30年前の修士論文と再び向き合って

 6月28~29日に札幌の北星学園大学で比較経済体制学会第65回全国大会が開催された。今回私は自分の発表こそしなかったが、上垣彰会員の「末期スターリン体制における計画経済の挫折 1946-50:レンド・リースの遺産、対独賠償、マーシャルプラン」という報告の討論者を務めた。

 私が同報告の討論者に選ばれたのは、テーマに関する見識が深いからというよりは、消去法的な人選だったのだろう。今の我が学会で、こうしたソ連経済史を専門とする人は少ないし、しかもプログラム終盤の日曜の夕方ともなると、途中で切り上げて帰ってしまう人もいる。専門外ではあるが、札幌在住で大会組織委員でもあり、最後まで確実に残っているであろう服部あたりに討論させようというのが、プログラム委員会の判断だったのではないかと思う。

 しかし、実は私には上垣報告のテーマに、心当たりがまったくないわけでもなかった。1995年に青山学院大学に提出した修士論文が、「冷戦発生過程のソ連における資本主義論争 -復興融資を核心争点として」というもので、対象となる時代や問題意識が重なるからである。大会終了後にプログラム委員に訊いたら、案の定、私の修士論文のことは知らず、私を選んだのは窮余の策だったとのことだったが、結果的に悪くない人選だったことになる。

 私の修士論文の論旨は、ソ連では戦中から、エヴゲーニー・ヴァルガ所長をはじめとするソ連科学アカデミー世界経済・世界政治研究所のスタッフらにより、「戦後に米国は過剰生産に直面し恐慌の危機に陥ることが確実であり、それを回避するために米国は戦災国に寛大で大規模な復興融資を提供せざるをえず、ソ連はそれを受け入れて壊滅状態の国土と経済を再建すべきだ」という論陣が張られたものの、冷戦への突入と軌を一にするように、結局ソ連は融資調達の可能性に見切りを付け独力での再建に向かっていった、というものである。私は修士論文で東西冷戦を経済の観点から再考することを試みようとしていたものの、適切な切り口が見付からず思案を重ねていたところ、指導教官の山本満先生より、ソ連にヴァルガという異端派のエコノミストがおり、彼に焦点をあてたらいいのではないかとの示唆をいただき、それに飛び付いた結果として上記のようなテーマとなった。

 この論文の資料収集のため、私は1994年夏に半月くらいモスクワに滞在し、レーニン図書館に通い詰めた。1940年代にソ連中央で出た経済および時事問題の主要雑誌には、すべて目を通したと思う。収集した資料を読み込み解析を進めるのは並大抵の苦労ではなかったが、毎日ドトールのLサイズのアイスコーヒーを飲みながら、バッキバキの目をして必死に取り組んだ。論文執筆は遅れ、当初の指導教官だった山本満先生が退官してしまうという誤算はあったものの、袴田茂樹先生に指導を引き継いでいただき、どうにか1995年9月に論文提出にこぎ着けた。

 全身全霊を傾けて完成させた修士論文だったものの、やり切ったという思いとは裏腹に、「手応え」は得られなかった。というのも、ヴァルガというテーマを推薦してくれた張本人である山本満先生に論文をお送りしたものの、あまり芳しい反応が得られなかったからである。論文準備の段階で相談に乗っていただいた富田武先生にもお送りしたところ「面白い」と褒めてくださったり、あるいは先輩の上野勝男さんより「短縮してジャーナルに投稿しなさい」という実践的なアドバイスをいただいたりはしたものの、何しろ当時の私は世間知らずで内気であり、自分の研究を積極的に売り込むという行動を起せなかった。思い入れが強かっただけに、いつしか自分にとり修士論文は黒歴史のようになっていた。

 だが、今回の学会で上垣報告にコメントするに当たって、封印したような格好になっていた30年前の修士論文を、否応なしに読み返すことになった。そうしたところ、「あれ? 思ったより悪くないぞ」というのが、率直な印象だった。もちろん、30歳の時に、我流で書いた論文なので、未熟で粗削りであることは否めないが、論旨は説得的ではないかと思う。論文を完成させてから30年もの年月が経ち、その後に学会では研究も進んでいるはずなので、今さらジャーナルに投稿したり同テーマの研究をさらに極めようとは思わないが、これはこれで若き日の一つの研究成果として胸を張っていいのではないかと、心境が変わった。この機会に、修士論文をPDFで公開することにする。そんなわけで、自分の心の闇の中にうずもれかけていた修士論文に、再度向き合うきっかけを与えてくれた上垣彰先生に、感謝したい。

 そう言えば、修士論文を書き終えた後、1995年12月には、モスクワ市内で、論文の主題であるエヴゲーニー・ヴァルガ氏ゆかりの聖地を巡ったりしたものだった。以下はそのフォトギャラリー。

ノヴォデヴィチ修道院墓地にあるヴァルガの墓

レニングラード大通り11にある、かつてヴァルガが住んだ部屋がある建物

モスクワ南部にある「アカデミー会員ヴァルガ通り」
普通の団地街だったが

(2025年6月30日)

我が10年パスポートに悔いあり

 個人的なことながら、10年使ったパスポートが、この4月28日で切れることとなった。古いパスポートをVOIDにし、新しいパスポートを申請したところである。

 それにしても、自分の過去10年の国際活動を振り返ってみると、前半と後半で様変わりしたということを実感する。前半の5年間は、前の所属先であるロシアNIS貿易会(現ROTOBO)での調査出張を中心に、年に3回くらいは外国に出かけていた。しかし、後半の5年間は、コロナ禍、ロシア・ウクライナ戦争、そして個人的には大学への転職もあり、外国渡航をめぐる環境が一変した。

 そこで、改めて自分の2015~2025年の10年パスポートをめくりながら、10年間の海外渡航状況を下図のとおりグラフにまとめてみた。なお、たとえば月曜の昼にA国に入国し翌火曜の昼に出国したら、正味のA国滞在日数は1日だが、面倒なので月・火の2日間滞在とカウントすることにした。ある日にA国を出国しB国に入国したような場合、両方とも1日とカウントするので、厳密に言えば合計日数は私が日本を離れていた日数とは完全には一致しない。トランジットは滞在とは見なさない。たまたま私のパスポートが4月始まりだったので、暦年ではなく年度で示すことにする。

 さて、グラフをしみじみと眺めながら、改めて自分の10年間の海外での足跡を総括してみると……。

 さあ、新たな10年パスポートには、どんな活動が記録されていくだろうか? それはそうと、日本も、外国も、最近は出入国時にスタンプが押されないことが増え、今回のように過去の行動を振り返ったりする際に不便なので、個人的には不満だ。

(2025年5月18日)

新生活の春に食生活も変えてみようかと

 4月は新年度を迎える月なので、色んなことが始まったり切り替わったりするものだが、個人的にも目下たまたま色んなことを始めたり変えたりしつつあるところである。その一環として、食生活を大きく変えようとしている。

 私の朝食の習慣は、これまで時代とともにかなり大幅に変わってきた。20年くらい前まではシリアル+牛乳。それが、どこかで「朝食抜き健康法」みたいのに触れて、朝は何も摂らない生活に変わった。しばらくすると、スムージー的なものだけいただく生活に変わり。そして最近は、大豆とひじきの煮物とサバ缶にナッツとスプラウトを載せオリーブオイルをかけて食べるという、要するに炭水化物無しで体に良さそうな食材を寄せ集めて摂るという朝を続けていた。

 しかし、今年の初めくらいだったか、時々観るNHKの「ヒューマニエンス」という番組の再放送で、「“健康寿命” 見えてきた謎のトライアングル」という回の再放送を視聴し、興味をそそられた。この中で、健康寿命に関連して最先端研究を行うワシントン大学の今井眞一郎さんという方が、いわゆる「時間制限食」を提唱されていたのである。要するに、本格的な食事は朝に済ませ、夜はごく軽いものしか口にしないという習慣である。

 その話だけだったら、特に印象に残らなかったかもしれないが、くだんの今井先生は朝から血がしたたるようなステーキで白飯をもりもり食べるらしく、その画像のインパクトがあまりに大きかったので、「こんな食生活もあるのか!」と、強く興味を惹かれたというわけである。そして、何となく近年の自分の食生活のリズムがしっくり来ていなかったので、思い切って時間制限食に移行し、朝はもりもり、夜はごく軽くという生活に変えてみようと決めたわけである。数日前から実践し始めた。

 せっかくなので、私も今井先生のように朝からステーキを食べてみたいが、それはまだ実現しておらず、冷凍食品やレトルトの肉料理で代用している。部屋が匂ったり油っぽくなるのは嫌なので、無臭・無煙と評判のシャープのスチームオーブンレンジ「ヘルシオ」を導入すべきか、検討中。

 さすがに、夜は上掲写真のようにだいぶ寂しくなった。ただ、今井先生は夜に必ず赤ワインをたしなまれるそうで、その習慣もしっかり真似させていただいている(笑)。

(2025年4月30日)

仕事の能率アップ目指しタブレットを新調

 私には、出張に出かける時などに、どうにもしっくり来ないことがあった。移動中および宿泊先で電子書籍や資料を読むために、9.7インチのiPad Proを常に携行してきた。しかし、9.7インチだと、A4の資料はもちろん、B5の資料も、全画面で表示して読むのには辛い。私は同年代と比べて老眼がそんなに酷い方ではないと思うが、それでも9.7インチの画面では、部分部分を拡大をしないと、字が小さすぎて読み辛いのだ。たとえば、私が深くかかわっているROTOBOの『ロシアNIS調査月報』もB5判だが、これも9.7インチに全画面表示すると、ハズキルーペのお世話にでもならないと読めない感じである。電子書籍や資料を読む時に、何度も部分部分を拡大しながら読むのはとても煩雑であり、もっと大きな画面のタブレットが欲しいなと思い始めた。

 もう一つ、我ながらバカみたいだなと思っていたのは、私はこれまで出張に出かける時に、タブレットに加え、Windowsノートパソコンも持ち歩いていたことである。iPadは資料を読んだり映像を観たりするのには良いが、パソコン的な仕事には向かない。もちろん、専用のキーボードを接続すれば、PCライクに使えることは知っているが、WindowsとiOSのギャップもあり、やはり仕事となるとWindowsでなければという発想が、個人的には強かった。ただ、その結果として、出張の荷物は重くなり、空港でのセキュリティチェックも面倒だった。「どうにかしなきゃな」という思いが募ってきた。

 そこで今般、より大型のタブレットを新調したのである。13インチのiPadも検討したが、最終的に選んだのは、韓国サムスン製、14.6インチの「Galaxy Tab S10 Ultra」。買った後に、やっぱり細かい字が読み辛く、「もっと大きな画面にしておけばよかった」と悔やみたくなかったので、思いっ切りデカい画面を選んでみたというわけである。下の画像で、右がこれまで使っていた9.7インチのiPad Pro、左が新調した14.6インチのGalaxy Tab S10 Ultraであり、サイズ差は一目瞭然である。

 Galaxy Tab S10 Ultraは細長い画面が特徴であり、B5の『ロシアNIS調査月報』を表示すると、下の画像のように、上下に余白(というか余黒)が生じてしまうのが、ちょっともったいない感じもする。

 ただ、Galaxyの画面の縦横アスペクト比が細長くなっているのは、おそらくYouTubeをはじめとする映像コンテンツ視聴を意識したものであろう。実際、下の画像のように、YouTubeを表示してみると、Galaxyの画面にピッタリと収まって心地良い。

 今後は、出張にいちいちノートPCを持って行かなくて済むように、上の画像のように、Galaxy Tab S10 Ultra専用のキーボードも揃えた。9.7インチのiPad Proなどと比べて画面も大きいし、これならばほぼノートPCに準じる使い方ができるのではないか。

 まあね、本来なら、SONYのような日本のエレクトロニクスメーカーが、心躍るようなタブレットを発売してくれると、いいんだけど。それが得られない以上、これからはサムスンが我が愛機だ。

(2025年3月31日)

二十余年振りのウズベキスタン・タシケント

 私は、旧ソ連の中でも地理的にヨーロッパ寄りの国のことを主に研究している。中央アジア、南コーカサスへの関心も決して小さくないつもりだが、中央アジアに関しては現地を訪問した経験がきわめて乏しい。あれは確か2001年か2002年だったか、カザフスタンとウズベキスタンに数日ずつ滞在する出張に出かけたことがあったが、中央アジア現地体験はそれのみだった。私は外国出張に出かけると、だいたいこのマンスリーエッセイのネタにするが、いかんせん2003年に本HPを立ち上げてから一度も中央アジアに行っていなかったので、本コーナーでは触れずじまいだったわけである。

 それで、この1月に、ごく駆け足ながら、ウズベキスタンの首都タシケントに出張する機会があった。そこで、本来なら現地の体験につきたっぷりと語ってみたいところだが、多忙につき、ちゃんとした文章を書く時間がない。以下では、手抜きで恐縮ながら、現地で撮った写真に、ちょっとしたキャプションだけ添えて、お目にかけることにする。

ちょっとホテルの選択には失敗した
中心部からだいぶ離れたホテルで、バスタブがあるというから選んだのだが、
実際にはバスタブなど付いていなかった

タシケントの地下鉄の風景
私は知らなかったので切符(というかジェトン)を買って乗ったが、
クレジットカードのタッチ決済で乗れるらしい

ベタですが、バザールの様子

不動産屋などで、ロシア語案内が主流になりがちなのは、
ロシアを逃れ当地に身を寄せる人々の需要ゆえか

知人に連れて行ってもらった、その名も「プロフ」というレストランで食べたプロフ
うまし!

(2025年2月28日)

骨折の街・札幌

 これは不覚だった。1月7日、大学からの帰宅途中、学内の通路で転倒してしまい、その時に左腕を地面に激しく突いて、骨折してしまった。ちなみに、人生初骨折。なお、初めて知ったが、職場からの帰宅途中で起きた事故なので、労災が適用されるそうだ。

 思い返すと、事故当日の出勤時に、大学構内の通路がツルツルに凍結しており、「これは危険だ!」と直感し、授業の締め括りで学生さんたちに、「路面が危険だから気を付けようね」と注意喚起したりしていた。その直後、細心の注意で歩いていたつもりだったのだが、自分自身がすってんころりんしてしまうのだから、マヌケな話である。

 ただ、医者によると、「折れてはいるが、ずれてはいない」ということで、まだしもラッキーだった。また、利き腕の右腕が折れてしまったら、もっと大変だったところ、左でまだ助かった。

 とはいえ、しばらく左手が使えなくなって、普段の様々な行為が両手によって成立しているのだなということを、実感した。たとえば、右手一本では、靴の紐も結べない。困り果てて、訳を言って、マンションのコンシェルジュさんに紐を結んでもらったりした。「女性に靴紐を結ばせて興奮する癖の持ち主」だと勘違いされないよう、包帯姿を見せて必死にアピールした(笑)。

 まあ、私の場合は、しばらく我慢すれば、また両手が使えるようになる。それに対し、戦争で手足を失ったりした人の苦労は、いかばかりのものか。ウクライナもロシアも、戦争によりそんな人たちが数十万人も生み出されるはずであり、生き延びたこと自体は幸運かもしれないが、戦後には大きな困難が待ち受けているはずである。そんなことを、しみじみと考えさせられた。

 ところで、骨折の件をSNSで報告したところ、一部の道民から、「これだから内地の人は…」といった雪国マウント的反応が返ってきた。しかし、私が声を大にして言いたいのは、私は単なる内地人ではなく、「ベラルーシ・ロシア帰りの内地人」であるという点だ。ベラルーシも札幌と同じくらいの期間、雪と氷に閉ざされるが、ベラルーシの3年間で転んだことなど一度もない。冬季のロシア出張でも同様だ。ところが、札幌では以前も一度激しく尻もちをついたことがあったし、今回も派手に転んでしまった。転倒・骨折リスクという観点から、札幌の危険度はきわめて高いというのが、私の結論である。

 とはいえ、個人的に反省しているのは、もっと転倒防止を最優先した靴を履くべきだったという点である。2022年の暮れ、初めて札幌で冬を越すのに当たって、私は下に見るようなビジネスシューズとブーツの中間くらいのものを黒・茶の2色で揃えた。あまりゴツい長靴然としたものには抵抗感があったのだ。私の場合、月に1~2度くらいは東京への出張もあるので、東京あたりで歩いても不自然でない靴を選びたいというのもあった。しかし、これらの黒・茶は、一応雪道用とはされているものの、どうもグリップが効かず危なっかしいというのは、以前から感じていた。今回、その不安が的中してしまったわけだ。

 その反省から、骨折直後に私は、下に見るようなスノーブーツを買い求めた。もう転ぶわけにはいかない。それに、しばらく靴紐が結べず、そう何度もコンシェルジュさんに結んでもらうわけにもいかないので(笑)、紐なしでスポっと履けるものを選んだ。

 考えてみると、私がベラルーシの3年間で一度も転ばなかったのも、履いていた靴が良かったのかもしれない。ベラルーシ駐在1年目、「冬用の靴を買わねば」と訪れたミンスクのTsUM百貨店で、地元「ベルウェスト」社の靴を2足買い、とにかくそれが全然滑らなかったのだ。うち1足が、汚くて恐縮だが、下の写真のようにまだ手元に残っている。

(2025年1月31日)