私どもロシアNIS経済研究所の遠藤寿一所長が、今出ている月報の1月号 で、「チャイコフスキーの交響曲4・5・6番」という随筆を書いている。その話をかいつまんで紹介すると、「ロシア文化フェスティバル」 というものが日本で毎年開催されており、本年は10年目の節目を迎えた。2015年はピョートル・チャイコフスキーの生誕175周年ということもあって、今回のフェスティバルではチャイコフスキーの作品が大きく取り上げられた。特にチャイコフスキー後期の三大交響曲(4・5・6番)がセットで演奏されるという、特筆すべきイベントがあった。チャイコフスキーの三大交響曲がまとめて披露されることは、ロシア本国でこそしばしばあるものの、日本では前代未聞であった。遠藤所長いわく、「それぞれの交響曲の濃厚な内容と、曲の雄大さに演奏者の体力を考えると、誰にでも出来るものではなかったからであろう」との由。今回来日したのは、ロシア国立交響楽団で、指揮はヴァレーリー・ポリャンスキー。この楽団は1957年に設立された全ソビエト放送オペラ交響楽団を前身とし、かつてゲンナジー・ロジェストヴェンスキーが音楽監督を務め、ポリャンスキーもその弟子筋に当たる。本年のロシア文化フェスティバルでは、全国12都市、14会場で演奏会が開催されたが、10会場でチャイコフスキーの三大交響曲がセットで演奏され、好評を博した、ということである。
私自身は、ロシア専門家ではあっても高尚な文化には不案内で、今年のロシア文化フェスティバルでチャイコフスキーが大フィーチャーされたなどというのも初耳だった。ただ、遠藤所長のエッセイを読んで、思い出したことがあった。実は私はゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮によるチャイコフスキー交響曲第1番から第6番までのLPレコードを、揃って持っているのである。1990年4月に初めて(そして最後に)ソ連という国を訪れた際に、確かタガンカの近くに外貨ショップがあったのではないかと思うのだが、そこでまとめて購入した。私にとっては初めての外国渡航でもあり、確か当時の日本の税関申告書に「レコードの非課税枠は3枚まで」とか書かれていたので(うろ覚え)、税関で咎められないかビクビクしながら持ち帰った覚えがある。そんな、初めての外国旅行と結び付いた、チャイコフスキー1~6コレクションを、「ああ、そう言えば、あんなものを持っていたなあ」と、今回久し振りに思い出したわけである。今となっては、結構貴重じゃないかな、このコレクション。
1番から6番まで、ジャケ写は全部同じです(笑)
本年のロシア文化フェスティバルではないが、普通チャイコフスキーの交響曲と言えば4・5・6と相場が決まっており、1・2・3が演奏・鑑賞されることは稀であろう。クラッシック音楽の造詣などまったくないこの私だが、ロシア研究者の端くれとして、ロシア文化フェスティバルの三大交響曲一挙演奏に対抗し(?)、この年末は秘蔵のコレクションを引っ張り出してきて、チャイコフスキーの1~6を聴き倒してみようか。そんなバカなことを思い立ったわけである。
改めて、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮・モスクワ放送交響楽団(別名チャイコフスキー記念交響楽団ということになるのかな?)のLPレコード・シリーズを眺めてみると、1972年から1973年にかけて吹き込まれたようだ。当然、ソ連文化省傘下の「メロディア」レーベルであり、英語も併記されているから、結構輸出もされていたのだろう。値札のシールが残っていて、「ベリョースカ(注:外貨ショップの名前) 2.00」ってなってるから、1枚2ドルだったのかな。
で、まあ、さすがに1日で全部聴くほどの時間も気力もないから、何日かかけて、1から6までを、取りあえず全部聴いてみましたよ。せっかくだから、曲についての感想、レコード・レビューなどを語ってみたいところだけど、さすがにそれは無理だな。普段、2分30秒で終わるようなオールディーズ、R&Bばかり聴いているような人間が、突然クラッシックについて語ってみても、大恥をかくだけだろう。正直言うと、何度か寝落ちしながら、やっとの思いで、6枚通して聴き終えたという感じで、全然内容について語れるレベルじゃない。「聴き倒す」というのは、だいぶ語弊があったな、我ながら。
ただ、一般にはあまり知られていないチャイコフスキーの1番、2番、3番は、私のような地域研究者にとっては、むしろ非常に興味をそそられる対象である。まるっきりウィキペディア・ネタだということをお断りした上で述べさせていただくが、たとえば交響曲第1番には「冬の日の幻想」という標題が付けられており、第2楽章がラドガ湖訪問の印象を表現したものとされるなど、ロシアの冬がテーマになっているようなのだ。次に、第2番は「小ロシア」(当時のウクライナの呼称、今日では侮蔑的な呼称として忌避される)の名で知られており、実際にウクライナのカメンカという土地で、ウクライナ民謡の旋律を取り入れながら作曲されている。ちなみに、ウィキペディアでこの2番のことを調べると、ロシア語版では«Малороссийская»とされているのに対し、ウクライナ語版では«Українська»とされており、思わず苦笑いした。そして、大ロシア、小ロシアと来て、第3番が白ロシアかと言うと、残念ながらそうではなく(笑)、第3番は「ポーランド」の愛称で呼ばれているそうである。ポーランドの舞曲であるポロネーズが取り入れられているから、そのように呼ばれているらしい。ただ、ポーランド語版ウィキペディアには、この3番を含め、チャイコフスキーの交響曲に関する記事が一切なかった。そんなこんなで、クラッシック門外漢であっても、地域オタクにとっては楽しいチャイ1からチャイ3までなわけだが、実際に2を聴いてウクライナっぽいか、3がポーランド的に聴こえるかと言うと、???としか言いようがない。
クリンのチャイコフスキーの家博物館
実は、私は2015年の2月に、ロシア・モスクワ州のクリンにあるチャイコフスキーの家博物館を見学する機会があった。モスクワからトヴェリに日帰りで調査に出かけた際に、夕方ちょっと時間が余ったから、帰り道に位置していたクリンのチャイコフスキーの家博物館を見学してみることにしたのだ。まあ、あんまり時間がなかったのと、展示品の説明などが行き届いていなくて、イマイチ分かりにくい博物館だったかな。
古そうな調度品やピアノなどが並んでいるけれど、
果たして実際に巨匠が使ったものだったのか…
これは中庭の、記念撮影用のベンチ?
チャイコフスキーの博物館だから、売店でCDなどを売っているはずだ、記念に何か買おうと思って覗いてみたけれど、品揃えがパッとしなかったなあ。嘆かわしいことに、売っていたいくつかのアイテムが、ノーマルなCDじゃなく、MP3ディスクになってるじゃありませんか。MP3というのは圧縮音源であり、当然その分、音質には妥協してるわけだから、日本などではクラッシックをMP3で売るなどということは、一般的ではあるまい。配信だったら考えられるが、フィジカルであえてMP3ということはありえないだろう。オーディオマニアのドミトリー・メドヴェージェフさん、貴方の国、まずこういうところから直しませんか? それで、私は取りあえず目に付いた「白鳥の湖」、「くるみ割り人形」という2つのディスクを買って帰ってきたのだけれど、日本に帰国して良く見たら、演奏がロシアのミュージシャンじゃなく、アンドレ・プレヴィン指揮、ロンドン交響楽団ってなってるじゃないの(博物館のオリジナル商品なのに)。ロシアを代表する作曲家の博物館で、売られてるディスクが、外国のオーケストラとはなあ。プライドとかないのだろうか? このMP3ディスク、実際聴いてみたところ、演奏も音質も意外と良かったけれど(サンプルとして1曲いかが? )、いずれにしても買った人はずっこけるよなあ。
(2015年12月29日)
先月に続き、アゼルバイジャン・バクー出張のこぼれ話。出張前に、バクーの街のことを下調べしていたら、市内にノーベル兄弟の博物館のようなものがあることを知った。アルフレッド・ノーベルは、ダイナマイトを発明したあと、兄弟らとともに帝政ロシアのバクーで石油開発を手掛けて財を成しており、その館跡がバクーに残っているというのである。これは、どんなものか、ぜひ見てみたいと思った。その館跡は、市内から空港に向かう道すがらにあるというので、アゼル出張を締め括る形で、最後にここに立ち寄ってみた次第である。
さて、まずはお勉強です。スウェーデン出身のノーベル兄弟の中でも、ダイナマイトの発明で知られるのが、アルフレッド・ノーベル。日本語版ウィキペディア の受け売りになるが、ノーベル一家が帝政ロシアと関係を持つようになったのは、アルフレッドの父が1837年に単身サンクトペテルブルグに赴いて事業を開始したことに始まる。事業が軌道に乗ったため、父はアルフレッドら家族をペテルブルグに呼び寄せた。裕福になったため、アルフレッドには複数の家庭教師がつけられ、特に化学と語学を学習、そのため英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語で流暢に会話できるようになったということである(アルフレッドは正規の学校には18ヵ月しか通っていないらしい)。父の事業は1853~56年のクリミア戦争で大儲けしたものの、戦争終結に伴い事業は破綻、一家はスウェーデンに帰国した。その後アルフレッドは爆発物の研究に没頭するようになり、ニトログリセリン、ダイナマイトの開発に繋がっていく。そして、1878年、アルフレッドは兄弟のルドヴィグ、ロベルトとともに帝政ロシア・アゼルバイジャンのバクーで「ノーベル兄弟石油会社」(ロシア語の略語で(ブラノーベル社) を設立し、当地の石油開発に多大な貢献を果たした。アルフレッド自身は1896年に63歳で亡くなっているものの、同社は1920年にボリシェヴィキのバクー制圧に伴い国有化されるまで存続した。ブラノーベル社のエンブレムが右に見るものであり、ゾロアスター教(拝火教)の神殿を描いている。
ブラノーベル社とノーベルの館に関しては、こちらのサイト が参考になった。これによれば、ノーベル兄弟がバクー油田に最初に目を付けたのは1873年で、ロシア政府が石油開発のための鉱区の公開入札を実施した時であった。兄弟のうちのロベルトは、すでに米国産の石油製品をフィンランドで販売する商売を手掛けていたので、バクー油田の有望性を見て取り、兄弟は1879年(?)に持ち株会社を設立してその筆頭株主となった。1882年、兄弟はフィンランド、スウェーデン、ノルウェー、ドイツからさらに多くの技術者を呼び寄せ、バクーの「黒街」と呼ばれた界隈にVilla Petrolea(「石油村」というような意味だろう)というコロニーを形成した(上の画像がかつてのその様子)。石油製品は鉄道でロシア全土に、また船舶で中央アジアや欧州にも供給された。上述のとおり、会社のロゴにはゾロアスター教が描かれているが、ノーベル社の船舶にはゾロアスター、モハンメド、ブッダ、ブラフマー、ソクラテス、スピノザ、ダーウィンなど様々な宗教や哲学の名前が付けられ、社内では信教の多様性が尊重されていた。なお、1901年にノーベル賞が創設された際に、その資金の12%はアルフレッドのブラノーベル社の持ち株からもたらされたという。
ちなみに、再び日本語版ウィキを参照すると、独身を通したアルフレッドは、生涯に3度恋愛をした。1876年には結婚相手を見つけようと考え、女性秘書を募集する広告を5ヵ国語で出し、5ヵ国語で応募してきたベルタ・キンスキーという女性を候補とする。しかしベルタにはすでに婚約者がおり、アルフレッドの元を去ってその婚約者と結婚した。2人の関係はアルフレッドの一方的なものに終わったが、キンスキーが「武器をすてよ」などを著し平和主義者だったことが、のちのノーベル平和賞創設に関連していると考えられている。そして1905年にまさにそのキンスキーが女性初のノーベル平和賞を受賞した、ということである。
さて、そんなこんなで、9月の出張時に、バクーに今も残るVilla Petroleaを探訪してみたわけである。カスピ海沿いの幹線道路からちょっと脇道に入ったひなびた場所に、それは佇んでいた。館の前にある噴水が枯れていたりして、周囲は若干荒廃した雰囲気だった。そして、そこに2人の人物の銅像があったので、「おお、これがノーベル兄弟か!」ということで、早速写真を撮影。しかし、良く見たらノーベル兄弟とは全然違う人物で、肩透かしを食らった(笑)。紛らわしいなあ、まったく。
ノーベルの館自体は、外も中も綺麗に整備されていた。ノーベル博物館と聞いていたのだが、実際にはかつての館を利用してアゼルバイジャンとスウェーデンの文化交流館のような形になっているらしい。内部が一般に公開され、調度品や遺品と思しきものが展示はされているものの、説明書きのようなものは一切ないので、あんまり博物館という感じはしなかった(入場料などもない)。常に係員がいるわけでもないので、もし行かれる場合は、事前に確認した方がいいようである。
イルハム・アリエフ現アゼルバイジャン来訪時の写真も
まあね、アルフレッドらノーベル兄弟は、ヨーロッパ各地を忙しく飛び回っていたらしいので、この館に滞在した時間がどれくらい長かったかは、分からないけれど。いずれにしても、世界の科学・経済史、ロシアおよびアゼルバイジャンの歴史の1ページに触れることができ、満足だった。アゼルバイジャン人の運転手には、「自分はバクーに50年以上住んでいるが、この街にノーベル博物館があるなどということは、知らなかった」と言われた。ちょっとした穴場を見付けたような気分になって、嬉しく感じた。
(2015年11月14日)
ちょっと忙しいので、簡単な小文で、お茶を濁してしまう。9月に所属団体の調査事業で、ロシア、アゼルバイジャン、アルメニアを訪問する機会があった。恥ずかしながら、アゼルバイジャン、アルメニアは、個人的に初訪問だった。アゼルバイジャンも、アルメニアも、一見の訪問者にとってはとても良い国だった。私のこのホームページは、ロシア・ウクライナ・ベラルーシを主題にしているわけだが、アゼルバイジャン・アルメニア出張で好印象を受けたので、現在は一時的にアゼルバイジャン・バクーのバザールの写真をHPの冒頭に掲げている次第である(上掲写真)。今月のエッセイも、アゼルバイジャン出張の小ネタである。
私は音楽ファンであり、しかもかなりの雑食性である。仕事でロシア・NIS諸国へ出張に行った際や、個人で外国旅行をしたりする際には、なるべく現地の音楽に触れたり、ご当地音楽のCDを買ったりするようにしている。今回、アゼルバイジャンのバクーに到着し、ホテルにチェックインしてテレビをつけたら、下の写真に見るように、地元テレビ局では民族音楽のライブショーみたいのを延々とやっていた(テレビの画質が悪かったので、写真も不鮮明で、ご勘弁)。まあ、実際にはアゼルバイジャンの皆さんも日常的には欧米やロシアのポップスとか、若い人はラップなんかを聴いていたりするのかもしれないけれど、とにかくこうして民族的な音楽が存在し、それが地元テレビによって取り上げられている様子を見て、音楽ファンの一旅行者としてはとても嬉しく感じたわけである。
もう一つ、バクーの街を歩いていて、下の写真のように、CDやDVDを売るコンテンツ屋さんがあったのも嬉しかった。日本では比較的持ち堪えている方だが、世界的にはパッケージメディアが衰退し、CDショップなども街角から姿を消しつつある。音楽はYouTubeでしか聴かないなんて人も多いだろう。しかし、私自身はやはり保守的なパッケージメディア・ファンであり、こうした旅行先でCD屋があると、つい嬉しくなってあれこれ買ってしまう。このバクーのお店の店頭を覗いてみたところ、当然のことながら、海賊版ではないかと疑われるハリウッド映画のDVDの類や、外国ポップスの平凡なCDなどが多いものの、ちゃんとアゼルバイジャン伝統音楽のCDも売られていたので、いくつか買って帰ってきた。
それで、アゼルバイジャンに出張するに当たって、同国および首都バクーのことを事前に調べていたところ、バクーに「アゼルバイジャン国立音楽文化博物館」というものが存在することが判明した。ここはぜひ訪れてみたいと思い、住所を頼りに訪ねてみた次第である。見学してみた博物館は、思っていたよりも小規模で、展示もわりとあっさりしていた印象である(下の写真参照)。また、展示品の中には、アゼルバイジャン音楽大全集のCDボックスみたいな魅力的なアイテムもあったが、「これ買えるのでしょうか?」と館員に尋ねたところ、「売ってはいません。ここ以外でも入手は不可能でしょう」とのことで、残念だった。
ただ、博物館の奥の方に進んでいくと、ちょっとした演奏スペースのようなものがあり、もしかしたらここで定期演奏会が開かれていたりするのかもしれない。私がお邪魔をした時には、楽団のみなさんが練習をしているところだった。「練習の様子を勝手に見たりしたら、怒られるかな?」とも思ったけど、別に迷惑そうな様子でもなかったので、座席に座って鑑賞させていただいた。「これは大丈夫そうだな」と判断し、図に乗って写真や動画を撮ったりもしたが、迂闊にも動画は後日誤って消去してしまった(←バカ)。
そんなわけで、私だけのための、無料の音楽会を堪能させてもらった。一つの曲が終わったところで、私が拍手をすると、リーダーの人が「もう一曲、聴きたいですか?」と言って、アンコールまで披露してくれた。これが、今回のアゼルバイジャン出張の、一番の思い出である。「アゼルバイジャンでは、人に道を尋ねたりすると、皆親切に教えてくれる」という話を聞いたが、今回の短い滞在の範囲内でも、そうしたアゼルバイジャンの暖かい国民性を実感した。
さて、「アゼルバイジャン音楽って言うけれど、一体どんな音楽なのよ?」と思われる方もいると思うので、現地で買ってきたCDの中から、サンプルで1曲ご紹介する。買ってきたCDは、まだ一部しか聴けていないが、取りあえず良いなと思ったものを。下のジャケットの『Muğam Ve Təsniflər』という2枚組オムニバスアルバムから(レコードからの板起こしなのか、音質は良くない)、Rübabə Muradovaの「Dilkeş Təsnifi」という曲 をどうぞ。グーグル翻訳で日本語にすると、「Dilkesh分類」などという訳語が出てきて、どんな内容の歌なのかはさっぱり分からないが、なかなか良いじゃありませんか。やはり音楽は言葉が分からなくてもこうして楽しめるので、有難い。
(2015年10月29日)
私は夏休みを8月ではなく9月とかにとることが多いのだけれど、今年は珍しく8月に取得した。自分の出身県である静岡県の浜岡にあるゴルフ場併設のホテル で、数日間を過ごした。といっても、当方はゴルフなどはたしなまないので、もっぱら読書と音楽鑑賞、それから付近の散策などをして過ごした。まあ、今年度に入ってから、ずっと東京での仕事だったので、リゾートとは言わないまでも、ちょっと日常を抜け出して気分転換をしたかったのである。
それで、浜岡滞在の一環として、浜岡原子力発電所を見に行ったので、今月のエッセイはそのネタで行きたい。と同時に、この小文を、「エネルギーシフト」というコーナーの最終回の記事としても位置付けさせていただきたい。陳腐なようだが、私は2011年の東日本大震災と原発事故に衝撃を受け、価値観が大きく変わった。故郷愛が深まり、原発のようなものには愚直にNoと言い続けるべきだと確信し、また思い付いたことは何でもやってみようと考えるようになった。ベラルーシに駐在してチェルノブイリ問題も目の当たりにしてきた私でもあるので、本HPに、日本や旧ソ連圏の原発の問題に関し自分なりに情報を発信するコーナーを立ち上げることにしたわけである。この間には、関連する個人的なイベントとして、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』 という書籍に寄稿させてもらったし、また昨年5月には実際にチェルノブイリを見学しに行く機会もあった 。
しかし、2011年の衝撃が風化したわけでは決してないものの、日々多忙な中で、HPの当該コーナーで実のある情報発信を続けることは、なかなか難しかった。そこで、原子力以外にも、石油・ガスなどの在来資源の問題も含めた総合的なエネルギーのコーナーへと位置付けを改め、「エネルギーシフト」と銘打って存続を試みてきたわけである。ただ、実際にやっていることは、ロシアやウクライナの石油がどうした、ガスがどうしたという記事を、コピーして「エネルギーシフト」のコーナーにも貼り付けているだけであり、これではコーナーとして機能しているとは言いがたいし、最近ではそれも滞りがちになってしまった。まあ、私ごときのHPのコーナーがどうあろうと、世間の皆様にとってはどうでもいいことだとは思うが、私は雑誌の編集者なので、コーナーが休眠状態だったりすると気持ち悪く、ここらで「エネルギーシフト」のコーナーに終止符を打つことにした。コーナーがなくなっても、これからもロシア等のページで当然エネルギーの話題はしばしば登場するだろうし、私の反原発の価値観も一生変わることはないので、本質的には特に変化はない。
それで、私が原発の問題に関心を寄せている、その根源にあるのは、やはり故郷の静岡県にある浜岡原発である。実は、私は小学校の時の課外活動か何かで、浜岡原発を見学に行ったことがある。月日は流れ、2011年の東日本大震災により東京電力の破局的な事故が発生し、浜岡を含む日本のすべての原発が稼働を停止した。エゴイズムと批判されるかもしれないが、私が願っているのは、突き詰めて言えば、故郷の静岡県が放射能汚染で壊滅するようなリスクを除去したいという点に尽きる。自分に何ができるわけでもないが、もう一度、浜岡の地を訪れて、この目で原発の様子を見てくるべきではないか。2011年以降、そんな思いが、常に自分の中にあった気がする。聖地巡礼にも似た「行かねばならぬ」という気持ちだが、原発は神聖ではなくネガティブな訪問地なので、本エッセイではダークツーリズムにならって「ダーク巡礼」と称した次第である。
原発は至近では撮影禁止なため、これは高台にあるホテルから望遠で狙ったもの
さて、今回、浜岡原発を見に行ったと言っても、一般人が原発施設の中に入れるわけではない。浜岡原発の隣には、プロパガンダ施設の「浜岡原子力館」 というのがあり(無料!)、そこを見学することになる。ところで、上述のように私は小学校の時に浜岡原発に来ているのだが、さすがに40年くらい前のことなので、記憶があやふやである。浜岡原発1号機が営業運転を開始したのは、1976年3月ということであり、たぶんそれよりは前の、まだ建設または試運転の時期だったのではないかと思う。今回展示を見て気付いてのだが、PR施設の浜岡原子力館は、早くも1972年8月に開館したということである。運転よりもずっと先にPRに着手するとは、さすが抜かりはない。ということは、まったく覚えていないが、私は40年くらい前にこの館を見学したのだろう。まあ、スリーマイルやチェルノブイリの前の、牧歌的な時代である。
以下、フォトギャラリー。
浜岡原子力館 塔と塔の間の渡り廊下のようなところから原発を見下ろせるが、撮影は禁止
核燃料サイクル推し
実物大の原子炉の模型
何やらパイプオルガンのようにも見え、脳内に陰鬱な旋律が響く
津波に備えて防潮堤を増築したらしい浜岡原発
しかし、「次の事故は、次のシナリオに沿って起こる」(小出裕章)
原発の西側の海岸に伸びる浜岡砂丘
風力発電の風車が並んでいた
以上、エッセイそのものは甚だ無内容であったが、今回の浜岡原発ダーク巡礼をもって、原発~エネルギー関連の情報発信には、一区切りをつけたい。まあね、細々とではあれ、情報発信は5年近くは続けたし、最後に炎天下の中を、自分にとっての原点というべき浜岡原発まで歩いて出かけてきたので、自分なりのことはしたと思いたい。
(2015年9月30日)
本年の2月に、ウクライナに調査出張に出かけ、首都キエフの南東157kmのところにあるチェルカスィ市を訪問する機会があった。同市を中心とするチェルカスィ州は、実はウクライナ文化史上の最大の偉人であるタラス・シェフチェンコゆかりの地である。特にカニウ市という街には、シェフチェンコの功績を讃える記念公園・博物館が開設されている。ウクライナ語学・文学にはまったく疎いこの私ながら、せっかくチェルカスィ州を訪れたので、シェフチェンコ記念公園・博物館にも立ち寄ってみることにした。当方、現在まったく余裕がなく、ほぼフォトギャラリーだけになってしまうが、今月はこれを取り上げてみたい。キエフ、チェルカスィ、カニウの位置関係は下図のとおりであり、いずれもドニプロ(ドニエプル)川に沿った街である。
19世紀の帝政ロシアのウクライナ地方に生きたシェフチェンコは、チェルカスィの街をしばしば訪れ、現地のインテリゲンツィアと語らい合ったそうである。下の写真に見るように、その建物が現在もチェルカスィ市内に残っており、博物館になっている。
市内には、シェフチェンコ記念チェルカスィ州音楽演劇劇場も
さて、ここからが本題のようなものなのだが、シェフチェンコの詩に「遺言」という作品があり(それとも、文学作品というより、本物の遺言だったのかな?)、ウクライナ・ナショナリズムの拠り所のような位置付けになっているのだと思う。差し当たりこちらのサイト から日本語訳を拝借すると(川の読み方だけ、ウクライナ語読みに変えさせていただくが)、
わたしが死んだら
なつかしい ウクライナの
ひろい丘の上に
うめてくれ
かぎりない畑と ドニプロと
けわしい岸辺が 見られるように
しずまらぬ流れが 聞けるように
(以下省略)
VIDEO
というやつである。ウクライナ人による朗読は上掲のとおり。それで、この「遺言」を守るかのように、実際にシェフチェンコはドニプロ川を見下ろす丘の上に埋葬されているのである。その場所が、カニウのシェフチェンコ記念公園・博物館の地ということになる。以下にその写真をお目にかけるが、何しろ冬だったし、チェルカスィでの現地調査を終えてキエフに戻る帰途に立ち寄ったため、もう夕方になっており、外で撮った写真は暗くてあまり見栄えが良くない。もっと良い季節に訪れたら、まったく違う情景だろう。
カニウのシェフチェンコの丘から、ドニプロ川を見渡す
博物館の建物
シェフチェンコの墓と銅像
博物館の中は広々としており、パネルやタペストリー状の展示が多かった
シェフチェンコ作品が各国語に訳されたものの中に、日本語版も
記念公園に、詩が刻まれた石碑があったが、上掲の有名なやつとは違うもののようだ
(2015年8月22日)
個人的なことながら、当方、6月に初めてのスマホ購入に踏み切った。「今頃ようやくホマホかよ」と笑われそうだが、私の場合は、流行に鈍感で導入が遅れたのとは違う。スマホに関しては、少なくとも5年くらい前から検討をしていて、雑誌に特集が載っていれば読んだし、新機種が出ればチェックもしていた。むしろ、興味がありすぎるというか、検討に検討を重ねすぎて、「いや、まだ買い時じゃないんじゃないか」とか、「この機種、ここが惜しいな」とか、「もっと良い料金プランはないのか」とか、色んなことが気になってしまい、購入に踏み切れなかったというのが、正直なところだ。iPhoneのことなんて、持ってる人より詳しいんじゃないかと思えたほどである。自分では、「スマホ耳年増」などと自虐していた(笑)。
そんな私も、苦節数年、ついにスマホを手にする時が来た(感涙)。SONYのXperia Z4 SO-03G という機種を6月に購入した。まあ、本件に関しては、すでに今年1月のエッセイ で音楽プレーヤー談義をした時に、予告的なことを述べていた。私の場合は、そんなに電話なんてしないし、LINEなんかもやってない。その代わり、スマホを音楽プレーヤーとして活用することには並々ならぬ関心がある。SONYのXperia Z4は、とにかく音楽プレーヤーとしての性能が秀でており、特にハイレゾという最新の高音質音源が再生できることを売りとしている。聞くところによると、今日日、女子高生などの間では、iPhoneが圧倒的にスタンダード化し、アンドロイド機を持っているといじめられる(?)らしいが、こちとら別にカワイいケースに着せ替えたいとも思わないし。スマホ導入が遅れた当方としては、尖ったAV機能を供えたSONY Xperia Z4で、個性を主張したかったのである。
他方、私の個人的な気質として、耐久消費財は好きだけれど、形のないもの、モノとして残らないものには、あまりお金を使いたくないというのがある。その点、月額数千円にも上る大手携帯キャリアのスマホ・パケット通信料は、導入をためらう大きな要因の一つだった。最近、格安スマホと格安SIMを組み合わせるというプランがブームになっているけれど、私の場合は高級機種のスマホと格安SIMを組み合わせたいのである。で、本年5月から我が国でSIMロック解除が義務付けられたことも、私がこの段階で満を持してスマホ導入に踏み切った理由の一つだった。私としては、ドコモでSONY Xperia Z4 SO-03Gを購入し、ドコモとの契約はとっとと解除して、格安SIMに乗り換えようと思っていたのである。ところが、これに関しては少々当てがはずれた。まず、ドコモとの契約の2年縛りがあり、それが2016年10月まで残っているので、その間の解約には結構な額の解除料がかかるということを、個人的に認識していなかった。また、本年5月にSIMロック解除が義務付けられたと言っても、ドコモの説明によると、本機Xperia Z4 SO-03Gの場合、実際にSIMロックを解除できるのは購入から6ヵ月後になるということだった。何だか、釈然としない話だったが、さすがに「もういいか」という気になって、ついにスマホ購入に至ったという次第である。
それで、初めて買ってみた・使ってみたスマホだけれど、正直言えば個人的にそれほど大きなイノベーションをもたらしてくれたわけではない。私の場合、なんちゃってスマホというべきiPod Touchを使っていた時期が長かったし、またこれまでは3G付きのiPadを常に持ち歩いていたからである(スマホ購入に伴い、ソフトバンクとのiPadの3G契約は解消、しっかり解除料を取られました (^-^;)。そもそも、1日のほとんどの時間、職場または自宅のPCの前に座っているわけだから、大抵の通信作業はデスクトップPCで済んでしまうし。
ドコモのスマホなので、ドコモ系のコンテンツサービスとか、おせっかいな羊コンシェルジュとかがウザいのだけれど、なるべくそういうのをどかして、自分好みに画面を整理したら、どうにか使い勝手が良くなってきたかな。アンドロイド・スマホならではの機能として、今のところ一番感心したのは、フルセグの機能だな。フルセグって、完全に地デジと同等の画質で、職場でこっそり、なでしこの試合観るのに役立った。あと、Google検索の音声入力にも、ちょっと感動したかな。まあ、今までもiPadでSiriが使えたはずだけど、実際に使ったことなかったから、音声入力の精度がこんなに高く実用的になってるなんて、知らなかった。
結局のところ、私にとってSONY Xperia Z4 SO-03Gは、ほぼ音楽プレーヤーである。1月のエッセイで述べたように、私はSONYウォークマンNW-A17には洋楽オールディーズ(1950~1970年代位くらいのソウル・ロック・ポップス・ジャズ等)を3万曲ほどぶち込み、それをひたすらシャッフル再生するという音楽ライフを送っている。それに対し、スマホの方には、ピンポイントかつ高音質で聴きたいアルバムや楽曲、具体的には邦楽や比較的新し目の(1980年代以降の)洋楽を入れるという棲み分けである。
それで、せっかくなんで、いくつかハイレゾ音源を購入し、高音質の世界を体験してみることにした。ハイレゾ音源というのは、フィジカルで売っているわけではなく、ネット経由でダウンロードするものであり、私の場合はmora というSONY系のサービスを利用している。その際に、自分が青春時代にLPレコードで散々聴き倒してきたアルバムというのは、案外CDを持っていないことが多い。CDを買うなら、つい新味のあるものを優先してしまい、すでに聴き込んだ作品は後回しになりがちだからだ。私にとってはスティーヴィー・ワンダーが典型的なそのケースで、1980年代中盤の大学時代にLPで堪能し尽したので、その後のCD時代になっても、CDは買わなかった。これが、レア音源付きの「スーパーデラックス・エディション」でも発売されれば話は別なのだが、現在のところスティーヴィーに関してはそうした拡張版のようなものはまったく出ていない。今回ハイレゾ商品を物色した中で、スティーヴィー・ワンダーの1970年代の傑作群がハイレゾ化されて売られていたので、まずはそれらを購入してみたわけである。
ちなみに、オーディオ的な観点から言えば、ハイレゾ音源の真価を引き出すには、スピーカーやヘッドフォン/イヤフォンなどが、それに対応した商品でなければならないらしい。なので、私もハイレゾ対応をうたう最新のSONY MDR-1A というヘッドフォンを購入し、それでスティーヴィーを聴いてみたわけである。昨年のウォークマンから始まって、スマホ、mora、ヘッドフォン、一体どれだけSONYに貢いでんだよという気もしないでもないが(笑)、まあこういう趣味の世界ではブランド的な統一感は大事だろう。実際に聴いてみて、ハイレゾそんなに凄いかと言われれば、正直良く分からないというのが、偽らざる感想である。まあ、スティーヴィーは70年代ファンクだから、意識的に音を潰している感じもあるし、かつてLPで聴いていたものが急にハイレゾになって、それで音質を比較するというのは、ちょっと難しい気がする。
右上に示したスクリーンショットは、『トーキング・ブック』というアルバム再生時のもの。「HR」という金色のロゴが、ハイレゾであることを意味している。なお、Xperia Z4の音楽アプリは、スクリーンショットに見るように、アルバムの色味に合わせて、操作画面全体のカラーも変化するというのが面白いところだ。
マニアックな話で恐縮だが、当てが外れたのは、ハイレゾとノイズキャンセルが両立しないということだった。昨年暮れに購入したウォークマンにも、今回買ったXperiaにも、周囲の雑音をシャットアウトできるノイズキャンセル機能が付いており、個人的にとても気に入っている機能だった。ところが、それはハイレゾとは両立せず、ハイレゾ対応ヘッドフォン/イヤフォンでノイズキャンセル機能を供えたものは存在しないとのことである。ウォークマンもXperiaもともにノイズキャンセルおよびハイレゾ対応であり、両機能を兼ね備えた両機共用の高級イヤフォンでも買いたいと思っていたのだが、2つの機能が両立できないと知った時には愕然とした。
閑話休題。さすがに、個人的な道楽話だけでは、マンスリーエッセイのネタとしてふさわしくないので、後半ではロシアにおけるSONY事情、Xperia事情について語ってみたいのである。こちらに出ているレポート によれば、過去数年にロシアにおけるスマホ販売は拡大を続け、2014年には2,760万台を売った。2010年の380万台と比べれば7.3倍だし、2013年の1,970万台と比べても目覚しい伸びである。2014年のロシア経済が不振だったことを考えれば、一人気を吐くスマホ市場ということが言えそうである。過去5年間の累計では、7,190万台を販売している。金額ベースの市場規模は、2014年現在で2,449億ルーブルである。ただし、年々単価が下落しているので、数量ベースの拡大に比べると、金額ベースの拡大はやや見劣りする。ロシア国民が携帯端末を買う際にスマホを選択する割合は、2010年には15%だったが、2014年には62%になった。
数量ベースのブランド別の販売シェアは、上図のように推移しており、かなり明瞭な傾向性が見て取れる。青のNokiaの凋落が著しいこと、薄緑のAppleはまだ数量シェアは低いが着実に伸びていること、赤のサムスンは一時シェアが急増したもののその後半減したことなどが読み取れる。そうした中で、紫色の我らがSONYは、低空飛行ではあるが、常に一定のシェアを確保しており、2014年現在では6.6%を占めている。ロシアにも、私と同じように、他とは違う「ちょっと尖った」SONYを選択してくれる消費者が一部にいるというのは、嬉しく感じる。ただ、趨勢的には、黒の「その他」が拡大を続け過半数を超えており、これはつまり、Fly、Prestigio、Alcatel、Huawei、Lenovoといった廉価ブランドのシェアが拡大していることを意味している。言い換えれば、サムスン、Apple、Nokia、SONYという高級ブランドと、その他大勢の格安ブランドとの二極構造化が進んでいる。
上に掲げたのは、こちらのサイト に出ていた、アンドロイド機に限定した2015年第1四半期におけるロシア市場の販売台数シェアである。この時点でのSONYのフラッグシップ機だったXperia Z3は、アンドロイド機の中で1.22%のシェアだったとされている。ただ、ブランド別シェアの6.6%という数字と整合するのだろうかという疑問を、感じないでもない。
さて、私の購入したXperia Z4は、実は日本国内限定での発売であり、世界市場での展開は想定されていない。ゆえに、Z4は小幅なリニューアルであり、近く全面的なリニューアル版が世界市場向けに発表されるのではないかという観測も伝えられていた。それで、私は知らなかったのだが、今般情報を収集してみたら、こちらのサイト にあるように、SONYはZ4と実質的に同等の機能の端末を、ロシアを含む外国市場においてZ3+として提供し、6月半ばからロシアでも販売が始まったということである。Z3+と言われると、やはり中途半端な小幅改訂版だったのかという印象を受けてしまう。
まあ、自分が使っている日本ブランドのスマホとほぼ同一の機種が、ロシアでも売られているというのは、ロシア研究者の私としては親しみが湧くところである。上に掲げたのは、ロシア・ソニーの通販サイトに掲載されたZ3+(私と同じアクアグリーン色、笑)である。日本のエレクトロニクス・メーカーというと、すっかり落ち目という印象が強いが、ことSONYに関しては、ロシアでもかなり根強く支持されているらしいということに、最近気付いた。具体的に言うと、「ロシア国民の好きなブランド」 というプロジェクトがあり、これは2008年に立ち上げられたもので、ロシア国民へのアンケート調査にもとづき、人気ブランドのランキングを毎年制定しているものである。これの2014年の総合ランキングで、1.サムスン、2.アディダスに次いで、SONYが3位に着けているのである。部門別で見ても、SONYは「家電」部門で4位、「エレクトロニクス」(テレビ、オーディオ、DVDプレーヤー、ビデオカメラなど)部門で2位、「カメラ」部門で3位、「携帯端末・スマホ」部門で4位と、いずれも上位に入っている。大変喜ばしいことである。
(2015年7月19日)
私のこのマンスリーエッセイでは、アメリカの国民的な作曲家のアーヴィング・バーリンが実はベラルーシのモギリョフ生まれのユダヤ人移民であることを紹介した し、またシカゴでブルース・R&B・R&Rの超重要レーベルを興したレナード&フィルのチェス兄弟がベラルーシのピンスク近郊のモトリ村出身のユダヤ移民であることについては上 ・中 ・下 と実に3回に分けて論じた。私は2004年に『不思議の国ベラルーシ』という本を上梓して、ベラルーシに関しては調べ尽したような気になっていたのだが、その後バーリンやチェス兄弟がベラルーシ生まれであるという重要な事実を見落としていたことに気付き(しかもアメリカ大衆音楽にそれなりに関心を持っている身でありながら)、ショックを受けたのである。
それ以来、他にもこうしたケースはないかということに、注意を払うようになった。まあ、現ベラルーシ地域出身ユダヤ人と限ってしまうとそれほど多くはないだろうけど、範囲をロシア・ウクライナ・ベラルーシ・ポーランドあたりまで広げ、移民2世、3世くらいまで視野に入れると、本当に枚挙に暇がなくなる。しかも、数が多いだけでなく、米音楽界のそれぞれの分野での偉大なオリジネイターといった人物が多いのだ。
で、ここからはブログの焼き直しだけど(笑)、最近認識したのが、キャロル・キングである。米ポップス史上最も偉大な作曲家にしてシンガーソングライターであるキャロル・キングも、まさにそうしたルーツであることに、遅れ馳せながら気付いた。こちらのサイト によると、キャロル・キングの父方の祖父母はともにポーランド出身のユダヤ移民、母方の祖父母はポーランドとロシア出身のユダヤ移民だったということである。キャロル・キングは本名をキャロル・ジョーン・クラインと言うのだが、父方の祖父の元々の姓はGlaymanであり、同氏がたまたま小柄であったことから、米国に入国する際にエリス島の入国管理局で、係官にGlayman転じてKlein(ドイツ語で小柄を意味する)と書き留められたらしい。なお、上記サイトは、日本でも翻訳本が出ているキャロル・キング自伝の第1章の一節を紹介したものである。ちなみに、キャロル・キングの元夫で、ソングライティングのパートナーとして作詞を担当したジェリー・ゴフィンも、やはりユダヤ系移民の子孫である。
フォークロックの神様ことボブ・ディランもそうだ。2014年4月にディランが来日し、同公演に参戦すべく湯浅学さんの新書を読んでいて気付いたのだけれど、ディラン家の父方はオデッサからの移民、母方はリトアニアからの移民ということである。このリトアニアというのも曲者で、湯浅さんは「リトアニアからアメリカに移住した」と書いているけれど、今のベラルーシ地域のことを昔はLitvaと呼んだので、実は母方はベラルーシ出身なんてこともあるかもしれない。現に、英語版のウィキペディア でボブ・ディランの項目を見ると母方はLithuanian Jewsとなっており、これは明らかに今日のリトアニアのことではなく、ベラルーシ等を含んだ旧リトアニア大公国領のユダヤ人という意味だろう。
あと、スイングの王様ことベニー・グッドマンがやはり帝政ロシア西部からのユダヤ移民の家庭に生まれたというのにも、驚いた。ベニーの父のデヴィッド・グッドマン(1873-1926)は、英語ウィキによれば、ワルシャワ出身の縫製職人であったとされている(ポーランド語版ウィキでもそう)。しかし、ロシア語版およびウクライナ語版ウィキでは、ウクライナのキエフ近郊のビラツェルクヴァ(「白い教会」という意味)出身ということになっており、情報が整合しない。個人的には、ワルシャワという大都市よりも、ビラツェルクヴァというやたら具体的な出身地の方が、それらしい感じがする。一方、母のドーラ・グリシンスキ・グッドマン(1873-1964)に関しては、現リトアニアのカウナス生まれということで、ほぼ記述が一致している。ちなみに、こちらのサイト によれば、2人が新大陸に渡ったのは、やはり帝政末期のロシアで吹き荒れた反ユダヤ主義の迫害を逃れるためだったようだ。2人は移住先の米ボルティモアで出会い結婚、シカゴに移住する。1909年5月20日にシカゴの地で、九男ベニーが生まれた、ということのようだ。なお、母は最後まで英語を話せなかったという。
ジャズの巨人ベニー・グッドマンが帝政ロシア西部出身のユダヤ系移民の家庭の出身であったことを遅れ馳せながら知り、慌てて「ベニー・グッドマン物語」のDVDを取り寄せて鑑賞してみた。映画の冒頭では、ベニーの少年時代の一家の貧しさが描かれており(そして子沢山の一家である)、このあたり、同じシカゴでチェスレーベルを興したチェス兄弟と共通の出自を感じさせる。ただ、上述の情報とは異なり、少なくともこの映画の中では母親は普通に英語を話していた。実際にも話せたのか、それとも映画だから便宜的にそうしているのかは、分からない。だいたい、人間というのは母親から言葉を教わるものであり、もしも母親がイディッシュ語しか話せなかったのであれば、ベニーの母語もイディッシュ語であったかもしれないなどと想像してしまうのだが、どうだろうか?
映画のストーリーは、最初はクラッシックのクラリネット演奏の教育を受けたベニーが、ニューオリンズ由来の即興音楽に目覚め、試行錯誤しながらスイングのスタイルを確立し、全米のスターの地位まで駆け上がる過程を描いており、そこに恋愛劇を重ねて物語に仕立てている。正直、現代の視点で観ると、恋愛劇は平凡すぎ、ベニーをうっとりと見詰める女性をずっと大写しにしたりするよりは、演奏シーンをもっとじっくりと見せてほしいという気もした。ただ、その女性とは、アメリカ音楽業界の大立者ジョン・ハモンドの妹アリスであり、ベニー・グッドマンがジョン・ハモンドの妹と結婚したという事実は、個人的に初めて知った。ハモンド家は大変な名家であったようで、シカゴの貧民街に暮らしていたユダヤ移民の子息が大衆音楽に革新をもたらして立身を遂げ、名家の令嬢を射止めたというのも、確かにもう一つの物語ではある。
それで、「あの人もロシア系ユダヤ人か」「この人もそうか」と五月雨式に判明するのも確かにスリルがあるのだけれど、そろそろ、もうちょっと体系的な情報が知りたいと思い、ネット検索してみた。その結果、かなりまとまっていると思われたのが、こちらのサイト である。ここには、時代や国を問わず、文化や学術の世界で活躍した著名なユダヤ系の人々が列挙されている。その中から、私の主たる関心分野である米英の音楽界で活躍した著名人を抜き出すと、以下のとおりとなる。
Art Garfunkel (1941-), American singer & songwriter.
Barbra Streisand (1942–) American singer, songwriter, actress, and film director.
Benny Goodman, American jazz and Klezmer musician, composer, clarinetist and bandleader.
Billy Joel, singer, songwriter known for his many #1 hits.
Bob Dylan (born Zimmerman) (1941–) American singer-songwriter, author, musician and poet. Sephardic father, Ashkenazic mother.
Brian Epstein, manager of the Beatles.
Burt Bacharach, musician, songwriter, singer, musical arranger, producer, pianist.
Carly Simon, American singer, songwriter, pianist, guitarist.
Cass Elliot, Mama Cass from The Mamas & the Papas.
Elvis Presley, his mother was Jewish. Elvis personally had a Star of David carved into his mother’s grave. He also learned the Hebrew alphabet, donated to Jewish charities, had a Rabbi as his spiritual teacher, and he routinely wore a Chai necklace in order to celebrate his Jewish heritage.
Gene Simmons, bass player, main songwriter and singer for Kiss.
George Gershwin, quintessential 20th century classical composer.
Herb Alpert, American composer, songwriter, lead singer.
Helen Shapiro, British singer. Granddaughter of Russian Jewish immigrants.
Irving Berlin, (real name Israel Isadore Baline), Yiddish speaking son of two Orthodox Jewish parents (his father was a Jewish Cantor at the synagogue), and the most beloved and prolific songwriter and lyricist.
Janis Ian, female singer-songwriter, multi-instrumentalist and science fiction author.
Leonard Bernstein, eclectic classical composer (West Side Story).
Manfred Mann, British R&B keyboardist.
Marc Bolan, member of T. Rex.
Neil Diamond (born January 24, 1941), one of America's most enduring and successful singer-songwriters. He was born in Brooklyn, to a Jewish family descended from Russian and Polish immigrants and sang in the school choir with Barbra Streisand.
Neil Sedaka, American singer, songwriter, and pianist. He also sings in Hebrew, and recorded an album of Yiddish songs to express his passion for his Jewish heritage.
Paul Simon (1941-), American singer, songwriter.
Phil Spector, songwriter, singer, and music producer, who influenced everyone from The Beatles and the Beach Boys to Bruce Springsteen.
Robbie Robertson, (real name Jaime Robert Klegerman) acclaimed Canadian singer-songwriter, lead guitar player, and pianist of The Band.
Warner Brothers, Canadian founders of the film studio.
まあ、こんなところだが、チェス兄弟が挙げられていないこと一つとっても、決して網羅的ではなく、中堅どころを含めればまだまだリストは拡大しそうである。また、クラッシックからヘビメタ(ジーン・シモンズ!)まで、ジャンルがきわめて幅広いことが印象的である。
今回このリストを眺めていて、衝撃を受けたのが、エルヴィス・プレスリーだった。キングのユダヤ・ルーツは、まったく頭になかったので。情報を探してみたところ、こちらのサイト が一番参考になった。要するに、エルヴィスの母親がユダヤ系であり(地域的にどこ系であるかは不明だが)、ユダヤ法によれば母親がユダヤ人である子供はユダヤ人とされるので、エルヴィスもユダヤ人という解釈になるらしい。下の写真に見るように、エルヴィスは母の墓石にダヴィデの星を刻んでいる。
また、これも上のリストで初めて知ったが、かのワーナー・ブラザースを立ち上げたワーナー兄弟も、ユダヤ人だったのか。ちなみに、こちら やこちら によれば、2011年5月にワーナー・ミュージック・グループを、ロシア出身のユダヤ人富豪投資家レオニード・ブラヴァトニク氏のアクセス・インダストリーズが33億ドルで買収するという動きがあった。ブラヴァトニクは1978年に家族とともにソ連から米国に移住したということで、これは当時のユダヤ人の出国の波に乗ったものだったのだろう。いずれにしても、ユダヤ人の創始したコングロマリットの音楽事業を、ユダヤ人が買収したことになるわけだな、これは。
最後に、私自身はクラッシック音楽には疎いが、本間ひろむ著『ユダヤ人とクラシック音楽』(光文社新書、2014年)という本を読んでみたので、最後にそれに触れてみたい。本書は、旧ソ連出身者に限らないとはいえ、ユダヤ人音楽家のクラッシック界での役割について概説していて、とても参考になった。本書128頁によれば、貧しいユダヤ人家庭では音楽的才能を示す子供がいると一族郎党でお金をかき集め、楽器を買い与え、しかるべき教育を受けさせた。果たして有名な音楽家になった場合、経済的な分け前を一族郎党でシェアしたという。140頁に出ている、移住の際の相互援助の話も興味深い。また、30頁以降に記されている、ユダヤ人の伝統的な民衆音楽であるクレズマーが、バイオリンの名手を輩出する土壌になった旨の指摘も、勉強になった。まあ、クラッシックとポピュラー音楽ではずいぶん事情が違って、上述のようなエリート教育を受けられなかった有象無象が、しかし民族の血に溢れる音楽的才能を開花させ、アメリカ大衆音楽界に君臨することになったのだろう。
ところで、今回改めて思ったけれど、米音楽界でロシア・ウクライナ・ベラルーシ・ポーランド系のユダヤ人が多く活躍しているとはいえ、ほとんどは移民2世、3世である。私がこのテーマに関心を持ったきっかけは、冒頭に述べたバーリンとチェス兄弟だったけれど、彼らのような故地の記憶を辛うじて留めた移民1世というのはむしろ例外的で、上で掲げたリストの中には第一世代はほとんど見当たらない。まあ、だからこそ、「ロシア系ユダヤ移民」「ポーランド系ユダヤ移民」といった漠然とした形で伝えられ、具体的な出身地が不明なことが多いんだろうな。私のように、「他にもベラルーシ出身者はいないか?」とか、「具体的にロシアのどこなのよ?」ということを知りたい人間にとっては、その点が残念である。
(2015年6月13日)
5月23日に福岡にお邪魔して、西南学院大学で開催された「ソ連東欧史研究会」の5月例会で、「ウクライナ危機の背景と深層」という報告をさせていただいた。それで、ネタの使い回しばかりではなんなので、少しは新しいマテリアルを加えようと思い、ウクライナ国土の形成史のような図を作成してみようかと思い立った。
ウクライナは、地域のパッチワークのような国であり、気質や文化が地域ごとに異なって、それが国民統合を難しくしていると指摘される。特に死活的なのは、松里公孝さんが「ウクライナ政治の実相を見誤るな」 というご論考で論じておられるように、ウクライナの各地域がロシア/ソ連の版図に組み込まれたのはどの時代だったのかという点だろう。左岸ウクライナ(キエフ市を含む)のように早くも1667年だったところもあるし、西ウクライナの一連の地域のように20世紀の第二次大戦時にようやくというところもあったわけで、それによって地域ごとの気風やベクトルも違ってくるわけである。こうしたことから、各地域がそれぞれの時代ごとにどの国に組み込まれていたかというのを一覧できる図を作成できたら面白いなと考えたたわけである。しかし、実際に作業を試みてみると、複雑な歴史的変遷を、一つの図に分かりやすくまとめるのはとても無理ということが分かり、断念した次第だ。
しかし、その作業に向けて、上に見るようなウクライナで買ってきた歴史地図帳などを眺めてみたところ、「なるほど、そうか」と認識を新たにさせられた点も多かった。たとえば、現在のウクライナ国土の最西端にあるトランスカルパチア(ザカルパッチャ)地方。このあたりは、そもそもキエフ・ルーシやガリツィア・ヴォルィニ公国の領域にも入っておらず、その時代からほぼ一貫して、ハンガリー王国の一部だった。一例として、17世紀初頭の状況を下の地図で見てみよう。この地図の白い線が、今日のウクライナの国境である。17世紀初頭と言えば、ポーランド王国とリトアニア大公国が1569年にルブリン合同を遂げてからしばらく経った時期であるが、ルーシ人(東スラヴ人)の居住地のうち、ルブリン合同の際に大公国領として残った地域(地図の黄土色の部分)がその後のベラルーシとなり、ポーランド直轄に移管された地域(地図のピンク色の部分)が後のウクライナになっていくわけである。いずれにしても、トランスカルパチア地方、その代表都市であるウジホロドは、黄色のハンガリー王国の領土だった。
その後、ハンガリーはハプスブルク帝国の一部になったわけだけど、トランスカルパチアは引き続きハンガリー王国の領邦であり続けた。それが変化するのが、20世紀の第一次世界大戦後のことである。敗戦国となったハンガリーは多くの領土を失い、トランスカルパチアは両大戦間期にはチェコスロバキアの領土となったのである。そして、トランスカルパチアは第二次大戦時の1944年に歴史上初めて、ロシア(ソ連)の版図に組み込まれたのであった。
それで、ブログの方ではちらほらと書いたけれど、今年の2月にそのトランスカルパチア(ザカルパッチャ州)のウジホロドに出かけて現地調査をしてきた。実際に現地を訪れてみて、同じ西ウクライナでもガリツィア地方などとは異なる多文化・民族共存の雰囲気を感じたので、以下写真を交えながら簡単に語ってみたい。
2月に訪問してみて、私はウシホロドという街がとても気に入った。はっきり言って、ウクライナのすべての街の中で、ウジホロドが一番好きかもしれない。リヴィウとどちらが良いかと言われると、甲乙つけがたいけれど、ウジホロドの場合は期待感がそれほど大きくなかった分、驚きと感動が大きかった。まあ、たまたま自分が滞在した日が快晴で暖かかったので、その好印象もあるのだけれど。ただ、それにしても、街は綺麗だし、人々は穏やかで優しいし、キエフやガリツィアのような押しつけがましいナショナリズムもないしで、とても居心地が良い。何が良いと言って、昨今のガリツィアやキエフに溢れている赤・黒の民族主義フラッグを一度も見なかったのが良かった。上に載せたのは、ホテルの前に翻っていた公式のウクライナ国旗とEU旗。なぜ国旗の位置が下なのかと疑問に思ったが、よく考えたらユーロマイダン革命からちょうど1年の時期で、犠牲者を悼む半旗だったんだろうな。
美しすぎる、ギリシャ(ウクライナ)・カトリック教会。
ウジホロドの博物館を見学したら、下に見るとおり、チェコスロバキア時代の1930年の国勢調査によるザカルパッチャ・ルーシの民族構成という図が出ていた。総人口が70.9万人で、「ルシン人」が44.7万人、ハンガリー人が11.0万人、ユダヤ人が9.1万人、スロバキア人が3.4万人だったということだ。う~ん、ウクライナ人がどこにもいない(笑)。
ウクライナでは1991年12月1日にソ連からの独立を問う住民投票が行われ、それに合わせてザカルパッチャ州では州の特別なステータスを問う州レベルの住民投票も同時実施された。その結果、ザカルパッチャ州では投票参加者の92.59%がウクライナの独立に賛成する一方(これは西部の地域としては決して高い数字ではない)、こちらのサイト などに見るように、79%(資料によっては78%としているものもあり、正確なところは不明)が州の特別なステータスに賛成しているのだ。それを解く鍵が、くだんの「ルシン人」というアイデンティティである。当地の住民の中には、自分たちはウクライナ人とは違う「ルシン人」だという民族意識を持つ者が少なくなく、それが州の特別なステータスを主張する根拠となったわけである。その後、ウクライナ独立から四半世紀近くを経て、当地でもウクライナ人としての意識が定着し、最近ではルシン人民族運動なども下火になっていると思われるものの、いずれにしてもザカルパッチャはこうした複雑な民族事情から、リヴィウ州などのガリツィア流のウクライナ民族主義に対しては警戒的と言われる。近年の選挙でも、民族・民主派は振るわず、地域党が善戦したりしていた。「西ウクライナ」と一括りにすることが誤りであるという、好例かもしれない。
ザカルパッチャの多民族・多文化性は、博物館を見学したり、街を歩いたりするだけでも、容易に見て取れた。以下、関連するフォトギャラリーを。
博物館の展示。右半分がハンガリー系、左半分がルーマニア系の民族衣装。
ハンガリー系住民の通うプロテスタント教会。
ハンガリー語だけでなく、ウクライナ語の礼拝の時間も設けられている。
スロバキア文化センター。スロバキア語学校も併設されている。
街を歩いていたら見付けた、ハンガリー語およびスロバキア語教室の看板。
ただ、「出稼ぎに行くために学ぶのか」とか思うと、ちょっと悲しい。
下図に見るように、ザカルパッチャ州というのは実に特有な地理的条件を有しており、上からポーランド、スロバキア、ハンガリー、ルーマニアと、実にEUの4ヵ国と国境を接しているのである。ウクライナの中でこんなユニークな地域は、もちろん他には存在しない。これからウクライナがEUと関係を構築していく上で、重要な州になるはずである。
ウジホロドの街は、対スロバキア国境から至近。
最後に、恒例のグルメおよび音楽談義を。博物館の入っている城塞のレストランに入ったら、一応ご当地料理とされるものがあって、嬉しかった。下の写真は、メインに頼んだ、マッシュルームの豚肉ロール・カルパチア風という品。こんがり焼いたロールに、濃厚なソースがかかっている。じゃがいものピューレの付け合わせもあって、なかなかの食べ応えだった。
音楽に関しては、上に見るようなザカルパッチャ民謡のCDを土産物屋で売っていたので、それを有難く買って帰ってきた。聴いてみたところ、ロシアやウクライナの民謡とはだいぶ異質で、むしろスロバキアや、ルーマニアのマラムレシュ地方のそれに近い雰囲気があり、やはりウクライナの中にあっては特有の地域なのだなと実感した。ただ、CDの音源をPCに取り込むことがどうも上手く行かないので、今回はサンプル音源をお聴きかせできず、ご勘弁。
(2015年5月26日)
また歌謡曲っぽいタイトルだけど、今月はれっきとしたロシア圏に関するエッセイである。日本で出版される予定のある事典に向けて、ロシアやベラルーシの地名に関する記事を執筆し、また監修上のお手伝いもちょっとさせていただいた。その際に気になった、ロシア語の地名の表記、とりわけ川の表記について語ってみたい。
ロシア南部の、「ヴォルガ」の名を冠した街、ヴォルゴグラード。
大河ヴォルガ川も、ここまで来ると、だいぶ終点に近い。
今回の事典の仕事で、当初編集部から示された川の表記方式を見て、だいぶ違和感を覚えた。たとえば、「ヴォルガ川」の欧文表記が、「Volga Reka」という具合になっていたのである。日本語の事典なので、ロシア文字ではなく、ローマナイズして示されている点はやむをえないが、それにしても「Volga Reka」というのはどうだろうか?
確かに、日本語とか英語では、隅田川、Mississippi Riverのように、「川」に相当する語を語尾に付けるのが一般的だろう(英語では半々くらいか)。しかし、ロシア語では(ウクライナ語、ベラルーシ語でも同様)、川の名前にことさら「川」を付けることは、通常はない。単にVolga、Nevaなどとするのが普通である。
Мне нравится Волга, хочу поехать на Волгу.
などとするのが普通だろう。もちろん、ロシア語でも、川であることを強調したい場合は、「川」を付けることもある。「私は、ヴォルガ川 reka Volga は好きだけど、ヴォルガ・ホテル Gostinitsa “Volga” は嫌いだ」といった言い回しをすることはある。ただし、その場合には、rekaが前に来るのが普通だろう。Volga rekaとすることは、まずありえない。また、rekaの部分は固有名詞ではなく、「川の話だよ」という注意書きのようなものなので、英語のMississippi Riverなどとは違って、大文字にはしないはずだ。そんなわけで、編集部から示された「Volga Reka」といった統一方法に、困惑したわけである。
ただ、この点につき、編集部に問題提起したところ、編集部の側でもすでに当該の問題は認識しており、最終的に、「Volga, Reka」とする方針に決めたということだった。なるほど、これならば、パーフェクトとは言えないものの、セカンドベストくらいの解決方法だろう。ロシア語の資料等を見ると、「Волга (река)」といった見出しになっていることはよくあるので、それに近い形ではある。Rekaと大文字なのが痛い気もするが、許容範囲かと思う。
ちなみに、念のために本件につきロシア語ネイティブの方に確認をとってみたのだけれど、概ね私の認識のとおりであり、安心した。ただ、その際にちょっと面白い事例を教えてもらったので、付記しておく。その方によると、ロシア語の語順としては、reka Volgaといった具合にrekaが前に来るのが正しいけれど、モスクワ川だけはMoskva-rekaという具合に、rekaがハイフン付きで後ろに来るケースが多いのだという。モスクワに限っては、都市名である印象があまりにも強いので、後ろに「川」を付けるのがほぼスタンダードになっているということだった。なるほど、言われてみればそうかもしれない。したがってモスクワ川に関しては、
Мне нравится река Москва.
Мне нравится Москва-река.
の、両方OKということだった。ただし、「モスクワ川で泳ぎたいな」というのを、
Хочу искупаться в реке Москве.
と言うのは逆に不自然であり、Хочу искупаться в Москве とすべきということである。なぜなら、泳ぐとなれば、モスクワという街ではなく川であることが自明なので、わざわざ「川の話だよ」と断ることが、かえって変ということらしい。なるほど、勉強になりました。
Москва-река です。
ちなみに、川のことを、ロシア語では「река(レカー)」、ウクライナ語では「Річка(リーチカ)」、ベラルーシ語では「Рака(ラカー)」と言う。門外漢だけど、ポーランド語では「Rzeka(ジェカ)」かな。ウクライナ語の「Річка(リーチカ)」というのは、ロシア語に慣れた者からすると指小形のような感じを受けるが(ロシア語の「речка(レーチカ)」=小川に似てるし)、ウクライナ語では大河も小川も「Річка(リーチカ)」らしい。ただし、ウクライナ語の川には、「ріка(リカー)」という言い方もあるようだ。
「川」という単語自体、東スラヴ3言語で微妙に違うけれど、たとえばドニエプル川の呼び名も違って、こういう国際河川の見出しを事典でどう扱うかというのもなかなか厄介だ。ドニエプル川は、ロシア語では「Днепр(ドニェープル)」、ウクライナ語では「Дніпро(ドニプロー)」、ベラルーシ語では「Дняпро(ドニャプロー)」である。「о」で終わるけれど、ウクライナ語でもベラルーシ語でも中性ではなく男性名詞だ。
ドニエプル川中流域にあるベラルーシの都市モギリョフ。
ドニエプルも、このあたりでは、まだそんなに大河という感じではない。
しかし、下流域のウクライナ領になると、ダム湖の連続のようになって、川幅が増す。
これもドニエプルの名を冠した、ウクライナの重要都市ドニプロペトロウシクにて。
ついてに、オタク話をさせていただくと、ベラルーシとリトアニアを流れ、バルト海に注ぐニョーマン川というのがある。ロシア語でもベラルーシ語でも、綴りは「Неман=Neman」で同じである。ところが、ロシアではНеман=Nemanを「ネマン」と読むのに対し、ベラルーシではロシア語であっても、ベラルーシ語の読み方に合わせて、「ニョーマン」と読むのが一般的である。コレ、大事! ちなみに、リトアニアではネムナス川ですな。
父なるニョーマンとして詩に詠われるなど、ベラルーシ愛国者の精神的な拠り所。
グロドノ市の城塞の丘とニョーマン川が織り成す情景は、ことのほか印象深い。
(プリント写真をスキャンしたものなので、画質が悪い点、ご容赦を。)
ところで、2018年のFIFAワールドカップ・ロシア大会では、開催地11都市のうち、ニジニノヴゴロド、カザン、サマラ、ヴォルゴグラードの4都市が、ヴォルガ川に直接面している。また、モスクワ、サランスクも、ヴォルガ川の支流に面した都市である。2018年のロシア大会は、「ヴォルガ川の大会」と言っても過言でない。現在私は、サッカー関連のメルマガ『徹マガ』で、2018年の全開催都市を順次紹介するエッセイを連載中だが、その第3回で「『ヴォルガ川の大会』を象徴するニジニノヴゴロド」 という文章を書き、そのあたりについての談義を披露しているので、よかったらご購読いただきたい。
「ヴォルガの首都」ことニジニノヴゴロドのクレムリン付近から眺めるヴォルガ川。
左の方から、支流のオカ川が流入している。
ヴォルガ川と言えば、最近興味深いブックレットが出た。村井淳著『母なるヴォルガ ロシア史をたどる川旅 (ユーラシア・ブックレット198)』である。実は、この本には、半年くらい前から注目していたのだ。というのも、うちの月報の2015年2月号で、「ロシアの地域経済と沿ヴォルガ」 という特集を組み、その際に書評コーナーで取り上げるヴォルガ絡みの本はないかと探してみたところ、出版前のこのブックレットの情報が目に止まったのである。しかし、実際に本が出るのはもう少し先になるとのことで、月報のヴォルガ特集には間に合わなかったという経緯があった。そんなわけで、ようやく入手できたブックレットを早速読んでみたわけだが、内容は、沿ヴォルガ地域を中心とした歴史エッセイと、ヴォルガ川クルーズの旅行談義の、折衷のような感じである。個人的に、「ヴォルガ川のクルーズというのは、どんなものなのだろうか?」という漠然とした関心は以前からあったのだが、それがこの本でだいぶクリアになった。ロシアの主要河川が、運河で連結されていて、船に乗ればあちこち行けるのだろうなと漠然とは思っていたが、実際の様子が具体的に理解できた(トイレのくだりは、やや衝撃的であったが)。私は年に何度かロシアに行くものの、仕事ばかりだし、これからも実際にヴォルガの船旅をする機会は、たぶんないのではなかろうか。だから、この本で、良い疑似体験をさせてもらったと思っている。本体価格わずか800円のバーチャルトリップ、皆さんもいかがですか。
ロシアにとって、「母なる川」がヴォルガ川であり、「父なる川」がドン川だというのは、良く知られた話だろう。そこで最後に、「ドン上のロストフ」ことロストフナドヌー市内のドン川の風景をお目にかけて、川に関する四方山話を締め括りたい。
ほぼ凍結した、文字通り、静かなるドン。
その前には、ショーロホフの像が佇む。
(2015年4月26日)
前々から、五木ひろしさんのベストのようなものを買いたいと思っていたのである。しかし、私のような洋楽中心のレコードコレクターからすると、巷に溢れる歌謡曲のベスト盤は安直なアイテムが多いような気がして、購入意欲が湧かない。我々、洋楽オールディーズのコレクターは、入魂の選曲とか、あるいは全曲収録とか、充実した解説・ディスコグラフィー付きとか、デジタルリマスターとか、そういう付加価値のあるコンピレーションでなければ、触手は伸びない。しかるに、日本の歌謡曲のベスト盤というのは、往々にして十数曲程度の代表曲を選んで、せいぜい歌詞カードが付くだけとか、そういう手抜き商品が目立つ。過去の有名曲にしても、近年になって録音し直したものが入れられたりしていて、オリジナル録音にこだわる洋楽ファンにとっては、?と疑問に感じることが多いのである。何か五木さんの良いベスト盤がないかと物色してみても、「これぞ」というものはなかなか見当たらなかった。
しかし、最近になって、自分の中の五木ひろしモードが高まる出来事が重なった。何と言っても、作詞家の山口洋子さんが2014年9月に亡くなり、その作品リストを改めて眺めると、ああ自分が子供の頃に耳にしていた五木ひろしさんのヒット曲は、ほとんどこの人の作詞だったのだなということを思い知った。それから、先日、NHKのBSプレミアムで、平尾昌晃さんの特集をやっていて、「よこはま・たそがれ」をはじめ五木さんのブレーク期の楽曲の多くを山口さんと組んで生み出したのがこの人であるということを再認識して、そこでまた興味が高まった。そして、決定的な出来事として、五木さんは今般デビュー50周年を迎えられるということで、それに焦点を当てたテレビ番組が、テレ東だったか、先日放映されていた。まあ、言うまでもなく、五木さんは歌がとてつもなく上手い人なのだが、その番組で多くの楽器や様々な音楽性を軽々とこなす様子を見て、本当に音楽センスの塊りのような人なのだなと痛感した。1960年代から1970年代にかけての日本に登場したので、たまたま演歌歌手になったけれど、10年遅ければニューミュージックの旗手になっていたかもしれないし、米英に生まれたらロックスターになったかもしれない。
そんなこんなで、個人的に五木モードが高まったので、改めて何か良いベスト盤はないかと探してみたのである。そうしたところ、「五木ひろし歌手生活30周年記念 シングルA面パーフェクトコレクション」というCD5枚組セットがあるのを知り、中古で安いのを見付けたので、それを買ってみたのである(上の写真がそれ)。まあ、これ自体もう20年前のアイテムということになるが、最近の作品というよりも特に初期のキャリアに興味があるので、とりあえずこれでいいかと思って。で、「シングルA面パーフェクトコレクション」と謳っているということは、最近のリレコではなく、発売当時のオリジナルバージョンが収録されているはずだから、自分の目的に適うだろうというのが決め手になった。何より「パーフェクト」というワードが、コレクター心をくすぐるではないか(まあ、B面も入っていたら、もっと良いんだけど……)。五木さんは、デビューしてからしばらくは鳴かず飛ばずで、何度か芸名も変えたというのは有名な話だけど、この箱にはそうした初期の別名で出したシングルも収録されており、価値が高い。
我が家に届けられたCDボックスを実際に聴いてみると、五木さんは初期に、単に売れなくて芸名を変えただけでなく、作風もかなり劇的に変わったことが分かって、面白かった。デビューしたての「松山まさる」は、ジャケット写真が学生服姿だったりして、完全に青春歌謡である。「働きながら学ぶ友」なんて、定時制学校賛歌もある(そのB面の「空手小僧」もぜひ聴いてみたかった…)。で、「一条英一」に改名し、今度はややセクシー路線に転じる。芝居がかった大仰な歌い方であり、五木さんのキャリアの中では黒歴史なのかもしれない。「波止場のマリー」なんかは、むしろグループサウンズに近く、案外、河村隆一あたりに通じるところもありそうだ(両者ともコロッケにものまねされているし)。で、「三谷譲」になると、だいぶ作風も歌唱も後年のスタイルに近くなるが、これも売れることはなかった。1年半ほどのブランクを経て放った、起死回生の一打が、昭和46年3月1日発売の「よこはま・たそがれ」だったわけである。
それにしても、「待っている女」という曲は、五木さんの代表曲のような扱いになっているが、こうやってキャリア全体を俯瞰してみると、異色作だ。山口・平尾コンビによる「よこはま・たそがれ」、「長崎から船に乗って」と大ヒットが続いたのに、なぜ作曲家をあえて藤本卓也氏にチェンジするような冒険をしたのだろうか? 藤本氏というのは、独特の世界観から「夜のワーグナー」とも呼ばれる鬼才であり、五木さんの全シングルの中で同氏に委ねた2曲だけが異色のサイケサウンドになっている。まあ、個人的に嫌いじゃないが。
「五木ひろし歌手生活30周年記念 シングルA面パーフェクトコレクション」、一応80ページくらいの分厚いブックレットが付いており、歌謡曲のコンピレーションとしては、まあまあ良心的な作りだと思う。しかし、写真集よろしく、本人のポートレートを多数掲載するくらいなら、もうちょっとデータ類を充実させてくれればいいのにと、感じた。我々洋楽オールディーズのファンは、「この曲がビルボードの全米チャートで何位だったか」というのを重視し、洋楽のコンピにはたいてい、全米で最高位何位だったかということが記されている。しかるに、日本のこの手のコンピやベストで、「オリコン何位」といったデータが記入されているのを、見た覚えがないし、この五木さんの箱にしても然りだった。そこで、ネットでざっと調べてみると、意外や意外、五木さんのシングルでオリコン1位になったのは、「よこはま・たそがれ」ただ1曲であったことが判明。往年の「ザ・ベストテン」なんかで、五木さんが何週も連続で1位を続けていたことがあった印象が強いので、実に意外だった。
今回、五木さんのシングル・ボックスを買って、一番じっくり聴いてみたいと思っていた曲が、「千曲川」である(なお、この曲の作曲は平尾さんではなく、猪俣公章さんである)。ただ、ことこの曲に関しては、オリジナル・シングル・バージョンは、完璧ではないかもしれない。森岡賢一郎さんのアレンジは見事だとは思うものの、演奏のバランスが悪くてワルツの情感を損なっているような気がするし、五木さんの歌唱もまだ固い感じを受ける。「オリジナル録音にこだわる」という上述のポリシーには反するようだが、歌謡曲では、歌い込んだ後の方が良くなったりするケースも少なくない。
実は、今月のこのエッセイを書くに当たって、「いくらなんでも、ロシア圏にまったく関係のない話題は、辛いな。たとえば、五木さんがロシア公演をしたことがあるとか、何かロシアとこじつけられるネタがないかな?」と思い、ロシア語で「Ицуки Хироси」と入力して、ネット検索してみたのである。その結果、五木さんご自身がロシアと何か関係があるという事実は確認できなかったものの、ロシアの違法サイト で、五木さんを含む日本の多くの歌手の曲を鑑賞・ダウンロードできるようになっていることが分かった。ロシアにも、五木ひろしの良さが分かる人がいるのだとしたら、喜ばしいことだ。しかし、著作権法違反は言語道断であり、どこかに告発したいところだけど、どこにしたらいいんだろうか?
ところが、このロシアのサイトで聴ける「千曲川」は、明らかに、私が入手したシングル・ボックスに入っているオリジナルとは、別バージョンだ。おそらく、後年録り直して、一般的なベスト盤なんかに入っているものだろう。はっきり言って、オリジナルよりも、新緑の方が歌もバックも繊細であり、格調が高いような……。まあ、こんな圧縮しまくった酷い音質で音楽を観賞しようとは、個人的に思わないけれどね。新しいバージョンが聴きたかったら、私はあくまでも別途購入して聴く。
(2015年3月29日)
1月に個人的にベトナムに観光旅行に出かけたので、今回はそのネタ。すでにブログに書いたことの寄せ集めっぽくなるけど、ご容赦を。
1月16日が、私の勤務先であるロシアNIS貿易会の創立記念日で、休業になっている。で、1月の半ばには成人の日もあるので、あと1日くらい有給休暇を追加して、1月の中旬にちょっとした旅行に出かけるというのが、一つのパターンになっている。昨年は同じような形で香港・マカオに行ったし、以前は台湾なんかにも遊びに行ったことがある。「良いご身分だこと」とお叱りを受けそうだけど、個人的に年末・年始はいつも月報の編集で休めないので、遅い正月休みのようなものである。
今回ベトナムをチョイスしたのには、実はあまり必然性はなかった。アエロフロートのマイルが溜まっていたので、スカイチームのメンバーで遊びに行けそうなどこかアジアの手近な国はないかと考えたところ、ベトナムに白羽の矢が立ったという次第。ベトナムは、北のハノイと南のホーチミンが2大都市で、どちらも日本から直行便が出ている。今回のベトナム旅行、そんなに日数がないので、両方行くというわけにはいかず、思案した末に、ハノイを選択した。
残念ながら、ハノイの日常生活でアオザイを着ている女性はほとんどいなかった。
これはたぶん、結婚式用の記念写真を集団で撮っているところだと思う。
そんなわけで、成田からハノイ行きのベトナム航空便に乗り込んだ。しかし、意外にベトナムは遠いなというのが、率直な感想。往路は、元々のフライト時間が6時間の上に、30分ほど遅れた。近場に行くような感覚でいたんだけど、これじゃあロシア出張とあんま変わんないや。初日から活発に動き回ろうと思って、10:00成田発の便で来たんだけど、ハノイのホテルにチェックインしたらもう夕方で、少々当てが外れた。まあ、日本との時差が1時間しかないから、その面では楽だけど。
ハノイの旧市街の街並みは、フランス統治の産物だから、
建物の形状は米ニューオリンズのフレンチクォーターを思わせる。
ところで、ベトナム旅行ということで、行く前はトロピカルな国に行くようなイメージだったんだけど、ベトナムは南北に長い国で、北のハノイは決して常夏じゃないのね。1月の訪問時は、たぶん東京の10月といった感じの気温だったと思うけど、現地の人がかなり厚着で、ダウンジャケットのようなものを着込んでるのが意外だった。まあね、大多数の人がバイクに乗る国柄なので、それで重装備ということもあるかもしれないけど。
バイク天国というか、地獄というか、とにかくおびただしい数の二輪が行き交う。
それでもって、旅行の楽しみは、何と言っても、食事。普段、ロシア圏の出張では食の楽しみというものがほどんどないから、やはりアジアの旅行ではそれを堪能したいものである。しかし、結論から言うと、今回のベトナム旅行では「これぞ」という美味い食べ物には出会わなかった。事前リサーチみたいなことをせずに、行き当たりばったりで店に入ったので、たまたまだったのだろうとは思うが、やや当てが外れた感じ。まあ、そうは言っても、個人的にはアジアの猥雑な下町を散策して、色んなものをつまみ食いしたりする旅行が好きなので、その面では大いに堪能した。
後ろの女性が変顔になっていますが。
さて、今回のベトナム旅行、純然たる観光旅行なので、仕事のことは忘れ、羽を伸ばすつもりでいた。しかし、いざ現地に赴いてみると、悲しい性と言おうか、街を歩けばロシアに関係したものを探してしまうし、英字新聞があればついロシア絡みの記事を読んでしまう。これはもう、職業病のようなものである。そんなことをしているうちに、この際だから、ロシアとベトナムの関係を簡単にでもまとめておこうかと思い立った。帰国後に、両国の政治・経済関係を中心に、「なぜロシアはベトナムを重視するのか」『ロシアNIS調査月報』(2015年3月号) というレポートを執筆してみたので、ご興味のある方はご参照いただきたい。
以下では、「ハノイの街で見付けたソ連/ロシア」を、フォトギャラリーでお届けする。
ハノイにあるホー・チ・ミン廟。
モスクワのレーニン廟を模しつつ、ベトナム独自の美意識も取り入れている。
ベトナム軍事歴史博物館。ソ連製の軍事貨物輸送機イリューシン14が中庭に展示されていた。
その後ろには、北ベトナムによって撃墜された米軍の爆撃機がオブジェとして飾られていたりする。
国立歴史博物館(旧革命博物館)に展示されている、ホー・チ・ミンが実際に使用したという、
ソ連製の装甲自動車ZIS115。1954年にソ連共産党がベトナム労働党にプレゼントしたという。
ZISは「スターリン記念工場」の略で、その後の「リハチョフ記念工場(ZIL)」のこと。
ハノイの大型書店には、実に6種類ものプーチン本が売られていた。
外国事情のコーナーで際立った存在感を示しており、人気を伺わせる。
ハノイの食料品店のスナック・コーナーで、ロシア産のひまわりの種が売られていた。
「ロシア・ナンバーワン・ブランド」 というコンテストで、ひまわりの種部門で受賞した
こともある、БАБКИНЫ СЕМЕЧКИ という商品。
玉山祠という儒教寺院に祀られている巨大亀の剥製
ソ連が技術指導して、剥製化したという。
社会主義スローガン等を掲げたポスターが土産物屋で売られている。
このあたりからも、ベトナムが社会主義体制であっても、
人々の営みはかなり商業化されていることが伺える。
そのなかから、ベトナムとソ連の友好をうたうポスターを購入。
大判のものも売っているけれど、これは小型のA4判のレプリカで、300円くらい。
店員さんは、「ライスペーパーに印刷しているんですよ」と、それが 売りみたいな口ぶりだったが、かえって虫に食われそうな気がしないでもない。
最後に、恒例というか何と言うか、今回も現地で何点かCDを買ってきましたよ。ベトナムの歌謡曲っぽいものや、少数民族の民族音楽など。まだ一部しか聴いていないんだけど、差し当たり、下のものをご紹介。これ、民族学博物館の外にある売店で売っていたもので、他のCDはだいたい400~500円程度なのに、これだけ妙に高くて2,000円くらいした。でも、それだけのことはあって、ベトナムに54存在すると言われる民族のうち、カレン族、ミャオ族、ミエン族、ラフ族、アカ族、リス族の音楽をバランス良くコンパイルした優れもの。いま、iTunesで調べてみたら、ちゃんとデータが登録されているので、列記とした正規商品なのだろう。ここでは、その中から、カレン族のNeng sang ku,“thousand-verse song”(Karen Pwo, chorus) というのを、サンプルとしてご視聴ください。コーラスと言いつつ、その都度申し合わせながら進行していくような様子が面白い。
(2015年2月28日)
2ヵ月連続で、ロシア圏とはまったく関係ない、一般の方にはまず関心外と思われる話題で、恐縮である。個人的に、2014年に買ったものの中で、一番重要なアイテムが、コレ。SONYウォークマンAシリーズ NW-A17 というやつである。製品のレビューとしては、こちら あたりを参照してほしい。最近、低迷する音楽業界の救世主として、ハイレゾへの注目が高まっている。この新型ウォークマンは、わずか3万円ちょっとで、ハイレゾの世界に足を踏み入れられるという意味で、格好の入門機と位置付けられている。ただし、本体は3万円ちょっとでも、microSDカードを追加で購入すると、同じくらいの出費がかかったりする。また、本機にはポータブルプレーヤーとしてはかなり良い線のイヤホンが付属しているものの、これは実はハイレゾ再生に対応していないらしく、ハイレゾを満喫するためにはXBA-Z5 という上位機種のイヤホンを購入しなければならず、その出費が5万円強。結局、フル装備にしたら、何だかんだで10万円コースになってしまうわけである。まあ、本体だけでも、いくらでも楽しめるが。
個人的には、本機NW-A17をハイレゾ狙いというよりは、大容量という観点から選んだ。音楽プレーヤーは過去3年ほどiPod Touchの64GBを使ってきたが、音楽ライブラリーがとうに100GBを超えており、64GBではどうしようもなくなっていた。そこに2013年頃から来始めたハイレゾ・ブームは、個人的には福音だった。ハイレゾはファイルサイズが馬鹿でかいので、ハイレゾ機は容量が大きいのが常だからである。最近になって、ますます大容量化が進むとともに(外部メモリの追加も含め)、製品の選択肢もだいぶ豊富になった。それらの製品を物色する中で、2014年秋に出た新型ウォークマンは本体64GB+microSD128GBというのがやはり魅力であり、価格的にもだいぶこなれたものだったので、12月初頭に購入に踏み切った。世間の皆さんは、音楽はスマホで済ませてしまうようになっており、そのせいかアップルはもうiPodシリーズを強化する気はないようなので、iPodにはもう見切りをつけるしかない。ちなみに、ハイレゾ音源なしで圧縮音源だけ聴くとしても、ウォークマンの方がノイズキャンセルやら何やらでiPodよりも格段に音質が良く、その点の満足度が高い。
音楽プレーヤーの話なんて、どうでもよいことと思われるかもしれないが、私にとってはかなり重要な人生の一部である。音楽ファンなので、これまで大量のCDを買ってきたし、今も買い続けている。しかし、悲しいかな、それらを聴く時間が充分にとれず、音源が死蔵されていくことに、言いようのない後ろめたさを感じている。ところが、それを1台の音楽プレーヤーに詰め込めば、状況は一変する。それをシャッフル再生すれば、何万曲あろうと、理論的にはすべての曲に常に再生される可能性がある。音楽のデッドストックが、ライブストックに生まれ変わるわけだ。こちらで解説されている ように、時代は、ライブストリーミング配信やら、定額聴き放題に移行しているのかもしれないが、私は自分の物理的ライブラリーを1台のプレーヤーに集約することにこだわりたく、だからこそ大容量が必須なのだ。それが、自分が買い続けてきた音源の供養だと思うし、そうしないと自分の人生を否定するような気がして、嫌なのである。大袈裟に聞こえるだろうが、とにかくそんな気分である。
ところで、本機NW-A17を購入したもう一つのポイントは、iPod時代にライブラリー管理に利用していたiTunesを引き継げるらしい、という点だった(またゼロからライブラリを構築するとなると、気の遠くなるような作業なので)。iTunesから直接ドラッグ&ドロップでウォークマンに音源を転送することができる。ただ、それだとアルバムのアートワークが反映されないという話だった。ベストなのは、iTunesから、ウォークマン専門の管理ソフトであるMedia Goにライブラリーを移行することであり、それはワンタッチででき、その場合はアルバムのアートワークもデバイスに反映されるということだった。ところが、実際にやってみると、確かにiTunesからMedia Goへの音源移行自体は簡単にできるものの(ファイルが移動するのではなく、iTunesのライブラリーはそのまま残り、Media Goに紐付けられたような状態になる)、アルバムやアーティスト名等が正しく反映されない不具合がかなり広範に発生することが判明した。これは非常に気持ちが悪い。
その結果、何のことはない、結局音源を一から登録し直すはめになった(笑)。まあ、iTunesの時代に、CDを取り込む際のファイル形式や音質がバラバラだったし、ライブラリがだいぶ散らかった状態になっていたので、良い機会かと思って。それで、12月の中旬くらいから、執筆・編集仕事のかたわらで、音源の取り込み作業をしこしこと続けてきたわけである。そんな折、トラブルが発生! 若干ヒビの入っていたCDがあり、一部の曲は読み取り可能だったので、無理やりドライブに挿入して音源を取り込んでいたのだが、突然すごい音がして、デスクトップPCのディスクドライブがぶっ壊れてしまったのである。CDが粉々になって、ドライブを物理的に破壊してしまったようだ。分解して修理を試みたのだけれど、治らなかった。これ、店に修理に出すと非常に高くつく恐れがあるので、一計を案じて、外付けドライブを購入することにした。まあ、安物でもよかったんだけど、1万円ちょっとするパイオニアの少々高級なやつをチョイス(下の写真)。たぶん、元々デスクトップに付いていたドライブよりも、高性能だと思うので、まあ良かったのではないか、と。読み取りの精度が高いので、今までだったらエラーが生じていたようなディスクでも、正確に読み取れたりして、かえって良かったかなと満足している。
ところで皆さん、iTunesって、アルバムのアートワークがしかるべく表示されないことが多いと思いませんか? まあ、私の聞いている音楽がマイナーだからというのもあるかもしれないけれど、印象では、ライブラリーの3分の1くらいしかジャケ写が表示されないような感じだった。その点、Media Goは良いですよ。印象では、アルバムの7割くらいは、何らかのアートワークが付いてくるような感じだ。でも、やはりないものはないし、アルバムのオリジナルのジャケットじゃない写真が表示されたりすると、これまた非常に気持ちが悪い。私にとっては、音楽プレーヤーをシャッフル再生して、「この曲は誰の何て曲かな?」ということをチェックしたり、その際にアートワークを見て、「ああ、あんなアルバムだったな」ということを再確認するのが、非常に重要なのである。そんなわけで、今回Media Goで音源を登録するのに合わせて、アートワークがしかるべく表示されていない作品については、自分でジャケ写をスキャンして登録するという作業を、並行してやりました(笑)。
で、その鬼のような音源およびジャケ写取り込み作業がこのほどようやく完了し、それをウォークマンに転送して聴き始めたところである。結局、今回構築したライブラリーは、約1,700枚のアルバム、約3万曲、約130GBあった。これを睡眠なしでぶっ通しで聴いても、全部聴き終えるのには2ヵ月くらいかかるようである。現実には、自分が1日に音楽を聴ける時間は、往復の通勤の1時間半ほど、入浴時の30分ほど、寝る前の30分ほどと、2~3時間が精一杯ではないだろうか。となると、このライブラリーを通しで1回聴くだけで、2年くらいかかる計算になる。他方で、自分がン十万円だか、ン百万円かけて積み上げてきたライブラリーが、豆粒のようなmicroSDカード1枚に全部収まるのかと考えると、さすがの私も少々微妙な心境になる。
それにしても、PCの画面で、すべてのアルバムのアートワークがずらりと並んでいるのを見るのは壮観なのだが、アーティスト名のABC順になるので、最初に来るのが1910 Fruitgum Company、その次に来るのがABBAというのが、どうにも(笑)。R&B中心のクールなライブラリーを作ったはずだったんだけどな。それで思ったんだけど、ABBAってグループ名、こうやってABC順に並べられた時になるべく上に来るように、こういう名前にしたのかな?
ちなみに、私が上述のように全ライブラリをシャッフル再生するという聴き方は、古い音楽についての話である。1970年代くらいまでの、ロックンロール、R&B/ソウル、オールディーズ、古典ロック、モダンジャズなどである。それ以外の、Jポップや、1980年代以降の洋楽は、単品として選択して聴く。したがって、私がポータブル音楽プレーヤーを選ぶ時のもう一つのポイントは、全曲シャッフルのジュークボックス的な聴き方と、今これを聴きたいと選んで聴く聴き方を、両立してくれるものはないか、という点である。実は、iPodのデフォルトの音楽再生アプリでは無理だが、iOSでは解決策もあった。3年ほど前にこちらのブログ で書いたことを、部分的に引用すると、
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私は携帯音楽プレーヤーを主に全曲シャッフルという用途で使用しているのだが、時々特定の作品を聴きたいこともある。しかし、いったん特定の作品を選んで聴いてしまうと、シャッフルがリセットされてしまい、とても気持ちが悪い。iPod Touchや、新型のウォークマンなど、最新のデバイスではそのあたりの問題が解決されているのではないかと期待したものの、売り場でメーカーの人に訊いても「それは無理です」と言われ、結局シャッフルと特定作品のピンポイント再生の併用は諦め、iPod Touchを購入した。
しかし、最近になって、ひらめいた。iPod Touchは、iPhoneと同じように、各種のアプリをダウンロードできる。iPod Touchに備え付けの音楽再生プレーヤーとは別に、もう一つ音楽再生アプリのようなものをインストールすれば、基本はシャッフル再生で利用しつつ、その新プレーヤーで特定の作品をピンポイント的に聴くこともできるのではないか? そう思って、それを可能にしてくれそうなアプリを、色々と物色してみた。そしたら、見付かったのである。
問題のアプリは、EZMP3 Player と言い、こちら からダウンロードできる。なお、簡易版は無料だが、それだとバナー広告が出てうっとうしいので、私は250円を払って上位版をインストールした。このアプリのミソは、アップルの音源管理ソフトであるiTunesとは別枠で、PCに音源を取り込み、それをWiFiでiPodやiPhoneに飛ばせるという点だ。iTunesとは別枠なので、これで自分の聴きたくなった作品をピンポイント的に聴いても、iPod Touch純正プレーヤーのシャッフルは一時停止のまま生きているわけだ。
私にとっては、夢のようなアプリである。私の人生の最大のこだわりポイントを一笑に付した、あのヨドバシiPod売り場の兄ちゃんに、見せびらかしてやりたい気分だ。
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残念ながら、今回導入したNW-A17はiOSやアンドロイド機ではないので、デフォルトとは別の音楽再生アプリをインストールして、云々ということはできない。ただ、こちらの記事 などに見るように、ソニーのスマホであるXperiaがハイレゾスマホと化し、実質的にウォークマンと同等の音楽プレーヤー機能を備えるようになっている。したがって、別途Xperiaを購入し、単品で聴きたいもの、ハイレゾで聴きたいものは、スマホで聴けばいいというのが、私の下した結論である。結局、私は2014年もスマホを導入できないまま年を越してしまったが、2015年5月頃にスマホのSIMロック解除が義務付けられるらしいので(スマホに関しては、コスト面と、ロシアでも使いたいという思惑から、SIMロック解除を待っていた)、5月以降に発売されるであろう新型のXperiaに期待し、それを待ちたいと思う。
ウォークマンに関しては、特に北米あたりでは、ガラパゴス的なものとして、冷笑的に見られているような風潮もあるようだ。世界的には、Xperiaの立ち位置は、微妙かもしれない。しかし、自らが構築してきた音楽ライブラリーとともに生きるということを最優先し、考えに考え抜いた末に私が選んだ解が、これだった。2015年からは、これで行ってみたい。ソニーの「変わり身」の危険性が、怖いのは事実だが(笑)。
(2015年1月12日)