個人的に、今年度はロシア北方地域の調査事業を抱えているので、9月と10月に現地調査に出かけ、結局この「マンスリーエッセイ」でも年内はその土産話に終始することとなる。
ロシアの北方諸地域、シベリアなどでは、森の恵みが名物になっている場合が多い。土産物売り場を覗いてみると、ハーブティーが陳列されているのを、よく目にする。その中で、「イワン・チャイ」と銘打った商品が多いことに気が付いた。
最初は、「イワン・チャイ」というブランド名か、あるいは製法か何かなのかと思った。しかし、後日調べてみたところ、イワン・チャイというのは植物の名前であり、ロシアではそれを乾燥させたものが定番のハーブティーになっているということを知った。植物の名前に最初から「お茶」を意味する「チャイ」がついているというところが、ややこしい。
下の写真は、右側はカレリア共和国で買ってきたイワン・チャイ(ベリーのフレイバー付き)、左側はシベリアのクラスノヤルスクで買ってきたイワン・チャイと「サヤン茶」の詰め合わせである。
ロシア語でイワン・チャイ(Иван-чай)と呼ばれる植物は、北半球に広く分布する多年草の植物であり、日本語では「ヤナギラン」、英語では「fireweed」と呼ばれる。下の写真に見るとおり、マゼンタ色の鮮やかな花が咲く。
なお、ロシアではイワン・チャイを使ったハーブティーを、「コポリエ茶」または「コポルカ」と呼ぶらしい。最初にイワン・チャイを摘んでお茶を作った場所が、現レニングラード州のコポリエ村だったということにちなむ由である。
秋にロシアで買ってきたイワン・チャイをちょっとだけ飲んでみたが、色・味ともに意外に濃いものの、エグさのようなものはなく、飲みやすい。カフェインが含まれていないそうなので、夜のリラックスタイムなどに向いているのではないか。イワン・チャイはビタミン・ミネラルが豊富で、免疫力アップなど、非常に健康に良いとされているようだ。ちょっと調べたところ、日本のネット通販などでも購入可能なようなので、ご興味のある方はぜひどうぞ。
(2019年12月25日)
9月と10月にロシア北方地域を訪問して現地調査を行い、現地の食文化について関心を抱いたので、マンスリーエッセイでは3ヵ月連続でそのネタになる。今回は、「シベリア料理」について考察してみたい。そもそも、「シベリア料理」というジャンルは存在するのだろうか? あるとすれば、それはどんな料理か?
東シベリアの中心的な都市であるクラスノヤルスクで、明確に「シベリア料理」をうたった「N.G.ガダロフ」というレストランを見付けたので、そこで食事をしてみた。なお、ニコライ・ゲラシモヴィチ・ガダロフという人物は19世紀末に当地で活躍した豪商のようだ。店構えは上の写真に見るとおりであり、開店自体は2007年と比較的新しいものの、品が良く、かつての貴族文化を感じさせるような店だった。
まずは、「4種類の魚の商人風ウハー(スープ)、ジャガイモのパイ付き」という品をチョイス。サリャンカも「商人風」となっており、ガダロフ家の日常にあったはずの豊かな食卓を再現したものなのだろう。
メインには、仔牛のビーフストロガノフを。ビーフストロガノフは、日本ではご飯にぶっかけて食べがちだが、ロシアではマッシュポテトと食べることが多い。さすがはクラスノヤルスク随一のレストランであり、その辺のカフェや食堂で食べるものと違って、繊細な味付けだった。
というわけで、レストラン「N.G.ガダロフ」の全体的な感想としては、19世紀の辺境で財を成した豪商の豊かな食卓というイメージが上回っており、ペリメニ(私は食べなかったが)や魚料理がシベリアっぽいとは感じられたが、「これぞシベリア料理」という実感を得るには至らなかったというのが正直なところである。
さて、次にご紹介したいのが、やはり東シベリアのイルクーツク州を訪問した際に、バイカル湖の観光特区に出向き、そこで特区の事務局の方に案内していただいた「プローシルィ・ヴェーク(前世紀)」というレストランである。バイカル湖ビューの小洒落たお店であり、私の行った時はもうシーズンオフだったので客は少なかったが、夏には中国などからの観光客で賑わっているのだろう。
やはり、世界一の湖バイカル湖に来たからには、当地の淡水魚を食してみたいと思うのが人情であろう。そこで、まず魚をムース状にしたスープから。生臭さなどは特になく、シンプルな塩味でふんわりとした食感に仕上げられている。
そして、メニューを見たら、「バイカル湖の魚のシャシリク(串焼き)」という品があったので、それを選んだ。魚そのものは淡泊なので、添えられているスパイシーなソースで味を調整する。ちょっと残念なのは、単に「バイカル湖の魚」とされているだけで、具体的に種類とかが書いていないことである。その日に手に入った魚で作っているので書いていないのかもしれないが、日本みたいに刺身の盛り合わせの中身を短冊とか口頭で説明してくれるのに慣れている身からすると、「具体的に何という魚?」と分からないのは、やや物足りなく感じる。
現時点で私が受けている全般的な印象では、「シベリア料理」という確固たるものが確立されているような感じはしない。モスクワあたりでも、たとえば「シベリア・レストラン」をうたう「オムリョーヴァヤ・ボチカ」(オームリの樽という意味。オームリは淡水魚の名前)という店があったりもするが、ここも淡水魚の名を冠してシベリア風情を醸しているだけで、メニューは独自なのではないか。こちらの解説などを読むと、シベリア料理というのは、定番的な料理というよりは、むしろ森や湖がもたらす食材のイメージが強いのではないかという気がする。野生動物の肉、淡水魚、木の実、ベリー、ハーブなどがそれである。上の写真は、クラスノヤルスクの空港にあった食品店であり(ビーバーのオブジェが目立つが、その肉製品もある)、私には前出のN.G.ガダロフのような小洒落たレストランよりも、この方がまさに「シベリアの食」という感じがするのである。
ところで、「シベリアの料理と言えば、ペリメニがあるではないか?」と思われる方も多いだろう。実際、N.G.ガダロフでもペリメニを名物料理として推していた。しかし、今回ウィキペディアなどで調べたところ、ペリメニのルーツはフィン・ウゴル系民族にあるということであり、ロシアでフィン・ウゴル系民族は主にウラル、欧露北部、ヴォルガなどの地方に分布しているから、今日我々のイメージするシベリアとは地理的にずれていることになる。私はペリメニは東から西に伝わったものだとイメージしていたが(満州の餃子が伝わったなどという俗説もある)、どうもフィン・ウゴル系民族からロシア人に伝えられ、それがロシア人の西進とともにシベリアにも広がって、シベリアでは特に愛され独自の発展を遂げたというのが真相ではないかという気がしてきた。以前、ブログに「ウドムルト料理を体験」という記事を書き、「ロシア料理によくある水餃子『ペリメニ』は、ウドムルトでも名物」などと書いてしまったが、実はフィン・ウゴル系のウドムルトの方が元祖に近かったわけである(上掲写真参照)。
(2019年11月25日)
先月のエッセイでも述べたとおり、今年度私はロシアの北方地域の経済動向を調査する事業を抱えており、9月の北西連邦管区の現地調査に続いて、10月には極東および東シベリアの調査に出かけた。極東・東シベリアで3都市訪問した中で、サハ共和国ヤクーツクについては、すでに「極寒とダイヤと馬文化のサハ共和国ヤクーツク」というコラムを書き、出張の目ぼしいこぼれ話は、もうそちらに出してしまった。本エッセイでは、前出コラムともだぶるが、サハ共和国の食事と馬文化に限定し、こぼれ話の続きを簡単にお伝えすることにする。
ヤクート人(自称サハ)は、チュルク系の民族であり、先月のエッセイで取り上げたフィン・ウゴル系とは系統が異なる。ただ、2ヵ月連続の北方地域への出張で、すっかりエスニック料理づいてしまい、ヤクーツクでもぜひヤクート料理を食べてみたいと考えた。調べたところ、「マフタル」というレストランが雰囲気もあり一番良さそうだったので、そこを訪れてみた。
前菜に野菜と魚のサラダを選んだのだけど、驚いたことに、凍った状態だった。これがサハの名物料理なのだそうだが、凍ったサラダというのは、個人的に初めて食べた。酷寒地域なので、温かい食べ物を好んでもよさそうなのに、あえて凍った料理を食べるとは、ちょっと不思議である。
これは魚スープの「ウハー」。事前にはあまりイメージがなかったのだが、サハ共和国ではかなり魚が食べられているようだ。これは川魚だろうか、ちょっと生臭さを感じた。普段ロシアであまりウハーを注文しないので、ロシア料理の普通のウハーとの違いは良く分からなかった。ピロシキ的なものがオマケで付いてくる。
そしてこれが、前掲のコラムで触れた仔馬ステーキ。改めて語っておくと、メニューの中で、秋が旬と思われる「ジェレビャーチナ(жеребятина)」という食材を使った一連の料理が、プッシュされていた。私はその単語を知らなかったので、スマホで検索してみたところ、出てきたのは馬の画像。「なるほど、馬肉のことなのだな」と理解し、そのステーキを注文したわけである。供されたステーキは、とてもジューシーで柔らかだった。しかし、後でちゃんと調べてみたところ、ジェレビャーチナというのは、馬肉の中でも仔馬の肉だということが判明。仔馬を食べるとは、むごいことをしたかなと、ちょっと後ろめたくなってしまった。仔羊や仔牛の肉というのはよく聞くが、仔馬の肉というのは日本ではまず馴染みがない。仔馬は、生後半年くらいが一番美味しいらしく、春に生まれることが多いと思うので、ちょうど秋頃が旬なのだろう。現地の人に訊いたところ、仔馬の肉は美味なだけでなく栄養にも富み、贅沢品の部類に属すようだ。
ヤクーツク市内の市場も視察してみたが、やはり今が旬ということらしく、上の写真のように、精肉売場ではジェレビャーチナが陳列されていた。
というわけで、レストランでのいきなり仔馬ステーキの一件もあり、サハ民族と馬との繋がりということについて、認識を新たにしたわけである。サハ共和国はきわめて広大な領域を誇るが、その中でもヤクーツクを中心としたエリアが、伝統的に馬の飼育業が盛んということのようである。
考えてみれば、上に見るように、サハ共和国の紋章にも馬が描かれている。馬上の騎士が高らかに旗を掲げる図柄であり、シシキノ村で発見された洞窟壁画から採られたものである。
そんな具合に、サハ民族と馬との繋がりについてしみじみ考えながら、ヤクーツクの街を歩いていたところ、あるキオスクで、馬カレンダーというものを見付け、購入した。ヤクート語で書かれているので、詳細は不明だが、どうもサハ共和国内で飼育されている色んな品種の馬を紹介したものらしい。駄目押しで、サハ共和国の馬文化の奥深さを、思い知らされた。
(2019年10月31日)
今年度私は、ロシアの北方地域の経済動向を調査する事業を抱えており、この9月にロシア北西連邦管区のコミ共和国、カレリア共和国、アルハンゲリスク州で現地調査を行ってきた。コミとカレリアは、現実にはロシア人の方がずっと多数派であるが、一応はそれぞれコミ人、カレリア人というフィン・ウゴル系少数民族を主体とした民族地域ということになっている。なので、個人的には、一般的な経済情勢についての関心に加えて、少数民族の文化事情にも興味津々だった。もちろん、滞在日数はそれぞれ2日ずつくらいで、文化の神髄に触れるなんてのは不可能である。こういう時は、手っ取り早く、民族料理を食べるに限る。そんなわけで、コミとカレリアにおいて、民族料理店はないか、調べてみた。
カレリア共和国国民博物館に展示されていたフィン・ウゴル系民族の分布図。
興味深すぎて、一生見ていたいほどである。
コミ共和国の首都スィクティフカルでは、ネットなどで調べた限り、どうも「これぞ民族料理店」というものが見付からなかった。以下コミ編はブログに書いたことの焼き直しだが、現地の面談相手に尋ねたところ、「スパスキー」というレストランでコミ民族料理を出しているということだったので、昼食に出かけてみた。
この店、ソヴィエツカヤ通り22番にある。この通りは昔スパスカヤ通りと言って、街はまさにこの通りから始まったという由緒ある界隈で、それゆえに店もスパスキーと名乗っているわけだ。なお、店の入り口が2つに分かれており、右の方が安いカフェであり、左の方がくだんのスパスキーなので、ご注意いただきたい。また、昼時は安価なランチメニューが主体のようで、コミ料理を含む正式なメニューは言わないと出てこない。
さて、メニューを眺めてみたところ、3ページくらいにわたって、コミ民族料理が掲げられていた。広大な針葉樹林が広がるコミ共和国だけに、森の幸と、トナカイ・ヘラジカの肉が主な食材となっているようだ。ただ、店員によると、実際にはヘラジカの肉は未入荷ということだった(昼時だったからか、あるいは季節の関係もしれないが)。
そんなわけで、まず選んだのが上に見る「コミ風マッシュルームスープ」という品。際立った個性はなく、ロシア料理にもありそうな雰囲気だったが、マッシュルーム、ジャガイモ、ニンジンなどが入っている優しい味のスープだった。
そして、メインは、店員に勧められた「イジマ風の肉」という品(イジマというのはコミ共和国にある村)。スープ、メインと壺入り2連発となってしまい、インスタ的には減点。トナカイの肉をシチュー風に煮込んだ料理である。上に赤い木の実(名前は不案内)が載っており、全体としてもやや酸味がかった味だった。トナカイの肉は細かく切られているが、やや硬め。茶色い見た目はビーフシチュー風ながら、日本の美味しいビーフシチューに比べると、何か一味足りない感じがあり、私は塩を振って食べてしまった。
余談だが、店のBGMが、現代ポップスながら、明らかにロシア語とも英語とも違う言葉であり、「おお、これがコミ語なのか!」と感動しかけた。しかし、良く聴いてみると、ラテン系の言葉に思えてきて、「ペルケ」なんてフレーズが出てきたから、たぶんイタリア語だったのだろう。せっかくコミ料理を売りにするなら、内装、BGM、店員のコスチュームなどもそれ風にすればいいものを、現代イタリアポップスとはまったく意味不明であり(店主の趣味か?)、ちょっと残念に思った。
さて、カレリア共和国の首都ペトロザヴォツクにおいては、ネットで「カレリア料理」と検索したところ、決定版と思われる店が、簡単に見付かった。街の中心部にある「Карельская Горница(カレリスカヤ・ゴルニツァ)」という店である。上の写真に見るとおり立派な店構えであり、内装やBGM、店員のコスチュームなども民族風で、申し分ない店だった。
ここでも、まずはスープを注文。写真では分からないが、中には鮭の細切れがたくさん入っている。率直に言うと、日本にもありそうなクリームスープであり、あまり強烈な個性はなかったが、逆に言うと日本人の口にもばっちり合う味だった。なお、スープの後ろに見えるのは「カレリア風蜂蜜酒」という飲み物であり、たぶん実際には酒というよりソフトドリンクで、クワスをハチミツレモン味にしたような感じだった。
そして、メインに選んだのが、ヘラジカと豚の合挽の肉団子。濃厚なソースがかかり、やはり酸味のある赤い木の実が載っていた。コミでヘラジカの肉を食べそこなったので、そのリベンジだったが、噛めば噛むほど旨味が出てくるような感じの肉だった。いかにも森の民の食文化を味わったという気分になれ、大満足だった。
こうやって比べてみると、民族料理店はコミのスィクティフカルに対し、カレリアのペトロザヴォツクが圧勝であった。もしかしたら、コミのどこかには本格的な民族料理店があるのかもしれないが、少なくともスィクティフカルを訪れた外国人が見付けて気軽に訪れることができるようなところは、なさそうである。それに対し、ペトロザヴォツクのカレリスカヤ・ゴルニツァでは、一見の外国人が一時でもちゃんとカレリア情緒を味わえる。カレリスカヤ・ゴルニツァでは、上の写真に見るとおり、エアコンを木材で隠したり、天井の空調口にも丸太の模様を描いたりと、民族情緒を損なわないよう配慮が行き届いていて、感心した。
なお、私のフィン・ウゴル系民族料理体験レポートとしては、以前に書いた「モルドヴィアで熊の足を食す」、「ウドムルト料理を体験」もあるので、よかったらそちらもご参照ください。
(2019年9月28日)
個人的なことながら、ちょっとした事情が重なり、この7月、8月は、買い物をたくさんした。特に、デジタル小物などを、多く買った。家の中がケーブルやら取説で散らかりまくっている。
ちなみに、ちょっとした事情の一つというのが、4年ほど使ってきたスマホの調子が悪くなったことだ。そのスマホ購入時の談義も、本マンスリーエッセイで、「スマホ購入とSONYな日々」として披露したことがある。吟味に吟味を重ねて購入した本機だったが、表面のコーティングが剥がれてカメラの画質が低下したり、最近ではタッチパネルがまともに反応しなくなったりと、不具合が増えてきた。そこで最近、スマホをサブ機に切り替えた。そのサブ機は、1年半ほど前に購入したもので、海外出張に持って行くことを主眼に買ったデュアルSIM・デュアルスタンバイのスマホである。これについては、ブログに書いたことがある。
私が4年前に選んだSONYのスマホは、当時はまだ珍しかったハイレゾ対応機であり、スマホの主目的の一つが音楽プレーヤーである私にとっては、必然性のあるチョイスだった。ただ、タッチパネルの不具合などで、使い物にならなくなってしまったものはいかんともしがたく、新たにメイン機に昇格したデュアルSIMのレノボ君に、音楽プレーヤーとしても頑張ってもらう他はない。そこでネックとなったのが、イヤホンである。私はこれまで、音楽を聴くのにSONYスマホとSONYウォークマンを併用しており、イヤホンはウォークマン純正のもので、両者に兼用できた。しかし、それはノイズキャンセル対応の特殊な形状であり、SONYスマホには合うものの、デュアルSIMのレノボ君では使えないのだ。今後、SONYウォークマンとデュアルSIMレノボの二刀流で行くとすると、新しいイヤホンの購入が必須となる。そこで、最近話題の、SONYのワイヤレスノイズキャンセリングイヤホン WF-1000XM3というのを買うことにしたのである。ワイヤレスならジャックの形状とか関係ないので(一般の方にはどうでもいい込み入った話で、申し訳ない)。
とまあ、これはほんの一例で、私がこの夏にやたらと色んな買い物をする羽目になったのは、あくまでもいくつかの個人的な事情が重なったことによるものだった。でも、傍目に見たら、「消費税増税前の駆け込み需要の一環」と思われるかもしれない。実際、もしかしたら自分の潜在意識にも、「もうすぐ増税だから」というようなすり込みが、まったくなかったとも言い切れない。日本の消費を見ると、増税前に駆け込み需要で膨らみ、増税後には反動で売り上げが落ち込むという明確なパターンがある。
それで、良く考えてみれば、ロシアも本年1月1日付で、付加価値税を18%から20%に上げたんだった。ロシアの場合、駆け込み需要とか、反動減はあるのだろうか? 気になったので、ちょっと調べてみた。下の図は、ロシア統計局が発表している商品小売販売高のデータである。売上高の推移(緑の線)を見ると、2018年12月に販売高が急増しており、「すわ、駆け込み需要か!?」と考えたくなる。しかし、ロシアの場合には毎年年末に所得と消費が一時的に急増し、1月に急減するというのが、お決まりのパターンである。実際、2017年の年末にも、まったく同じことが起きている。これは、ロシアでは滞っていた賃金などが年末に支払われるなど、年末に所得増が生じ、それに伴って消費も増えるからだと言われている。そうした季節変動を除外して、トレンド(茶色の線)を見ると、本年初頭の増税の前後で、駆け込み増や反動減は生じていないことが確認できる。
これには、いくつかの原因が考えられる。まず、付加価値税の増税自体が、18%から20%へという、比較的小幅なものであったこと。また、食品、医薬品、子供用品などには、10%の軽減税率が適用されており、その税率には変化がなかったこと。さらに、このところロシアでは国民の所得の伸び悩みとそれに伴う消費需要の低迷が続いており、小売販売高が極端に変動しにくい状況にあること、などであろうか。
ちなみに、ロシアの付加価値税につき、私がこれまで理解しておらず、今回認識するに至った点が一つあった。何となく、日本の消費税と同じように、ロシアの付加価値税も徐々に引き上げられる方向であるように想像していたのだが、実際には上の図に見るように、最初に28%で導入され、これまではそれが引き下げられるという歴史だったのだ。今回18%から20%に引き上げられたのが、初めての引き上げとなる。これはちょっと認識不足だった。
(2019年8月26日)
最近の様々な出来事の中で、京都アニメーションの放火事件は、筆舌に尽くしがたい惨劇だった。心より哀悼の意を表したい。
個人的なことを言わせていただけば、ユーフォは好きな作品だった。私の場合には、アニメにそんなにのめり込んでいるわけではないので、テレビで放送されたユーフォやハルヒを楽しんで観ただけで、それらが京アニの制作だということすら知らなかった。今回の事件が起きて、初めてその存在を認識した次第である。
私の仕事上の関係国であるロシアやウクライナにも、日本のアニメ好きは沢山いる。というか、最近はそれらの国で日本語を学ぼうという学生の主要動機が、アニメやコスプレ好きだから、ということになっていたりする。当然のことながら、ロシアなどでも、京都アニメーションの惨事に心を痛めているファンは少なくないだろう。
そんなことをつらつらと考えているうちに、「ロシアで人気のある日本のアニメ作品って、どんなのだろう?」ということがふと気になって、調べてみた。まあ、選ぶ人の趣味趣向に影響されるところが大だろうが、差し当たり、こちらのサイトに出ていた、「日本のアニメ作品ベスト20」というものをご紹介したい。とりあえずロシア語のままで掲載するが、貴方はいくつ原題が分かるでしょうか?
- Унесённые призраками
- Твоё имя
- Шёпот сердца
- Ходячий замок
- Форма голоса
- Небесный замок Лапута
- Мой сосед Тоторо
- Могила светлячков
- Принцесса Мононоке
- Навсикая из долины ветров
- Сказание о принцессе Кагуя
- Дитя чудовища
- Ведьмина служба доставки
- Босоногий Гэн
- Волчьи дети Амэ и Юки
- Девочка, покорившая время
- 5 сантиметров в секунду
- Призрак в доспехах
- Конец Евангелиона
- Ветер крепчает
正解は、
- 千と千尋の神隠し
- 見の名は
- 耳をすませば
- ハウルの動く城
- 聲の形
- 天空の城ラピュタ
- となりのトトロ
- 火垂るの墓
- もののけ姫
- 風の谷のナウシカ
- かぐや姫の物語
- バケモノの子
- 魔女の宅急便
- はだしのゲン
- おおかみこどもの雨と雪
- 時をかける少女
- 秒速5センチメートル
- 攻殻機動隊
- 劇場版エヴァンゲリオン
- 風立ちぬ
でした。さすがにジブリ勢が強く、ベスト20のうち、11作品がジブリ系。特に目を引くのは10位で、ナウシカがロシアでナフシカーヤ(Навсикая)になってたとは知らなかった。細田守監督作品が3つも入っているのも凄い。
この中で、京都アニメの制作は、5位の「聲の形」だけ。まあ、ランキング自体が、基本的には独自のアニメ映画を対象としており、京アニさんはテレビアニメシリーズとかメディアミックスものに強みがあると思うので、それでここにはあまり登場しないということかと思う。
(2019年7月24日)
唐突だが、ここで私が一番好きなロシア語単語を発表させていただきたい。それは、совместить(完了体)/совмещать(不完了体)という動詞である。カタカナ書きすれば、サヴメスチーチ、サヴメシチャーチということになる。
この動詞の意味は、兼用する、掛け持ちする、両立させるといったところである。今回のエッセイ、画像がまったくなくて寂しいので、せめて動詞の活用表だけでも載せておく。
私はこのサヴメスチーチという動詞を、一つのテーマを色んな仕事に同時並行的に適用するという意味で使っている。私の場合、色んな連載やタスクを抱えているので、そのすべてでバラバラなことをやっていると破綻するのが必定であり、なるべくそれらをテーマ的に関連付け、芋づる式に処理したい。そうやって、複数の仕事が効率良く片付くのが、心地良いのだ。
要するに、言葉は悪いが、ネタの使い回しである。ただし、媒体やタスクに合わせて、少しずつ内容や切り口を変えるようには工夫している。「月報にこのレポートを書いたから、それを一般向けに読みやすくアレンジして、A社用のコラムを執筆してみようか。よし、サヴメスチーチしちゃえ!」といった具合に考えるわけである。そうした要領の良いやり方を表現するのに、個人的にロシア語のサヴメスチーチという動詞が一番しっくり来るので、日頃そのように表現している次第だ。むろん、他人にそう言うわけではなく、あくまでも自分の頭の中だけだが。
せっかくなので、最近の一番の成功例をご披露しよう。それは、「ロシアの観光」というテーマを上手くサヴメスチーチできたことである。自分の編集している『ロシアNIS調査月報』の2019年7月号で、サービス貿易の特集をやることになったので(それ自体が壮大なサヴメスチーチ企画だったのだが)、同号に向け「インバウンド観光促進を目指すロシア」というレポートを執筆した。その内容を一般向けのエッセイにアレンジして、GLOBE+に「ロシアが外国人観光客の受入に本気を出し始めた」を寄稿した。本HPにおける先月のマンスリーエッセイも、「紅葉映えるウラジーミル=スーズダリ」という観光絡みのネタをお届けした。また、YouTubeの「週刊ロシア経済」にも、「インバウンドに強いロシアの地域」という話題を盛り込んだ。さらには、東大駒場の授業でも、ロシアの観光をテーマとした講義を行った。
こうして、ここ1カ月ちょっとの間に、ロシアの観光というテーマで、一気に5つものタスクをサヴメスチーチできたわけで、これはなかなかの快感だった。
(2019年6月25日)
昨日、大学の講義で、ロシアの観光業について解説する機会があり、必然的に、ロシアの定番観光コース「黄金の環」にも言及することとなった。芸がなくて恐縮だが、日本語版ウィキペディアから「黄金の環」についての説明書きをコピーさせていただくと、以下のとおりである。
黄金の環(おうごんのわ、ロシア語: Золотое кольцо(ザラトーイェ・コリツォー))は、ロシア、モスクワ北東近郊にある都市群の名称。古くは、ザリエーシェ(英: Zalesye、露: Залесье)とも呼ばれた。これらの古い都市は、ロシア史、ロシア正教会における精神文化、芸術、建築などにおける源流が形成された地域として重要視される。これらの都市は、11世紀から15世紀末にイワン雷帝が各地を征服し中央集権体制を構築するまで、ロシア諸公国の首都として栄華を誇った。都市自体が野外建築博物館とも言える。12世紀から18世紀におけるロシアの都市に特徴的なクレムリン(城塞)、修道院、大聖堂、教会を擁する。「黄金の環」の都市が観光地として喧伝されるようになったのはソ連時代の1974年のことである。ソ連崩壊後も外国人向けの観光地として整備が進められている。
それで、学生向けに「黄金の環とは何ぞや」ということを説明しながら、「はて、自分自身は黄金の環にどのくらい行ったことがあっただろうか?」と、ふと思った。そこで、改めて自分で確認してみたところ、今のところ踏破率は半分くらいだろうか。黄金の環に属す都市についてはいくつかの説があるようだが、上の地図で、自分が行ったことのある街を紺色で、行ったことのない街を赤で示してみた。
私の場合、ロシア渡航はほとんどが調査出張なので、目ぼしい産業がないような小さな街は訪れる機会が乏しい。ペレスラヴリザレスキーやロストフヴェリーキーは、車で通りかかったことはあるが、停車して観光するには至らなかった。他方、コストロマやイヴァノヴォは、経済力が強くないとはいえ、れっきとした州都であり、これらに行ったことがないのはロシア経済地理オタクの名折れである。まあ、そのうち出向く機会もあるだろう。
ちなみに、黄金の環は、私の黒歴史の1ページにもなっている。あれは、入社2年目の1990年4月、私は所属団体の主催する見本市の事務局員として、初めてソ連モスクワに出張した。見本市参加者の皆さんのための息抜き企画として、ザゴルスクというロシア正教会の聖地のようなところへのエクスカーションの機会が設けられ(その後ザゴルスクはセルギエフパサードに名前を変えた)、事務局の私もそれへの参加が許された。私としては、業務から解放されて遊びに行くつもりだったのだが、やはりエクスカーションに参加した当会の専務理事から、「現地ガイドの通訳をやれ」と言い渡されたのである。まあ、考えてみれば、事務局の一番下っ端の私が通訳をやるというのは、日本の組織論理から言えば当然なのだが、とにかく当時の私はロシア語力が低く、現地ガイドの言っていることは数字くらいしか理解できなかった。現地ガイドが色々難しいことを言っても、「17世紀です」といった日本語を絞り出すのがやっとだった。商社の方々などは、当然私よりはるかにロシア語ができたはずであり、皆さんニヤニヤしながら私のインチキ通訳を聞いておられた。
以下では、実際に行ったことのある黄金の環の街の中から、ウラジーミルおよびスーズダリのフォトギャラリーをお届けする。行ったのは秋だったので、完全に季節外れの紅葉の風景となっているが、ご容赦を。また、写真の説明などは省略させていただき、インスタ風にひたすら写真を並べるだけでお茶を濁す。
まずはウラジーミルから。
続いて、スーズダリを。訪問当日は、あいにくのどんよりとした曇り空だったのが、深まる秋と相まって、それはそれで特有の情感を醸していた。
(2019年5月25日)
そんなわけで、平成という時代が幕を閉じようとしている。個人的に、時流に乗っかるタイプではないし、そもそも年号を(儀典的な目的ならともかく)実用目的で常用することには反対である。しかし、我が人生を振り返った時、偶然にも、平成という時代とともに自分のキャリアが始まったので、その時代の終焉には、人並み以上の感慨を覚える。
勤務先の団体の入居するビルの近影
昭和の末期、私は東京外国語大学外国語学部ロシヤ語学科に在籍し、研究者志望で、外語の修士課程への進学を目指していた。当時は、ゴルバチョフがソ連で進めるペレストロイカが脚光を浴びており、ソ連事情研究は重要性を増していた。しかし、残念ながら当時外語にはソ連政治・経済事情を教える専任教官がおらず、政治および国際関係論の研究を志向する私は行き場を失っていた。
かろうじて語学専門の新田実先生が社会学的な観点から現代ソ連のことを付随的に研究していたので、新田先生のゼミでお世話になり、また非常勤の中村裕先生にも折りに触れてアドバイスをいただきつつも、我流で研究をしているような日々だった。こうした次第で、外語の修士に進んだとしても、研究環境としては多くを望めなかったが(当時は博士課程が設けられていなかったので「先」もない)、無知な上に臆病だった私は、他大学の大学院に進むといった発想を持てず、増して当時は留学などという選択肢はなく、慣れ親しんだ外語の院に進むことしか考えられなかったのである。ちなみに、バブル期だったので、ある銀行から電話がかかってきて、「お願いですからうちに就職してください」などと懇願されたこともあったが、そういうのは無視した。
1989年1月7日、昭和天皇の崩御を、私は高田馬場でのアルバイトに向かう山手線の車内で知った。崩御は早朝のことであり、朝のニュースも見ずに出かけた私は、山手線の車内アナウンスでそのことを知ったのである。小渕官房長官が「平成」という新元号を発表したのは同日14時36分だったということだが、私は働いていたのでそれを生では見ていないはずである。この時は崩御の衝撃の方が大きく、今回とは違って、皆の意識が新元号に集中するということはなかった。その晩は自宅で昭和を振り返るテレビ番組をハシゴ視聴したと記憶する。
今となっては、色んな物事の時系列を、あまり良く覚えていない。あれは、1988年の暮れだったか、それとも1989年の1月だったか、つまり昭和だったのか平成だったのかも定かでないのだが、指導教官の新田先生から、次のようなことを告げられた。社団法人ソ連東欧貿易会というところが、1989年4月に経済研究所を設立するということで、研究員を募集している。君は大学院進学を希望しているが、正直、外語の修士に行っても先は知れており、それよりはむしろ、給料をもらいながら研究を続けられる道を選んだ方が、手っ取り早いのではないかと、そんな話だった。
何とも節操のない話だが、私はこの提案に一も二もなく飛びついた。実は、ソ連東欧貿易会で研究所設立の中心人物だった小川和男さんは、外語に非常勤でソ連経済のことを教えに来ており、私もその授業を受けていたし、そうした縁もあり新田先生に「誰か人材はいないか?」と打診してきたわけである。かく言う私は、元々は国際関係論の志向だったが、その延長上で冷戦体制下の東西貿易、米国の対ソ穀物輸出、経済制裁、政治と経済のリンケージなどに興味を抱き、小川さんの本なども読んでいたのである。後日、授業後に小川さんと大学近くの「FAIRY TALE」というカフェバーで面談し、またソ連東欧貿易会にも面接に出かけ、私の就職があっさりと決まったのだった。ただ、すでに大学院の出願意向を届け出てあったのだが、やめることにしたと教務課に伝えたところ、えらく怒られ、まったく意味のない所定の健康診断を受けさせられた記憶がある。
そんなことはありつつも、1989年(平成元年)4月1日に社団法人ソ連東欧貿易会・ソ連東欧経済研究所が発足し、私は研究所の研究員として社会人の第一歩を踏み出した。もっとも、4月1日は土曜日だったので、社員としての初出社は4月3日の月曜日だったはずである。ちなみに、研究所の設立日の1989年4月1日は、日本で消費税(当初の税率は3%)が導入された日と同じ。というわけで、研究所はこれまで平成という時代とともに歩み、私自身のこれまでのキャリアも平成の世と完全に重なることになる。
入社したところ、給与振込先として、三井銀行の日本橋東支店に口座を開設させられた
合併を経て三井住友銀行日本橋東支店となったが、最近店舗が閉鎖(名目上は残っているが)
さて、ソ連東欧経済研究所は、以前から貿易会の中にあった調査研究セクションの「調査部」を発展的に解消する形で、設立された。研究所設立当時に中心人物だった、小川和男さん、村上隆さんは、すでに鬼籍に入って久しく、今となっては、30年前に研究所が設立されることになった詳しい経緯などは良く分からない。
断片的に聞いた限りの情報では、前年の1988年に開催されたG7サミットが、研究所設立の一つのきっかけとなったようだ。当時、主要先進国はゴルバチョフのペレストロイカに熱視線を送っており、東西関係は大きく変わろうとしていた。1988年6月のG7トロント・サミットに出席した竹下登首相は、ソ連・東欧問題の重要性を痛感し、それに関する情報収集・分析体制の強化の課題が日本政府内で浮上。そうした政府側の意向と、かねてから調査研究体制の拡充を目指していた貿易会の働きかけが上手く噛み合い、当研究所が誕生したということのようだ。私自身は、「花の平成元年入社組」であり、研究所採用職員の一期生でもある。平成元年は、研究所の立ち上げで、我々の貿易会としては異例の5人もの大量採用となった。
その後の私自身の個人史を語るならば、入社後の最初の3年間くらいは、とにかくソ連と東欧が激動した時代であり、それに振り回されて過ぎ去った感じである。就職したとはいえ、まだ大学の世界に未練はあり、1992年に青山学院大学に社会人向けの大学院修士課程が創設されたことから、在職のまま夜間に青学に通って、1995年に修士号を取得した。職場においては、ニュースレターの『経済速報』の編集を手掛けるようになり、当時はエリツィン体制下でロシアの政治・選挙・人事・財閥などの動きが注目を浴びたので、そういった分野を中心に情報発信に奮闘していた。他方で、経済学のテキストなどを買い込み、独学で経済学を勉強したのも、この頃のことである。
次の大きな転機は、1998年4月にベラルーシ大使館に専門調査員として赴任したことだった。これは、自分の意思というよりは、上司に命令されて行かされたものだった。経緯はともかく、これが私にとって唯一の海外赴任経験となり、ある程度現地感覚を掴めたし、多少のロシア語力が身に着いたという意味でも、結果的に糧にはなった。だいぶ時間はかかってしまったが、帰国後の2004年にはベラルーシについての単著を出すこともできた。
ベラルーシの本を出して以降は、個人的にしばらくなおざりになっていたロシア研究を立て直すとともに、壊滅状態にあった貿易会の機関誌『調査月報』の再建と誌面改革に全力を傾注した。ただ、そうこうするうちに、自分の所属する研究所のシンクタンクとしての性格が薄れ、違和感を感じるようにもなった。自分のキャリアの方向性を思い悩む中で、2014年に北大大学院博士課程に入り、2017年12月に博士号を取得した。なお、私の博士課程在籍期間は、奇しくもウクライナ危機と重なっており、この時期には仕事の中でウクライナの占める比率が増えた。
まあ、そんなこんなで、今日に至るという感じである。平成元年に研究所ができ、それと同時に入社したわけだが、「花の平成元年入社組」も、実は皆すぐに辞めてしまい、割と早い時期に、平成元年組は私一人を残すだけになってしまった。次の大量採用の波は1992年に来て、今現在の貿易会は1992年組が中心になって回しているような感じであり、私などは押されっぱなしである(笑)。なお、設立当初は、「ソ連東欧経済研究所」だったが、その後、貿易会の事業対象国と名称の変更に伴い、1992年5月には「ロシア東欧経済研究所」に、2006年9月には「ロシアNIS経済研究所」に改称されている。
こうして平成の時代とともに刻まれてきた自分自身のキャリアを振り返ると、重要な節目であった研究所への就職と、ベラルーシ駐在は、自分自身が切り開いたというよりも、他人から勧められて応じたものだった。実に主体性がなく行き当たりばったりだったと痛感するが、ただ、30年前に新田先生がおっしゃっていたように、当時の外語の大学院に進んだところで、行き詰ることは必定であり、院入試を受ける直前のタイミングで研究所就職の打診を受けたことで、私は救われたのかもしれない。また、研究者として各方面からお呼びがかかったりするようになったのは、ベラルーシ駐在後のことであり、気の進まなかったベラルーシ駐在も、結果的には役立ったのだろう。ただし、自分の日常的な研究の7~8割方はロシアが占めているのに、世の中には「ベラルーシとウクライナの研究者」と認知されることが多くなってしまい、その点は是正していかなければと思っている。
かつて証券マンで賑わった鰻の名店「松よし」だったが、
証券街の衰退とともに客足が鈍り、2018年暮れに閉店した
ちなみに、私の職場は東京都中央区新川であり、最寄り駅は地下鉄の茅場町。ベラルーシの3年間は別として、入社以来ずっと同じ、冴えないオフィスに通勤している。証券街に近く、山一證券ビルもある倒産ストリート=永代通りにオフィスを構える当会だけに、バブルの浮き沈みは結構間近に見てきた。平成の大事件である地下鉄サリン事件では、最寄り駅が現場に。私は昭和の残り香が漂う証券街の街並みが好きだったのだが、最近ではレトロな建物や飲食店などはすっかり姿を消してしまい、地下鉄茅場町駅も大改修工事の真っ最中である。
ところで、ごく私的なことだが、平成の自分史の中では、2006年に今の家に引っ越してきたというのも、大きな出来事だった。実は、我がマンションでは現在、大規模修繕工事を実施中なのだが、工事は年号をまたいで続くらしく、ご覧のとおり足場やシートで覆われた見苦しい状態で改元を迎えるらしい。厳かに令和初日の出でも拝もうと思っていたのに、これじゃ台無しである。
Прощай, Хэйсэй ! Здравствуй, Рэйва !!
(2019年4月29日)
最近、私の勤務先のお菓子女子から、「『おかしのまちおか』という店で、ウクライナのチョコレートを売っていた」という話を聞いた。数日後、実際にそのチョコレートを買ってきてくれた。以前から、ポロシェンコ大統領がオーナーであることで知られるロシェン社のチョコレートが日本でも売られているという話はあったが、「どこそこの店に行くと買えるらしい」といった知る人ぞ知るレベルであり、一般に大量に流通しているという感じではなかった。しかし、「おかしのまちおか」のようなディスカウントチェーン店で売られているということなら、ビジネスの規模として、かなり本格的だろう。
そこで私は、日本の貿易データを紐解き、ウクライナからのチョコレート輸入がどんな感じになっているか、調べてみた。そのデータをグラフ化したのが、上図である。明らかに、2018年に入って、ウクライナからのチョコ輸入が激増している。これは大変だということで、私自身、近所の「おかしのまちおか」に出かけて、店頭調査を行ってみた。諸々の調査結果を、下に見るようなYouTube動画にしてみたので、ご覧いただければ幸いである。
輸入販売会社は、千葉県松戸市にある㈱宮田というところ。なお、その後得た追加情報によると、宮田の輸入したウクライナのチョコレートは、「おかしのまちおか」だけでなく、普通のスーパーマーケットでも売られているらしい。
というわけで、初めての試みとして、YouTube動画を中心としたマンスリーエッセイでした。
(2019年3月21日)
すでにGLOBE+のエッセイ「マトリョーシカと機関銃 武器産業の聖地イジェフスクを訪ねて ロシアの街物語(6)」で、武器産業の話を中心に、昨年のウドムルト共和国の訪問記を記した。改めて確認しておけば、ウドムルト共和国は、ロシア連邦の沿ヴォルガ連邦管区に位置する地域であり(伝統的な地理区分ではヴォルガというよりもウラルに近いのだが)、ウドムルト人というフィン・ウゴル系の少数民族のために設けられている自治単位である。
私は、ロシアの地域経済開発を研究テーマの一つとしているので、現地調査のためにロシアの地方を訪れることが少なくない。ただ、ロシアの地方都市はだいたい同じような雰囲気で、地方ごとの街並みや文化の違いのようなものは、あまり感じ取れない。その点、やはり少数民族地域の方が、その土地特有の魅力を期待できそうである。そこで、今月のエッセイでは、民族文化という観点から、昨年のウドムルト共和国訪問の際に感じたことを、ちょっとだけ追記しておきたい。
養蜂業はウドムルト人の伝統的な生業らしい
結論から言えば、私の訪れたウドムルト共和国の首都イジェフスク、第2の都市ヴォトキンスクでは、ウドムルト民族色をほとんど感じることはなく、普通のロシアの地方と変わらないという印象だけが残った。まあ、共和国の民族構成を見れば、それも当然という気がする。ロシアの少数民族地域にはありがちなことに、ウドムルト共和国における多数派はロシア人の62.2%であり、ウドムルト人は28.0%と少数派。首都のイジェフスク市ではロシア人68.8%、ウドムルト人14.8%、第2の都市のヴォトキンスクではロシア人83.1%、ウドムルト人9.8%となっている。また、ウドムルト人であっても、都市部ではロシア人と混血した人が多く、純粋なウドムルト人には農村くらいでしか出会えないという話を聞いた。結局、私がイジェフスクおよびヴォトキンスクを訪問した際には、「この人はウドムルト人だな」と思えるような顔立ちは、ついぞ見かけなかった。
「クゼバイ・ゲルド記念ウドムルト共和国国民博物館」を見学したところ、上掲写真に見るように、さすがにウドムルト民族の伝統的な民族衣装や生活様式などが展示されていた。なお、クゼバイ・ゲルドという人物は、ソ連時代の初期にウドムルト民族文化の発展に寄与した詩人・文化人ということである。
国民博物館のヴォトキンスク工場と
イリヤ・チャイコフスキーに関する展示
それと同時に、ウドムルト共和国国民博物館の展示には、もう一つの柱があった。それは、ロシア人の主導による金属・武器産業をはじめとする工業化の歴史である。ウドムルト共和国の2大偉人と言えば、作曲家のピョートル・チャイコフスキーと、自動小銃の設計者のミハイル・カラシニコフだろう。どちらも民族的にウドムルト人ではなく、一貫してこの地に生きたわけでもない。作曲家の生涯については、これもGLOBE+の別のエッセイに書いたとおり、父のイリヤ・チャイコフスキーが「ヴォトキンスク工場」の工場長として当地に赴任していた関係で、ピョートル・チャイコフスキーはヴォトキンスクの地に生まれたけれど、ここで過ごしたのは8年ほどにすぎなかった。一方、カラシニコフは、前掲のエッセイに書いたとおり、元々はシベリアの生まれであり、彼の設計した小銃がたまたま戦後イジェフスク工場で生産されることになったため、その結果としてこの地と関係を持つに至ったわけである。
イジェフスクにあったウドムルト土産物店
ハチミツやハーブティーなどが並べられていた
もちろん、イジェフスクやヴォトキンスクといった都市部で、ウドムルト民族色が希薄だからといって、それがいけないというようなことを言いたいのではない(一訪問者としては、ちょっと物足りなく感じたのは事実だが)。ウドムルト共和国という存在は、ウドムルト民族という基層の上に、ロシア人による金属および軍需産業の工業化が乗っかる形で、成立するに至ったという、その二重性にこそ着目すべきなのだろう。
イジェフスク市内にある国立ウドムルト共和国国民劇場
すべてではないようだが、
少なくとも一部の演目はウドムルト語のようだ
イジェフスクでは、生粋のウドムルト人はほとんど見られないものの、さすがは民族共和国の首都だけあって、民族文化の拠点は整えられている。代表的なのは、上の写真に見る民族劇場だろう。また、下の写真に見るとおり、イジェフスク市内には「バブロヴァヤ・ドリナ」という民族村のようなところがあり、そこのレストランでちょっとだけ民族料理を体験できたのは嬉しかった。もっとも、自然発生的な民族文化というよりは、「創られた伝統」という側面もなきにしもあらずだろう。なお、これもディスっているのではなく、私は「伝統は大いに創るべし」という立場である。
「バブロヴァヤ・ドリナ」の入り口
なお、これはロシア語で「ビーバーの谷」という意味
鳥肉と麺入りのスープ「トクマチ」。同様のものはロシア料理にもあり、塩味が基調だが、
こちらのウドムルトのトクマチは、野菜の出汁がベースの優しい味だった
ロシア料理によくある水餃子「ペリメニ」は、ウドムルトでも名物らしく、
現地語では「ペリニャニ」と呼ぶらしい。生地が茶色がかっているのは、
何か練り込んでいるのだろうか? ソースをつけて食べるので
(私はトマトと豆のソースをチョイス)、味はソースにかなり左右される
メインには、血入りのソーセージを選んだ。ただ、ウォッカの当てならいいかもしれないが、
昼間に酒なしで食べるのには、少々くどい味だったかもしれない
さて、ウドムルト共和国国民博物館を見学したところ、最後に、非常に懐かしい名前を目にした。ウドムルト共和国の首長を長く務め、2014年に引退したアレクサンドル・ヴォルコフ氏についての展示コーナーが設けられていたのである(下の写真参照)。以前私はロシアの地方政治のことも研究していたので、懐かしく思い出したわけだ。実は、ヴォルコフ氏は2017年5月に亡くなったということである。気になったので確認してみたら、ヴォルコフ氏も民族的にはウドムルト人ではなくロシア人ということだった。
(2019年2月18日)
GLOBE+で毎週エッセイというかコラムを発表するようになってから、目ぼしいネタはそちらに回すようになったのと、余力がなくなったのとで、この「マンスリーエッセイ」のコーナーは先細る一方だ。一応細々ながら続けようとは思っているが、個人的な趣味とか、どうでもいい話ばかりになりそうな気がする。というわけで、今回もまたまた音楽関連である。でも一応、ロシアに関係する。先日、GLOBE+に「ロシアの音楽コンテンツ今昔物語」と題する文章を寄稿したが、その続編のような話だ。
私の好きなアーティストの1人に、フュージョン系ギタリストのリー・リトナーという人がいる(日本では、歌手の杏里と一時婚約していたことでも知られる)。しばらく前に、某オークションサイトで、リー・リトナー関連のアイテムを物色していたところ、「リー・リトナーのMP3作品集」というものが出品されていた。気になったのでチェックしてみると、ジャケットには「Домашняя коллекция」などとロシア語が書かれており、なるほどこれはロシアで昔良く見た1枚のディスクに圧縮音源のMP3を詰め込んだ作品全集なのだなということが分かった。どういう経緯で日本にもたらされたのかは分からないが、私の持っていないアルバムも収録されていたし、どんなアイテムなのかということに興味があったので、これを購入してみることにした。若干パチモノっぽい雰囲気もあったが、即決価格980円とかで、送料も先方負担となっており、騙されたとしても笑い話で済むレベルだったので、落札してみたわけである。
後日、送られてきたリー・リトナーのMP3全集は、申し分のないものだった。個人的に欠けていた作品を全部揃えることができたし、操作性も優れていた。最近では、私はCDを買っても、いったんパソコンのライブラリにMP3なりの形式で追加してしまうと、ディスク自体はもう退蔵してしまうことが多い。その点、今回購入したリー・リトナーのMP3全集は、ディスクからPCのライブラリに簡単にドラッグ&ドロップでき、普通のCDから音源を取り込むよりも楽だった。曲目等はもちろん、アルバムのアートワークのデータも入っており、PCに落とすだけで、簡単にライブラリに追加できた。いや~、リー・リトナーのMP3全集、どういう経緯で日本に流れてきたかは知らないけど、良い買い物したなと、悦に入ったのである。
それでちょっと欲が出て、「もしかしたら、リー・リトナー以外のMP3全集も、日本に入ってきてないかな(笑)」と思い、オークションサイトを検索してみたのだ。そしたら、ビックリ。出るわ、出るわ。オークションサイトで、アーティスト名+MP3で検索すると、メジャーなアーティストは、ほぼ間違いなく出てくることが判明した。今話題のクイーンなんかも、下に見るようなMP3全集が出品されている。まあ私は2年くらい前にクイーンの全部入りCDボックスを買ったので、今さらこんなMP3全集を買おうとは思わないが、正規CDボックスの10分の1くらいの値段で、圧縮音源とはいえ、同じだけの作品をカバーできてしまうのだ。
改めてオークションサイトを眺めてみると、ロシア製MP3ディスクの販売には2パターンあって、ロシアから発送するとうたっているものと、日本にすでに在庫があるものとに分かれる。何人かの人が、豊富なラインナップのロシア製MP3ディスクを出品しているようだ。私は、最初にリー・リトナーのMP3全集を見付けた時には、「たまたまこんなものが日本に入ってきたのか。ラッキー!」と思って飛びついたのだが、その後オークションサイトの様子を見てみると、どう見ても、何人かの人が商売としてロシア製MP3ディスクを輸入販売しているということがうかがえた。下の画像は、あるアカウントの出品物のごく一部である。
さらに冷静に考えてみれば、そもそも本当にロシアから輸入しているのかも、怪しいものである。MP3ディスクなんて、いくらでも複製できるはずだし、大元のディスクはロシアから買っているのかもしれないが、後はひたすらジャケットとディスクを日本国内でコピーして、それをオークションに出して売りさばいているのではないだろうか。いちいちロシアからディスクを仕入れて、日本で1000円くらいで売ったりしたら、利益なんか出ないだろうし。もちろん、税金なんかも払っていないだろう。
というわけで、怪しいアイテムに手を出してしまったことを反省し、今後はこの手の商品には手を出さないようにしようと心に誓ったのだった。
さて、上で述べたのは、曲がりなりにもお金を払って音源を買う行為だけど、最近は、もっと酷い現象もある。英語でアーティスト名や曲名を入力し、それにプラスして、ロシア語で「ダウンロード」を意味する単語を入力し検索すると、そうした楽曲を無料で聴けるだけでなく、ダウンロードもできてしまうロシア系違法サイトにたどり着く(下に見るのはその一例)。そこでは、「ボヘミアン・ラプソディ」も、「ウィー・ウィル・ロック・ユー」も、タダで聴き放題、落とし放題。
そもそも、YouTubeで大っぴらにタダで音楽を聴けるようになったり、定額聴き放題サービスが普及したりして、音源を買うという行為自体が変質してきているのも事実だけれど。
(2019年1月23日)