私のミニ平成史

 そんなわけで、平成という時代が幕を閉じようとしている。個人的に、時流に乗っかるタイプではないし、そもそも年号を(儀典的な目的ならともかく)実用目的で常用することには反対である。しかし、我が人生を振り返った時、偶然にも、平成という時代とともに自分のキャリアが始まったので、その時代の終焉には、人並み以上の感慨を覚える。

勤務先の団体の入居するビルの近影

 昭和の末期、私は東京外国語大学外国語学部ロシヤ語学科に在籍し、研究者志望で、外語の修士課程への進学を目指していた。当時は、ゴルバチョフがソ連で進めるペレストロイカが脚光を浴びており、ソ連事情研究は重要性を増していた。しかし、残念ながら当時外語にはソ連政治・経済事情を教える専任教官がおらず、政治および国際関係論の研究を志向する私は行き場を失っていた。

 かろうじて語学専門の新田実先生が社会学的な観点から現代ソ連のことを付随的に研究していたので、新田先生のゼミでお世話になり、また非常勤の中村裕先生にも折りに触れてアドバイスをいただきつつも、我流で研究をしているような日々だった。こうした次第で、外語の修士に進んだとしても、研究環境としては多くを望めなかったが(当時は博士課程が設けられていなかったので「先」もない)、無知な上に臆病だった私は、他大学の大学院に進むといった発想を持てず、増して当時は留学などという選択肢はなく、慣れ親しんだ外語の院に進むことしか考えられなかったのである。ちなみに、バブル期だったので、ある銀行から電話がかかってきて、「お願いですからうちに就職してください」などと懇願されたこともあったが、そういうのは無視した。

 1989年1月7日、昭和天皇の崩御を、私は高田馬場でのアルバイトに向かう山手線の車内で知った。崩御は早朝のことであり、朝のニュースも見ずに出かけた私は、山手線の車内アナウンスでそのことを知ったのである。小渕官房長官が「平成」という新元号を発表したのは同日14時36分だったということだが、私は働いていたのでそれを生では見ていないはずである。この時は崩御の衝撃の方が大きく、今回とは違って、皆の意識が新元号に集中するということはなかった。その晩は自宅で昭和を振り返るテレビ番組をハシゴ視聴したと記憶する。

 今となっては、色んな物事の時系列を、あまり良く覚えていない。あれは、1988年の暮れだったか、それとも1989年の1月だったか、つまり昭和だったのか平成だったのかも定かでないのだが、指導教官の新田先生から、次のようなことを告げられた。社団法人ソ連東欧貿易会というところが、1989年4月に経済研究所を設立するということで、研究員を募集している。君は大学院進学を希望しているが、正直、外語の修士に行っても先は知れており、それよりはむしろ、給料をもらいながら研究を続けられる道を選んだ方が、手っ取り早いのではないかと、そんな話だった。

 何とも節操のない話だが、私はこの提案に一も二もなく飛びついた。実は、ソ連東欧貿易会で研究所設立の中心人物だった小川和男さんは、外語に非常勤でソ連経済のことを教えに来ており、私もその授業を受けていたし、そうした縁もあり新田先生に「誰か人材はいないか?」と打診してきたわけである。かく言う私は、元々は国際関係論の志向だったが、その延長上で冷戦体制下の東西貿易、米国の対ソ穀物輸出、経済制裁、政治と経済のリンケージなどに興味を抱き、小川さんの本なども読んでいたのである。後日、授業後に小川さんと大学近くの「FAIRY TALE」というカフェバーで面談し、またソ連東欧貿易会にも面接に出かけ、私の就職があっさりと決まったのだった。ただ、すでに大学院の出願意向を届け出てあったのだが、やめることにしたと教務課に伝えたところ、えらく怒られ、まったく意味のない所定の健康診断を受けさせられた記憶がある。

 そんなことはありつつも、1989年(平成元年)4月1日に社団法人ソ連東欧貿易会・ソ連東欧経済研究所が発足し、私は研究所の研究員として社会人の第一歩を踏み出した。もっとも、4月1日は土曜日だったので、社員としての初出社は4月3日の月曜日だったはずである。ちなみに、研究所の設立日の1989年4月1日は、日本で消費税(当初の税率は3%)が導入された日と同じ。というわけで、研究所はこれまで平成という時代とともに歩み、私自身のこれまでのキャリアも平成の世と完全に重なることになる。

入社したところ、給与振込先として、三井銀行の日本橋東支店に口座を開設させられた
合併を経て三井住友銀行日本橋東支店となったが、最近店舗が閉鎖(名目上は残っているが)

 さて、ソ連東欧経済研究所は、以前から貿易会の中にあった調査研究セクションの「調査部」を発展的に解消する形で、設立された。研究所設立当時に中心人物だった、小川和男さん、村上隆さんは、すでに鬼籍に入って久しく、今となっては、30年前に研究所が設立されることになった詳しい経緯などは良く分からない。

 断片的に聞いた限りの情報では、前年の1988年に開催されたG7サミットが、研究所設立の一つのきっかけとなったようだ。当時、主要先進国はゴルバチョフのペレストロイカに熱視線を送っており、東西関係は大きく変わろうとしていた。1988年6月のG7トロント・サミットに出席した竹下登首相は、ソ連・東欧問題の重要性を痛感し、それに関する情報収集・分析体制の強化の課題が日本政府内で浮上。そうした政府側の意向と、かねてから調査研究体制の拡充を目指していた貿易会の働きかけが上手く噛み合い、当研究所が誕生したということのようだ。私自身は、「花の平成元年入社組」であり、研究所採用職員の一期生でもある。平成元年は、研究所の立ち上げで、我々の貿易会としては異例の5人もの大量採用となった。

 その後の私自身の個人史を語るならば、入社後の最初の3年間くらいは、とにかくソ連と東欧が激動した時代であり、それに振り回されて過ぎ去った感じである。就職したとはいえ、まだ大学の世界に未練はあり、1992年に青山学院大学に社会人向けの大学院修士課程が創設されたことから、在職のまま夜間に青学に通って、1995年に修士号を取得した。職場においては、ニュースレターの『経済速報』の編集を手掛けるようになり、当時はエリツィン体制下でロシアの政治・選挙・人事・財閥などの動きが注目を浴びたので、そういった分野を中心に情報発信に奮闘していた。他方で、経済学のテキストなどを買い込み、独学で経済学を勉強したのも、この頃のことである。

 次の大きな転機は、1998年4月にベラルーシ大使館に専門調査員として赴任したことだった。これは、自分の意思というよりは、上司に命令されて行かされたものだった。経緯はともかく、これが私にとって唯一の海外赴任経験となり、ある程度現地感覚を掴めたし、多少のロシア語力が身に着いたという意味でも、結果的に糧にはなった。だいぶ時間はかかってしまったが、帰国後の2004年にはベラルーシについての単著を出すこともできた。

 ベラルーシの本を出して以降は、個人的にしばらくなおざりになっていたロシア研究を立て直すとともに、壊滅状態にあった貿易会の機関誌『調査月報』の再建と誌面改革に全力を傾注した。ただ、そうこうするうちに、自分の所属する研究所のシンクタンクとしての性格が薄れ、違和感を感じるようにもなった。自分のキャリアの方向性を思い悩む中で、2014年に北大大学院博士課程に入り、2017年12月に博士号を取得した。なお、私の博士課程在籍期間は、奇しくもウクライナ危機と重なっており、この時期には仕事の中でウクライナの占める比率が増えた。

 まあ、そんなこんなで、今日に至るという感じである。平成元年に研究所ができ、それと同時に入社したわけだが、「花の平成元年入社組」も、実は皆すぐに辞めてしまい、割と早い時期に、平成元年組は私一人を残すだけになってしまった。次の大量採用の波は1992年に来て、今現在の貿易会は1992年組が中心になって回しているような感じであり、私などは押されっぱなしである(笑)。なお、設立当初は、「ソ連東欧経済研究所」だったが、その後、貿易会の事業対象国と名称の変更に伴い、1992年5月には「ロシア東欧経済研究所」に、2006年9月には「ロシアNIS経済研究所」に改称されている。

 こうして平成の時代とともに刻まれてきた自分自身のキャリアを振り返ると、重要な節目であった研究所への就職と、ベラルーシ駐在は、自分自身が切り開いたというよりも、他人から勧められて応じたものだった。実に主体性がなく行き当たりばったりだったと痛感するが、ただ、30年前に新田先生がおっしゃっていたように、当時の外語の大学院に進んだところで、行き詰ることは必定であり、院入試を受ける直前のタイミングで研究所就職の打診を受けたことで、私は救われたのかもしれない。また、研究者として各方面からお呼びがかかったりするようになったのは、ベラルーシ駐在後のことであり、気の進まなかったベラルーシ駐在も、結果的には役立ったのだろう。ただし、自分の日常的な研究の7~8割方はロシアが占めているのに、世の中には「ベラルーシとウクライナの研究者」と認知されることが多くなってしまい、その点は是正していかなければと思っている。

かつて証券マンで賑わった鰻の名店「松よし」だったが、
証券街の衰退とともに客足が鈍り、2018年暮れに閉店した

 ちなみに、私の職場は東京都中央区新川であり、最寄り駅は地下鉄の茅場町。ベラルーシの3年間は別として、入社以来ずっと同じ、冴えないオフィスに通勤している。証券街に近く、山一證券ビルもある倒産ストリート=永代通りにオフィスを構える当会だけに、バブルの浮き沈みは結構間近に見てきた。平成の大事件である地下鉄サリン事件では、最寄り駅が現場に。私は昭和の残り香が漂う証券街の街並みが好きだったのだが、最近ではレトロな建物や飲食店などはすっかり姿を消してしまい、地下鉄茅場町駅も大改修工事の真っ最中である。

 ところで、ごく私的なことだが、平成の自分史の中では、2006年に今の家に引っ越してきたというのも、大きな出来事だった。実は、我がマンションでは現在、大規模修繕工事を実施中なのだが、工事は年号をまたいで続くらしく、ご覧のとおり足場やシートで覆われた見苦しい状態で改元を迎えるらしい。厳かに令和初日の出でも拝もうと思っていたのに、これじゃ台無しである。

 Прощай, Хэйсэй ! Здравствуй, Рэйва !!

(2019年4月29日)

日本で買えるウクライナのチョコレートをリポート

 最近、私の勤務先のお菓子女子から、「『おかしのまちおか』という店で、ウクライナのチョコレートを売っていた」という話を聞いた。数日後、実際にそのチョコレートを買ってきてくれた。以前から、ポロシェンコ大統領がオーナーであることで知られるロシェン社のチョコレートが日本でも売られているという話はあったが、「どこそこの店に行くと買えるらしい」といった知る人ぞ知るレベルであり、一般に大量に流通しているという感じではなかった。しかし、「おかしのまちおか」のようなディスカウントチェーン店で売られているということなら、ビジネスの規模として、かなり本格的だろう。

 そこで私は、日本の貿易データを紐解き、ウクライナからのチョコレート輸入がどんな感じになっているか、調べてみた。そのデータをグラフ化したのが、上図である。明らかに、2018年に入って、ウクライナからのチョコ輸入が激増している。これは大変だということで、私自身、近所の「おかしのまちおか」に出かけて、店頭調査を行ってみた。諸々の調査結果を、下に見るようなYouTube動画にしてみたので、ご覧いただければ幸いである。

 輸入販売会社は、千葉県松戸市にある㈱宮田というところ。なお、その後得た追加情報によると、宮田の輸入したウクライナのチョコレートは、「おかしのまちおか」だけでなく、普通のスーパーマーケットでも売られているらしい。

 というわけで、初めての試みとして、YouTube動画を中心としたマンスリーエッセイでした。

(2019年3月21日)

民族色が希薄だったウドムルト共和国

 すでにGLOBE+のエッセイ「マトリョーシカと機関銃 武器産業の聖地イジェフスクを訪ねて ロシアの街物語(6)」で、武器産業の話を中心に、昨年のウドムルト共和国の訪問記を記した。改めて確認しておけば、ウドムルト共和国は、ロシア連邦の沿ヴォルガ連邦管区に位置する地域であり(伝統的な地理区分ではヴォルガというよりもウラルに近いのだが)、ウドムルト人というフィン・ウゴル系の少数民族のために設けられている自治単位である。

 私は、ロシアの地域経済開発を研究テーマの一つとしているので、現地調査のためにロシアの地方を訪れることが少なくない。ただ、ロシアの地方都市はだいたい同じような雰囲気で、地方ごとの街並みや文化の違いのようなものは、あまり感じ取れない。その点、やはり少数民族地域の方が、その土地特有の魅力を期待できそうである。そこで、今月のエッセイでは、民族文化という観点から、昨年のウドムルト共和国訪問の際に感じたことを、ちょっとだけ追記しておきたい。

養蜂業はウドムルト人の伝統的な生業らしい

 結論から言えば、私の訪れたウドムルト共和国の首都イジェフスク、第2の都市ヴォトキンスクでは、ウドムルト民族色をほとんど感じることはなく、普通のロシアの地方と変わらないという印象だけが残った。まあ、共和国の民族構成を見れば、それも当然という気がする。ロシアの少数民族地域にはありがちなことに、ウドムルト共和国における多数派はロシア人の62.2%であり、ウドムルト人は28.0%と少数派。首都のイジェフスク市ではロシア人68.8%、ウドムルト人14.8%、第2の都市のヴォトキンスクではロシア人83.1%、ウドムルト人9.8%となっている。また、ウドムルト人であっても、都市部ではロシア人と混血した人が多く、純粋なウドムルト人には農村くらいでしか出会えないという話を聞いた。結局、私がイジェフスクおよびヴォトキンスクを訪問した際には、「この人はウドムルト人だな」と思えるような顔立ちは、ついぞ見かけなかった。

 「クゼバイ・ゲルド記念ウドムルト共和国国民博物館」を見学したところ、上掲写真に見るように、さすがにウドムルト民族の伝統的な民族衣装や生活様式などが展示されていた。なお、クゼバイ・ゲルドという人物は、ソ連時代の初期にウドムルト民族文化の発展に寄与した詩人・文化人ということである。

国民博物館のヴォトキンスク工場と
イリヤ・チャイコフスキーに関する展示

 それと同時に、ウドムルト共和国国民博物館の展示には、もう一つの柱があった。それは、ロシア人の主導による金属・武器産業をはじめとする工業化の歴史である。ウドムルト共和国の2大偉人と言えば、作曲家のピョートル・チャイコフスキーと、自動小銃の設計者のミハイル・カラシニコフだろう。どちらも民族的にウドムルト人ではなく、一貫してこの地に生きたわけでもない。作曲家の生涯については、これもGLOBE+の別のエッセイに書いたとおり、父のイリヤ・チャイコフスキーが「ヴォトキンスク工場」の工場長として当地に赴任していた関係で、ピョートル・チャイコフスキーはヴォトキンスクの地に生まれたけれど、ここで過ごしたのは8年ほどにすぎなかった。一方、カラシニコフは、前掲のエッセイに書いたとおり、元々はシベリアの生まれであり、彼の設計した小銃がたまたま戦後イジェフスク工場で生産されることになったため、その結果としてこの地と関係を持つに至ったわけである。

イジェフスクにあったウドムルト土産物店
ハチミツやハーブティーなどが並べられていた

 もちろん、イジェフスクやヴォトキンスクといった都市部で、ウドムルト民族色が希薄だからといって、それがいけないというようなことを言いたいのではない(一訪問者としては、ちょっと物足りなく感じたのは事実だが)。ウドムルト共和国という存在は、ウドムルト民族という基層の上に、ロシア人による金属および軍需産業の工業化が乗っかる形で、成立するに至ったという、その二重性にこそ着目すべきなのだろう。

イジェフスク市内にある国立ウドムルト共和国国民劇場

すべてではないようだが、
少なくとも一部の演目はウドムルト語のようだ

 イジェフスクでは、生粋のウドムルト人はほとんど見られないものの、さすがは民族共和国の首都だけあって、民族文化の拠点は整えられている。代表的なのは、上の写真に見る民族劇場だろう。また、下の写真に見るとおり、イジェフスク市内には「バブロヴァヤ・ドリナ」という民族村のようなところがあり、そこのレストランでちょっとだけ民族料理を体験できたのは嬉しかった。もっとも、自然発生的な民族文化というよりは、「創られた伝統」という側面もなきにしもあらずだろう。なお、これもディスっているのではなく、私は「伝統は大いに創るべし」という立場である。

「バブロヴァヤ・ドリナ」の入り口
なお、これはロシア語で「ビーバーの谷」という意味

鳥肉と麺入りのスープ「トクマチ」。同様のものはロシア料理にもあり、塩味が基調だが、
こちらのウドムルトのトクマチは、野菜の出汁がベースの優しい味だった

ロシア料理によくある水餃子「ペリメニ」は、ウドムルトでも名物らしく、
現地語では「ペリニャニ」と呼ぶらしい。生地が茶色がかっているのは、
何か練り込んでいるのだろうか? ソースをつけて食べるので
(私はトマトと豆のソースをチョイス)、味はソースにかなり左右される

メインには、血入りのソーセージを選んだ。ただ、ウォッカの当てならいいかもしれないが、
昼間に酒なしで食べるのには、少々くどい味だったかもしれない

 さて、ウドムルト共和国国民博物館を見学したところ、最後に、非常に懐かしい名前を目にした。ウドムルト共和国の首長を長く務め、2014年に引退したアレクサンドル・ヴォルコフ氏についての展示コーナーが設けられていたのである(下の写真参照)。以前私はロシアの地方政治のことも研究していたので、懐かしく思い出したわけだ。実は、ヴォルコフ氏は2017年5月に亡くなったということである。気になったので確認してみたら、ヴォルコフ氏も民族的にはウドムルト人ではなくロシア人ということだった。

(2019年2月18日)

国境を越えるロシア産MP3

 GLOBE+で毎週エッセイというかコラムを発表するようになってから、目ぼしいネタはそちらに回すようになったのと、余力がなくなったのとで、この「マンスリーエッセイ」のコーナーは先細る一方だ。一応細々ながら続けようとは思っているが、個人的な趣味とか、どうでもいい話ばかりになりそうな気がする。というわけで、今回もまたまた音楽関連である。でも一応、ロシアに関係する。先日、GLOBE+に「ロシアの音楽コンテンツ今昔物語」と題する文章を寄稿したが、その続編のような話だ。

 私の好きなアーティストの1人に、フュージョン系ギタリストのリー・リトナーという人がいる(日本では、歌手の杏里と一時婚約していたことでも知られる)。しばらく前に、某オークションサイトで、リー・リトナー関連のアイテムを物色していたところ、「リー・リトナーのMP3作品集」というものが出品されていた。気になったのでチェックしてみると、ジャケットには「Домашняя коллекция」などとロシア語が書かれており、なるほどこれはロシアで昔良く見た1枚のディスクに圧縮音源のMP3を詰め込んだ作品全集なのだなということが分かった。どういう経緯で日本にもたらされたのかは分からないが、私の持っていないアルバムも収録されていたし、どんなアイテムなのかということに興味があったので、これを購入してみることにした。若干パチモノっぽい雰囲気もあったが、即決価格980円とかで、送料も先方負担となっており、騙されたとしても笑い話で済むレベルだったので、落札してみたわけである。

 後日、送られてきたリー・リトナーのMP3全集は、申し分のないものだった。個人的に欠けていた作品を全部揃えることができたし、操作性も優れていた。最近では、私はCDを買っても、いったんパソコンのライブラリにMP3なりの形式で追加してしまうと、ディスク自体はもう退蔵してしまうことが多い。その点、今回購入したリー・リトナーのMP3全集は、ディスクからPCのライブラリに簡単にドラッグ&ドロップでき、普通のCDから音源を取り込むよりも楽だった。曲目等はもちろん、アルバムのアートワークのデータも入っており、PCに落とすだけで、簡単にライブラリに追加できた。いや~、リー・リトナーのMP3全集、どういう経緯で日本に流れてきたかは知らないけど、良い買い物したなと、悦に入ったのである。

 それでちょっと欲が出て、「もしかしたら、リー・リトナー以外のMP3全集も、日本に入ってきてないかな(笑)」と思い、オークションサイトを検索してみたのだ。そしたら、ビックリ。出るわ、出るわ。オークションサイトで、アーティスト名+MP3で検索すると、メジャーなアーティストは、ほぼ間違いなく出てくることが判明した。今話題のクイーンなんかも、下に見るようなMP3全集が出品されている。まあ私は2年くらい前にクイーンの全部入りCDボックスを買ったので、今さらこんなMP3全集を買おうとは思わないが、正規CDボックスの10分の1くらいの値段で、圧縮音源とはいえ、同じだけの作品をカバーできてしまうのだ。

 改めてオークションサイトを眺めてみると、ロシア製MP3ディスクの販売には2パターンあって、ロシアから発送するとうたっているものと、日本にすでに在庫があるものとに分かれる。何人かの人が、豊富なラインナップのロシア製MP3ディスクを出品しているようだ。私は、最初にリー・リトナーのMP3全集を見付けた時には、「たまたまこんなものが日本に入ってきたのか。ラッキー!」と思って飛びついたのだが、その後オークションサイトの様子を見てみると、どう見ても、何人かの人が商売としてロシア製MP3ディスクを輸入販売しているということがうかがえた。下の画像は、あるアカウントの出品物のごく一部である。

 さらに冷静に考えてみれば、そもそも本当にロシアから輸入しているのかも、怪しいものである。MP3ディスクなんて、いくらでも複製できるはずだし、大元のディスクはロシアから買っているのかもしれないが、後はひたすらジャケットとディスクを日本国内でコピーして、それをオークションに出して売りさばいているのではないだろうか。いちいちロシアからディスクを仕入れて、日本で1000円くらいで売ったりしたら、利益なんか出ないだろうし。もちろん、税金なんかも払っていないだろう。

 というわけで、怪しいアイテムに手を出してしまったことを反省し、今後はこの手の商品には手を出さないようにしようと心に誓ったのだった。

 さて、上で述べたのは、曲がりなりにもお金を払って音源を買う行為だけど、最近は、もっと酷い現象もある。英語でアーティスト名や曲名を入力し、それにプラスして、ロシア語で「ダウンロード」を意味する単語を入力し検索すると、そうした楽曲を無料で聴けるだけでなく、ダウンロードもできてしまうロシア系違法サイトにたどり着く(下に見るのはその一例)。そこでは、「ボヘミアン・ラプソディ」も、「ウィー・ウィル・ロック・ユー」も、タダで聴き放題、落とし放題。

 そもそも、YouTubeで大っぴらにタダで音楽を聴けるようになったり、定額聴き放題サービスが普及したりして、音源を買うという行為自体が変質してきているのも事実だけれど。

(2019年1月23日)