、ポピュラー音楽の世界では、名盤誕生の50周年とかを記念して、「スーパーデラックスエディション」などと称し、単にオリジナル作品がリマスター再発されるだけでなく、貴重音源や分厚いブックレットやオマケなどがふんだんに盛り込まれた記念豪華版がリリースされるパターンがある。最近では、たとえば、J-POPの金字塔と言われる大滝詠一『A LONG VACATION』が40周年を迎えたのを記念して、3月21日に完全生産限定盤VOX『A LONG VACATION VOX』が発売された。

 だいたい、ロックの名盤などは1960年代の末から1970年代の初頭くらいにかけて登場したわけで、今はちょうどその50周年くらいのタイミングに相当し、それぞれの名盤につき2万円くらいのデラックス版が出たりするので、音楽ファンは大変である。

 実を言うと、私は音楽作品のこういう●●周年スーパーデラックスものが苦手であり、ほとんど買ったことがない。私は、音楽作品はなるべく当時出たそのままの状態で楽しみたいという気持ちが強い。それに、昨今では若い人たちはサブスクとか、もっと言えばYouTubeとかで音楽を楽しむわけで、わざわざフィジカルを購入するようなのはオールドファンに限られるだろう。オールドファンは同じ作品を、LP時代に始まり、CD、リマスターCDと、散々買い直してきたのである。なので、個人的には、40周年だの50周年のデラックス版が出ると、「一体何周目だよ」という気持ちになってしまう。いい加減、我々の世代だけが狙い撃ちされて、レコード会社に搾取されるのもダルくなってきたので、もうこういうのはいいんじゃないかと思ってしまうわけだ。

 逆に、個人的に大いに食指が動くのが、たとえば数年前に買ったこのJoni Mitchell「The Studio Albums 1968-1979」みたいなやつ。数千円で、全盛期のスタジオアルバムが漏れなく入っているというアイテムだ。興味はあるけれど従来あまり縁がなかったようなアーティストの作品を、低価格で一気に全部網羅できるというのが嬉しいのだ(それもサブスクでいいじゃんというご意見は受け付けていません)。逆に、いくら名盤でも、たとえば『ブルー』の50周年盤が2万円とか言われると、引いてしまうのだ(『ブルー』も今年50周年らしい)。

(2021年4月21日)

東日本大震災で私が変わった3つのこと

 昨日も宮城県沖を震源とする地震があり、宮城県では最大震度5強を記録したようだ。5強と言えば、2011年3月11日の時の東京の震度と同じである。むろん、3.11の時には、東京でも場所によって揺れ方は様々だったが、少なくとも私の職場と自宅は地盤が良くないので、完全に5強だったはずだ。自分が10年前に体験したあの恐怖に、昨日もまた東北の皆さんが直面したのかと思うと、本当にいたたまれない思いがする。

 私が10年前に実際に受けた被害などは、まったく無きに等しい。棚から物が落ちて散乱したり壊れたりした程度だった。それでも、東日本大震災によって受けた衝撃は大きく、それにより私の個人的な価値観は大きく変わった気がしている。大震災から10年が経って、自分なりに振り返ってみると、私の価値観の変化は、3つくらいに整理できるのかなと思っている。

 第1に、地元愛がものすごく強まったことである。被災地の皆さんが、大切な故郷を失ったりしているのを目の当たりにして、自分にとっての地元である静岡、ついでに言えばそのサッカーチームへの愛が沸々と沸き起こり、今に至るまでそれは強まるばかりだ。

 第2に、「思い付いたことは何でもやってみよう」と考えるようになった。3.11により、命の儚さを思い知らされたので、生きている自分は、積極的に色んな行動を起こしてみようという発想になったのである。実際には、色々やってみた結果、挫折したり、失敗したこともあったのだが、後悔はしていない。

 第3に、国家への根本的な不信感を抱くようになった。原発事故の時に、「ああ、国というのは、こうやって国民を騙すんだな」と、思い知ったので。当時は柄にもなく、原発再稼働反対デモに参加したりもした(写真)。そして、もう二度と日本国に騙されるのは御免だという意識が強まり、日本の財政問題への関心を深めた。

 とまあ、10年前の大震災があって、それに衝撃を受けて、今の自分があるのだということを、つくづく感じるわけである。人に自慢ができるような生き方をしているかどうか、そんなのはまったく分からないが、たぶん自分はもう変わらずに、これからもずっとこんな感じではないかという気がしている。

(2021年3月21日)

ロシア研究者に向いてないことがDNAレベルで裏付けられた(?)

 思うところあり、最近、遺伝子解析検査を受け、その結果が出たところである。健康対策をするにしても、遺伝的なリスクは人それぞれ異なり、体質に合わせて行うのが効果的だという話を読んで、まあちょっと調べてみるかと思い立った次第だ。

 そして、遺伝子解析検査を受けてみたいと思った、もう一つの理由があった。私は日本人のルーツ論にものすごく興味があり、素人ながら関連書籍を読んだりもしてきたのだが、遺伝子解析検査で、自分のミトコンドリアDNAも調べられるということを知ったからである。

 子のDNAは父親と母親のそれが組み合わさって決まるわけだが、両親のDNAが合体せずにそのまま子に伝わるものもある。ご存知の方も多いと思うが、母から子に伝わるミトコンドリアDNAであり、しばしばルーツ探しの道具として使われる(父親から男子だけに継承されるY染色体もあるが)。なので、機会があれば自分のミトコンドリアDNAをぜひ調べてみたいと前々から思っていたわけだが、それがカジュアルな遺伝子解析サービスで簡単に調べられるということを知り、それではやってみようと思った次第である。いくつかの業者が存在する中で、私は一番詳しい結果が得られそうなMYCODEというところのフルパッケージを選択した。ミトコンドリアDNAを調べらるのはたぶん最上位コースだけなので、ご興味のある方は良く確認のうえご利用いただきたい。

 検査そのものは、唾液を少量カプセルに入れて送るだけでよく、半月ほどで検査結果が出た。本来であれば、遺伝的な病気のリスクなどを確認し、早速、生活習慣改善に取り組むべきだろうが、やはりどうしても気になるのはミトコンドリアDNAである(笑)。病気リスクそっちのけで、とるものもとりあえずその結果を見てみたところ、自分のミトコンドリアDNAは「M7」というタイプであることが判明した。

 ちなみに、MYCODEのサイトでは、M7というのが以下のようなハプログループであると説明されている。

 そして、MYCODEでは、M7が下図のような経路で日本列島に辿り着いたと説明している。

 つまり、10万~20万年前はアフリカで暮らし(これは全員そう)、

 5万~10万年前にはインド西部におり、

 2.5万~4.0万年前に今はなきスンダランドでM7というグループが形成され、

 2万年前にはいち早く日本列島に到達し、縄文人となった、という旅路だったわけである。

 なお、今回のエッセイでは、篠田謙一(著)『新版 日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』(NHKブックス、2019年)を大いに参照させていただくが、同書によれば現代日本のミトコンドリアDNAハプログループの内訳は、下の円グラフのようになっている。これに見るとおり、M7と言ってもa、b、cという3つのサブグループがあり、それによって想定されている故地や移動ルート、今日の分布状況も異なるわけだが、残念ながらMYCODEの検査ではM7という大きなくくりしか調べられない由である。まあ、確率的に言って、私は一番多いM7aかな? M7aが日本列島に到来し広がっていったイメージ図は下の地図のように描かれている。

 なお、問い合わせてみたところ、MYCODEでは父方のY染色体の検査はしていないとのことだった。『日本人になった祖先たち』によると、「Y染色のDNAは核ゲノムまで解析しないとわからないので、ハプログループの決定にはミトコンドリアDNAを分析する場合とは比較にならないほど手間がかかる」ということらしい。

 というわけで、自分のミトコンドリアDNAは、南方ルーツで早い時期に日本列島に至って縄文人となり、今日では沖縄に多いM7ということが判明した。この結果は、個人的に、非常にしっくり来る。私は、自分の顔立ちなどから、渡来系弥生人というよりは縄文系だろうと、ずっと思っていた。それに、私は暑さには強いが、寒さにはめっぽう弱い。冬にロシアに出張に行って、寒風にさらされたりすると、「自分は南方系の人間であり、寒さへの耐性は持ち合わせていないのだ! そもそもロシア研究者には向いていないのだ! だからロシア語も一向に上達しないのだ!」などと、自分とロシアとのミスマッチをひたすら嘆いたりしていたのである。なので、今回の遺伝子解析検査で、自分が南方系・縄文系のM7であると知り、「ほらね、やっぱりロシアには向いてない」などと、妙に納得したりしたわけである。

 しかし、実際には、それはあまりにも通俗的な理解である。本当に大事なのは、ここからだ。『日本人になった祖先たち』には、以下のような戒めの指摘がある。

 他のDNAと違って、ミトコンドリアDNAとY染色体DNAは組み換えなしに子孫に伝わるので、ヒトの進化や拡散を研究するのに便利です。ですから、私たちは主にこの2種類のDNAを使って人類の拡散の様子を追跡してきました。この単系統に伝わる性質に注目して、これらのDNAをあたかも家系のシンボルのように捉える考え方が世間にあります。特にY染色体は男系に伝わりますから、最近ではこれを男子の系統のシンボルのように取り扱う不思議な議論が見受けられます。しかし、私たちのDNAは全体としてひとりの人間を作るために働いているのですから、特定のDNAだけをもって、あたかもそれだけが重要であるかのように強調するのはおかしな話なのです。

 DNA分析による人類の歴史を解説した啓蒙書のなかにも、ミトコンドリアDNAやY染色体のDNAを、家系のアナロジーとして取り扱っているものがあります。現在の技術では、個人のミトコンドリアDNAやY染色体のハプログループを調べることは、さほど難しくはありませんから、それらを検査してルーツを探す商業的なプログラムも存在します。伝達の経路がハッキリしているこれらのDNAは、その解析がヒト集団の歴史の解明にいかに有効であるかを教えてくれます。しかしそれらは、あくまで集団の歴史を描くのに有効なのであって、個人の由来を教えるものではないことを認識しておく必要があります。ミトコンドリアDNAやY染色体のDNAは、私たちの持つDNAのごく一部であり、その由来は自分自身の持つすべてのDNAの出自を示しているわけではないのです。

 うむ、確かに、言われてみればそのとおりであろう。私がM7だということは、私の母の母のそのまた母の、ずっと続いて2000代くらい前の母系祖先は、ほぼ確実にスンダランドにいたということになるのかもしれない。それを辿ることは、とても知的刺激に満ち溢れている。しかし、そのルーツは自分のほんの一部分を形成しているにすぎず、私の中にはシベリアでマンモスを追っていた祖先のDNAもきっと引き継がれているに違いない。ロシア語が上達しないのは、単なる努力不足なのだろう。

(2021年2月21日)

ロシア語は私の睡眠導入剤

 先日、ツイッターでつぶやいた話の、焼き直しだけど。

 変な習慣だが、私は夜寝る時に、ロシア語の演説やインタビューの音声を聴きながら寝ることにしている。適当なところで眠くなって、寝入るのに丁度良いのだ。以前は音楽を聴きながらということもあったが、それだと盛り上がりすぎてしまい、かえって目が冴えてしまうことになりかねない。ロシア語で味気ない政治や経済の話でも聴いた方が、睡眠導入には効果的である。ウラジーミル・ポターニン氏がどれだけノリリスクの街の発展に心を砕いているかや、オレグ・ベロジョーロフ社長がどれだけロシア鉄道の職員たちのことを思っているかといった話を聴いていると、確実に眠くなってくる。

 ちなみに、ロシア語の演説やインタビューは、YouTubeで自分の興味のありそうなテーマのものを探す。選んだものを、YtMp3という無料サイトで、mp3の音声に転換し、ダウンロード。それを、iTunesのライブラリに追加し、ロシア語音声のプレイリストを作成して、iPadでシャッフル再生しながら寝るわけだ。だいたい、30分足らずで眠りにつく。

 ただ、自分が興味のある内容のものをチョイスはするものの、睡眠導入という観点から、不向きなコンテンツもある。2014年の春頃には、有名なプーチンのクリミア併合演説を聴きながら寝ていたこともあったのだが、こんなものを聴いているとアドレナリンが沸き起こり、交感神経が優位になって、寝付きが悪くなる上に、睡眠中にも悪い夢を見そうになる。ロクに眠れぬ夜が続いたため、クリミア併合演説はライブラリから削除した。

 最近失敗したのは、ナターリヤ・ズバレヴィチさんのインタビューを入れたことである(下の動画)。有能なロシア地域経済の専門家であり、話は興味深いのだが、声と話し方にクセがありすぎる。睡眠導入のためには、なるべく平板に話してくれた方がいいのだが、ズバレーヴィチさんは話し方に独特の抑揚があり、彼女の素っ頓狂な声で逆に目が覚めてしまうということが何日か続いた。これも、ライブラリから削除である。まあ、ご本人は、見も知らぬ日本人がこんなことで話題にしているとは、思いもよらないだろうが(笑)。

 さて、私が最も信頼するロシアの政治評論家と言えば、政治工学センターのアレクセイ・マカルキン副社長であり、ブログやレポートで引用することが多い。しかし、マカルキン氏のトークは、睡眠導入には向かないので、私のiTunesライブラリには入れていない。十数年前に一度だけインタビューする機会があり、その時に初めて気付いたのだが、マカルキン氏は吃音症をお持ちなのである。最近の動画を拝見したら、以前よりもだいぶ改善はされているようだが、やはり聴いていると「大丈夫かな」と心配になるので、いくら内容が素晴らしくても、睡眠導入には不向きなのである。

(2021年1月24日)