インド現地調査で学んだ2つのこと

 12月16日から20日にかけて、インドのムンバイに調査出張に出かけてきた。ロシア・中国・インドというユーラシア大陸の3大国の経済発展を比較する研究プロジェクトの一環である。個人的に、インドを訪問したのは初めてだった。先月のエッセイで、これまで行ったことのある外国・地域は30ヵ国だということを述べたが、年内に1個だけ増えたというわけである。今月のエッセイでは、インド・ムンバイ現地調査で学んだ「2つのこと」について述べたい。

ムンバイの海岸沿いの遊歩道

 まず第1に、ごくオーソドックスに、今回の一連の聞き取り調査で、インドの経済・ビジネス事情について明らかになったことを、書き記しておきたい。今回はもっぱら日系の金融業界の方にお話を伺ったのだが、皆さんがおっしゃっていた最大公約数的な情報をまとめると、以下のようになる。

 インドにおいて、日系企業、日系人は、ムンバイよりもニューデリーの方が多い。ムンバイはインドの金融の中心であり、インド国立証券取引所もムンバイにある。日本の3メガバンクもニューデリーがメインながら、いずれもムンバイに支店または出張所を設けている。かつて邦銀が不良債権処理問題に揺れた時代に、海外拠点を整理する必要が生じ、インドの拠点を引き払う動きがあったものの、近年になって復活している。

 一時は、インドで銀行業務をするためには、外資はインドで現法を設立すべしという圧力があったが、今はそうでもなくなっている。現法を設立すると、支店を増やせるというメリットはあるが、各付けがインド・ソブリンのBBB-が上限となってしまうなど、デメリットの方が大きい。銀行が支店を設ける際に、4店のうち1店は農村部に出さなければならないというルールもある。

 当然、日系の3メガバンクともリテールは取り扱っておらず、進出日系企業、インド地場企業、多国籍企業への貸出を生業としている。その際に、在インドの支店が貸し付けるパターンと、アジアの金融拠点であるシンガポールからオフショアで貸し付けるパターンとがある。

 インドの銀行業で一番頭が痛いのは、Priority Sector Lending (PSL) と言って、農業・中小企業・輸出信用という3つの分野に一定比率を貸し付けることが当局から義務付けられている点である。外銀にとって農業や中小企業の貸出し先を見付けるのは至難であり、必然的に輸出信用に集中することになり、それを開拓するのが大変である。輸出信用への貸出権が証券化されて売買されているほどである。また、資産の一定割合をインド国債で保有する必要もある。他方、社会貢献も求められており、純利の2%をCSRに投じなければならない。インドの中銀であるRBIは日本で言えば日銀と金融庁を組み合わせたような強大な組織である。

有名な「洗濯カースト」の居住区 今では観光名所になっていた

 インド通貨のルピーは、買うことはできても、売ることのできない通貨である。したがって、外資がルピーに対して投機を仕掛けるというのは不可能であり、為替はもっぱら実需で動き、経常赤字がそのまま為替レートになる。近年、インドの経常収支は赤字だが、インドの成長への期待感から資本が流入しているので、問題はない。ただ、流入した資本は外貨準備になるので、ルピー高にはならない。インフレ率を勘案すれば、ルピーは長い目で見て、購買力平価に沿って推移していると言える。

 現在、大手インフラ金融の破綻で、不良債権問題に再び注目が集まっている。産業別に見ると、とりわけ不良債権比率が高いのは、インフラ部門、ベースメタル・金属製品である。

 近年のインドの政策で社会・経済的に影響が大きかったのが、高額紙幣の廃止と、生態認証IDシステム「アドハー(Aadhaar)」の導入である。ただし、アドハーはきわめて画期的なシステムながら、最高裁でその利用を制限すべきとの判決が出るなど、論争になっている。

 インドというのは、「ホームバイアス」の非常に強い国である。在インドの投信の投資先は九分九厘インドで、外国商品はまったく売れない。外国に移住したインド出身者も、インドに投資したりする。

 今のインドの焦点は2019年の総選挙である。一頃まではモディ首相の与党インド人民党(BJB)が勝つという見方が強かったのだが、最近の州議会選挙で与党が敗北し、雲行きが怪しくなってきた。与党としては国民の支持獲得に躍起となっており、金融政策もそれに翻弄されている。ただし、インドの金融関係者は、何事も楽観的に見る傾向にあり、我々外資ほどは、目先の出来事で動揺しない。

インド随一の新興財閥「リライアンス」の総帥が建てた
悪趣味で評判の悪い個人住宅

 日本とインドは政治関係がきわめて良好なので、それが日系企業にとっての良いビジネス環境に繋がっている。JICAの参加する地下鉄工事が進められており、JR東日本が関与する新幹線プロジェクトもある。それに対し、以前の外交的な対立が尾を引いているのか、全般的にインドでは中国のプレゼンスが弱い。銀行分野でも、ICBCが進出している程度である。中国に比べれば、韓国の存在は目立つ。

 インドのビジネス環境は厳しく、特有の問題に直面する。日系をはじめとする外資企業は、インドを輸出向けの加工基地とは捉えておらず、もっぱらインド国内市場をターゲットに進出している。インドの生産コストは安くはなく、それでいて市場は価格に敏感。外から買って中で売る形なので、利益を出しにくく、ルピー安基調なのも頭が痛い。進出企業が単年度黒字を出すのには、数年かかるのが普通であり、それまで粘り強く事業を続けるのが鍵になる。その点、スズキなどは、現地調達比率を引き上げ、モデルチェンジのたびに価格を引き下げるという離れ業を実現していて、敬服に値する。

 とまあ、当たり障りのないところを最大公約数にまとめれば、ざっとこんなお話を聞かせていただいた。

インドの皆さんはカメラを向けても嫌な顔をせず、特に若い人たちはノリが良かった

 さて、今回インドで学んだ第2のポイントである。3国比較調査なので、参加メンバーはインド以外の専門家が多く、私自身はインドは初めてだったし、他の皆さんもせいぜい2度目くらいだったはずだ。参加者の研究分野は多岐にわたり、金融のことを専門でやっている人はいない。にもかかわらず、上で述べたように、今回の現地調査では、もっぱら日系の金融機関を訪問して、かなり技術的に込み入った内容の聞き取り調査を行うことになった。ムンバイでの日程を取り仕切ってくれたインド専門家の方も、金融機関以外のアポ取りも試みて下さったようなのだが不調に終わってしまったようで、結果的にやや偏った内容の調査になってしまったことは残念だった。また、欲を言えば、もうちょっとムンバイという街を体感できるような機会があると嬉しかったし、インド料理店に出向いたのが一度だけというのも物足りない感じがした。次に私が、日本人研究者をロシアやウクライナに案内したり、あるいは外国人を日本に案内したりする時には、今回の教訓も踏まえながら、最大限のホスピタリティを発揮するようにしようと、今回改めて思った。

朝のホテルの朝食からインドっぽかったのは楽しかったが、
できればもっとインド料理を味わってみたかった

(2018年12月27日)

ホームページ開設15周年

 本日11月26日は、当HPの誕生日です。しかも、今回はホームページ開設から15年目の節目。以前書いたことの繰り返し(というかコピペ)になるけれど、15周年なので、ちょっと歴史を振り返ってみたい。

 私が、このHPを立ち上げたのは、2003年11月のことだった。当時私は、ベラルーシ駐在から帰任して間もなく、同国についての本を書き上げることに全力を傾注していたのだが、知人から「そんな地味なテーマの本を出してくれる出版社があるはずはない。せいぜい自分でHPでも立ち上げて、ベラルーシについての情報を発信したらいいのではないか」というようなことを言われた。私の目標は、あくまでもベラルーシについての本を商業出版という形で世に問うことだったので、当然のことながら知人のアドバイスに聞く耳など持たなかったが、「なるほど、本を出すにしても、宣伝が必要だし、来たるべき著作を盛り立てるという意味で、ベラルーシに関するウェブサイトを立ち上げるのも一案かもしれないな」と考えるようになった。ちょうどその頃、所属団体のウェブサイトがあまりにも荒廃していたので、見るに見かねて、自分がその管理を引き受けることにした。そんなこんなで、ウェブサイト作成ソフト「Microsoft FrontPage」をPCにインストールし、所属団体のウェブサイトの管理を始め、その余勢を駆って個人HPの構築にも乗り出したのだった。YahooのHPサービス「ジオシティーズ」に加入し、個人HP「ベラルーシ津々浦々」を公開したのは、記録によれば、2003年11月26日のことだった。

 こうした次第だったので、最初このHPは、完全にベラルーシ情報サイトという位置付けであり、なおかつ、自分が紙媒体で発表した著作物を宣伝・紹介することに主眼を置いていた。ただ、それだけだとウェブサイトとして活気が出ないので、2004年6月から、HP独自のコンテンツとして、本コーナー「マンスリーエッセイ」を始めた。さらに、一つのターニングポイントとなったのが、「2006年ベラルーシ大統領選特報」だった。この時初めて、現地の最新情報をリアルタイムでフォローし、それをいち早くウェブ上で発信するということを試みたのである。ベラルーシ大統領選が山場を迎えた時には、私のHPへのアクセス数もかなり増えたので、なるほど、広い日本にはこういう国に興味を持って私のHPにアクセスしてくれる人もいるのだなと思い、ならばそれにお応えしようかということで始めた企画だった。その後この流れは、「研究ノート」シリーズへと引き継がれていく。

 他方、2004年に『不思議の国ベラルーシ』を上梓し、その他ベラルーシに関する一連の著作を発表し終えたことで、個人的にはベラルーシ研究には一区切りを付けたという思いがあった。元々、ベラルーシに特化した専門家になるつもりはなかったし。2005年くらいから、しばらくなおざりになってしまっていたロシア研究を立て直すことの方が、むしろ個人的に急務となった。さらに、オレンジ革命などもあり、自分の中でウクライナへの関心が強まっていた。仕事の面で、所属団体の機関誌である『調査月報』の編集長になり、時間的な余裕がまったくなくなって、ベラルーシに関するマニアックな研究や執筆などはできなくなった。必然的に、HPでもベラルーシに関するコンテンツが減り、ロシアやウクライナのそれが増えていった。HPの題名も、しばらくは「ベラルーシ津々浦々」というのを惰性で維持していたが、結局内容に合わせて「服部倫卓のロシア・ウクライナ・ベラルーシ探訪」に改名することにした。改名したのが具体的にいつだったのか、正確には確認できなかったのだけれど、たぶん2008年1月のことだったかと思う。

 そうした中、世の中はブログ、そしてその後はSNSの世界へとなだれ込んでいった。さらには、スマホとタブレットのブームが来た。本HPでは、2010年4月から、ロシア・ウクライナ・ベラルーシに関する最新情報を高頻度でお伝えするコーナーを開設しており、せっかくなのでそれをスマホ等でも閲覧していただきたいなと思うようになった。紆余曲折があったが、結局私は、ライブドアブログでブログを開始した。2012年2月のことである。いつしかHPとブログの優先順位が逆転し、最新ニュースなどはむしろブログの方で先に紹介して、HPには後からコピーするようになった。ただ、ブログ記事をHPにコピーする作業は労多くして功少なしということで、その作業は2015年一杯で打ち切った。その結果、私のHPはもっぱら、自分の仕事を箇条書きで紹介することに主眼を置いたものとなり、読み物としては本「マンスリーエッセイ」を残すだけとなった、というわけである。

 それにしても、人生は異なものというか、必ずしもコンピュータが好きでも得意でもなかった自分が、もう15年間も個人ウェブサイトを運営しているというのは、不思議な感じがする。その間、世の中も変わったし、私自身の活動の重点や価値観も変化したりして、それに応じて本HPも色々と変遷してきた。そこで、この15年間の本HPと関連事項の歩みを、振り返ってみたいと思う。

 何と言っても、このHPの上で、最近の一番大きな出来事は、Yahooが「ジオシティーズ」の打ち切りを突然発表し、別のサービス「エクスリア」への引っ越しを余儀なくされ、その際に無料コースを選んだので、http://www.hattorimichitaka.com という独自ドメインも失ったことである。その経緯については、こちらに書いたとおりだ。ただ、日常的な情報発信の場が完全にブログの方にシフトし、このHPは仕事の一覧を掲載する程度になってしまい、それだけのために月額500円を払い続けて独自ドメインを維持するのに、しんどさを感じていたのも事実だ。新サービスの無料プランに移行し、負担がなくなったので、今後も心置きなく本HPを継続できるという意味では、良いきっかけになったかもしれない。

 そんなわけで、主力がブログに移行して久しく、YouTubeチャンネルなんかも始めた今となっては、自分の関心も新メディアの方にばかり向いてしまい、本HPは消化試合的な位置付けになってしまっていることは否めない。ただ、今回は記念すべき15周年だ。「ロシア・ウクライナ・ベラルーシ探訪」というHPのタイトルにふさわしく、「『探訪』人生の中間報告」というのをやってみたい。前回10周年の時に同じことをやっており、その更新版である。私は自分のテリトリーである国の調査・研究に取り組む中で、なるべく足繁く現地に出かけ、様々な地域や都市を訪問することを心がけている。調査の成果は、所属団体の刊行物等で発表しているが、本「マンスリーエッセイ」においても、訪問した先々での見聞や土産話を披露するようにしている。では、私はこれまでどんなところを訪問してきたかということを、15周年の節目に当たって整理しておこうというわけだ。

 手始めに、私が行ったことのある国と地域だが、これが非常に少ない。母国の日本以外では、まず旧ソ連諸国を挙げると、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、モルドバ、アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア、カザフスタン、ウズベキスタン、エストニア、ラトビア、リトアニア。中東欧では、ポーランド、チェコ、スロバキア、ルーマニア。ヨーロッパでは、英国、ドイツ、ベルギー、オーストリア、フィンランド、トルコ。アジアでは、中国、韓国、台湾、香港、マカオ、ベトナム。北米では、米国、カナダ。この5年間で7つだけ増えて、現在30ヵ国。基本的に、観光で外国に旅行するのは稀で、ほとんどが仕事での出張だから、なかなか増えない。この5年間で、南コーカサスの3ヵ国を新たに訪問できたのはよかったけれど、中央アジアのキルギス、タジキスタン、トルクメニスタンは、所属団体の事業対象国であるにもかかわらず、いまだに未踏。

 ロシア国内については、どうだろうか? 現時点でロシアは、全国83の連邦構成主体(地域)から成っている(ロシアが併合したと主張しているクリミア共和国とセヴァストーポリ市を含めれば85だが)。そのうち、私が訪問したことのある地域を、地図上に朱色で示した。具体名を挙げると、ベルゴロド州、ウラジーミル州、ヴォロネジ州、カルーガ州、リペツク州、モスクワ州、スモレンスク州、タンボフ州、トヴェリ州、トゥーラ州、ヤロスラヴリ州、モスクワ市、カリーニングラード州、レニングラード州、ムルマンスク州、ノヴゴロド州、プスコフ州、サンクトペテルブルグ市、アディゲ共和国、カルムィク共和国、クラスノダル地方、ヴォルゴグラード州、ロストフ州、カラチャイ・チェルケス共和国、スタヴロポリ地方、バシコルトスタン共和国、モルドヴィア共和国、タタルスタン共和国、ウドムルト共和国、ペルミ地方、ニジェゴロド州、ペンザ州、サマラ州、サラトフ州、スヴェルドロフスク州、チュメニ州、チェリャビンスク州、ケメロヴォ州、ノヴォシビルスク州、トムスク州、カムチャッカ地方、沿海地方、ハバロフスク地方、アムール州、マガダン州、サハリン州、ユダヤ自治州。この5年間で12地域増えて、現在のところ計47地域。ようやく、ロシア全地域の半分を超えた程度。全83地域制覇は至難とはいえ、今後もなるべく多くの地域を訪れて、現地の実情を体感するよう心がけたい。

 地域よりも下位の「都市」のレベルで見ると、私が訪問したことのあるロシアの都市は、下表のとおりである。表にはロシアの百大都市が掲げられているが、そのうち青く塗った訪問済みの都市は47だった。この5年間で12増えたが、まだまだという気がする。引退するまでに、何とか人口30万人以上のところくらいは、制覇したいものである。

 次に、ウクライナについても、自分の訪問したことのある地域を地図に、都市を表に整理した。ウクライナは全国27の地域から成るのだが(ロシアが併合を主張しているクリミア、セヴァストーポリもウクライナの地域としてカウントしている)、私はすでに20地域を訪問済みである。勤務先の勤続20年特別休暇を利用して、物好きにも2014年にウクライナ地方旅行を敢行したりしたものだから、この5年間で8個ほど増えた。ウクライナは、たかだか27地域しかなく、残り7つなので、ぜひ全地域踏破を実現したいものだ。ただ、ルハンシク州には平和なうちに行っておくべきだったと、後悔している。なお、ウクライナではドニプロペトロウシク市がドニプロ市に改名されたり、私自身『ウクライナを知るための65章』を機に地名のカタカナ表記を修正したりしたのだが、下表は旧名称・旧方式のままとなっており(古いファイルに上書きして作ったので)、その点ご容赦いただきたい。

 他方、ベラルーシに関しては、何せ小国なので、ほとんど行き尽している。すべての州を訪問したことがあるのはもちろん、何と人口5万人以上の都市はすべて訪問してしまった。これに関しては、以前エッセイに書いたことがあるので、ご参照のこと。

 最後に、本エッセイでも時々、日本の国内旅行についての談義を披露しているが、今まで自分が訪問したことのある都道府県を地図に示してみた。なお、この場合の「訪問」というのは、仕事・学会・観光・スポーツ観戦・散策など、それなりの目的意識を持って当該都道府県を訪れたことを意味している。車で通ったことがあるとか、交通機関の乗り換えで降りただけとか、あるいは記憶が曖昧なものなどは除外している。現在までのところ、47都道府県中、訪問歴があるのは38のようだ。この5年間で、9つほどが新たに加わった。増えたのは嬉しいのだが、2016年にJリーグの自分の支持クラブがJ2暮らしを余儀なくされ、その際の観戦ツアーで稼いだ分が多いので(J1は大都市圏が多いのに対し、J2は地方都市が多い)、ちと微妙な気もする(笑)。

(2018年11月26日)

艱難辛苦を乗り越え、『ウクライナを知るための65章』刊行

 このほど、服部倫卓・原田義也 (編著)『ウクライナを知るための65章(エリア・スタディーズ169)』(明石書店、2018年)が刊行された。明石書店のページはこちら、アマゾンはこちら

 本書の「おわりに」で、私は次のように綴っている。

 明石書店の「エリア・スタディーズ」のシリーズからウクライナ編を出すという企画は、2011年には立ち上がっていたものでした。しかし、その後、諸事情から作業が滞ることとなります。そうこうするうちに、2014年のウクライナ危機を迎え、ウクライナ自身の国情が激変・錯綜したことで、本プロジェクトも暗礁に乗り上げた格好になってしまいました。

 本書の編者である服部と原田義也さんは、当初から執筆者として本企画に参加していましたが、2017年に編者としての役割を引き取り、態勢を立て直して、約1年をかけて本書の刊行に漕ぎ着けたものです。

 本書の編集に当たっては、既存の章立てと執筆分担を可能な限り踏襲し、完成していた原稿は極力活かしつつ、必要に応じて新たな章と執筆者を追加するという折衷的な方式をとりました。本書にはクリミアが頻出しますが、今日すでにクリミア半島はウクライナの統治下にありませんので、現時点でまったく新たに章立てを考えたら、違った配分になっていたかもしれません。いずれにしても、各執筆者のこれまでの作業を無駄にしないためにも、まずは速やかに本書をまとめ上げ世に出すことこそ最優先の使命であると肝に銘じ、編集に取り組みました。

 昨今の日本では、学問の中で文系が軽んじられる風潮があり、特に地域研究は古典的なディシプリンには該当しないだけに、然るべき市民権を得ていないきらいがあります。それでも、2014年のウクライナ危機のような大事件があれば、にわかにその地域が脚光を浴び、情報ニーズも高まります。本書の元々の企画が2011年頃から進行していたにもかかわらず、ウクライナへの関心が劇的に高まる2014年までに上梓することができなかったのは、痛恨であると言わざるをえません。

 当「マンスリーエッセイ」のコーナーでも、以前から、このウクライナ共著企画に関しては、ほのめかしていた。2014年2月に書いた「ウクライナ・ボツ原稿供養」というものがそれである。それからさらに5年近くの歳月を経て、ようやく出版にこぎ着けた。最終的には、私自身が編者を引き受け、このプロジェクトを完結させることとなった。大袈裟でなく、筆舌に尽しがたい苦難を経験した。私はこの本の完成度が高いと主張するつもりはなく、むしろ色々妥協したことは自覚している。しかし、私が(そして頼もしい共編者の原田さんが)引き受けなかったら、そもそもこの本が世に出ることはなかったことは間違いなく、その仕事をやり切ったということだけは誇りに思っている。

 さて、本を作るに当たっては、画像等、色々な素材を用意するが、結局日の目を見なかったものもある。そこで、今月のエッセイでは、『ウクライナを知るための65章』刊行を記念して、そうしたお蔵入り素材をお目にかけることにしたい。

 ウクライナの基本的な地形を示したこんな地図を作ったのだが、結局使われなかった。その代り、本書冒頭のp.14に、「ウクライナの位置と地図」というものを載せ、地形の名称だけでなく、主要都市と、歴史的な地方の範囲を示した総合地図になっている。歴史的な地方(ドンバス地方、ハリチナー地方といったもの)は、ウクライナを理解する上できわめて重要であり、私の知る限り、それを網羅的に示したような日本語地図は前例がないのではないか。この「ウクライナの位置と地図」だけでも本書を買う価値があるのではないか(笑)と密かに思っている。

 ついでに言わせていただくと、『ベラルーシを知るための50章』の時と同様に、本書の巻末には「地名・人名索引」を載録した。「エリア・スタディーズ」のシリーズとしては破格だが、この種の本に索引がないなどということは個人的に耐えがたく、出版社のご厚意により実現の運びとなった。

 表紙に使う画像にも、散々悩んだ。国・民族を象徴するような人物もしくは建築物がいいということで、私が一案で推したのがこれだった。詩人シェフチェンコの描いた有名な「カテリーナ」という絵。しかし、実はこれは弄ばれた少女の悲しい姿ということらしく、意味合いからして表紙には向かないということになり、採用はされなかった。

 表紙の画像に、ウクライナを代表するような人物をと言えば、コサックの統領ボフダン・フメリニツキーだろうということで、私が博物館で撮った絵画の写真や、あるいはお札から顔を拝借するのはどうかなどと、検討はしたのだけれど、イマイチ決め手に欠けた。

 一方、裏表紙に関しては、近年ウクライナが地政学的な焦点となってきたことに鑑み、2014年の政変絡みの写真を入れたいというのが、当初からの私のアイディアだった。これに関しても紆余曲折があったのだが、ボツになった1つがこれ。政変後の5月に私が撮ったものであり、事件の生々しさを表現するには良いかなと思ったのだが、ちょっとイメージが暗すぎるという意見が出て、最終的に現行のものに差し替えた。

 表の表紙の話にまた戻ると、私がギリギリまで推していたのが、この写真だった。ウクライナ国立アカデミー・コサック歌唱・舞踊アンサンブルのステージ写真である。締切日の午前中まで、この写真をメインにした表紙で進行していて、ほぼ決まりかけていた。しかし、実際に表紙にレイアウトしてみると、下に見るように、黒い部分ばかりが目立ってしまい、これでは印象が良くない。そこで、急遽、オペラ「ボフダン・フメリニツキー」のカーテンコールの模様を捉えた写真を提案し、出版社および共編者の同意も得られたので、土壇場でそれで最終決定した次第である。それで完成したのが、冒頭に示した正規テイクである。

 それにしても、ボツになった別テイクまでお目にかけるとは、我ながら太っ腹だ(笑)。

(2018年10月27日)

望遠レンズを求めてモスクワをさまよい歩く

 8月末から9月上旬にかけて、ロシアのモスクワ、ジョージアのトビリシ、ウクライナのキエフで現地調査を行った。ところが、まずモスクワに着いてホテルに落ち着いたところで、まずいことに気付いた。カメラの替えレンズを持ってくるのを忘れてしまったのである。私はパナソニックのDMC-GX7MK2というミラーレス一眼を使用していて、基本的にPanasonic LEICA DG SUMMILUX 15mm / F1.7 ASPH. H-X015 -Sという短焦点レンズを装着しているのだが、必要に応じてズームレンズ、望遠レンズに付け替えるという感じである。今回、替えのズームレンズ、望遠レンズを、荷物に入れ忘れてしまったわけだ。個人的に、風光明媚なジョージアは初訪問だったので、頑張って写真を沢山撮ろうと思っていたのに、ズームのない単焦点レンズだけではキツい。これはいっそのこと、モスクワで交換レンズを購入してしまおうか? そんな風に思い立ち、到着した日の夜、まずはネットでレンズを物色してみたのである。

 しかし、ネットでリサーチしても、手応えが芳しくない。DMC-GX7MK2は、マイクロフォーサーズという規格であり、まずはパナソニック製品を中心にその規格に合う最新の望遠レンズを日本のサイトで調べた上で、いくつか目星をつけた製品がロシアで買えるかどうか調べたのだけど、どうも塩梅がよろしくないのだ。まず、モスクワでカメラレンズを豊富に取り扱っているような実店舗の存在が確認できなかった。お目当ての製品名をロシアのサイトで検索すると、出てきたとしてもネット通販であり、当然旅行者が利用するのは無理。しかも、日本で買うよりも1.5倍くらい高い値段がついており、こりゃロシアで交換レンズを買うなんてのは馬鹿げたアイディアだったなと思い知った。直近でルーブル安が進んでいるので、「もしかしたら今ロシアで買い物をするのは、お得なのではないか?」なんてことも思ったのだが、パナソニックの交換レンズは日本からの輸入品であり、しかも関税も乗っかるわけだから(調べたところ、カメラレンズの関税率は12.5%の模様)、日本より割高になるのも当然である。

ガルブーシカの正面入り口

 ただ、ついでなので、モスクワの家電店に立ち寄り、カメラやレンズの販売の様子を店頭調査してみることにした。私は数年前まではロシアの家電業界・市場のことを結構調べていたのだが、最近やや遠ざかっていたので、この機会に自分の知見をアップデートしようと考えた。日系メーカーにとっては、テレビ販売市場などは完全に韓国勢に掘り崩されてしまい、カメラやレンズは今や日系メーカーが優位を維持している数少ない分野なので、その聖域の様子を確かめたかった。そこで、空き時間を利用し、モスクワにおける家電・エレクトロニクスの聖地として知られる「ガルブーシカ」を、久し振りに訪れてみることにした。

スマホや小物ばかりで面白くなくなったガルブーシカ

 しかし、ロシアの秋葉原ことガルブーシカの視察は、空振り気味だった。まず、ガルブーシカの大部分がスマホ売り場になってしまい、昔のように白物家電、AV機器といった物理的な存在感のあるモノが溢れる世界ではなくなってしまっていた。平日だったせいもあるだろうが、客も少なく、下の写真に見るように、何やらシャッター商店街のような雰囲気も感じた。

何やらシャッター商店街のような雰囲気

 「もしかしたら、何か手頃な商品があるかもしれない」と一縷の望みを託していたズームレンズ、望遠レンズも、まったく駄目。一応、ガルブーシカでは中古カメラ店が2軒ほど見付かり、一眼レフやら交換レンズやらも売っていたけれど、パナソニックの製品やマイクロフォーサーズ規格のものは見付からなかった。変わり種として、ロシア製の交換レンズを売っていたのには興味をひかれ、話のタネに買ってみたい気持ちにはなったものの、当然マイクロフォーサーズ規格などではないだろう。

 ちなみに、ガルブーシカにはパナソニックさん直営のショールーム兼販売店もあるので、そこにも立ち寄ってみたのだけれど、交換レンズが一応陳列されていたものの、品揃えや価格からして、とても当方の食指が動くものではなかった。

ここにはちょっと期待していたのだが

 もう一つ、別の日に、家電量販チェーン大手「Mヴィデオ」の売り場もチェックしてみた。ここでも、カメラコーナーはきわめて小さく、店員に訊かないと場所が分からないほどだった。品揃えは薄く、当然、マイクロフォーサーズの替えレンズなどは見当たらず。

Mヴィデオのカメラコーナー

 というわけで、ズームレンズ、望遠レンズを持ってくるのを忘れたことを奇貨として、モスクワでそれを買えないか調べ、その延長上で久し振りに家電店の店頭調査をしてみたのだけれど、見えてきたのは残念な現実だった。まあ、考えてみれば当たり前であり、全世界で起きているのと同じことなのだけれど、スマホの登場以来、色んなことがスマホでできるようになった。以前は、カメラならカメラ、音楽プレーヤーなら音楽プレーヤー、ゲームならゲームという個別の市場があったのに対し、安価なスマホで何でもできるようになったので、一部スマホメーカーとネットサービスのプラットフォームばかりが栄え、既存の市場はシュリンクする。よしんば、モノが消費されるにしても、その主戦場は実店舗からネット通販に移っている。モスクワで自分のカメラに合う望遠レンズを買ってみようかなどという私の思い付きは、まったくナイーブだった。

(2018年9月17日)

ウラジオストクでサバ缶を買ってきた話

 日本では、サバ缶がブームになっているらしい。かく言う私も、実は毎朝サバ缶を食べている。ただ、最近は人気が出すぎたのと、不漁などで、サバが高騰しているという話も聞く。そんな中、5月にウラジオストクに行った際に、現地でサバ缶を買ってきたので、今回はその話をさせていただく(正確に言えば、サバを含む青魚の缶詰の詰め合わせ)。

 ウラジオストクの街を散策していたところ、海沿いの広場に、市場が開設されていたのである。ロシアの食品市場というのも、色んな街で散々見てきて、見飽きた感じもあるのだが、さすがウラジオストクは港町だけあって、海産物が豊富であり、この街ならではだなと感心させられた。

 上の写真はボタンエビであり、ボタンエビがロシアでも「ボタン」という呼び名だということは初めて知った。1キロ600~750ルーブルとなっており、日本円でざっと1,000円くらい。日本でボタンエビはキロ数千円はすると思うので、非常に安い。ただ、旅行者が市場で大量にボタンエビを買っても、その場で食うわけにもいかないし、日本に持って帰るわけにもいかないだろう。

 そうしたところ、市場で非常に良いものを見付けた。「ドブロフロート」という現地の缶詰会社がブースを出しており、缶詰の直売をやっていたのである。しかも、なかなか小奇麗な商品であり、詰め合わせなどもあるようだ。これは、現地の味覚をお土産として日本に持ち帰るのに最適だろうということで、缶詰の詰め合わせを1つ買ってきたのだった。なお、値段を正確に覚えていないのだが、確か500ルーブルだったのではないかと思う。だとすると、今のレートでは1,000円未満だ。

 上の写真が、その詰め合わせである。内容は、サンマ×2味、サバ、イワシ、海藻サラダだった。この5缶を、右側の筒のようなものに入れてくれるだけじゃなく、それを左側のバッグにも入れてくれた。デザインも洗練されている。日本でも立派な「贈答品」として成立しそうなレベルである。

 缶詰だから、そんなにすぐに食べる必要もなく、しばらく放置してあったのだが、このほどようやく、サンマ缶と海藻サラダを開けて食べてみた。なお、缶は、缶切りで開けるのではなく、日本などと同様のパッカンタイプであり、とても楽に開けられた。サンマの味は、水煮風だったが、クセがなく、日本人にも受け入れられるだろう。海藻サラダの方は、ロシア極東で良く供される料理で、不味くはないのだが、いかんせん海藻を簡単に味付けしただけの代物なので、単調なことは否めない。

 ところで、今般改めて缶詰をしげしげと眺めてみて、ラベルに「メイド・イン・ロシア」ならぬ「メイド・イン・シー(СДЕЛАНО В МОРЕ)」の旨が誇らしげに表記されているのに気付いた(上掲写真)。え? 海で生産? ということは、蟹工船よろしく、海上の船で缶詰を生産しているということか? ドブロフロートのHPで確認してみると、実際にそうだった。下の画像に見るとおり、フセヴォロド・シビルツェフ号という立派な船で、缶詰が洋上生産されているということである。

 この船自体は普段は港に寄港せず、運搬船で物資をこの船に運び込んだり、出来た缶詰を陸地に出荷しているということである。全長179.2メートル、総員600名、1日の生産量700tを誇り、年間9ヵ月も洋上で生産に従事するということだ。陸地ではなく洋上で生産するのは、魚の鮮度を重視しているからだろう。日本ならば船上で冷凍した魚を缶詰工場に持ち込むというパターンもあると思うのだが、もしかしたらロシアはその部分の設備や技術が弱く、洋上生産の方が品質が保てるのかもしれない。

 そんなこんなで、ウラジオストクで魚の缶詰を買ってきたのは大正解であり、ロシア経済の新たな一面も知ることができた。ドブロフロート(ちなみに帝政ロシア時代の1911年創業だそうである)の商品は、日本でも充分に通用すると感じた。日本でサバ缶の高騰や品薄が続くようであれば、もしかしたらドブロフロートの商品を日本に輸出する可能性もあるんじゃないかと、そんな期待も膨らむ。その場合、必ずしも安さだけに訴求する必要はないのではないか。このパッケージの質感なら、意外とカルディとか成城石井とか、高級路線でも行けそうな気もする。

(2018年8月19日)

空港に礼拝堂は普通?

 ちょっと忙しいので、簡単な小ネタだけで。

 西野監督率いるサッカー日本代表の戦いは、ロストフナドヌーの地で終焉を迎えた。ちなみに、ロストフではこのほど新空港が開業し、市街からやや遠いという不評は聞かれるものの、ロシアの交通網インフラ整備にとっては重要な一歩となった。

 ところで、新空港ができる前の古いロストフ空港を、数年前に利用したことがある。その際に、空港のロビーに正教会の礼拝堂が併設されていて(写真)、とても驚いた。「もしかしたら、ロシアの航空安全は、神頼みということですか?」なんて、ツッコみたくなった。

 しかし、調べてみると、単に私が気付かなかっただけで、ロシアの空港には礼拝堂が設置されているケースが結構多いことが分かった。たとえば、シェレメチェヴォ空港には、こちらに見るとおり、Eターミナルに正教の礼拝堂があるそうである。

 また、ドモジェドヴォ空港では、こちらに見るとおり、キリスト教の礼拝堂だけでなく、イスラム教のモスクとユダヤ教のシナゴーグまで置かれているそうである。

 こうして見ると、ロシアの空港では、正教礼拝堂をはじめとする宗教空間を設けることが、むしろ当たり前になりつつあるようである。旧ロストフ空港では、単にそれがロビー横のものすごく目立つ場所にあったので、私の目に留まったということなのだろう。

 また、これも私が知らなかっただけで、諸外国や日本の空港でも、乗客のために宗教空間を用意することが、ごく一般的なようである。たとえば、個人的にこれまで一度も気にしたことはなかったが、成田空港の礼拝室については、こちらに情報が出ている。「礼拝室は、祈り、祈祷、黙祷、瞑想、思索、物思いなど、静謐な環境の下での精神活動のためにどなたでもご利用いただけます」と書かれている。

(2018年7月9日)

ロシア音楽CD制作のクラウドファンディングに参加してみた

 どういうきっかけだったか忘れたが、昨年の暮れ頃、ロシアのクラッシック音楽CDを制作するクラウドファンディングの企画が進行していることを知った。「MOTION GALLERY」という日本のクラウドファンディングサイトが手掛けているクラッシックCDシリーズの一環であり、その第5弾「濃厚、濃密!ロシア音楽の世界」を作ろうという触れ込みだった。個人的に、今までクラウドファンディングというものに参加したことがなく、興味があったのと、本エッセイコーナーで披露したとおり、ちょうどオーディオシステムを一新して、それを鳴らすコンテンツへの興味も高まっていた時期だったので、参加してみることにした。1,200円の「オネーギン・コース」と2,200円のペトルーシュカ・コース」というのがあったが、CD自体は同じものなので、安い方のオネーギン・コースを選択した。

 実は私が申し込んだ昨年12月の時点で、すでに所定の人数は集まっており、本件クラウドファンディングは成立済みの状態だった。今年に入って、しばらく音沙汰がなかったので、「おや? あれはクラウドファンディング詐欺だったのかな?」などと疑ってしまった。しかし、3月頃だったか、完成したCDが無事我が家に届けられた。

 ただ、現物を見ると、ものすごく簡素なペラの紙ジャケと、ディスクだけという代物であり、安普請であることは否めない。まあ、1,200円なのでその仕様は妥当だが、残念だったのは、ジャケットに曲名しか書いておらず、演奏者や録音年などのデータがなかったことである。いくら何でも、それは重大な不備だろう。

 また、事前の趣旨説明からは必ずしも明らかでなかったが、このCDはいわゆるサンプラー的なものであるということも判明した。どの曲も、フルではなく、だいたい1つの楽章しか収録されておらず、NAXOSの提供音源によるロシア音楽のハイライト集というべきものだった。私としては、大作の一部の楽章が選別的に収録されるよりも、小品でもいいから曲全体を収めてほしかった。

 なお、上述のようにCDのジャケットには曲名しか載っておらず、演奏者が不明だったのだけれど、その後メールで案内があり、こちらのPDFに見るように、演奏者のデータと曲についての解説が追加された。その中から曲目の一覧表だけを抜き出したのが上表である。なるほど、こうやって少しでも制作費削減の努力をしているのかと、納得した次第である。

 ところで、私はロシアのクラッシック音楽作品を聴くに当たっては、なるべく、①ロシアの作曲家の作品を、②ロシアの演奏家が演奏し、③できればロシア国内で制作・発売されたレコードやCDで聴きたい、という願望を持っている。純粋な音楽ファンの方に言わせればナンセンスなこだわりなのだろうが、私はどちらかと言うと地域研究の一環としてロシア音楽を知りたいと思っているので、なるべくロシア文化としての純度の高い音源を聴きたいのである。その点、今回のクラウドファンディングCDは、蓋を開けてみると(事前には分からなかった)、ロシアと外国の演奏者が半々くらいで、個人的にはちょっと残念に思った。「濃厚、濃密!ロシア音楽の世界」と称する以上は、ロシアの演奏家に絞ってほしかった気がする。

 ちなみに、最近こんな本(というかマンガ)も読んでみた。『スラーヴァ! ロシア音楽物語: グリンカからショスタコーヴィチへ』というやつであり、私のような初学者にとっては丁度良い入門書だった。

(2018年6月17日)

カラチャイ・チェルケスで垣間見た文化事情

 昨年度私は、ロシアの地域開発政策に関する調査事業を実施し、その一環として1月にスタヴロポリ市を訪問して現地調査を行ってきた。スタヴロポリはロシアの「北カフカス連邦管区」の中心地域であり、私にとっては初めて北カフカス連邦管区に足を踏み入れる機会となった。それで、スタヴロポリ自体も重要な街だが、そこから少し足を伸ばしてカラチャイ・チェルケス共和国のチェルケッスクにも出向いてきたので、そちらの方がレア度が高いから、今回はそれについてちょっと語ることにしたい。

スタヴロポリ地方とカラチャイ・チェルケス共和国の境界

 「カラチャイ・チェルケス共和国っていうと、独立国?」と勘違いされそうだが、むろんそうではなく、あくまでもロシア連邦の中の一地域である。ロシアでは、少数民族の自治権を尊重するという意味合いで、一連の「共和国」が設けられており(特に北カフカスには多い)、カラチャイ・チェルケス共和国もその一つということになる。チュルク系の民族であるカラチャイ人(2010年現在41.0%)と、アディゲ系の民族であるチェルケス人(11.9%)が2大基幹民族なのでそのような共和国名になっているが、実は民族的なロシア人(31.6%)もかなり多い。

 私の訪問した首都のチェルケッスクは、ロシア人54.1%、カラチャイ人16.2%、チェルケス人13.0%という比率となっている。だから、街の雰囲気とか、ロシアの普通の都市部とあまり変わらない印象を受けた。ただ、カラチャイ人もチェルケス人もムスリム(イスラム教徒)なので、下に見るようなムスリム御用達の店などが見られ、普段ロシア正教圏に出張することが多い私からすると、部分的にはエキゾチックな雰囲気も感じた。

「ムスリムの世界」というお店
店内では、イスラム関係の宗教書や日用品などが売られていた

ショッピングセンターに入っていたムスリム女性専科の洋品店

 ロシアの大都会では、近代的な大型店舗が増え、昔ながらの市場(ルィノク)は姿を消しつつある。しかし、地方都市や少数民族地域では、市場はまだ健在であり、現地の生活や文化の雰囲気に触れることができ興味深い。チェルケッスク市内を散策した中で、一番面白かったのも、市場およびその周辺の雑然とした界隈だった。

 私のカメラに、「料理をおいしそうに撮る」というモードがあるので、初めてそれを使ってみた(笑)。写真の映えだけでなく、実際においしかった。市場の近くでカラチャイ人のおじさんがやっていた、安い軽食堂みたいなところ。頼んだのはロシア語で「シャウルマ(Шаурма)」という料理で、日本ではシャワルマと呼ばれるのが一般的なのかな。要は、ケバブに近い、肉や野菜などの具を生地でくるんだものである。300円くらいだけど、すごいボリュームだった。

 私は、ロシア地方出張に出かけた際に、それぞれの地方に関するドキュメンタリー的なDVDを買って帰ってくることを習慣としている。土産物が貧弱で、マトリョーシカ人形とか画一的なアイテムが目立つロシアにあっても、地元の歴史・文化・地理・経済などを紹介したDVDは時折見かける。それらは、その土地でなければ手に入らないものだし、現地調査の復習教材としても打って付けだからだ。今回チェルケッスクでもご当地DVDを探したところ、市場の中のCD・DVD売り場で、カフカス観光やカラチャイ音楽のDVDが多く見つかったので、それらを買い求めた。下の写真のババアが商売上手で、結構たくさん買わされてしまった(当然、正規商品ではないので、値段は微々たるものだが)。帰国して、カラチャイ音楽のDVDを観てみたところ、プロのパフォーマンスなのか素人のカラオケ大会なのか良く分からないようなものが多かった。

 さて、チェルケッスクの中心部で、奇妙なものを見付けたので、最後にそれを紹介したい。電話ボックス風のものが佇んでいたので、何だ?これはと近付いて見てみたら、「電子図書館」という代物だった。ロシアでは近年一部地域で、こういう屋外に設置されたセルフ図書館で本の現物を借りられるサービスもあるようだが、このチェルケッスクに設置されているのは、どちらかと言うとオブジェであり、この中に本の現物があるわけではない。説明書きを読むと、「各書籍の背表紙にあるQRコードを読み込んで電子書籍をダウンロードしてください」と書いてあった。興味深いのは、ダウンロード可能な(ちなみに無料)本のラインナップであり、ロシア文学、外国文学、カラチャイ・チェルケス文学などと並んで、イングーシ文学などというものも含まれていた。しかも、イングーシ文学の本は、イングーシ共和国の首都マガスから友好の印として贈られた、とある。ただし、背表紙を見た限り、カラチャイ・チェルケス文学も、イングーシ文学も、各民族の作家が書いたというだけで、言語はロシア語のようだ。

(2018年5月13日)

モスクワのCDオアシス「トランシルヴァニア」

 本エッセイ・コーナー、しばらくロシア圏とは関係ない話題が続いてしまったけど、今回はロシアネタ。ただし、またまた音楽に関連した話である。別のところに書いた雑文の使い回しだけど、ご容赦を。

 さて、音楽ファン(というかフィジカルコンテンツのファン)の私にとってはきわめて残念なことに、世界の街から、CDショップが消滅しつつある。日本はまだマシな方で、欧米では実店舗を構えてCDを売るようなことはかなり稀になっているらしい。

 ロシアの場合は、ソ連崩壊後に非合法な海賊版CD(というかMP3ディスク)が全盛となり、元々正規品のCDが店舗で売られるという文化自体が希薄だった。それでも、数年前までは、モスクワに「フセソユーズヌィ」というマルチメディア・ショップがあり、そこでロシア内外のCDが買えたのだが(それに関しては以前「モスクワで見付けた意外なメイドインジャパン」というエッセイで取り上げた)、昨今の違法配信を含めたネット配信に押され、いつの間にかフセソユーズヌィの店舗は閉鎖されてしまったようだ。ロシアに出張に行った時に、ふらっと立ち寄れるCDショップの類がないのは、寂しいことである。

 果たして、モスクワのCDショップは絶滅してしまったのだろうか? 調べてみたところ、モスクワ中心部に最後のホットスポットとでも言うべき「トランシルヴァニア」という店があることが判明した。先日のロシア出張の際に、時間を見付けて、その店を訪れてみた。店はモスクワの目抜き通りであるトヴェリ通り6/1, str.5に所在するが、表通りには面しておらず、中庭のようなところから入るので、ご注意願いたい。ウェブは、http://transylvania.ru

 訪れてみたトランシルヴァニアは、期待に違わぬ面白い店だった。すごいのはその物量で、御茶ノ水ディスクユニオンのロック館、ジャズ館、クラッシック館を合体させたくらいの迫力がある。商品は、新品も中古もあるが、たぶん外国のデッドストックみたいなものをまとめて安く仕入れているのではないか。CDのボックスセット類もかなり豊富。アナログのLPレコードもあったし、DVDの映像作品もあった。意外にも日本製のCDも多く販売されており、日本語のオビ付きなので非常に目立つ(ただし、邦楽ではなく、洋楽やクラッシックの日本製CDという意味)。商品があまり整理されていないのが惜しいが、じっくり探せば掘り出し物が見付かるかもしれない。

 ただ、私がブツを物色している間、ずっと店員が隣に付き添っていたのには閉口した。たぶん万引き防止のためなのだろうが、日本人がロシアのレコ屋で万引きなんかしないっつーの(笑)。まあ、ロシアのお店としては珍しく、店内で写真をとることを認めてくれたりして、フレンドリーな面もあったが。それから、少々残念だったのは、ロシア独自のCD作品が、それほど豊富ではないことである。クラッシック・コーナーに、ソ連~ロシアの音楽レーベルである「メロディア」のCDがちらほらと置かれていたので、私は主にそれらを何点か買い求めた。

 あと、ジャズ・コーナーで、上掲のブツと目が合ってしまった。アトランティック・レーベルのジャズアルバムCD20枚セットであり、「ロシアでアトランティック・ジャズ!」というそのありえない組み合わせに心を打たれ、ついこれも買ってしまった。ちなみに商品に貼られている「3 008」という値札シールの数字は価格ではなく、価格コードである。すなわち、ロシアはインフレや為替変動が激しい国なので(2017年こそインフレが沈静化したが)、それに合わせていちいち商品の値札シールを貼り直すのは面倒であり、この店では、「2018年1月現在、3 008は7,000ルーブル、3 009は8,000ルーブル」といった対応表を壁に貼り出していて、物価や為替が動いたらその対応表の方を改定するというやり方をとっているわけである。

(2018年4月20日)

シティ・ポップのブームに物申す

 いや~、ロシア圏とは何の関係もないのだけれど、最近ちょっと気になったこと。

 松任谷由実の『PEARL PIERCE』というアルバムがあって、この作品につきある人が、「皆さん大好き、最高傑作」というようなことを言っていたのである。個人的には、むしろ最駄作くらいに思っていたので、非常に驚いたわけである。

 その後、私が愛読している『レコード・コレクターズ』という雑誌に、2号にわたって、日本の「シティ・ポップ」特集が組まれた。3月号が1970年代編、4月号が1980年代編だった。そして、その80年代編に、松任谷由実の作品で唯一セレクトされていたのが、やはり『PEARL PIERCE』だったのである。この作品って、そんなに高く評価する向きが多いのかと、改めて首をかしげることになった。

 ひょっとしたら、自分の感性の方がおかしいのだろうか? 若い頃に比べれば、それなりに音楽のリテラシーも上がったつもりだし、それに何より、先月のエッセイで開陳したとおり、オーディオも新しくした(笑)。そこで、久し振りにユーミンのLPを引っ張り出してきて、一通り聴き直してみたのである。

 その結果、自分の評価は、全然変わらなかった。30年くらい前に心から感動し繰り返し聴いた作品はやっぱり良いし、以前「何だかなあ」と感じた作品は今聴いてもやっぱり駄目である。

 もちろん、個人的な好みの問題もあるのだろう。それから、『レコード・コレクターズ』4月号で、ユーミンの80年代作品で唯一『PEARL PIERCE』が取り上げられているのは、それが最高傑作だからというよりも、「シティ・ポップ」というカテゴリーに一番合致したからだろう。ただ、個人的に都会的な洗練されたサウンドは好きであるものの、昨今のシティ・ポップブームでもてはやされているのは、薄っぺらい無機質な感じの作風である印象を受ける。私は、スタイリッシュであっても、深い情念のこもった音楽でなければ受け付けないのだなと、今回そんなことを思った。

 私のホームページでは、以前、ユーミンさんの全アルバムの(途中までだけど)レビューをしたことがあった。そのページはもう閉鎖してしまったので、ここにそのレビューを復刻する。

(2018年3月29日)

評価

タイトル

発売年

コメント

★★★

ひこうき雲

1973

まだ荒削りだが、天才の片鱗は確かに見て取れる。

★★★★

MISSLIM

1974

本作から松任谷正隆がアレンジを手がけ、音が格段に緻密になる。古典的名曲の数々。

★★★★★

COBALT HOUR

1975

曲の良さに鉄壁のアンサンブルが加わり、ユーミン・サウンド完成。「卒業写真」が入っているので、個人的にはこれが無人島レコード。

★★★★★

14番目の月

1976

本作からプロデュースも松任谷正隆。独身最後の作品。飛ぶ鳥も落とす勢いとはまさにこのこと。独身時代の最高傑作。

ALBUM

1977

荒井から松任谷への過渡期に出た企画盤。新曲の不出来を嘆くよりも、再出発を喜びたい。

★★★★

紅雀

1978

結婚を経てここからが松任谷時代。上質な音楽であり、地味ながら隠れた名盤と位置付けたい。

★★★★★

流線型’80

1978

結婚後の最高傑作であり、ポップス史上の金字塔。曲もすごいがスコアもすごい。でも一番すごいのは歌唱かも。ジャケットも本作が一番。

★★

OLIVE

1979

前作が完璧すぎた反動か、詰めの甘い作品になった。二番煎じ的な曲が多い。

★★★★

悲しいほどお天気

1979

ひときわ音楽性の高い作品であり、アルバム全体に漂う空気感が魅力的。

★★

時のないホテル

1980

物語が過剰すぎて個人的についていけない。

★★★

SURF & SNOW

1980

人気作だが、出来は平均点といったところ。でも、オリジナル盤の帯にあった「忘れないで、ときめくホリデーを」という文句は泣かせた。

★★

水の中のASIAへ

1981

いかんせんミニアルバムなので存在感は希薄。1年に2作出すのがノルマだったの?

★★★

昨晩お会いしましょう

1981

有名曲が多いが、世評と異なり個人的にはそれほど好きではない。

★★

PEARL PIERCE

1982

これも人気作のはずだが、音が薄く、個人的に好みではない。後の音楽的低迷期を先取りしたような作品。

★★★★

REINCARNATION

1983

ベスト盤の『ノイエ・ムジーク』には本作からは1曲も収録されていないが、こちらの方が下手なベストよりよほど中身が濃い。

★★★★

VOYAGER

1983

宇宙と一体化したかのような音像がすばらしい。アルバム・コンセプトとしては最も成功している。最後の傑作。

★★

NO SIDE

1984

作品としてはなかなか作り込んであるが、閉塞的な音については評価が分かれよう。

DA DI DA

1985

個人的には、これが聞き込んだ最後のアルバム。発表当時はそれなりに楽しんだが、今思えば、このあたりがケチのつき始めだった。

我が家のホームシアター、リニューアルオープン

 このコーナーで再三申し上げているとおり、昨年暮れまで北大大学院に所属し、博士論文を書き上げた。自分なりに頑張ったので、何か自分にご褒美をと考え、オーディオシステムを大幅にリニューアルすることにした。

 これまでの私のオーディオ遍歴を振り返ると、小学校時代に買ったナショナルのラジカセはさておき、高校入学記念に親に買ってもらったステレオコンポが小さな第一歩だった。1980年のことであり、当時はまだミニコンポというものはなく、日立のLo-D(ローディ)ブランドのステレオコンポだった。昭和のお茶の間にどっしりと鎮座しているような、大きさだけは一人前のステレオだった。裕福な家ではなかったので、一番安いモデルしか買えず、最低限音は出ますという程度の代物だったが、初めてLPをプレーできるようになったことが嬉しかった。ただ、大学に入り上京し一人暮らしを始めると、さすがにもっと良い機器が欲しくなり、1985~1986年頃に当時の自分としてはちょっと背伸びをして、プリメインアンプ、CDプレーヤー、ダブルカセットデッキなどを単品で買い揃えた。そして、その当時はアナログレコードからCDへの転換が急激に進んでいた時期だったのだが、敢えてそのタイミングで結構な値段のアナログレコードプレーヤーも購入した。「今後、レコードプレーヤーはもう買えなくなるかもしれないので、一生使えるようなちゃんとした商品を買おう」と考えたのである。

 しかし、スピーカーを充実させるという発想には、あまりならなかった。自分が住んでいたのは木造アパートであり、大きな音を出せる環境ではなく、昼間に控え目な音量で聴くか、あるいはヘッドフォンで聴くというパターンだったからだ。なので、結局スピーカーに関しては、1980年に購入したLo-Dの安物コンポに付属していたものを、四半世紀以上も使うことになった。どうも、自分のオーディオビジュアルライフの半生を振り返るに、音質を極めるといったことよりも、コンテンツを蒐集したり、多様なソースに対応したりといったことに注力する傾向があるように思う。

 ただ、ベラルーシ駐在を経て、2000年代に入って鉄筋コンクリート造りの賃貸マンションに暮らすようになると、さすがに木造アパート時代よりは、少しは音を出せる環境となった。そうなると、自分のオーディオ機器のショボさを実感するようになり、また既存の機器の老朽化も顕著となっていた。他方、当時はデジタル家電ということが言われるようになった時期でもあり、自分の中で、単にオーディオ機器をアップデートするということに加えて、デジタル化への対応やAV複合化といったことへの関心が頭をもたげてきた。しかし、当時の部屋は安普請かつ手狭で、この部屋では機器を良くしてもオーディオを満喫できるとも思えなかったし、増してや大画面やサラウンドスピーカーを設置してホームシアターなどということは物理的に不可能と思われた。

 そこで、荒唐無稽に思われるかもしれないが、私はオーディオビジュアルのインフラを整備するということを主目的の一つとして、2006年に現在の家に引っ越してきたのである。この時のコンセプトとしては、デノンのAVC-4320という中級のAVアンプを中核に、オーディオもビジュアルも一体のシステムとして両立させようというものだった。オーディオに関しては、CDプレーヤーをやはりデノンの中級のDCD-1650AEに買い替えて、1つ上のステージを目指した。他方、5.1スピーカーを設置するとともに、プロジェクターとスクリーンを導入して、サラウンド音声に対応したホームシアターを構築した。

リニューアルする前のシステム

 そんなわけで、このシステムで10年あまりを過ごしてきたのだけど、映像面はともかく、音響面での物足りなさが次第に強まっていった。当初は音声も映像もサラウンドもと、全部入り的な発想でAVアンプを扇の要としたものの、しょせんAVアンプの音はピュアオーディオとは似て非なるもので、音質的に限界があるのではないかという思いが募ってきたのである。映像+サラウンド音声の体系と、ピュアオーディオのステレオ体系とを、分離したいという気持ちに傾いていった。そこで、博士号取得の自分ご褒美として、AVアンプとは別に、ピュアオーディオのプリメインアンプを導入し、AVシステム全体を、映像+サラウンド系とピュアオーディオ系とに切り離すことに決めたわけである。昨年11月、一連の機材を購入し、いったん旧システムをバラした上で、新機材の搬入、セッティング、設置、配線などの作業を集中的に行った。

旧システムをいったん解体

これが完成した新システム

 そんなわけで、完成したのが、上掲写真に見る新システムである。一見すると、ビフォアとアフターであまり変わっていないように見えるかもしれないが、新システムではピュアオーディオ系をプリメインアンプを中核としてラックの向かって右側に、ビジュアル+サラウンド系をAVアンプを中核に左側にと、それぞれほぼ独立したシステムになっている。電源も、ピュアオーディオ系は右側の壁からとり、ビジュアル+サラウンド系は左側の壁からとるという念の入れようである(笑)。また、従来はステレオ時もサラウンド時もフロントスピーカーとしてトールボーイを使用していたが、今回トールボーイはステレオに特化させることにし、サラウンドのフロント用にはブックシェルフスピーカーを新調した。ただし、ブックシェルフだけ既存のスピーカーシステムと違うのは気持ち悪いので、10年ほど前の中古モデルをわざわざ探して取り寄せた。まあ、サラウンドのフロント用に小型スピーカーを別途用意しなくても、スピーカーセレクターで切り替えてトールボーイを共通で使うことも可能なようだが、とにかく今回のコンセプトとして、2チャンネルのステレオと5.1サラウンドは別系統にしようという考えがあったわけだ。その結果、センタースピーカーも含め、目の前にスピーカーが5台も並んでいるというバカみたいなことになった(笑)。ヘビメタのコンサートかと突っ込まれそうだが、全部同時に鳴るわけではない。

スピーカーシステムはMonitor Audioブランド
統一感を保つため、あえて10年ほど前のSilver RSというシリーズで揃えた
今回買い足したブックシェルフはスタンド上に設置

以前はラックの中や上に置いていたのだけど
場所がなくなったので床に置くはめになったセンタースピーカー

5.1サラウンドに不可欠なウーハーだけど
床が響くので近所迷惑になり、あまり使っていない
たまに使うとスイッチ切るの忘れるウーハーあるある

リアスピーカーは引っ越し時に壁の中に配線するなどこだわったが
設置位置が高すぎるのか、サラウンド感が乏しく期待外れだった

新たなピュアオーディオ・システムの中核
LUXMANのプリメインアンプL-509X
一生に一度と思い、妥協なく最高級機種を買った

デノンのSACDプレーヤーもまだまだ現役なのだが・・・

10年前の中級機ではLUXMAN L-509Xには釣り合わないような気がして
今回プリメインに合わせ、LUXMAN D-05Uを購入
ただ、デノンも手放すに忍びなく、CDプレーヤーが2台並ぶヘンタイ配置に

最近まで使っていた、1980年代半ば購入のケンウッドのレコードプレーヤー
まだ使えることは使えるが、今回、惜しくも退役することに

これが新調したレコード・プレーヤー
最近の製品の中でコスパが絶賛されているテクニクスのSL-1200GR
カートリッジはベタにデノンのMC型DL-103
ウーハーの上部がデッドスペースになっていたので
メタルラックを設置してその上にターンテーブルを置いたが
金網の上に直置きは不安定なので板を特注

ラジオのチューナー、これもデノンのTU-1500AE
まあ、ラジオはほとんど聴かないけどなあ

現役最年長となった1985年頃購入のビクターのダブルカセットデッキ
むろん、カセットなど聴くことはもはやほとんどないけど
「多様なメディアに対応する」というのが基礎コンセプトなので・・・

今回のリニューアルで映像系とサラウンドに特化することになった
デノンのAVアンプ、AVC-4320
設定や操作が複雑すぎる

シャープ・アクオスが購入後10年でぶっ壊れたので
2015年に購入したPanasonic VIERA TH-60CX800
性能は申し分ないが、昨今のテレビの常として、画面が鏡のように反射し
観ている自分が写り込んでしまうのは本当に勘弁してほしい
なので、映画はもちろん、ドラマとかドキュメンタリーとか
映像作品的なものは、なるべくスクリーンで観るようにしている

スクリーンはKikuchiの100インチで
天井から電動で降りるようになっている

シアタープロジェクター、ビクターのD-ILA
10年くらい前は最高級機だった

掟破りのDVDレコーダー2段重ね(笑)
上段は一般録画用のSONY BOZ-ET2100
下段は全録用のPanasonic DMR-DXT3000

こちらもダメ押しの2段重ね(笑)
上段はロシアのDVDを観るために買ったサムスンのDVDプレーヤー、BD-F7500
下段は古いDVDレコーダーのPanasonic DMR-XW40Vだが
今や希少なVHSデッキを兼ね備えているので捨てられない

SONYプレーステーション3の初期型
機械としての面白さに惹かれて買ったが、ゲームは嫌いなのでほぼ放置

このように映像出力機器が多数あり
出力先もテレビ、プロジェクター(というかAVアンプ)と2つあるので
HDMIセレクターで切り替え、手前はそのリモコン

 そんなわけで、昨年11月、有給もとり3日くらいをかけて集中的に作業をした結果、我が家のホームシアターは無事リニューアルオープンした。個人的にAV機器のセッティングや配線作業は好きなのだけれど、これ実はかなりの重労働であり、同時に繊細さも要求される。重い機械を持ち上げたり、狭い隙間に手を突っ込んだりと、いつもは使わない筋肉を使うものだから、数日間筋肉痛がとれなかった。だいぶ散財もしたので、晩のおかずは当分もやし炒めだけになりそうだ。

 11年振りにAVシステムを自力でインストールしながら思ったのは、こんな風に自分で機械を動かしたり配線したりするのは、これが最後になるかもしれないな、ということ。今後AV機器を一新するような機会があるのか分からないし、仮にあったとしても、その時にはもう年齢的に、何十キロもあるような機械を自分で持ち上げたりできるとは思えない。そもそも、こんなアナログというかフィジカルな道楽の世界が今後も生き残るのかは不明であり、私自身も10年後にはAIスピーカー1つでもっぱらデジタル配信音楽を聴いているのかもしれない。もしかしたら、人生で最後の本格的な自力インストールだったのかもしれないと、そんな気がしている。

(2018年2月12日)

涙の搭乗券 ―東京~札幌便事件簿

 先月のエッセイでご報告したとおり、私は2014年に北大大学院の博士課程に入学し、3年9ヵ月の研究の末、2017年12月に博士号を授与された。

 社会人の大学院生なので、日常的に大学に通う必要はなく、札幌には年に2~3度出かけるだけだった。ただ、これは業務ではなく、あくまでも私個人の営みなので、交通費は自己負担する必要があった。そこで、なるべく割安な航空券を利用しようとしたのだが、それが裏目に出て、何度もヘマをやらかした。今月のエッセイでは、恥を忍んで、その事件簿をお届けする。

 まず、出だしからつまずいた。2014年2月、大学院の入試に臨むため(確か語学試験と面接があった)、私は羽田発・新千歳着のスカイマークを予約した。スカイマークは、ANAやJALに比べると料金が比較的手頃である。だが、札幌に飛ぶ当日、自宅から羽田にバスで向かっている車中で、まずいことに気付いた。「しまった、受験票、家に忘れてきた!」 私は慌てて、羽田から自宅に取って返し、受験票をピックアップして、再び空港に向かった。当然、当初予約していた便には乗れず、1つか2つくらい後のスカイマーク便に変更を余儀なくされた。むろん、追加料金発生である。実際には、大学院入試は人数が少なく、お互いに顔見知りでもあるので、受験票がチェックされるような場面はなかったのだが、ただ当方は社会人として試験に臨んでいるので、「受験票忘れました」などということになったら常識を疑われかねなかったので、やむをえなかったと思う。

 次のトラブルは、確か2015年のことだっただろうか。前回のスカイマークのトラウマがあったので、今度はANAを利用することにした。ANAでも、早目に手配をすれば割引があるので、万全を期して、なるべく早く予約をしておいた。ところが、札幌に出かける前日になって、とんでもないことに気付いた。ANAとエア・ドゥの両方から、搭乗確認メールが届いたのである。記憶が定かでないのだが、「いくつか見比べて、安いところを選ぼう。割引を適用してもらうため、なるべく早く申し込まないと」と焦るあまり、私はANAとエア・ドゥの両方を予約してしまい、しかも購入手続きもしてしまったようなのである。まったくもって、ボケているとしか言いようがない。ANAとエア・ドゥはコードシェアをしているので、先方が気付いてくれてもよさそうなものだが、1つの便をANA、別の便をエア・ドゥで買ったので、重複購入が成立してしまったのだろう。この時は確か、一方の便をキャンセルして返金してもらったが、前日だったのでわずかなお金しか戻ってこなかった。トホホ。

 さて、2017年8月末に博士論文を提出し、10月に口頭試問を受けることとなったので、私は今回はLCCのバニラエアを選択し、口頭試問当日の便で札幌に飛ぶことにした。LCCのバニラエアは羽田ではなく成田発着であり、しかもターミナルは駅からだいぶ離れており、30分前までにチェックインを済ませなければならないので、乗り遅れのリスクが高い。ただ、私の自宅は京成線沿線で成田へのアクセスがかなり良いし、事前に乗る電車の空港到着時間などを入念にチェックして、早起きして空港に向かったつもりだった。しかし、電車で空港に近付くにつれ、「あれ?」と思い始め、青ざめていった。冷静に考えてみると、私が空港に着く時間は、ジャスト、搭乗締め切り時間だったのである。LCCの発着する第3ターミナルは、電車の駅から20分くらいはかかるので、これは絶対に間に合わない。入念にチェックをしていたはずが、何をどう間違えたのか、まったく間に合うはずのない電車に乗ってしまったのである。「もしかしたら、バニラエアのフライトそのものが遅れることもあるかもしれない」と、一縷の望みを抱き第3ターミナルに走ったが、こんな時に限って、飛行機は定時運航で、チェックインカウンターはもぬけの殻だった。予約していたバニラエアは、当然パアになった。まあ、この時は、2時間後くらいに出るジェットスターをスマホですぐに手配できたので、損害は1万円くらいで済み、結果的に口頭試問にも間に合ったが、「また、やっちゃった」という苦い思いばかりが残った。

 その口頭試問にはパスして、博士号を授与していただけることになり、私は2017年12月の学位授与式に出席するため、大学院生として最後の札幌出張に向かうことになった。学位授与式自体は10分くらいで終わってしまうものなので、それだけのために札幌に行くのももったいないような気がして、先月のエッセイで述べたとおり、卒業旅行と早目の冬休みを兼ねて、登別温泉で2泊ほどして骨休めすることにした。東京~札幌間の航空便で何度も失敗しているので、最後だけはミスしないよう、宿も飛行機も早目に手配し、慎重を期したつもりだった。最後は、ご褒美的な意味合いもあったので、LCCではなくANAを選んだ。ところが、またしても凡ミスが発覚する。新千歳から羽田に帰るフライトを、間違えて1日早く手配してしまっていたのである。それに気づいたのは、出発の直前だった。早割なので、便の変更は不可であり、結局当初購入していたチケットはキャンセルとなってごくわずかしか返金されず、新たに別の便を買い直すハメになった。

 そんなわけで、私の大学院生活は、最初から最後まで、航空便絡みの失敗に彩られたわけである。まあ、どう考えても、すべて完全なる私のミスであり(笑)、間抜けとしか言いようがない。東京~札幌間は、エアラインはよりどりみどりであり、賢く振る舞えば安く抑えることは可能なのに、私は失敗を繰り返して、その都度追加支出を余儀なくされた。ただ、それと同時に思うのは、航空会社と乗客の、非対称的な関係である。乗客は、一分一秒でも遅れたら、その便には乗れず、早割やLCCならチケットはドブに捨てることになる。それに対し、航空会社は、遅れるのは日常茶飯事であり、欠航にでもならない限り、返金はしないだろう。よく考えてみると、理不尽この上ないことではあるまいか。

(2018年1月14日)